氷河

黒島傳治




      一

 市街の南端の崖の下に、黒龍江が遥かに凍結していた。
 馬に曳かれた橇が、遠くから河の上を軽く辷って来る。
 兵営から病院へ、凍った丘の道を栗本は辷らないように用心しい/\登ってきた。負傷した同年兵たちの傷口は、彼が見るたびによくなっていた。まもなく、病院列車で後送になり、内地へ帰ってしまうだろう。――病院の下の木造家屋の中から、休職大佐の娘の腕をとって、五体の大きいメリケン兵が、ドアを押しのけて歩きだした。十六歳になったばかりの娘は、せいも、身体のはゞも、メリケン兵の半分くらいしかなかった。太い、しっかりした腕に、娘はぶら下って、ちょか/\早足に踵の高い靴をかわした。
馭者イズウオシチイク! 馭者/\!」
 ころげそうになる娘を支えて、アメリカ兵は靴のつまさきに注意を集中して丘を下った。娘の外套は、メリケン兵の膝頭でひら/\ひるがえった。街へあいびきに出かけているのだ。娘は、三カ月ほど、日本兵が手をつけようと骨を折った。それを、あとからきたアメリカ兵に横取りされてしまった。リーザという名だった。
馭者イズウオシチイク!」
馭者イズウオシチイク!」
 麓の方で、なお、辻待の橇を呼ぶロシア語が繰りかえされた。
 凍った空気を呼吸するたびに、鼻に疼痛を感じながら栗本は、三和土たゝきにきしる病室のドアの前にきた。
 扉を押すと、不意に、温かい空気にもつれあって、クレゾールや、うみや、便器の臭いが、まだ痛みの去らない鼻に襲いかゝった。
 踵を失った大西は、丸くなるほど繃帯を巻きつけた足を腰掛けに投げ出して、二重硝子の窓から丘を下って行くアメリカ兵を見ていた。負傷者らしい疲れと、不潔さがその顔にあった。
「ヘッ、まるでもぐらが頸を動かしたくても動かせねえというような恰好をせやがって!」
「何だ、君はこっちから見ているんか。」
「メリケンの野郎がやって来たら窓から離れないんだよ。」
 大西と並んでいる、色の白い看護卒が栗本を振りかえった。
「癪に障るからなあ、――一寸ましなパルシニヤはみんなモグラの奴が引っかけて行っちまいやがるんだ。」大西は窓から眼をはなさなかった。
「あいつらが偽札にせさつを掴ましてるんが、露助に分らんのかな。」
「俺等にゃ、その掴ます偽札も有りゃしないや。」
「偽札なんど有ったって、俺等は使わんさ。」
 彼等と、アメリカ兵との間には、ロシアの娘に対する魅力の上で、かく段の差があった。彼等は、誰も彼れも、枯枝のように無骨で、話しかけられと、耳の根まで紅くした。彼等には軽蔑しているその偽札もなかった。椅子のある客間に坐りこむ、その礼儀も知らなかった。

      二

 病室には、汚れたキタならしい病衣の兵士たちが、窓の方に頭を向け、白い繃帯を巻いた四肢を毛布からはみ出して、ロシア兵が使っていた鉄のベッドに横たわっていた。凍傷で足のゆびが腐って落ちた者がある。上唇を弾丸で横にかすり取られた者がある。頭に十文字に繃帯をして片方のちぎれかけた耳朶みゝたぼをとめている者がある。
 唇をやられた男は、冷えた練乳と、ゆるい七分粥を火でも呑むように、おず/\口を動かさずに、食道へ流しこんでいた。皆と年は同じに違いないが、十八歳位に見える男だ。その男はいつも、大腿骨を弾丸たまにうちぬかれた者よりも、むしろ、ひどく堪え難そうな顔をしていた。
 彼等は、人が這入って来るたびに、痩せた蒼い顔を持ち上げて、期待の表情を浮べ、這入ってきた者をじっと見た。むっくり半身を起して、物ほしげな顔をするのは凍傷の伍長だった。長く風呂に這入らない不潔な体臭がその伍長は特別にひどかった。
 栗本は、負傷した同年兵たちを気の毒がる、そういう時期をいつか通りすぎてしまった。反対に、負傷した者を羨んだ。負傷者はあと一カ月もたゝないうちに内地へ送りかえされ、不快な軍隊から退いてしまえるのだ。彼は、内地から着いた手紙や、慰問袋を兵営から病院へ持ってきた。シベリアに居る者には、内地からの切手を貼った手紙を見るだけでもたのしみである。
 一時間ばかり後、それを戦友に渡すと彼はアメリカ兵のように靴さきに気をつけながら、氷の丘を下って行った。
おれもひとつ、負傷してやるかな。」彼は心に呟いた。「丈夫でいるのこそ、クソ馬鹿らしい!」
 負傷者の傷には、各々、戦闘の片影が残されていた。森をくゞりぬけて奥へパルチザンを追っかけたことがある。列車を顛覆され、おまけに、パルチザンの襲撃を受けて、あわくって逃げだしたこともある。傷は、武器と戦闘の状況によって異るのだ。鉄砂の破片が、顔一面に、そばかすのようにはまりこんだ者は爆弾戦にやられたのだ。挫折や、打撲傷は、顛覆された列車と共に起ったものだ。
 負傷者は、肉体にむすびつけられた不自由と苦痛にそれほど強い憤激を持っていなかった。
