一 日比谷から鶴見へ
夏のある朝
こんなに人出の少ないのは時刻のせいだろうが、これなら、いつかそのうちにスケッチでも描きに来るといいという気がした。
四、五日たってから、ある朝奮発して早起きして、電車が通い始めると絵具箱を
日比谷で下りて公園の入り口を見やった時に、これはいけないと思った。ねくたれた
最も
裏の方の芝地へ廻ってみても同様であった。裁判所だか海軍省だかの煉瓦を背景にした、まだ短夜の眠りのさめ切らぬような柳の梢に強い画趣の誘惑を感じたので、よほど思い切って画架を立てようかと思っていると、もうそこらを歩いている人が意地悪く
あきらめて東京駅から鶴見行の切符を買った。この電車の乗客はわずかであったが、その中で一人かなりの老人で寝衣のようなものを着て風呂敷包をさげたのが、乗ったと思うともうすぐに有楽町で下りた。これはどういう訳だか私には不思議に思われた。事によるとこの人は東京駅員で昨夜当直をしたのが今朝有楽町辺の宿へ帰って行くのではないかという仮説をこしらえてみた。そう云えば新橋で下りる人もかなりあった。これもどういう人達か見当が付かない。
汚いなりをした、眼のしょぼしょぼした干からびた婆さんと、その孫かとも見える二十歳くらいの、大きな風呂敷包の荷をさげた、
鶴見で下りたものの全くあてなしであった、うしろの丘へでも上ったらどこかものになるだろうと思って、いい加減に坂道を求めて登って行った。風が少しもなくて、薄い
松林の中に屋根だけ文化式の赤瓦の小さな家の群があった。そこらにおむつが干したりしてあるが、それでもどこかオルガンの音が聞えていた。
まだ見た事のない総持寺の
暑くなったから門内の池の傍のベンチで休んだ。ベンチに大きな
絵でも描くような心持がさっぱりなくなってしまったので、総持寺見物のつもりで奥へはいって行った。
つい近頃友人のうちでケンプェルが日本の事を書いた書物の挿絵を見た中に、京都の
総持寺の
摺鉢形の
ずっと裏の松林の斜面を登って行くと、思いがけなく道路に出た。そこに名高い
西の方へ少し行くと、はじめて自然の野があって畑には農夫が働いていた。しかし一方を見ると、大きなペンキ塗の天狗の姿が崖の上に
帰りの電車はノルマルに込んでいた。並んで立っていた若い会社員風の二人連れが話しているのを、聞くともなく聞いていると、毎朝同じ時刻に乗る人がみんなそれぞれ乗り込む車の位置に自ずからきまりがあると見えて、同じ顔が同じところにいつでも寄り合うようだと云っていた。そうかもしれない。しかし同じ顔を見た時の印象が、見なかった時の印象を
品川から上野行は嘘のように空いていた。向い側に小間物を行商するらしい中年女が乗って、大きな荷物にもたれて断えず居眠りをしていた。浴衣の膝頭に指頭大の穴があいたのを丹念に繕ったのが眼についた。汚れた白足袋の
相場師か請負師とでもいったような男が二人、云い合わせたように同じ服装をして、同じ折かばんを膝の上に立てたり倒したりしながら大きな声で話していた。四万円とか、一万坪とか、
兵隊が二、三人鉄砲を持ってはいって来た。銃口にはめた
結局絵は一枚も描かないで疲れ切って帰って来たのであった。しかしケンプェルの挿絵の中にある日本を思いがけないところで見付け出しただけはこの日の拾い物であった。
二 雅楽
友人の紹介によって、始めて
それは美しい秋晴の日であったが、ちょうど
独立な屋根をもった舞台の三方を廻廊のような聴衆観客席が取り囲んで、それと舞台との間に
一段高くなっている舞台は正方形であるらしい。四隅の柱をめぐって広い縁側のようなものがある。舞台の奥に奏楽者の席のあるのは能楽の場合も同様であるが、正面に立てた屏風は、あれが方式かもしれないが私の眼にはあまり
始めに管絃の演奏があった。「
始めての私にはこれらの曲や旋律の和声がみんなほとんど同じもののように聞えた。物に滲み入るような
ここが聞きどころつかまえどころと思われるような曲折は
始め西洋音楽でも聞くようなつもりで、やや緊張した心持で聴いているうちに、いつとなしにこの不思議な雰囲気に包み込まれて、珍しくのんびりした心持になった。メロディなどはどうでもよかった。ただ春の日永の殿上の欄にもたれて花散る庭でも眺めているような陶然とした心持になった。
