猫と杓子について
織田作之助
「エロチシズムと文学」というテエマが僕に与えられた課題であります。しかし、僕は「エロチシズムと文学」などというけちくさい取るに足らぬ問題について、口角泡を飛ばして喋るほど閑人でもなければ、物好きでもありません。ほかにもっと考えなければならぬ文学の本質的問題が沢山ありますし、だいいち、日本にはエロチシズムの文学などありません。エロ文学なんて、いやらしい言葉ですが、そういうものは誰も書いておりません。エロチシズムとかエロ文学なんて言葉は、ただ文学を公式的にしか考えられない一部の批評家の文章の中に出ているだけであります。そういう言葉を流行させたのは実は彼等の評論なのです。彼等はいわゆるエロチシズムの文学を攻撃する文章を極めて真面目な表情で書いておりますが、しかし、彼等の文章を読んでおりますと、彼等の使っているエロ文学だとか性の欲求だとか性生活だとかいう言葉がどぎつい感じで迫って来て、妙な逆効果を現わします。逆説的にいえば、彼等の評論こそエロチシズム評論ではないか――などという揚足取りを、まさか僕はしたくありませんが、大体に於て、公式的にものを考え、公式的な文章を書く人の言葉づかいは、科学的か医学的か政治的か何だか知りませんが、随分生硬でどぎついような気がしますね。そうでしょう……?
言葉といえば、「猫も杓子も」云々という言葉があります。いつ頃出来た言葉か知りませんが、日本人がこしらえた言葉の中では、なかなか独創性に富んだいい言葉であります。表現――つまり言い現わし方そのものが独創性に富んでいるばかりでなく、「猫も杓子」云々という言葉の内容自身が、人間というものは独創的でなくっちゃいかん、不和雷同するな、人の言ったことや、したことの真似をすると嗤われるぞ――という、いわば独創の宣伝みたいな意味を含んでおります。ところがですね、「猫も杓子」も云々というような、こんな独創的な言葉を発明した日本ほど、実は猫になりたがり、杓子になりたがる人間の多い国はないのですから、全く皮肉極まる話で、いや、実にお話になりません。
みなさんは、日本を敗戦国にしたのは、軍閥と官僚だとお思いになっていらっしゃるかも知れませんが、実は猫と杓子が日本をこんなことにしてしまったのです。猫と杓子が寄ってたかって、戦争だ、玉砕だ、そうだそうだ、賛成だ賛成だ、非国民だなどと、わいわい言っているうちに、日本は負け、そして亡びかけたのです。
猫であり、杓子であるということは、つまり自分の頭でものを考えないということであります。これは日本人の持っている悪癖――つまり悪い癖でありまして、すぐ他人の頭でものを考えたがる。俗に「鰯の頭も信心から」といいますが、あんまり他人の頭ばかり借りてものを考えたり、喋ったり、書いたりしておりますと、しまいには鰯の頭まで借りるようになってしまいます。いや、僕は冗談に言っているのではない。真面目に言っているのです。
他人の頭でものを考えるというのは、つまり他人の着物を借りてまるで自分の着物のような顔をするということで、いいかえれば思想の借着であります。人類はじまって以来、多くの天才は僕らが借りるべき多くの着物を残してくれました。僕らは借着にことを欠きません。それに、借着をすれば、手間がはぶけて損料を払うだけでモーニングだとか紋附だとか[#「紋附だとか」は底本では「絞附だとか」]一応もっともらしく立派に見えます。苦心惨澹して、手織りのみすぼらしい[#「みすぼらしい」は底本では「みすぼらいし」]貧弱な着物を着ているよりは、どうも昔の着物の方が立派にはちがいありません。だいいち天才が残してくれたものですからね。しかしいくら敗戦して焼け出されたとしても、せめて思想の借着だけはしたくないものです。自分で考えたことを、自分の言葉で語りたいものです。すくなくとも文学者というものは猫でも杓子でもないのですから、世間の常識とか定説、オイソドックス、最大公約数的な意見、公式、規格品、標準、権威――そういったものを、よしんばそれが世の風潮に乗っている思想であっても、自分の頭で自分が納得できるまで疑うべきであります。そういうものじゃないでしょうか。
