上野の近くに人を尋ねたついでに、帝国美術院の展覧会を見に行った。久し振りの好い秋日和で、澄み切った日光の中に桜の葉が散っていた。
会場の前の道路の真中に大きな天幕張りが出来かかっている。何かの式場になるらしい。柱などを巻いた布が黒白のだんだらになっているところを見ると何かしら厳かな儀式でもあるように思われる。このようにして人夫等が大勢かかって、やっとそれが出来上がったと思う間もなく式が終って、またすぐに取りくずさなければならないであろう。
博覧会の工事も大分進行しているようである。これもやはりほんの一時的の建築だろうが、使っている材木を見るとなかなか五十年や百年で大きくなったとは思われないような立派なものがある。なんだか少し
美術展覧会に使われている建物もやはり間に合せである。この辺のものはみんな間に合せのものばかりのような気がして、どうも気持が悪い。
そういう心持をいだいて展覧会場へ
日本画が、とてもゆるゆる見る事の出来ないほど
洋画の方へ行くと少し心持がちがう。ちょっと悪夢からさめたような感じもする。
どうもみんな単にうまい絵を描く事ばかり骨を折っているのではないかという疑いが起って来る。それならば大概の絵はそれぞれの意味でうまいところがあるという事が自分のようなものでも分る。一体自分の求めているようなしみじみとした絵は、こういう処では始めから得られないにきまっているのかもしれない。
おしまいの方の部屋の隅に、女の子の小さな像が一枚かかっていた。童女は黒地に赤い
この絵には別にこれと云って手っ取り早く感心しなければならないような、一口ですぐ云ってしまわれるような趣向やタッチが、少なくも私には目に立たない。それだけ安易な心持で自然に額縁の中の世界へ這入って行けるように思う。じっと見ていると、何かしら嬉しいような有難いような気がして来る。ほんとうに描いた人の心持が、見ている自分の心に滲み込んで来るように思う。
どういう訳だか分らないが、あの右の手の何とも名状の出来ない活きた優雅な曲線と鮮やかに紅い一輪の花が絵の全体に一種の宗教的な気分を与えている。少し短くつまった顔の特殊なポオズも、少しも
日本人としての自分にはベラスケズのインファンタ、マリア、マルゲリタよりもこの方がいい。デュラアよりもホルバインよりもこの方がいい。
専門家に云わせると、あるいは右の頬の色が落着かないとか、手が小さ過ぎるとか、色々の批評があるかもしれないが、私にはそんな事は問題にならない。何かなしにこれが本当の芸術というものだろうという気がする。
会場を出て、再び天幕張りの工事を仰ぎ見ながらこんな事を考えた。間に合せものばかりのこの竹の台に、あの童女像ばかりはどうも間に合せでない。時代や流行とは無関係に永遠に伝えらるべき性質のものではないだろうか。
とある店の棚の上に支那製らしい壷のようなものがいくつか並んでいるのをしばらく立止って眺めていた。その内の一つを取り下ろして値段をきいてみると六円だという。骨董品というほどでなくても、三越等の陳列棚で見る新出来の品などから比較して考えてみても、六円というのはおそらく多くの蒐集者にとっては安いかもしれない。しかし私はなんだか自分などの手に触るべからざる贅沢なものに触れたような気がしたので、急いでもとの棚へ返した。
その下の棚に青い
一体私がこの壷を買う事に決定してから取り落してこわしたのだから、別に私の方であやまる必要もなければ、主人も黙って破片を渡せばいいのではなかったかと、今になってみると考えられもする。これはどちらが正当だか私には分らない、とにかくその時は全く恥じ入って、つい無意識にあやまってしまった訳である。
ともかくも代価の五拾銭を払おうとすると、どうしても主人が受取ろう云わない。困り入ってどうしたものかと考えながらその解釈を捜すような心持で棚の上を見ると、そこに一つの白釉のかかった、少し大きい花瓶が目についた。これも粗末ではあるが、鼠色がかった白釉の肌合も、鈍重な
それでは私が困るからと云ってみたが、「いえ、とんでもない事です」と云ってなかなか聞き入れてはくれない。
結局私は白い花瓶と、こわれない別の青い壷との二点をさげておめおめと帰って来た。
主人は二つの品を丁寧に新聞紙で包んでくれて、そしてその安全な持ち方までちゃんと教えてくれた。私はすっかり弱ってしまって、丁度
帰る途中で何だか少し落着かない妙な気がした。軽い負債でも背負わされたような気がしてあまり愉快でなかった。一体これはどうすれば善かったのだろう。代価を
仮りにこれが五拾銭でなくて五拾円か五百円の壷であったら、どうだろうという事を、いささか臆病な心持で考えてみた。理窟は同じでも、実際は少しちがうような気がした。この方だと却って事柄がずっと簡単にはこびそうな気もした。正当不正当の問題が、他の利害の問題のために
ドイツの下宿屋で、室に備え付けの洗面鉢を
またある留学生の仲間がベルリンのTという料理屋で食事をした時に、いつもするように一同で連名の絵葉書をかいた。その時誰かの万年筆のインキがほんの少しばかり卓布を汚したのに対して、オーバーケルナーが五マルクとかの賠償金を請求した。血気な連中のうちの一人の江戸っ子が、「それじゃインキがどれだけ多くついてもやはり同じ事か」と聞いた。そうだという返答をたしかめてから後に悠々と卓布一杯に散々楽書をし散らして、そうして苦い顔をしているオーバーを残してゆるゆる引上げたという話もある。
ドイツだとこれほど簡単に数字的に始末の出来る事が、我が駒込辺ではそう簡単でないようである。
どちらがいいか悪いか、それは分らない。ある解釈に従えば、私の偶然に関係した店の主人の仕打ちうや、それに対する私のした事や考えた事なんかは、すべてがただ小さな愚かな、時代おくれの「虚栄心」の変種かもしれない。
しかしともかくも私はちょっと意外な事に出逢ったような気がしてならなかった。
庭に下りて咲きおくれた金蓮花とコスモスを
展覧会で童女像を見た事と壷のアドヴェンチュアーとは一見何の関係もない事のようである。しかしこれを経験した私にとっては、どうしてもこれを二つの別々の経験に切り離して考える事が困難に思われる。切り離すと、もうそれは自分の活きた経験でなくなって、まるで影の薄い抽象的な「誰でも」の知識になってしまう。
吾々は学問というものの方法に馴れ過ぎて、あまりに何でも切り離し過ぎるために、あらゆる体験の中に含まれた一番大事なものをいつでも見失っている。肉は肉、骨は骨に切り離されて、骨と肉の間に潜む滋味はもう味わわれなくなる。これはあまりに勿体ない事である。
(大正十年十二月『明星』)