ら、もう十三寝たら浦潮へ出て行けるんだ。」大西は、それを云う時、嬉しさをかくすことが出来なかった。
「そうかね。」
 栗本は、ほゝえんで見せた。彼は内地へ帰れることを羨んだ。その羨しさをかくそうとすると、微笑が、張り合いのぬけた淋しいものになる。それが不愉快なほど自分によく分った。
「なんか、ことづけはないかい?」
「ないようだ。」
「一と足さきに失敬できると思うたら、愉快でたまらんよ。」
 そこにいる者は、もはや、除隊後のことを考えていた。彼等の胸にあるものは、内地の生活ばかりであった。いつか、持って来た慰問袋を開けていると、看護長がぶら/\病室へ這入ってきたことがある。慰問袋には一ツ/\何か異ったものが入れてあった。寒いところで着るための真綿がある。石鹸、手拭、カキモチが這入っている。高野山の絵葉書に十銭札を挟んである。……それが悉く内地の匂いに満ちていた。手拭には、どっかの村の肥料問屋のシルシが染めこまれてある。しかし、それはシベリヤで楽しむ内地の匂いにすぎなかった。戦友は、這入ってきた看護長を見ると、いきなり、その慰問袋から興味をなげ棄てた。
「看護長殿、福地、なんぼ恩給がつきます?」
 栗本には思いがけないことだった。彼は開けさしの袋をベッドにおいたまゝボンやりしていた。
「お前階級は何だい?」
 恩給がほしさに、すべてを軍隊で忍耐している。そんな看護長だった。恩給のことなら百科辞典以上に知りぬいていた。
「一等卒。」
「ま、五項症に相当するとして……増加がついて二百二十円か。」
 足のさきから腰まで樋のような副木ふくぼくにからみつけられている、多分その片脚は切断しなければなるまい、それが福地だった。大腿の貫通銃創だ。
「看護長殿、大西、なんぼ貰えます?」
「踵を一寸やられた位で呉れるもんか。」
「貰わにゃ引き合いません。」
 負傷者は、それ/″\、自分が何項症に属するか、看護長に訊ねるのであった。何項症であるか、それによって恩給の額がきまるのだ。そんな場合、栗本には、彼等が既に国家に対して債権者となっているように見えてきた。
「何だい! びっこや、手なしや、片輪者にせられて、代りに目くされ金を貰うて何うれしいんだ!」彼は何故となく反感を持った。
 しかし、これから、さき、なおどれだけ自分の意志の反してパルチザンを追っかけさせまわらされるか量り知れない自分にはうんざりせずにいられなかった。丈夫で勤務についている者は、いつまでシベリアにいなければならないか、そのきりが分らないのだ。
「俺もひとつ、軽い負傷をしてやるかな。」
 彼は、ひそかに考えた。彼はシベリアにあきてしまった。パルチザンと鉄砲で撃ち合いをやり、村を焼き、彼等を捕えて、白衛軍に引渡す、そういうことにあきてしまった。白軍の頭領のカルムイコフは、引渡された過激派の捕虜を虐殺して埋没した。森の中にはカルムイコフが捕虜を殺したあとを分らなくするために血に染った雪を靴で蹴散らしてあった。その附近には、大きいのや、小さいのや、いろいろな靴のあとが雪の上に無数に入り乱れて印されていた。森をなお、奥の方へ二つの靴が、全力をあげて馳せ逃げたあともあった。だら/\流れ出た血が所々途絶え、また、所々、点々や、太い線をなして、靴あとに添うて走っていた。恐らく刃を打ちこまれた捕虜が必死に逃げのびたのだろう。足あとは血を引いて、一町ばかり行って、そこで樹々の間を右に折れ、左に曲り、うねりうねってある白樺の下で全く途絶えていた。そこの雪は、さん/″\に蹴ちらされ、踏みにじられ汚されていた。凍ったかち/\の雪に、血が岩にしみこんだようになっていた。捕虜は生きのがれようとあるだけの力を搾って抵抗したのだろう。森のまた、帰る方の道には、腕関節からはすかいに切り落された手や、足の這入った靴が片方だけ、白い雪の上に不用意に落されてあった。手や足は、靴と共にかたく、大理石の模型のように白く凍っていた。
 日本軍が捕虜を殺したのではない。しかし、暴虐に対する住民の憎悪は、白衛軍を助けている侵略的な日本軍に向って注ぎかえされた。栗本は、自分達兵卒のやらされていることを考えた。それは全く、内地で懐手をしている資本家や地元の手先として使われているのだ。――と、反抗的な熱情が涌き上って来るのを止めることが出来なかった。それは彼ばかりではなかった、彼と同じ不服と反抗を抱いている兵卒は多かった。彼等は、ある時は、逃げて行くパルチザンを撃たずに銃先を空に向けた。またある時は、雪の上にへたばって「進め」に応じなかった。またある時は、癪に障る中尉に銃剣をさし向けた。しかし、そういう反抗も、その経験を繰返えすに従って、一部の兵卒の気まぐれなやり方では、あまりに効果が薄いことを克明に知るばかりだった。

