アメリカのレビュー団マーカス・ショーが日本劇場で開演して満都の人気を収集しているようであった。日曜日の開演時刻にこの劇場の前を通って見ると大変な人の群が場前の
後に待っている人のことなどはまるで考えないで、自分さえ切符を買ってしまえばそれでいいという紳士淑女達のことであるから、切符売子と色々押し問答をした上に、必ず大きな
こんな目の子勘定をして紳士淑女の辛抱強いのに感心する一方では自分でこの仲間にはいろうという勇気を
ある日曜日の朝顕著な不連続線が東京附近を通過していると見えて、生温かい狂風が軒を揺がし、大粒の雨が断続して物凄い天候であった。昼前に銀座まで出掛けたら諸所の店前の立看板などが吹き飛ばされ、傘を折られて困っている人も少なくなかった。日本劇場の前まで来て見ると、さすがに今日はいつもの日曜とちがって切符売場の前にはわずかに数人の人影が見えるだけであったので急に思い付いて入場した。
二階の窓から狂風に吹き飛ぶ雲を眺めながら考えるともなく二十年前に見たベルリンのメトロポール座のレビューを想い出していた。ウンテル・デン・リンデンの裏通りのベーレン街にあったこの劇場のレビューは、一つの出しものを半年も打ちつづけていて、それでいて切符は数日前までにみんな売切れになっていた。世界の都でなければあり得ない現象である。一年半の滞在中たった一度だけはいって見たが、見たものの記憶はもう雑然として大抵消えてしまっている。ツェペリン飛行船が舞台の真中に着陸する、その前でロココ時代の宮庭と現代の世界との混合したような夢幻の光景が渦を巻いたといったような気がするだけである。ジァンペートロというバリートンが当時異常な人気を呼んでいて、なんでもある貴族の未亡人から、自分の願いを容れてくれなければ自殺するという脅迫を受けて困っているというような噂が新聞で
パリの下宿はオペラの近くであって、自分の借りていた部屋の窓から首を出して右を見ると一、二町先の突きあたりにフォリー・ベルジェアの玄関が見えた。それほど近所に居ながらこれも
ムーラン・ルージュはこれと同じようでも、どこかもう少し露骨で刺戟の強いものであった。完全に裸体で豊満な肉体をもった黒髪の女が腕を組んだまま腰を振り振り舞台の上手から下手へ一直線に脇目もふらず通り抜けるというものすごい一景もあった。
要するにレビューというものはただ雑然とした印象系列の偶然な連続としか思われなかった。ワグナーの歌劇やハウプトマン、ズーデルマンなどの芝居などに親しんでいた当時の自分にはレビューというものは結局ただエキゾチックな玩具箱を引っくり返したようなものに過ぎなかった。
そんな訳であったから、後にアメリカに渡ったときも、レビューなど人にすすめられても見る気はしなかったのである。それがめぐりめぐった二十余年の今日の嵐の東京でアメリカ名物マーカス・ショーを見ようというのである。
この興行には添えものの映画を別にして正味二、三時間の間に三十に近い「景」が展開される。一景平均五分程度という急速なテンポで休止なしに次から次へと演ぜられる舞台や茶番や力技は、それ自身にはほとんど何の意味もないようなものでありながらともかくも観客をおしまいまであまり退屈させないで引きずって行くから不思議なものである。
昔見たベルリンやパリのレビューの印象に比べてこのアメリカのレビューの著しくちがうと思った点は、この現在のアメリカのものの方が一層徹底的に無意味で、そのために却ってさっぱりしていて嫌味が少ないことと、それからもう一つは優美とか典雅とかいう古典的要素の一切を蹴飛ばしてしまって、旺盛な生活力を一杯に舞台の上に
踊る人間の肉体の立派さは神の作った芸術でこれだけはどうにもしようがない。特にあのアラビア人のような名前のついた一団の自由自在に跳躍する
踊る女の髪の毛のいろいろまちまちなのが当り前だがわれわれ日本人の眼には不思議である。近頃は日本人の顔がだんだんに西洋人に似てくるようで、銀座などを歩いているとあちらの映画スターに似たような顔つきをした男女を見かけることも珍しくないがただ髪の毛だけは、当り前のことだが皆申し合せたように真黒である。しかし、日本人の日常生活がだんだん西洋人のに近くなって一世紀二世紀と経つうちには髪の色もだんだん明るくなって行かないとも限らないであろう。
