一
小屋から出た
森の樹枝を騒がして、せわしい馬蹄の音がひびいてきた。蹄鉄に蹴られた
騎馬の男は、靄に包まれて、はっきりその
「ミーチャ!」
「ナターリイ。」
騎者の荒々しい声を残して、馬は、丘を横ぎり、ナターリイの前を矢のように走り抜けてしまった。
遠くで、豆をはぜらすような小銃の音がひびいた。
ドミトリー・ウォルコフは、(いつもミーチャと呼ばれている)
裏通りの四五軒目の、玄関とも、
人々は、
ウォルコフは、
寝室の窓から、彼が来たことを見ていた三十すぎのユーブカをつけた女は戸口へ廻って内から
「急ぐんだ、爺さんはいないか。」
「おはいり。」
女は、居るというしるしに、うなずいて見せて、自分の
「どうした、どうした。また××の犬どもがやって来やがったか。」
一分間ばかりたつと、その戸口へよく
「ワーシカがやられた。」
「ワーシカが?」
「…………。」
ユーブカをつけた女は、
「あいつは、ええ若いものだったんだ!……
老人は、十字を切って、やわい階段をおりて行った。おりて行きながら彼は口の中でなお、「可憐そうなこった、可憐そうなこった!」とくりかえした。
老人はウォルコフが乗りすてた栗毛の鞍やあぶみを外して、
ウォルコフは、食堂兼客間になっている室と、寝室とを通りぬけて、奥まった物置きへつれて行かれた。そこは、空気が
ウォルコフは、その百姓服に着換え、自分が馬上で
豆をはぜらすような鉄砲の音が次第に近づいて来た。
ウォルコフのあとから逃げのびたパルチザンが、それぞれ村へ馳せこんだ。そして、各々、家々へ散らばった。
二
ユフカ村から四五露里
白樺や、
草原や、斜丘にころびながら進んで行く兵士達の軍服は、外皮を通して、その露に、
逃げて行くパルチザンの姿は、
左翼の
その剣は、豚を突殺すのに使ったり、
栗本は剣身の
暫らくして、両脚を踏ンばって、剣を引きぬくと、それは、くの字形に曲っていた。
その曲ったあとがなかなかもとの通りになおらなかった。殺人をした証拠のようにいつまでも残っていた。
「これからだって、この剣にかかってやられる人間がいくらあるか知れやしないんだ。」栗本はそんなことを考えた。「また、俺等だって、いつやられるか知れやしないんだ。」
右の森の中から「進めッ!」という声がひびいた。
「さ、進めだぞ。」
兵士は横たわったままほかの者を促すように、こんなことを云った。
「ま、ゆっくりせい。」
「何だ、吉川はかくれて煙草をのんでいたんか――俺に残りをよこせ!」
白樺の下で、軍曹が笑い声でこんなことを云っているのが栗本に聞えてきた。
栗本は銃を杖にして立ち上った。
兵士達は、靴を引きずりながら、草の上を進んだ。彼等は湿って水のある方へ出て行った。草は腰の
「見えるぞ、見えるぞ!」
右の踏みならされた細道を進んでいる永井がその時、
栗本は、永井が銃をさし出した方を見た。
靄に
「ここだ。ここがユフカだな。」
そう思った。が、その実、そこはユフカではなかった。
兵士達は、小屋にパルチザンがかくれていて、不意に捨身の抵抗を受けるかもしれないと予想した。その瞬間、彼等は緊張した。栗本の右側にいる吉田は白樺に銃身をもたして、小屋を射撃した。銃声が霧の中にこだまして、
森の中を行っている者が、何者かにびっくりしたもののようにパチパチうちだした。
小屋の中に誰もかくれていないことがたしかめられた。一列に散らばっていた兵士達は遠くから小屋をめがけて集って来た。
小屋には、つい、二三時間前まで人間が住んでいた痕跡が残っていた。
兵士は扉の前に来て、もしや、潜伏している者の抵抗を受けやしないか、再びそれを疑った。彼等は
「栗本、貴様行け。」
煙草を吸っていた吉川をとがめた軍曹が云った。
栗本は、なにか反感のようなものを感じながら、
「うむ、行くか!」
