夜の構図

織田作之助




第一章


ホテルを出ると雨が降っていた事。
三五二号室の女の代りに四二一号室の女に外科手術をする事。

 並んで第一ホテルを出ると雨であった。鋪道の濡れ方で、もう一時間も前から降っていたと判った。少しの雨なら直ぐ乾き切ってしまう真夏の午後なのだ。
 一時間も前から降っていたということがいきなり信吉を憂愁の感覚で捉えてしまった。しかし、この寂しさは一体何であろう……。
 雨が降るということには、何の意味もない。チエホフの芝居の主人公なら、
「雨が降っている、これは何の意味です。何の意味もありやしませんよ」
 と言うところであろう。
 雨が降っている……。極めてありふれた自然現象に過ぎない。
 しかし、このありふれた現象が自分の知らぬ間に起っていたということが信吉には新鮮な驚きであった。
 何故か。
 雨が鋪道を濡らしていた一時間、信吉はホテルの第四五三号室のベッドの上で、見も知らぬ行きずりの女の体を濡らしていたのである。
 娘は中筋伊都子という。十九歳だが、雀斑が多いので二十二歳に見える。少し斜視がかって、腋臭がある。
 一時間前までは、信吉と伊都子は赤の他人であった。伊都子は信吉にとって、まるで急行通過駅の如き存在に過ぎなかった。が、一時間後、並んでホテルを出た時には、もう信吉は伊都子の体を隅々まで知ってしまっていた。急行列車が通過する早さで知ってしまったのだ。
 その女の方から誘いを掛けて、信吉の胸に飛び込んで来たとはいうもののその余りのあっけなさはさすがに悔恨となっていた。しかしこの悔恨から来る寂しさではなかった。もとより、ああ雨が降っている……というしみじみした感傷でもなかった。
 伊都子と部屋に居る間、そのことと関係なしに雨が降っていたということ、しかもそれを知らずにいたということ、ホテルの部屋と雨が降っている戸外とが、まるで違った世界であったこと……それから来る憂愁の感覚であった。しかしこの感覚は信吉には説明出来ない。孤独とはこんなものであろうか。
 信吉はふと眉を翳らせて、それが癖の放心しているような虚ろな眼をあげて、きょとんと白い雨足を見ていたが、一つの気分に永く閉じこもることの出来ない信吉はすぐ軽佻浮薄な笑い声にふくませて、
「僕は雨男ですね、旅行するときっと雨が降るんですよ。あんたは雨がきらい……?」
 すると伊都子は、
「雨はきらいだけど、雨男は好きよ」
「どうして……?」
「だって、雨ぐらい降らせることの出来る男じゃなくっちゃ詰らないわ」
 そう言って、伊都子は年に似合わぬがらがらした声で笑ったが、地下鉄の入口まで来ると、急に生真面目な顔になって、
「じゃ、あたし日本橋まで行きますから、ここから……。今夜十時お伺いします」
 そう言ったかと思うと、信吉の返辞も待たず、スカートの後ろを気にしながら、階段を降りて行った。
 十時にお伺いしますとは、今夜信吉の部屋へ忍び込んで来るという意味だ。新吉は[#「新吉は」は底本では「信店は」]ふと伊都子の腋臭のにおいを想い出した。
 そして雨に濡れながら、銀座の方へ歩いて行った。
 信吉も伊都子も四時半までに行かねばならぬ用事があった。だから、時間を気にしながらあわてて部屋を飛び出して来たのである。
 伊都子の用事とは、日本橋の某商事会社でタイプライターを購入すること。信吉の用事は、東京劇場で明日から上演される自作の脚本の総稽古を見ること。その目的で伊都子は九州から、信吉は大阪から、それぞれ上京してたまたま第一ホテルに投宿したのである。

 自作の脚本の上演を見るために、わざわざ上京して来たということは、即ち信吉が劇作家としてはまだ新進であるということに外ならない。上演ずれのした大家になると、自作の舞台を見るのも億劫になっている。書斎で描いたイメージが舞台で歪められているのを見ることが、たまらないという理由もあろう。人一倍自尊心の強い信吉はさすがにそれを知っていたから、いそいそと上京して来た自分を内心軽蔑気味であったが、けれどやはり大阪にじっとして居られなかったのは、実はこんどの芝居は信吉にとっては、はじめての上演だったからだ。ありていに言えば、劇団の脚本に当選した脚本なのである。昨日までは全くの無名に過ぎなかったのだ。
 もっとも彼はこの上京には口実をつけていた。上演のよろこびに有頂天になって出て来たのではない。その脚本が全部関西弁で書かれていたので、その脚本を上演する「演劇集団」の俳優にそれを教えるという名目である。
「有名な俳優と口を利けるということが、それ程ぞくぞくと嬉しいのか」
 そう自嘲しながら、信吉が第四五三号室で眼を覚ましたのは、もう正午過ぎであった。
 地下室のグリルで食事を済ませると、信吉は、ロビイへ新聞を取りに行った。
 が、新聞は一つもなかった。五人の先客が、それぞれ新聞をひろげて見ていた。なかなか空きそうにない。信吉は苛々して来た。東京劇場の広告が見たかったのである。
 信吉は中年の男の傍に腰を掛けて、
「お空きになりましたら、どうぞ」
 と言った。
「新聞ですか」
「はあ」
「新聞なんか見てどうするんです?」
「はあ……?」
 驚いた。
「新聞なんか見ても詰りませんよ。近頃の新聞は嘘しか書いてないから」
「そりゃ同感ですが、しかしあなたは御覧になっているじゃありませんか」
「僕は記事を読んでいるわけじゃない。暗号を読んでるんだよ」
「え……? 暗号……?」
「この新聞の第二面に鉛筆で印をつけた文字がある。その文字を辿ると……」
 にやりと笑った。
「どういうことになるんですか」
「辿るとね、三五二号室という数字と午後三時という数字が出ますね。これは三五二号室へ午後三時に訪問すると、美人が歓迎してくれるという暗号ですよ」
「誰がいってもいいんですか」
「誰がいってもいい。僕でもいい。君でもいい」
「あなたは行く積りですか」
「君はどうですか」
「さあね。スリルはありますね。しかし、あなたとかち合うと拙いですな」
「大丈夫。かち合うことはない」
「どうして……?」
「午後三時には君か僕か、二人のうちのどちらかにきっと故障がはいる」
「あなたは運命論者ですか」
「でなければ、君にこんなことは教えはしないよ。あはは……」
 薄気味の悪い声で笑って、
「――さア空きましたよ」
 と、信吉に新聞を渡すと、さっさと玄関へ出て行った。
 信吉は東京劇場の広告を見た。作者の信吉の名が信三と誤植されていた。その「三」の数字に信吉はどきんとした。
「午後三時……」
 時計を見ると、午後二時半である。
「あと半時間だ」
 信吉は喫茶室へはいって行った。
 空いた椅子へ腰を掛けて、ボーイの来るのを待っていると、信吉の向い側へ部屋の鍵と財布を持った若い娘が一寸頭を下げて坐った。
 そこへボーイが来た。
「珈琲!」
 信吉が注文すると、娘も、
「ソーダ水!」
 信吉の顔は見ずに注文した。
 雀斑が多いが、眼元がぱっちりして、下唇が少し出ている。何かソワソワと落ち着きのない容子だった。信吉はふと娘の部屋鍵の番号を見た。四二一号室!
「三五二号室ではない」
 呟いたところへ、ボーイが注文したものを持って来たが、信吉の前へソーダ水、娘の前へ珈琲を置いた。
 信吉と娘はふと顔を見合せて微笑した。信吉は娘の前へソーダ水を置いた。娘は信吉の前へ珈琲を置いた。
 そして暫くお互い黙黙として飲んでいたが、やがて娘は思い切ったように、
「失礼ですが、ここにお泊りになっていらっしゃるんですの」
 信吉も鍵をぶら下げていた。
「はあ。あなたもですね」
「はあ。――はじめてホテルへ泊ったので退屈で困っていますの。お部屋にいても詰らないし……」
「外へ出られないんですか」
「日中は暑くて……」
「なるほど……」
 信吉はこの退屈している娘を舞台稽古見物に誘おうかと思った。
「夕方なら涼しくなるでしょう。どうです、僕の芝居の稽古を見に行きませんか」
「芝居にお出になりますの」
「いや、役者じゃありません」
「はあ。じゃ脚本を……」
「え、まア」
「あのウ稽古何時頃ですの」
「四時半からです」
「あら残念ですわ。あたし四時半までに日本橋へ行かなくっちゃなりませんの」
「そうですか。じゃ明日の初日を見て下さい。切符とって置きます」
「明日の朝もう発ちますの。残念ですわ」
「そうですか。そりゃ……」
 信吉は興冷めしてしまった。
 喫茶室は混んでいた。信吉達のテーブルの傍にも、空いた場所を物色している客が立っていた。
 信吉は伝票を掴んで立ち上った。娘も同時に立ち上った。娘の方には伝票がなかった。ボーイが二人連れだと思ったのであろう。
 信吉は二人の勘定を払った。
「あら、あたしが……」
「いや、面倒ですから一緒に……」
「御馳走さまでした」
 信吉がロビイのソファへ行くと、娘も随いて来て並んで坐ったが、いかにもそれが自然に見えたのは、勘定のことがあったからであろう。
 ソファへは日が射し込んで来た。娘はしきりにハンカチを使った。
「暑いですね」
「お部屋へ行ってお話しましょうか」
 信吉は思わず娘の顔を見た。信吉の方が赧くなった。信吉はあわてて言った。
「涼しいんですか、あなたのお部屋」
「とっても……」
「でも、女の方の部屋へ行くのはどうも……」
「じゃ、あなたのお部屋へ参りますわ」
 信吉はふと胸が騒いだ。
「僕の部屋、暑いですよ。しかし、ここよりはましかな」
 照れた早口で言って立ち上り、エレヴェーターに乗って、
「四時半までに行かなくちゃならないでしょう?」
 信吉は気の弱い声を出した。
「でも、四時半までお話できますわ」
 娘は腕時計を見た。三時であった。
「あッ、しまった、三時、三五二号室は到頭あの男にとられてしまったか」
 と、信吉は呟いた。
 四階で降りて、長い廊下をはなればなれに歩いた。
「ここです。どうぞ」
 娘を先に入れて、信吉は扉を閉めたが、さすがに鍵は掛けなかった。
 窓口の小さなテーブルへ、お互いの椅子をわざとはなして腰掛けた。
「煙草随分おのみになりますのね」
「一日に百本。――あなたはやらないんですか」
「のみますのよ」
 信吉の箱から一本抜き出して、火をつけると、器用に煙の輪をつくった。
「あたし不良でしょう……?」
 煙の輪は窓から出て行った。
 それを見送っていると、ふと向う側のビルディングのオフィスから、一人の男がじっとこちらを見つめているのが眼にはいった。信吉はその方を指した。
「あら、未成年者喫煙の図を見られちゃった。失礼ね。あの人」
 蓮ッ葉に言って、笑ったが、ふと半泣きの顔になると、
「カーテン閉めましょうか」
 信吉は黙って立ち上ると、カーテンを引いた。急に部屋の中が暗くなった。
 信吉はふと生唾をのみこんだ。椅子へ戻りかけに信吉はつと娘の肩に手を掛けた。娘はじっと動かず眼を閉じた。信吉はいきなりぐいと娘の肩を引いた。娘は立ち上ってぱっと眼をひらいたが、そのまままた眼を閉じると唇を突き出して来た。
 二人は唇を合せたまま、ベッドの上に倒れた。
「あ、それだけは堪忍して……」
「どうして……?」
「あたしこんなこと始めてなのよ」
 しかし、もだえる動作がかえって体をしびらせたのか、娘はもう信吉のなすがままになっていた。そして、
「後悔しないわ。あなただから後悔しないわ。あなたが好きだから。好きだったら悪いことじゃないわ」
 夢中になって叫んでいたが、ふと眼をあげると、
「あたしを笑わない……?」
「笑わない」
「だったらいいわ。――名前きかせて頂戴!」
「須賀信吉……」
「須賀さん! 須賀さん!」
「え、何……?」
「何でもないのよ。ああ、須賀さん――須賀さん!」
 と、信吉の名を呼びつづけていた。
 やがて、信吉は暗がりの中でマッチをすって、時計を見た。四時であった。あかりをつけて、
「出掛けなくっちゃいけない」
 娘はベッドの隅へ身をすくめながら、うなずいた。
 身支度が済むと、娘の方が先に出て行きかけたが、いきなり振り向くと、唇を突き出した。軽くそれに触れて、二人は部屋を出た。
 そして、並んでホテルを出ると、雨であった。……

 銀座通を歩きながら、信吉は、
「平凡と言えば平凡だが、平凡でないと言えば平凡でない」
 と、呟いた。
 ふと「外科手術」という言葉が泛んだ。信吉の表情は歪んだ。
「俺のしたことは外科手術に似ている!」
 罪の意識というほどの宗教的な、あるいは道徳的な悔恨はなかったが、しかし感覚的な悔恨はあった。メスを使う医者の残酷さだ。
「――しかし、病気になれば誰だって命を落す危険を侵してまで手術を受けたがるのだ。――あの娘も進んで俺の手術を受けたがっていたのだ。俺はあの女の病気を取り除いてやったのだ」
 そう思ふと[#「思ふと」はママ]、気が楽になった。
「――ところであの女の病気とは何だろう……? そうだ、好奇心かも知れないて。それとも倦怠か」
 信吉はにやりと笑いながら、尾張町の交叉点の角を築地の方へ折れて行った。


第二章


ラヴシーンが一幕増えている事。
それを見て逃げ出したくなる事。
しかし逃げない理由。

 信吉が劇場へ着いた時は、一幕目の稽古が済んで、二幕目の道具飾りがはじまりかけていた。
 信吉は「演劇集団」の主事から、劇団員一同に紹介されると、丁度そこへ急がしそうにはいって来た会社の奥役と並んで、客席に腰を掛けた。
「お若いのに驚きましたよ。失礼ですが、おいくつですか」
 と、奥役が話し掛けて来た。
「丁度です」
 二十八だが、嘗められるので、二つ年上に言った。
「三十……? これからですな。どしどし書いて下さいよ。脚本ほんを書く人が少くってね。――映画の方はどうです、興味ありますか」
「興味って言うと……?」
「撮影所でね、あなたの脚本を読んで、問題にしてましたよ。シナリオを頼むとか言ってましたが……」
 信吉は赧くなった。昨日まで無名であった自分が、そんなに問題にされているのが、不思議であった。ふと寂しくなった。しかし何故寂しくなるのだろう。有頂天になるべきところではなかったか。
「僕は駄目です。僕は時局物が書けませんから……」
「いや、生じっか時局物でない方がいい。やっぱり柔いものが喜ばれるのでね。情報局推薦なんて肩書がつくと、かえって受けませんね。こんどのあなたの脚本も、あれだけでは色気がないので、一幕だけラヴシーンを追加しましたよ」
「え……?」
 信吉は毛虫を噛んだような顔をした。
「この幕がそうです。まア、見ていて下さい」
「…………」
 信吉はむっとして、やがてはじまったその幕の稽古を見ていたが、みるみるうちに真蒼になってしまった。
 なるほど、その幕は信吉が書いたものではなく、後からつけ加えたものだった。色気をつけるためと言った通り、全体の劇の進行と何の関係もない浅薄なラヴシーンであった。作者に断りもなしに、そんな幕がつけ加えられたのは、これは明らかに作者への侮辱だ。
 信吉はそう思うと、バタンと椅子をはねかえして立ち上った。
 その音に奥役はびっくりして、信吉を見上げた。その顔に向って信吉は、
「この場面は取っていただきます。でなきゃ、上演は取りやめていただきます」
 という言葉を投げつけようとした。
 ここで奥役を怒らせてしまえば、折角のチャンスを逃がしてしまうかも知れないが、侮辱されて黙っているくらいなら、チャンスを逃がした方がましだ。劇作家としての運命よりももっと大事なものは自尊心だ。
 しかし、信吉は怒りっぽいが、元来弱気であった。都会人の気の弱さが身にしみついていた。
「この場面は……」
 と言いかけて、ふと眼を外した。
 途端に、楽屋着の派手な浴衣を着けたまま、客席に坐っている女優の視線とぶっ突かった。
 江口冴子、大部屋だが、さっき紹介された女優達の中で一番印象に残っていた。主役の女優よりも溌剌とした魅力があり、何よりも睫毛が長い。信吉の好みだ。それに紹介された時、眼と眼とが瞬間にらみ合ったのはこの女優だけだった。冴子はさっきから信吉の方を見ていたらしい。
「こっちへいらっしゃいません?」
 冴子の眼はふと信吉を誘っていた。
「奥役と喧嘩して帰ってしまえば、もうあの女優と話す機会もなくなってしまう」
 信吉はふとそう思った。
「喧嘩はあと廻しだ」
 信吉は冴子の方へ寄って行った。
 端の椅子に掛けていた冴子は、にっことして一椅子横へ移った。
 舞台では主役の女優が、
「そんな恥かしいこと言っちゃいや。あたし逃げ出したくなるわ」
 と、信吉が書きもしなかった歯の浮くような甘い科白を言っていた。
「逃げ出したいのはこっちの方だよ」
 信吉はそう言いながら、冴子があけてくれた椅子へ、並んで坐った。その意味がわかったのか、冴子は微笑して、
「随分びっくりなさったでしょう。こんな場面がはいっちゃって……実際ひどいわ」
「上演をやめて貰いたいくらいですよ。――でもまア、新米らしく大人しく黙っているか。どうせ商業劇団に書いたのがそもそもいけなかったんですよ」
「田村先生も同情してらっしたわ。折角の作者のデヴュに気の毒だって」
 田村先生とは演出家の田村礼介のことである。田村はもと左翼劇団の演出家であり戯曲のほかに小説も書き、劇壇より文壇で有名であったが、思想運動の嫌疑で検挙され、保釈出獄以来執筆は許されず、匿名で「演劇集団」の演出をしているのだった。食うために商業劇団の演出へ身を落したとはいいながら、さすがに仕事は丁寧で、信吉も田村の演出があればこそこの劇団の脚本を応募する気になったのかも知れない。
「――でも、田村先生も奥役の言うことはきくのね。随分変ったわ」
「田村さん、いつもあんな風ですか」
 田村の演出振りは妙に投げやりで、キメが荒かった。
「いいえ。いつもは細かいのよ。でも明日は先生の公判の判決の言い渡しがあるらしいの。先生きっと苛々していらっしゃるんだと思うわ」
 信吉は情けなくなった。俺の処女作の上演の初日が演出家の公判の判決の当日に当るとは……。しかし同時にふと田村に同情した。今ここで事を荒立てたら、田村に気の毒だと思った。自尊心を傷つけられた憂欝は辛うじてこの冴子で慰められる。――いきなり、
「明日……」
 昼食を食べにホテルへ来ませんかと、信吉が言いかけると、しかし冴子は、
「衣裳をつけて来ますから……」
 と、もう立ち上っていた。
 そして信吉に物を言う隙も与えずに、すっと立去ってしまった。
 すかされた思いだったが、やがて衣裳をつけた冴子が舞台へ出てくると、信吉の眼はギラギラと輝いた。
 明日あの女をホテルへ来させることが出来なければ、俺は二重に自尊心を傷つけられることになる。妙なことを呟いた途端、しかし信吉は急に寂しい表情になった。
 舞台での冴子は、持役の端役を痛痛しいまでに必死に稽古していた。
 信吉はふと涙が出そうになった。冴子を誘惑しようとしている自分の野心が浅ましかった。しかし、信吉の野心はそんなことでは消えなかった。信吉はつと立ち上って廊下へ出ると窓の外を見た。雨はなお降っていた。町の灯が煙っている。
 信吉はしみじみと眺めていたが、何思ったか急ににやりと笑った。

第三章


約束の十時が来ても稽古が終らぬこと。
火葬人夫のような信吉の表情について。
マッチがなくなったことに気がつくこと。
話術!

