物には必ず物理がある。ここにいわゆる物とは何ぞや、直接間接に人間五感の対象となって万人その存在を認めあるいは認め得べきものを指す。故に幽霊はここにいわゆる物ではない。夢中の宝玉も物ではない。物理学者は通例物質とエネルギーという二つの物を認める。物質の定義が困難である。教科書などには質量を有するものとも書いてあるがこれは言葉を換えたに過ぎない。質量という考えを明らかにするにはどうしても力という考えを固めなければ
力の考えから仕事の考えが導かれる。力の作用せる物が動けば力はその物に対して仕事をし、また仕事を受ける。その仕事は力と距離の相乗積で計る。これが現在力学の中の重要な Begriff の一つである。これはしかし力のごとき人間感覚に直接の交渉を有せぬ量であって、自然現象を整理するに便宜な尺度の一つと考えなければなるまい。仕事の考えが定まればエネルギーの考えはこれから導かれる。すなわち仕事をなす能をエネルギーと名づける。ある現象が起ってその間に甲が乙に仕事をしたとすれば甲はエネルギーを
仕事と云いエネルギーと云うのはどこまでも人間特に物理学者が便宜上採用した観念である。力という語や速度という語が世俗に通じやすくて仕事エネルギーの解しにくいのはそのためである。このような観念の結合連鎖によって組み立てた力学物理学は吾人にとって非常に便宜なものであるが、しかしまたこの建設物が唯一な必然なものだとは信じられない。現在と全く異なった一つの力学系統を構成する事は不可能ではあるまい。現在の系統は一朝一夕に発達したものではなく、ガリレー以来
光と名づけ音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺戟して万人その存在を認める。しかし「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味は尽されていない。昔ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルに到ってはこれをエーテル中の電磁的
音の場合は光ほど
こういう風に考えれば物質その物もまた分らぬものである。物質諸般の性質を説明するには物質がすべて分子原子から成立していると考える事が必要なばかりでなく、また分子の実在はブラウン運動等からみてももはや疑い難い事である。またこれら分子がまた原子から成立している事も疑いない事で、分子中における原子結合の状況についても各方面から推定を下す手掛りが出来ている。前世紀の末頃までは原子までで事が足りていたが、真空中放電の研究や放射能性物質の研究から更に原子の内部構造を考えなければならぬ破目になって、ここにエレクトロンなるものが発見される事になった。今日ではほとんどこの電子の実在を疑う者はない。放射性物質や真空放電の現象に止まらず、あらゆる方面にわたって電子によって始めて説明される新しい現象も発見さるるに至った。今日では電子の数をかぞえる事も出来る。各種物質の出す光のスペクトルの研究から原子内における電子の排列を探るような有様である。
電子が一定量の陰電気を帯びている事、その質量が水素原子の質量のおよそ千八百分の一に当る事も種々の方面から推定される。かくのごとき電子の性質が次第に
一体電子を借りなければ説明の出来ないような諸現象がまだ発見されず、物質の最小部分が原子だとして充分であった時代において、原子は更に一層微細なる部分より成ると論ずる人があったとすれば、その人は空想家か哲学者であって少なくも実験科学者ではない。実験科学は形而上学ではない。取扱うものは自然の経験的事実である。ある時代には物理学は事柄が如何に起るかという事を論ずるのみで、何故かという事は論じないという言葉が流行して、その真の意味が誤解された事があった。今日多くの物理学者に云わせれば、何故という言葉と如何にという詞も相去る事あまり遠くはないのである。如何にという事が分れば何故も分り、何故という事が明らかになればその結果は同時に「如何に」に対する答である。それで原子のみでは分らぬ現象が知られるに至って何故という問題が起り、その結果「如何にして」の答案が上述のごとき電子の出現となったのである。しかし科学者には没交渉であるはずの物の本性に立ち入ろうとする人間自然の欲求は更に電子は何かという疑問を発して止まぬのである。
前世紀において電気は何物ぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。電気窃取罪の鑑定人として物理学者が法廷に立った事もある。二十世紀の今日においては電気の疑問が電子に移った。電子は連続的のものでなくて粒から成り立っている。一電子の有する電気以下の少量の電気はどこにも得る事が出来ぬ。あらゆる電気はこの微粒の整数倍であるという事になった。それで電気を盗むのはこの電子の莫大な粒数を盗むのである。そこでその電子は物質かエネルギーか。
電子は質量を有するように見える。それで前の物質の定義によれば物質のように見える。同時にこれには一定量の荷電がある。荷電の存在は一体何によって知る事が出来るかというと、これと同様の物を近づけた時に相互間に作用する力で知られる。その力は間接に普通の機械力と比較する事が出来るものである。既に力を及ぼす以上これは仕事をする能がある、すなわちエネルギーを有している。しかしこのエネルギーは電子のどこに潜んでいるのであろうか。ファラデー、マクスウェルの天才は荷電体エネルギーをその物の内部に認めず、却ってその物体の作用を及ぼす勢力範囲すなわちいわゆる電場に存するものと考えた。この考えは更に電波の現象によって確かめらるるに至った。この考えによれば電子の荷電のエネルギーは電子その物に存すると考えるよりは、むしろその範囲の空間に存すると思われるのである。すなわち空間に電場の中心がある、それが電子であると考えられる。これが他の電子またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。
しかるに一方において荷電体が動く時はその周囲の電場を引連れて動く。その時この電場の運動のためにいわゆる磁場が起る、電流の通ずる針金の周囲に磁場を生じるのはすなわちこれである。かくのごとくして起る電磁場は一種の惰性を有する事が実験上から知られる、すなわち荷電体を動かし始める時には動くまいとし、動いているのを止める時には運動を続けようとする、丁度物質質量と同様な性質を有しているのである。質量の定義に従えば荷電体従って電子はそれが電気を帯びているために一種の質量を有すると云わなければならぬ。従って上の物質の定義に従えば、電気はすなわち物質と云わなければならない。但しその質量の少なくも一部分はその周囲電磁場のエネルギーに帰因するものである。しからばエネルギーはすなわち物質か。こういう疑問が
物理学の根原は実験的の事実で、その基となるものは人間の五感である。しかし物理学の進歩するほどその基となる五感は閑却されて来るのである。昔の物理学では五感の立場から全く別物として取扱ったものがだんだん一緒になって来る。電波や熱や光やX線やγ線や、人間を離れて見れば全く同じ物で波の長さという事の外には本質的の差異を認めない。六十余種の原素もおそらくはただ陰陽電子の異なる排列に過ぎぬと考えられる。いよいよ進んで物質とエネルギーは一元に帰しようとする傾向さえ生じている。従来不可解の疑問たる万有引力なるものもまた光との間になんらかの連鎖をほのめかしているのである。
物理の理の字は正にかくのごとき総括を意味するとも云える。直接五感に触れる万象をことごとく偶然と考えないとすれば、経験が蓄積するにつれて概括抽象が行われ箇々の方則を生じ、これらの方則が蓄積すれば更に一段上層の概括が起る。そうなればもはや人間というものは宇宙の片隅に忘れられてしまって、少数の観念と方則が独り幅を利かすようになって来るのである。しかもこの大系統は結局人間の産物であって人間現在の知識の範囲内にのみ行わるるものである。ポアンカレーは「方則は不変なりや」という奇問を発している。
(大正四年頃)