亮の追憶

寺田寅彦




 りょうの一周忌が近くなった。かねてから思い立っていた追憶の記を、このしおに書いておきたいと思う。
 亮は私の長姉の四人の男の子の第二番目である。長男は九年前に病死し、四男はそれよりずっと前、まだ中学生の時代に夭死ようしした。昨年また亮が死んだので、残るはただ三男のじゅんだけである。順はとくにいでて他家を継いでいる。それで家に残るは六十を越えた彼らの母と、長男の残した四人の子供と、そして亮の寡婦とである。さびしい人ばかりである。

 亮の家の祖先は徳川とくがわ以前に長曾我部ちょうそかべ氏の臣であって、のち山内やまのうち氏に仕えた、いわゆる郷士であった。曾祖父そうそふは剣道の師範のような事をやっていて、そのころはかなり家運が隆盛であったらしい。竹刀しないが長持ちに幾杯とかあったというような事をりょうの祖母から聞いた事がある。
 亮の父すなわち私の姉の夫は、同時にまた私や姉の従兄いとこに当たっている。少年時代には藩兵として東京に出ていたが、後に南画を川村雨谷かわむらうこくに学んで春田しゅんでんと号した。私が物心ついてからの春田は、ほとんどいつ行っても絵をかいているか書を習っていた。かきながら楊枝ようじを縦に口の中へ立てたのをかむ癖があった。当時のいわゆる文人墨客の群れがしばしばその家に会しては酒をのんで寄せがきをやっていたりした。一方ではまた当時の自由党員として地方政客の間にも往来し、後には県農会の会頭とか、副会頭とか、そういう公務にもたずさわっていたようであるが、そういう方面の春田居士しゅんでんこじは私の頭にほとんど残っていない。
 わくに張った絵絹の上に山水や花鳥を描いているのを、子供の私はよくそばで見ていた。長い間見ていても、ほとんど口をきくという事はなかった。しかし、さも楽しそうに筆を動かしては楊枝ようじをかんでながめているのを、そばで黙って見ているのがなんとなく気持ちがよかった。そこにはいつものどかな春永はるながの空気があった。
 私のみならず、家内じゅうのだれともめったに口をきいている事はまれなようであったが、ただ夕飯のぜんにきまって添えられた数合の酒に酔って来ると、まるで別人のように気軽く物を言った。四人の子供や私などを相手にしていろいろの昔話をした。若い時分に東京で習ったとかいう講釈師の口まねをしたりして皆を笑わせた。藩兵になって日比谷ひびやの藩公邸の長屋にいた時分の話なども、なんべん同じ事を聞かされても、そのたびに新しいおもしろみとおかしみを感じさせた。それで子供らは、そういういくつかの取っておきの話の中から、あれをこれをと注文して話させては笑いこけるのであった。夏になると裏の畑に縁台を持ち出して、そこで夜ふけるまで子供をさかなにして酒をのんでいた。どうかすると、そこで酔い倒れてしまったのを、おおぜいで寝間までかつぎ込んだものである。どうかするときげんのよくない時もあって、そういう時は子供らは近づいてはいけない事になっていた。
 春田は十二三年前に五十余歳で喉頭癌こうとうがんのためにたおれた。私の見た義兄は、珍しく透明な、いい頭をもっていて、世態人情の奥の底を見透していた人のように思われる。それでいてほとんど俗世の何事も知らないような飄逸ひょういつなふうがあった。
 郷里の親戚しんせきや知人の家へ行けば、今でも春田のかいた四君子や山水の絵のふすま屏風びょうぶが見られる。私はそれを見るたびに、楊枝ようじをかみながら絵絹に対している春田居士しゅんでんこじを思い浮かべる。その幻像の周囲にはいつものどかな春の光がある。
 りょうの生まれた時の事を私は夢のように覚えている。当時亮の家には腸チブスがはいって来て彼の兄や祖母や叔父おじが相次いで床についていたので、彼の母はその生家、すなわち私の家に来て産褥さんじょくについた。姉の寝ていたまくらもとのすすけたふすまに、いわおと竹を描いた墨絵の張りつけてあった事だけが、今でもはっきり頭に残っている。
