1
「ハロー。」
貨幣の
空はリキュール酒のようなあまさで、夜の街を覆うと、
午後十一時ごろであった。大阪からながれてきたチヨダ・ビルのダンサー達が
「あのなあ、
「けったいやなあ、それなんや。」
「それがなあ。散歩してーえな、ちゅうことなのや。おお寒む。」
酒と歌と踊のなかからでてきた男女が熱い匂のする魅力にひかれて、洪水のようにながれる車体に拾われると、
同じ時刻。太田ミサコの黒いスカートが冷たい路上で地下の電光に白く
「カム・イン。」
太い男の声が扉のすき間からもれると、太田ミサコは部屋につかつかと這入ると、彼女は盲目のように
「やあ、部屋をまちがえた花嫁のようにてれているじゃないか。」と、巨大な男は彼女に青い尻をむけて云った。
すると太田ミサコは、ソファに片脚あげて、ストッキングを結んだ華美な薔薇の花模様の結び目をゆるめると、
「いくら
「これは失礼。だが、不眠症になるような取引を申しこまれたのはどこのマクロー様かね。」太田ミサコは
「ほほ、それではバル・セロナ生れの
すると、奇怪な男がおどけて云った。
「ミサコ女史よ、
「ムーラン・ルージュの恋物語でございますか。はい、一輪お高うございますわ。」
色の黒い肥まんした男が腹をかかえてわらいだした。片ひじついた彼女の鋼鉄のような腕に血管が運河のように青く浮きでた。
「それでご用は?」と、無作法に両股をひろげて男が云った。
すでに彼女は隠密にものを云う女になっていた。
「あら、こう云ったからって妾は打算と赤鼻が好きさ。ぜひお願いしますわ。と、云うのは妾が愛撫してくれる男を待っているわけじゃないわ。実はマクローにだって衣裳が要るように、あなた妾を労働女にして街に棄てないでちょうだい。分って。」
厚化粧した彼女の
「わしはそのお礼によって、あとくされと紛議をかもさないように奥さんにご用立てしましょう。」
「利子は妾よ。」ずばりと彼女は云うと、化学的な香料のにおいを発散させながら、黄煙草のけむりで太田ミサコは傲慢なわらいを浮べた顔をくもらせた。
しかし、タイプライター刷のような事務的な男の言葉がつづいた。
「カァキイ色の小切手を出しましょう。失礼ですが、奥さんは必要なもののありかをご存じですか。」
「いただくわ。契約するわ。」
「期日は。」
「只今だわ。契約期限切れは赤の他人だわ。」と
赤い首巻きを締めるように、肥満した男の太い呼吸がばったりやむと、人口的な都会の性格が
2
戸外に彼女がでると、
彼女が
「ああ、あなた探訪記者だわね。」
「深夜のミイラとりだわよ。」
彼女は女記者のむくんだ肩を美しく手いれされた指でふれて、起重機のそびえた黄色い空を見あげながら、
「ちょいと。」
「なーに。」
「これ少しよ。」
「まあ、妾に。でもこれじゃ駄目だわ。」
太田ミサコはとっさに記者の近視眼のめがねのしたで、ずるそうな意志が図解されているのをみとめた。
「あなた、いらないの。」と、強く云いきるとふたたび建物の影にそって歩きだした。
「あなたいらないの。」
「いただくわ。」
「ではお願いがあるわ。あなた妾を明朝たずねてきていただきたいの。妾の考えではあなた中々見こみがあるわ。」
「畜生!これっぽっしの目腐れ金で妾をろうらくして、
仏国ポール商会代理店 太田ミサコ 日比谷街 36
と、記された花模様の名刺を太い手首に丸めこむと、かの女は豚のように空中に跳ねた。3
翌朝、太田ミサコは支那ホテルからの電話でめざめた。
肥大した男の恋愛のつづきを受理する女のように頑健な
「妾、太田ミサコですわ。」と、彼女がこたえた。すると男のエロチックな天性が哀願的に、「わしは昨夜中あんたのことを思いつづけると眠ることができなかった。いまでもあんたの呼吸がわしの耳に鳴りつづけるのだ。するとわしはドイツの軍艦のようなあんたのからだを思う。」「ああ、もし、もし。」「わしは気がくるってホテルの高層から飛びおりようと思った。」
