颱風雑俎

寺田寅彦




 昭和九年九月十三日頃南洋パラオの南東海上に颱風たいふう卵子たまごらしいものが現われた。それが大体北西の針路を取ってざっと一昼夜に百里程度の速度で進んでいた。十九日の晩ちょうど台湾の東方に達した頃から針路を東北に転じて二十日の朝頃からは琉球列島にほぼ平行して進み出した。それと同時に進行速度がだんだんに大きくなり中心の深度が増して来た。二十一日の早朝に中心が室戸岬むろとざき附近に上陸する頃には颱風として可能な発達の極度に近いと思わるる深度に達して室戸岬測候所の観測簿に六八四・〇ミリという今まで知られた最低の海面気圧の記録を残した。それからこの颱風の中心は土佐の東端沿岸の山づたいに徳島の方へ越えた後に大阪湾をその楕円の長軸に沿うて縦断して大阪附近に上陸し、そこに用意されていた数々の脆弱ぜいじゃくな人工物を薙倒なぎたおした上で更に京都の附近を見舞って暴れ廻りながら琵琶湖上に出た。その頃からそろそろ中心が分裂しはじめ正午頃には新潟附近で三つくらいの中心に分れてしまって次第に勢力が衰えて行ったのであった。
 この颱風は日本で気象観測始まって以来、器械で数量的に観測されたものの中では最も顕著なものであったのみならず、それがたまたま日本の文化的施設の集中地域を通過して、云わば颱風としての最も能率の好い破壊作業を遂行した。それからもう一つには、この年に相踵あいついで起った色々の災害レビューの終幕における花形として出現したために、その「災害価値」が一層高められたようである。そのおかげで、それまではこの世における颱風の存在などは忘れていたらしく見える政治界経済界の有力な方々が急に颱風並びにそれに聯関した現象による災害の防止法を科学的に研究しなければならないということを主唱するようになり、結局実際にそういう研究機関が設立されることになったという噂である。誠に喜ぶべきことである。
 このような颱風が昭和九年に至って突然に日本に出現したかというとそうではないようである。昔は気象観測というものがなかったから遺憾ながら数量的の比較は出来ないが、しかし古来の記録に残った暴風で今度のに匹敵するものを求めれば、おそらくいくつでも見付かりそうな気がするのである。古い一例を挙げれば清和天皇の御代貞観じょうがん十六年八月二十四日に京師けいしを襲った大風雨では「樹木有名皆吹倒じゅもくなあるはみなふきたおれ、内外官舎、人民居廬きょろ罕有全者まったきものあることまれなり京邑けいゆう衆水、暴長七八尺、水流迅激、直衝城下ただちにじょうかをつき、大小橋梁、無有孑遺げついあることなし、云々」とあって水害もひどかったが風も相当強かったらしい。この災害のあとで、「班幣畿内諸神きないのしょしんにはんぺいして祈止風雨ふううをとどめんことをいのる」あるいは「向柏原山陵かしわばらさんりょうにむかい申謝風水之※(「宀/火」、第4水準2-79-59)ふうすいのわざわいをしんしゃせしむ」といったようなその時代としては適当な防止策が行われ、また最も甚だしく風水害をこうむった三千百五十九家のために「開倉廩賑給之そうりんをひらきてこれにしんごうす」という応急善後策も施されている。比較的新しい方の例で自分の体験の記憶に残っているのは明治三十二年八月二十八日高知市を襲ったもので、学校、病院、劇場が多数倒壊し、市の東端吸江きゅうこうに架した長橋青柳橋あおやぎばしが風の力で横倒しになり、旧城天守閣の頂上の片方のしゃちほこが吹き飛んでしまった。この新旧二つの例はいずれも颱風として今度のいわゆる室戸颱風に比べてそれほどひどくひけをとるものとは思われないようである。明治から貞観まで約千年の間にこの程度の颱風がおよそ何回くらい日本の中央部近くを襲ったかと思って考えてみると、仮りに五十年に一回として二十回、二十年に一回として五十回となる勘定である。
 風の強さの程度は不明であるが海嘯かいしょうを伴った暴風として記録に残っているものでは、貞観よりも古い天武天皇時代から宝暦四年までに十余例が挙げられている。
 千年の間に二十回とか三十回といえばやはり稀有けうという形容詞を使っても不穏当とは云えないし、目前にのみ気を使っている政治家や実業家達が忘れていても不思議はないかもしれない。
