「当世物は尽くし」で「安いもの」を列挙するとしたら、その筆頭にあげられるべきものの一つは陸地測量部の地図、中でも五万分一地形図などであろう。一枚の代価十三銭であるが、その一枚からわれわれが学べば学び得らるる有用な知識は到底金銭に換算することのできないほど貴重なものである。今かりにどれかの一枚を絶版にして、天下に
一枚の五万分一図葉は、緯度で十分、経度で十五分の地域に相当するので、その面積は、もちろん緯度によってちがうが、たとえば東京付近でざっと二十七方里、
この一枚の地形図を作るための実地作業におよそどれだけの手数がかかるかと聞いてみると、地形の種類によりまた作業者の能力によりいろいろではあるがざっと三百日から四百日はかかる。それに要する作業費が二三千円であるが、地形図の基礎になる三角測量の経費をも入れて勘定すると、一枚分約一万円ぐらいを使わなければならない、そのほかにまだ計算、整理、製図、製版等の作業費を費やすことはもちろんである。
それだけの手数のかかったものがわずかにコーヒー一杯の代価で買えるのである。
もっとも物の価値は使う人次第でどうにもなる。地図を読む事を知らない人にはせっかくのこの地形図も
今、かりに地形図の中の任意の一寸角をとって、その中に盛り込まれただけのあらゆる知識をわれらの「日本語」に翻訳しなければならないとなったらそれはたいへんである。等高線ただ一本の曲折だけでもそれを筆に尽くすことはほとんど不可能であろう。それが「地図の言葉」で読めばただ一目で土地の高低起伏、斜面の緩急等が明白な心像となって出現するのみならず、大小道路の連絡、山の木立ちの模様、耕地の分布や種類の概念までも得られる。
自分は汽車旅行をするときはいつでも二十万分一と五万分一との沿線地図を用意して行く。遠方の山などは二十万分一でことごとく名前がわかり、付近の地形は五万分一と車窓を流れる透視図と見比べてかなりに正確で詳細な心像が得られる。しかしもし地形図なしで、これだけの概念を得ようとしたら、おそらく一生を放浪の旅に
この夏
東京付近へドライヴに出るとき気のついたことは、たいていの運転手が陸地測量部地形図を利用しないでかえって坊間で売っている不正確な
地形図の価値はその正確さによる。昔ベルリン留学中かの地の地埋学教室に出入していたころ、一日P教授が「おもしろいものを見せてやろう」といって見せてくれたのは、シナの某地の地形図であった。やはり二十メートルごとぐらいの等高線を入れてあったが、それが一見してほとんどいいかげんなでたらめなものであるということがわかった。等高線の屈曲配布にはおのずからな方則があっていいかげんなものと正直に実測によったものとは自然に見分けができるのである。
その時に痛切に感じたことは日本の陸地測量部で地形図製作に従事している人たちのまじめで忠実で物をごまかさない頼もしい精神のありがたさであった。ほとんど人跡未到な山の中の道のない所に道を求めあらゆる危険を冒しても一本の線にも偽りを描かないようにというその科学的
登山流行時代の今日スポーツの立場から
上には上がある。測量部員が真に人跡未到と思われる深山を歩いていたらさび朽ちた一本の
地形測量の基礎になるだいじな作業はいわゆる一等三角測量である。いわゆる基線(ベースライン)が土台になって、その上にいわゆる一等三角点網を組み立てて行く、これが地図の骨格となるべき鉄骨構造である。その網目の中に二等三等の三角網を張り渡し、それに肉や皮となり
その理由は、各三角点から数十キロないし百キロの距離にある隣接三角点への見通しがきかなければならないからである。それだから、三角測量に従事する人たちは年が年じゅう普通の人はめったに登らないような山の頂上ばかりを捜してあちらこちらと渡って歩いている。そうして天気が悪くて相手の山頂三角点が見えなければ、幾日でもそれが見えるまで待っていなければならない。関東震災後の復旧測量では