「御用は?」
電話の男がどもって
「あんたはわしのことをどう思っていてくれる。」
「妾、あなた様をおきらい申しておりますわ。」と、かの女は冷やかにこたえると、そのまま沈黙して受話器を耳から離さなかった。すると
彼女は寝床に起きあがると中年女の壮烈な教練を始めた。窓のカーテンがひらいて眼下にヒビヤ・パークと警視庁の鉄筋の骨組が朝の太陽のもとに赤光をうけて眼ざめた。女の両脚のように緑色の電車路が横たわって、そのうえを労働者の溢れた満員の割引電車が通り過ぎた。サラリーメンの洪水のために死骸のような建物の
前門の経済通報社の万事相談室には早朝から
部屋のアザミの造花のおかれた卓子に、ミサコと対して女記者は巨木のような脚をくむと、すぱりすぱりと朝日の紙巻タバコの煙を吐きだしながら、
「お早うございます。マダム・ミサ。妾は中央ステイションでおりたのよ。あなた達の悪癖には妾顔まけして了ったわ。」
「妾のお願いと云うのはね。」
「ところがマダム、いくら流行病とは云いながら
「そのくらいで結構、妾にはそれがだれだか分っているのさ。」
疑うように女記者が彼女の顔をのぞいた。しかしミサコは冷却した女のようにことばをつづけた。
「あなたにお願いと云うのはね、妾の同業の厚化粧ぐみをね、
「まったくですわ。ねえ、マダム。」
「妾は正道をあんたも知っているように歩んでるわ。だからさ。妾はあんたのような正しい心をもった女らしい人が好きなのさ。」
「あら!」
太田ミサコはとっさに、はにかんだ女記者のまえに二、三枚の紙幣をとりだすと、
「これ、手附さ。あいつ達のネタを一週間以内にもってくれば手附の十倍の報酬を進呈するわ。」
「売りこむのは?」
「××の夕刊新聞。」
ふたたびミサコは肥大した女を
「あんた、もし裏切るようなことがあれば妾がどんなことをする女か知っている?」
太く短い女は立あがると、いらいらして部屋を
「では、さようなら。マダム。」
「さようなら。あんたは、たのもしい方だわ。」と、彼女が云った。
しおれた女の足音が遠のくと、ミサコは女記者が青バスに太い拳をさしあげるのを見た。ふたたびカーテンを閉すと、強大な彼女の自信が昨夜からの疲労のために惨めにもくずれ始めた。
4
一刻後、太田ミサコはタクシーのクッションにもたれて官省広場の並木道を疾走していた。大島のかさねを黒いコートでつつんで、リスの毛皮を左乳に垂らした、頬紅をささない蒼白な厚化粧の女が、いつも一点をみつめ前後の気配を感ずる都会の女の乗った車が、中央九番街のクロス・ワード模様の東洋銀行のまえで停止すると、彼女のフェルトの
ミサコが廻転扉から出納口につかつかと進むと、コケットな彼女の
ミサコはお互の少時間の自由を、対岸を流れる
「あんた、妾妊娠したかも知れないわ。」
「そんなこと、不思議なものか。あんたが奥さんである以上は。」
彼女が片眼をつむって、白魚のような指を鼻にまいて、「あんたの、ベビかもしれなくってよ。」
「すると。」
「妾うれしいわ。」
カリタが礼儀ただしく立ちあがって食堂の扉を開いた。彼の同棲者が微笑しながら二人を迎えると、三人が食卓をかこんだ。シークな部屋であった。
飛行機が蒼空を踊り靴をはいて通過した。首からぶらさげた三角のナフキンに、茶褐色の斑点をつけてミサコが云った。
「マダム、カリタは妾のことをどう思っていてくれますでしょう。」
彼の同棲者の細い首が食卓の魚の尾に傾いて、
「おくさま、カリタはいつもミサコさまのことを可愛いい天使だと申しております。」
「まあ、うれしい。」とミサコは
「妾の困難な仕事も妾の道徳的な突進も妾の女馬鹿もいつもカリタの近代人らしい截断によって世間に通用するんだわ。」
すると、『流行』の宣伝部長は化粧した冷酷な顔に鼻眼鏡をかけながら、
「そうさ、俺達の友情はこの東京で育つに工合がいいんだ。お前ミサコさんに世間ありふれたお粗末な友情でおつきあいしては