 こうした極端な程度から少し下がった中等程度の颱風となると、その頻度は目立って増して来る。やっと颱風と名のつく程度のものまでも入れれば中部日本を通るものだけでも年に一つや二つくらいはいつでも数えられるであろう。遺憾ながらまだ颱風の深度対頻度の統計が十分に出来ていないようであるが、そうした統計はやはり災害対策の基礎資料として是非とも必要なものであろうと思われる。
 颱風災害防止研究機関の設立は喜ぶべき事であるが、もしも設立者の要求に科学的な理解が伴っていないとすると研究を引受ける方の学者達は後日大変な迷惑をすることになりはしないかという取越苦労を感じないわけには行かないようである。設立者としての政治家、出資者としての財団や実業家達が、二、三年か四、五年も研究すれば颱風の予知が完全に的確に出来るようになるものと思い込んでいるようなことがないとは云われないような気がするからである。
 颱風に関する気象学者の研究はある意味では今日でもかなり進歩している。なかんずく本邦学者の多年の熱心な研究のおかげで颱風の構造に関する知識、例えば颱風圏内における気圧、気温、風速、降雨等の空間的時間的分布等についてはなかなか詳しく調べ上げられているのであるが、肝心の颱風の成因についてはまだ何らの定説がないくらいであるから、出来上がった颱風が二十四時間後に強くなるか弱くなるか、進路をどの方向にどれだけ転ずるかというような一番大事な事項を決定する決定因子がどれだけあって、それが何と何であるかというような問題になると、まだほとんど目鼻も附かないような状況にある。
 南洋に発現してから徐々に北西に進み台湾の東から次第に北東に転向して土佐沖に向かって進んで来そうに見えるという点までは今度の颱風とほとんど同じような履歴書を持って来るのがいくらもある。しかしそれがふいと見当をちがえて転向してみたり、また不明な原因で勢力が衰えてしまって軽い嵐くらいですんでしまうことがしばしばあるのである。
 転向の原因、勢力消長の決定因子が徹底的に分らない限り、一時間後の予報は出来ても一昼夜後の情勢を的確に予報することは実は甚だ困難な状況にあるのである。
 これらの根本的決定因子を知るには一体どこを捜せばよいかというと、それはおそらく颱風の全勢力を供給する大源泉と思われる北太平洋並びにアジア大陸の大気活動中心における気流大循環系統のかなり明確な知識と、その主要循環系の周囲に随伴する多数の副低気圧が相互に及ぼす勢力交換作用の知識との中に求むべきもののように思われる。それらの知識を確実に把握するためには支那、満洲、シベリアは勿論のこと、北太平洋全面からオホツク海にわたる海面にかけて広く多数に分布された観測点における海面から高層までの気象観測を系統的定時的に少なくも数十年継続することが望ましいのであるが、これは現時においては到底期待し難い大事業である。たださし当っての方法としては南洋、支那、満洲における観測並びに通信機関の充実を計って、それによって得られる材料を基礎として応急的の研究を進める外はないであろう。
 自分の少しばかり調べてみた結果では、昨年の颱風の場合には、同時に満洲の方から現われた二つの副低気圧と南方から進んで来た主要颱風との相互作用がこの颱風の勢力増大に参与したように見えるのであるが、不幸にして満洲方面の観測点が僅少であるためにそれらの関係を明らかにすることが出来ないのは遺憾である。
 ともかくもこのような事情であるから颱風の災害防止の基礎となるべき颱風の本性に関する研究はなかなか生やさしいことではないのである。目前の災禍に驚いて急いで研究機関を設置しただけでは遂げられると保証の出来ない仕事である。ただ冷静で気永く粘り強い学者のために将来役に立つような資料を永続的系統的に供給することの出来るような、しかも政治界や経済界の動乱とは無関係に観測研究を永続させ得るような機関を設置することが大切であろう。

 颱風が日本の国土に及ぼす影響は単に物質的なものばかりではないであろう。日本の国の歴史に、また日本国民の国民性にこの特異な自然現象が及ぼした効果は普通に考えられているよりも深刻なものがありはしないかと思われる。