 少年時代の亮について覚えている事はきわめてわずかである。舌のさきを奥歯にやって、それをかみながら一種の音を立てる癖があった事を思い出す。これが父の楊枝をかむ癖と何か関係があったかどうかはわからない。それから何かのおりに、竹の切れはしで、木瓜ぼけの木をやたらにたたきながら、同じ言葉を繰り返し繰り返しどなっていた姿を思い出す。その時の妙に仙骨せんこつを帯びた顔をありあり見るように思うが、これはあるいは私の錯覚であるかもしれない。またある時はのらねこを退治するのだと言って、やりかあるいは槍といっしょに長押なげしにかかっていたそでがらみのようなものかを持ち出して意気込んでいたが、ねこの鳴き声を聞くと同時にそれを投げ出して座敷にかけ上がったというような逸話もあった。
 三人の兄弟のだれと思い比べてみても、どこか世間をはなれたような飄逸ひょういつなところのある点でいちばん父の春田居士しゅんでんこじ風貌ふうぼうを伝えていたのではないかと私には思われる。
 幻燈というものがまだ珍しいものであったころ、亮がガラス板にかいた絵を、そのまま紙の小さなスクリーンに映写し、友だちを集めて幻燈会をやった事もあった。つまらないような事ではあるが、そういうふうの一種のオリジナリティもない事はなかった。
 たしか右の眉尻まゆじりの上に真紅まっかな血ぼくろのようなものがあって、それを傷つけると血が止めどもなく流れ出た。そんな思い出が、どういうものか、私にはまたなくなつかしいものである。
 りょうの存在が、私の頭の中で著しく鮮明になって来たのは、私が国の中学校を出て高等学校に入学し、年々の暑中休暇に帰省した時分からである。
 片田舎かたいなかの中学生で、さきざき高等学校から大学に進もうという志望をいだいているものにとっては、暑中休暇に帰省している先輩の言動はかなり影響のあるものである。そういうような影響もあるいはあったろうが、暑中休暇の間はほとんど毎日のように私のうちに往来した。当時どんな事が二人の話題に上ったかは思い出せないが、いずれ人生とか、運命とか、あるいは文学とか、芸術とか、そういう種類の事がおもなものであったらしい。当時若々しい希望に満ちて理想のほか何物も眼中になかった叔父おじと、そろそろ家庭以外の世界に目をあけかかった感受性に富んだおいとの間には、夢のような美しい空想の国が広がっていた事であろう。
 つまりどこか気が合っていたものと見える。南国の炎天に写生帳をさげて、よくいっしょに水彩画をかきに出かけたりした。自転車の稽古けいこをして、少し乗れるようになってからいっしょに市外へ遠乗りに行って、帰りにりょうが落ちて前歯を一本折った事もあった。
 そのころの亮の写生帳が保存されているのを今取り寄せて見ると、何一つ思い出の種でないものはない。第一ページには十七字集と題して、幼稚な、しかし美しい夢に満ちた俳句が、紫鉛筆や普通の鉛筆でかき並べてあって、その終わりの余白には当時はやった不折流ふせつりゅうのカットがかいてある。また自刻の印章――ボート形の内に竪琴たてごとと星を刻したの――が押してある。自分の家の門や庭の芭蕉ばしょうなどの精密な写生があるかと思うと、裏田んぼの印象風景などもある。「くいし(山名)へ行くにはどっちですか」「神社」「アツマコート」「小女山道」「昼飯」「牛を追うおきな」「みかん」「いこいつつ水の流れをながめおれば、せきれい鳴いて日暮れんとす」など、とり止めもない遠足の途中のいたずら書きらしいものもある。
