映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]

寺田寅彦




      一 パーロの嫁取り

 北極探検家として有名なクヌート・ラスムッセンが自ら脚色監督したもので、グリーンランドにおけるエスキモーの生活の実写に重きをおいたものらしいので、そうした点で興味の深い映画である。グリーンランドのどの辺を舞台にしたものか不明なのが遺憾ではあるが、とにかく先ず極地の夏のフィヨルドの景色の荒涼な美しさだけでも、普通の動かない写真では到底見られぬ真実味をもって観客に迫ってくるようである。それからまた、この映画の中に描写された土人の骨相や風俗なども実に色々のことを考えさせる。ヒロインの美人ナヴァラナの顔が郷里の田舎で子供の時分に親しかった誰かとそっくりのような気がすることから考えると、日本人の中に流れている血がいくらかはこの土人の間にも流れているのではないかという気がする。ある場面に出て来る小さな男の子にもどう見ても日本人としか思われないのがいる。それからまた女の結髪が昔の娼婦などの結うた「兵庫ひょうご」にどこか似ているのも面白い。
 唄合戦の光景も珍しい。一人の若者が団扇太鼓うちわだいこのようなものを叩いて相手の競争者の男の悪口を唄にして唄いながら思い切り顔を歪めて愚弄の表情をする、そうして唄の拍子に合わせて首を突出しては自分の額を相手の顔にぶっつける。悪口を云われる方では辛抱して罵詈ばりの嵐を受け流しているのを、後に立っている年寄の男が指でぼんくぼを突っついてお辞儀をさせる、取巻いて見物している群集は面白がってげらげら笑いはやし立てる、その観客の一人一人のクローズアップの中からも吾々はいくらも故旧の誰彼の似顔を拾い出すことが出来るのである。
 ラスムッセンの「第五回トゥーレ号探検記」にもこれに似た唄合戦の記事があるところを見ると、これに類似の風俗はエスキモー種族の間にかなり広く行われているのではないかと思う。我邦わがくにの昔の「歌垣うたがき」の習俗の真相は伝わっていないが、もしかすると、これと一縷いちるの縁をいているのではないかという空想も起し得られる。
 唄合戦の揚句に激昂した恋敵こいがたきの相手に刺された青年パーロの瀕死の臥床で「生命の息を吹込む」巫女みこの挙動も実に珍しい見物である。はじめには負傷者の床の上で一枚の獣皮を頭から被って俯伏うつぶしになっているが、やがてぶるぶると大きくふるえ出す、やがてむっくり起上がって、まるで猛獣のえるような声を出したりまた不思議なうそぶくような呼気音を立てたりする。この巫女の所作にもどこか我邦の巫女の神おろしのそれに似たところがありはしないかという気がするのである。
 ナヴァラナが磯辺で甲斐甲斐しく海獣の料理をする場面も興味の深いものである。そこいらの漁師の神さんがまぐろを料理するよりも鮮やかな手ぶりで一匹の海豹あざらしを解きほごすのであるが、その場面の中でこの動物の皮下に蓄積された真白な脂肪の厚い層を掻き取りかき落すところを見ていた時、この民族の生活のいかに乏しいものであるかということ、またその乏しい生活を乏しいとも思わず、世界の他の部分に行われている享楽の種類などは夢にも知らずに生涯を送るという、そうした人生もあり得るということ、そんないろいろな考えが一度に胸に沸き起った。
 カヤクと称する一人乗の小舟も面白いものである。上衣の胴着の下端の環が小舟の真中に腰を入れる穴の円枠にぴったりまって海水が舟中へ這入はいらないようにしてあるのは巧妙である。命懸けの智恵の産物である。
 これなども見れば見るだけ利口になる映画であろう。

      二 ロス対マクラーニンの拳闘

 この試合は十五回の立合の後までどちらも一度もよろけたり倒れかかるようなことはなかった。そうして十五回の終りに判定者がロスの方に勝利を授けたが、この判定に疑問があるというので場内が大混乱に陥ったということである。自分は拳闘のことは何も知らないが、しかしこの判定がやはり少し変に思われた。
 ロスの方は体躯も動作も曲線的弾性的であるのに対してマックの方は直線的機械的なように見え、また攻勢防勢の駈引も前者の方がより多く複雑なように見えたので、自分は前に見たベーアとカルネラとの試合と比較して、ロスが最後の勝利を占めるのではないかと想像していた。ところが十三回十四回頃からロスの身体の構えに何となく緩みが見え、そうして二人が腕と腕をからみ合っているときにどうもロスの方が相手にもたれかかっていたがるような気配が感ぜられたので、これは少しどうもロスの方が弱ったのではないかと思って見ていた。
 最後にデンプシーの審判で勝負が決まった時介添かいぞえに助けられて場の中央に出て片手を高く差上げ見物の喝采に答えた時、何だか介添人の力でやっと体と腕を支えているような気がした。これに反してマックの方は判定を聞くと同時にぽんと一つ蜻蛉返とんぼがえりをして自分の隅へ帰ったようであった。つまりそれだけの体力の余裕を見せたかったのではないかと思われる。それで自分にはどうもロスの勝利というのが呑込めなかったが、テクニックを知らないからだろうと思っていた。後で物言いがあったということをプログラムで読んでやっぱりそうかと思った。

