午後から少し風が出て来た。床の間の掛軸がコツンコツンと鳴る。
「火鉢にあたるやうな
昭和十二年の二月から三月に掛けて、読売新聞社の主催で、坂田対木村・花田の二つの対局が行はれた。木村・花田は名実ともに当代の花形棋士、当時どちらも八段であつた。坂田は公認段位は七段ではあつたけれど、名人と自称してゐた。
全盛時代は名人関根金次郎をも指し負かすくらゐの実力もあり、成績も挙げてゐたのである故、まづ
彼の棋風は、「坂田将棋」といふ名称を生んだくらゐの個性の強い、横紙破りのものであつた。それを、ひとびとは
けれど、坂田の沈黙によつて、棋界がさびれた訳ではない。木村・金子たち新進が擡頭し、花田が寄せの花田の名にふさはしいあつと息を呑むやうな見事な終盤を見せだした。
この穴を埋めることは、棋界に残された唯一の、と言はないまでも、かなり興味深い大きな問題である。自然大新聞社は殆んど一ツ残らず、坂田の対局を復活させようと、さまざまに交渉した。新聞社同志の虚々実々の
たいていの新聞社はこの坂田の
「銀が泣いてゐる。」といふ人である。――ああ、悪い銀を打ちました、進むに進めず、引くに引かれず、ああ、ほんまにえらい所へ打たれてしもたと銀が泣いてゐる。銀が坂田の心になつて泣いてゐるといふのだ。坂田にとつては、駒の一つ一つが自分の心であつた。さうして、将棋盤のほかには心の場所がないのだ。盤が人生のすべてであつた。将棋のほかには何物もなく、何物も考へられない人であつた。無学で、新聞も読めない、交際も出来ない。それ故、世間並の常識で向つても、駄目であつた。対局の交渉を受けて、
「そんならひとつ盤に相談しときまひよ。」といふ詞は
名人気質などといふ形容では生ぬるい。将棋のほかには常識も理論もない人、――といふだけでも相当難物だが、しかもその将棋たるや、第一手に角頭の歩をつくといふ常識外れの、理論を無視したところが身上の人である。あれやこれやで、十六年間あらゆる新聞社が彼を引きださうとして失敗したのも、無理はなかつた。それを、読売新聞社が十個年間、春秋二回づつ根気よく攻め続けて、到頭口説き落したのである。
十六年振りの対局といふだけでも、はや催し物としての価値は十分である。おまけに相手は当代の花形棋士、木村・花田両八段である。この二人は現に続行中の名人位獲得戦で第一、二位の成績ををさめ、名人位は十中八九この二人の間で争はれるだらうといふ情勢であつた。もし、この二人が坂田に敗れるとすれば、折角争ひ
「十六年間、一切の対局から遠ざかつてましたけど、その間一日として研究をせん日はおまへなんだ。ま、坂田の将棋を見とくなはれ。」と戦前豪語した手前でも負けられぬ将棋である。六十八歳の老人とは思へぬこの強い詞は、無論勝つ自信をほのめかした詞であらう。が、ひとつにはそれは、木村・花田を選手とする近代将棋に対して、坂田がいかに奇想天外の将棋を見せるか、見とくなはれといふ意味も含んでゐた。大衆はこの詞に唸つた。
ともかく、昭和の大棋戦であつた。持時間からして各自三十時間づつ、七日間で指し終るといふ物々しさである。名人位獲得戦でさへも、持時間は十三時間づつ、二日で勝負をつけてゐる。対局場も一番勝負二局のうち、最初の一局の対木村戦は、とくに京都南禅寺の書院がえらばれて、戦前下見をした坂田が、
「
けれども、私も京都に永らく居たゆゑ知つてゐるが、対局を開始した二月五日前後の京都の底冷えといふものは、毎年まるで一年中の寒さがこの日に集まつたかと思はれるほどの厳さである。ことに南禅寺は東山の山懐ろで、琵琶湖の水面より土地が低い。なほ坂田は六十八歳の老齢である。世話人が煖房に細心の気を使つたのはいふまでも無からう。古来将棋の大手合には邪魔のはいり勝ちなものである。七日掛りの対局といふからには、一層その懸念が多い。よしんば外部からの故障がなくとも、対局者の発病といふこともある。対局場の寒さにうつかり風邪を引かれては、それまでだ。勿論、部屋の隅にはストーブが
