虫の中でも人間に評判のよくないものの
随一は
蛆である。「蛆虫めら」というのは最高度の
軽侮を意味するエピセットである。これはかれらが
腐肉や
糞堆をその定住の
楽土としているからであろう。
形態的には
蜂の子やまた
蚕とも、それほどひどくちがって特別に
先験的に
憎むべく、いやしむべき
素質を
具備しているわけではないのである。それどころか、かれらが人間から軽侮される生活そのものが、実は人間にとって意外な
祝福をもたらす
所以になるのである。
鳥や
鼠や
猫の
死骸が、道ばたや
縁の
下にころがっていると、またたく間に
蛆が
繁殖して
腐肉の最後の一
片まできれいにしゃぶりつくして
白骨と
羽毛のみを残す。このような「
市井の
清潔係」としての蛆の
功労は古くから知られていた。
戦場で
負傷したきずに手当てをする
余裕がなくて
打っちゃらかしておくと、
化膿してそれに
蛆が
繁殖する。その蛆がきれいに
膿をなめつくしてきずが
癒える。そういう場合のあることは昔からも知られていたであろうが、それが
欧州大戦以後、特に
外科医の方で注意され問題にされ
研究されて、
今日では一つの
新療法として、
特殊な外科的
結核症や
真珠工病などというものの
治療に使う人が出てきた。こうなると今度は、それに使うための蛆を
飼育繁殖させる必要が起こってくるので、その方法が研究されることになる。現に、昨一九三四年の『ナツーアウィッセンシャフテン』第三十一号に、その
飼育法に関する記事が
掲載されていたくらいである。
蛆がきたないのではなくて、人間や自然の作ったきたないものを
浄化するために蛆がその全力をつくすのである。
尊重はしても
軽侮すべきなんらの理由もない道理である。
蛆が成虫になって
蠅と改名すると、急にたちが悪くなるように見える。昔は「五月蠅」と書いて「うるさい」と読み、
昼寝の顔をせせるいたずらもの、ないしは
臭いものへの道しるべと考えられていた。
張ったばかりの
天井にふんの
砂子を
散らしたり、馬の
眼瞼をなめただらして
盲目にする
厄介ものとも見られていた。近代になって、これが各種の
伝染病菌の
運搬者、
播布者として、その悪名を
宣伝されるようになり、その結果がいわゆる「
蠅取りデー」の出現を見るにいたったわけである。
著名の学者の
筆になる「
蠅を
憎むの
辞」が現代的科学的
修辞に
飾られて、しばしばジャーナリズムをにぎわした。
しかし
蠅を取りつくすことはほとんど
不可能に近いばかりでなく、これを
絶滅すると同時に、
蛆もこの世界から
姿を消す、するとそこらの
物陰にいろいろの
蛋白質が
腐敗して、いろいろのばいきんを
繁殖させ、そのばいきんはめぐりめぐって、やはりどこかで人間に
仇をするかもしれない。
自然界の
平衡状態は
試験管内の
科学的平衡のような
簡単なものではない。ただ一種の小動物だけでも、その
影響の
及ぶところははかり知られぬ
無辺の
幅員をもっているであろう。その
害の
一端のみを見てただちにそのものの無用を
論ずるのは、あまりにあさはかな
量見であるかもしれない。
蠅がばいきんをまきちらす、そうしてわれわれは知らずに、年中少しずつそれらのばいきんを
吸い
込みのみ
込んでいるために、自然にそれらに対する
抵抗力をわれわれの体中に
養成しているのかもしれない。そのおかげで、何かの機会に蠅以外の
媒介によって、多量のばいきんを取り
込んだときでも、それにたえられるだけの
資格がそなわっているのかもしれない。
換言すれば、蠅はわれわれの五体をワクチン
製造所として
奉職する
技師技手の
亜類であるかもしれないのである。
これはもちろん
空想である。しかしもし
蠅を
絶滅するというのなら、その前に自分のこの空想の
誤謬を
実証的に
確かめた上にしてもらいたいと思うのである。
あえて
蠅に限らず
動植鉱物に限らず、人間の社会に存するあらゆる
思想風俗習慣についても、やはり同じようなことがいわれはしないか。
たとえば
野獣も
盗賊もない国で、安心して
野天や明け
放しの家で
寝ると、
風邪を引いて
腹をこわすかもしれない。○を
押さえると△があばれだす。
天然の
設計による
平衡を
乱す前には、よほどよく考えてかからないと
危険なものである。
(一九三五年二月「自由画稿」より)