      三

 寒暖計の水銀が収縮してきた。氷点以下七度、十一度、十五度、そして、ついに二十度以下にさがってしまった。
 ソビエットを守るパルチザンの襲撃は鋭利になりだした。日本の兵士は、寒気のために動作の敏活を失った。むくむくした毛皮の外套を豪猪いのしゝのようにまんまるくなるまで着こまなければならない。左右の手袋は分厚く重く、紐をつけた財布のように頸から吊るしていなければならない。銃は、その手袋の指の間から蝋をなすりつけたようにつるつる滑り落ちた。パルチザンはそこへつけこんできた。
 兵士達は、始終過激派を追っかけ、家宅捜索をしたり、武器を押収したり、夜半に叩き起され、やにわに武装を整えて応援に出かけたりしなければならなかった。鉄道沿線へは多くに分れて小部隊が警戒に出かけた。栗本の中隊は、汽車に乗ってイイシの警戒に出かける命令を受けた。汽車には宵のうちから糧秣や弾薬や防寒具が積込まれた。夕闇が迫って来るのは早く、夜明けはおそかった。
 栗本は、長い夜を町はずれの線路の傍で、幾回となく交代しつゝ列車の歩哨に立った。朝が来るのを待って兵士達は、それに乗りこんで出発するのだ。寒気は疼痛をもって人に迫ってきた。警戒所でとった煖炉ペーチカの温度は、ドアから出て二分間も歩かないうちに、黒龍江の下流から吹き上げて来る嵐に奪われてしまった。防寒靴は雪の中へずりこみ、歩くたびにふごのようにがく/\動いた。それでも足は、立ち止っている時にでも常に動かしていなければならない。静止していると、そこが凍傷にかゝるからだ。
 夜がふけるに従って、頭の上では、星が切れるように冴えかえった。酒場のある向うの丘からこちらの丘へ燈火をつけない橇が凍った雪に滑桁すべりけたをきし/\鳴らせ、線路に添うて走せてきた。蹄鉄のひゞきと、滑桁の軋音の間から英語のアクセントかゝったロシア語が栗本の耳にきた。
「止まれッ!」
 ロシアの娘を連れ出したメリケン兵が酒場から帰って来る時分だ。
「止まれッ!」
 馭者のチョッ/\という舌打ちがして、橇は速力をゆるめた。
「誰だ?」
「心配すんねえ!……えらそうに!」
 声で、アメリカ兵であることが知れた。と同時に、別の弾力性のある若い女の声が闇の中にひゞいた。声の調子が、何か当然だというように横柄にきこえた。瞬間、栗本はいつもからの癇癪を破裂さした。暗い闇が好機だという意識が彼にあった。振り上げられた銃が馬の背に力いっぱいに落ちて行った。いつ弾丸の餌食になるか分らない危険な仕事は、すべて日本兵がやらせられている。共同出兵と云っている癖に、アメリカ兵は、たゞ町の兵営でペーチカに温まり、午後には若い女をあさりにロシア人の家へ出かけて行く。そこで偽札を水のように撒きちらす。それが仕事だった。而もそのさつは、鮮銀の紙幣そっくりそのまゝのものだった。出兵が始まると同時に、アメリカは、汽船に二杯、偽札を浦潮へ積みこんできた。それを見たという者があった。
「何でばけの皮を引きむいてやらんのだ!」
 兵士達は、偽札を撒きちらされても、強者には何一ツ抗議さえよくしない日本当局の無気力を憤った。メリケン兵は忌々いま/\しく憎かった。彼等は、ひまをぬすんで寝がえりを打った娘のところへのこ/\やって行って偽札を曝露した。
「何故?」
 肌自慢の鼻の高いロシアの娘は反問した。
「じゃ、これと較べて見ろ!」
 1カ月の俸給に受取った五円いくらかのその五円札を出して見せた。
「アメリカ人がどうして、日本の偽札を拵えるの? え、どうして拵えるの?」娘は、紅を塗ったような紅い健康そうな唇を舌でなめながら真顔になった。紅い唇はこっちの肉感を刺戟した。ロシアの娘にはメリケン兵の不正が理解せられないところだった。「これが偽札なら、あんた方がこしらえたんでしょう。そうにきまってる! どうしてアメリカ人に日本の偽札が拵えられるの?」
「馬鹿云え、俺等が俺等の偽札を使うか!」彼等は裏から敵を落すことを知らなかった。
「アメリカ人はずるいんだ。だから弗の偽札は拵えずに、円の偽札を拵えるんだ。ろくな奴じゃない!」
 娘は、十五でもう一人前の女になっていた。脚の丈夫な、かゝとの高い女靴をはいて歩く時の恰好が、活溌で気色がよかった。日本の女には見られない生々さがあった。
 彼等は、ロシア人の家へ遊びに行くひまが、偸まなければできなかった。勿論偽札はなかった。しかし、何故、彼等ばかりが進んでパルチザンをやっつけに出しゃばらなければならないのだろう! そして、女はメリケン兵に取られてしまわなければならないのだ! そうして、ロシア人から憎悪と怨恨を受けるのは彼等ばかりだ。彼は、アメリカ兵が忌々しく、むず/\した。アメリカは、日本軍を監視するために出兵しているのだ。全く泥棒のような仕業に、自分達だけをこき使う司令官を「馬鹿野郎!」と呶鳴りつけてやりたかった。
 栗本は闇を喜んだ。殴られた馬は驚いてはね上った。橇がひっくりかえりそうに、一瞬に五六間もさきへ宙を辷った。アメリカ兵は橇の上から懐中電燈でうしろを照した。電気の光りで大きい手を右のポケットに突っこんで拳銃ぴすとるを握るのがちらっと栗本に見えた。
「畜生! 撃つんだな。」
 彼は立ったまゝ銃をかまえた。その時、橇の上から轟然たるピストルのひゞきが起った。彼は、引金を握りしめた。が引金は軽く、すかくらって辷ってきた。安全装置を直すのを忘れていたのだ。
「どうした、どうした?」
 ピストルに吃驚した竹内が歩哨小屋から靴をゴト/\云わして走せて来た。
 栗本は黙って安全装置を戻し、銃をかまえた。橇は滑桁の軋音を残して闇にまぎれこんだ。馬の尻をしぶく鞭の音が凍る嵐にもつれて響いてきた。
「どうした、どうした?」
「逃がしたよ。」
「怪我しやしなかったかい?」
「あゝ、逃がしちゃったよ。」
 栗本の笑う白い歯が闇の中にあった。