 十時になった。四百二十一号室の娘――伊都子が四百五十三号室の信吉の部屋へ忍び込んでくると約束した時間だ。
 しかし、舞台稽古はまだ終っていなかった。装置に暇が掛って、最後の幕の稽古が残っているのだ。一部の俳優達は終電車の時間を気にしていた。この幕だけ明日の朝に稽古すればいいと、主張する者もあった。しかし、明日は演出家の田村が検事局で判決の言い渡しがあるので来られないだろう。結局稽古を続行することになった。幹部級の俳優はさすがに不平を言わなかった。さアやろうと稽古をたのしんでいる顔であった。ちぇッと舌打ちしたのは大部屋の俳優たちだった。江口冴子の顔には稽古をたのしむ表情も不平の表情もなかった。超然として仮面めんのように冷たく冴え切っていた。
 信吉はもう稽古そのものには興味をなくしていた。いやむしろ自作の影像イマージが歪められているのを見るに堪え難い気持すら味っていた。が、江口冴子がその残された幕に出ている限り、劇場こやを出ることは出来ないと思った。幕は残ったが、信吉にも冴子を明日ホテルの昼食に誘うという用事が残っていたわけだ。
 冴子は、あれから一言も口を利かなかった。いや、むしろわざと口を利かなかったと言ってもいいかも知れない。もっとも冴子の方でもはや信吉を無視したように、話し掛けようともしなかったのだ。
 その無視されたことが、しかし信吉という男にとってはむしろもっけの倖いだと、言えば言えぬこともない。馴馴しく話し掛けて来たり、媚びた態度を見せたりすればもう信吉は冴子への興味を失ってしまったのかも知れないのだ。そのような女は、もっと手近なところに、たとえばホテルで、信吉の帰りを待っている筈だ。信吉はその女との約束を想い出して、さっさとホテルへ帰ってしまえばいいのだ。男が女に好奇心を感じ、食指を動かすというのは既にして罪だ。何を好んで二重の罪を犯そうというのか。もっとも罪の意識のすくない男だったが……。
 元来が信吉は自尊心の固まりのような男であったから、冴子に無視された(と思い込んでいたのだ)ことでもはや自尊心が傷ついたような気がしていたのだ。もっとも自作を無断で改訂されたことでとっくに傷ついている自尊心だった。もう少しで上演禁止を申し出るところであった。が、さすがにそうしなかったのは、自尊心が強いくせに人一倍多分に持っている気の弱さと、一つには江口冴子への興味だった。しかもその江口冴子が自分を無視している。信吉の自尊心はいわば二重に傷ついたのだ。この傷を癒やすためには、
「江口冴子を俺に惚れさせるのだ!」
 そのためにも、まずはじめは無視して置いてくれた方がやり甲斐があると、これは信吉の持論だった。変な男だ。
 稽古が終ったのは、十時半だった。案外早かった。
 終電車の時間を気にしていた俳優達はほっとして、楽屋へ顔を落しに行った。幹部の俳優は、
「どうでした……? 明日はもっと巧くやりますよ」
 と、信吉に話しかけた。
「いや、結構でした、明日がたのしみです」
 信吉はいい加減に返答しながら、挨拶もせずに楽屋へ引きあげて行った冴子の後ろ姿を見送っていた。
 演出家の田村は稽古をそんなに早く仕上げてしまった自分に、さすがに照れているのか、信吉と眼が合うと、ふと苦笑した。信吉は田村が脚本の改訂のことで自分に同情していたという冴子の言葉を想いだして寄って行った。ところが、田村は台本を鞄の中へ入れると、
「じゃ――。お疲れさま」
 それだけ言って、女房の産が近づいた人のようにさっさと帰って行った。信吉はすかされた気持だったが、憤慨はしなかった。一緒に帰ろうなどと言われなかったのが、かえってもっけの倖いだと思った。
 信吉は舞台へ上って煙草を吸った。俳優のいない舞台は、ペンキの匂いがまるで自作の亡骸なきがらの匂いのようであった。見物のいない客席は夜の火葬場のようにひっそりとしていた。そして、舞台の上の信吉は火葬人夫のように冷酷な顔であった。
 この冷酷な顔は一体何であろう。
 信吉は冴子が楽屋へ戻って、ドーランを落して、衣裳を着変えて、楽屋の裏口へ出て来るまでの時間を、計算しているのだった。彼はその自尊心にかけても待ち伏せすることの出来ない男であった。雨に打たれながら、冴子が出て来るのを待っているなぞ、信吉には金輪際出来ぬ難しいことだ。俳優の下駄箱の前の頭取部屋へはいって、頭取と雑談しながら、あるいは、雨が小降りになるのをうかがっている――これも情けなくて出来なかった。信吉が舞台から楽屋の裏口へ出て行くのと、冴子が楽屋のエレヴェーターで降りて来るのと殆んど同時でなくてはならない。その偶然を信吉はねらっているのだ。信吉のエスプリは不自然さを本能的に嫌っている。だから、自然さを自ら作り出そうとするのだ。芸術家だろうか。一種のダンディズムと言ってもいいかも知れない。
 ダンディズムの表情はもともと冷酷だ。で信吉は冷酷な顔をしているのだ。
 しかし、いかにして自然さを作り出そうというのか。信吉が楽屋の裏口へ出て行くのは、名優の出のように、遅すぎても早すぎてもいけない。遅すぎては万事休し、早すぎては不自然だ、この計算は結局名優の勘であろう。冴子が楽屋へ戻って、ドーランを落し、衣裳を着変えて、エレヴェーターで降りて来るまでの時間を計るのは、勘以外にはない。この勘に信吉はしかし自信があるわけではなかった。運に任せているのだ。そういう意味で宿命論者だ。人生は信吉にとっては偶然の堆積だ。この偶然を作り出す運を、信吉は信じているのだ。
 信吉はゆっくり煙草を吸い終った。そしてそれを踏み消すと、もう一本吸いたくなった。ところが、マッチ箱にはもう一本も残っていなかった。しかし信吉の経験では、ポケットに一本ぐらい残っていることが多い。時間を計算しながら、信吉はゆっくりポケットの中を探してみた。が、遂に見当らぬと判ると、信吉は思わずにやりとした。不気味な笑いだった。
「よし、今だ!」
 信吉は競馬場の馬券の発売口へ行く男のように、舞台裏から楽屋口の方へ出て行った。途端に信吉はドキンとした。冴子が下駄箱から靴を出して、スリッパとはきかえている所だった。
 そのまま信吉が出て行ってしまえばもうそれっきりだ。こんな時、信吉はゆっくり歩いてあとから来る冴子を待てない男だから、冴子が靴をはいている間に、二人の距離は遠ざかってしまう。といって、靴をはいている傍で、ぽかんと立っていることも出来ない。いわば信吉の出は少し早すぎたかも知れないのだ。
 ところが、信吉にとっては、少しも早いことはなかった。なぜなら、頭取部屋へはいって煙草の火を借りる時間がある。そしてこれは少しも不自然ではない。
 信吉は頭取部屋へはいって、
「済みませんが、火を貸して下さいませんか」
 と言った。
 頭取は起ち上って、部屋の隅に掛けてある上衣の中から、マッチ箱を取り出して来た。
「ありがとう」
 マッチをすっていると、
「お疲れさま。――」
 と、冴子の声が背中に聴えた。出て行くのであろう、「お疲れさま」の「ま」の尻を上げた言い方は、信吉を意織しない[#「意織しない」はママ]調子に聴えた。が、そんなことはこの際どうでもいい。
 信吉はマッチを返すと、雨の中へ出て行った。
 前方を、冴子は一人で歩いていた。傘をさしていた。
 すべて信吉の予想通りであった。
 傘をさしてとぼとぼ夜更けの雨の道を一人帰って行く冴子の姿は、いかにも大部屋の女優の稽古帰りめいていた。もっとも大部屋ならかえって連立って帰る友達があってもいい所かも知れない。一人うらぶれたように帰って行くのは、孤独なのか。人間嫌いか。
 信吉は雨に濡れていたので、雨に濡れているらしい男の大股で、冴子の傍を通り過ぎた。途端に、
「あ、須賀さん!」
 と、冴子の声が来た。やはり来た。
「――おはいりになりません?」
 これも予想通りだった。が、あまり予想通りだったことが、信吉をふと寂しくさせた。われながらいや気がさすくらいだった。情けなかった。
 傘の中にはいると、
「この劇、映画になるんですってね」
「へえ? そうですか」
 わざと驚いてみせた。
「おききになりませんの」
「いや、さっき一寸そんな話出てたが……ところであなたはどこまで……?」
「本郷ですの」
「じゃ、三原橋まで着せていただけるわけですね。僕、新橋ですから、三原橋で……」
「第一ホテルですって……?」
「ええ。よく知ってますね」
「楽屋中で評判よ」
「えっ?」
 信吉はどきんとした。ホテルでのことを全部知られたのか。
「須賀さん、どこに泊っていらっしゃるだろうって、楽屋の老嬢連、ひどく関心持ってたわ」
 信吉はほっとした。
「――もう綽名までついていますわよ」
「煙突……?」
 ノッポだった。
「いいえ、芥川龍之介」
「へえ――?」
「若くって、才人で、スタイルがよくって……いや、眼よ、眼よ。眼が似てるのね」
「何にしろ、芥川龍之介が生きておれば僕に決闘を申し込むでしょう」
 笑いながら、三原橋の停留所まで来た。電車はなかなか来なかった。
「どうぞ――。遅くなると悪いから……」
「ええ。でも電車が来るまで……」
 冴子は傘をさしてくれていた。
「どうも、雨の夜、電車を待っているってのは、寂しいですね。僕も何だか昨日にくらべると、一躍有名になったみたいだけどこうしてしょぼんと雨に吹きつけられて電車を待っていると、人間って奴は案外寂しいもんだなアという気がする」
 信吉はふとそんなことを言った。実感であった。冴子はだまって信吉の顔を見上げただけだった。びっくりするくらい長い睫毛だった。綺麗だなと思った。信吉は言った。
「あなた、マッチ持ってませんか、ホテルへ帰っても煙草が吸えないんで……」
「今、持ってませんけど……明日楽屋へ持って来てあげますわ」
「楽屋入りは何時……?」
「三時……」
「三時……か。三時までマッチが手にはいらぬとは情けない。売ってないんでね」
 わざと困った顔をして、
「町へ出て来るのは、もっと早いんでしょう。その時ホテルの受付へでも届けてやるという親切があなたにあれば、一生恩に着ますよ」
「まア、そんなにマッチが……」
「凄いニコチン中毒でね」
「じゃ、届けてあげますわ、仕方がない」
「何時頃……?」
「さア、おひるを食べて出るから、一時かな」
 一寸男の子のような口を利いた。それが信吉を自信づけた。
「何でしたら、お午を食べないで、来て下さい。もっとも、マッチであなたを餓死させてはいけないから、あんまり美味くないけど、ホテルの昼食でも御馳走しますよ。つまり、マッチの礼だ」
 信吉は早口に、笑いながら言った。
「その代り、マッチは一箱で済まないっていうんでしょう。あんまり沢山持ち出すと、おふくろに叱られちゃうけど……うふふ……」
 信吉も何となく空虚に笑い、それで約束が出来たのも同様だった。
 丁度そこへ電車が来た。
「ありがとう。じゃ、明日待ってます。ロビイで……。何時……?」
正午おひるでいい……?」
「ええ。じゃ、明日正午」
 信吉は電車に乗った。
 電車が動き出すと、冴子は線路を横切って渋谷行の停留所の方へ歩いて行ったが、その姿はすぐ見えなくなった。レインコートを羽織っているせいか、随分小柄に見えるその姿は、なぜか信吉の瞼にいつまでも残った。そしてそれがふと信吉の気を滅入らせた。
 電車は空いていたが、座席に掛けようとしなかったのは、余りの成功にそわそわしていたというよりも、むしろ気が滅入っているためではなかったか。しかし、なぜ気が滅入るのか。信吉はきょとんとして窓外の白い雨足を眺めていた。

第四章


真夜中の電話について。
奇妙な朝食のこと。
更に奇妙な死亡広告の主のこと。

 十一時。
 ホテルの部屋に寄った信吉は、ちらと腕時計を見て、電話の受話機を外した。伊都子の部屋へ掛けようとしたのだ。
 その時、ドアをノックする音が聴えた。
「どうぞ!」
 鍵は掛っていなかったので、ドアはすぐひらいて、はいって来たのは、やはり伊都子だった。
 口を結んで、半泣きの顔で微笑しながらちょぼんと立っていた。風呂から上ったばかしであろう、髪の毛が濡れていた。
 昼間、男に任せた体を、どんな想いで洗ったのであろう。信吉も、
「…………」
 咄嗟に言葉は出ず、黙って寄って行き、抱こうとすると、伊都子は結んでいた口をひらいて、
「ああ――」
 かすかな声をあげながら、両手を信吉の背中の方へ伸ばした。そして、足を爪立てた。
 蜜柑の房を口に入れたような感触、そして咽喉の奥から上って来る情欲の匂いのような口臭、湯上りの匂いにまじった腋臭の匂い、精一杯の娘の生きた匂いであった。
 信吉はすぐ胸を離した。そして二人並んで寝台の端に腰を下した。
「さっき、一寸来てみたの。閉ってましたわ」
 伊都子は恥しそうだった。大胆にふるまっていても、やはり娘であった。
「済まなかった。稽古が遅くなってね、今帰って、あなたの部屋へ電話を掛けようとしていたところだったんだ」
 信吉がそう言うと、伊都子は顔色を変えた。
「電話掛りまして?」
「いや、すぐ取り消したから……」
 伊都子はほっとして、
「ああ、よかった。電話通じたら、伯父さん眼を覚しますわ」
 伯父と二人で上京して、同じ部屋に泊っているらしかった。
「――でも、酔っぱらって寝ちゃっているから、ベルぐらいで起きないかも知れないわ」
 伯父が寝ている隙をねらって出て来たと伊都子は言った。
「――伯父さん、とっても品行わるいのよ。タイピストの学校の校長さんだけど、生徒とスキャンダルを起したりしてるのよ。このホテルの受付の女とも、何かあるらしいの。いやね。伯父さんだって悪いことをするんだもの……」
 自分もするわと言わんばかしに、伊都子はいきなり唇を寄せて来た。そして、信吉の手を取って、自分の胸に当てた。バンドをしていないので、胸のふくらみはたるんだ柔さだった。
 火のような息を吐きながら、二人はからみ合ったまま倒れた。
 伊都子はシュミーズの下は、何も纒わず、裸だった。
「お風呂で洗濯したの、代り持って来なかったのよ」
 信吉は顔を赧くした。
 …………
「誰も来ない……? 誰も来ない……?」
「来ない、大丈夫だよ」
 そう言ってやると、伊都子は安心したように狂おしく燃えて行った。これが娘かと信吉は呆れていた。

 やがて、どれだけ時間がたったのか、二人はがっくりとして、お互い浅ましい顔をそむけた。
「私、恥しいわ。浅ましい気がする。まるで動物みたい。――人間てみなこんなのでしょうか」
 しかし、伊都子は信吉の手を握って、離そうとしなかった。信吉の手は白く繊細だった。
「まるで女みたいな手ね」
「ほかに取得はないけど、手だけは綺麗だよ」
「この手、想いだすわ」
 伊都子は信吉のその手で体を触られることがうれしいようだった。そして四時頃までいて、
「あ、もうこんな時間……。伯父さんもう酔がさめる頃だわ」
 と、あわてて出て行った。
 伊都子が伯父の酔のさめる時間まで知っていることが、信吉には不思議だった。
 出て行きしな、伊都子は、
「明日はもうお別れね。私、後悔しないわ。明日の朝、一緒に食事してくれません?」
「朝食九時までだろう? 起きられるかな。僕、朝寝坊だから……」
「電話で起しますわ」
 伊都子の匂いの残っている寝台で、信吉はぐっすり眠った。そして、眼を覚ますとベルが鳴っていた。受話機を取ると、
「もしもし、先生でいらっしゃいますか」
 伊都子の声は電話でのせいか、老けて生真面目な声だった。先生といわれて、信吉は苦笑した。
「――御食事にいらっしゃいません……?」
「ああ、ありがとう」
 ロビイへ降りて行くと、伊都子は食堂の入口でしょんぼり立っていた。
 向い合って坐ると、信吉は食堂の中を見廻した。そして煙草を喫っている若い男を見つけて、火を借りた。その男はむっとした顔で、信吉をにらみつけながら、火を貸してくれた。信吉の自尊心は傷ついた。マッチがないばかりに、こんな想いをするのか。
 もどると、伊都子は、
「今、あなたが火を借りた男、私の許嫁よ」
 と、言った。
 信吉はあっと驚いた。
「――あの男、伯父さんと一緒に事業しているの。伯父さん、政略的に私をあの男と結婚させたがってるの。私いやだわ、あんな男……」
 ところが、伯父はその男に伊都子は既に承諾したと言ったらしい。だから伊都子があくまで反対していると、その男に合わす顔がない。無理矢理結婚させるつもりで伊都子を連れて上京した。男はわざと伊都子の部屋の前に自分の部屋を取った。伯父は伊都子にその部屋に遊びに行くように、すすめるらしかった。
「――私行ってやらなかったの。許嫁気取り、しょってるわ。でも結局は伯父さんへの義理で結婚しなければならないわ。あんな男に処女を与える気にならない。だからあなたに……」
 処女を与えたと伊都子の言葉をきいて、信吉は唸った。
「――今朝の私の電話、伯父さんきいてましたの。先生って誰だってきくから、作家よと言ってやったら紹介してくれと言ってましたわ。見栄坊よ、伯父さん。『いつの間に知り合いになった』って驚いてましたわ。私、先生を伯父さんやあの男に見せびらかせてやりたいの」
 そして伊都子は眼まぜして、
「――あそこに、あの男の向いにいるの、伯父さんよ。こっち見てるわ」
 しかし、信吉は振り向かなかった。ただ伊都子の顔の雀斑を見ていた。何かそれは不幸のしみのようであった。
「あなたは御両親はないんでしょう?」
 だろうと言ってみたり、でしょうと言ってみたり、信吉は伊都子にぶっきら棒な言い方と、丁寧な言い方の両方を使って来たが、今はもう二人が別れる半時間前だ。
 丁寧な言い方をした。
「ええ」
「僕も両親はないんです」
 これが二人の最後の会話だと、信吉は思った。そして瞬間心が通ったと思った。
 食事が済むと、伊都子は帰る支度をして四階に上って行った。
 信吉はロビイの新聞を読みに行った。昨日と同じ新聞の綴りを取ってみると、やはり活字に赤鉛筆の印がついていた。辿って行くと、
 午後八時、三三三号室……。
 と判読された。
「またしても三の数字か。よし、今日は必ず午後八時になぞの女を訪問してやろう」
 信吉がそう呟いていると、
「新聞があきましたら、どうぞ……」
 声を掛けられた。
 見上げると、昨日と同じ中年の紳士がにやにやしながら立っていた。
「どうぞ」
 と渡して、
「――午後八時、三三三号室ですよ」
 そう言うと、紳士は、
「あ、そうですか、じゃ、もう読む必要はありませんな」
 と言った。
「同感です。死亡広告以外には真実の記事は一行もないんですからね、近頃の新聞は……」
「あはは……。巧いことをおっしゃる。しかし、あなたはまだ信用し過ぎている」
「どうして……?」
 すると、紳士は厳粛な調子で、
「死亡広告にも嘘がある」
「例えば……?」
「例えばですか。あはは……いい質問だ」
 紳士はその新聞の死亡広告欄を指して、
「ここに、蜂谷重吉の死亡広告が出ているでしょう」
「ええ」
「元衆議院議員蜂谷重吉昨七月卅一日永眠仕候。――とあるでしょう。あなたは蜂谷と言う代議士を知っていますか」
「いえ、聴いたこともありません」
「そうでしょう、私も聴いたことがない。蜂谷重吉という男は代議士じゃありませんよ」
「じゃ、何者ですか」
「何者でもないが、しかし、蜂谷重吉は即ちこのわたしです」
「えっ?」
「この新聞によれば、蜂谷重吉は昨日死んだことになっている。ところが、わたしはげんにこの通り生きている。新聞なんて凡そ出鱈目だ」
「なるほど。ところでこの死亡広告主はつまり、あなたなんでしょう」
 信吉がすかさずきくと、紳士は微笑一つ見せず、
「そうです」
 と答えた。