それを、六十八歳の坂田は、
「火鉢にあたるやうな
木村には附添ひはなかつたが、坂田には玉江といふ令嬢が介添役として大阪から同行して来てゐた。妻に死なれたあとずつとやもめ暮しの父の身の廻りのことを、一切やつて来たといふひとである。対局中の七日間、両棋士はずつと南禅寺に罐詰めといふ約束であつた。ところが、坂田は老齢の上に、何かと他人に任せられぬ世話の掛る人である。人との応対は勿論、封じ手の文字を書くことさへ出来ない。食事も令嬢の手料理でなくてはかなはぬのだ。そこで、対局中玉江といふ令嬢が附きつ切りで、坂田の世話をすることになつたのであるが、ひとつには坂田がこのひとを連れて来たのは、
「お前もお父つあんが苦しんでるのんを、傍から見てるのんは
一手六時間といふまるで乾いた
それと言ふのも、昔は現在と違つて、棋士の生活は恵まれてゐない。ことに修業中は随分坂田は妻子に苦労を掛けた。明治三年堺市外舳松村の百姓の長男として生れ、十三歳より将棋に志し、明治三十九年には関根八段より五段を許されて漸く一人前の棋士になつたが、それまでの永い歳月、いや、その頃でさへ、坂田には食ふや呑まずの暮しが続いてゐたのである。自分は将棋さへ指して居れば、食ふ物がなうても、ま、極楽やけれど、細君や子供たちはさうはいかず、しよつちゆう泣き言を聞かされた。その
「わいは将棋やめてしもたら、生きてる
「どこイ行つて来たんや、こんな
「死に場所探しに行て来ましてん。……」
高利貸には責めたてられるし、食ふ物はなし、亭主は相変らず将棋を指しに出歩いて、銭をこしらへようとはしないし、いつそ死んだ方がましやと思ひ、家を出てうろうろ死に場所を探してゐると、背中におぶつてゐた男の子が、お父つちやん、お父つちやんと父親を慕うて泣いたので、死に切れずに戻つて来たと言ふ。
「…………」涙がこぼれて、ああ、有難いこつちや、血なりやこそこんなむごい父親でも、お父つちやんと呼んで想ひ出してくれたのかと、また涙がこぼれて、よつぽど将棋をやめようと思つたが、けれど坂田は出来なんだ。そんな亭主を持ち、細君は死ぬまで将棋を
して見れば、対木村の一戦は坂田にとつては棋士としての面目ばかりでなく、永年の妻子の苦労を懸けた将棋である。火鉢になぞ当つてゐられないのは、当然であつたらう。――さう思へば、坂田のあの詞もにはかに重みが加はつて、悲壮である。ところが対局がはじまつて三日目には、もう彼はだらしなく火鉢をかかへこんでゐる、これはなんとしたことであらうか。
観戦記者や相手の木村八段や令嬢が、老齢の坂田の身を案じて、無理に
あるひはまた、火鉢にもあたるまいといふのは、かへつて勝負にこだはり過ぎてゐるのではないかと、思ひ直したのかも知れない。かねがね坂田はよく「栓ぬき
ある時、上京するために大阪駅のプラットホームまで来ると、
つまりは、火鉢のことにこだはつた時は、丁度、眼前の勝負にかんかんになり過ぎて、気持が焦りに浮き立つてゐた。そこに気がついて、これではいけないと、火鉢を要求したのではなからうか。
けれど、こんな臆測はすべて私の思ひ過しだらう。観戦記録を見ると、対局開始の二月五日といふ日は、下見をした前日と打つてかはつて、京にめづらしいポカポカと暖かい日であつたといふ。それを読んで、私は簡単にすかされてしまつた。その人の弱みにつけこんで言へば、暖かいから火鉢を敬遠したまでのこと、それを「火鉢にあたるやうな……」云々と悲壮めかすのは芝居が過ぎる。あるひは、坂田自身が自分の気持に欺かれてゐたのだらうか。けれども私はかういふところに、かへつて坂田の好ましさを感ずる。寒くなつたら、あわてて前に言つた詞を取り消して火鉢をほしがつたのだらうと断定を下し、しかも私はそこにこの人の正直さをぢかに感じようと思ふのである。