そう云って、立ちふさがっている者達を押しのけて扉の前へ近づいた。「大きななりをして、胆力のないやつばかりだ。」そこらにいる者をさげすむように、腹の中で
扉の中は暗かった。そこには、獣油や、南京袋の
「やっぱし、まっさきに露助を突っからかしただけあるよ。」
うしろの方で誰れかが
「人を殺すんがなに珍しいんだ! 俺等は、二年間×××の方法を教えこまれて、人を殺しにやって来てるんじゃないか!」
反感をなお強めながら、彼は、小屋の床をドシンドシン踏みならした。剣をつけた銃を振りまわした拍子に、テーブルの上の置ランプが倒れた。床板の上で、
扉の前に立っていた兵士達は、入口がこわれる程、やたらに押し合いへし合いしながら一時になだれこんできた。
彼等は、戸棚や、テーブルや、ベッドなどを引っくりかえして、部屋の隅々まで探索した。彼等は、そこにある珍らしいものや、値打のありそうなものを、×××××××××××××××ろうとした。
既に
三
山の麓のさびれた高い
兵士達は、ようよう村に這入る手前の丘にまでやって来た。
彼等はうち方をやめて、いつでも攻撃に移り得る用意をして、姿勢を低く草かげに散らばった。
「ここの奴等は、だいぶいいものを持っていそうだぞ。」
永井は、村なりを見て掠奪心を刺戟された。彼は、ここでもロシアの女を引っかけることが出来る――それを考えていた。
「おい、いくら露助だって、生きてゆかなきゃならんのだぜ。いいものばかりをかっぱらわれてたまるものか!」
栗本の声は不機嫌にとげ立っていた。
「なあに、××が許してることはやらなけりゃ損だよ。」
珍しい、金目になるものを奪い取り、慾情の
「前島、その耳輪を俺によこしとけよ。」
兵士は命令を待っている間に、今さっき百姓小屋で取ってきた獲物を、今度はお互いに、口でだまして奪い合った。
「いやですよ、軍曹殿。」
「俺のナイフと交換しようか。」
ほかの声が云った。
「いやだよ。そんなもの十銭の値打もすりゃせんじゃないか。」
「馬鹿! 片ッ方だけの耳輪にどれだけの値打があるんだ!」
斜丘の中ほどに
通訳は、この村へパルチザンが逃げこんで来ただろう。それを知らぬかときいているらしかった。
いくらミリタリストのチャキチャキでも、むちゃくちゃに百姓を殺す訳にや行かなかった。パルチザンはそれにつけこんで、百姓に化けて、安全に、平気であとから追っかけて来た軍隊の傍を歩きまわった。向うに持っている兵器や、兵士の性質を観察した。そして、次の襲撃方法の参考とした。
中隊長は、それをチャンと知っていた。しかし、パルチザンと百姓とは、同じ服装をしていれば、見分けがつかなかった。
「逃げて行くパルチザンなんど、面倒くさい、大砲でぶっ殺してしまえやいいじゃないか。」
小屋のところをぶらぶら歩きながら無遠慮に中隊長の顔を見ていた男が不意に横から口を出した。
その男は骨組のしっかりした、かなり豊かな肉づきをしていた。しかし、せいが高いので
見たところ、彼は、日本の兵タイなど面倒くさい、大砲で皆殺しにしてしまいたいと思っているらしかった。
それが目的格をとっかえて表現されているのだった。
中隊長は、通訳からその意味をきくと、じろりと、いかつい眼で暫らくその男を睨みつけた。
「そんなことをぬかす奴が、パルチザンをかくまっているんだ。」
中隊長は日本語で云った。
「そっちにゃ、大砲を沢山持ってるんだろう。」
その男は、中隊長のすごい眼には無頓着に通訳にきいた。
再び中隊長は、じいっとその男を睨みつけた。中尉が、中隊長の耳もとへ口を持って行って何か囁いた。
兵士達には攻撃の命令が発しられた。
骨組のしっかりした男の表情には、憎悪と
四
百姓たちは、たびたび××の犬どもを襲撃した経験を持っていた。
襲撃する。追いかえされる。又襲撃する。又追いかえされる。負傷する。
彼等は、それを繰りかえしていた。そのうちに彼等の憎悪と敵愾心はつのってきた。