呼び物の「金色の女」はなるほどどうしても血の通っている人間とは思われなくて、金属の彫像が動いているとしか思われない。あんなものを全身に塗っては健康によくないであろうと思うとあまり好い気持はしなかった。塗料が舞台の板に附くかと思って気をつけて二階から見ていたがそんな風には見えなかった。
どこかの山中の
しかし、ともかくも見ただけの甲斐はあった。友人の哲学者N君に逢ったとき、「哲学者はこういうものを一見すべきだろう」と云って見学をすすめておいたが、その後の
数日たった後に帝劇で映画の間奏として出演しているウィンナ舞踊団を見た。アメリカのと比べてどこか「理論」の匂いがある。それだけにやはり充実した理窟なしの活力といったようなものが足りなくて淋しい。見物は義理からの拍手を送るのに骨を折っているように見え、踊り子が御挨拶の愛嬌をこぼして引込む後姿のまだ消え切らぬ先に拍手の音の消えて行くのが妙に気の毒であった。
これらと比較のために宝塚少女歌劇というものも一度見学したいと思っていた。早慶戦のあった金曜日の夕方例によって友人と新宿の某食堂で逢って連句をやろうと思っていると、○大学の学生が大勢押しかけて来て、ビールを飲んで卓を叩いて校歌を唄い出した。喧騒の声が地下室に充ちて向き合っての話声も聞取れなくなった。「一体勝って騒いでいるだろうか負けて騒いでいるだろうか」と云ったら友人は「負けたらしいね」と答えた。これも当代世相レビューの一景と思えば面白くもあったが、天下の早慶戦の日に落着いて連句などを作ろうとするものの不心得を自覚したので、ふと思い付いて二人で東宝劇場へ出かけることにした。
「れ・ろまねすく」「世界の花嫁」まで見て
アメリカレビューやウィンナ舞踊を見た眼で見た少女歌劇は実に綺麗で可愛らしいものではあったが、如何にもか弱く、かぼそく、桜の花と云うよりはむしろガラス製の人形でも見るような気のするものであった。老人や軍人の男装をした踊り子までがみんな女の子のきいきい声を出すので猶更そういう「
ウィンナ舞踊はそういう意味では一番「音楽的」であったかもしれない。テンポにもエキスプレションにも少なくも理論的には相当な
それほどにも国々の国民性がこんな演芸の末にまで現れるというのは面白いよりはむしろ恐ろしいことであろう。
連句をお休みにしてその代りにレビューを見物しながら、この二つの芸術の比較といったようなことを考えてみた。両方に共通な点も色々ある。しかしそういう共通点だけから見ると、連句の方はレビューとは比較にならぬほど洗煉されたものである。連句では一景から次の景またその次の景への推移と連絡の必然性によって呼び出される暗示の世界に興味の大半がつながれているが、レビューではそういう連鎖の必然性はほとんど閑却されているようである。それ故に、連句三十六景のコンチニュイティは容易に暗記が出来るが、レビューの二十八景の順序は到底覚えられそうもないのである。ともかくもこの二つのものの比較は色々の暗示の光を与える。一方では連句的レビューの可能性が示唆され、他方ではまたアメリカン・レビュー的連句の開拓も展望される。
筋の通った劇よりも、筋はなくて刺戟と衝動を盛り合わせたレビューの
習字と漢籍の
単に普通教育、中等教育の内容全体がそうであるのみならず、その中のある一つの科目の教科書がまたそれぞれにレビュー式である。
自分等が商売がら何よりも眼につくのは物理学の中等教科書の内容である。限られた紙幅の中に規定されただけの項目を盛り込まなければならないという必要からではあろうが、実にごたごたとよく色々のことが
汽車弁当というものがある。折詰の飯に添えた副食物が、色々ごたごたと色取りを取り合せ、動物質植物質、脂肪蛋白
物理の教科書を見るたびに何となくこの汽車弁当を思い出すのであったが、今度レビューを見学してからレビューと教科書の対照を考えさせられるような機会に接した。
多くのレビューでは、見ている間だけ面白くて、見てしまったあとでは綺麗に忘れてしまうのがむしろその長所であり狙い所ではないかと思うが、物理やその他の科学の教科書はそれでは困りはしないか。
三つのものを一つに減らしてもその中の一番根本的な一つをみっしりよく理解し呑込んでしまえば、残りの二つはひとりでに分かるというのが基礎的科学の本来の面目である。そうでなくても一つのものをよく
一体「教えるためには教えない術が必要である。」というパラドックスが云わば云い得られなくはない。
中学校でS先生から生物学の初歩を教わったときの話である。主に口授を筆記するのであったが、たまたま何かの教材の参考資料として、英国製で綺麗な彩色絵の上に
教科書に挿入された色々な綺麗な図版などはおそらくこのS先生の掛図と同様な効果を狙ったものかもしれないが、これは失敗である。何故かと云えばS先生のは一と口うまいものを食わせておいて、その外に色々の旨そうなものをちらと見せたきり引込めてしまう流儀であるが、教科書は一向うまくない汽車弁当のおかずの品々を無理やりに口の中へ押し込むような流儀だからである。
光の反射屈折に関する基礎法則を本当によく呑込ませることに全力を集注し、そうしてそれを解説するに最適切な二、三の実例を身にしみるように理解させれば、その余の複雑な光学器械などは、興味さえあらば手近な本や雑誌を見てひとりで分かることである。何も中学校で一々無理に教える必要はないと思われる。電流と磁気との基礎的な関係をゆっくり丁寧になるべく簡単な実験で十分徹底的に諒解させれば、ダイナモやモーターの色々な様式などは三文雑誌にでも譲って沢山であろう。しかし、そういう一番肝心な基礎的なことがよく分からないで枝葉のデテールをごたごたに暗記して、それで高等学校の入学試験をパスし、大学の関門を潜り、そうして極めてスペシァルなアカデミックな教育を受けて
物理のような基礎科学の教科書が根本の物理そのものはろくに教えないで
レビュー見学のノートから脱線してつい平生胸に溜まっていた教科書の不平をこぼしてしまったが、こういう脱線もまた一つのレビュー的随感録の一様式中の一景として読者の寛容を願いたいと思う。
政府の統制の下に組織された教育のプログラムがレビュー式であるくらいだから、民間の営利機関の手に成る大衆向けの教育機関であるところの雑誌や新聞のレビュー式ないしは汽車弁当式であることは当然である。たまたまレビュー式でない雑誌はあるが、そういうのは特別な関係の誌友類似の予約講読者のあるものに限るので、一般大衆を相手にするものは出来るだけレビュー式編輯法を採らなければ経営が困難だということである。誠に尤もな次第と思われる。
一体レビュー式ということには何もそれ自身に悪い意味は少しもないはずである。善用すればむしろ非常に好い効果をあげ得べき可能性を多分にもっているものである。
近頃ある薬学者に聞いた話であるが、薬を盛るのに、例えば純粋な下剤だけを用いると、どうも結果は工合よく行かない、しかし下剤とは反対の効果を生じるような
これも近頃聞いた話であるが、稲の生長を助けるアゾトバクテルという
人間が知識を摂取する場合でもよく似たことがある。自分に最も必要な知識は頭にしみやすく、あまり役に立たぬようなものは一度呑込んでもすぐに排出し忘れてしまう傾向がある。また甲乙二つの知識が単独には大した役に立たないのが二つ
そういう考えからすれば、あまり純粋な化学薬品のような知識を少数に授けるよりは、草根木皮や総菜のような調剤と献立を用いることもまた甚だ必要なことと思われて来る。つまりここで
そうかと云ってまた無理やりに嫌がる
熱で渇いた口に薫りの高い
雑誌や新聞ならば読みたいものだけ読んで読みたくないものは読まなければよいのであるが、学校の教育ではそういう自由は利かない。それをすれば落第させられる。
教えるためには教えないことが肝心である。もう一杯というところで膳を取り上げ、もう一と幕と思うところで打出しにするという「節制」は教育においてもむしろ甚だ緊要なことではないか。この点について世の教育者、特に教科書の内容に関する一切の膳立ての任に当る方々の考慮を煩わしたいと思う次第である。
教育者はそういう点から考えても時々はレビューでも映画でも大衆雑誌でも、およそ現代の少青年の心を捕える限りの民衆教育機関を見学し研究し、そうして、そういうものの如何なる因子が民衆に働きかけるかを分析して、その分析の結果を各自の仕事の上に応用すべきではないかと思われる。現代民衆の心理を無視した学者達が官庁の事務机の上で作り上げた教程のプログラムは理論上如何に完全に出来ていても、活きて動いている時代の人間の役に立つ教育には少しどうかと思われるのである。
庭の霧島つつじが今盛りで、軒の藤棚の藤も咲きかけている。
あらゆるレビューのうちで何遍繰返し繰返し観ても飽きない、観ればみる程に美しさ面白さの深まり行くものは、こうした自然界のレビューである。この面白いレビューの観賞を生涯の仕事としている科学者もあるようである。ずいぶん果報な道楽者だとも云われるであろう。
ここまで書いて筆を
(昭和九年六月『中央公論』)