第五章


ダンディの意味について。
信吉が女にとって魅力があるというくだらない説明。
冴子は帽子をかぶって来たこと。

 須賀信吉という男は、女たちのいわゆる神経質な表情と、放心したようなキョトンとした虚ろな眼や笑った時の眼尻の皺から感じられる子供っぽい表情と、二つの表情の交錯する顔を持っていた。
 それに、都会人らしく、はにかみ屋で、人なつこく、気が弱そうで、ふと冷酷なところもあり、そしてまた、軽薄に見えるくらい陽気で明るいかと思うと、急に深い憂愁に閉ざされていたり、純情かと思うと、凄い女たらしに見えたり、……時と場合でぐるぐると表情が変り、印象が違うので普通の平凡な男に飽いている女にとっては、ちょっとした魅力のある男であった。
 すらりと背も高く、女に対する言葉づかいも、ぶっ切ら棒な調子の中に、嘗めるような丁寧さがあった。いわば女好きのする男なのだ。美男子ではないが、渋いよさがあった。
 だから、けっしてダンディ(伊達者)ではなかった。
「……僕はもっさりしてるからね」
 半分本気で言っていた。服装もお洒落ではなかった。身のまわりに気を使うには余りに不精者であった。
 しかし、信吉は、
「おれは精神的にはダンディだ」
 と思っていた。
 つまり、ダンディという言葉の意味の違いなのだ。
 信吉にとって、ダンディとはボードレエルの言う――
「人を驚かすが、自分は驚かないというのが、ダンディの守るべきおきてだ」
 これだった。だから、信吉はつねに、いかなる場合にも、物事に驚くまいと思っていた。
 ところが、蜂谷重吉という奇妙な男にだけは、さすがの信吉もいささか驚かざるを得なかった。
「元衆議院議員蜂谷重吉七月卅一日永眠仕候」
 という死亡広告の広告主が自分自身だと昂然として言う男!
 明治時代のある作家で、自分の死亡広告を自分の名で出した男がいるが、しかし、その広告が出た時は、無論その作家は死んでいた。
 ところが、この蜂谷重吉という男は、現在信吉の眼の前に生きている。
 しかも、元衆議院議員という肩書を、本当かときけば、出鱈目ですよと、澄ましている。
 変な男だ。
 もっとも、信吉はその蜂谷という男の口からきく前に、こっちから、
「広告主はあなたでしょう……?」
 と、たずねたくらいだから、
「そうです」
 と、答えられても、べつに驚かなかった――と言ってもいい。
 しかし、そう言い切ってしまえば、嘘になるだろう。
 驚きは素早く通過しただけのことで、とにかく瞬間驚いたことはたしかだ。――すくなくとも信吉はそれを認めた。ダンディにとっては、これは、かなり辛いことだった。
 しかし、信吉はその男には参ってしまった。頭を下げざるを得なかった。
 信吉は一切の月並み平凡なことを毛嫌いしていた。石橋を敲いて渡る主義、処世術常識、プチブルの自己保存の本能、貯蓄、無駄を怖れる精神、――すべて軽蔑していた。信吉の意に適っているのは、野放図、破天荒、横紙破り、常規を逸したもの、破目を外したもの、尻尾を出すこと――いわゆる反俗精神の裏づけあるものに限られていた。
 だから、信吉の願いとは、つねに世間的な出世にはなく、異色ある人物になり切ることであった。そして、そのように振舞って来たつもりだが、信吉自身の異色ぶりなぞ、もはや蜂谷重吉の前では、けちくさい存在でしかなかった。
 信吉は素直にきいた。
「どうして、こんな広告を出されるんですか」
 すると、蜂谷はぶっ切ら棒に、
「どうして……? あなたはどうしてそんな質問をするんですか。そんな質問をする人に、その理由を説明してみても判りませんよ」
 と言うと、いきなり起ち上って、
「午後八時、三三三号室ですよ」
 だめを押すと、すっと玄関の方へ出て行ってしまった。
「よし、午後八時、三三三号室だな。今日こそはあの男に出しぬかれないぞ」
 そう呟いた時、スーツケースを持った伊都子がエレヴェーターから降りて来た。伯父や許嫁が一緒だった。
 伊都子は半泣きの顔で、微笑むと、ちょっと頭を下げて、つれの二人と一緒に雨の中へ出て行った。
 信吉もだまって頭を下げただけだった。
 回転ドアを押す時、伊都子はちらと振り向いた。
 信吉はもう一度頭を下げようとしたが、丁度その時、伊都子の許嫁がキッと信吉の方を睨みつけた。信吉はふと眼をそらした。
 そして再び見ると、もう伊都子の姿は見えなかった。
 許嫁の視線は信吉の胸をチクリと刺して新たな悔恨があった。が、ふと、あの男がやがてあの伊都子の亭主となって、伊都子のなやましい腋臭のある体を抱くのかと思うと、伊都子が四五三号室のベッドの上で見せた数々の肢態や、燃えるような愛撫や「須賀さん! 須賀さん!」と呼びつづけていた絶え入りそうな声が、なまなましく想い出されて、
「もうあの娘には二度と会うこともあるまい……」
 という取りかえしのつかぬ想いが、かえって悔恨をすくって、何か甘い気持だけが残り、信吉はふと右の手を鼻の先へ持って行った。
 そして、伊都子の匂い……というよりもむしろ、人間の浅ましい交渉の匂いのかすかな残り香を嗅いでいると、女のあわれさが、はや信吉を憂愁の感覚でとらえてしまった。
 そのくせ、信吉は昨夜約束した江口冴子の来るのを待っていたのだ。
 これは一体何であろう。
 女にはこういう男の気持は判らない。いや、判ろうとしない。たとえば、そのようなことを平気でする芸者や娼婦すら、こういう男の気持を、単なる移り気だと見て、責めるのだ。
「男ってみなそんなものだ」と。
 たしかにそんなものであろう。移り気で軽薄で、――つまり誠実でない。
 しかし、信吉の場合、これはもう明らかにデカダンスだった。が、まるっきりデカダンスでない証拠には、そんな自分をふと情けなく思っているのだ。そして、情けなく思っている自分を、一層情けなく思っている。
「悪いひとではないが……」
 と断って、非難される男! つまり現代の青年の中にざらに見つかる男、女には惚れるが、自分を見失ってしまうほどの情熱で、もはや恋愛の出来ない男――というわけだが、しかしそれらの大勢の青年にくらべて、信吉が女にとって危険なのは、彼には魅力があるという一点だ。
 しかし、女は「男の魅力」という言葉を好かないし、そんなものを認めたがらないから、
「あの人はいい人だ」
 という風に自分に言いきかせる。
 例えば、江口冴子のような女でも……、いや、冴子はまだホテルの玄関に現われていない。読者は信吉と共に、彼女を待たねばならない。

 われわれの一応喜ぶべきことには、冴子は約束の時間より四十分おくれて来た。
 つまり、冴子は、みじめでなかったわけだ。おくれて来るという女の特権を、充分発揮したというべきだろう。
 しかし、冴子がおくれて来たことは、ある意味で信吉にとっても喜ぶべきことであった。
 なぜなら、待たされたことで、信吉は冴子を誘惑する口実が再び見つかったと、思ったからだ。自尊心を傷つけられたのだ。
 冴子はおくれて来たけれど、のそっとはいって来た。まるで、信吉が怒って、いなくなっていても構わないという歩き方だった。
 しかし眼はさすがに信吉を探していた。少し近眼なのか、ロビイの隅にいる信吉の姿がすぐには見当らなかったのか、困ったわ、という風に、ふと眉をくもらせた。
 その表情が、散々待たされていた信吉を救った。駄々っ子のように、もっと隠れていてやればおもしろいと思うくらいだった。いや、いっそ、ロビイから姿を消してしまった方が痛快だったかも知れない。
 しかし、信吉は、
「やア――」
 と、すぐ起ち上って、寄って行った。
「大分待った……?」
 それには答えず、
「マッチは……?」
 マッチだけを待っていた顔をした。
 冴子はほのぼの笑って、
「あとで……」
 地下室のグリルへはいって、向い合って坐ると、
「――二箱持って来たわ。おふくろに叱られたわ。そんなに沢山マッチ持って出て、どうするんだって……。作者にあげるんだといったら、じゃ、三つ持って行けだって……」
「あはは……」
 笑いながら、そのマッチをすって、煙草につけた。うまかった。
「あたし、お食事に誘われるのは、あんまり好きじゃないわ」
 信吉はむっとしたが、つづいて冴子の言った言葉で機嫌はなおった。
「――今まで何度も誘われたけど、たいてい断ったわ」
「じゃ、今日は例外だね」
「まア、そうね」
「なぜ、断らなかったの……?」
 何気なく言って、ちらっと素早い視線を冴子の顔に投げた。
「なぜって……?」
「うん」
 返答に困るだろうと、思った。が、冴子は、
「だって、マッチを持って来てあげたんじゃないの」
 すかさず言った。
「あ、そうか」
 と、ひょうきんに言いながら、この女優大分頭がいいと思った。
 すると、信吉はもう食事が済んでから冴子を自分の部屋へ連れ込もうという計画が実行しにくくなった。
 それに、冴子は銀座の何とか帽子店の宣伝係みたいに、ツバの広い帽子を大胆にかぶっていた。雨だというのに……。大阪ではこんな大きな帽子をかぶるような思い切った娘はいない。そのことも、ちょっと信吉を、気おくれさせた。もっとも、辟易させた――と言った方がいいかも知れない。何れにしても、冴子は昨夜の、ふとうらがれた大部屋女優の感じはなかった。今日の冴子はまごうかたなく銀座の娘だ。
 九州の女を相手にするようなわけにはいかない――と、ちょっと冴子の「銀座スタイル」に信吉は柄にもなく圧されていた。大阪者の悲しさだろうか、もっとも、
「女はみんな同じだ」
 とは、これまでの経験による信吉の、やぶれかぶれの持論だった。
 ただ、エティケットが違うだけだ。だから、慎重を要する。しかし、心にもない技巧は使えまい。心にもない――とは、つまり不自然なという意味だ。
 食事が終った。
「これからどうする……? 楽屋入りまでまだ大分時間があるだろう……? 銀座を歩く……?」
 これは自然だ。
「雨の中を……?」
 この返答も計算にはいっていた。
「じゃ、ロビイで話でもするかな」
「ホテルのロビイなんかで、男の方とお話をするなんて、いやだわ。噂が立つし……」
 女優らしい言い方だった。
「じゃ、どうする……?」
「お部屋へ行きましょうよ」
 信吉は、がっかりした。伊都子と同じ科白!
 あまりのあっけなさに興冷めしたが、しかし信吉は冴子と一緒にエレヴェーターに乗った。予定の行動といった顔で……。

第六章


冴子が照れ症であったこと。
接吻をしなかった理由。
奇妙なる伝言。
更に奇妙なる男が出現すること。

 例によって、四五三号の信吉の部屋。
 昨夜の伊都子の残り香がまだ漂っている筈だったが、煙草の匂いがそれを消していた。
「香をたく代りに、煙草をたいてるのね」
 と、冴子はちょっと気の利いたことを言った。
 窓側に向い合って坐った。
 冴子は帽子をとった。
 帽子をとると、もう冴子はただの女に見えた。机の上に置かれた帽子は、安サラリーマンのカンカン帽以上に豪華にも見えなかった。脱ぎ捨てられたレヴューガールの衣裳のようだといおうか、それとも、ハンドバッグの中の使い残りの棒紅のようだといおうか。豪華を装っても、たかが日本の娘だ。永い戦争に疲れた、みじめさがあった。そのみじめさが、しかし、信吉の好みでないとはいえない。帽子をとってくれてふと安心したようなものだ。
「よく煙草吸うのね」
「日に百本。――」
 信吉は苦笑した。昨日と同じだと思ったのだ。
「煙草って、そんなにうまいものかしら……」
「君はまないの……?」
「喫んでみようかしら……?」
「いや、そりゃよした方がいい」
 信吉はあわてて言った。
 喫む。ビルの窓から見られる。カーテンを閉める――そしてそれから……そんな昨日と同じコースを、再び、くりかえすほど信吉は垢抜けしない男ではなかった。
「――煙草って好奇心で喫むものじゃないからね。喫まれる煙草が泣くよ。泣くっていえばね、僕は寝しなに、珈琲をのむ癖がある。珈琲をのまなくちゃ、眠れないんだ。珈琲にとっちゃ、随分自尊心を汚されて、泣きたいところだろうね」
「お酒は……?」
「いや、こんな話よそうじゃないか。『あなたは煙草が好きですか、酒は好きですか何が好きですか、私も好きです』くだらないよ。お互の嗜好をたずね合い、趣味を語り合い、それで一致してみたところでつまらない。べつに僕ら結婚しようってわけではないからね」
「どうして結婚しないの……?」
「あなたと……?」
「まア」
「いや、失敬、失敬。――ええと、結婚しない理由……? そうだね。自由を束縛されるのはいやだから。戦争なんかはじまったおかげで、四方八方束縛されてるのにこれ以上結婚で束縛されるのはいやだよ」
「恋愛は……?」
「目下していない。君は……?」
「…………」
「なんだか、していそうだね」
 莫迦々々しい質問だと、信吉はわれながらあいそが尽きた。
「するなら、どんな恋愛をしたいの?」
「そうね。プラトニックラヴね」
 女って皆そう言うと思った。はかない女の郷愁だろう。
「プラトニックだけで済むかね」
「ベーゼ……? ベーゼなんてくだらないと思うわ。そう思わない……?」
「まア、そうだね」
 と、信吉はしぶしぶ相槌を打った。つまらぬ相槌を打ったものだ。これじゃ、飛び掛って、接吻も出来やしない。
 話が途切れた。
 信吉はじっと冴子の顔を見つめていた。
 冴子は壁に掛った絵を見上げて、にやにやしていた。
「どうして、にやついてるの……?」
「どうして……?」
 にこっと笑って、眼をパチパチさせた。
「――どうしてだか判らない。何だか笑いたくてたまらないの」
「照れてるんじゃない……?」
「そうよ。あたし、物凄い照れ症なのよ。――こりゃたまらない」
 本当に噴き出してしまった。
「僕があんまり見るから……?」
「そうよ。あたし人に顔を見られると、すぐ照れちゃうの」
「それでよく女優になれたね」
「舞台じゃ平気なんだけど……」
 そしてまた笑いだすと、
「あたし、失礼するわ」
 と、起ち上った。
 信吉は、やられたという感じだった。
 しかし、引きとめる気はしなかった。
「じゃ、下まで送ろう」
 冴子は帽子をかぶった。
「マッチありがとう」
「え……? ああ……」
 ふっと笑って、
「――もっとお話したいんだけど、今日はだめ。照れちゃっていたたまれないの。ごめんね」
「照れて帰るんならかまわないけれど……僕がいやで帰るんなら辛いね。蛇蝎の如くきらったんじゃない……?」
「きらいだったら、来ないわ」
「それで安心した……」
 と信吉はドアをあけかけたが、ふと振り向くと、じっと冴子を見つめた。
 冴子は信吉の体と殆んどすれすれに立っていた。
 眼と眼とが触れ合った。
 信吉はいきなり両手を伸ばして、冴子の肩にのせた。
 冴子はじっとしていた。
「僕が悪い男に見える……?」
「どうして……? いいひとよ。あなたは……」
「いいひとだって……?」
 信吉は笑って、
「――じゃ、ベーゼするのはよした。いい子になろう」
 と、肩にのせていた手をはなした。
「ベーゼしないことがいい子なの……」
「そうだ。つまり僕は女たらしだからね。やはり、しちゃ悪いよ」
「女たらしに見えないわ」
「じゃ、僕がベーゼしたらどうする……? 撲るかね」
「こんな話よしましょう」
「よそう」
 と、信吉はわざと大きな声で言って、ドアをあけた。

 玄関まで送って行って、冴子と別れると信吉は喫茶室へはいった。
 珈琲を飲みながら、
「ドアのところで、接吻してしまえばよかったんだ。つまり、いい子になろうとしていたんだな」
 と、信吉は呟いた。
「――ベーゼしたら撲るかね――なんて科白はまずい科白だった。あれで台なしになってしまった。あの科白さえなければ、接吻出来たんだ。しかし、あの場合、あの科白ぬきで接吻するのは、演出のキメが荒すぎる。唐突すぎるからね。しかし、唐突すぎるのがなぜいけないんだろう……? つまり、情熱のない行為は唐突であってはいけないわけだろう」
 情熱のない行為といえば、今夜八時、三三三号室をいきなり訪問することも情熱をもってする行為ではない。
 だから、唐突であっては、醜いだろう。では、唐突でなくするにはどうすればいいだろうか。
 信吉は喫茶室を出ると、受付へ行った。そして、伝言用紙を貰うと、

八時に必ずお伺い致します。
  四五三号室   須賀信吉
(われわれは軽佻か倦怠かの、どちらか一方に陥ることなくして、その一方をまぬがれることは出来ない)
三三三号室様

 そう走り書きすると、
「これ渡して置いてくれませんか」
 そして、四階の自分の部屋へ上って、支度をすると、東京劇場へ出掛けた。
 都電に乗ると、隣に坐っていた男が、
「やあ、暫らく……」
 と、声を掛けた。
 四十前後の色の蒼白い男だった。よれよれのレインコートを着ている。
 全然見覚えはなかった。
「いいところで会いましたね」
「失礼ですが、あんたは……?」
「あんたは……? あはは……。あんただなんて……」
 笑い出した。
「文久三年に品川沖であんたという名前の鯨がとれたことがある。あんたという名前ですよ。あはは……」
 笑っていたが、急に真面目な顔になると、
「――どこまで……」
「東京劇場まで……」
「じゃ、あたしと同じだ。ご一緒に参りましょう」
「失礼ですが、どなたですか」
「名前は明かせない……」
「えっ?」
「いや、名前は明かせないと言ってるんですよ」
「なぜ明かせないんですか」
「明かすと、あなたは土下座しなくちゃならない」
「えっ……?」
 信吉は思わずきいた。
 すると、男は急に笑い出した。
 乗客はびっくりして、その男の方を見た。
 信吉は照れて、起ち上ろうとすると、
「逃げるんですか」
 その男はいきなり信吉の腕を掴んだ。