 弘安四年に日本に襲来した蒙古もうこの軍船が折からの颱風のために覆没ふくぼつしてそのために国難を免れたのはあまりに有名な話である。日本武尊やまとたけるのみこと東征の途中の遭難とか、義経よしつね大物浦だいもつのうらの物語とかは果して颱風であったかどうか分らないから別として、日本書紀時代における遣唐使がしばしば颱風のために苦しめられたのは事実であるらしい。斉明天皇の御代に二艘の船に分乗して出掛けた一行が暴風に遭って一艘は南海の島に漂着して島人にひどい目に遭わされたとあり、もう一艘もまた大風のために見当ちがいの地点に吹きよせられたりしている。これは立派な颱風であったらしい。また仁明にんみょう天皇の御代に僧真済しんさいが唐に渡る航海中に船が難破し、やっといかだして漂流二十三日、同乗者三十余人ことごとく餓死し真済と弟子の真然しんねんとたった二人だけ助かったという記事がある。これも颱風らしい。こうした実例から見ても分るように遣唐使の往復は全く命がけの仕事であった。
 このように、颱風は大陸と日本との間隔を引きはなし、この帝国をわだつみの彼方かなたの安全地帯に保存するような役目をつとめていたように見える。しかし、逆説的に聞えるかもしれないが、その同じ颱風はまた思いもかけない遠い国土と日本とを結び付ける役目をつとめたかもしれない、というのは、この颱風のおかげで南洋方面や日本海の対岸あたりから意外な珍客が珍奇な文化をもたらして漂着したことがしばしばあったらしいということが歴史の記録から想像されるからである。ことによると日本の歴史以前の諸先住民族の中にはそうした漂流者の群が存外多かったかもしれないのである。
 故意に、また漂流の結果自由意志に反してこの国土に入り込んで住みついた我々の祖先は、年々に見舞って来る颱風の体験知識を大切な遺産として子々孫々に伝え、子孫は更にこの遺産を増殖し蓄積した。そうしてそれらの世襲知識を整理し帰納し演繹えんえきしてこの国土に最も適した防災方法を案出し更にまたそれに改良を加えて最も完全なる耐風建築、耐風村落、耐風市街を建設していたのである。そのように少なくも二千年かかって研究しつくされた結果に準拠して作られた造営物は昨年のような稀有の颱風の試煉にも堪えることが出来たようである。
 大阪の天王寺てんのうじの五重塔が倒れたのであるが、あれは文化文政頃の廃頽期はいたいきに造られたもので正当な建築法に拠らない、肝心な箇所に誤魔化ごまかしのあるものであったと云われている。
 十月初めに信州へ旅行して颱風の余波を受けた各地の損害程度を汽車の窓から眺めて通ったとき、いろいろ気のついたことがある、それがいずれも祖先から伝わった耐風策の有効さを物語るものであった。
 畑中にある民家でぼろぼろに腐朽しているらしく見えていながら存外無事なのがある。そういう家は大抵周囲に植木が植込んであって、それが有力な障壁の役をしたものらしい。これに反して新道沿いに新しく出来た当世風の二階家などで大損害を受けているらしいのがいくつも見られた。松本附近である神社の周囲を取りかこんでいるはずの樹木の南側だけが欠けている。そうして多分そのためであろう、神殿の屋根がだいぶ風にいたんでいるように見受けられた。南側の樹木が今度の風で倒れたのではなくて以前に何かの理由で取払われたものらしく見受けられた。
 諏訪湖畔すわこはんでも山麓に並んだ昔からの村落らしい部分は全く無難のように見えるのに、水辺に近い近代的造営物にはずいぶんひどく損じているのがあった。
 可笑おかしいことには、古来の屋根の一型式に従ってこけらぶきの上に石ころを並べたのは案外平気でいるそのすぐ隣に、当世風のトタン葺や、油布張ゆふばりの屋根がべろべろにがれて醜骸しゅうがいさらしているのであった。
 甲州路へかけても到る処の古い村落はほとんど無難であるのに、停車場の出来たために発達した新集落には相当な被害が見られた。古い村落は永い間の自然淘汰によって、颱風の害の最小なような地の利のある地域に定着しているのに、新集落は、そうした非常時に対する考慮を抜きにして発達したものだとすれば、これはむしろ当然すぎるほど当然なことであると云わなければならない。