      四

 馬が苦しげに氷上蹄鉄を打ちつけられた脚をふんばって丘を登ってきた。岩に乗り上げた舟のように傾いた橇の底では兵士が、でこぼこのはげしい道に動揺するたび、傷を抑えて歯を喰いしばった。
「おや、また入院があるぞ。ウェヘヘ。」
 観音経を唱えていた神経衰弱の伍長が、ふと、湯呑をチンチン叩くのをやめた。
 負傷者は、傷をかばいながら、頭を擡げて窓口へ顔を集めた。五六台の橇が院庭へ近づいてきた。橇は、逆に馬をうしろへ引きずって丘を辷り落ちそうに見えた。馭者台からおりた馭者はしきりに馬の尻を鞭でひっぱたいていた。
「イイシへ行った中隊がやられたんだ。ウェヘヘッヘ。」
 伍長は嬉しげに頓狂に笑った。
「何がおかしいんだ! 気狂い!」
 やかましく騒ぐ音が廊下にして、もう血のしみ通った三角巾で思い/\にやられた箇所を不細工に引っくゝった者が這入ってきた。どの顔も蒼く憔悴していた。
 脚や内臓をやられて歩けない者は、あとから担架で運ばれてきた。
「あら、君もやられたんか。」大西は、意外げに、皮肉に笑った。「わざと、ちょっぴり怪我をしたんじゃないか?」
「…………。」
 腕を頸に吊らくった相手は腹立たしげに顔をしかめた。
「なか/\内地へ帰りとうて仕様がなかったんだからな。」
 それにも相手は取り合わなかった。そしてボタンをはずした軍衣を、傷が痛くてぬげないから看護卒にぬがして呉れるように云った。痛がって、やっと服を取ると、血で糊づけになっている襦袢が現れた。それは、蒼白に、がく/\顎を慄わしている栗本だった。
 看護卒は、負傷者にベッドを指定すると、あとの者を連れに、又、院庭へ出て行った。
 さま/″\の溜息、呻き、訴える声、堪え難いしかめッ面などが、うつしこまれたように、一瞬に、病室に瀰漫びまんした。血なまぐさい軍服や、襦袢は、そこら中に放り出された。担架にのせられたまゝ床の上に放っておかれた、大腿骨の折れた上等兵は、間歇的に割れるような鋭い号叫を発した。と、ほかの者までが、錐で突かれるようにぶる/\ッと慄え上った。
「こんなに多くのものが悉く内地へ帰されるだろうか。そんなことをすれば一年内に、一個聯隊の兵士がみんな内地へ帰ってしまわなければならないだろう。だが、そんなことはさせまい。――このうちから幾人かはシベリアに残されるんだ。」さきから這入っている者はそういうことを考えた。
 軽い負傷者は、
おれゃシベリアに残される、その一人に入れられやしないかな?」心でそれを案じた。そして、なま/\しい傷を持って新しく這入って来た者に、知らず識らず競争と反感の爪をといだ。
「どこをやられたんだ? どんなんだ?」
 頭を十文字に繃帯している三中隊の男が、やましさを持った眼で、まだ軍医の手あてを受けない傷をのぞきこみにきた。
「骨をやられてやしないんだな?」
 栗本は、何を意味するともなく、たゞうなずいた。
「そうかい。」
 と、疚しさを持った眼は、ほッとしたように、他のベッドに向いた。そこで、又何か訊ねた。隣の病室でも、やかましく呻きわめく騒音が上りだした。
 栗本は、何か重要なことを忘れてきたようで、焦点のきまらない方に注意を奪われがちだった。すべてが紙一重を距てた向うで行われているような気がした。顛覆した列車の窓からとび出た時の、石のような雪の感触や、パルチザンの小銃とこんがらがった、メリケン兵のピストルの轟然たる音響が、まだ彼の鼓膜にひゞいていた。
 腕はしびれて重かった。それは、始め火をつけたようにくゎッ/\と燃え立っていたが、今では反対に冷え切って義足のように感覚も温度もなかった。出血を止めるため傷の上方をかたく紐で縛りつけた。それで手の方へは殆んど血が通わなくなっているのだった。腕は鉛の分銅でも吊るしているように重かった。
「あゝ、たまらん。早よ軍医殿にそう云って呉れろ!」
 着かえたばかりの病衣に血がにじみだした。
「辛抱しろ!」通りかゝった看護卒がちょっと眼をくれた。と、その眼が急に怖く光ってきた。そして血に染まった病衣をじっと見つめた。「何だ、仕様がないじゃないか! 早や洗濯したての病衣を汚しくさって!」
「あゝ、たまらん! あゝ、たまらん! おゝい! おゝい!」
 呻きはつゞいて出てきた。
 栗本は負傷することを望んでいた。負傷さえすれば、すぐ内地へ帰れると思っていた。そこには、母や妹や鬚むじゃの親爺が、彼の帰りを待っている。が、その母や、妹や、親爺は、今、どうしても手が届かない、遥かな彼方に彼とは無関係に生きているのだ。誰れも彼に憐れみの眼光を投げて呉れる者はなかった。看護卒は、たゞ忙しそうに、忙しいのが癪に障るらしく、ふくれッ面をして無慈悲にがたがたやっていた。昨日まで同じ兵卒だったのが、急に、さながら少尉にでもなったように威張っていた。
「誰れも俺等のためなんど思って呉れる者は一人も有りゃしないんだ。」栗本はベッドの上で考えた。「みんな、自分勝手なことばかりしか考えてやしないんだ!」
 ――彼は、内地の茅葺きの家を思い浮べた。そこは、外には、骨を削るような労働が控えている。が、家の中には、温かい囲炉裏、ふかしたての芋、家族の愛情、骨を惜まない心づかいなどがある。地酒がある。彼は、そういうものを思い浮べた。――俺だって誰れも省みて呉れん孤児じゃないんだ! それを、どうしてこんな冷たいシベリアへやって来たんだ! どうして!……彼は嘆息した。と、それと一緒に、又哀れげな呻きが出てきた。
「どいつも、こいつも弱みその露助みたいに呻きやがって!」見廻りに来た、恩給に精通している看護長が苦々しく笑った。「痛いくらいが何だい! 日本の男子じゃないか! 死んどる者じゃってあるんだぞ。」
 右を見ると、よく酒保の酒をおごって呉れた上等兵が毛布の下に脚を立て、歯を喰いしばりじっと天井を見つめていた。その歯の隙間から唸る声が漏れていた。看護長の苦々しげな笑いに気がつく余裕さえ上等兵には無いようだった。
「自分がうるさいから叱っているんだ。」と栗本は考えた。「俺等のためなんど思っても呉れやせんのだ! どうしてこんなところへやってきたんだ! どうして、あんな引っくりかえされる列車に乗って行ったんだ!」
 と、又溜息が出て、呻かずにはいられなくなった。
 ――遠いはてのない曠野を雪の下から、僅かに頭をのぞかした二本のレールが黒い線を引いて走っている。武装を整えた中隊が乗りこんだ大きい列車は、ゆる/\左右に眼をくばりつゝ進んで行った。線路に添うて向うの方まで警戒隊が出されてあった。線路は完全に、どこまでも真直に二本が並んで走っている。町は、まもなく見えなくなり、列車は速力が加わってきた。線路は谷間にかゝり、やがてそこを通りぬけて、また曠野へ出た。
 雪は深く、線路も、草原も、道もすべてが掃きならされたようだった。そこらの林や、立木が遠い山を中心に車窓の前をキリ/\廻転して行った。いつか、列車は速力をゆるめた。と、雪をかむった鉄橋が目前に現れてきた。
「異状無ァし!」
 鉄橋の警戒隊は列車の窓を見上げて叫んだ。
「よろしい! 前進。」
 そして、列車は轟然たる車輪の響きを高めつゝ橋にさしかゝった。速力は加わったようだった。線路はどこまでも二本が平行して完全だった。ところが、中ほどへ行くと不意にドカンとして機関車は脚を踏みはずした挽馬のように、鉄橋から奔放にはね出してしまった。
 四角の箱は、それにつゞいてねじれながら雪の河をめがけて顛覆した。
 と、待ちかまえていたパルチザンの小銃と機関銃が谷の上からはげしく鳴りだした。……
 日本軍の攻撃が厳重になればなる程、パルチザンの怨恨と復仇は鋭利になった。そして、それを慰むべき手段は次第に潜行的に、意表に出てくるのだった。
 線路には、爆破装置が施されているのではなかった。破壊されているのでもなかった。たゞ、パルチザンは、枕木の下へ油のついた火種を入れておくだけだった。ところが、枕木は炭焼竈の生木なまきのように、雪の中で点火されぷす/\燻りながら炭になってしまうのだった。雪の中で燻る枕木は外へは火も煙も立てなかった。上から見れば、それは一分の故障もない完全な線路であった。歩哨にも警戒隊にも分らなかった。而も、そこへ列車が通りかゝると、綿を踏んだように線路はドカンと落ちこみ、必然脚を踏み外すのであった。