すべての音楽がそうであるか、どうか、私には分らない。しかし、どうもこの管弦楽というものは、客観的分析的あるいは批評的に聴くべきものではなくて、ただこの音の醸し出す雰囲気の中に無意識に没入すべきもののような気がする。そうする事によってこの音楽が本当の意味をもつような気がする。
これが雰囲気である以上、それに一度没入してしまえば、もう自覚的にそれを聞いていなくてもいい。この空気の中で私は食事をし、書物を読み、また
レオナルド・ダ・ヴィンチが画を描く時に隣室で音楽を奏でさせたという話があるが、これももちろんただ音楽の雰囲気だけを要求したものに相違ない。彼は恐ろしく多面的な忙しい頭脳をもっていた人である。時としては彼の神経は千筋に分裂して、そのすべての末端がいら立って、とても落着いた心持になれなかったのではあるまいか。そういう時に彼は音楽の醸し出す天上界の雰囲気に包まれて、それで始めて心の集中を得たのではあるまいか。
これはただ何の典拠のない私だけの臆測である。しかしそれはいずれにしても、今の
こんな事を考えるともなく考えながら、私の心はいつか遠いわれわれの祖先の世に遊んでいた。
朗詠の歌の詞は「
これもおそらく多くの現代人にはあまりに消極的な唱歌のように思われるかもしれない。もしそうであれば、それだけかえって必要な
管絃のプログラムが終ると、しばらくの休憩の後に舞楽が始まった。
一番目は「
二番目の「
柿色の顔と
三番目は「
始めに、たぶん聖徳太子を代表しているらしい衣冠の人が出て来て、舞台の横に立って笛を吹く。しばらくすると山神が出て来て舞い始める。おどろな灰褐色の髪の下に真黒な小粒な顔がのぞいている。色があまりに黒いのと距離が遠いのとで、顔の表情などは遺憾ながら分らない。片手に何か短い棒のようなものを固く握っているが、これも何であるか分らなかった。しかし私にはそれはどうでもよい。面白いのはその運動である。頭の上で近付けた両手を急速に左右に離して空中に円を描くような運動、何かものを
前の二種の舞がいかにもゆるやかな、のんびりとしたものであったのに反して、この蘇莫者にはどこかもう少し迫った感情のようなものが出ている。それは
私は遠い神代のわが
最後に「
近頃にない
三 ノーベル・プライズ
ある夜いつものように仕事をしていると電話がかかって来た。某新聞社からだという。何事かと思って出てみると、国際電報によって昨年度と今年度のノーベル賞金の受賞者の名前の報知が届いた、その一人はアインシュタインで、もう一人はコーペンハーゲンのニールス・ボーアという人だそうだが、このボーアという人はいったいどんな人でどういう仕事をした人かというのである。私はなるべく簡単に自分の知ってる要点だけを話して電話を切った。そしてやりかけた仕事にとりかかるとまた電話がかかった。今度は別の新聞社から同じ事の問合わせであった。ボーアをまちがえてポーア/\と云っているのが気になるので、それだけは訂正しておいた。
ボーアの理論の始めて発表されたのは一九一三年であったから、もうちょうど一と昔前の事である。その説はすぐに
ところがこれほど専門家の目には顕著な人物の名前が「世間」というものの人名簿には今日という今日までどこにもかいてなかった。それがノーベル賞の光環を頂いて突然天から降って来た天使のように今「世間」の面前に立っている。十年前に出現した新星の光が今ようやく地球に届いたようなものである。
それほどに科学者の世界は世間を離れている。しかしそのおかげで学者は心静かに落着いて各自の研究に没頭していられるのかもしれない。
近頃かの地でボーアに会って帰って来た友人の話によると、このまだ若い学者は、どこか近い田舎に小さな別荘のようなものを
このようにしてこそ、彼のような学者は本当の仕事というものが出来るのではあるまいか。実に
日本に限らずどこでも一体に学者というものは世間から尊重されないものだという説がある。この尊重という文字の意味が問題になる。
昔はとにかく今日では我邦ですらも科学というものの功利的価値は、理解されたというよりむしろ無理解に世間で唱道されている。その当然の結果として科学者はそういう意味で尊重されている。従って科学者は自分の研究以外の事で常に忙しい想いをするように余儀なくされる。