例えば、今日、古い日本は亡びて、天皇をはじめあらゆる過去の権威に対する挑戦――といいますか、つまり疑問の提出が活発に行われましたが、しかし、文学の上では権威への挑戦が殆んど忘れられています。明治以後いまだ百年もたっていないのに、多くの大家が文豪と称せられ、古典の仲間入りをして、文学の祭壇にまつりあげられ、この人たちの片言隻句はまるで文学の神様のような権威を与えられて、大正昭和の文学を指導して来ました。が、果してこれらの大家たちの作品が最高のものでしょうか。例えば藤村先生の文学、徳田秋声先生の文学、志賀直哉さんの文学などは、日本的な小説伝統の限りでは、立派なものであり、最高のものでありましょうが、しかし、われわれ近代小説への道に苦労している若い作家にとって、これらの文学伝統は、いったいいかなるプラス的影響を与えてくれるでしょうか。僕はことさらに奇嬌な言を弄して、先輩大家の文学を否定しようとするつもりはありません。ただ僕のいいたいのは、これらの文学、つまり、末期の眼を最高の眼とする、いわゆる年輪的な心境の完成を目指した文学を、最高の文学的権威とする文壇の定説が、変な言い方ですが、いわば文壇進歩党の旗印みたいになって、古い日本のものの考え方や伝統や権威を疑ってみて、新しい近代を打ち樹てようとする今日もなお、多くの心酔者を得、模倣者や亜流を作ってはびこっていることが、果して幸福な現象か不幸な現象かということを、言いたいのです。この人たちの文学はそれぞれ出現当時は新しいものでした。立派なものでした。今日も立派です。作家としても尊敬に値する人たちです。しかし、この人たちの辿りついた道から出発して、第二の藤村、第二の秋声、第二の志賀直哉を作ることは、もはや今日無必要な努力であります。日本は敗戦しました。過去の日本は亡びました。すべては新しい近代に向って進もうとしております。しかし、日本の文章は少しも変っておりません。文壇の権威も昔のままです。文章の句読点の切り方すら変っておりません。これはおかしいことです。
正倉院の御物の公開があると、何十万という人間が猫も杓子も満員の汽車や電車に乗り、死に物ぐるいで、奈良に到着して、息も絶えだえになって、御物を拝見したということですが、まことにそれも結構なことでありますけれど、僕は死に物ぐるいの眼に会うことも猫になることも杓子になることも嫌いですから、ジャン・ポール・サルトルというフランスの新しい作家の小説を読んでおりました。「世界文学」という翻訳専門の雑誌の十月号にのった「水いらず」という小説でありまして、この小説は日本文壇にとっての新しい戦慄といっても過言ではないと僕はまァ思いました。日本の文学は結局生活の総決算の文学であり、人間を描いても、結局心境のありのままを描くだけですが、ジャン・ポール・サルトルのこの「水いらず」という小説は人間の可能性を描いております。しかも、サルトルの提唱しているエグジスタンシアリスム[#「エグジスタンシアリスム」は底本では「エグスジタンシアリスム」]――つまり実存主義は、戦後の混乱と不安の中にあるフランスの一つの思想的必然であります。このような文学こそ、新しい近代小説への道に努力せんとしている僕らのジェネレーションを刺戟するもので、よしんば僕らがもっている日本的な文学教養は志賀さんや秋声の文学の方をサルトルよりも気品高しとするにせよ、僕はやはりサルトルをみなさんにすすめたい。
そして、僕は近代小説は結局日本の伝統小説からは生まれないという考えの下に、よしんば二流三流五流に終るとも、猫でも杓子でもない独自の小説を書いて行きたいと、日夜考えておりますので、エロだとかマルクスだとか、眼を向いてキョロキョロしている暇はないのであります。以上「エロチシズムと文学について」という課題で僕は言いたい山ほどの中で、一番いいたいことです。
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