      五

 十三寝ると病院列車に乗って浦潮へ出て行ける。
 それが、今度はアルファベットになった。なお十三日延ばされたのだ。十三日に十三日を加えてABCの数だけねなければ浦潮へ出て行かれない。
 その理由は何か?――列車の都合というのに過ぎなかった。それ以上は兵士には分らなかった。
 負傷者は、Aの日が暮れるとBの日を待った。Bの日が暮れるとCの日を待った。それからD、E、F……。
 ゼットが来なければ、彼等は完全にいのちを拾ったとは云えないのだ。
 衛兵にまもられた橇が黒龍江を横切って静かに対岸の林へ辷って行く。それが丘の上の病院の眼に映った。黒龍江は氷の丘陵をきずいていた。
 橇は、向うの林の方へ、二三枚の木葉舟このはぶねのように小さく、遠くなって行った。列車の顛覆と同時に、弾丸たまの餌食になった兵士が運ばれて行ったのだ。
 観音経をやりながら、ちょい/\頓狂に笑う伍長をのけると、みんな憂鬱にベッドから頭を上げなかった。
「まだ、俺等は運がよかったか!」
 栗本は考えた。ベッドには、一人の患者がいなくなると、また別の傷病者がそのあとへやって来る。それがいなくなると、又次の者がやってくる。藁蒲団も毛布も幾人かの血やうみや汗で汚されていた。彼は、それをかむって、ひそかに自分を慰めた。
 負傷者は、死ぬまで不自由と苦痛を持ってまわらなければならない、不具者だ。
 彼等は、おかみから、もとの通りの生きている手や足や耳を弁償して貰いたかった。一度切り取られた脚は、それを生れたまゝのもとの通りにつけ直すことは出来ない。それは相談にかゝらない。でも、出来ても出来なくても無理やりに弁償を強要したかった。不服でむか/\してやりきれなかった。そういう激しい感情を林へ引いて行かれる橇を見て自ら慰めるよりほか、彼等には道がなかった。彼等と一緒に兵タイに取られ、入営の小豆飯を食い、二年兵になるのを待ち、それから帰休の日を待った者が、今は、幾人骨になっているか知れない。
 ある者は戦場から直ぐ、ある者は繃帯所から、ある者は担架で病院までやってきて、而も、病院の入口で見込がないことを云い渡されて林へ運ばれて行った。中には、まだぬくい血が傷口から流れ出ている者があった。自分たちが、負傷から意識を失った、若し、それをまだ取りかえさないうちに見込がないと云い渡されていたら……。彼等は、それを思うとぞッとした。そういう者がないとは断言出来ないのだ。
「煙が上りだしたぞ。ウェヘヘッヘ。」
 伍長が病的に笑って、湯呑みをチン/\叩きだした。
「やめろ!」
 彼等は、髪や爪が焼ける悪臭を思い浮べた。雪に包まれた江の向うの林に薄い紫色の煙が上りだした。
「誰れやこしだったんだ?」
 腰に弾丸がはまっている初田がきいた。
「六人じゃというこっちゃ。」
「六人?」
 六人の兵士は、みな名前を知っていた。顔を知っていた。一緒に、あの朝、プラットフォームのない停車場から重い背嚢を背負って、やっと列車に這い上がり、イイシへ出かけたのだ。イイシにはメリケン兵がいない。ロシアの娘がまだメリケン兵に穢されていない。それをたのしみにしていた仲間だ。ある時は、赤い貨車の中でストーブを焚き、一緒に顫えながら夜を明かしたこともあった。
 彼等は、誰も、ものを云わなかった。毛布をかむって寝台からペンキのげたきたない天井を見た。
 戦死者があると、いつも、もと坊主だった一人の兵卒が誦経ずきょうをした。その兵卒は林の中へもやって行った。
 林の中にしわがれた誦経の声がひゞき渡ると、薪は点火せられ、戦死者は、煙に化して行くのだった。薪が燃える周囲の雪が少しばかり解けかける。
 自分の意志を苅りこまれ、たゞ一つの殺人器のようにこき使われた彼等は、すべての希望を兵役の義務から解き放された後にかけている。彼等はまだ若いのだ。しかし、そのすべての希望も、あの煙と共に消えなければならない。兵士達には、林の中の火葬の記憶が一番堪えがたかった。
 急ごしらえの坊主の誦経が、いかに声高く樹々の間にひびき渡ろうとも、それによって自ら望まない死者が安らかに成仏しようとは信じられるか! そのあとに、もろい白骨以外何が残るか!
「まだ、俺等は、いゝくじを引きあてたんか!」彼等はまた考えた。
 いのちが有るだけでも感謝しなければならない。
 そして、又、
「アルファベット数えてしまえば、親爺や、お袋がいるところへ帰って行けるんかな。」そんなことを考えた。「俺等にも本当に恩給を呉れるんかな?」
 そこで、一本の脚を失った者に二百二十円かそこらの恩給が、シーメンス事件で泥棒をあばかれた××大将の六千五百円の恩給にもまして有難く感じられて来るのだった。

      六

 病室は、どの部屋も満員になった。
 胸膜炎で、たき出した番茶のような水を、胸へ針を突っこんで汲み取る患者も、トラホーム・パンヌスも、脚のない男も一つの病室にごた/\入りまじった。
「軍医殿、栗本も内地へ帰れますか?」
 彼は、自分から癪に障るくらい哀れみを乞うような声を出してきいた。
「あゝ。」