第七章


転向者の心理について無駄な議論をすること。
惚れること。
惚れているような気がすること。

 東京劇場に着くと、ちょうど信吉の芝居がはじまろうとしていた。
 信吉は監事部屋へはいって、自分の書いた芝居の初日をみることにした。
 監事部屋というのは、一階の客席のうしろの、いわば映画館の映写室の位置に当るところに作られている部屋で、舞台に面して窓があり、そこから舞台が見られるようになっていた。
 そこは劇団の幹部や演出家が、雑談をしたり、演技や効果の注意事項をノートしながら、見物できる特別の部屋だったから、そんな部屋へはいって行って、いかにも作者を気取っているのは、信吉の好みに合わなかったが、しかし、煙草を吸いながら見物できる点が、煙草好きの信吉にはありがたかったのだ。
 一つには電車の中でいきなり話しかけて、ノコノコ劇場までついて来たよれよれのレインコートの中年男を、まく積りだったのだ。監事部屋には、演出家の田村礼介がいた。その顔色を見るなり、信吉は「公判の結果はよかったんだな」と思った。
 昨日の総稽古で、田村の演出のキメが荒かったのは、今日の判決の宣告をひかえていらいらしていたためだったのだ。田村は左翼運動の嫌疑で、戦争勃発と同時に検挙されたが、保釈で出獄していたのである。
「どうでした……?」
 信吉は挨拶の代りにきいた。
「えっ……?」
 軽く問いかえしたが、
「――あ、裁判ですか」
 と、すぐ判ったらしく、信吉の煙草を借りながら、
「――執行猶予でした。山上さん(演劇集団の座長)が証人になってくれてね、例の朴訥な調子で、私は思想のことは何にも判らないが、田村君は日本の演劇のために貴重なんです――と言ってくれたのが、大変よかったんだ。下手すると戦争中ほうり込まれたかも知れなかったですよ」
「そりゃよかったですね」
 と、一応儀礼的に言ってから、信吉は、
「――勿論、転向を誓われたんでしょうね」
 と、きいてみた。
「そりゃね、君……」
 と、田村は苦笑して、
「――転向しなければ、一生出られないじゃないか。出ている連中はみんな転向しているよ」
「なるほど、しかし、本当に転向しているんですか」
 名前は信吉だが、いかなる思想も信じたことのない信吉は、転向者の心理というものが判らず、皮肉のつもりではなく、ナイーヴな気持から、きいてみたかった。
「さあ、そりゃねえ……」
「たとえば、田村さんはどうなんです?」
「…………」
 田村は冷たく澄んだ眼にふと驚異の表情をうかべて、信吉の顔を見たが、返事はしなかった。
「転向といえば、これまで抱いていた左翼思想のあやまちを認めることでしょう……?」
「まア、そうね」
「あやまちを認めて戦争に協力する事を誓えば、こりゃ右翼になりますね、そんなに簡単に左翼から右翼になれるんですか」
「右翼になった方が、戦争をしている以上便利なんだろうね」
「すると便乗ですね」
「まア、そんなところだ」
「じゃ、左翼も左翼はなやかなりし時代には、便乗だったんですか」
 と、信吉はからんで行った。
「いや、左翼は便乗じゃない。とにかく情熱はあったからね」
「しかし、情熱なら右翼の阿呆共も負けずに持っていますよ。情熱というより狂熱ですね」
 そう言っているうちに、信吉の頭に、喋っている考え――というより言葉から、ふと思いがけぬ考えが発展して流れて来た。
「――つまり情熱なんですね。左翼の連中が右翼にやすやすと転向したり、大政翼賛会の中に左翼くずれがうじゃうじゃといてしきりに右翼ぶっているのは、左翼と右翼に共通した情熱があるからではないでしょうか」
 信吉は田村の演出している時局劇が、ふと左翼劇と同じようなアジ的雰囲気を持っていることを、想い出した。左翼劇の特徴だった呶号的エロキューションや、集団的演出法が、そのまま時局劇に採り入れられて、しかもそれが、その限りでは少しも不自然ではない。
 これは一体どうしたことだろうと、考えて、信吉は次の結論に達した。
「――左翼と右翼は、結局正反対ですが、二つの極端というものは、どこかで一致点があるのですね。だから、旧左翼の連中なんか右翼に転向して、たとえば翼賛会の仕事をしていると、昔やっていた組織を作るという運動が、そのまま翼賛会でやれるという点に、案外張り合いを感じてるんじゃないですか。いわば、思想の内容なんか問題じゃないんですね。自分の仕事の型さえ似てりゃ、それでいいのじゃないですか。型というより感覚ですね。つまり、思想よりも感覚……」
「まア、そんな見方もあるでしょうね」
 と、田村はくわえていた煙草を、口からはなさず、眼鏡の奥で微笑していた。
「すると、思想なんて、随分心細いもんですね」
 思想とか体系とかというものへ、消極的な不信を抱いていた信吉は、何とかして、思想をやっつけたくて、ならなかった。
「いや、思想が心細いんじゃない。思想を抱いている人間が心細いんだよ」
 田村はやはり信吉より大人だった。
「なるほど。じゃ、思想を持てない人間っていうのは、どうです」
「あなたは、思想を持てないと言うんでしょう」
「そうです」
 信吉は昂然として言った。
「しかし、デカダンスだって、立派な思想だからね」
 田村は信吉のデカダンスを、もう見抜いていた。
「そうですよ。デカダンスは高級ですよ。日本の芸術なんか、まだデカダンスの域にまで達していないんですからね」
 信吉は得々として言った。すると、田村は急ににやりと笑って、
「しかし、デカダンス思想って奴は、往々にして自分の行動の自己弁解になり易いんでね。真のデカダンスになるってことは、実にむずかしいことだよ」
 と、言った。
 信吉はあっと思った。隙を突かれたと思った。転向者の心理について、食って掛るつもりが、逆に田村にすかされてしまったような気がした。
 信吉はあわてて、
「…………」
 何か言おうとして、言葉を探しかけたがその時、芝居の幕があいたので、舞台の方を見た。そして、
「日本人って議論が好きですね。おせっかいですね。ひとのことなんか、どうだっていいのにね……」
 と、ひとりごとのように言いながら、自分の書いた芝居を見物した。
 一幕目は全然受けなかった。が、追加された二幕目のラヴシーンは、最近この種のものに客が餓えていたせいか、観客席の反響は、意外なくらいだった。
 科白もまずいし、第一、全体の劇の進行とまるで関係のない、この幕が受けているのは、信吉には心外だった筈だ。
 ところが、信吉はその反響を感じているうちに、それが自分の知らぬ間に誰かの手で加筆追加された幕だということを、ふと忘れてしまうくらい、だらしなくやに下り、その幕の成功がそのまま自分の成功だと錯覚してしまった。
 これは一体何であろう。
 ラヴシーンだというせいではなかったろうか。歯の浮くような、甘ったるいラヴシーンで、凡そくだらない一幕だった上に、現代劇だというのに、新内流しの下座がはいっていて、いつもの信吉なら、そのチグハグさに腹を立てるか、噴き出した筈だ。ところが、今、信吉は観客と一緒に、いや観客以上に、新内流しのメロディにうっとりとしてしまったのだ。おかしい。
「芝居ってやつは、不思議なものだ。いや音楽ってやつは不思議なものだ。こんな凡そ非芸術的なこんな、成っちゃいない芝居が、音楽効果があるだけで、どうしておれを、こんなに陶酔させるんだろう。おまけに、音楽自身、そんなに高級な音楽というわけじゃない。たかが新内じゃないか。――批評家はこの幕をこき下すだろう。おれだって、無論いいと思ってるわけじゃない。しかし、とにかくおれを陶酔させるのだ。こりゃ一体……」
 どうしたことだろうと、考えたが、信吉には判らなかった。
 ところが、次の幕で冴子が端役で出て来たのを見た時、信吉ははっと胸をあつくして、思いがけぬなつかしさにしびれてしまった。
「おれは冴子に惚れているのだろうか」
 この発見は信吉を驚かせた。
「――まさか」
 と、打ち消してみたものの、舞台の上の冴子を見ている自分の眼が、昨日の単なる好奇的な眼と違った燃え方をしていることは、もう否定できなかった。
 冴子は田舎娘に扮して、絣の着物の裾から白い脛を出していた。実に類型的な田舎娘の扮装だったが、冴子はどうみても田舎娘になり切れなかった。眼が理智的に冴えすぎているのだ。
 台本には指定されていなかったが、冴子はその娘が風邪を引いているという新工夫を凝らして、舞台に出て無言でいる間、ゴホンゴホンと咳をしていた。が、それは女学生がエスに慰められようとして、わざと風邪を引いている真似をしている風にしか、見えなかった。
 熱心だが、下手なのだ。エスプリはあるが、女優としての才能はないのだ。
 しかし、それが信吉には魅力があった。ふと、いじらしかった。
「こんなに魅力のある女だったのか」
 と、信吉は何かうろたえてしまった。
 仕事を持っている女は(男もそうだが)その仕事をしている時が一番美しい。バスガールはバスに乗っている時が、一番美しいのだ。女給は酒場の外で会うと、興冷めしてしまう。踊っていないダンサーはまるで魅力がない。女優は舞台で見ている時が一番いいのだ。楽屋へ女優を訪問する男は女優の魅力の何たるかを知らない。馬鹿な取り巻き連中のすることだ。
 そういう意味で、信吉が今、冴子に思いがけぬ新しい魅力を感じたのは、初日の舞台で女優としての冴子をはじめてみたからだ――と、読者は思うかも知れないが、しかし、信吉はその時、昨日の総稽古で楽屋浴衣を着ていた冴子の姿と、稽古が終って雨の中をわびしく帰って行く姿と、颯爽と大きな帽子をかぶって、第一ホテルへやって来た姿を、同時に想い出していた。
 一人の女を見ながら、その女のさまざまな環境での姿を同時に想い出している――これはもう、その女にのっぴきならない愛情を感じている証拠でなくて何であろう。
「――惚れたかな」
 信吉はもう一度呟いた咄嗟に、さっきのラブシーンの一幕に――というより、新内流しの情緒に、あれほどだらしなく陶酔して、われを忘れたのは、冴子へのなつかしさがひそかに心の底にあったせいだろうと判った。
 が苦笑しなかった。
 むしろ、抒情的な音楽を聴いたあとのような甘い後味が残り、唇の間からちょっと舌を覗かせて、照れ症らしく天井や壁をにやにや見ながら話をする冴子の癖がもはや何ものにもかえがたいもののように思われるのだった。
「――惚れた。たしかに惚れた」
 そう何度も呟きながら、しかし信吉は、ただ惚れているような気がしているだけだということは暫く気がつかなかった。
 いいかえれば、自分がこんなに冴子に惹きつけられているのは、冴子の唇にすらまだ触れていないためだ――ということに気がつかなかった。
 信吉が今日の昼間口づけをしなかったのは、情熱のない行為は唐突であってはいけない。
 と、思っていたからだ。
 冴子には、情熱はなかったのだ。
 今も情熱は……、あると言いきれるだろうか。
 恋愛とは、自分を見失うまでの情熱の行為だが、果して信吉は自分を見失うまでに女に惚れることが出来るだろうか。いやそんな男が現代の青年の中にあるだろうか。
 しかも、男は音楽を聴いていると、
「惚れた」
 と、思いたがる。自分に言いきかせたがる。相手にも言いたがる。
 悲しむべき現代人の病気だ。しかし、病気に罹ったものだけが、本当の健康に憧れることが出来るのだ。
 夜光虫の光に親しんだものだけが、太陽の光線に憧れるのだ。夜を経なくっちゃ、太陽が登らないのだ。
 信吉だって、だから、自分を見失うまでの激しい情熱に憧れないとは、限らない。
 しかし、そんなことはどうでもよい。さし当って、明日もう一度冴子に会うことだ。
 その幕が閉ると、信吉はそわそわと、監事室の外の廊下へ出た。

第八章


奇怪なる新内語りと奈落で奇遇すること。
新内はデカダンス音楽であることについての軽薄なる論議。
コキユ……。

 信吉は冴子に会いに楽屋へ行こうとして花道のうしろについている扉をあけて、地下室への階段を降りて行った。
 そこから、奈落(と芝居関係者は言っている、つまり舞台の底だ)を通って楽屋へ行けるのだった。
 鈍い光の裸電燈がついている薄暗い、頭のつかえそうな奈落を歩いていると、
「やア、暫く」
 と、前方から来た男に声を掛けられた。
 信吉はぎょっとした。
 さっき、第一ホテルからこの劇場へ来る途中、電車の中で話しかけて来た得体の知れない中年男だった。
 電車の中でも、やはりこんな風に、
「やア、暫く」
 と、声を掛けられたのだと、信吉はその時のことを想い出して、気味が悪かった。
 その時、信吉は全然その男に見覚えがなかったから、黙っていたが、男は、
「いいところで会いましたね」
 と、いう。
「失礼ですが、あんたは……?」ときくと、
「あんたは……? あはは……。あんただなんて……」
 と、笑い出したのだった。
「…………」
「文久三年に品川沖であんたという名前の鯨がとれたことがある。あんたという名前ですよ。あはは……」
 笑っていたが、急に真面目な顔になると、
「――どこまで……?」
「東京劇場まで……」
「じゃ、あたしと同じだ。ご一緒に参りましょう」
「失礼ですが、どなたですか」
「名前は明かせない……」
「えっ……?」
「いや、名前は明かせないと言ってるんですよ」
「なぜ明かせないんですか」
「明かすと、あなたは土下座をしなくちゃならない」
「えっ……?」
 と、思わずきくと、男は急に笑い出したのだった。
 乗客はびっくりして、その男の方を見た。
 信吉は照れて起ち上ろうとすると、
「逃げるんですか」
 と、その男はいきなり信吉の腕を掴んだ。
 そしてそのまま、東京劇場まで一緒に来てしまったが、信吉はいきなり監事室へはいって、その男をまいたのだった。
 ところが、今こんなところで出会うとは……。だいいち、楽屋の方からやって来たのがおかしい。何者だろう。
 とにかく気味が悪かったので、(一つには気味が悪いのは、その男の顔色が病的に蒼白くて、何か病鬱陰惨だったので)信吉は、
「やア、よく会いますね」
 と、言いながら、すれ違って行こうとすると、
「逃げるんですか」
 電車の中と同じように、また腕を掴まれた。
 信吉はむっとする前に、苦笑してしまった。
「逃げやしませんよ」
「そうでしょう。あたしがあなたに金を貸しているわけでもないから」
 男はにやにやした。
「借りろと言っても、借りませんよ」
 信吉もすかさず応酬した。
「なるほど……」
 と、男はうなずいて、
「――しかし、貸せと言ったって、ありませんよ。金なんか」
「…………」
「金なんかありませんよ」
 男はいきなり信吉の顔を覗きこんで、荒んだ調子の声を出した。
「金のことなんかどうでもいい。とにかくその腕をはなしてくれませんか。急いでるんですから」
「楽屋へ何をしに行くんです。そんなに急いで……」
「女優に会いに行くんです」
 信吉は昂然と言った。
「なるほど、しかし、八時ですよ。忘れちゃ困りますよ」
「何が……ですか」
「八時、三三三号室!」
 ずばりと、香車で歩を払ってしまうような声だった。
「…………」
 えっ……とききかえす声も出なかった。
 信吉はぽかんとして、相手の顔を見つめながら、
「この男、どうして第一ホテルのロビイの新聞の暗号を知っているのだろう」
 と、腹の中で、芸もなくひそかに唸っていた。
「あなたは八時に行くんでしょう」
 男はひひひ……と、半泣きのような笑い声を立てた。
「まアね」
 信吉は第一ホテルを出しなに、伝言用紙に、

八時に必ずお伺い致します。
   四五三号室    須賀信吉
(われわれは軽佻か倦怠かの、どちらか一方に陥ることなくして、その一方をまぬがれることは出来ない)
三三三号室様

 と書いて、受付へことづけて置いたことを想い出しながら、言った。
 あんな気障な伝言をたのんで置いた以上行くよりほかに仕様があるまい。
「あなたは行かないんですか」
 信吉がそうきくと、男は急に笑い出した。
「あたし……が? あはは……。あたしがどうして行かなくっちゃならないんですか、冗談じゃない。あたしが行く……? あはは……。笑わせるよ」
 信吉はこいつ狂人じゃないかと思った。
「一体あんたはどなたですか」
「あたしですか」
「名前は明かせないとおっしゃいましたね」
「明かすと、土下座しなくちゃならない……? 冗談ですよ、ありゃ。なアに、明かしてもよござんす」
 そして、声をひそめると、男は、
「――二幕目でかげで新内を語ってた男がいるでしょう」
 と、にやりと笑った。
「じゃ、あなたが……」
 信吉は直感した。
「そうです。あたしが語ってたんですよ」
「そうですか、ちっとも知らなかったもんですから、つい……」
「いやア、――ところで新内はお好きですか」
「好きですね」
「どうして……?」
「新内って叫びですね。からだごと投げ出してしまうような芸術ですね。デカダンス音楽はもう新内に尽きますな」
 そう言うと、男はいきなり手を伸して、信吉の手を握った。
「そ、それですよ、あなたそれですよ、新内はデカダンスですよ。つまり、ブルースですな」
 男の眼は異様に輝いた。
 信吉はだらしなく、男の手を握りかえして、
「あんたはデカダンスが好きですか」
 と、きいた。
「いや、好ききらいの問題じゃないですな」
「なるほど、デカダンスにしかもうなりようがないっていうわけでしょう。こんな世の中ではね」
「世の中……?」
 と、男は軽蔑したようにきき返して、
「――いや、世の中なんて言葉はよしましょう。日本が戦争してようと、してまいと、そんなことはどうだっていいじゃありませんか」
「われわれがはじめた戦争じゃない――っていうわけ……?」
 信吉は、この奇怪な新内語りの奇怪な言葉にひどく興味をそそられて、思わず微笑していた。
「いや、そんなことを言っているのじゃない。つまりですな」
 男はちょっと口ごもったが、やがて思い切ったように、
「――問題はですね。女房に姦通させた男にはデカダンス以外の何が残されているかという点ですよ」
 えっ――と声をのんだ信吉の手を、男はいきなり掴んで、
「あの三三三号室の女は、あたしの何だと思います」
「まさか、あんたの奥さんじゃないでしょうね」
「ところが、残念ながら、あたしの女房なんです」
 次の幕があくのか、拍子木の音が二人のいる奈落の通路へ聴えて来た。