科学者としては、世間に対する自分の義務として、出来得る限りは、世間からの要求に応じなければならないと考える人は、むしろ多数であろう。そう考える以上は、場合によっては自分の大事な研究時間をずいぶん思い切って割いても世間の要求に応じるために忙しい想いをし、従ってそれだけの心のエネルギーを余計に消磨させなければならない。
これは止むを得ない事かもしれない。そして私はそういう学者の犠牲的精神に尊敬を払う事を忘れないつもりである。
しかし学者とこれに対する世間とから全く飛び離れた第三者の位置に立って見ると、これは世間というものが本当に学者を尊重し学術の進歩を期図する方法ではないような気がする。場合によってはむしろ学者を濫用し科学の進歩を妨げるような結果になる事がないとは限らないように思う。これはよほど慎重に考えてみなければならないかなり大事な問題である。
学者の中にも科学の応用に興味を有ち、その方面に特別の天賦を
ボーアのごときはむしろこの第二のタイプの学者であるように思われる。従って世間からうるさく取りすがられ駆使される事なしに、そっとして構わないでおいてもらう事に最大の幸福を感ずるたちの人ではなかろうかと想像される。こういう型の学者があるとすれば、それを世間が本当に尊重するつもりなら、やはりはたから構わないで自由に芝生に寝転がって雲を眺めさせておく方がいちばんいいだろうと思う。
そう云えばアインシュタインなども本来はやはりそういう型の学者のように私には思われる。ところが幸か不幸か彼も数年前から世間の眼の前に押し出された。そのために人のよく知る通り恐ろしく忙しいからだになってしまった。もっとも彼自身はそれを自分の楽しい義務のように考えているかのように見える。そして少しの厭な顔もしないで誰でもの要求を満足させるために忙殺されているように見える。これは美しい事である。
しかし純粋に科学の進歩という事だけを第一義とする立場からいうとこれは少しアインシュタインに気の毒なような気もする。もう少し心とからだの安息を与えて、思いのままに彼の欲する仕事に没頭させた方が、かえって本当にこの
今度のノーベル・プライズのために不意打ちをくらった世間が例のように無遠慮に無作法にあのボーアの静かな
もし誰かがカントを引ぱり出して
私はただ何という理窟なしにボーアの内面生活を想像して羨ましくまたゆかしく思っていた。そしてそのような生活がいつまでも妨げられずに平静に続いて行って、その行末永い途上に美しい研究の花や実を
(大正十二年一月『中央公論』)
四 切符の鋏穴
日比谷止まりの電車が帝劇の前で止まった。前の方の線路を見るとそこから日比谷まで十数台も続いて停車している。乗客はゾロゾロ下り始めたが、私はゆっくり腰をかけていた。すると私の眼の前で車掌が乗客の一人と何かしら押問答を始めた。切符の
この乗客は三十前後の色の白い立派な男である。パナマらしい帽子にアルパカの上衣を着て細身のステッキをさげている。小さな声で穏やかに何か云っていたが、結局別に新しい切符を出して車掌に渡そうとした。
二人の車掌が詰め寄るような勢いを示して
若い男は存外顔色も変えないで、静かに伏目がちに何か云いながら、新しい切符を差し出していた。車掌はそれを受取ろうともしないで
「サア、どっちです。……車掌は馬鹿じゃありませんよ」と
私は何だか不愉快であったからすぐに立って車を下りた。
あの若い立派な男がわずかに一枚の切符のために自分の魂を売ろうとは私には思いにくかった。しかしそれはどうだか分らない事である。
それにしても私はこの場面における車掌の態度をはなはだしく不愉快に感じた。たとえ相手の乗客が不正行為をあえてしたという証拠らしいものがよほどまでに具備していたにしても、人の弱点を捕えて勝ち誇ったような
こんな事を考えて暑い日の暑苦しい心持をさらに増したのであった。
それから四、五日経っての事である。私はZ町まで用があって日盛りの時刻に出掛けて行った。H町で乗った電車はほとんどがら明きのように
Z町の停留場で下りようとして切符を渡すと、それをあらためた車掌が、さらにもう一つパンチを入れてそれと見較べて「これはちがいます、私のよりは穴が大きい」と云った。私は当惑した。「でも、さっき君が自分で切ったばかりではないか。」こんな証拠にもならない事を云ってみた。
切り立ての鋏穴は円形から直角の
もう一人の車掌もやって来て、同じ切符にもう一つ穴をあけた。「私のはこれですからね」と云って私の眼の前にそれを突きつけた。三つの穴が私を脅かすように見えた。
