大きな河かと思うような細長い湖水を小蒸気で縦に渡って行った。古い地質時代にヨーロッパの北の半分を蔽っていた氷河が
船が着いてから小さな丘に上って行った。丘の頂には
高い旗竿から八方に張り渡した縄にはいろいろの旗が並んで風に
連れの日本人はその連れのドイツ女の青い上着を小脇にかかえて歩いていた。私は自分の重い
丘を下りて桜の咲き乱れた畑地の中の
「あなたはどうしてそんなに悲しそうでしょう。」
連れの女はこう云って聞いた。
「何も悲しき事はありません」と答える外はなかった。実際何も悲しい事はなかった。しかしまたすべてのものが悲しかったのも事実である。それは自分が悲しいのでなくてむしろ周囲の世界の悲しみが自分のからだに滲み込んで来るように思われるのであった。
これが
地理学の学生の仲間にはいって、ハルツを見に行った。霧の深い朝であった。霧が晴れかかった時に、線路の横の畑の中に一疋の駄馬がしょんぼり立っているのが見えた。その馬のからだ一面から真白な蒸気が
ウワルプルギスナハトには思ったような
あらかた葉をふるったぶなの森の中を霧にしめった落葉を踏みしめて歩いた。からだの弱そうなフロイラインWは重いリュクサックの紐に両手をかけて
日暮れにツウム・ワイセン・ヒルシュという宿屋についた。食後にみんなが学生の唱歌を歌った。アフリカに行っていたドクトルMはズアヘリ土人の歌というものを歌って聞かせたが、それがどれだけ本当のものに似ているかそれは誰にも分らなかった。日本の歌を聞かせろというので、仕方なしにピアノで君が代のメロディだけ弾いたら、誰かが大変悲しい感じがするではないかと云った。
チンネフ君と一つの室に寝た。室には電燈も何もなかった。
翌日はレエゲンシタインの古城を見に行った。ただ一塊りの大きな岩山を切り刻んで出来たものである。何となしに鬼ヶ島を思わせた。
「国の歴史や伝説やまたお
測候所を尋ねて場末の堀河に沿って歩いて行った。子供の時分に夢に見ていた古風な風景画の景色が到るところ眼前に拡がっていた。堀河にもやっている色々の船も、渋くはなやかに汚れた帆も、船頭のだぶだぶした服も、みんなロイスデエルやホベマ時代のヴェルニイがかっていた。
測候所で案内してくれた助手のB君は
約束の時刻に尋ねて行った。入口で古風な
お茶を一杯よばれてから一緒に出かけて行った。とある町の小さな薬屋の店へ
店のすぐ次の間に案内された。そこは細長い部屋で、やはり食堂兼応接間のようなものであったが、B君のうちのが
壁を見ると日本の錦絵が沢山貼りつけてある。いずれも明治年代に出来た俗な絵草紙である。天井の隅には拡げた日傘が吊してある。棚や
B氏は私の不審がっているのを面白そうに眺めるだけで、何の説明も与えてくれない。「まあ少し待ってくれ給え」と云っている。
奥の間からこの家の主婦が出て来た。髪が真黒で顔も西洋人にしてはかなり浅黒く、目鼻立ちもほとんど日本人のようである。少しはにかんだような様子をして握手をした。しかし何も話さないで黙ってコオヒイを入れ始めた。
B君の説明によると、この主婦の亡父は航海者であったそうである。両親がたまたま横浜に来ていた時に生れたのがこの娘であった。しかしまだ物心もつかないうちに本国に帰ってしまったので、日本の記憶と云っては夢ほどにも残っていないが、ただ生れた土地と聞くだけで日本の国土に対するゼエンズフトを
B君のこの仕方は、悪意に解釈すれば私にとってあまり快くは思われない種類のものであった。しかしこの人の剽軽で学者らしく無邪気な、そしてどこか親切な態度に馴れた私はその時でも少しも悪い心持は起らなかった。そして遠い世界の果ての生れ故郷をなつかしがる人の心持も決して悪くは思えなかった。
それにしても主婦の容貌があまり日本人によく似ているから、母親もオランダ人かと念のためにB君に聞いてみたが、やはりまぎれもない
主婦は奥の間から古ぼけた手帳のようなものを出して来た。それをあけて見ながら、何かしら単語のようなものを切れ切れに読んで聞かせた。それは「コンニチワ」「オハヨオ」などというような種類のものであったが、あまり発音が変っているから、はじめは日本語だとは気が付かないくらいであった。何だか聞きとれない言葉が出て来たので帳面を見せてもらうと‘fitots’‘stats’と書いてある。「一つ」「二つ」という数のつもりであった。私は昔の日本の蘭学者のエレキテルなどというような言葉を思い出して覚えず微笑せずにはいられなかった。それから若干の単語の正しい発音を教えてやったりしたが、しかしこれはかえって教えたり正したりしないでそのままに承認してやった方がよいのではないかとも思ってみた。永い間胸に抱いてきた罪のない夢の国の美しい夢を冷たい現実でかき乱すのは気の毒で残酷なような気もするのであった。
(大正十一年十一月『明星』)