第九章


舞台の科白よりも地下室の無礼な話の方が異色あること。
堂々たるコキユについて。
蛇が長すぎるということ。

 舞台では次の幕がはじまったらしい。
 その幕は、異色があるという点で、信吉にはいくらか自信があった。
 しかし、その異色ある舞台も、丁度その下の地下室の通路で、奇妙な新内語りが信吉を相手に喋っている言葉の異色ぶりにくらべると、にわかに、月並みな、もっともらしい紋切型だと思われて、信吉は情けなかった。
「おれの書いたもっともらしい科白よりもこの男のもっともらしくない言葉の方が、はるかに芝居だ」
 信吉はそう思った。
 しかし、この国の人々はもっともらしい言葉や議論というものを好む傾向がある。当り前のことが好きなのだ。最大公約数的なものが好きなのだ。誰が考えても、誰が言っても、そうなるという標語的な結論に安心するという癖がある。ことに、狭義の道徳――例えば修身の教科書の精神に裏づけられた言葉を、自己保存の本能から、ある安心感をもって聴くことを好み、それ以外の奇矯に走った異色ある言葉には、一応眉をひそめるのである。
 だから、その新内語りの、良風美徳に反した異色ある言葉など、お上品なプチブル趣味にとっては、まさしくバイキン以上に嫌われ、おそれられるものなのである。
 いや、正気の沙汰とは思われないであろう。
 第一ホテルのロビイの新聞の暗号によって、毎日――例えば、昨日は午後三時、三五二号室で、今日は午後八時、三三三号室で、という風に――その暗号を読んだ男の誰でもいい、誰か一人を歓迎すべく待っているという謎の美人が、自分の女房で、しかもその女房はかつて姦通したことがある――などという言葉は、よしんばそれが冗談にせよ、人の前で口外してはならぬ言葉であろう。すくなくとも、常識ある人の口から出る言葉ではない。あまりに不道徳すぎる! しかし、信吉は猫でもなければ杓子でもなかったから、道徳家の耳に快よい言葉よりも、たとえ不道徳でも異色ある言葉の方に耳を傾けることを好んだ。
 だから、自作の舞台の続きを見ることよりも、その男の言葉に耳を傾けることの方に、逆説的な意義を感じた。
「どうです。そろそろ八時ですよ。あたしの女房に会いに行きたいとは思いませんか、けッ、けッ、けッ!」
 新内語りはひきつったような笑い方をした。
「いやに、推薦しますね。え、へ、へ、……」
 信吉も軽薄に笑って、
「――しかし、行く前に、一応予備知識を入れて置きたいですな」
 と、言うと、新内語りはにやりとやにだらけの歯を見せて、
「下手な芝居見物みたいに、幕のあく前に下手な筋書を読んで置きたいんですか」
「いや、なかなかどうして……。下手な筋書どころか、本物の芝居より、筋書の方が芝居になってるかも知れませんよ。すくなくとも、僕には興味がある」
「なるほど、外国の芝居ではコキユが出て来るのが多いですな。コキユ……。知ってますか、そう、女房に姦通された哀れな男のことです。つまりあたしのことですね。けッ、けッ、けッ!」
「一体、誰があなたをコキユにしたんですか」
 と、信吉はきいた。
「蜂谷重吉!」
 新内語りはまるで親友の名を口にするような調子で言った。
「ご存知でしょう……?」
「ええ」
 知っているどころではない。
 蜂谷重吉とは昼間、ホテルのロビイで会ったばかしだ。新聞の暗号を教えてくれた男! そして、自分の死亡広告を自分で新聞に出している男?
 こんな奇妙な男の名は、忘れようとしても忘れられるものではない。
 しかし、その男の名を! 今この東京劇場の地下室で聴こうとは……?
「驚いたでしょう」
 新内語りは低い声で言って、なめるように信吉の顔を見た。
「驚きました」
 信吉は一応そう答えたが、しかし、もうこの男が何を言おうと驚かないぞ――と、自分に言いきかせていた。
「あはは……。驚きましたか。あはは……」
 新内語りは急に笑い出した。
 信吉はむっとした。驚いたでしょうと言って置いて、驚いたと答えると、軽蔑したように笑う――その態度は無礼だと思った。
「いや、ものを書く人間は、どんな目立たぬことにも一応驚くナイーヴな感受性を持っていますがね。しかし、どんな破天荒なことにも驚かない図太さも同時に持っているわけですよ」
「そりゃ、どういう意味ですか」
 と、新内語りはきいた。
「つまり、例えばですね。女というものはたいてい結婚の初夜には、見合いの席以外に顔を見たことのない男に、体を許しますね。好きでもないのに。これは実に驚くべき女の受動性ですよ。こういう女特有の神経はものを書く人間にとっては驚異です。いや、ものを書く人間だけじゃない。観念の眼鏡で見ずに、感受性の肉眼でじかに触れてみれば、誰でもこの事実に驚きますよ」
 いつか信吉は雄弁になっていた。
「――結婚式は目出度いと世間の常識は言いますね。しかし、花嫁がよほど好色的でない限り、つまり処女の場合、例外なしに殆んど気絶状態になって夫に体を許すという儀式が、何が目出度いんでしょう。むしろ悲しい儀式です。僕はすべての女が一応――一様にではありません、一応です、いや、一様に一応ですね――このように悲しい運命を背負って生れて来るという太古よりの事実に、驚くのです」
 新内語りのどろんと濁った眼は、なぜか暗い翳をいらいらとたたえていた。
 信吉は言葉をつづけた。
「――しかし、そのような女が、やがて日がたつと、突如として他動性を発揮して、夫のほかに男をこしらえて、その男に身を任す、進んで身を任すという事実には、もう驚きません。――人間ってやつは、どんなことでもしますからね。しかし、どうせ人間の智慧はみな似たり寄ったりですよ。つまり人間のすることには限度がある。気が狂っても、べつに新しい狂い方をしない。ちゃんと、狂い方の限度――というか、型の中で狂っていますよ。まして、正気の人間のすることぐらい、たかが知れている。どんな想像も出来ないようなことをしても、煎じつめれば、どんな人間の中にもひそんでいる慾望が、人間の智慧の思いつく範囲内での形をとったに過ぎないんですからね。新しい病気が発見されるほど、新しい行為というものは生み出せない。だから、驚くに当らない」
 信吉はちょっと矛盾していた。
 彼は異色とか風変りとか型破りというものに、価値を認めていた。しかしこの議論によれば、人間のすることは結局大同小異五十歩百歩の紋切型で、赤、黄、青、紫、黒、白などの原色とその組み合わせがあるだけで、異色などというものはあり得ないということになる。
 しかし、議論というものは、つねに誇張された一般論になり易いもので、おまけに何らかの意味で一元論的傾向に陥り易い。複雑を複雑のまま語ることは、議論ではむずかしいのだ。
 言葉のむなしさであろう。『人間はどんなことでもする。だから、僕は人間がどんなことをしても驚かない』と、信吉は言ったが、しかし、それは単なる覚悟に過ぎない。覚悟だから、その言葉通りには参らない。
 例えば、その舌の根の乾かぬうちに、新内語りの話をきいて、さすがに信吉は舌を巻いて、驚いたのだ。
 新内語りは次のように言ったのである。
「ちょっと、あたしにも喋らせて下さい。いや、べつに大した異論があるわけじゃない。何もかもあんたのおっしゃる通りだ。実際、人間ってやつは、――いや、女といいましょう、女というやつは、どんなことでもする。いちいち驚いていた日には、きりがない。察するところ、あんたは、人間というものは結局こんなものだと、諦めてらっしゃるらしいが、あたしだってご同様女というものは結局あんなものだと、諦めているんですよ。しかし……」
 新内語りの声は、ごうごうと皺枯れていたが、熱を帯びて来るにつれて、錆びのあるハリが次第に高まっていた。
「――しかし……」
 と、新内語りはつづけた。
「――この諦めに達するまでには、あたしは随分苦しみましたよ。人並みにね。――あんたは、女が亭主のほかに男をこしらえても驚かないと言いましたね。しかし、あんたは奥さんに姦通されたことがありますか」
「人に吹聴するほどは、ありません。しかし嫉妬の感情は判ります」
 信吉は正式の結婚はしなかったが、女と同棲した経験はあった。その女は信吉と同棲する前に、何人かの男があった。おまけに、信吉と同棲中、他の男と関係した。信吉は嫉妬で苦しんだ。が、その女は半年ほど前に死んだ。死んでしまうと、女の美しいところばかりが想出として残った。女の写真と戒名と、そして美しい想出――それだけで女を想い出していると、もうその女が何人もの男の手垢に触れた女だとは、思えず、嫉妬の感情も何か遠い想いに薄らいでしまっている。が、やはり、人一倍嫉妬の苦しみは判るのだった。
「嫉妬が判る……?」
 と、新内語りは眼を輝かせた。
「――じゃ、あたしが女房に姦通された時どれだけ苦しんだか、少しは判って貰えるわけですな。――女房の相手は、さっき言った蜂谷重吉という男ですが、こいつはあたしの中学時代からの親友で、一風変った男でしてね、もう四十を過ぎているのに、結婚しようとせず、いまだに独身で通してるんです。女遊びもしません。女なんかけがらわしくって――というのが口癖でしてね、まるっきり興味を持ってないんです。いや、世の中のことには何一つ興味を感じないらしいんで、あれでよく新聞記者がつとまる――実はあいつは新聞記者でしてね、ところが、あいつの書く記事と来たら、全部あいつがでっち上げたデマなんですよ。本当のことは一行も書きません。あいつは人をあっと言わせることにしか、生甲斐を感じていないんです。いつかあいつと競馬に行きましたがね、あいつの買った馬は、一票しか単式投票がなかったんですよ。つまり、あいつだけが買ったんで、むろんそんな変な馬は負けましたがね、あいつは、どうだ、あの馬を買ったのはおれだけだ、と言って喜んでましたよ。そんな奴なんです」
 新内語りは、自分をコキユにした親友のことを語るのが、いかにもたのしそうであったが、ふと眉をくもらせると、
「――ところが、突然あいつがあたしの女房と姦通したんです。あたしはその現場を見つけた時、まるで自分の眼を疑いましたよ。女房が姦通したという事実には、そんなに驚かなかったが、その相手が蜂谷だということは、げんにこの眼で見ながら、信じられなかった。人間というものは、あてにならないですね。いや、蜂谷もやっぱし人間だと思いましたね。あたしは二人を殺してしまおうと思った。が、思い直して、もっと残酷に二人をいじめてやろうと思って、考えついたのが、第一ホテルのロビイの新聞の暗号なんです」
「なるほど」
 信吉は大体判ったような顔をした。
「普通なら、殺すか、姦通罪として訴えるか、離縁するか、それとも、もう二度としませんと、女房に改心させて、蜂谷とは絶交する――まア、このうちの一つを選んだでしょうが、あたしは、女房に改心させる代りに、ますます姦通させることによって、女房と蜂谷を苦しめる――という方法を採りましたよ。え、へ、へ……」
「具体的に言うと……?」
「まず、女房は新聞の暗号によって、毎日誰か一人を相手に姦通しなければならない。蜂谷はその暗号を人に教える義務がある。もっとも、誰も女房の待っている部屋へ行かない時は、蜂谷が行かねばならない」
「なるほど、しかし、よく奥さんや蜂谷氏がそれを承諾しましたね」
「犯した罪の報いですよ。けッ、けッ、けッ……」
 新内語りはまたもや薄気味のわるい声で笑って、
「――そろそろ八時ですよ」
 と、再びだめを押した。
 信吉は脳味噌の中がかゆくなった。
 その新内語りを、何と形容すればいいのだろう。
「失礼なるコキユ!」
 と、いうべきか、それとも――
「堂々たるコキユ?」
 と、クロムランク(註。仏蘭西の劇作家「堂々たるコキユ」という戯曲の作者)の驥尾に附して形容すべきか。
 デカダンスもこれくらい徹底すれば、もう信吉も歯が立たなかった。
 信吉は咄嗟に、デカダンス失格を宣言する光栄に浴したいと、思った。
 信吉はふと、
「蛇。――あんまり長すぎる」
 というルナアルの「博物誌」の中の言葉を想い出した。
 なぜ、想い出したのか、判らない。が、とにかくその新内語りの言葉は、
「あんまり何々すぎる」例えば、異色があるにしても、あんまり異色がありすぎる。
「予備知識はもう充分でしょう。さア、どうぞ女房がお待ちしておりますよ」
「じゃ……」
 と、信吉は新内語りと別れて歩きだしたが、すぐその足で第一ホテルへ行こうとはしなかった。
 江口冴子の楽屋へ行かねばならない。

第十章


信吉が内気であるということ。
冴子の鏡台の横に聖書があったこと。
冴子が不幸の小石を蹴ること。

 楽屋口のエレヴェーターで三階まで上ると、信吉は一部屋、一部屋、俳優の名札を見上げて行った。
 江口冴子の部屋は右の奥にあった。
 江口冴子の部屋――といったが、しかし彼女ひとりで占領しているわけでなく、ほかに四五人の女優の名札が掛っていた。
 しかし、その女優たちは舞台へ出ているのか、暖簾をあげて覗くと、鏡台――といっても、棚の上にのせられるような小型の鏡だが――の前に、冴子ひとり田舎娘の扮装のまましょぼんと坐ってるだけだった。
「あら」
 と、振り向いた。
「はいってもいいですか」
 冴子ひとりだと思うと、信吉の声はいそいそと弾んだ。
「どうぞ」
 信吉は立ったまま、手を使わずに靴をぬいだ。何かソワソワと慌てている恰好だったが、しかし、靴をぬぐと、すぐには冴子の傍へ行きかねた。
 それほど内気なところがあった。
「どうぞ。お敷きになって――」
 冴子は自分が敷いていた赤い座蒲団を裏返して、信吉の前に出したが、しかし、その上にどっかりと坐るほど、信吉はまだ楽屋馴れしていなかった。
「はア、ありがとう」
 おかしいほど丁寧に頭を下げて、モジモジした。
 大部屋の女優に対する劇作家の態度にしては、一寸軽軽しすぎるくらい、丁寧だった。
 この丁寧さは、インテリ階級のキメの細かさかも知れない。もっとも、インテリというやつは、へんに行儀がよいと思っていると、突如として不作法になる。いわば、学生の行儀のよさと同じように、しっくりと身についた行儀のよさではなかった。一つには、女優の楽屋訪問といううれしがりのすることを、今おれもしているのだという意識が、信吉に負目を感じさせているのかも知れなかった。
 だから、冴子と視線を合わせることすら出来ず、何となく部屋の中を見廻していた物珍らしそうな眼付きだと思われるのは心外だったが、しかし、そうでもしなければ間がもてなかった。
 もっとも、少しは意識的に、わざとそうしているところもあった。冴子の顔を直視しないのも冴子への興味をなるべく見すかされたくないためだったかも知れない。
 これは、狡いというべきか、それとも、本当に照れているのか。
 壁に冴子の洋服が掛っていた。そして、ツバの広い帽子!
 信吉は途端に昼間のことを想い出した。

 冴子はその服装でホテルへ来た。そして帰りがけ、信吉は冴子の肩に手をのせた。冴子はじっとしていた。
「僕が悪い男に見える……?」
「どうして……? いいひとよ。あなたは……」
「いいひとだって……?」
 信吉は笑って、
「じゃ、ベーゼするのはよした。いい子になろう」
 と、肩にのせていた手をはなした。
「ベーゼしないことがいい子なの……?」
「そうだ。つまり僕は女たらしだからね。やはり、しちゃ悪いよ」
「女たらしに見えないわ」
「じゃ、僕がベーゼしたらどうする……? 撲るかね」
「こんな話よしましょう」
「よそう」
 と、信吉はわざと大きな声で言って、ドアをあけた。

 昼間はそれほど大胆にふるまっていた信吉が、今はなぜこんなにソワソワと内気なのだろう。
 いや、露悪家を装い、デカダンスをふりまわしても、結局は内気だったのだ。大胆にふるまったわけではない。見せかけはそうでも、しかし、肩に手をのせただけで冴子を帰したのは、やはり内気だったからだ、いい子になろうとしていたとも言えるが、しかし、肩にのせた手をすぐはなしてしまい、ぐいと引き寄せる切っ掛けを、ついに作れなかったというのは、インテリらしい気の弱さだろう。
 切っ掛けさえあれば、平気で悪い子にもなれるのだ。悪い子になっても、いい子に見せようとは一応するだろうが、しかし、相手によっては、大していい子ぶりのキメの細かさを見せないこともある。例えば、伊都子との場合!
 しかし、冴子との場合は、そうはいかない。
 伊都子と冴子と、どう違うのか。
 どちらも同じ女だ。同じく人間として生れて来て、どちらも娘だ。(恐らく冴子も娘だろう)
 その人格は平等に扱われねばならない。信吉にとっては、ブルジョワの娘も、長屋の娘も、いや、娼婦もたいした変りはない筈だった。
 それだのに、信吉は伊都子を相手の場合と冴子を相手の場合とでは、確かに自分自身を演出する調子を変えているのである。
 相手役によって演技を変えて行く名優のような巧妙さだと、言ってしまえば、話は早判りするが、しかし、オドオドする態度は意識的には演じられても、われにもあらず、ぽうっと顔を赧くするのは、いかな名優にも出来ない芸だった。
 しかも、信吉にとって、女の前で赧くなることほど辛いものはない。屈辱すら感じている。
 その信吉が、冴子の前で今ぽうっと赧くなっているとは、何としたことであろう。
 問題は、伊都子と冴子と、どちらがすぐれているかという点にはない。
 どちらに惚れているかという点だ。
 はっきり言えば、どちらにも惚れていない。が、しかし、冴子に「惚れているような気がしている」ことだけは、たしかだった。
 だから、たとえば、冴子の鏡台の横にある聖書を見ると、信吉はうろたえたのである。
 信吉の缺点は、時に物事を誇張して考えるということだ。
 聖書を置いているところを見ると、ピューリタンかも知れないと思うのだ。ピューリタンの血を、デカダンスの血で汚してはならないという自責と、ピューリタンだとすれば、案外固くて、うかつに口説けないという打算だった。
「あなたはクリスチャン……?」
 と、信吉はきいた。
「いいえ。これ」
 冴子は聖書を指して、
「――お友達に借りましたの。面白いから読んでごらんと言って、貸してくれたの。ほかに読むものがないから、読んでますの」
 信吉の眼は輝いた。冴子がクリスチャンでなかったことを知ったからではない。冴子の言葉が、途端に切っ掛けを与えてくれたからだ。
 信吉はすかさず言った。
「何か本を貸してあげようか。『クレーヴの奥方』は読んだ……?」
「ええ」
「じゃ、スタンダールは?」
「まだ……」
「スタンダールを読まないのは、けしからん。『赤と黒』だけでも読むべきだね。読まないと一生の損になるという本は、そうざらにはないが『赤と黒』だけは、読む前と読んだ後とで、人生観がころりと変ってしまうね」
 信吉はもう照れていなかった。ペラペラと薄い唇を動かしていた。
「今、お持ちですの……?」
「いや、ホテルにあります。あした持って来てあげようか」
 本当はホテルへ取りに来いと言いたかった。ホテルへもう一度誘うためにわざわざ冴子の部屋まで来たのだから……。
「でも、お忙しいんでしょう。あたしがホテルへ拝借に伺いますわ」
「いつ……?」
 信吉はわざと渋い顔をして、渋い声を出した。
「いつって……。四五日うちにでも……」
「だって、僕は明後日の朝、大阪へ帰っちゃうんです」
「じゃ、明日お伺いしますわ」
「何時頃……」
「…………」
 冴子はちょっと考えた。信吉はすぐかぶせるように、
「今日と同じ時間だったらいいでしょう……?」
正午おひる……?」
「そう。それより早いと僕はまだ寝ているし、それより遅いと、二時に出掛けなくちゃならないし……」
 昼まで寝るというのは、嘘ではなかったが、二時に出掛けるというのは出鱈目だった。
 なぜ、そんな咄嗟の嘘をついたのか。
 明日はそんなに引きとめないということをほのめかして、冴子に安心を与えようとしたのか、それとも、二時に出掛けるという嘘が、明日冴子と会っている時の信吉自身に、何かの切っ掛けか口実を与えてくれることに、期待を掛けたのか。
「ええ、じゃ、正午に伺いますわ」
 と、冴子は言った。
 信吉ははじめて冴子の顔をじっと見た。
 冴子の眼は青み勝ちに澄んでいた。信吉はふと新内語りの、どろんと濁った眼を想い出した。デカダンスの泥沼のようなその眼と、泉のように澄んだ冴子の眼!
 信吉は冴子に会いたくなったのが、その新内語りの新内を聴いたからだということを忘れて、泥沼の中から這い出した体を、いきなり泉の中へ投げ込みたいという衝動に、胸が温められた。
 信吉の眼は冴子と知り合った喜びに燃えて、炎のように冴子の可憐な顔をなめ廻していた。
 しかし、眼は燃えても、信吉の表情は全体になぜか冷かだった。火葬人夫のように冷酷だった。視線の炎は半分は火葬人夫が点じた火から出ているのかも知れない。
「ええ、じゃ、正午に伺いますわ」
 という冴子の言葉は、冴子の生涯の坂の上に横たわった不幸の小石を、自ら蹴ったようなものかも知れない。小石は転がり出すと、果てしがない。
 そして、そのことを一番よく知っているのは、むろん信吉だった。
 予定通り、冴子を再びホテルへ誘うことに成功して、冴子の楽屋を出た信吉の顔には、はや憂愁の表情が翳っていた。