それはともかく、坂田が火鉢を要求した時には、はや栓ぬき瓢箪の気持を想ひ出す必要が来てゐたことは、事実である。その時にはつまり対局開始後三日目にはもう坂田の旗色は随分わるかつたのだ。対局が済んでから令嬢は観戦記者に、
「父は四日頃から、私の方が悪い言うて、諦めさせました。」と語つたといふが、四日目とは坂田が一日言ひそびれてゐただけのこと、実は三日目からもういけなかつたことは、坂田自身でも
対局は二月五日午前十時五分、木村八段の先手で開始された。
木村は十八分考へて、七六歩と角道をあけた。まづ定跡どほりの何の奇もない無難な手である。二六歩と飛車先の歩を突き出すか、七六歩のこの手かどちらかである。それを十八分も考へたのは、気持を落ちつけるためであらう。
駒から手を離すと、木村はぢろりと上眼づかひに相手の顔を見た。底光る不気味な眼つきである。その若さに似ずはやこちらを呑みこんで掛つて来たかのやうな、自信たつぷりのその眼つきを、ぴしやりと感ずると坂田は急にむずむずして来た。七六歩を受けて三四歩とこちらも角道をあけたり、八四歩と飛車先の歩を突き出したりするやうな、平凡の手はもう指せるものかといふ気がした。この坂田がどんな奇手を指すか見てをれ、あつといふやうな奇想天外の手を指してやるんだと、まるで通り魔に
十二分経つた。坂田の眼は再び盤の上に戻つた。さうして、太短い首の上にのつた北斎描く孫悟空のやうな特徴のある頭を心もちうしろへ外らせながら、右の手をすつと盤の右の端の方へ伸ばした。
その手の位置を見て、木村は、飛車先の歩を平凡に八四歩と突いて来るのだなと、瞬間思つた。が、坂田の手はもう一筋右に寄り、九三の端の歩に掛つた。さうして、音もなくすーつと九四歩と突き進めて、ぢつと盤の上を見つめてゐた。駒のすれる音もせぬしづかな指し方であつた。十六年振りに指す一生一代の将棋の第一手とは思へぬしづけさだつた。
普段から坂田は、駒を動かすのに音を立てない人である。「ぴしり、ぴしりと音を立てて、駒を
ある時、坂田はかう語つた。それ故、彼は駒の音を立てるやうなことは決してしない。
九四歩もまたフワリと音もなく突かれた手であつた。いはば無言の手である。けれど、この一手は「坂田の将棋を見とくなはれ。」といふ声を放つて、暴れまはり、のた打ちまはつてゐるやうな手であつた。前人未踏の、奇想天外の手であつた。
木村はあつと思つた。なるほど変つた手で来るだらうとは予想してゐた。が、まさか第一着手にこんな未だかつて将棋史上現はれたことのない手を指して来るとは、思ひも掛けなかつた。
「坂田さんの最初の一手九四歩は、私の全然予想せざる着手で、奇異な感に打たれた。」と、木村はあとで感想を述べてゐるが、恐らくその通りであつたらう。
木村がその通りだから、大衆の驚き方は大変なものだつた。かつて大崎八段との対局で、坂田が角頭の歩を突いた時の興奮が案の定再燃したのである。新聞の観戦記は、この九四歩の一手を得ただけでも、この度の対局の価値は十分であると言つて、この一手の説明だけで一日分を費してゐたが、その記事を読んだ時のことを、私は忘れ得ない。
いまもあるだらうと思ふが、その頃私は千日前の大阪劇場の地下室にある薄汚い将棋
察しのつく通り、私は病身で、孤独だつた。去年の夏、私はある高架電車の中から、沿線のみすぼらしいアパートの狭苦しく薄汚れた部屋の窓を明けはなして、鈍い電燈の光を浴びながら影絵のやうに
さうした私を
その地下室を出た足でふと立ち寄つた喫茶店へ備へつけてあつた新聞を、何気なく手に取つて見ると、それが出てゐたのである。丁度観戦記の第一回目で、木村の七六歩、坂田の九四歩の二手だけが紹介されてあつた。先手の角道があいて、後手の端の歩が一つ突き進められてゐるだけといふ奇妙な図面を、私はまるで
「坂田はやつたぞ。坂田はやつたぞ。」と声に出して