最初、日本の兵士を客間に招待して紅茶の御馳走をしていた百姓が、今は、銃を持って森かげから同じ兵士を
彼等の村は犬どもによって掠奪され、破壊されたのだ。
ウォルコフもその一人だった。
ウォルコフの村は、犬どもによって、一カ月ばかり前に荒されてしまった。彼は、村の牧者だった。
彼は村にいて、怒った日本の兵タイが近づいて来るのを知ると、子供達をつれて家から逃げた。ある夕方のことだった。彼は、その時のことをよく覚えている。一人の日本兵が、
家が焼ける火を見ると子供達はぶるぶる
「なんでもない、なんでもない、火事ごっこだよ。畜生!」彼は
翌朝、村へ帰ると親爺は逃げおくれて、家畜小屋の前で
長男は、根もとから折られた西洋桜を、立てらしてつぎ合わそうとした。それは、春、長男が山から掘ってきて、家の前に植えたものだ。子供は、つぎ合わせば、それがいきつくもののように、熱心に、倒れようとする桜を立てらした。しかし、駄目だった。
壊された壁の下から
村中の家々は、目ぼしい金目になるようなものを掠奪せられ、たたきつぶされていた。餌がなくて飢えた家畜は、そこら中で悲しげにほえていた。
「父うちゃんこんなところへ穴を掘ってどうするの?」
「おじいさんがここんとこでねむるんだよ。」
村の者は、その時、誰れも、日本人に対する憎悪を口にしなかった。
しかし、日本人に対する感情は、憎悪を通り越して、敵愾心になっていた。彼等は、×××を形容するのに、犬という動物の名前を使いだした。
彼等は、自分の生存を妨害する犬どもを、撃滅してしまわずにはいられない欲求に迫られてきた。…………
ウォルコフは、憎悪に満ちた眼で窓から、丘に現れた兵士を見ていた。
丘に散らばった兵士達は、丘を横ぎり、丘を下って、喜ばしそうに何か叫びながら、村へ這入ってきた。そのあとへ、丘の上には、また、別な機関銃を持った一隊が現れてきた。
犬どもが、どれほどあとからやってきているか、それは地平線が森に遮られて、村からは分らなかった。森の向うは地勢が次第に低くなっているのだ。けれども、ウォルコフは、犬どもの、威勢が、あまりによすぎることから推察して、あとにもっと強力な部隊がやって来ていることを感取した。
村に這入ってきた犬どもは、軍隊というよりは、むしろ、××隊だった。彼等は、扉口に立っている老婆を突き倒して屋内へ押し入ってきた。武器の捜索を命じられているのだった。
「こいつ鉄砲をかくしとるだろう。」
「剣を出せ!」
「あなぐらを見せろ!」
「畜生! これゃ、また、早く逃げておく方がいいかもしれんて。」
近づいて来る叫声を耳にしながら、ウォルコフは考えた。
「銃を出せ!」
「剣を出せ!」
兵士達は、それを繰りかえしながら、金目になる金や銀でこしらえた器具が這入っていそうな、戸棚や、机の引出しをこわれるのもかまわず、引きあけた。
彼等は、そこに、がらくたばかりが這入っているのを見ると、腹立たしげに、それを床の上に叩きつけた。
永井は、戦友達と共に、谷間へ馳せ下った。触れるとすぐ枝から離れて軍服一面に青い実が附着する泥棒草の草むらや、石崖や、灌木の株がある丘の斜面を兵士は、真直に馳せおりた。
ここには、内地に於けるような、やかましい法律が存在していないことを彼等は喜んだ。責任を問われる心配がない××××と××は、兵士達にある野蛮な快味を与える。そして彼等を勇敢にするのだった。
武器の押収を命じられていることは、
永井は、ほかの者におくれないように、まっしぐらに突進した。着剣した、兵士の銃と銃、剣と剣が触れあって、がちゃがちゃ鳴ったり、
「栗本、なに、ぐずぐずしてるんだ! 早く進まんか!」
軍曹がうしろの方で呶鳴っているのを永井は耳にした。が、彼は、うしろへ振りかえろうともしなかった。