第十一章


円い玉子も切り様で四角いこと。
再び伊都子が信吉の部屋へ来ること。
涙が苦手であること。
その前に煙草を吸うこと。

 予定通り、冴子を再びホテルへ誘うことに成功して、冴子の楽屋を出た信吉の顔には、はや憂愁の表情が翳っていた。
 ――と、前章の終りで作者は書いたが、なぜ信吉の顔には、憂愁の表情が翳っていたのだろう。
 既にして、信吉という人物は、少しは魅力のある人物だが、要するに、
「私たちはあなたの人格を疑いますわ」
 という女性の一般的輿論の攻撃の的になるような人物であることは、明白である。人格的に落第点だ。社会から抹殺してもいい人物だ。歯牙にかけるに足らぬ男、いわば取るに足らぬ男だ。
 このような男が、これから誘惑しようとしている女優の楽屋から、その誘惑の第一手段に成功して出て来た時、どんな表情をしていようとそれが何だというのであろう。問題にするに足らぬ些細事ではないか。
 しかし、作者が敢てこの人物の心の動きや表情の翳を捉えるのは、そしてまた、物語のテンポを遅らせてまで、その描写や説明に多くの筆を使うのは実は現代の青年の中には、多かれ少かれ、好むと好まざるとにかかわらず、信吉という人物が棲んでいるからだ。すくなくとも現代の青年の多くは、信吉的要素を持っているのだ。
 信吉という人格的に落第にして、かつ非常に一風変った男には、読者は恐らく出会うことはあるまいけれど、しかし、信吉的な要素を持った男には、恐らく出会うにちがいない。あるいは、読者はその生涯のうちに、信吉的な要素を持った男と、多少のいや、もしかしたら、生涯か運命を託すような交渉を持たないとも限らない。
 そのような場合、例えば、
「この男は人格的にゼロだ。はじめはもっと純情だと思っていたが、すっかり幻滅した」
 と、失望したり、また、
「この男は宗教的な感情を少しも持っていないばかりか、人が生きて行く理想への努力というものを少しも払おうとしない、真実がない」
 と、一言の下で片づけてしまうのは容易だが、しかし、人間の交渉に缺くべからざる理解というものは、このような公式的批評からは生れて来ない。
 いかなる人間でも、一言で片づけようと思えば、片づくものだが、しかしまた、いかなる人間も、一言では片づかないものを持っている。
 人間を円にたとえてみれば、われわれはたいていの場合、この円を多角形に歪めて考えることが多い。多角形の辺を増せば円に近づくごとく、観念的な言葉の辺を増すことによって、その人間に迫ることが出来ると、一応考えられるが、しかし、多角形が円になるのは幾何学の夢に過ぎない。円い玉子も切りようで四角いとはいうもののやはり切れ端が残るのである。われわれが一人の人間に下したいかなる解釈も、あたかもすべての多角形が円の中にすっぽりとはまるように、その人間に当てはまるのだが、しかし、円はつねに多角形より面積が広いのである。いわば、切れッ端だけ、広いのだ。
 たとえば冴子の楽屋を出た時、信吉の顔に翳った憂愁の表情も、この切れッ端なのだ。
 だから、この表情のニュアンスを知ることは、信吉あるいは信吉的要素を持った現代の青年を理解するのに、必要缺くべからざるアプリオリとも、言えば言えるのである。
 では、信吉のその表情は、そもそも何に原因するのか、そして何を意味するのか。
 観念的に言えば、それは信吉の良心の苛責ということになるだろうが、しかし、……、いや思えば作者はいくらか先廻りし過ぎた。信吉のその表情の意味は、冴子が明日信吉のホテルへ訪ねて来てから説明した方が、もっとはっきりするのではなかろうか。――先を急ごう。
 舞台では、まだ信吉の書いた芝居がつづいていた。最後の幕には、もう一度冴子が出る。
 しかし、信吉はもう客席や監事部屋へ行って、芝居を見ようという気はなかった。冴子の楽屋を出ると、すぐ劇場を飛び出した。
 頭取部屋の時計は、八時を過ぎていた。
「午後八時、三三三号室!」
 到頭おくれてしまった。だから、急いで帰っても仕方がなかったが、木挽町で空のタクシーを拾うと、真っ直ぐ第一ホテルへ帰った。
 ロビイの受付で、鍵を貰う時、
「三百三十三号室への伝信、渡してくれた……?」
 と、きくと、たしかにお部屋へ届けましたという返辞だった。信吉はがっかりした。
「八時には必ずお伺いします」
 という伝言だった。昼間、ホテルを出る時書いて、受付へ渡しておいたのである。
 なぜ、そんな伝言を書いたのか――と、信吉は後悔した。だいいち、きざっぽいし、それに、そんな伝言を渡して置きながら、八時におくれてしまった。気の弱い信吉は一方的な約束にせよ、それを破ってしまったということが、一寸気になった。
 女を平気で誘惑するくせに、この律義さは一体どうしたことであろうか。
 三三三号室を八時に訪問するしないは、信吉の自由だった。いや、好奇心は無論あったにせよ、はっきり新内語りの細君で、しかも蜂谷重吉の情婦だと判った女の部屋へ押しかけることは、もはや神経的に出来なかった。が、約束は約束だ。
「部屋へ戻って、三三三号室へ電話してみょう[#「みょう」はママ]
 信吉はエレヴェーターに乗りながら、ふとそう思った。
 四階の自分の部屋へ戻ると、信吉は例によって、まず煙草に火をつけた。そして煙を吐き出しながら、三三三号室に電話のベルが鳴った時のことを想像すると、思いがけなく、いやらしい想像をそそられた。
 三三三号室には無論女がいる。新内語りの細君が。……そして、もう一人男が……。その男は新聞の暗号を読んで出掛けた未知の男か。それとも、信吉も、そして誰も行かなかったので、掟通り、情夫の蜂谷重吉がいるのだろうか。
 約束を破ったことを一応謝罪するつもりで、掛けようとする電話が、俄かに恥かしい好奇心に満ちたものになってしまった。
「ホテルというやつは、へんに情慾的に出来てやがる」
 と、苦笑した途端に、信吉はいきなり伊都子を想い出した。冴子は頭に泛ばなかった。
 信吉は短くなった煙草の火を、新しい煙草に移して、いわゆる「鎖りのみ」をしながら、受話機を外そうとした。
 その時、ドアをノックする音が聞えた。
 そっと遠慮がちに敲いている。
「誰だろう……?」
 と思いながら、あけると、いきなり飛び込んで来た女――伊都子だった。
「あッ!」
 今朝、伯父や許嫁と一緒に東京を発って行った筈の伊都子が、今時分どうして自分を訪ねて来たのだろう――と、考える暇もなく、伊都子はいきなり両手を拡げて、信吉の胸にしがみついて来た。
「会いたかった。会いたかったわ」
 そう叫びながら、伊都子はもの狂わしく信吉の唇をもとめて来た。
 伊都子の口はしおからかった。信吉は煙草の火を消すために、伊都子からはなれた途端に、伊都子の頬が涙に濡れているのが判った。大粒の涙がポタポタ落ちていた。それが、唇に伝わり、しおからいと感じたのは、涙だったのかもしれない。それとも汗の味だろうか。伊都子は汗かきだった。
 まるで、わざとのような偶然だった。――伊都子のことを想い出した途端に、伊都子がはいって来たのだ。そしてまた、電話を掛けようとした途端に伊都子がノックしたのだ。
 昨夜伊都子が信吉の部屋をノックしたのも、信吉が電話を掛けようとしていた時だった。
 このような偶然は信吉の好みであった。それに、朝ロビイで別れたきり二度と会えない筈の伊都子が、いきなり現われたという不意打ちも、信吉を喜ばせた。
 しかし、涙は苦手だった。泣かれると、信吉は狼狽するのだった。自責かも知れない。信吉は、これまで随分女を苦悩させたことがある。信吉を好きになった女は、みな苦しんだ。が、しかし、女がその苦しみをかくして、うわべだけ快活にしている時は、その女が内心どれだけ苦しんでいると判っていても、信吉は案外平気に構えていた。ところが、ちょっとでも涙を見せられるとこの男ははじめて狼狽するのである。感覚的に迫って来なければ、何にも判らぬ男なのだ。いや、判っていても、判らぬふりをするのである。
 女はあわれなものだとは、判っている。が、それをピシャリと感ずるのは女が涙を見せた時なのだ。
 悲しいから泣く。しかし、泣けもしない時があるのだ。泣いている時は、女は案外自虐的な快感に身を委ねているのかも知れない。泣いている状態――いわば涙の生理というものを、たのしんでいることもあるのだ。しかし信吉はそこまで考えられない。怪我をした時、血が出たのを見て驚くようにうろたえるのだ。
「どうしたの……? なぜ泣くの……?」
 信吉は伊都子の顔を覗きこんで、なだめる姿勢になった。こんな時、信吉はおろおろと、自責の念に足をすくわれて、落ちつかない。が、ふとひそめた眉のあたりに、冷酷な翳が走っているのは、何であろう。女に泣かれている状態から、一秒でも早くのがれたいというエゴイズムなのだ。
「いいえ、何でもないの」
 と、伊都子の涙はすぐとまった。そして、
「――会えてうれしかったから、泣いたのよ。あたし、泣虫でしょう……? うふふ……。でも、うれし涙よ」
 信吉はほっとした。
 しかし、ほっとしたのは、伊都子が早く泣きやんでくれたからであった。うれし涙ときいたからではない。
 悲しくて泣いた涙でも、うれしくて出した涙でも、信吉にとっては変りはない。
「会えてうれしかったから、泣いたのよ……」
 と、言われれば、たいていの男はよろこぶだろう。が、信吉はかえって自責の辛さをチクチクと感ずるのだ――。
 これは一体何だろう……?
 純情、感動、美、真実――そういったものを、信吉は相手から感ずる。涙を見て感ずる。そして、信吉はあたかも美しい景色や、美しい画を前にしてそこから迫って来る感動に一種当惑を感ずるように、当惑するのである。信吉はその時自分の醜さに狼狽するのである。感動を強いる対象と感動しない自分、――その二つの間の距離に苛立つのである。孤独というやつだ。
 ベッドの端に、信吉と並んで掛けると、伊都子は言った。
「あたしは自分のしたいと思うことは、何でもしてみなくっちゃ、気が済まない性分なの。――汽車に乗ってると、無性にあなたに会いたくなったの。こんないやな男と結婚しなくちゃならないのかと、思って、許嫁の顔を見ていると、余計あなたに会いたくなったの。許嫁、すっかり旦那気取りなの。あなたのこと、嫉妬して、くどくどときくのよ。あたし、すっかり本当のこと話してやったのよ。怒ったわよ」
「そりゃ怒るだろう」
 と、信吉は軽薄に言った。
「でも、しまいには、過ぎ去ったことは仕方がない、僕は許します――と言ったわ。あたし、その言葉をきいて、むかッとしたの。許してなんかほしくないわ、だいいちまだ過ぎ去ってないわよ、これからあの方に会いに行きます――と、こう言って、静岡でひとりで降りてしまったの」
「で、東京へ引き返して来たの……?」
 と、信吉は判り切ったことを、きいた。
「ええ――」
 半泣きの顔でうなずいたが、すぐ媚をふくんだ眼で信吉の顔を覗きながら、
「――いけなかった……?」
「いや、いけなかないさ」
 と、信吉は煙草に火をつけようとして、マッチを擦った途端、そうだ、このマッチはあの女がくれたのだっけ――と、冴子のことを想い出した。
 明日冴子が来る。伊都子がいる。これは困ったことだと、信吉は眉をひそめた。何たるエゴイズム!
「いやな許嫁に処女を捧げるよりは……」
 と、昨日伊都子は信吉に身を任せた。知り合って――というより、はじめて会うて一時間のちには、もう信吉の胸に身を投げていた。これは恋とは言えぬだろう。許嫁気取りの男への反撥心と、好奇心がさせた火遊びに過ぎない。むろん、信吉を好いていた。だから、身を任せたのだが、はっきり恋をしていると自覚する余裕もなかったが、やはりもう一度会いたさに、途中で汽車を降りた。肉体のつながりが、伊都子にそうさせたのだろうと、信吉は女の生理があわれだった。恋ではないかも知れないが、しかし、これが恋だと言って、果して言い過ぎだろうか。この火遊び的な娘にも、それ相応の恋があるのだ。涙! 信吉には、それがふとあわれだった。
 しかし、伊都子をあわれむということと伊都子がいてくれては困るというエゴイズムとは、信吉のような男にとっては、大した矛盾ではないのだ。
 そして、更に驚くべきことには――
 あわれだと思い、そして、いてくれては困るという女の腋臭のにおいを嗅いだ途端信吉はいきなり醜い本能にかられたのだ。
 しかし、まず、もう一本煙草を吸った。
「あ、待って」
 伊都子がピンを気にして、そう言ったからである。

第十二章


スタンドの灯を消さなかったこと。
みごとな登場人物!
受付の女の電話の声に魅力を感ずること。
よせばいいのに!

 夜が更けていた。
 信吉がスタンドの灯を消そうとすると、
「消さないで!」
 と伊都子は命令するように言った。
 信吉はひとから命令されることが、きらいだった。しかし、
「あなたの顔を見ていたいの。だって、もう見られないかも知れないんですもの」
 という伊都子の言葉には、さすがに胸をつかれた。
「どうして……?」
「だって、明日の朝、あたしやっぱり帰るわ。だから……」
「帰りたい……?」
「帰りたくないわ。それに、帰れないわ。許嫁なんか怒ったって、構わないけど、伯父さんを怒らせてしまったんだもの。でも帰るより仕方がないわ」
「僕と一緒に大阪へ行きたいとは思わないの……?」
「そりゃ、思うわ。行きたいわ。一生、あなたと会っていたいわ。一緒に居りたいわ」
 と伊都子は畳みかけるように言ったがふと声を落すと、
「でも、あたし押し掛け女房になりたくないわ」
「僕が来いと言わないから……?」
「ええ」
 と、伊都子はさすがに諦めていた。
「言ったら来る……?」
「だって、あなたは、言うような人じゃないわ」
 くすんと笑ったが、半泣きの顔だった。ソバカスが目立っていた。
「――そりゃ、こんな風になったんだもの、普通の娘なら、一応結婚してくれといいますわ。当然の権利として主張しますわ。ちゃっかりした娘なら、ただでは済まさないわね。女にとって大切なものを失ったのだから、そのつぐないをしてくれと、要求しますわね。でも、そんな要求をしたり、権利を主張したりしている間は、女はいつまでたっても、男と対等にはなれないわ。かえって自分で自分をみじめにしてるようなものじゃない……? 大切なものを失ったなんて言ってあわてているのは、一層みじめだわ。あたし、みじめになりたくないんですの。もちろん、後悔なんかしませんわ。――あたし、どうせだれかと結婚するかも知れないけれど、そのひとのために処女のままでいなければならないなんて、自分を男の奴隷にしているようなものだと、思うわ。でも、これは自分の気持だけの問題だわ。世間や男のために、きれいでおりたいとは思いたくないわ。自分が好きで汚したことだから後悔しないわ。いいえ、あたしは汚れていないわ。あたしは自由よ。もっと顔を見せて頂戴!」
 翌朝、伊都子は信吉の部屋を去って行った。
 信吉は負けたと思った。何かスカされたような想いだった。
 伊都子は、信吉の自責も悔恨も同情も困惑も、すべて一人芝居に終らせてさっと退場して行ったのだ。
 みごとな登場人物!
「やられた!」
 と、呟きながら、しかし、信吉は、伊都子が寝不足の眼で、九州までの長距離を汽車に揺られている姿を、想った。伊都子は昨夜信吉のところへ来る前に、既に東京駅で今朝の切符を買って置いたのだ。
 伊都子は新しい女だ。普通の女よりはあわれさはすくない。しかし、新しければ新しいなりに、汽車の旅の長さの底をよぎるわびしさはあろう。
 その表情を、信吉は想いやった。どんな人の顔にもふと泛ぶ、生きて行くわびしさの表情かも知れない。
 やがて、信吉はぐっすり眠りに落ちてしまった。阿呆のように眠ってしまった。
 どれだけ眠った頃だろうか、電話のベルの音で眼をさました。
 ベッドから受話機までは、手が届かなかった。信吉はうるさそうに、ベッドから這い出すと、
「もし、もし……」
「須賀さんでいらっしゃいますか」
 電話の声は美しかった。受付の女だろうか。
「はあ」
「只今、江口さんが御面会に来られましたが――」
「江口……?」
 と考えたが、ああ、冴子かとすぐ判った。
「今、何時ですか」
「只今、零時三十分でございます」
「ありがとう。すぐロビイへ行きますから」
 信吉は赧くなって、電話を切った。
 時間をきいたのは、必要があってきいたのではない。冴子が約束どおり来たということ、そして、ロビイに信吉が見当らぬので、受付へ立寄って、わざわざ部屋へ電話を掛けさせたことが、信吉には何かうれしかったのだ。だから「すぐロビイへ行きます」といそいそと言おうとしたが、何か照れた。きかなくてもいい時間をきいたのである。いわば、よろこびのリズムを中断させるような、科白を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入したというわけだった。厄介な男だ。
 顔を洗って、あわててエレヴェーターに乗り、受付へ行ったが、冴子はそこにはいなかった。
「須賀さんでいらっしゃいますか」
 と、受付の女が声を掛けた。その声に聴き覚えがある。電話の声だ。眼元のぱっちりした色の白い娘だった。あ、こんな清潔な娘が受付にいたのかと信吉は眼を見はった。
「はあ」
「御面会の方は、喫茶室にいらっしゃいます」
「ありがとう」
「いいえ」
 ちらと、受付の女と視線が合った。
 信吉はふっと、しびれるような、なつかしさを感じた――と言ったら、読者は驚くだろうか。
 顔を見るまでに、電話の声をきいていた――ということが、こんなになつかしい想いをさせるのだろうか。それとも「いいえ」という一言の響きの美しさに、はっとしたのだろうか。
 信吉は何か言葉を掛けたかった。
 が、ここで言葉を掛ければ、しびれるようなこのなつかしさは、消えてしまうかも知れない。
 女の美しさをいつまでも胸に抱いているには、その女と交渉を持たないことだ!
 信吉は喫茶室の方へ歩いて行った。これから交渉を持とうとしている冴子が待っている喫茶室へ……。よせばいいのに!