 昔は「地をそうする」という術があったが明治大正の間にこの術が見失われてしまったようである。颱風もなければ烈震もない西欧の文明を継承することによって、同時に颱風も地震も消失するかのような錯覚に捕われたのではないかと思われるくらいに綺麗に颱風と地震に対する「相地術」を忘れてしまったのである。
 ドイツの町を歩いていたとき、空洞煉瓦一枚張りの壁で囲まれた大きな家が建てられているのを見て、こんな家が日本にあったらどうだろうと云って友人等と話したことがあった。ナウエンの無線電信塔の鉄骨構造の下端がガラスのボール・ソケット・ジョイントになっているのを見たときにも胆を冷やしたことであった。しかし日本では濃尾のうび震災の刺戟によって設立された震災予防調査会における諸学者の熱心な研究によって、日本に相当した耐震建築法が設定され、それが関東震災の体験によって更に一層の進歩を遂げた。その結果として得られた規準に従って作られた家は耐震的であると同時にまた耐風的であるということは、今度の大阪における木造小学校建築物被害の調査からも実証された。すなわち、昭和四年三月以後に建てられた小学校は皆この規準に従って建てられたものであるが、それらのうちで倒潰はおろか傾斜したものさえ一校もなかった。これに反して、この規準に拠らなかった大正十年ないし昭和二年の建築にかかるものは約十プロセントの倒潰率を示しており、もっと古い大正九年以前のものは二十四プロセントの倒潰率を示している。尤もこの最後のものは古くなったためもいくらかあるのである。鉄筋構造のものは勿論無事であった。
 このように建築法は進んでも、それでもまだ地を相することの必要は決して消滅しないであろう。去年の秋の所見によると塩尻から辰野へ越える渓谷の両側のところどころに樹木が算を乱して倒れあるいは折れくだけていた。これは伊那いな盆地から松本だいらへ吹き抜ける風の流線がこの谷に集約され、従って異常な高速度を生じたためと思われた。こんな谷の斜面の突端にでも建てたのでは規準様式の建築でも全く無難であるかどうか疑わしいと思われた。
 地震による山崩れは勿論、颱風の豪雨で誘発される山津浪についても慎重に地を相する必要がある。海嘯かいしょうについては猶更である。大阪では安政の地震津浪で洗われた区域に構わず新市街を建てて、昭和九年の暴風による海嘯の洗礼を受けた。東京では先頃深川の埋立区域に府庁を建設するという案を立てたようであるが、あの地帯は著しい颱風の際には海嘯に襲われやすい処で、その上に年々に著しい土地の沈降を示している区域である。それにかかわらずそういう計画をたてるというのは現代の為政の要路にある人達が地を相することを完全に忘れている証拠である。
 地を相するというのは畢竟ひっきょう自然の威力をおそれ、その命令に逆らわないようにするための用意である。安倍能成あべよししげ君が西洋人と日本人とで自然に対する態度に根本的の差違があるという事を論じていた中に、西洋人は自然を人間の自由にしようとするが日本人は自然に帰し自然に従おうとするという意味のことを話していたと記憶するが、このような区別を生じた原因の中には颱風や地震のようなものの存否がかなり重大な因子をなしているかもしれないのである。

 颱風の災害を軽減するにはこれに関する国民一般の知識の程度を高めることが必要であると思われるが、現在のところではこの知識の平均水準は極めて低いようである。例えば低気圧という言葉の意味すらよく呑込めていない人が立派な教養を受けたはずのいわゆる知識階級にも存外に多いのに驚かされることがある。颱風中心の進行速度と、風の速度とを間違えて平気でいる人もなかなか多いようである。これは人々の心がけによることであるが、しかし大体において学校の普通教育ないし中等教育の方法に重大な欠陥があるためであろうと想像される。これに限ったことではないが、いわゆる理科教育が妙な型にはいって分りやすいことをわざわざ分りにくく、面白いことをわざわざ鹿爪しかつめらしく教えているのではないかという気がする。子供に固有な鋭い直観の力を利用しないで頭の悪い大人に適合するような教案ばかりを練り過ぎるのではないかと思われる節もある。これについては教育者の深い反省を促したいと思っている次第である。