 亮のかいた絵に私が題句をかいたり、亮の句に私が生意気な評のようなものをかいたりしたのもある。私はそのころ熊本くまもとで夏目先生に句を見てもらっていた。そして帰省するとおいに句を作らせて自分が先生のつもりでいたものらしい。とにかくそのころの亮と私の生活はない交ぜたもののようになっていた事がこの帳面を見てもよくわかる。
 裏坪や台所などのスケッチを見ると、当時のB家のさまがいろいろ思い出されて、そのころからわずかに二十年の間に相次いでなくなった五人の親しい人々の面影を、ついそこらに見るような気がする。
 私が大学へ移ったのと入り代わりぐらいに、りょう熊本くまもとの高等学校へはいった。同じ写生帳の後半にはそこの寄宿舎や、日奈久温泉ひなぐおんせん三角港みすみこう小天おあまなどの小景がある。日奈久の温泉宿で川上眉山かわかみびざん著「にお浮巣うきす」というのを読んだ事などがスケッチの絵からわかる。浴場の絵には女の裸体がある。また紋付きの羽織はおりで、書机に向かって鉢巻はちまきをしている絵の上に「アーウルサイ、モー落第してもかまん、遊ぶ遊ぶ」とかいたものもある。
 亮が後年までほとんど唯一の親友として許し合っていたM氏との交遊の跡も同じ帳面の絵からわかる。
 中学時代からいっしょであったのが、高校の入学試験でM氏は通過し、亮は一年おくれた。その時M氏に贈った句に「登る露散る露秋の別れかな」というのがある。
 高等学校では私もよく食った凱旋饅頭がいせんまんじゅうを五十も食って、あとでビットル散をなめたりしていたらしい。
 大学は農科へ入学して、農芸化学を修めていたが、そのうちにはげしい神経衰弱にかかって学校を休学した。それきりどうしても再び出ようとは言わなかったのを、私が留学から帰った時に無理にすすめて出る事にはなったが、それでもやはり学校は欠席がちであった。
 そのころは私はもう青年ではなかった。空想から現実の世界へ踏み込んで、功名心にかられて懸命に努力し、あくせくしていた。そうしてりょうの学校をなまける心持ちには共鳴し難くなっていた。私の目から見るとただ自分の心の中へ中へと引っ込んで行く亮を、どうでも引き立てて外側へ向け直してやる事が自分の務めのように思っていたので、機会あるごとに口をすくして説法のような事を聞かせた。
 その当時のりょうの日記のようなものを見ていると、こんな一節がある。
「明治四十四年十一月二十八日――昨日青山あおやまの宿から本郷ほんごうの下宿へ移った。朝押し入れから蒲団ふとん行李こうりを引き出して荷造りをしている間にも、宿を移ったとて私はどうなるだろうと思う。叔父おじさんや弟は、宿でも変えて気分を新たにしたら学校へ行けるような心持ちになるだろうという。私は学校のほうへ一歩も向かう勇気はもうない。いやだいやだと思う。へやいっぱいに取り散らした荷物を見るとやはり国へ帰りたい念が強く起こる。今宿へ払う金が十円ばかりある。これで、きょう思い切って帰ろうとしきりに思う。しかし国へ帰っても自分のうちへ帰るのではない――兄とあによめの家――苦しい事は同じだ。私は自分をどうする事もできない。しかし私はこうしていても、ついには田舎いなかで貧しくとも静かに生活するという、私が自分を省みてのただ一つの望みが満たさるる時が来る事はないように思われる。この望みが、もう全く活力のない私を自分に捨てかねる原因になっている。こんな望みもなくなってほしい。前途が全く暗くなってしまったら、とこんな事を思ってポカンとしていると、弟が来てくれた。そしてただもうなんという事なしに移ってしまった。」
「夜弟と叔父さん所へ行く。こいつはもうだめだと思いながら、そのものに対する責任は尽くして行くといったような態度や弱き者に対する軽侮の笑いに対しては、生きている私は屈辱を感ぜずにはいられなかった。」
 私はここまで読んだ時に、当時の自分のどこかに知らぬ間に潜んでいた弱点を見抜かれたような気がして冷や汗が流れた。
 その次にまたこんな事がかいてある。
「自分を発展しなくてはやまない活力、これが人生を楽しむ要素である。」
 りょうがどうしてこうはげしい神経衰弱にかかったかは私にはよくわからない。一つはそのころひどく胃が悪くて絶えず痛んでいたという事が日記の中にも至るところに見いだされ、またいつであったか一度は潰瘍かいようの出血らしいものがあったという話を聞いているから、この病気のためもあったに相違ない。実際その前から胃弱のためにやせこけて、人からは肺病と思われていた。
 この記事より二年前明治四十二年十一月を起点とした「どうなりゆくか」と題した彼の日記の最初のページからもうこの胃痛の記事が出て来る。そして学校の不愉快、人に対する不平、自己に対する不満、そういう感情の叙述と胃の痛みの記事とが交錯して出てくる。
 しかしこの消化器病のほかに亮を悩ましていた原因もいろいろないではなかった。それは、第一には父の春田が当時不治の病気にかかっていた事である。私は海外へ出ていてほとんど何事も知らずにいたが、日記を見るとそれに関するりょう煩悶はんもんのようなものがいくらかうかがわれる。四十二年十一月七日のには、
「……近ごろ身内のものから手紙が来ると、父の病気が悪くなったのかとなんだか恐ろしい。……父の病気に対して、私の心持ちは、ただなんだか恐ろしいというにとどまる。それでいつも考えまい考えまいと努め、またそうしていられる。見舞いの手紙も一度も出した事はない。不孝の子だ。……」
「弟と通りを散歩しながら、いつになく、自分の感情の美しからざる事などを投げ出すように話した。おれは自分をあわれむというほかに何も考えない。こんな事を言った。そして弟の前に自分を踏みつけた時に少し心の安まるような心持ちがした。しかしこの絶望の声に対して少しの同情を期待したというような弱い心持ちもあったようだ。……自分は自分の生命を左右するような大事は、恐れて忘れよう忘れようとつとめる。そして日々 trifles によって苦しめられている。」
「高等学校の校医の○○も、○○という体操教師も『君のにいさんはとても高等学校もよう卒業しまいと思っていたが、大学へ行くようになったから、存外かまわないものだ』と言ったと弟が話した。それを聞いてなんだか一種自分というものに対する責任が多少軽くなったような安心を覚えた。」
 第二第三の原因らしいものも考えられない事はないが、それらはここには書かない。

 りょうは自分の事を頭が悪い悪いと言っていた。しかし私の見るところでは、むしろ珍しいくらいいい透徹した頭脳をもっていたように思われる。かなり複雑な科学上の事実や理論でも気持ちのいいように急所をのみ込んだ。世間に起こっているいろいろな出来事でも、その事がらの表面に現われている現象よりも、その現象の底にある原動力のほうにすぐに目をつけていた。他人の言行でもそれを通して直接に腹の中を見透していた。そういう敏感さは子供の時分からすでにあったのが、病気のためにいっそう著しく病的に敏感になっていたように思う。それだから、他人はもちろん肉親の人々やまた自分自身のでも、胸の奥底にある少しの黒い影でも見のがす事ができなかった。そしてそういう美しくないものに対する極端な潔癖は、人に対し自分に対する無心な純な感情の流露を妨げた。そうしてまたそのような感情の拘束の自覚が最もきびしく彼を苦しめ悩ましていたように見える。しかし人一倍美しいやさしい感情を持っていなかったのであったら、このような煩悶はんもんはおそらく有り得なかったのではあるまいか。罪は頭のいい事にあった。もう少し頭が悪かったら、りょうはどんなに気らくであったろう。
 こういう不安と煩悶はんもんをいだきつつ、学校へ出ては発酵化学の実験をやり、バクテリヤの培養などをやっていた。そして夜は弟と二人で、よく寄席よせや芝居や活動を見に行って、やるせない心のさびしさを紛らせようとしていたらしい。胃の痛むのによく蕎麦そば汁粉しるこを食ったりしては、さらに自分に対する不満を増していたように見える。
「本日は弟と歌舞伎座かぶきざに行く事になっていた。――父の病気に対する『愛なき恐れ』、金に対する不安、母の辛苦、不孝のために失われたる親子の愛情、学業に対する不忠実、このようなものが入り乱れている頭には、この大芝居の忠臣蔵もおもしろいはずはない。しかし芝居のようなざわざわしている所がいちばん『忘れる』に適している。」
 その翌日の記事には、
「きのう芝居から帰りに、そばやしるこを食い過ぎたため胃のぐあいが悪い。学校を休む事にきめる。弟も休んでいる。絵をかいて暮らした。夜は末広亭すえひろていへ雨がどしどし降るのに出かける。かなり大きな薄暗い小屋に二三人しか客が見えない。語る人も聞く人もさびしい。帰りはまたそばやで酒を飲んだ。」
 心のさびしさが不養生をさせ、その結果がさびしさを増していたのである。
 四十三年一月下旬に父の春田居士しゅんでんこじが死んだ。その年の三月からりょうは学校へ出るのを全くやめて、あてもなく総州そうしゅうへんを旅行したりしていたらしいが、いよいよ神経衰弱がひどくなって、とうとう四月に国へ帰ってしまった。前に言ったように四十四年に再び引きずられるように上京して、私の近所の下宿から学校へかよっていたが、翌年にそれでもどうにか卒業した。
「……ことしで、はや、三度学校をしくじって、今度やっと末席で卒業する事ができた。しかし卒業したのはやはりうれしかった。そして神田かんだの西洋料理でやった謝恩会へも出た。しかし黙ってすみのほうへ引っ込んでいた。」こんな事が「どうなりゆくか」と題した日記のノートの最後のページに書いてある。それでこの帳面は終わっているのである。卒業はともかくもりょうにとっても一つの一大転機であった。
 この世の中で最劣等の人間のごとく自分を感じていた亮は、彼を教えていた教授がたの目には決してそうばかりとは見えなかった。ある先生などは特に彼の頭のいい事を確かに認めていたらしい。それで卒業席次がいちばん下のほうであったにかかわらず、先生の推挙によってT県のF町の農学校の教諭として赴任することとなった。そして数年前に結婚して郷里に残してあった妻と、そこに始めて自分の家庭をもつようになった。
 かの地に行ってからの生活については私はあまり多くを知らない。しかしそこでのりょうはだいたいにおいて幸福であったらしく私には思われる。
 交際という事には全く慣れず、あらゆる実務という事に経験もなく趣味もなかった亮の赴任当座は、ずいぶんいろいろ困る事が多かったろうという事は想像するに難くない。おそらくあらゆる失敗を重ね、それについてあらゆる苦痛をなめたろうと想像される。「自己の頭の間違い多きを恐れて、ますます間違いを生ず」という文句が入学式のあった日の日記にあるのも、そのへんの消息を語っているように見える。しかし格別の大失態というほどの事もなくて、後には教頭や舎監も勤めているのを見ると、そういう地位にでもどうにか適応するだけのものはやはり備えていたものと見える。亮の子供の時からの外見だけで彼を判断していた老人などは、そういう役目の勤まるのをむしろ不思議に感じていたらしい。
 いつだったか、かの地からよこした手紙に、次のような意味の事があった。
 今までは、何物にもぶつかるという事なしに、遠くからガラスの障子越しにながめるばかりで、それでいろんな事を空想しては恐ろしがってばかりいたが、今日ではもういやでも物にぶつからなければならない。そうなると空想をするだけの余裕はなくなる。そして存外勇気が出て来る。
 またこんな事もあった。「うまく物事をやろうというような気の出るのがいちばん困る。」
 卒業就職の後ともかくも神経衰弱は大部分えたようであった。ただかの地の冬の冷湿の気候が弱いからだにこたえはしまいかと心配していたが、割合にしばらくは無事であった。
 かの地ではおいおい趣味の上の友だちができて、その人たちと寄り合って外国文学の輪講会をやったりしていたようである。絵もいろいろかいていたらしい。ある時はたんねんに集めていた切り抜き版画などの展覧会をやったり、とにかく相当に自分の趣味を満足させるだけの環境はあったらしい。静かな田舎いなかで地味な教師をして、トルストイやドストエフスキーやロマン・ローランを読んだりセザンヌや親鸞しんらんの研究をしたり、生徒に化学などを授けると同時に図画を教えたり、時には知人の肖像をかいてやったりするような生活は、おそらくりょうが昔から望んでいた理想によほど近いものではなかったかと思う。前に出した「どうなりゆくか」の中にも「単純な仕事に、他の事は考えるひまなく、忙しく働いた後、湯にでもはいってゆったりして、本でも読むか、紅茶でも飲みながら、好きな絵でも見るような生活がやってみたい」とあるが、この望みはいくらか遂げられたのではないかと思われる。
 セザンヌの好きであった彼のそのころの日記にこんな事がある。「セザンヌの絵のような境地に至りたいと思いながら、今までその内容すなわちそれまでに至る努力を考えなかった。神にすべてをまかせて、安心して、自己の真を打ち出して、運命を直視し、苦しみ悲しみながら進もう。そしてシンプルな、落ち着いた、セザンヌの絵のような境地に達しよう。」またこんな事もある。「トルストイは人生の帰趣を決めてしまおうとした。そこに不自然があり無理がある。そこに芝居気が生ずる。」
 学校の職務について苦労のない事はなかった。学校にありがちな大小の事件のために彼の健康には荷の勝った辛労もあったようである。そういう時にどんな態度でどんな処置をとったかは全く私にはわからないが、ただ日記の断片のようなものなどから判断してみると、いつでもおしまいには自分の誠意や熱心や愛の足りない事を悔やんでいたようである。
 生徒にはそれでも相当に厳格であったらしい。舎監としてもかなりきびしいほうであったらしい。スリッパをはいて見回る、その足音を生徒がけむったがってスリッパというあだ名をつけていたそうである。生徒はまたりょうに「たつのおとし子」というあだ名をつけていると自分で話していた。これは彼の顔つきややせてひょろ長く、猫背ねこぜを丸くしている格好などから名づけたものであろう。実際そういえばそうらしい様子もあった。しかし彼の風貌ふうぼうにはどことなく心の奥底のやさしみと美しさが現われていたように思う。生徒のこのあだ名から私はどうしても単純な憎悪や嫌忌けんきを読み取る事ができない。
 友だちといっしょに酒を飲んだりする時には、どうかすると元気がよくて、いつになく高談放語したり、郷里の昔の武士の歌った俗謡をどなったりする事もあったそうであるが、これはどうもやはりりょうのおもな本性ではなかったように私には思われる。ただもう少し健康で、もう少し体力が盛んであったら、こういう方面がもう少し平生にも現われたかもそれはわからない。
 弱いからだにとうとう不治の肺患が食い込んでしまった。東京の医師にてもらうために出て来て私のうちで数日滞在してから、任地近くの海岸へしばらく療養に行っていたが、どうもはかばかしくないので、学校を休職して郷里の浜べに二年余り暮らした。天気がいいと油絵のスケッチに出たりしていたようである。ほんとうに突っ込んでかきたいと思っても、ついめんどうでいいかげんにごまかしてしまうのが残念だというような事を手紙の端に書いてあったりした。そのころのスケッチ帳に亮の妻が亮の寝顔を写生したのがあるが、よく似ていて、そしてやつれはてているのがさびしい。去年の春から悪くなって、五月に某病院に入院するとまもなくなくなった。臨終は平穏であった。みんなに看護の礼を言っていとまごいをして、自分の死後妻には自由を与えてやってくれと遺言して、静かに息を引きとったそうである。
 急を聞いて国へ帰っていたりょうの弟からその時の詳しい様子を聞いた時に、私はなんだかほっとしたような心持ちがした。ほとんど予期されていた亮の最後が、それほど安らかで静かで美しいものであったと知った時には、思わず「それはよかった」といったような不倫な言葉が自然に口から出た。そうしてそのあとから水のにじみ出るようなさびしさが襲って来るのであった。
 散るべくしてわずかに散らないでいたきりの一葉が、風のない静かな夕べにおのずから枝を離れて落ちたような心持ちがした。自分の魂の一部分がもろく欠け落ちて永久に見失われたというような心持ちもした。
 りょうの死の報知が伝わった時に、F町の知友たちは並み並みならぬ好意を故人の記念の上に注いでくれた。生前から特別な恩典を与えて心安く療養をさせてくれた学校当局は、さらに最後の光栄を尽くさしてくれた。親しかった人々は追悼会や遺作展覧会を開いてくれ、またいろいろの余儀ない故障のために親戚しんせきのものだれ一人片付けに行く事のできなかった遺物の処理までも遺憾なく果たしてくれた。そしてこの処理の中に一通りならぬ濃まやかな心づかいのこもっているのを感じないわけには行かなかった。
 そのほかの知友の中でも、中学時代からの交遊の跡を追懐した熱情のこもった弔詞を寄せられた人や、また亮が読むべくしてついに読む事のできなかった倉田くらた氏の著書の巻頭に懇篤な追悼文を題して遺族に贈られた人もあった。
 私はここでそういう人々の名前をあげて感謝の意を述べたいような気がする。しかし私の頭にある故人のある資質を考えると、かえってそうしないほうがよいようにも思う。
 ただそれらの人たちに対する遺族や一門の厚い感謝の念は、故人の記憶の消えない限り消える事はあるまい。
 年取って薄倖はっこうりょうの母すらも「亮は夭死ようしはしたが、これほどまでに皆様から思っていただけば、決してふしあわせとは思われない」とそう言っている。私もほんとうにそう思う。
 これだけの好意を人から寄せられるには、やはりよせられるだけのある物があったに相違ない。そのある物がこの世に残っている限り、死ぬという事はそんなにさびしい事ではあるまい。
 亮には一人の子供もなかった。そして子供をほしがっていた時代もあった。死の迫るを知った時になってどう思ったかわからないが、ただなんとなくそれがさびしくはなかったかと思う。
 りょうはたしかに弱い男には相違なかった。しかし自分の弱さと戦う戦士としては決して弱くなかった。平静な水面のような外見の底に不断に起こっていた渦巻うずまきがいかに強烈なものであったかは今私の手もとにある各種の手記を見ればわかる。そういう意味で亮は生まれつき強い人々よりも幾倍も強い男であったかもしれない。
 亮のような柔らかい心臓と彼のような透明な脳とを同時にもって生まれるという事は、現世にあっては不幸な事かもしれない。防御のない急所を矢弾やだまの雨にさらすようなものかもしれない。その上にまた亮は弱い健康には背負いきれない「生」の望みを背負っていた。そういう不調和の結合から来るいろいろの苦悩は早くから亮の心を宗教に向かわせた。始めはキリストの教えを通ってついには親鸞しんらんの門にはいった。最後にどこまで進んでいたかはわからないが、ただ彼の短い生涯しょうがいが決してそれほど短いものでなかったという事だけは言えるように思う。
(大正十一年五月、明星)





底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について