チャイコフスキーの「秋の歌」という小曲がある。私はジンバリストの演奏したこの曲のレコードを持っている。そして、折にふれて、これを取り出して、独り静かにこの曲の呼び出す幻想の世界にわけ入る。
北欧の、果てもなき平野の奥に、白樺の森がある。歎くように垂れた木々の梢は、もう黄金色に色づいている。傾く夕日の空から、淋しい風が吹き渡ると、落葉が、美しい美しい涙のようにふり注ぐ。
私は、森の中を縫う、荒れ果てた
二人は黙って歩いている。しかし、二人の胸の中に
二人はまた歩き出す。絃の音は、前よりも高くふるえて、やがて
ヴァイオリンの音の、起伏するのを受けて、山彦の答えるように、かすかな、セロのような音が響いて来る。それが消えて行くのを、追い縋りでもするように、またヴァイオリンの高音が響いて来る。
このかすかな伴奏の音が、別れた後の、未来に残る二人の想いの反響である。これが限りなく
「あかあかとつれない秋の日」が、野の果に沈んで行く。二人は、森のはずれに立って、云い合わせたように、遠い寺の塔に輝く最後の閃光を見詰める。
一度乾いていた涙が、また
夜が迫って来る。マリアナの姿はもう見えない。私は、ただ一人淋しく、森のはずれの切株に腰をかけて、かすかな空の微光の中に消えて行く絃の音の名残を追うている。
気がつくと、曲は終っている。そして、膝にのせた手のさきから、燃え尽した巻煙草の灰がほとりと落ちて、緑のカーペットに砕ける。
(大正十一年九月『渋柿』)