鷹を貰い損なった話

寺田寅彦




 小学時代の先生方から学校教育を受けた外に同学の友達からは色々の大切な人間教育を受けた。そういう友達の中にも硬派と軟派と二種類あって、その硬派の首領株からはだいぶいじめられた。板垣退助を戴いた自由党が全盛の時代であったので、軍人の子供である自分は、「官権党の子」だという理由でいじめられた。東京訛が抜けなかったために「他国もんのべろしゃ/\」だと云っていじめられた。そうして、墨をよこさなければ帰りに待伏せするとおどかされ、小刀をくれないとしでるぞ(ひどい目に合わせる)と云っては脅かされた。その頃の硬派の首領株の一人はその後人力車夫じんりきしゃふになったと聞いたが、それからどうなったか一度も巡り合わずそれきり消息を知ることが出来ない。
 そういう怖い仲間とはまるで感じのちがう×というのが居た。うちは何商売だったか分らないが、その家の店先に小鳥の籠がいくつか並べてあった。ふくろう撞木しゅもくに止まってまじまじもっともらしい顔をしていたこともあった。しかし小鳥屋専門の店ではなかったような気がする。
 その×は色の白い女のように優しい子であったが、それが自分に対して特別に優し味と柔らか味のある一風変った友達として接近していた。外の事は覚えていないがただ一事はっきり覚えているのは、この子が自分にときどき梟をやろうとか時鳥ほととぎすをやろうとかまた鷹をやろうとかいう申し出しをしたことである。但しそれには交換条件があって、おまえのもっている墨とかナイフとかをれたら、というのであった。自分はどういう訳かその鷹がひどく欲しかったので、彼の申込みに応じて品は忘れたが彼の要求するものを引渡した。そうしていよいよ鷹が貰えると思って夜が寝られないほど嬉しがったものである。鷹を貰ってからのことを色々空中に画いてはエクスタシーに耽ったものと見えて、今でもなんだか本当に一度鷹を飼ったことがあるような気持がすることがある、もちろん事実は鷹などかつて飼った経験はないのである。
 明日はいよいよ鷹が貰えると思ってさんざんに待ちかねて、やっとその日になってみると鷹は今ちょうどトヤに入っているからもう二、三日待ってくれというのである。ひどくがっかりして、しかし結局あきらめて辛抱して待って、さてもういいかと思って催促すると、今度は何とかがどうとかして何とかで工合が悪いからもう二、三日待てという、その何とかが実に尤千万もっともせんばんな何とかで疑う余地などは鷹の睫毛まつげほどもないのだから全く納得させられる外はなかった。それから……。そういう風にして結局とうとう鷹の夢を存分に享楽させてもらっただけで、生きている実在の鷹はとうとう自分のものにならないでおしまいになった。はじめに交換条件で渡した品を返してもらったかもらわなかったか、それは思い出せない。
 これなどは幼年時代に受けた教育の中でもかなりためになる種類のものであったと思う。多分十歳くらいのことであったか、あるいは七、八歳だったかもしれない。
 ×の消息はその後全く分らない。
 尤も、この頃でもやはりときどきは「鷹を貰い損なう」ことがあるような気がするのである。
(昭和九年八月『行動』)





底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1985(昭和60)年12月5日第2刷発行
初出:「行動 第二巻第八号」
   1934(昭和9)年8月1日発行
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
入力:Nana ohbe
校正:川向直樹
2004年6月1日作成
2016年2月25日修正
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