「分っているわよ。」と、彼の同棲者が意味ありげにこたえた。
5
イズモ町の太田ミサコ経営のポール流行品店では、早朝から商品窓のマネキンに黒山のような人だかりがしていた。入口の勘定台の女の鋼鉄のような指が動くたびに、金銭登録器がすばらしい音をたてて開閉した。そこから一列に輸入品の帽子が並べられて、その後で職業女の赤い唇がひらいたりしぼんだりした。左右の陳列棚にはスペイン・ショールや夜会服が模造人形に装飾されて、その下に並べられた化粧品からは嗜好的な香が発していた。
奥の三面鏡にはたえまなく綺羅を着かざったブルジョワ婦人が、三面鏡があたえる美化された三つの姿態に惚れ惚れと見ほれてしまった。すると女のような外交員が、もみ手をしながらおきまりの讃辞を役者のようにしゃべりだした。それが二階のビュティ・パーラーの髪の焼ける臭気と、
三階のマネキンの事務所では、競馬馬のような女の舞台女優気どりの
ミサコはポール商会のまえで車がとまったとき、カリタに隣家のとざされた商店の買収のことを話していた。彼女が店につかつかと入ると同時にミサコの金属のかちあうような鋭い声がきこえた。
「ちぇ、なんだい、マネキンは窓の外を男さえ通ればそわそわしているし、陳列棚についたお前さんたちの
恐る恐る、彼女の夫が云った。
「お前、さっきから隣の地主が奥の部屋で待ってるよ。ところでお前、お前こそ唇に食事のあとがついてるじゃないか。」
彼女の顔が廃艦のような色にかわると、ポール商会に金属的な悲鳴が聞こえた。
「馬鹿、うすのろ、妾を侮辱したね、妾のプライドをきずつけたんだ。ああ、口惜しい。」
ミサコの馬の脚のような涙に
「ミサコさん、あなたが泣くと僕はあなたという人がどんなに正直な美しい心を持った女であるか分るんだ。僕は英国女のようにもの堅いあなたを尊敬しているんです。」
彼女が泣くのをよして、お化粧を一きわ濃く塗りながら、
「
ミサコが堅固な意志をとりかえすと、ふたたびポール商会は、事務と秩序と美にたいする感覚をとりかえして、
6
「この方は妾の顧問弁護士でございます。」
カリタをかえりみて彼女が相手の
「妾はいつも間違いのないようにお取引を致しますかわりに、それだけに、駈引のある商人的なお取引はいやなのでございます。それに妾は女でございますから、お話しがむつかしくなりますと手を引くより外に道がございません。では、三マルとして手を打っていただきとうございます。妾は女でございますもの、それなのにあなた様の土地は無力な妾がつねから欲しいと思った土地なんでございます。三マルでおゆずりくださいませ。いつまでもご恩にきますわ。」
痩せた老年の男が憤怒のために立あがった。
「いまになって三マルとはひどいではないか。昨日まであんたは四マル半ぐらいなら妾がいただくから他には話さないでくれと狂気のようになってわしにたのんだ。わしはあんたを信じた。あんたは、わしが今日限り抵当ながれにならなくてはならないわしの土地についてはよく承知なんだ。」
「妾残念に存じます。妾の無力をわたしは悲しく存じますわ。」
「あんたはわしを死ぬような目にあわしなすった。」
「どうか、妾を悪い女にしないでください。あなたのお顔を見ていると、妾はいまになってどうしていいか分らなくなってしまったのです。」
「万事休す。わしはだまされた。」
影を失った、老いた男を横目で見ながらミサコは右肩をかるくゆすった。
「お気の毒に存じます。しかし何分相手が女だものですから、あさはかにも欲しい一念から堅い口をききましたのでしょう。それでは抵当権はそのまま当方に引うけることに致しましょう。値違い八千円をもってお取引いたすことにしまして、私が代理人としてこれから登記所へまいります。」
ミサコは二人を送りだすと、
ふたたび、都会がパノラマのように彼女の眼前に
「おい、どうしたのだ。」
「妾、どのくらい寝ていて。」