代りの切符をもう一枚出して下ろしてもらった方が簡単だとは思った。が、その時の私の腹の虫の居所がよほど悪かったと見えて、どうもそういうあっさりした気になれなかった。別の切符を出すのはつまり自分の無実の罪を承認する事になるような気がしたので、私はそのまま黙って車を下りてしまった。車掌は踏台から乗り出すようにして、ちょっと首をかしげて右の手でものを捧げるような手つきをしながら「もう一枚頂きましょう」と云ってニヤニヤした。
下り立った街路からの暑い反射光の影響もあったろうし、朝からの胃や頭の工合の効果もあったかもしれないが、とにかくこの車掌の特殊な笑顔を見た時に私の全身の血が一時に頭の方へ駆け上るような気がした。そして思い返す間のないうちに
「それじゃあ、交番へ来てくれたまえ」とついこんな事を云ってしまった。交番はすぐ眼の前にあった。公平な第三者をかりなければ御互いの水掛論ではとても始末が着かないと思ったのである。車掌は「エエ、参りますよ、参りますとも、いくらでも参りますよ」とそう云って私について来た。
警官は私等二人の簡単な陳述を聞いているうちに、交番に電話がかかって来た。警官はそれを聞きながら
警官は電車を待たさないために車掌の姓名を自署さしてすぐに帰した。それから私に「
ここで自白しなければならない事は、私等が交番へはいると同時に、私は
警官の話によるとこの頃電車では鋏穴の検査を特に厳重にしているらしいという事である。そして車掌の方では鋏穴ばかりを注目するのだから止むを得ないというのである。そう云われてみると私は一言もない。
そのうちに電車監督らしい人が来た。こういう事に馴れ切っているらしい監督はきわめて愛想よく事件を処理した。「決して御客様方の人格を疑うような訳ではありませんが、これも職務で御座いますからどうか悪しからず御勘弁を願います」と云う。こう云われてみると私はますます弱ってしまうのであった。私は恐縮して監督と警官に丁寧に挨拶して急いでそこを立去った。別の切符は結局渡さなかったのである。
仕合せな事には、こういう場合に必然な人だかりは少しもしなかった。それで私が今こんな事を書かなければ、私のこの過失は関係者の外には伝わらないで済むかもしれない。
私はその日
この間子供等大勢で電車に乗った時に回数切符を出して六枚とか七枚とかに鋏を入れさせた。そして下車する時にうっかり間違えて鋏を入れないのを二、三枚交ぜて切って渡したらしい。それで手許にはそれだけ鋏の入ったのが残っていた訳である。そうとも知らず次に乗車した時にうっかり切符を渡すとこれは鋏が入っていますよと注意されてはなはだきまりの悪い思いをしたそうである。その時の車掌は事柄を全くビジネスとして取扱ったからまだよかったが、隣に坐っていた人が妙にニヤニヤしていたという事である。
この場合も全然乗客の方の不注意であって車掌に対しては一言の云い分もない。
電気局から鋏穴の検査を励行するように命令し奨励するとすれば、車掌がこれを遂行するのは当然の事である。そして車掌の人柄により乗客の種類によりそこに色々の場面が出現するのは当然の事である。
私は自分の
しかしこの自身のつまらぬ失敗は他人の参考になるかもしれない、少なくも私のように切符の鋏穴をいじって拡げるような悪い癖のある人には参考になる。同時にまた電気局や車掌達にとっても、そういう厄介な癖を持った乗客が存在するという事実を知らせるだけの役には立つと思う。
ついでながら、切り立ての鋏穴の縁辺は
私はそういう変形した鋏穴の「標本」を電気局で蒐集して、何かの機会に車掌達の参考に見せるのもいいかもしれないと思う。何なら虫眼鏡で一遍ずつ
車掌も乗客も全く事柄を物質的に考える事が出来れば簡単であるが、そこに人間としての感情がはいるからどうも事が
物質だけを取扱う
しかしこれは
例えばわれわれが毎日電車に乗る度に、私が日比谷で見たような場面を見せられるとしたらどうだろう。おそらくわれわれの「感情美」に対する感覚は日に日に
百千年の後に軽率な史家が
十幾年前にフィンランドの都ヘルジングフォルスへ遊びに行った時に私を案内して歩いたあちらの人が、財布から白銅貨のような形をした切符を出して、車掌というものの居ない車掌台の箱に投げ込むのを見た。つまらない事だが、私が今でもこの国この都を想い出す時に起る何となく美しい快い感じには、この