 栗本の腕は、傷が癒えても、肉がえぐり取られたあとの窪んだ醜い禿は消す訳に行かなそうだった。
「福島はどうでしょうか、軍医殿。」
「帰すさ。こんな骨膜炎をいつまでも置いといちゃ場所をとって仕様がない。」
 あと一週間になった。と、彼等は、月火水木……と繰り方を換えた。
 今は、不潔で臭い病室や、時々夜半にひゞいて来るどっかの銃声や、叫喚が面白く名残惜しいものに思われてきた。それらのものを、間もなくうしろに残して内地へ帰ってしまえるのだ。
「みんなが一人も残らず負傷して内地へ帰ったらどうだ。あとの将校と下士だけじゃ、いくさは出来んぞ。」
 声が室外へ漏れんように小さく囁き合った。
「やっぱし、怪我をして内地へ帰るんが一番気が利いてら。」
「こん中にゃ、だいぶわざと負傷してきた奴があるじゃろうがい?」大西は無遠慮に寝台を見まわした。「そういう奴は三等症だぞ。」
「三等症どころか、懲罰だ。」
 どう見ても、わざとの負傷と思われる心配がない、腰に弾丸たまはまっている初田が毛布からむく/\頭を持上げた。
「馬鹿云え、誰れが好んで痛い怪我をする奴があるか!」
 彼等は平和だった。希望に輝いてきた。
 また、繰り方を換えた。あした、あさって、しあさって、と。もうあと三日だ。と、新しい負傷者が、追いつこうとするかのように、又どか/\這入ってきた。その中にアメリカ兵と喧嘩をして、アメリカ兵を軍刀で斬りつけた勇士があった。
 それは彼等をひどく喜ばした。砲兵の将校だった。
 肩のさきをピストルでやられていたが、彼は、それよりさきに、大男のメリケン兵を三人ぶち斬っていた。
 中尉は下顎骨の張った、獰猛な、癇癪持ちらしい顔をしていた。傷口が痛そうな振りもせず、とっておきの壁の青い別室に坐りこんでいた。その眼は、頭蓋骨の真中へ向けられ、何か一つの事にすべての注意を奪われている恰好だった。
 やったのは、ロシア人の客間だ。そういう話だった。そこで、アメリカ兵は、将校より、もっと達者なロシア語を使って、娘と家族の会話を彼の方から横取りした。中尉は、癇癪玉をちく/\刺戟された。が、メリケン兵をやっつけるとあとからもんちゃくが起る。アメリカ兵は、やっつけられて泣き寝入りにこらえるロシア人や支那人のような奴ではない。それを知っていた。で、そのまゝ何気なく帰ろうとして、外套に手を通しながら、ちょっとテーブルの方を見た。と、そこに、新しい手の切れるような札束があった。競争に負けたジャップにはびた一文だって有りゃしないんだろう。――テーブルに向って腰かけたメリケン兵の眼には彼への軽蔑があった。
「それゃ、どこの札だね?」
 彼は、片方の腕を通しさしで、手を天井に突き上げたまま、テーブルに近づいた。
「お前のもんじゃないよ。」
 顔の細長いメリケン兵が横から英語で口を出した。も一人の方は、大きな手で束から二三枚を抜いてロシア人にやっていた。その手つきが、また見せつけんばかりに勿体振っていた。
「それゃ、偽札じゃないか!」
 彼は、剣吊りに軍刀をつろうとして、それを手に持っていた。
「でも、この通り、ちゃんと通用するんだよ。」メリケン兵は、また札を二三枚抜いてパチパチ指ではじいて見せた。
 彼は背に火がついたような焦燥を感じた。そして、心で日本刀の味を知れ! と呟いた。
 ――入院患者をつれてきた上等兵の話はそういうことだった。
 ついすると、ロシアの娘は、中尉がさきに手をつけていた、その女だったかも知れなかった。
「ほう、そいつは、俺も加勢するんだった。いつかは、そんなことになると思うとったんだ。」橇の上からピストルを放したメリケン兵のロシア語は、まだ栗本の耳にまざまざと残っていた。「眼のこ玉から火が出る程やっつけてやるといいんだ!」
 けれども青い別室の将校は、
「おれは中尉だ。兵卒とは違うんだ! 将校だ! それがどうして露助に分らんのだろう! どうして分らんのだろう!」
 と、こんなことを、まるで熱病患者のように発作的に声に出して呟いていた。
 彼はロシアの娘が自分をアメリカの兵卒と同じ階級としか考えず、同じようにしか持てなさないのが不満で仕様がなかった。同様にしか持てなさないのは、彼にとっては、階級を無視して、より下に扱っていることだ。娘をメリケン兵に横取りされる危惧もそこから起ってくる。
「何で、俺の肩章が分らんのだ! 何で俺のさげとる軍刀が分らんのだ!」
 それが不思議だった。胸は鬱憤としていっぱいだった。
「もっと思うさまやってやればよかったんだ! やってやらなきゃならんのだった!」
 彼は、頭蓋骨の真中へ注意をむけるような眼つきをして衝動的に繰りかえした。刀を振りまわしたのも、呶なりつけたのも、自分をメリケン兵よりもえらく見せるがためだった。彼には、そのやり方が、まだ足りなかったようで、遺憾に堪えないものがあった。
「俺は中尉だ、兵卒とは違うんだ! どうしてそれが露助に分らんのだろう! どうして分らんのだろう!」
 が、彼は、軍隊の要領は心得ていたので、本当の自分の心持は、誰れにも喋らず、偽札に憤慨したという噂は、流れ拡がるにまかせて、知らん顔をしていた。……