測量を始める前にはまず第一に三角点の位置を選定する選点作業が必要である。深山の峰から峰と一つ一つ登って行ってはそこから百キロ以内の他の高峰との見透しを調べて歩くのである。一点を決定するのに平均二週間はかかる。そうして三角点の配布が決定したら、次にはそこに
北海道では
技術官に随行する測夫というのがまた隠れた文化の貢献者である。ただ一人山頂の櫓に回照器(ヘリオトロープ)を守って、時々刻々に移動する太陽の光束を反射して数十キロメートルかなたの観測点に送る。それには多年の修練によるデリケートな神経と筋肉の作用を要する。この測夫の熟練のいかんによって観測作業の
最も大規模な測量の例としてはこんな場合もある。
とにかく、これだけの
地形測量をする測量班員が深山幽谷をさまようて幾日も人間のにおいをかがずにいて、やっとどこかの三角点の
自分はずっと前からこの世に知られていない文化の貢献者を何かの機会に世間に紹介したいという希望をもっていた。そうして当局者の好意で主要な高山における三角点の観測者の名前とその測量年度を表記したものを手にすることができた。しかし今ここでその表の一小部分でも載せることは紙面の制限上到底許されない。それでここではただ現在陸地測量部地形図の恩恵をこうむりながらそれを意識していない一般の読者に、そうした隠れた貢献者が一枚一枚の図葉の背後に存在することを指摘し注意を促すよりほかに道はない。
近年になってまた日本の陸地測量部は一つの新しい方面で世界の学界に偉大な貢献をするようになった。それは同一地域の三角測量や精密水準測量を数年を隔てて繰り返し、その前後の結果を比較することによってわれらの生命を託する
この重要な研究の基礎となる実測資料は実にことごとくわが陸地測量部員の汗血の結晶でできたものである。もっともこの測量には多大の費用がかかるのであるが、それは幸いに帝国学士院や、
人間が地上ばかりを歩いている間は普通の地図で足りるが、空を飛び歩くようになった今日では航空用の地図が必要になった。しかし、現在の航空地図はまだほんの芽ばえのようなもので普通の地形図に少しばかり毛のはえたものである。しかし今に航空がもっともっと発達して、空中の各層に縦横の航空路が交錯するようになればもはや平面的な図では間に合わなくなって立体的なあるいは少なくも立体的に代用される特殊な地図が必要になるかもしれない。
空中ばかりでなく人間の交通範囲は地下にも拡張される傾向がある。
関東大震後に私は首都の枢要部をことごとく地下に埋めてしまうという方法を考えたことがある。重要な
しかし現に
九月一日は帝都の防空演習で丸の内などは仮想敵軍の空襲の焦点となったことと思われる。演習だからよいようなものの、これがほんとうであったらなかなかの難儀である。しかし、もしも丸の内全部が地下百尺の七層街になっていたとしたら、また敵にねらわれそうなあらゆる公共設備や工場地帯が全部地下に安置されており、その上に各区の諸所に適当な広さの地下街が配置されていたとしたら、敵の空軍はさぞや張り合いのないことであろうし、市民の大部分は心を安んじてその職につき
これは今のところでは一場の夢物語のようであるが、実はこの夢の国への第一歩はすでに踏み出されている。そうして昨今国民の耳を驚かす非常時非常時の呼び声はいっそうこの方向への進出を促すように見える。
東京市全部の地図が美しい大公園になってそこに運動場や休息所がほどよく配置され、地下百尺二百尺の各層には整然たる街路が発達し、人工日光の照明によって生育された街路樹で飾られている光景を想像することもそれほど困難ではないように思われるのである。
(付記) 陸地測量部の作業に関する項は知友技師梅本豊吉 氏の談話によったが、もし誤記があったらそれは筆者の聞き違えである。
(昭和九年十月、東京朝日新聞)