諸国を旅してみてもいったん売った電車切符をまた取り戻すような国は稀であった。それで私は国々で乗った電車切符を記念に集めて持ち帰る事が出来た。この妙な機会に私はこれで張り交ぜの屏風でも作って「人を盗賊と思わない国々」の美しい想い出にしようかと思っている。
五 善行日と悪行日
ある日新聞を見ていると妙な広告が眼についた。「サーモンデー」と大きな字で印刷してある。何かの説教でもあるかと思ってよく見ると、それは Sermon でなくて Salmon day であった。鮭の
鮭と節約との関係は別問題として、私にはこの「節約デー」という文字自身が何となく妙な感じを与えた。その感じはちょっと簡単に説明し難い種類のものである。それはつまりこれから以下に私が書こうとする事を
歳のうちのある特定の日を限って「節約デー」を設けるという事は、従来の多くの日には節約をしていないか、もしくは濫費をしていたという事である。同じような例を挙げると、年中怠けてばかりいる学生が、一年に一日「勉強デー」を設けるのや、あるいは平生悪い事ばかりしている男が、稀に「善行デー」を設けるのと同じような事で、それも一応は誠にいい事だと思われる。
しかし一日の善行で百日の悪行を償ってまだその上に釣銭をとるような心持が万一でもあってはかえって困る。一体そういう心配は全然ないものだろうか。一般には云われないまでもそういう
そういう事のないように、その特別な一日を起点としてその後引続いて善い事をする習慣をつけるという目的で、少なくも今度の「節約日」は宣伝され奨励されたものであろうと思われる。そうでなければ宣伝ビラの印刷費用だけでもかえって濫費になる勘定である。この度の節約日の効果は日が経ってみなければ分るまいが、私はこういう「日」の必要自身が既に結果の失敗を保証するように思われて仕方がない。
それはとにかくこの種の色々の「善行デー」はどうもつい近頃西洋から輸入されたものらしく私には思われる。よく調べてみなければどうだか分らないが、何となくアメリカあたりからでも来たらしいような感じのするものである。少なくともそういう匂いがある。
昔の事はよくは知らないが、ただ自分の狭い経験から考えても、以前にはこういう特別な「善行デー」などよりむしろ「悪行デー」とでも名づくべきものが多かったような気がする。
田舎の農夫等が年中大人しく真面目に働いているのが、
どんな勤倹な四民も年に一度のお花見には特定の「濫費デー」を設けた。ある地方の倹約な商家では平日雇人のみならず主人達も粗食をしていて、時々「贅沢デー」を設けて御馳走を食ったという話もある。もっともこれは全く
「無礼講」という言葉が残っており、西洋でも「エプリルフール」という事がある。
あれほど常識的な英国にでもわれわれに了解の出来ないほど馬鹿げた儀式が残っているようであるが、それが今日では単に国粋保存というような意味ばかりでなく、つまり、常に常識的であるための「非常識デー」として存在の価値を保っているらしく私には思われる。
「濫費日」や「嘘つき日」や「怠け日」はあまり聞えはよくないかもしれないが、実はこれらの特定日の存在は平日の節約勤勉真面目を表白するとすれば
危険な崖の上に立っている人を急に引止めようとするとかえって危険だという話がある。これと似た事がもし適用するとすれば、濫費に偏しているものを一日だけ引き戻すのはかえって危険な場合があるかもしれない。後に引いた弓を放てば矢は前に飛ぶ。しかしこの類推はこの場合にあてはまるかどうだかそれは分らない。
それにしても「節約デー」という言葉が私にはやはり不思議な感じを与える。もしこれが反対に「濫費デー」であったらその意味は私にはかえって呑み込みやすく、その効果も見当がつくような気がする。
世の中の人の心は緊張と
「善行日」ばかりを奨励するのも考え物ではあるまいか。少なくとも「悪行日」をこれと並行錯雑させて設けてみるのも一つの案ではあるまいか。昔の為政家は実際そういう事をしたもののように見える。
しかし私のこの案はやはり賛成してくれる人はなさそうである。私のいうような「悪行日」はだんだん廃止される。最近にはまた勉強の活勢力を得るための潜勢力を養うべき「怠け日」であった暑中休暇も廃止されるくらいであるから。
(大正十一年九月『中央公論』)