      七

 鈴をつけた二十台ばかりの馬橇が、院庭に横づけに並んでいた。負傷者の携帯品は病室から橇へ運ばれた。銃も、背嚢も、実弾の這入っている弾薬盒だんやくごうも浦潮まで持って行くだけであとは必要がなくなるのだ。とうとう本当にいのちを拾ったのだ。
 外は、砂のような雪が斜にさら/\とんでいた。日曜日に働かなければならない不服を、のどの奥へ呑み下して、看護卒は、営内靴で廊下や病室をがた/\とびまわった。
「さあ、乗れ、乗れ!」護送に行く看護長が廊下から叫ぶと、防寒服で丸くなった傷病者がごろ/\靴を引きずって出てきた。
 橇には、五人ずつ、或は六人ずつとやにかたまる鶏のように防寒服の毛で寒い隙間を埋めて乗りこんだ。歩けない者は、看護卒の肩にすがり、又は、担架にのせられて運んで行かれた。久しい間の空気のこもった病室から院庭へ出ると、圧縮された胸がすが/\しく拡がるようだ。病院へつれて来られる時には、うつゝで、苦痛ばかりを意識しながら登ってきた丘に、今、さら/\と快よい雪が降っている。
 雪のかゝらない軒庇のきひさしから負傷者が乗りこむのを見ていた看護長は、
「何だ? 何だ?」
 と、息せき/\這入ってきた聯隊の伝令に云った。
「これであります。」
 伝令は封筒を出した。
「どれ?」
 看護長は右の手袋をぬいで、よほどそこで開けて見たそうに封を切りに二本の指を持って行ったが、何か思いかえして、廊下を奥へ早足に這入って行った。
 伝令はかさばった防寒具で分らなかったが、二度見かえすと、栗本と同じ中隊の一等卒だった。毛の房々しい帽子をぬいで手のひらで額の汗を拭いていた。栗本とは入営当座、同じ班の同じ分舎にいた。巻脚絆を巻くのがおそく、整列におくれて、たび/\一緒に聯隊本部一週の早駈けをやらされたものだ。
「おい、おい!」
 栗本は橇の上から呼びかけた。
 田口は看護長の返事を待ちながら、傷病者がうまく橇に身を合わそうとがた/\やっているのを見ていた。
「おい、おい、田口!……俺だよ。」
 痛くない方の手を振ると、伝令は、よう/\栗本に気がついたらしかった。が二人の間には、膝から下を切断し、おまけに腹膜炎で海豚ふぐのように腹がふくれている患者が担架で運んで来られ、看護卒がそれを橇へ移すのに声を喧嘩腰にしていた。栗本は田口がやって来そうにないのを見て、橇からおりて雪の中の馬の頭のさきを廻って行った。
ら、今日帰るんだ。」彼は、帰れることに嬉しさを感じながら、「みんなによろしく云って呉れ。」
 田口は、何か訳の分らないことを呟いて、当惑そうな色を浮べた。そして、こゝから又セミヤノフカへ一個大隊分遺される、兵士が足らなくて困っている、それに関する訓令を持って来た、と云った。一個大隊分遣される、それゃ、内地へ帰る傷病者の知ったことじゃない。が、田口のなんか事ありげな気配で栗本は直ぐ不安にされた。
「また突発事件でもあったんか?」
 田口は、今、こゝへ来しなにメリケン兵の警戒隊に喧嘩を吹っかけられた、と告げた。二三日前、将校が軍刀を抜いたのがもとで、両方が、いがみ合っている。メリケン兵とも衝突するかもしれない。
 そこへ軍医が出て来た。あとから、看護長がついてきた。その顔に一種の物々しさがあった。
「みんな一っぺん病室へ引っかえすんだ。」
 軍医の声は、看護長の物々しさに似ず、悄然としていた。
 負傷者は、一寸見当がつかなかった。なんでもないことのようであもあり、又、非常な突発事件のようでもあった。彼等は乗込んだ橇から暫らく立上ろうとしなかった。そこらにいた看護卒も軍医の言葉を疑うものゝのようにじいっとしていた。しばらく、さら/\と降る雪の音ばかりがあった。
「一っぺん病院へ引っかえせ!」相変らず、軍医の声は悄然としていた。
「雪が降るからですか?」
 誰れかがきいた。
「うゝむ。」
「じゃ、雪がやんだら帰れるんですね?」
 返事がなかった。
 軍医の云ったことが間違いでないのを確めた看護卒は、同じ言葉を附近の負傷者に同情を持たぬ声で繰りかえした。
 栗本は、脚がブル/\慄えだした。
「俺等をかえさんというんじゃあるまいな?」
 田口は、また困ったような顔をして答えなかった。
 栗本は、一本の藁にでもすがりたい気持をかくして、殊更、気軽く、
「こっちの中尉がメリケン兵を斬りつけたんが悪かったんかい?」と重ねてきいた。
「あゝ。」田口は気乗りのしない返事をした。「それで悶着がおこってきたんだ。」
「だって、あいつら、偽札を使ってたんじゃないか。」
 田口は、メリケン兵を悪く云うのには賛成しないらしく、鼻から眉の間に皺をよせ、不自然な苦い笑いをした。栗本は、将校に落度があったのか、きこうとした。が、丁度、橇からおりた者が、彼のうしろから大儀そうにぞろ/\押しよせて来た。彼は、それをさきへやり過ごそうとした。みんな防寒具にかゝった雪を払い払い彼につきあたって通った。ブル/\慄えている脚はひょろ/\した。彼は、道の真中にある石のように邪魔になった。看護卒がやかましく呶鳴った。
 脇へよけようと右を向くと、軍医が看護長に、小声で、
「橇は、うまく云ってかえして呉れんか。」
 そう云っているのが聞えた。彼は、軍医の顔をみつめた。そこに何か深い意味があるように感じた。軍医は、白い顔を傷病者の視線から避け、わざと降る雪に眼を向けていた。
 栗本は、ドキリとした。もう、如何に田口から委しいことをきいても、取りかえしはつかない、と感じた。
 病室の入り口では護送に行く筈だった看護卒が防寒服をぬぎ、帯剣をはずして、二三人で、何かひそ/\話し合っていた。負傷者が行くと、不自然な笑い方をして、帯皮を輪にしてさげた一人は急いで編上靴を漆喰に鳴らして兵舎の方へ走せて行った。
 患者がいなくなるので朝から焚かなかった暖炉ペーチカは、冷え切っていた。藁布団の上に畳んだ敷布と病衣は、身体に纒われて出来た小皺と、垢や脂肪あぶらで、他人が着よごしたもののようにきたなかった。
「あゝ、あゝ、まるで売り切りの牛か馬のようだ。好きなまゝにせられるんだ!」
 彼等は、すっかりおさらばを告げて出て行った筈のベッドへまた逆戻りした。大西は、いつもの元気に似ず、がっかりして、ベッドに長くなった。
「ほんまにうちまで去んでみにゃ、どんなになるか分りゃせん。」
 あの封筒に這入ったもの一ツが、梶を反対の方向にねじ向けてしまった。彼等はそれを感じていた。梶は、又、弾丸が降ってくる方へ向けられた。アルファベットを操る間絶えず胸に描いていた美しい、魅力のある内地が、あの封筒一ツに覆がえされてしまった。
 栗本は、ベッドに腰かけて、心の動揺と戦った。茅葺きの家も、囲炉裏も、地酒も、髯みしゃの親爺も、おふくろも――それらは安らかさと、輝かしさに満ちている――すべてが自分から背を向けて遠くへ飛び去ってしまった。内地へ帰りたさに、どれだけ目に見えぬ心を使ったか! 一寸した将校のしわざが、俺等に祟って来るのだ! 下らんことのために、こゝに居る者の願望が根こそぎ掘り取られてしまうのだ。これからさき、どうなることか!
 二重硝子の窓を通して、空の橇が馭者だけを乗せて、丘の道を一列につゞいて下るのが見えた。馬は、人を乗せなかったことが嬉しいかのように奔放にはねていた。粉雪は一層数を増して斜に、早いテンポでさら/\と落ちていた。
「そうだ、あたりまえなら、今頃、あの橇で辷っている時分だ!」
 彼は、ふと、こんなことを考えた。
 伍長は、手箱の湯呑をいじっていたが、観音経は忘れたかのように口にしなかった。
「俺ゃ、また銃を持てえ云うたって、どうしろ云うたって、動けやせん!」骨折の上等兵は泣き顔をした。

