風呂の寒暖計
今からもう二十余年も昔の話であるが、ドイツに留学していたとき、あちらの婦人の日常生活に関係した理化学的知識が一般に日本の婦人よりも進んでいるということに気のついた事がしばしばあった。例えば下宿のおかみさんなどが、
些細なようなことで感心したのは、風呂を立ててもらうのに例えば四十一度にしてくれと頼めばちゃんと四十一度にしてくれる。四十二度にと云えば、そんなに熱くてもいいのかと驚きはするが、ちゃんと四十二度プラスマイナス〇・何度にしてくれるのである。もちろんこれは
今から数年前三越かどこかで、風呂の湯の温度を見るための寒暖計を見付けて買って来て、宅の女中にその使用法を授けてみたのであるが、これは結局失敗に終った。先ず初めは、浴槽の水を掻き廻さないで、水面二、三寸のところへ寒暖計の球をさしこんで、所定の温度に達した頃に報知して来るのだから、かき廻さないで飛び込めば上の方は適温だが、底の方はまだ水である。掻き交ぜれば、ぬるくてふるえ上がってしまう。またよくかき廻して丁度になっていても、一方で燃料が
チャムバーレンという人が云った皮肉な
今日は暑くて九十度を越したなどとというあの寒暖計、体温が三十九度もあるなどというあの寒暖計、それから風呂を四十度にしてくれなどというあの寒暖計、いずれもみな物理学上でいうところの「温度」を測り示すものであるが、非科学的国民の頭には、この三つのものの示す温度がどうも別々のもののように感じられることもあるらしい。そのせいでもあるまいが、体温計とその度盛はたいそう大事がられ、風呂場の寒暖計はひどく虐待されるようである。
話は横道に外れるが、
しかし風呂に限らず、われわれの日常生活でわれわれの科学的知識の欠乏のために色々な損失をし、色々な危険を冒していることは数え上げればその外にもずいぶん沢山にあるであろうと思われる。普通教育にも理科の課程がかなり豊富にあるようであるから、それがよく呑み込めていれば、それだけでも一通りはかなり役に立つべきはずであるが、実際それがそうでないのは、教える方と教わる方と両方に罪があるであろう。教程や教授法にも改良の余地が沢山にあるように思われるが、第一教わる方に心掛けと興味がなければ結局何の効果もない訳である。この興味と心掛けはどこから生れるか。これが一番重大な問題である。一つには国民性もあるかもしれないが、また一つには幼い頃からの家庭の教育に最も多く影響されるであろうと思われる。これについては特に母となる人達の理化学的知識に対する理解と興味の水準をもう少し引上げることが肝要であろうと思われる。科学に対する興味を養成するには、
(昭和六年六月『家庭』)
こわいものの征服
ある年取った科学者が私にこんな話をして聞かせた。私は子供の時から人並以上の臆病者であったらしい。しかし私はこの臆病者であったということを今では別に恥辱だとは思っていない。むしろかえってそうであったことが私には幸運であったと思っている。
子供の時分にこの臆病な私の
同じように地震もまた臆病な子供の私をひどくおびえさせたものの一つである。両親が昔安政の地震に遭難した実話を、子供の時から聞かされていたこともこの畏怖の念を助長する効果はあったかもしれないのであるが、しかしそれにはかかわらず、おそらく地震に対するこの恐怖は本能的なものであった。少なくとも私の子供の時分のそれはちょうど野蛮民のそれと同様な超自然的なものであったに相違ないと思われるのである。それはとにかく、後日理化学を修めるようになってから私の興味はやはり自然に地震現象の研究という方に向かって行った。そうして自分でその後この現象の研究を手がけるようになってからは、もう恐怖の感じは全く忘れたようになくなってしまった。もちろん烈震の際の危険は充分に分っているが、いかなる震度の時にいかなる場所にいかなる程度の危険があるかということの概念がはっきりしてしまえば、無用な恐怖と狼狽との代りに、それぞれの場合に対する臨機の所置ということがすぐに頭の中を占領してしまうのである。地震だなと思うと、すぐにその初期微動の長さの秒数を数えたり、主要動が始まればその方向や週期や振幅を出来るだけ確実に認識しようとする努力が先に立つ。そうしてそれをやっている間に同時にその地震の強弱程度が直観的にかなり明瞭に感知されるから、たいていの場合にはすっかり安心して落着いていられるのである。関東地震の起った瞬間に私は上野の二科会展覧会場の喫茶店で某画伯と話をしていた。初期微動があまり激しかったのでそれが主要動であると思っているうちに本当の主要動がやって来たときは少しはびっくりしない訳に行かなかった。しかしその最初の数秒の経過と、あの建物の揺れ工合とを見てからもうすっかり安心してしまった。そうしてすべての人達が屋外へ飛び出してしまった後に一人残って飲み残りの紅茶をなめながら振動の経過を出来るだけ詳細に観察しようと努力していた。あとでこの事を友人に話したら腰が抜けて逃げられなくなったんじゃないかといって笑われたくらいであった。これは要するに地震というものの経過の方則といったようなものをよく知っている人なら誰でも同じであるはずである。
つまり私は臆病であったおかげでこの臆病の根を絶やすことが出来たような気がする。私は臆病ではあったが未練ではなかったのだと思っている。だから自分の臆病を別に恥ずかしいとは思っていないのである。
この年取った、そして、少しばかり風変りな科学者のこの話は、子供を教育する親達にも何かの参考になりそうである。また同時にすべての人々にとっても「こわいもの」に対する対策の一般的指導原理を暗示するようにも思われるのである。
(昭和六年十二月『家庭』)