 ついでながら、昨年の室戸颱風が上陸する前に室戸岬沖の空に不思議な光りものが見えたということが報ぜられている。色々聞合わせてみてもその現象の記載がどうも要領を得ないのであるが、ともかくも電光などのような瞬間的の光ではなくてかなり長く持続する光が空中の広い区域に現われたことだけは事実であるらしい。こういう現象は普通の気象学の書物などには書いてないことで、果して颱風と直接関係があるかないかも不明であるが、しかし土佐の漁夫の間には昔からそういう現象が知られていて「とうじ」という名前までついているそうである。これが現われると大変なことになると伝えられているそうである。昨年の颱風の上陸したのは早朝であったのでその前にも空はいくらかもう明るかったであろうから、ことによるといわゆる颱風眼の上層に雲のない区域が出来て、そこから空の曙光が洩れて下層の雨の柱でも照らしたのではないかという想像もされなくはないが、何分にも確実な観察の資料がないから何らの尤もらしい推定さえ下すことも出来ない。
 これに聯関して、やはり土佐で古老から聞いたことであるが、暴風の風力が最も劇烈な場合には空中を光り物が飛行する、それを「ひだつ(火竜?)」と名づけるという話であった。これも何かの錯覚であるかどうか信用の出来る資料がないから不明である。しかし自分の経験によると、暴風の夜にかすかな空明りに照らされた木立を見ていると烈風のかたまりが吹きつける瞬間に樹の葉がことごとく裏返って白っぽく見えるので、その辺が一体に明るくなるような気のすることがある。そんな現象があるいは光り物と誤認されることがないとも限らない。尤も『土佐古今の地震』という書物に、著者寺石正路てらいしまさみち氏が明治三十二年の颱風の際に見た光り物の記載には「火事場の火粉ひのこの如きもの無数空気中を飛行するを見受けたりき」とあるからこれはまた別の現象かもしれない。
 非常な暴風のために空気中に物理的な発光現象が起るということは全然あり得ないと断定することも今のところ困難である。そういう可能性も全く考えられなくはないからである。しかし何よりも先ず事実の方から確かめてかかる事が肝心であるから、万一読者の中でそういう現象を目撃した方があったらその観察についての示教を願いたいと思う次第である。
 事実を確かめないで学者が机上の議論を戦わして大笑いになる例はディッケンスの『ピクウィック・ペーパー』にもあったと思うが、現実の科学者の世界にもしばしばある。例えばこんな笑い話があった。ある学会で懸賞問題を出して答案を募ったが、その問題は「コップに水を一杯入れておいて更に徐々に砂糖を入れても水が溢れないのは何故か」というのであった。応募答案の中には実に深遠を極めた学説のさまざまが展開されていた。しかし当選した正解者の答案は極めて簡単明瞭で「水はこぼれますよ」というのであった。
 颱風のような複雑な現象の研究にはなおさら事実の観測が基礎にならなければならない。それには颱風の事実を捕える観測網を出来るだけ広く密に張り渡すのが第一着の仕事である。
 軍艦飛行機を造るのが国防であると同じように、このような観測網の設置も日本にとってはやはり国防の第一義であるかと思われるのである。
(昭和十年二月『思想』)





底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「思想」
   1935(昭和10)年2月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」。
※単行本「蛍光板」に収録。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
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