鉛をかじる虫

寺田寅彦




 近頃鉄道大臣官房研究所を見学する機会を得て、始めてこの大きなインスチチュートの内部の様子をかなり詳しく知ることが出来た。名前だけ聞いたところではたいそういかめしいお役所のような気がして、書類の山の中で事務や手続きや規則の研究をしている所かと想像していたのであるが、事実はまるで反対で、それは立派な応用科学研究所であって多数の実験室にはそれぞれ有為な学者が居て色々有益で興味のある研究をしているのであった。
 色々見せてもらったものの中で面白かったものの一つは「鉛をかじる虫」であった。低度の顕微鏡でのぞいてみると、ちょっと穀象こくぞうのような恰好をした鉛のような鼠色の昆虫である。これが地下電線の被覆鉛管をかじって穴を明けるので、そこから湿気が侵入して絶縁が悪くなり送電の故障を起こすのだそうである。実に不都合な虫であるが、怒ってみたところで相手が虫では仕方がない。怒る代りに研究をして防禦法を講じる外はないであろう。
 虫の口から何か特殊な液体でもだして鉛を化学的に侵蝕するのかと思ったが、そうでなくて、やはり本当に「かじる」のだそうである。その証拠にはその虫のふんがやはり「鉛の糞」だという。なるほど顕微鏡下にある糞の標本を見るとやはり立派な鉛色をしているようである。
 これらの説明を聞いた時に不思議に思われたのは、鉛を食って鉛の糞をしたのでは、いわば米を食って米の糞をするようなもので、いったいそれがこの虫のために何の足しになるかということである。米の中から栄養分を摂取して残余の不用なものを「米とは異なる糞」にして排泄するのならば意味は分かるが、この虫の場合は全く諒解に苦しむというより外はない。
『西遊記』の怪物孫悟空が刑罰のために銅や鉄のようなものばかり食わされたというお伽話とぎばなしはあるが、動物が金属を主要な栄養品として摂取するのははなはだ珍しいといわなければなるまい。もっとも、人間にでもきわめて微量な金属が非常に必要なものであるということは、近頃だんだんに分かりかけて来ているようではあるが、しかしそれは食物全体に対して10[#「10」は縦中横]のマイナス何乗というような微少な量である。この虫のように自分の体重の何倍もある金属を食って、その何十プロセントを排泄するというのは全く不思議というより外はないであろう。
 何のために鉛をかじるかが疑問である。送電線の被覆鉛管の内部にどんなものがはいっているか、そんなことを虫が知っていようとは思われないから、虫の目的はやはり鉛自身にあることは明白である。それなら単なる道楽かというに、虫が道楽をするというのも受取りにくい仮説である。何かしらこの虫の生存に必需な生理的要求のために本能的にかじると考える外はないように思われる。
 こんな疑問を起こしているうちに、妙なことを聯想した。
 われわれが小学校中学校高等学校を経て大学を卒業するまでの永い年月の間に修得したはずの知識は、分量で測ることが出来るとすればずいぶん多量なものであろうと思われる。十七、八年の間かじりつづけ、呑み込みつづけて来た知識のどれだけのプロセントが自分の身の養いになっているかと考えてみても、これはちょっと容易には分かりかねるむつかしい問題である。しかし、ともかくも、学校で教わったことの少なくも何十プロセントは綺麗に忘れてしまっていて、例えば自分等の子供に質問されて即座に明答を与えることが出来ない程度にまで意識の圏外に排泄してしまっているのは事実であるらしい。
 そんなに綺麗に忘れてしまうくらいならば始めから教わらなくても同じではないかという疑問が起こるとすれば、これは自分が今この鉛を食う虫に対して抱いた疑問と少し似た所がある。
「知らない」と「忘れた」とは根本的にちがう。これはいうまでもないことである。しかしそれが全く同じであるとしても、忘れなかった僅少なプロセントがその人にとってはもっとも必要な全部であるかもしれないのである。
 世の中に工率百プロセントの器械は一つもない。注ぎ込んだエネルギーの一部は必ず無駄になって消費される。電燈の場合などでも肝心の光になるエネルギーは消費される電力の割合にわずかな小部分で、あとはみんな不必要な熱となって宇宙に放散する。この、物質界に行われる原理を、鉛を食う虫の場合の生理的現象に応用する訳には行かないし、いわんや人間の精神現象に持ち込むべき所由はもとよりない。それにもかかわらず「無駄を伴わないかすを出さない有益なものは一つもない」という言明は、どうも少なくも一つの作業仮説として試みに使ってみてもいいように思われる。この仮説を許容するか、しないかで結果には非常な差を生じる。この仮説が真ならば、無駄をしないようにするには結局有益なことを一つもしないというより外はなくなる。また有益なことをするためには結局なるべく無駄を沢山にするようにしなければならないということにもなるかもしれない。しかしこの仮説が誤りであって「無駄のない有益なものが可能であり、それが当然である」とすると、無駄は罪悪でないまでも不当然であり不都合である。従って、そういうとがめを受けないためには、結局やはり何もしないで、じっとしているのがいいことになるのである。そうなればすべての活動は停止して冬眠の状態に陥ってしまうであろう。それならばまだまだ安全であるが、排泄物をなくするために食物を全廃すれば餓死するより外はない。
 鉛をかじる虫も、人間が見ると能率ゼロのように見えても実はそうでなくて、虫の方で人間を笑っているかもしれない。人間が山から莫大な石塊を掘りだして、その中から微量な貴金属を採取して、残りのほとんど全質量を放棄しているのを見物して、現在の自分と同じようなことをいっているかもしれない。
 こう考えてみると、道楽息子でもやはり学校へやった方がいいように思われ、分からないむずかしい本でも読んだ方がいいようであり、ろくでもない研究でも、しないよりはした方がいいようにも思われ、またこんな下らない随筆でも書かないよりは書いた方がいいようにも思われてくるのである。
(昭和八年一月『帝国大学新聞』)





底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店
   1997(平成9)年1月9日発行
入力:Nana ohbe
校正:川向直樹
2004年8月22日作成
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