私のこの時の幸福感は、かつて
素人考へでいへば、局面にもあるだらうが、まづ端の歩を突く時は相手に手抜きをされる
けれど、結果はやはり二手損が
木村は「奇異な感に打たれた」といふ感想に続いて、
「――が、それと同時に、九四歩を見てからの私は、自分でも不思議な位に、グッと気持が落着いて、五六歩と突く時は相当な自信を得てゐた。そして五五歩の位勝からは、これが攻撃的に必ず威力を発揮し得るもの、と確信づけられた。」と言つてゐる。
五六歩は七六歩、九四歩に次ぐ第三手目である。五五歩は五手目。つまりは木村は三手指した時に、はや勝つたと確信したのである。いや、九四歩を見た途端に、さう思つたのであらう。
さうしてみれば、坂田は九四歩を突いた途端に、もう負けてゐたのである。一手六時間といふ長考を要するやうな苦しい将棋をつくりあげた原因は、この九四歩にあつたのだ。しかも、彼はこの手に十二分しか時間を費してゐない。予定の行動だつたのだ。戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と大見得切つた時に、はや彼はこの手を考へてゐたのではなからうか。
「滝に打たれる者は涼しいばかりやおまへん。当人にしてみましたらなかなか
変つた将棋は坂田にとつてはもう殆ど宿命的なものだつた。将棋に熱中した余り、学校で習つた字は全部忘れて、一生無学文盲で通して来た。駒の字が読めるほかには、――ある時上京して市電に乗らうとしたが、電車の字が読めぬ、弱つてゐるうちにやつと品川行といふ字だけが、品川の川といふ字が坂田三吉の三を横にした形だつたおかげでそれと判つて、助かつた――といふ程度である。それ故古今の棋譜を読んでそれに学ぶといふことが出来ない。おまけに師匠といふものがなかつたので、自分ひとりの頭を絞つた将棋を考へだすより仕様がなかつたのだ。自然、自分の才能、個性だけを頼りにし、その独自の道を一筋に貫いて、船の
これはもう魔がさしたといふやうなものではなかつたのだ。坂田といふ人にとつては、もうこれほど自然な手はなかつたのである。自分の芸境を
大衆は勿論
「あんな
対局の終つたのは、七日目の紀元節であつた。前日からの南禅寺の杉木立に雨の煙つてゐる朝の九時五分にはじめて、午に一旦休憩し、無口な昼食のあと午後一時から再開して、一時七分にはもう坂田は駒を投げた。雨はやんでゐなかつた。
対局者は打ち揃つて南禅寺の本堂に詣り、それから宝物を拝観した。坂田は、
「おほきに御苦労はんでござります。」と、びつくりするほど丁寧なお辞儀をして歩いた。五十五年間、勝負師として生きて来た鋭さがどこにあらうかと思はれるくらゐの丁寧なお辞儀であつた。
書院で法務部長から茶菓を饗された時も、頭を畳につけて、
「おほけに
迎への自動車に乗らうとする時、うしろからさした傘のしづくがその首に落ちた。令嬢の玉江はそれを見て、にはかに胸が熱くなつた。冬の雨に煙る京の町の青いほのくらさが車窓にくもり、玉江は傍のクッションに埋めた父の身体の中で、がらがらと自信が崩れて行く音をきく想ひがした。
坂田は不景気な顔で何やらぽそぽそ呟いてゐたが、
「あ、そや、そや。……」と叫んだ。
「えツ、何だす?」玉江は
「この次の花田はんとの将棋には、こんどは左の端の歩を突いたろと、いま想ひついたんや。」と、坂田は言はうとしたが、何故か黙つてしまつた。さうして、その想ひつきのしびれるやうな幸福感に暫らく揺られてゐた。木村との将棋で、右の端の歩を九四歩と突いたのが一番の敗因だつたとは思はなかつたのである。さうしてまた花田との将棋でそれと同じ意味の左端の歩を突くことが再び自分の敗因になるだらうとは、夢にも思はなかつたのである。
雨は急にはげしくなつて来た。坂田は何やらブツブツ呟きながら、その雨の音を聴いてゐた。
(昭和十八年八月)