第十三章


大きなホテルが人を気障っぽくさせることについて。
信吉が念の入った欠伸をすること。
二流人の出会い!

 ホテルというところは、その大きさに比例して、あるいは人を情慾的にしあるいは人を気障っぽくさせるものだ。即ち、場末か裏街にある小さなホテルは、何か淫蕩的な雰囲気を漂わせているし、第一ホテルのような、まるで道路の延長のような感じの廊下を持った、でかいホテルは、人を気障っぽくさせるのである。
 ここでは、人は普通の歩き方をすることはむつかしいのだ。ある者は、書記官長のようにソワソワと歩き、あるものは女官のように歩く、あるものはポーターがいることだけで、もう城門をはいる人間のような優越感を感じてスクリーンの人間の歩き方のように、足が速くなる。あるものは温泉場の湯治客のように、わざと倦怠な歩き方をする。あるものは、ネクタイの結び目を気にしながら歩き、あるものは、わざとネクタイを外している。第一ホテルのような、二流のホテルでも、人は自分の家の畳の上を歩くような歩き方は出来ないのだ。
 しかし、そのようなことは、どうでもよいことだ。どうでもよいことが、信吉は冴子の待っているホテルの喫茶室へはいって行きながら「おや、おれは気取っているぞ」と思った。
 音楽が唄っておれば、もっと気取ったかも知れない。ダンスホールの玄関で帽子と綜合雑誌を預けた途端の男のように、気取ったかも知れない。もっとも、音楽は唄うことは唄っていた。しかし、それは軍歌であった。
(断って置くが、この小説は昭和二十年乃至二十一年の出来事を語っているのではない。昭和十七年八月の出来事なのだ。『夜の構図』という小説の作者が、第一ホテルを舞台に使っているのは、重大な手落ちだと言った人がいるが、この小説が終戦後の話ではないことは、第二章に書いて置いた筈だ。念のために断って置く)
 大して気取りはしなかったが、とにかく信吉は信吉なりに、気取っていることに気がついた。
 信吉はあわてて欠伸をした。
 犬も欠伸をする。まして人間が欠伸をしたからとて、不思議ではない。が犬には信吉のような欠伸は出来ないだろう。だからといって、信吉の欠伸が高級な欠伸だというわけではないが、すくなくとも、念が入っている。
 情熱はないが、しかし信吉は非常に退屈しているわけではなかった。だから、信吉の欠伸には気取っている状態へ、塗りつけたいやらしい絵具のような不自然さがあった。生理的ではなかった。ところが、途中で、昨夜の寝不足が自然に出て来た。そして、本格的な欠伸へ生理的に移りかけた時、信吉は満員の喫茶室の中で見知らぬ男と話している冴子を見つけた。信吉の欠伸は途端に停りそうになった。情熱が起ったのだ。――情熱――嫉妬だ! これは思いがけないことだ。信吉はこれまでこの子のことで嫉妬を感じたことはなかった。ところが今……。嫉妬は惚れていなくても、感ずるものかも知れない。例えば自尊心が嫉妬を呼び起す。しかし、嫉妬が起れば、人はもう惚れていないものをも、惚れていると思い込んでしまう。それほど激しい情熱だ。人間のもっている情熱の中で一番激しいものかも知れない。欠伸などたちまち停ってしまうのだ。が、信吉は停りかけた欠伸を、また続けたのだから、実に自尊心の強い男だといわねばならない。嫉妬を感じた自分に照れるために、そして、嫉妬を感じていることを、かくすためにも……。
 わざとらしい、いやな欠伸をしながら、信吉は冴子のテーブルへ近づいた。
 冴子は丁度上を向いて、にやにやしながら、首を動かしていた。例によって照れているのだ。これが冴子の魅力なのだ。その魅力を自分以外の人にも見せていることが信吉の欠伸を一層大きくした。
 冴子は傍の男を信吉に紹介した。
「東都新聞の薄井さん!」
 名刺には、演芸記者とあった。
「――ロビイでお会いしちゃったの。須賀さんに紹介してほしいとおっしゃったので……」
 喫茶室で信吉の出て来るのを待っていたらしかった。
 色の浅黒い、一見キリッとした美男子だが、容貌への自信が服や口元を濁らせている――といった感じの青年だった。
 信吉はこんな場合、神経質に気を使って愛想よくするか、むっとしているかの、どちらかだったが、薄井の自信たっぷりの容貌は、信吉に、後者の方を選ばせてしまった。
 信吉は煙草に火をつけた。薄井も自分のマッチで煙草に火をつけた。そして暫く黙黙として、自尊心と自尊心が衝突する火花を散らしていたが、やがて薄井は口を切った。
「今日の新聞見た――?」
「いえ、まだです」
 信吉は蜂谷重吉の顔を想い出した。
「批評出てるよ、君の芝居の……」
 薄井は三十前後だが、芝居関係の人間には敬語を用いたことはなかった。
「見なくてよかったですな」
 信吉は先手を打って置いた。
「まア、けなして置いたがね」
 薄井はにやりとした。
「ひどいわ。薄井さん。いい芝居じゃないの」
 信吉は冴子が自分の芝居をかばってくれたのを喜ぶ前に、薄井にそんな馴馴しい口を利いている冴子を不愉快に思った。
「しかし、あの芝居には人の心を打つものがない。真山青果の芝居は、とにかく人の心を打つからね。モラルがある」
「そうです。しかし、僕はモラルのない芝居を書こうとしているんです」
「なるほど、しかし、普遍的な人生や、偉大な思想は感じられないからね。君の芝居は……」
「普遍的な人生や、大きな思想を感ずる芝居とはどんな芝居ですか」
「外国のいい芝居はみんなそうだよ。例えば――」
 薄井は二三の片仮名の名前を挙げた。
 信吉は黙らざるを得なかった。が、いつまでも黙っているのは、芸がなさすぎると思ったので、
「そういう人達はみな天才ですよ。僕は天才じゃない。僕は、ただ二流劇作家なのです。逆立ちしたって、一流になれません。天才じゃないからです。しかし、天才は百年に一人しか現われません。僕が百年に一人しか生れない人間だからってそれが僕の責任でしょうか。日本には天才はいませんよ。みんな二流です。ただ、誰もおれは二流だとはっきり言う度胸を持っていないだけです。二流であることも自覚せず、何だか一流の真似をしているつもりだが、悲しいかな天才じゃない。二流だと自覚して、その限界で仕事している方が気が利いていますよ。文壇でも劇壇でも二流しかいない。批評家も二流です。二流だが、一流のものを読んでいるおかげで、自分を一流のように思い込んで、二流を一流でないという理由でこき下していて、そうして、こき下されたものが狼狽しているのが、日本の文壇、劇壇の現状ですね。そうじゃないんですか」
 信吉はお喋りではなかったが「権威」というものに挑戦する時は、思わず知らず調子づくのだった。
「権威」――あるいは「流行」といいかえてもいい。権威ある思想、神聖なる観念は流行する。猫も杓子もこれに追従するか、もしくはこれを楯に取る。個性がイデオロギーの中に埋没する。信吉は附和雷同しない自分の個性を守るために、敢て「神聖」に挑戦するのである。むろん、彼は一流文学の観念を信じている。しかし、その観念を説く人を信用しない。その人が一流でないという点を、あるいは滑稽に、あるいは不愉快にかぎつけるのだ。だから、敢て二流論を宣伝するのだが、しかし、こういう主張はつまはじきものであろう。しかも、無駄な努力である。賢くなろうという努力をしている――または賢くなろうという顔をしている阿呆に向って、お前は阿呆だから、賢くなろうとするなと説くのが、無駄なのと同じであろう。
 そんな無駄なお喋りを、信吉がペラペラと続けていたのは、実は薄井を本来の俗物の地位まで、自分と共にひきずり下したいという天邪鬼からであった。
「――それとも、あなたは自分自身を一流だと思いますか」
 喋りつづけて来た信吉は、最後にズバリとそう言った。随分意地の悪い言葉だが、しかし、その前に信吉は、自分は二流だという申告をしていたから脱税行為にはなっていなかった。
 だから、薄井もちょっと反駁のしようがなく、暫らく、乾燥バナナの中に毛虫を見つけたような顔になっていたが、
「じゃ、君なんか恋愛をしても、二流の恋愛しかしないんだね」
 そう言いながら、ちらと冴子の顔を見た。
 信吉は薄井が冴子を計算に入れて、議論を飛躍させたことに気がついた。
 薄井は、たまたまホテルの受付で冴子と出会い、冴子が信吉を訪ねて来たらしいと知った時、女優めずらしさの田舎の文学青年が、うぶな気持で冴子に接近したがっているのだろうぐらいに考えて、かつは邪魔をし、かつはからかってやる積りで、紹介してくれと頼んだのだが、今はこうして会って見ると、信吉という人間の、一見デカダンスのふてぶてしさを嗅ぎつけると、ふと脅威を感じた。だから、冴子の前で、信吉の恋愛に関するデカダンスを信吉の口からばくろさせてやろうと思ったのである。
「一流の恋愛とはどんな恋愛ですか」
「プラトニックに、お互いを向上させて行く恋愛だね。恋愛を人生の崇高な目的である人間完成にまで高めるために、精神的に結合させるのが、一流の恋愛だ」
「まア、僕にはむつかしいですな。せいぜい二流の恋愛しか出来ない」
「じゃ、君と恋愛する女は不幸だね。君は結局、その女を誘惑するだけなんだ。恋愛じゃない。遊戯だ」
 薄井はまた冴子の顔を見た。
「あなたがそう思うなら、そう思ってもいいですよ。あなたは一流恋愛の出来る人だから、大したものだ」
 信吉はわざと薄井のワナにひっ掛って行った。
「君は危険な人物だ!」
 薄井はそう言いながら立上った。そして冴子の肩をたたいて、
「――じゃ、また後で会おう。二流恋愛家に誘惑されるなよ」
「まア」
 薄井はうしろも見ずに、喫茶室を出て行った。
 信吉はむっとする前に、にやりと気味の悪い笑をうかべて、
「これで、もうこの女をものにすることがおれに与えられた課題になったぞ!」
 と呟いた。
 例によって、グリルで食事をすまして、
「『赤と黒』を取りに、部屋へ来る……?」
「…………」
「それとも、ここで待ってるなら、僕が取って来てもいいです」
「行きますわ!」
 冴子はハッキリ答えた。

第十四章


『赤と黒』の歪められた読み方について。
信吉がにせジュリアンとなること。
冴子が露悪家に見えたこと。
冴子の手に力が入った事。

 四五三号室――信吉の部屋。
 昨日の様に向い合って椅子に掛けると、信吉は時計を見た。
「一時三十分、あと三十分しかない」
 昨日信吉は冴子の楽屋で、
「正午より早いと、僕はまだ寝ているし、それより遅いと、二時に出掛けなくっちゃならないし……」
 と、言った。
 無論、二時に出掛けるというのは、出鱈目だった。然し、一旦そう言った以上、二時という時刻が一応区切になると、信吉は思った。
 信吉は岩波文庫の『赤と黒』の上下二冊を冴子に渡した。
「有難う」
 冴子は、はしがきを読みだした。
 信吉は何を思ったのか、急に、
「ちょっと、貸して下さい」
 冴子の手から再び受け取って、バラバラとめくった。九十五頁――探している個所はすぐ見つかった。
(十時が鳴る丁度その瞬間、今晩やるんだと、一日中心に誓ってきたことをやってのけよう。出来なけりゃ部屋へ駈け上って脳天をピストルで打貫くんだぞ!)
 あまり興奮してジュリアンが恥を忘れた様になった期待と焦燥の前後の一瞬の後に頭上の大時計に、十時が鳴りひびいた。運命を決する鐘の一打ち一打ちが、彼の胸の中に反響して肉体的なショックの如きものを感じさせた。
 遂に、十時の最後の一打ちがまだ鳴り響いている時、彼はつと手を伸ばして、レナール夫人の手を執った。その手はすぐに引込められた。ジュリアンは、自分のしていることがはっきり判らぬままに、又その手を握った。自分もひどく感動していたが、彼は捉えたその手の氷の様な冷たさに愕然とした。彼はそれを震える程力を籠めてぐっと握りしめた。逃れようと最後の努力をしたが、遂にその手は彼に委ねられた。
 彼の心は歓喜に溢れた。レナール夫人を愛するからではない。恐ろしい責苦が今終ったからだ。
 新吉は、冴子の事では、今迄何かモヤモヤと割り切れなかった。舞台稽古で、冴子を始めて見た時信吉は傷つけられた自尊心を恢復させるために、冴子を誘惑しようと決心したのだが、然し、信吉は悪魔にはなり切れず、時と場合でぐるぐると気持の屈折があった。が、今や、薄井と会った直後に『赤と黒』のジュリアンが始めてレナール夫人の手を握ろうという思いつきを自分に課し実行するというくだりを読んだ事は信吉を決然とさせた。
 信吉は殆んど冴子の存在を忘れる位、夢中になって、読んでいたが、ふと顔を上げると、眼の前に、これから誘惑しようという冴子が坐っていた。
「二時になったら、実行するんだ!」
 信吉は「実行」という殺風景な言葉を使って、呟いた。
「『赤と黒』ってどんな小説ですの………?」冴子が聞いた。
「さあ、どんな小説だか、一口には言えないね。一口で言える様な小説は小説じゃないんです。弁解みたいだけれど、『赤と黒』が九百一頁あるとすれば、その九百一頁に渡って書かれてあるような小説だとしか言えないよ。僕等は小説を読むと、すぐその筋だとかテエーマーだとか思想だとかを、要約したがりますね。ひどいのになると、この小説は何主義だろうかと、きめる事を先決問題にする莫迦が居るよ。然し、簡単に要約出来ないという点に小説の面白さがあるんじゃないかな」
 冴子は身も蓋もない様な信吉の返辞に、いちいちうなずいていたが、予定の質問は止めなかった。
「読む前と読んだ後とで、人生がすっかり変っちゃう小説だと、昨日おっしゃった様ですけど……」
「無論そうです。いや、人生観が変るだけじゃない。『赤と黒』を借りるという事があなたの人生をすっかり変えてしまうかも知れない」
 信吉は、にやりと凄い微笑を浮べた。
「へえ……? 何だか恐い見たい!」
 冴子は急にペロリと舌を出して露悪的な口を利いた。
「僕が恐い……?」
「ちっとも……」
「二流恋愛家だよ。僕は……」
「自分でそうおっしゃるんだから、恐くないわ。今迄男の方を、恐いと思った事なんか一度もないわ」
「それが間違いだったという事、やがて気がつくかも知れない」
「うふふ……」
 冴子は、信吉には意味の判らぬ笑いを笑って、
「――あたし今迄人を好きになった事がないのよ。お友達なんか一人も出来ない」
「つまらないだろう?」
「何もかも……。軍人がはびこるし、戦争なんか始ったおかげで、何もしたい事出来ないわ。こんな事言うと、非国民みたいだけど、あたし、みんなの様に夢中になれないの」
「したいことって、どんな事……?」
「考えてみたらないのね。芝居もあんまり好きじゃないわ。才能がないからだめ。薦められて女優になったけれど、どうせ大女優になれっこないんですもの」
「でも、一生懸命じゃないか、舞台では……」
 本当に信吉にはそう見えたのだ。
「学芸会へ出ているようなものよ。学芸会はみんな鼻の上に汗をためてるわ。それだけよ。女優なんかよそうかしら。人生ってつまらないのね」
「やがて、変るさ」
 もう五本煙草をつけていた。
「そうかしら」
「心細い声を出すなよ。僕が変えてやろうか」
「おや、おや」
「不良少女みたいな声を出したな」
「あたし不良よ」
「誘惑された事ある……?」
「ないわ。絶対よ。あたし、人よりか手や足が小さいのよ。子供みたいな体なの。誰も誘惑しないわ」
「僕が誘惑したらどうする……?」
「誘惑……? どうするの……?」
「例えば、ベーゼする」
「出来るの……?」
「出来る! したらどうする!」
「泣き出すわ!」
 露悪家じみてみたり、不良めいたり、子供っぽく見えたり、信吉にはもう冴子が判らなかった。
 二時五分前――
 信吉はいきなり言った。
「『赤と黒』の主人公はね、二時に女の手を握ろうと思うと、それを自分の義務と思ってしまうんだ。二時になって手が握れなければ、脳味噌をピストルで打ち抜こうと思う位自分に課した義務に忠実な男なんだ。――いい……? 僕もその主人公通り、二時になったら君にベーゼする。あと三分……」
 信吉はじっと冴子を見つめた。
 悪趣味というより、まるでメチャクチャだった。まるで破れかぶれの宣言みたようだった。が、露悪家を装うことによって、信吉はキッカケを与えようとしていた。
「本気……?」
 冴子は微笑しかけたが、青ざめた顔にうかんだ信吉のキッとした表情を感ずると、あわてて視線を外らし、みるみる固い姿勢になって行った。
 信吉はじっと視線をはなさなかった。そして「この女はおれが好きだろうか、きらいだったら逃げる筈だが……。しかし、きらいでなかったら、即ち好きだということにならない。だいいち、おれには女に好かれるような所はない。この女の好きなのは薄井かも知れない。薄井とは随分馴馴しくしていた。いや、薄井のほかに好きな男があるのかも知れない。おれにはただ一劇作家としてつきあっているだけかも知れない。この女にベーゼしたら、きっと恥をかくような目に会うだろう。ベーゼに失敗したらすぐに東京を立とう。しかし、成功しても二時以後ではだめだ。二時にやらなくちゃ何にもならない」
 と、考えているうちに、百八十秒が立った。
「二時!」
 信吉はひそかに呟くと同時に、何か空虚な気持になった。
 が、急に信吉は立ち上った。冴子ははっとした。信吉はいきなり冴子の肩に手を掛けた。冴子は、
「いや!」
 と、顔をそむけた。
 信吉は動物的な昂奮に青ざめた自分の顔が、ふっと半泣きの表情をうかべているのを、意識しながら、もう一度抱き寄せようとした。
 冴子は椅子から立ち上って、部屋の隅へ逃げた。
 そして、いもりのように壁にへばりついて、背中を向けていた。
 しかし、その背中には憎悪や恐怖の表情はなかった。
「どうしたの……?」
 信吉は背中に手を掛けて、くるりとふり向かせた。
「照れているの……?」
 かすかに冴子はうなずいたようだった。
「莫迦だなア」
 ちょっと笑って、信吉はいきなり口を寄せると、冴子はがくんと信吉の胸へ倒れて来た。
 信吉は冴子の手に、瞬間的にだが、力がはいったのを、背中に感じた。
 それが何だか悲しかった。

