夏の小半日

寺田寅彦




 俗に明き盲というものがあります。両の目は一人前にあいていながら、肝心の視神経が役に立たないために何も見る事ができません。またたとい目明きでも、観察力の乏しい人は何を見てもただほんの上面うわつらを見るというまでで、何一つ確かな知識を得るでもなく、物事を味わって見るでもない。これはまず心の明き盲とでも言わなければならない。よく「自然」は無尽蔵だと言いますがこれはあながち品物がたくさんにあるというだけの意味ではない。たとい一本の草、一塊の石でも細かに観察し研究すれば、数限りもない知識の泉になるというのです。またたとえば同じ景色を見るにしても、ただ美しいなと思うだけではじきに飽きてしまうでしょうが、心の目のよくきく人ならば、いくらでも目新しい所を見つけ出すから、決して退屈する事はないでしょう。それで観察力の弱い人は、言わば一生を退屈して暮らすようなものかもしれません。諸君も今のうちにこの観察力を養っておく事が肝要だろうと思います。それでさし当たりこの夏休みに海岸へでも行かれる人のために何か観察の材料になりそうな事を少しばかりお話ししましょう。
 だれでも海べに出ていちばん見飽かずおもしろいと思うのは、遠い沖の果てから寄せて来ては浜に砕ける、あの波でしょう。見慣れない人の目には、海の水は、まるで生きているもののような気がすると言います。実際波はある意味で生きている。すなわち物理学などで言う「仕事」をする能力があります。しかし、惜しい事には、この能力は人間に都合のよいほうにはあまり使われないで、かえって海岸を破壊したり、またせっかく築いた港を砂で埋めたりするほうに使われています。海岸のがけなどはたいてい陸地をこわしている場所ですから、よく気をつけてごらんなさい。このような能力を何か有益な事に利用したいと思って、くふうした人はあるが、まだあまり成効した人はありません。
 波の勢力の源は風であります。時には数百里も遠い大洋のまん中であばれている台風のために起こった波のうねりが、ここらの海岸まで寄せて来て、暴風雨の先ぶれをする事もあります。このような波の進んで行く速さは、波の峰から峰、あるいは谷から谷までの長さいわゆる「波の長さ」の長いほど早く、また浅い所へ来るとおそくなります。見慣れない人は波の進むにつれて水全体が押し寄せて来るように思う事もあるそうですが、実際はただあのような、波の形が進んで来るだけで、水はただ、前後に少しずつ動揺しているという事は水面に浮かんでいる物を見ていてもだいたいはわかります。もし浅い所で、波の中に立っていられるような機会があったらよく気をつけてごらんなさい。波の峰が来た時にはからだが持ち上げられると同時に、波の進むほうに押されるが、谷を通る時は反対に引きもどされます。もう少し詳しく水に浮かんでいる木切れか何かの運動を注意していると、波が一つ通るごとに、楕円形だえんけいの輪を描いている事がわかります。これは水の表面に限らず、底のほうでも同様ですが、ただ底へ行くほどこの楕円形が平たくまた小さくなり、いよいよ底の所ではただわずかに直線の上を往復する運動になってしまいます。大波の時には、二三十ひろの底でもひどく揺れるが、少しの波ならば、潜航艇にでも乗って、それくらい沈めば、もう動揺は感じなくなります。
 波が浜へ打ち上げてから次の波が来るまでの時間は時によっていろいろですが、私が相州そうしゅうの海岸で計ったのでは、波の弱い時で四五秒ぐらい、大波の時で十四五秒ぐらいでした。とにかく、波の高い時ほどこの時間が長くなります。
 遠浅の浜べで潮の引いた時、砂の上にきれいなさざ波のような模様が現われる事があります。これは細かい砂の上で、水があちらこちらと往復運動をするためにできるものです。何か浅い箱かたらいのようなものがあったら、その底へ細かい砂を少し入れ、その上に水を入れて静かにゆさぶってみるとおおよそこのような模様のでき方を実験する事ができます。また機会があったら水の底にできているこの波形の波長を計ってごらんなさい。通例、深い所ほど波長が短くなっているでしょう。
 波頭なみがしらが砂浜をはい上がって引いたすぐあとの湿った細砂の表面を足で踏むと、その周囲二三尺ほどの所が急にすうとかわくが、そのまま立ち止まっていると、すぐにまた湿って来ます。これはどういうわけかというと、砂粒が自然のままに落ち着いている時は、粒の間の空隙くうげきがなるたけ少ないようになっているが、足で踏んだりすると、その周囲の所は少し無理がいって空隙が多くなり、近辺の水を吸い込むからです。試みにこのような、充分水を含んだ細砂を両手で急に強く握りしめると、湿気がせて固くなるが、握ったままでいるとだんだん柔らかくなってダラダラ流れ出します。足で踏んでも、踏んだ時は固いが、だんだん足がめり込んで行きます。よほどおもしろいものだから、忘れずにためしてごらんなさい。
 浜べには通例大きい砂も細かい砂もあるが、たいてい大きいのは大きいの、細かいのは細かいのと類をもって集まっているのは、考えてみると不思議ではないでしょうか。波が砂をかきまぜているのに、どうして一様に交じらないでしょうか。よく考えてみると、これはやはり波が砂をり分ける役をしているのです。水の底では波のために砂が絶えずおだてられているが、これが落ちる時は大きい粒のほうがいつでも早く落ちるから、長い間には大きいのはだんだん底になり、細かいのが上に残る事になる。このようにしてできた砂の層が大あらしなどの時にまたはがれて浜へ打ち上げられる時でも、細かいのと大きいのでは水に運ばれるのに遅速があって、いつでもり分けられるような傾きがあるでしょう。
 海岸では晴れた夏の日の午前にはたいてい風が弱くて、午後になると沖のほうから涼しい風が吹き出します。これは海軟風ととなえるもので、地方によりいろいろな方言があります。陸地の上の空気は海上よりも強くあたたまり、膨張して高い所の空気が持ち上がるから、そこで海のほうへあふれ出すので、それを補うため、下では海面から陸のほうへ空気が流れ込むのがすなわちこの風です。それだから海軟風の吹く前には、空の高い所では逆の風が吹き出すわけです。
 海軟風は沖のほうから吹き始め、だんだん陸に近よって来ます。浜べはまだ風がなく蒸し暑くて海面が油を流したようにギラギラして、空を映している時、沖のほうの海面がきわ立って黒くなって来るのがよく見える事があります。これは沖から寄せて来る風のために、海面がさざ波立って空が映らなくなり、そのかわり海水の色が透いて見えるためであります。この黒い所が浜べに近づいて来ると、もうそよそよと涼しい風を感じるようになります。
 浜べで見られるおもしろい現象もまだいろいろありますが、またいつかお話ししましょう。
(大正七年八月、ローマ字少年)





底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1960(昭和35)年10月7日第1刷発行
初出:「ローマ字少年」
   1918(大正7)年8月1日
入力:Cyobirin
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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