凍雨と雨氷

寺田寅彦




 大気中の水蒸気が凍結して液体または固体となって地上に降るものを総称して降水と言う。その中でも水蒸気が地上の物体に接触して生ずる露と霜と木花きばなと、氷点下に過冷却された霧のしずくが地物に触れて生ずる樹氷または「花ボロ」を除けば、あとは皆地上数百ないし数千メートルの高所から降下するものである。その中でも雨と雪は最も普通なものであるが、ひょうあられもさほど珍しくはない。みぞれは雨と雪の混じたもので、これも有りふれた現象である。
 以上挙げたものの外に稀有けうな降水の種類として凍雨と雨氷を数える事が出来る。
 我邦わがくにでは岡田博士に従って凍雨の名称の下に総括されているものの中にも種々の差別があって、その中には透明な小さい氷球や、ガラスの截片せっぺんのような不規則な多角形をしたものや、円錐形えんすいけいや円柱形をしたものもある。氷球は全部透明なものもあるが内部に不透明な部分や気泡を含んでいるものもある。北米合衆国の気象台で定めたスリート(sleet)というものの定義が大体この凍雨に相当している。(英国で俗にスリートと言うのは我邦の霙である。)スリートとして挙げられているものの中には、以上のようなものの外に雪片のつながったのが一度溶けかけてまた凍った事を明示するようなものや、氷球の一方から雪の結晶がつのを出しているのや、球の外側だけが氷で内部は水のままでいるのもある。
 次に雨氷と称するものは、過冷却された雨滴が地物に触れて氷結するものである。これが降ると道路はもちろん樹木の枝でも電線でも透明な氷で蔽われるために、道路の往来は困難になり電線の被害も多い。蝙蝠傘こうもりがさの上などに落ちて凍った雨滴を見ると、それが傘の面に衝突して八方に砕け散った飛沫がそのままの形に氷になっている。
 凍雨と雨氷はほぼ同様な気層の状態に帰因する。すなわち地面に近く著しく寒冷な気層があって、その上に氷点以上の比較的温暖な気層のある場合に起る現象である。凍雨の方は上層で出来た雨滴が下層の寒冷な空気を通過するうちにだんだん冷却して外部から氷結し始めるということは、内部に水や不透明の部分のある事から推定される。また中層の温暖な層の上に雪雲がある場合には、そこから落ちる雪片の一部は中層を通る時に半融解して後に再び寒冷な下層に入って氷結し、前に挙げた特殊の形になるものと考えられる。雨氷の成因については岡田博士もかつてその研究の結果を発表された通り、やはり上層の雨滴が下層の寒気に逢うて氷点下に冷却され、しかも凝結の機縁を得ないために液状で落下し、物体に触れると同時に先ず一部が氷結し、あとは徐々に氷結するのである。
 昨年の一月下旬、北米合衆国で数日続いて広区域にわたって著しい凍雨と雨氷があった。その当時の気層の状態を高層気象観測の結果と対照して詳細に調査したものがの地の雑誌に出ているのを見ると、当時の空中の状況がよく分って面白い。氷点に相当する等温線が大陸をほぼ東西に横断してその以北は雪、以南は雨が降っている、その雨と雪の境界に沿うて帯状をなした区域が凍雨や雨氷に見舞われている。この零度等温線とほぼ並行して風の境界線があり、その以北は北がかった風、以南では南風が吹いている。これは南から来る暖かい風がこの境界線から地面を離れて中層へあがりその下へ北から来る寒風がもぐり込んでいるのだという事は、当時各地で飛揚した測風気球の観測からも確かめられている。そのために中層へは南方から暖かい空気が舌を出したような形になっている。この舌状帯下の部分に限って凍雨と雨氷が降っている事が分るのである。
 このような特殊の気層の状態を条件としているために、この現象が稀有でその区域の割合が狭いのである。
 北米のような大陸で、ことに南北の気流の比較的自由な土地はこの現象の生成に都合が好さそうに思われる。いくら米国でもこの天象を禁止し排斥する事は出来ないので、その予報の手がかりを研究しているのである。
 我邦におけるこれらの現象の記録は極めて少数であるらしい。しかし現象の性質上から通例狭い区域に短時間だけしか降らないものだとすれば、降るには降っても気象学者の耳目に触れない場合もかなりあるかもしれない。それで読者のうちで過去あるいは将来に類似の現象を実見された場合には、その時日、継続時間、降水の形態等についての記述を、最寄もよりの測候所なり気象台なり、あるいは専門家なりへ送ってやるだけの労を惜しまないようにお願いしたい。
 これらの天象について特に興味を感ぜられる読者には岡田博士著『雨』について詳細の説明や興味ある実例を一読される事をお勧めしたい。
(大正十年二月『東京朝日新聞』)





底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「東京朝日新聞」
   1935(大正10)年2月11日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年10月16日作成
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