第十五章


接吻の長さについて!
エスプリが長さを決定すること。
単純にいえば『女たらし』の一語につきることを、複雑にいう意義の有無。

 ――口づけは続いていた。章は改まったが、彼は抱擁したままの状態を改めなかった。長い接吻であった。
 さすがに信吉も、
「長い! 長すぎる!」
 と、思ったのか、息が苦しくなったのか冴子の口から口をはなした。
 冴子も照れていたが、信吉はそれ以上に照れていた。なぜ照れたのか。
 信吉にはジュリアン・ソレル的要素があった。しかし、彼はジュリアンではなかったし、またジュリアンにはなれなかった。ジュリアンのような高貴な精神も情熱もなかった。ジュリアンのような第一級の人物ではない。だから、ジュリアンを自分に擬するのは滑稽だったしジュリアンの真似をするのはあわれな猿真似にすぎなかった。ジュリアン・ソレルは貴く、ソレリアン(ソレルの亜流)は低俗だ――というこの間の事情を、信吉は自分でも心得ていた。
 しかるに、わざとジュリアン風にふるまったのは、どうせ線を引かねばならぬのなら、
「冴子ハ『赤ト黒』ヲ借リニ来タノダ!」
 という任意の一点にひっかけて直線を引いた方が、単刀直入の最短距離だと、思ったからであろう。
 いわば、ジュリアンをだしにしたのだ。が、だしにしてみると、ジュリアン的要素はもともと持っていたから、信吉が接吻の間感じたものはまず自尊心の満足であった。その点、充分悪魔的であった。
 そして、そのような悪魔的な表情に関する限り、照れるということはなかった筈だが、しかし悪魔もまた時に陶酔の馬脚を現わす。長い接吻の間に、信吉はもっともらしく、うっとりして、いかにも愛の表現としての接吻をしている純情な青年の、しおらしい気持が、湧いて来た。いわば、ふとロマンチストめいているのだ。眼をつむると、リアリズムは去り、センチメンタリズムの花園の中を、甘い口づけがさまよっているかのようだった。
 信吉はふと眼をあけた。すると、急に接吻の姿勢の緊張した醜さが、意識されて、何かおかしかった。リアリズムの世界が甦って、そして、信吉は照れたのだった。
「思わず知らず長いキスを続けるなんてだらしがないぞ」
 不自然な行為も唐突できらいだったが、同時に無意識の行為もかなわなかったのだ。要は、エスプリがないと思ったのだ。

 人間は誰でも接吻する。阿呆でもする。あるいは短かく、あるいは長く。しかし、いくら長いといっても、限度はある。接吻よりももっとはげしい例の行為には、確然とした終りがあるが、接吻には、これで終りという生理的なコースはない。しかし、とにかく、永久に口づけしておれないからいつかは止める。どの辺りで止めるか、人さまざまだが、しかし、信吉のように、エスプリがないと思ったことが、相手の唇からはなれる動機になるというのは、些か異例であろう。すくなくとも、相手の女性に対して失礼であろう。
 しかし、冴子はそんなことを考える余裕なぞむろんなかった。
 冴子は気絶せんばかりであった。信吉の背中を抱いた手に力がはいったのも、そうしてしがみついていなければ、倒れそうになったかも知れなかったからだ。
 冴子は唇を拭こうとした。途端に手がブルブルとふるえて、拭けなかった。手だけではない。体中がガタガタとふるえていた。歯がカチカチと鳴った。
 ショックだろうか、恐怖だろうか、昂奮だろうか、冴子にはわけが判らなかったが何か病的な発作が起ったように、ガタガタふるえていた。
 信吉はどきんとした。接吻のあとでそんなにふるえている女を見るのははじめてだったから、なぜふるえているのか、信吉にも判らなかったが、そのふるえ方は涙以上に信吉にとっては生々しい感覚だった。
「どうしたの……?」
 と、信吉は優しく肩を抱いて、ベッドの端に掛けさせた。
「――どうして、ふるえてるの……」
「判らないわ。あたし、こんなことはじめてなの」
「ふるえるのが……?」
 接吻はたびたびしたが、接吻のあとでふるえるのは、はじめてか――という意味で信吉はきいたのだが、実に許しがたい質問だ。
 冴子にとっては、接吻は生れてはじめての経験だったのだ。
「寒いの……?」
 信吉は出任せの口を利いていた。寒いどころか、真夏だったのだ。
「ううん」
 と、冴子は勿論首を振った。
 信吉はどうしていいか判らなかった。どうすれば、冴子のふるえがとまるのか。仕方がなかったので、
「怒ってるの……? びっくりしたの……? 君は僕がきらいだろう……? もう絶交する……?」
 とりとめのないことを言いながら、冴子の顔を覗きこんで、優しく抱いていた。
「どうして、そんなことおっしゃるの……?」
「…………」
 信吉はしばらく黙っていたが、やがて、
「じゃ、僕が好きなの……?」
 という言葉を、やっと発見した。
「判らないわ。何も判らないわ」
「好きかきらいか、それも判らない……?」
「好きよ。好きでなかったら、あんなこと……。あたし、今までベーゼなんか……」
 したことないわと、冴子はいきなりベッドの上へ泣き伏した。が、信吉が抱き起すと、涙はすぐとまった。
「本当にはじめて……?」
「あたし、露悪家ぶったり、不良少女みたいに男の子に取り巻かれて、銀座をのし歩いたりしたこともあるわ。でも、こんなことはじめてよ」
 そして、想い出したように、またふるえ出した。
 そうだったのかと信吉は感に打たれた。
 女の品行というものは、男が思っている以上にみだれているが、同時にまた、男が思っている以上に、清潔だ。冴子は劇団にはいるまえには、撮影所にいたこともあり、もう何年も女優生活をしていて、そういうチャンスの最も多い環境だったのに、清潔で来たとは、ふしぎであった。
 何かエアーポケットのような感じでありそれがふと痛々しい感じのような気がするのは、結局自分が冴子にとって最初に接吻を与えたという罪にも似た意識のせいだろうか。
「恋愛もしたことないの……?」
「ええ」
「どうして……?」
「そうねえ」
 と、冴子は真面目に考えて、
「――好きな人がなかったのね。いい人だと思ったことはそりゃあったわ。好感も持ったわ。でも、それ以上にはピンと感じなかったわ」
「好きになったのは……」
 と、さすがにちょっと口ごもって、
「――僕だけ……?」
 冴子は素直にうなずいた。「しょってるわねえ」と言えれば、幸福だったが、しかし、もうその幸福は失われてしまったが、冴子は、それが失われたことには気づかなかった。いや、可哀相に、自分は今幸福だと思いこんでいた。すくなくとも、そう言いきかせていた。
 なぜなら、
「人を愛することが出来るのは、幸福だ」
 という言葉を知っていたからだ。しかし、どんな男を、今、冴子は好きになっているのか、知っているのだろうか。
 こんな男だ。――
「僕のどこが好きなの……?」
 接吻したあとで、そんな言葉の遊戯をたのしんでいる男だ。そして、その返答として、
「あなたは才能があるから好きだ」とか、「あなたは魅力があるから好きだ」とか、甚しきに到っては、
「あなたは美貌だから好きだ」などという言葉を期待している男だ。ナルシスだ。
 信吉が女を誘惑するのは、好色ではなく結局自尊心の満足のためであり、ナルシスの彼は、女から彼の美点を賞讃してもらいたいために、女に好かれたいのだ。
 しかし、冴子の返答は期待の通りではなかった。
「いつか、ほら、三原橋の停留所で、あなたはこうおっしゃったでしょう。――どうも雨の夜、電車を待っているのは、寂しいですね。僕も何だか昨日にくらべると、一躍有名になったみたいだけど、こうしてしょぼんと雨に吹きつけられて電車を待っていると、人間って奴は案外寂しいもんだなアという気がする――って。あたし、それ聴いた時、あんたが好きになったのよ。だから、マッチを持って来てあげたのよ」
 その三原橋の停留所で、信吉がその言葉を言った時、冴子はびっくりしたように、信吉を見上げた。――一度それと同じように、信吉はびっくりして冴子の横顔を覗いた。
 そんな風に答えられる冴子のエスプリが気に入ったのだ。この女は案外人生を深く見つめている――と、元来人生を浅く見ている信吉は、驚いていた。
 もっとも、もしかしたら、冴子のその言葉は気取りにすぎない――とも、信吉はひそかに思っていた。ただ、気の利いた言葉を言っているだけにすぎないのかも知れない。
 どこが好きかときかれて、
「そんなこと一ぺんも考えたことないわ。頭の先から足の先まで、何もかも好きよ」
 と答える女の方が、冴子より正直かも知れない。
 しかし、所詮はみな言葉だ。正直といえば、
「おれが接吻してやったから、好きになったのだ」
 という事実の方が、正直であり、真相をうがっているかも知れないのだ。
 それを、信吉は心の底で、知っている。ごまかしようのないリアリズムとして、知っている。言葉よりも、何よりも、結局肉体のつながりが、女の男への気持をがらりと変えてしまうのだ。これが女の弱さだ、あわれさだ。女というものが、いかに男と対等の立場に立っても、結局男によって、処女を失うという運命を背負っていること、そしてこの処女を失うという行為が、女の心理に与えるショック、その感覚的な残酷さ、――この事実を無視して婦人問題もへったくれもない。男にとっても、女にとっても、この事実は性教育とか人類繁殖の公理だという説教で解決できる問題ではない。が、ことは秘められた閨房の行為だけに、これに触れること即ち低俗、猥雑、煽情的ということになり、結局口にすまじき問題として、片づけられてしまうのだが、思えば人生の普遍的問題なのだ。貞操などというモラル的熟語では割り切れぬくらい生々しい感覚なのだ。「死」という感覚にもひとしい。女にとっては、処女を失うということほど、異様な感覚はなく、そして肉体のつながりということほど、自分ではどうしようもないきびしい絆はないのだ。
 そして、そういう感覚、そういう絆を与えるのが、男だとすれば、男の中には悪魔が棲んでいる。
 という事実を、知りぬいていながら、簡単に女たちの処女を奪って行く信吉という男は、一体何者であろう。
 つまり、女たらしだ。単純にいえば、女たらしにすぎない。そして、彼が世の女たらしに比べて、どれだけ違っているかということを、複雑に言ってみる意義は、今となっては、もうあるまい。
 すべては、簡単に進行して行く。
「ふーん。すると、あの時好きになったの……?」
「ええ」
「今もやっぱし好き……?」
「ええ」
「じゃ……」
 と、言って、信吉は再び接吻した。何が「じゃ……」かわからない。冴子はもう拒まなかった。それが信吉の情熱のあらわれだと思っていたのだ。
 信吉は接吻しながら、二度もくりかえして接吻するくりかえしの無意義さを、意識した。同時に、冴子をベッドの端に腰掛けさせた魂胆について、想い出した。
 信吉はしずかに冴子を倒した。そして、そのことの意義を、冴子に悟らせまいと、何かしら、熱情的に接吻をつづけた。

第十六章


結婚と男女の行為の関係が戦争と殺人との関係に似ていることについての独白。
プラトンはインキの名。
冴子の旅行鞄が安っぽいこと。

 冴子は四時に信吉の部屋を出た。そして劇場へ行った。信吉はホテルの玄関まで送って、ロビイのソファに腰を下すと、煙草を喫った。
 煙草は冴子の口のにおいがした。煙草の先に紅がついていたのだ。信吉はあわてて唇を拭って、
「今おれがしたことは、おれにとっては、大したことじゃなかったが、あの娘にとっては幸か不幸か、大きな問題だった。いやおれにとっても、大きな問題になるかも知れない」
 と、呟いた。
 そんな予感がしたのだ。伊都子のように問題がサバサバとあっけなく過ぎて行きそうには思えなかったのだ。
「接吻だけして、さっさと大阪へ逃げ帰ってしまえば、よかったのだ。あれ以上立入る必要もなかったのだ。心理的にも生理的にも……。しかし、みんなそうするのだ。人間って奴はそうなんだ。そして、結婚したい奴は、それを動機に結婚する。結婚したくない奴も、しでかしてしまった以上、結婚する。そして、結婚してしまえば、もう罪を感じないし、後悔もしない。結婚という形式は便利に出来てやがる。結婚は女をひどい目に会わせたことのつぐないになるし、また、今後ひどい目に会わせるための正当な手段に、結婚という形式が利用されるのだ。一体、結婚って何だろう……? 男女の行為は結婚生活の下では、誰も非難しない。結婚は偽善の形式だろうか」
 喫茶室からは、相変らず蓄音機の軍歌が聴えていた。
「――殺人は人間の行為の中で、最も悪徳の行為だ。が、軍部の奴らは、戦争の名に於て殺人を奨励している。男女の行為と結婚の関係も、殺人と戦争の関係みたいなものだ」
 丁度そこへ、蜂谷重吉が例によってモーニングを着用して、ふわりとやって来た。
「やア、今日の新聞見ましたか」
「いいえ、見ません!」
 信吉はきっぱりと言った。
「どうして……?」
「僕の劇の悪口をいっている劇評がのってるらしいんです。新聞なんか見たくない」
「なるほど。しかし、暗号はべつでしょう」
「いいえ、見たくありませんねえ」
「なるほど……。見たくない。あなたは実に賢明だ」
「……? ……」
「だいいち、見たいと思っても、もう暗号は見つからない」
「出ていないんですか。よしたんですか」
「やむを得ざる事情があってね。実は女が逃げたんですよ。恋人をこしらえてね」
「ほう……? 相手は……?」
「気になるんですか」
「まさか。儀礼的にきいてみただけです。相手が東条であっても、僕は驚かない。東条だって、女には手を出すでしょう」
「ところが、残念ながら、総理大臣じゃない。学生ですよ。あの女の従弟でね。若い男なんてやつは、すぐ女に同情したがるんでね。置手紙によれば、プラトニックラヴを双方しているそうですよ。信じられますか」
「あなたはどう思うんです」
「わざわざプラトニックだと断ってますからね」
「かえって、怪しい……?」
「しかし、まア、女というものや学生というものは、理想家ですね。九分九厘まで行って、ギリギリの一点を残して、あとは大いに享楽して、それでプラトニックだと称している手合いが多いんだ。一種の性的錯倒ですな。しかし、どっちでもいいや。プラトンはインキの名です。とにかく逃げた。それだけです。じたばたしたってはじまらない。失敬!」
 あっという間に、蜂谷重吉は姿を消してしまった。

 その夜、舞台が済んでから、冴子は信吉の部屋へやって来た。
「あたし、もう女優をよすわ」
「どうして……?」
 べつに信吉は驚かなかった。冴子の次の言葉が判っていたから。
「あなたのことしか考えられないの。芝居に打ち込めないの。あたしのしたいことって、何にもないって、昼間言ったけれど、本当ね。何にもしたくないわ。ただ、あなたのことだけ考えて、ぼんやりして暮していたいわ」
「考えるだけでいいの……?」
「結婚したいわ」
「誰と……?」
「あなたは冷静ね」
「そうかな」
 ちょっと狼狽した。
「ねえ。あたしを大阪へ連れて行って下さらない」
「いやだッ!」
「どうして……?」
 冴子は半泣きの顔になった。
「来れば、不幸になる」
「不幸になってもいい。どんなにひどい目に会ったって、かまわないわ。あなたと一緒に行きたいの。傍にいたいの。それだけでいいわ。――ねえ、いけない……?」
「はっきりいうがね。僕は、何にも誓えない人間なんだ」
「あたしがきらい……?」
「きらいだとは、言っていない。僕は、あんまり、人をきらいになれない人間だ。腹は立てるが、きらいにはなれない。憎めない。だから、女を誘惑しても、捨てるということが出来ない。しかし、一生捨てないということは、誓えないんだ」
 詭弁のようでもあり、実感のようでもあった。
 捨てるとか、捨てないとかいう言葉を信吉は使っていたが、女にとっては一生の問題である恋愛も、信吉という人間の内部では、大して重要な位置を占めていないということが問題なのだ。
 だから、女はきっと信吉にとって重荷になる。女は純情だし、つねに燃えている。ことに、信吉は、元来が醒め勝ちな恋愛の眠りを眠ってはいず、はじめから醒めているのだ。恋愛は醒めがちなものと見透しているこの男に向って、それでも眠れ、陶酔しろ、醒めがちなものでも、せめて自分だけでも永久に醒めないという理想を以て恋愛しろというには、余りに信吉は理想に背を向けた男であった。そんな信吉の冷かさが、一層女を燃えさせるのである。ますます重荷になる。女が燃えていて、自分が同じように燃えられないという意識だけでも既に重荷なのだ。そんな時女が可哀相でならないのだ。女を苦しめているのが結局自分でありながら、苦しんでいる女を可哀相だと思うこの矛盾は一体どうしたことか。
 矛盾といえば、結局女とかかわり合うことは、女を不幸にするものだと知りぬいていながら、やはり誘惑という形式でかかわり合って行くとは、ますます何としたことか。知っているだけに、一層罪が深い。
 燃えられない信吉は孤独であった。その孤独に堪えかねて結局女に近づいて行く。女はそんな信吉の毒性を知らない。孤独さに惹きつけられた憂愁の表情に魅力を感ずる。
 このような、なげかわしい状態は、多かれ少かれ近代人特有のものだが、いつまでつづく状態だろうか。
 が、さし当って、信吉はこういうばかりであった。
「僕は結局女たらしだからね。ついて来ちゃいけない」
「それなら、なぜ、あたしを誘惑なすったの」
「だから、女たらしだといっているじゃないか」
「本当の女たらしは、そんな風に自分は女たらしだとおっしゃらないわ」
「つまり、僕がいい子になろうとしている証拠だ」
 そういう言葉自体がいい子になろうとしているのだ。
「女たらしでも、いい子でも何でもいいわ――ねえ、ついて行っちゃいけない……?」
 何といっても、冴子はついて行くといってきかなかった。
「じゃ、ついて来い。その代り、どうなっても知らんぞ!」
 信吉はついにたまりかねてそう言った。冴子は、誰が何といっても耳にはいらない状態だった。だから、気の弱い信吉は、もうそれ以上いやとは言えなかった。
 冴子はその夜遅く家に帰った。そして、その夜のうちに、どう口説いたか母親を説き伏せ、一晩中掛って荷物をまとめた。身の廻りのもの一切、冬の着物、夜具、買い溜めていた靴、帽子のたぐいまで、持って行くことにしてチッキにして、劇団への挨拶、友人との別れ、町会への異動申告、みんな一人で半日かけずり廻って済ませ、信吉と汽車の中で食べる弁当まで自分の手で作って、駅へかけつけた。
 そして、信吉と二人で大阪行の夜汽車に乗った。何もかも半日でやってのけた冴子の真剣さに、信吉は打たれたが、しかし、それよりも、冴子がさげている鞄の安っぽさに、信吉ははっとした。貧しい家の娘ともいえなかったが、けっして裕福な家の娘ではない。作ってくれた弁当も、冴子が謝ったくらい、みすぼらしいものだった。しかし、信吉は、なかなかご馳走だとほめるのだった。が、ふと箸をとめた。
「何を考えてらっしゃるの……?」
「女って一皮むけば、みんな古いものだ、――ということを、ちらと考えたんだ」
「どういう意味……?」
 冴子はきいたが、信吉は答えられなかった。信吉は、こんなことを考えていた。
「……おれはこの女を誘惑した時、こうして一緒に汽車にのるとは、夢にも考えていなかった。が、こんなまずい弁当を作ってくれたら、おれはもうこの女を東京へ追い返すことは出来なくなった。もしかしたらこの女は一生おれの傍にいるのかも知れない。おれは毎日この女を追い出すことを考えるだろう。しかし、気の弱いおれはそれを口に出すことは出来ないだろう。そして、この女は一生おれの傍にいる。今日捨てられるか、明日捨てられるかと、ひやひやしながら、結局一生いることになる。これが人生だ」
 これが人生だとは大袈裟な言い方だが、しかし、新聞の暗号よりも、やはり冴子の旅行鞄の安っぽさの方がはるかに人生的だった。そして、この感じは汽車が大阪に近づくにつれて、ますます強くなって来た。





底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日発行
初出:「婦人画報」
   1946(昭和21)年5月号〜12月号
入力:林清俊
校正:小林繁雄
2013年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード