ちょうど今から二十四年前の夏休みに、ただ一度ケーベルさんに会って話をした記憶がある。ほんとうに夢のような記憶である。
それは私が大学の一年から二年に移るときの夏休みであった。その年の春から私は
適当な楽譜を得るためにはじめには
そのころ音楽会と言えば、音楽学校の卒業式の演奏会が唯一の呼び物になったがこれは自分らには入場の自由が得られなかった。そのほかには明治音楽会というのがあって、このほうは切符を買ってはいる事ができた。半分は管弦楽を主とした洋楽で他の半分は邦楽であった。そのほかにも何かの慈善音楽会というようなものもあって、そんなおりには私にとっては全く耳新しかったいろいろのソロなどを聞く事もできた。
記憶が混雑して確かな事は言われないが、たぶんそういう種類の演奏会のどれかで私は始めてケーベルさんの顔を見、ケーベルさんのピアノの独奏を聞いたように思う。曲がどういう曲であったかそれも覚えていない。ただ覚えているのは、ケーベルさんが一曲の演奏を終わって、静かに横にからだを向けて、
演奏していた時の様子も思い出す。少し背中を
まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした。
平たく言えば私はその時から全くケーベルさんが好きになったのであった。もっともその前からその人がらについて充分な予備知識はもっていたのであるが、一度会って話がしてみたかった。しかしなんの用もないのに無紹介で訪問するのはあまりにぶしつけだと思って控えていた。
夏休みにヴァイオリンをもてあそんでいるうちにも、私の頭の中のどこかにケーベルさんの顔が浮かんでいたものと見える。どうしたはずみであったか、とうとう私はケーベルさんに手紙を書いた。理科の一年生だが音楽の修業の事で教えていただきたい事があるから、お暇の時に面会を許してくださいというような事をかいたものらしい。
返事をもらう事ができるかどうかと危ぶんでいる間もないほどに早く返事が来た。何日の何時に来いというのであった。それがどんなに私を喜ばせ興奮させたかは言うまでもない。
約束の日に
若い男の西洋人が取り次ぎに出た。書斎のような所へ通されると、すぐにケーベルさんが出て来た。上着もチョッキも着ないで、ワイシャツのままで出て来た。そしていきなり大きな葉巻き
ドイツ語は少しも話せず、英語もきわめてまずかった私がどんな話をしたかほとんど全く覚えていない。ただ私がヴァイオリンを独習している事を話した時に、ケーベルさんは私のもっている楽器の値段を聞いた。それが九円のヴァイオリンである事を話したら、ケーベルさんは突然吹き出して大きな声でさもおもしろそうに笑った。私はそれがなぜそれほどにおかしい事であるかをその時には充分理解する事ができなかった。それにもかかわらず私は笑われても別に不愉快でなかった。かえっていかにも罪のない子供のような笑いにつり込まれて私もわけもなく笑ってしまったのであった。
次の
その時の話の結果として、ケーベルさんは私のためにある音楽家に紹介状を書いてくれた。それは結局断わられて無効になってしまった。そうして私はとうとう二十年後の今日まで、ほんとうの楽器の扱い方を知らずに過ごして来た。
しかし私がケーベルさんを尋ねた第一の動機は、今になってみると、ヴァイオリンの問題よりはやはりむしろケーベルさんに会う事であったらしく思われる。考えてみると恥ずかしい事である。その時に私は二十三歳であった。ケーベルさんもまだそう老人というほどでもなかった。
それきりで私は二度と会って話をした事はない。ただその後に一度
全く夢のようである。
言葉がもう少し自由であったなら、そして自分がもし文科の学生ででもあったら、私はおそらく、もう少しケーベルさんに接近する機会が多かったかもしれない。
ケーベルさんがなくなった時に私は昔の事を思い出してせめて葬式にでも出たいような心持ちがした。しかしやっぱりそうしないほうがいいと思ってやめてしまった。どこへ見舞い状を出す先もないと思う事がさびしかった。
自分のような、みずから求めて世間に義理を欠いて孤独な生活を送りながら、それでいて悟りきれずに苦しんでいるあわれな人間にとっては、ケーベルさんのような人が、どこかの領事館の一室にこもったきりで読書と思索にふけっているという考えだけでもどんなに大きな
ケーベルさんに笑われた九円のヴァイオリンは、とうの昔にこわれてしまったが、このごろ思い出してまた昔の教則本をさらっている。それにつけて時おりはあの当時を思い出す。そうすると、きっと
(大正十二年八月、思想)