      三 別れの曲

 ショパンがパリのサロンに集まった名流の前で初演奏をしようとする直前に、祖国革命戦突発の飛報を受取る。そうして激昂する心を抑えてピアノの前に坐り所定曲目モザルトの一曲を弾いているうちにいつか頭が変になって来て、急に嵐のような幻想曲を弾き出す、その狂熱的な弾奏者の顔のクローズアップに重映されて祖国の同志達の血潮に彩られた戦場の光景が夢幻のごとくスクリーンの面を往来する。
 これは別に映画では珍しくもない技巧であるが、しかしこの場合にはこの技巧が同時に聞かせる音楽と相待ってかなりな必然性をもって使用されており、これによってこうした発声映画にのみ固有な特殊の効果を出している。眼前を過ぎる幻像を悲痛のために強直した顔の表情で見詰めながら、さながら鍵盤にのしかかるようにして弾いているショパンの姿が、何か塹壕ざんごうから這い出して来る決死隊の一人ででもあるような気がするのである。
 リストが音楽商の家の階段を気軽にかけ上がって、ピアノの譜面台の上に置き捨てられたショパンの作曲に眼をつけて、やがて次第に引入れられて弾き初める、そこへいったん失望して帰りかけたショパンがそっと這入って来て、リストと背中合せに同じ曲を弾き出す場面には一種の俳諧を感ぜられて愉快である。
 この種類の映画で吾々に特に興味のあるのは、従来はただ書物や少数の絵画版画などを通じてうかがっていた「昔の西洋」が吾々の眼前に活きて進行することである。「駅逓馬車ポストクツチエ」による永い旅路の門出の場面などでも、こうした映画の中で見ていると、いつの間にか見ている自分が百年前のワルシャウの人になってしまう。そうして今までに読んだ物語や伝記の中の色々の類似の場面などが甦って眼前に活動するような気がする。そういう意味でジョルジュ・サンドやデューマやバルザックなどの出て来る社交場の光景なども面白い。たとえその描写がどんなに史実的に間違っていても、それが上記のような幻想を起しさえすればそれでこの映画は成効しているであろう。
 この映画にはうるさいところやしつっこいところがなくてよい。やはり俳諧のわかるフランス人の作品である。

      四 紅雀

 年を取った独身の兄と妹が孤児院の女の児を引取って育てる。その娘が大きくなって恋をする、といったような甘い通俗的な人情映画であるが、しかし映画的の取扱いがわりにさらさらとして見ていて気持のいい、何かしら美しい健全なものを観客の胸に吹き込むところがある。一体こうした種類の映画はもっともっと多く作られてよいものであろうと思われる。
 とにかく、これでもかこれでもかと眼新しい趣向を凝らして人性の自然を極度に歪曲したものばかり見せられている際に、たまたまこういう人間らしい平凡な情味をもった童話的なものに出会うと清々しい救われたような気持がするから妙である。

      五 泉

 童話的な「紅雀べにすずめ」に対照すると「泉」は比較にならぬほど複雑で深刻な事件とその心理とを題材として取扱っているから、もし成効すれば芸術的に高級なものになり得るはずであるが、同時にこれを娯楽のための映画として観ると、観たあとの気持はあまり健全な愉快なものではないはずである。
「泉」は多くこの種の映画と同じように甘いと辛いとの中間を行っている。それだけに肩も凝らないがまたどっちもつかずで物足りない気もする。
 汽車の中で揺られている俘虜ふりょの群の紹介から、その汽車が停車場へ着くまでの音楽と画像との二重奏がなかなくうまく出来ている。序幕としてこんなに渾然こんぜんとしたものは割合に少ないようである。
 不幸な夫ルパートが「第三者」アリスンの部屋から二階の妻ジュリーの部屋への隠れた通い路を発見して、暗い階段をびっこ引きながら上がって行く。二階からはピアノが聞こえて来る。階段を上りつめてドアの前に少時たたずむ。その影法師が大きく映る、という場面が全篇の最頂点になるのであるが、この場面だけはせめてもう一級だけの俳優にやらせたらといささか遺憾に思われたのであった。
 テニス競技の場面の挿入は、物語としては主要なものでないが、映画の中の挿話として見ると不思議な心理的な効果をあげている。「大戦」と、ルパートのいわゆる「戦いはこれから始まるのだ」のその「戦い」との間に、この楽しい球技の戦いが挿入されている。そうして球技場のまぶしい日照の下に、人知れず悩む思いを秘めた白衣のヒロインの姿が描出されるのである。
 つまらない事ではあるが、拘留された俘虜達が脱走を企てて地下に隧道トンネルを掘っている場面がある、あの掘り出した多量な土を人目にふれずに一体どこへ始末したか、全く奇蹟的で少なくも物質不滅を信ずる科学者には諒解出来ない。
(昭和十年八月『渋柿』)





底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店
   1997(平成9)年7月7日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2004年12月13日作成
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