一 パーロの嫁取り
北極探検家として有名なクヌート・ラスムッセンが自ら脚色監督したもので、グリーンランドにおけるエスキモーの生活の実写に重きをおいたものらしいので、そうした点で興味の深い映画である。グリーンランドのどの辺を舞台にしたものか不明なのが遺憾ではあるが、とにかく先ず極地の夏のフィヨルドの景色の荒涼な美しさだけでも、普通の動かない写真では到底見られぬ真実味をもって観客に迫ってくるようである。それからまた、この映画の中に描写された土人の骨相や風俗なども実に色々のことを考えさせる。ヒロインの美人ナヴァラナの顔が郷里の田舎で子供の時分に親しかった誰かとそっくりのような気がすることから考えると、日本人の中に流れている血がいくらかはこの土人の間にも流れているのではないかという気がする。ある場面に出て来る小さな男の子にもどう見ても日本人としか思われないのがいる。それからまた女の結髪が昔の娼婦などの結うた「
唄合戦の光景も珍しい。一人の若者が
ラスムッセンの「第五回トゥーレ号探検記」にもこれに似た唄合戦の記事があるところを見ると、これに類似の風俗はエスキモー種族の間にかなり広く行われているのではないかと思う。
唄合戦の揚句に激昂した
ナヴァラナが磯辺で甲斐甲斐しく海獣の料理をする場面も興味の深いものである。そこいらの漁師の神さんが
カヤクと称する一人乗の小舟も面白いものである。上衣の胴着の下端の環が小舟の真中に腰を入れる穴の円枠にぴったり
これなども見れば見るだけ利口になる映画であろう。
二 ロス対マクラーニンの拳闘
この試合は十五回の立合の後までどちらも一度もよろけたり倒れかかるようなことはなかった。そうして十五回の終りに判定者がロスの方に勝利を授けたが、この判定に疑問があるというので場内が大混乱に陥ったということである。自分は拳闘のことは何も知らないが、しかしこの判定がやはり少し変に思われた。
ロスの方は体躯も動作も曲線的弾性的であるのに対してマックの方は直線的機械的なように見え、また攻勢防勢の駈引も前者の方がより多く複雑なように見えたので、自分は前に見たベーアとカルネラとの試合と比較して、ロスが最後の勝利を占めるのではないかと想像していた。ところが十三回十四回頃からロスの身体の構えに何となく緩みが見え、そうして二人が腕と腕を
最後にデンプシーの審判で勝負が決まった時
三 別れの曲
ショパンがパリのサロンに集まった名流の前で初演奏をしようとする直前に、祖国革命戦突発の飛報を受取る。そうして激昂する心を抑えてピアノの前に坐り所定曲目モザルトの一曲を弾いているうちにいつか頭が変になって来て、急に嵐のような幻想曲を弾き出す、その狂熱的な弾奏者の顔のクローズアップに重映されて祖国の同志達の血潮に彩られた戦場の光景が夢幻のごとくスクリーンの面を往来する。
これは別に映画では珍しくもない技巧であるが、しかしこの場合にはこの技巧が同時に聞かせる音楽と相待ってかなりな必然性をもって使用されており、これによってこうした発声映画にのみ固有な特殊の効果を出している。眼前を過ぎる幻像を悲痛のために強直した顔の表情で見詰めながら、さながら鍵盤にのしかかるようにして弾いているショパンの姿が、何か
リストが音楽商の家の階段を気軽にかけ上がって、ピアノの譜面台の上に置き捨てられたショパンの作曲に眼をつけて、やがて次第に引入れられて弾き初める、そこへいったん失望して帰りかけたショパンがそっと這入って来て、リストと背中合せに同じ曲を弾き出す場面には一種の俳諧を感ぜられて愉快である。
この種類の映画で吾々に特に興味のあるのは、従来はただ書物や少数の絵画版画などを通じて
この映画にはうるさいところやしつっこいところがなくてよい。やはり俳諧のわかるフランス人の作品である。
四 紅雀
年を取った独身の兄と妹が孤児院の女の児を引取って育てる。その娘が大きくなって恋をする、といったような甘い通俗的な人情映画であるが、しかし映画的の取扱いがわりにさらさらとして見ていて気持のいい、何かしら美しい健全なものを観客の胸に吹き込むところがある。一体こうした種類の映画はもっともっと多く作られてよいものであろうと思われる。
とにかく、これでもかこれでもかと眼新しい趣向を凝らして人性の自然を極度に歪曲したものばかり見せられている際に、たまたまこういう人間らしい平凡な情味をもった童話的なものに出会うと清々しい救われたような気持がするから妙である。
五 泉
童話的な「
「泉」は多くこの種の映画と同じように甘いと辛いとの中間を行っている。それだけに肩も凝らないがまたどっちもつかずで物足りない気もする。
汽車の中で揺られている
不幸な夫ルパートが「第三者」アリスンの部屋から二階の妻ジュリーの部屋への隠れた通い路を発見して、暗い階段をびっこ引きながら上がって行く。二階からはピアノが聞こえて来る。階段を上りつめてドアの前に少時
テニス競技の場面の挿入は、物語としては主要なものでないが、映画の中の挿話として見ると不思議な心理的な効果をあげている。「大戦」と、ルパートのいわゆる「戦いはこれから始まるのだ」のその「戦い」との間に、この楽しい球技の戦いが挿入されている。そうして球技場の
つまらない事ではあるが、拘留された俘虜達が脱走を企てて地下に
(昭和十年八月『渋柿』)