一
小川町で用を足して帰りにまたそこを通った。木材を満載したその荷馬車の車輪が道路の窪みの深い泥に喰い込んで動かなくなったのを、通行人が二人手を貸して動かそうとしていた。やっと動き出したので手をはなすと、
馬はと見ると電柱につながれてじっとして立っていた。すぐその前に水を入れた
私は平生アンチヴィヴィセクショニストなどという者に対して苦々しい感じを抱いている。また動物虐待防止という言葉からもあるあまり香ばしくない匂を感ずる。しかしこういう場合に出逢ってみるとやっぱり馬が可哀相になる。馬士も気の毒になってよさそうな訳だが、どうもこの場合馬の方に余計に心をひかれる。
つまり馬の方は物を云わないからじゃないかと思う。
二
頭が悪くて仕事が出来なくなったから、絵具箱をさげて中野まで行った。
鉄道線路脇のちょっとした雑木林の陰に草を折り敷いて、向うの丘陵に二軒つづいた赤瓦屋根を入れたスケッチを始めた。
すぐ眼の前の道路を通行する人は多いが、一人も私の絵など
そのうちに一人物腰などからかなりの老人らしく思われるのがやって来て、私の右にしゃがんでしばらく黙って見ていたが、やがてこんな問答がはじまった。
「しょうべえに描くのですか、娯楽のために描くのですか。」
「養生のためにやっています。」
「肖像などは、あれはずいぶんかかるものでしょうね。」
「さあ。一時間でも二十日でも、切りはありますまいね。」
「小さいのよりも、やっぱり大きい絵の方が、何だか知らねえが、ねうちがあるような気がするね。」
「そうですかね。」
どんな人であったか、つい一度もその人の方を振向いて見なかったから分らない。
電車や汽車が度々すぐうしろを通った。汽車が通ると地盤のはげしく振動するのが坐っている私のからだには特にひどく感ぜられた。
描いているうちにふいと妙な考えが浮んで来た。それは地震の波が地殻を
とにかく一生懸命で絵を描いている途中でどうしてこんな考えが浮き上がって来たものか、自分でも到底分らない。
どうも自分というものが二人居て、絵を描いている自分のところへ、ひょっくりもう一人の自分が通りかかって、ちょうどさっきの老人のように話をしかけたのだという気がする。そうだとすると、まだ自分の知らない自分がどこかを歩いていていつひょっくり出くわすか分らないような気がする。
こんな他愛もない事を考えてみたりした。
三
眼を
しかし例えば香の好い花などはどんなものだろうと思った。
花屋の店先に立って色様々の美しい花を見ているうちにこんな事を考えた。
これほど美しいものを視る事の出来ない人に、香だけ嗅がせるのはあまりに残忍な所行である。
そう思ったので、つい花屋を通り過ぎてしまった。
(大正十一年八月『明星』)