少尉が兵士達の注意を右の方へ向けようとして、何やら真剣に叫んで、抜き身の軍刀を振り上げながら、永井の傍を馳せぬけた。しかし、それが何故であるか、永井には分らなかった。彼の頭の中には娘の豊満な肉体を享楽するただそのことがあるばかりだった。
「看護卒!」
どっかで誰れかが叫んだ。しかし、それも何故であるか分らなかった。そして、叫声は後方へ去ってしまった。
「突撃! 突撃ッ!」
小さい溝をとび越したところで少尉は尻もちをついて、軍刀をやたらに振りまわして叫んでいた。少尉の
すぐ眼のさきの傾斜の上にある小高い百姓家の窓から、ロシア人が、こっちをねらって射撃していた。
「何しにこんなところまで、おりてきたんだい。俺れゃ、人をうち殺すのにゃ、もうあきあきしちゃったぞ!」
栗本は、進撃の命令を下した者に明かな反感を現して呶鳴った。
が、誰れも、何も云わなかった。
兵士達はロシア人をめがけて射撃した。
大隊長とその附近にいた将校達は、丘の上に立ちながら、カーキ色の軍服を着け、同じ色の軍帽をかむった兵士の一団と、
「あァ、あァ、あァ。」語学校を出て間がない、若い通訳は、刺すような痛みでも感じたかのように、左右の手を握りしめて叫んだ。「女を殺している。若い女を突き殺してる!――大隊長殿あんなことをしてもいいんですか!」
でぶでぶ腹の大隊長の顔には、答えの代りに、冷笑が浮んだばかりだった。
谷間や、向うの傾斜面には、茶色の
「今度は誰れが倒れるだろう……女か、子供か?――それともこっちのカーキ色の軍服だろうか!」
通訳は子供のようにおどおどしながら、村の方を見ていた。――銃声は、一つまた一つ、またまた一つと、つづけてパチパチ鳴りひびいた。
大隊長と、将校は、野球の見物でもするように、面白そうに緊張していた。
ユフカは、外国の軍隊を襲撃したパルチザンが逃げこんで百姓に化けるので有名だった。そればかりでなく、そこの百姓が残らずパルチザンだ。――ポーランド人の密偵の報告によるとそうだった。
密偵は、日本軍にこびるために、故意に事実を曲げて
大隊長は、そのパルチザンの巣窟を、掃除することを司令官から命じられていた。
「……しかし、ここには、パルチザンばかりでなしに、おとなしい、いい百姓も住んどるらしいんです。」
通訳は攻撃命令を発する際に、村の住民の性質を説明してこう云った。通訳は、内気な
過激派討伐を命ぜられた限り、出来るだけ派手な方法を以て、そこらへんにいる、それに類した者をも
大隊長は、そのへんのこつをよくのみこんでいた。彼は
汚れた百姓服や、頭巾は無抵抗に、武器を取り上げられたり、××××たり、――殺されたりなどされるがままになっている訳には行かなかった。木造の壁の代りに丸太を積重ねていた家の中や乾草の堆積のかげからも、発射の煙が上った。これまでの銃声にまじって、また別の
「やはり、パルチザンだったですね、一寸、抵抗しだしました。」
副官は、事もなげに笑った。
「おや! おや! 今度は、日本の兵たいがやられました。」通訳は、前よりも、もっと痛切な声で叫んだ。「倒れました。倒れました。倒れて夢中で手と頭を振っとります。」
「三人やられたね。――一人は将校だ。脚をやられたらしい。」
「どうして司令官は、こんなことをやらせるんです! 悲惨です! 悲惨です! 隊長殿すぐやめさしておしまいなさい!」
銃を乱射するひびきは、一層はげしくなってきた。丘の上に整列していた別の中隊は、カーキ色と、百姓服が入り乱れ、蠢く方をめがけてウワッと叫びながら馳せくだりだした。
副官でない方の中尉は、通訳を、壊れかけた小屋の裏へ引っぱって行った。
「何を、君、ばかなことを云ってるんだ!」
中尉は、腹立たしげに通訳に云った。
「だって悲惨じゃありませんか! あんまり悲惨じゃありませんか!」
「君自身が、たまにあたらんように用心し給え!」