      八

 錆のきた銃をかついだ者が、週番上等兵につれられて、新しい雪にぼこ/\落ちこみながら歩いて行った。一群の退院者が丘を下って谷あいの街へ小さくなって行くと、またあとから別の群が病院の門をくゞりぬけて来た。防寒帽子の下から白い繃帯がはみ出している者がある。ひょっくひょっくびっこを引いている者がある。どの顔にも久しく太陽の直射を受けない蒼白さと、病人らしいむくみがあった。その顔に銃と、弾薬盒と、剣は、どう見ても似つかわしくなかった。
 珍らしく晴れ渡った朝だ。しかし、下って行く者は、それをたのしむ色はなく、顔は苦りきっていた。
 中隊では、彼等が帰って来るのを待っていた。セミヤノフカへ分遣する部隊に加えるか、メリケン兵に備える部隊に加えるか、そのいずれかだ。アメリカの警戒隊は、大きい銃をかついで街をねり歩いていた。意地の悪い眼を光らせ、日本の兵営附近を何回となく行き来した。それは、キッカケが見つかり次第、衝突しようと待ちかまえている見幕だった。中隊では、おだやかに、おだやかにと、兵士達を抑制していた。しかし、兵員は充実して置かなければならなかった。
 二三人の小人数で、日本兵が街を歩いていると、武器を持ったアメリカ兵は、挑戦的につめよって来た。
 兵士はヒヤ/\した。同時に、なんとも云えない不愉快な反撥したい感情を味わった。それは、朝鮮人が日本人に対して持つ感情だ。そんな気がした。彼等は、わざと知らぬ振りをして、而も、メリケン兵が居る側へ神経を集中して通りぬけなければならなかった。が、向うから、こっちを打った場合、それでもおだやかにと心掛け、打たれていることが出来るか。いや、それは出来ない。で、兵士の数を負けないだけ無理やり、ふやしておかなければならなかった。セミヤノフカへ一個隊行かなければならなことは、こゝで大きな打撃だった。
 聯隊の二階では、長靴に拍車をつけたエライ人が、その拍車をがち/\鳴らしながら、片隅の一室に集って何か小声で話し合った。それから伝令が走らされたのだった。……
 大西も、栗本も、腰に弾丸がはまった初田も週番上等兵につれられておりてきた。
「こんなに、さわったらころびそうな連中を引っぱり出して鉄砲をかつがせるって法があるかい!」そのむれの一人が云った。
「数が足らんのだよ。」
「足らんだって、病人を使う法があるか!」
 彼等の胸は、強暴な思想と感情でいっぱいだった。
 彼等は、橇から引っかえした日に、一人一人、軍医の診断を受けた。それが最後の試験だった。それによって、内地へ帰れるか、再び銃をかついで雪の中へ行かなければならないか、いずれかに決定されるのだった。
 病気を癒すことにかけては薮医者でも、上官の云ったことは最善を尽くして実行する、上には逆わない、そういう者の方が昇級は早い。軍医は、その軍隊のコツを十分呑みこんでいた。兵タイを内地へ帰えすと約束して、まだその舌の端が乾かないうちに、反対に戦場へ追いやるのは随分ツライ話だ。が、彼は、そのツライ話を実行しなければならないと考えた。
 負傷者は、今、内地へ帰れなかったら、この次、いつ内地へ帰れるか、さきは暗闇だった。――鉄橋からの墜落、雪の中の歩哨、爆弾戦、忌々しいメリケン兵などが彼等の前に立ちふさがっているばかりだった。そこで彼等は、再び負傷か、でなければ、黒龍江を渡って橇で林へ運ばれて行く屍の一ツにならなければならないのだ。それは、堪え難かった。彼等は、知らず識らず傷をひどく見せ、再び役には立たん人間のように軍医に見せようと努めた。
 軍医は、診断にやって来る兵士が、どれもこれも哀れげな元気のない顔をしているのを見た。
「私は、内地へ帰らして下さい!」
 その眼は、純粋な憐れみを乞うていた。
「どうだ、もう並食を食うとるんだろう?」
 軍医は、上唇を横にかすり取られた幼なげな男に、こうきいた。
「はい。」
「どれ、口を開けてごらん?」
 この男は、アングリ口を開けて見せた。
「よし! もうよくなっとるね。」
 そして、彼は、診断室を出て行くように、合図に手を動かした。その男は「よし」という声で中隊へかえされると感じて、
「私は、いつ、再び弾丸が降って来る下へ追いやられるような悪いことをしたんです!」
 と、子供らしい眼で訴えた。そして、そこら中を見まわした。軍医の表情には冷たい、固いものがあるばかりだった。
 その少年は、もう一度、上唇のさきが無くなった口を哀れげに拡げた、
「こんなにおとなしい無抵抗な者を殺してもいゝんですか!」と云うような眼をした。
「この眼に負けちゃいかん!」軍医は自分を鞭打った。
 耳朶みゝたぶのちぎれかけた男も、踵をそがれた男も、腰に弾丸のはまった男も、上膊骨を折った男も、それ/″\、憐れみと、懇願の混合した眼ざしを持って弱々しげに這入ったきた。内地へ帰りたい慾求は誰れにも強かった。
「どいつも、こいつも、病気を誇張してやがるぞ!」軍医は考えた。
 栗本も同様に、憐れみを乞い求める眼と、弱々しげな恰好をして、軍医の前へやって行った。彼は、シベリアに残されるのだったら軍医の前にへたばろうと考えた位いだ。
「どうだな?」
「傷の下になんかこりのようなものが出来とるんですが。」
「手を伸ばせるかい?」
「いゝえ、まだ伸びません。」
「これを握ってごらん。」
 軍医の態度には、どっか柔かい、温かげなものがあった。栗本は、出された甲のすべっこい、小さい手を最大限度に力を入れて握ったと見せるために、息の根を止め、大便が出る位いきばった。その実、出来るだけ力を入れんようにして。
「傷はまだ痛いか。」
「はい。」
「よしッ!」
 軍医は出て行くように手を動かした。と温かげなものが、急に、頑固な冷たいものに変った。
「自分はまだ癒っちゃ居らんでしょう! この病院でもいい、こゝに置いて下さい! いやだ! 俺ゃまだ銃がかつげないんです!」
 栗本の眼はそれを訴えた。そして、軍医の顔を、何か反抗するように見つめた。
「よしッ!」
「始めの約束通り内地へ帰して下さい!」
 彼の眼はもう一度それを訴えた。
「よしッ!」
 軍医の頑固な冷たいものが、なお倍加して峻厳になってきた。
 ベッドに帰ると、ひとしお彼の心は動揺した。まだ絶望したくはなかった。窓外には、やはり粉雪がさら/\と速いテンポで斜にとんでいた。――どっちへころぶことか! 今は、もうすべてが軍医の甲のすべっこい、光っているあの手一つに握られているのだ。
 彼は診断室の方の物音と、廊下を通る看護卒の営内靴に耳をすまして時を過ごした。甲のすべっこい、てら/\光っている手は信頼できない性格の表象だ。どっかの本で見た記憶が彼を脅迫した。三時半を過ぎると、看護卒が卑屈な笑い方をして、靴音を忍ばし、裏門の方へ歩いて行った。五十銭持って、マルーシャのところへ遊びに行ったのだ。不安は病室の隅々まで浸潤してきた。栗本は夕飯がのどを通らなかった。平気でねているのは、片脚を切断した福島と、どうせ癒る見込みがない腹膜炎の患者だけであった。
 電燈がついてから、看護長が脇の下に帳簿をはさんで、にこ/\しながら這入って来た。その笑い方は、ぴりッとこっちの直観に触れるものがあった。看護長は、帳簿を拡げ、一人一人名前を区切って呼びだした。空虚な返事がつづいた。
「ハイ。」
「は。」
「は。」
 呼ばれた顔は一ツ一ツ急にさッと蒼白になった。そして顔の筋肉が痙攣を起した。
「ハイ。」
 栗本はドキリとした。と、彼も頬がピク/\慄え引きつりだした。
「今、ここに呼んだ者は、あした朝食後退院。いゝか!」
 同じように、にこ/\しながら看護長は扉を押して次の病室へ出て行った。
 結局こうなるのにきまっていたのだ。それを、藁一本にすがりつこうとしたのが誤っていたのだ。栗本は、それが真実だと思った。病院は負傷者を癒すために存在している。負傷者を癒すと弾丸がとんでいるところへ追いかえすのだ。再び負傷すると、またそれを癒して、又追いかえすだろう。三回でも、四回でも、五回でも。
 一つの器械は、役に立たなくなるまで直して使わなければ損だ。それと同じだ。そのために病院の設備はよくしなければならない! 恐らくこれからさき、ます/\よくされるだろう。しかし、それは吾々には何にもなりはしない。
 栗本は、ドキリとした瞬間から、急激に体内の細胞が変化しだしたような気がした。彼はもう失うべき何物もなかった。恐るべき何者もなかった。どうせ死へ追いやられるばかりだ。

 彼等は丘を下って行った。胸には強暴な思想と感情がいっぱいになっていた。足を引きずっているものがある。ひょっく/\跛を引いている者がある。防寒帽の下から白い繃帯がはみ出している者がある。彼等は、銃をかつぎ、弾薬盒と剣を腰にまとっていた。どの顔からも、まだ、患者らしい疲労がとれていなかった。
 すが/\しい朝だ。バイカル湖の方から来る風に、雪を含んだ雲が吹き払われて、太陽が遠い空に素裸体になっていた。彼等は、今、気がねをすべき何者もなかった。何者にもとらわれることはいらなかった。鬱憤とした思想と感情は、それを慰める手段を取るのが自分達に当然だと考えていた。
 新しい雪は、彼等の靴の重みにボコ/\落ちこんだ。彼等は、それを蹴って歩いて行った。……
(一九二八年十一月)





底本:「黒島傳治全集 第一巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月30日第1刷発行
※「シベリア」と「シベリヤ」の混在は底本通りにしました。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2004年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について