中尉は通訳をにらみつけて大隊長のそばへ引っかえした。
通訳は、小屋のかげから、悲鳴や叫喚や、銃声がごったかえしに入りまじって聞えて来る方をおずおず見やった。右の一層高くなっている麓に据えつけられた狙撃砲は、その
だが、そのたまが、どこに落ちて、どれだけ家をつぶし、人を殺したか、もう通訳には分らなかった。乾草を積重ねてあるところと、それから、百姓家と、二カ所から紫色の煙が上って、そこらへんに蠢めき騒いでいる兵たいや、百姓や、女や子供達を包んでしまった。と、また、別の離れたところからも、つづいて煙が上りだした。兵士達は、大隊長の一つの命令を遂行したのだ。
村は焼き払われだした。紫色や、
「副官、中隊を引き上げるように命令してくれ!」
大隊長は副官を呼んだ。
「それから、機関銃隊攻撃用意!」
村に攻めこんだ歩兵は、引き上げると、今度は村を包囲することを命じられた。逃げだすパルチザンを
カーキ色の軍服がいなくなった村は、火焔と煙に包まれつつ、その上から、機関銃を雨のようにばらまかれた。
尻尾を焼かれた馬が芝生のある傾斜面を、ほえるように
女や、子供や、老人の叫喚が、逃げ場を失った家畜の鳴声に混って、家が倒れ、板が火に焦げる刺戟的な音響や、何かの爆発する
見晴しのきく、いくらか高いところで、兵士は、焼け出されて逃げてくる百姓を待ち受けて射撃した。逆襲される心配がないことは兵士の射撃を正確にした。
こっちに散らばっている兵士の銃口から硝煙がパッと上る。すると、包囲線をめがけて
「無茶なことに俺等を使いやがる!」栗本は考えた。
傾斜面に倒れた縁なし帽や、ジャケツのあとから、また、ほかの汚れた短衣やキャラコの室内服の女や子供達が煙の下からつづいて息せき現れてきた。銃口は、また、その方へ向けられた。パッと硝煙が上った。子供がセルロイドの人形のように坂の芝生の上にひっくりかえった。
汚れたジャケツは、
ジャケツに抱き上げられた子供は泣声を発しなかった。死んでいたのだ。
「おい
栗本が腹立たしげに云った。その声があまりに大きかったので機関銃を持っている兵士までが彼の方へ振り向いた。
「百姓はいくら殺したってきりが有りゃしない。俺達はすきこのんで、あいつ等をやっつける身分かい!」彼はつづけた。「こんなことをしたって、俺達にゃ、一文だって得が行きゃしないんだ!」
機関銃の上等兵は、少尉に鼓膜を叩き破られた兄を持っていた。何等償われることなしに兄は帰休になって、今は小作をやっている。入営前大阪へ出て、金をかけて兄は速記術を習得したのであった。それを兄は、耳が聞えなくなったため放棄しなければならなかった。上等兵は、ここで自分までも上官の命令に従わなくって不具者にされるか、或は
けれども彼は、煙の中を逃げ出して来る短衣やキャラコも、子供や親があることを考えた。彼等も、耕すか、家畜を飼うかして、口を
こんなことをして彼等を撃ち、家を焼いたところで、自分には何にも利益がありやしないのだ。
流れて来る煙に巻かれながら、また、百姓や女や、老人達がやって来た。
上等兵は、機関銃のねらいをきめる役目をしていた。彼は、機関銃のつつさきを最大限度に空の方へねじ向けた。
弾丸は、坂を馳せ登ってくる百姓や、女の頭の上をとびぬけ出した。
「撃てッ、パルチザンが逃げ出して来るじゃないか、撃てッ!」
包囲線を見張っている将校は呶鳴りたてた。
兵士の銃口からは、つづけて弾丸が
「撃てッ! パルチザンがいッくらでもこっちへ逃げ出して来るじゃないか。うてッ! うてッ!」
兵士は撃った、あまりにはげしい射撃に銃身が熱くなった。だが弾丸は、悉く、一里もさきの空へ向ってとび上った。そこで人を殺す威力を失って遙か向うの草原に落下した。機関銃ばかりでなく、そこらの歩兵銃も空の方へそのつつさきを向けていたのだ。
百姓は、逃げ口が見つかったのを喜んで麓の方へ押しよせてきた。
彼等は、物をくすねそこねた泥棒のように頸をちぢめてこそこそ周囲を盗み見ながら兵士の横を走せぬけた。
「早く行け!」
栗本が聞き覚えのロシア語で云った。百姓は、道のない急な山を、よじ登った。
「撃てッ! 撃てッ! パルチザンを
士官は焦躁にかられだして兵士を呶鳴りつけた。
「ハイ、うちます。」
また、弾丸が空へ向って
「うてッ! うてッ!」
「ハイ。」
濃厚な煙が流れてきた。士官も兵士も眼を刺された。煙ッたくて涙が出た。
五
「今度こそ、俺れゃ
銃をかついで、来た道を引っかえしながら軍曹は、同僚の肩をたたいて笑った。彼は、中隊長の前で、三人の逃げ出そうとするパルチザンを突き殺した。それが、中隊長の眼にとまった自信が彼にあったのだ。
「俺だって功六級だ。」
同僚もそれに劣らない自信があった。
看護卒は、負傷した少尉の脚に
彼等は、愉快な、幸福な気分を味わいながら駐屯地へ向って引き上げて行った。
大隊長は、司令部へ騎馬伝令を発して、ユフカに於けるパルチザンを残さず
「ユフカは、たしかに司令官閣下の命令通り、パルチザンばかりの巣窟でありました――そう云います。」
活溌な伝令が、出かける前、命令を復唱した、小気味のよい声を隊長は思い出していた。
「うむ、そうだ。」彼は
「はい。――
「うむ、そうだ、よろしッ!」その時の、自分の声が、朗らかにすき通って、いい響きを持っていたのを大隊長は満足に思った。
――今持っている
「閣下も討伐の目的が達して、非常にお喜びになることでしょう。」
あとから来ている副官が云った。閣下とは司令官のことだ。
「うむ。」
大隊長は、空へ鉄砲を向けた兵タイのことは忘れて、内心の幸福を抑えることが出来ずにこにこした。
「全く、うまく行きましたな。」
「うむ。――ご苦労だった。」
――彼はまた、功四級だろうか、それとも五級かな、と考えた。ひょっとすると、三級にありつけるかもしれんて。この頃は、金鵄も貰い易くなっているからな。そうすると、年金が七百円とれると……
不意に、どこからか、数発の銃声がして、彼の鼻のさきを、ヒュッと
「おォ、おォ、おォ!」
と悲しげな声を出した。
「誰れか来て呉れい!」彼は、おおかた、口に出して、それを叫ぼうとした。
左側の
パルチザンは、その山の中から射撃していたのだ。
パルチザンは、明らかに感情の興奮にかられているようだった。
その森の中からとんで来る弾丸は髪の毛一本ほどにま近く、兵士の身体をかすめて唸った。
六
パルチザンは、山伝いに、カーキ色の軍服を追跡していた。
彼等は空に向って、たまをぶっぱなしたあの一角から、逃げのびた者だった。――その中には馬を焼かれたウォルコフもまじっていた。
そこらへんの山は、パルチザンにとって、自分の手のようによく知りぬいているところだった。
村を焼き討ちされたことが、彼等の感情を極端に激越に駆りたてていた。
弾丸は逃げて行くカーキ色の軍服の腰にあたり、脚にあたり、また背にあたった。短い脚を、目に見えないくらい早くかわして逃げて行く乱れた隊列の中から、そのたびに一人また一人、草ッ原や、
「あたった。あたった。――そら一匹やっつけたぞ。」
そのたびに、森の中では、歓喜の声を上げていた。
中には、倒れた者が、また起き上って、びっこを引き引き走って行く者がある。傷ついた手をほかの手で握って走る者がある。それをパルチザンは森の中からねらいをきめて射撃した。興奮した感情は、かえってねらいを的確にした。
カーキ色の軍服は、こっちで
「そら、また一匹やった。」
「あいつは兵卒だね。長い刀をさげて馬にのっている奴を引っくりかえしてやれい! 俺ら、あいつが憎らしいんだ。」
「ようし!」
「俺ら、あの長い軍刀がほしいんだ。あいつもやったれい!」
彼等はだんだん愉快になってきた。…………
(昭和三年十月)