「いまさっき、アタゴ山のサイレンが鳴ったよ。」
「すると正午だわね。」
「そうだよ、おまえどうかしていない。」
ミサコはいまさらのように善良な夫を見つめていたが、
「あなた、ナナコはまだ学校を引けないわね。」
「あのおてんばのことは、どうも、俺には分らないよ。」
「ねえ、あなた。妾はいいママだわねえ。」
「あの娘にとって、お前はいいママかも知れないよ。」と、彼女の夫がこたえた。
ミサコの二枚の唇が白昼のテーターテイトのなかで
「妾はナナコにたいして厳格な精神をもっているわ。でも妾は眼のまわるように忙しいのよ。妾があの土地を買収したのも、妾はこの土地にポール商会のビルデングを建てるつもりなのよ。それについて妾は二重にも、三重にも金策をしなくてはならない破目になっているのよ。あなた、分って。妾が流行界の女王になったらあなたどうするつもり? あんたやはりまえと同じように
ミサコは歳入のたらない夫の沈黙からはなれると、階下に彼女をおとずれた人々に居留守をつかって裏口から銀座にあらわれた。
7
太田ミサコにとって市街は相場の高低表であった。しかし彼女にとってこの街は無意味なものの
だが、彼女がオワリ町の十字路までやってくると、中央の「ゴー」「ストップ」と書かれた赤い建札の廻転がはじめて意識的なものを彼女に感じさすことができた。ミサコがスキヤ橋の方向に顔をむけるとふたたび生きた記録に彼女は接した。A新聞社の電気告知の綴文字が事件をたえまなく運搬した。
『ホンジツヲモツテキンユシユツハカイキンサレマシタ。』
『センダガヤノシヨウジヨゴロシノハンニンケンキヨサレマシタ。』
『ゾウワイジケンノタメシユウヨウチユウノ××ハフキソトケツテイシマシタ。』
『セイユウカイハツイニカイサンカイヒウンドウヲステテカンブカイハ、ウンヌン。』
伝書鳩がまた新しい事件をもって新聞社の楼上にまい下りた。ラジオの経済通報が全市にひびきわたった。ミサコは通りがかりのタクシーに乗るとカブト町に向って車を疾走さしていた。
東株ビルデングの石造の大建築が、人物をザンバのように呑みこんでいた。数百の受話器が仲買人たちの耳に瞬間に数千の
太田ミサコは売あびせのために底値を入れた××新株の反撥を予想して買いあつめると、雑株安をねらって、引たたぬ××百貨店株を
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白いカラーをつけた、
ポール流行品商会の二階の美容室では、太田ミサコが弟子にからだ中に花粉をはたかせていた。ひる間商品窓に飾ってあった、マルセーユの歌劇女のきるような華美な衣裳をつけて、白い羽根のついた黒い帽子を
夜の界わいを、極度に断截された
一刻後、東京劇場の中央の位置に人々は彼女を見出だした。幕間になると彼女は
「やあ、奥さん。驚くべき美しさですなあ。あんたはいつでも僕に女性にたいする懐疑を棄てさせますよ。」
ミサコはオペラ・バッグから祝儀袋をだすと彼にわたしながら、
「妾はあんたのお世辞をきくともう夢中になってしまっているのよ。しかし妾は宣伝はわすれないわ。幕間はあんた、場内の視聴を妾に貸してちょうだい。」
マツノスケはわざと豪快にわらってから、
「やあ、有がとう。今夜で千秋らくになると、わっちは関西でふたを開けやすが、あんたはどうなさる。」
すると彼女の眼が
「それはね、マツノスケ。妾はね、あんたに離れてはいられぬし、かたがた大阪に急用があって今夜これから出発するわ。妾、待っていてよ。」
「お後をしたって。」と頭を
マツノスケに別れると、ミサコはそのまま楽屋口から冷たい街路に出た。
出発半時間前、中央ステイションのプラット・ホームには、ミサコの夫と彼女の女弟子たち、カリタ夫妻が彼女を見送りにきていた。
ミサコは、小さなワニ皮の旅行鞄に少時の憂愁をかくして、皮手袋を
列車が品川を過ぎると、彼女のかたわらに美男のアメリカ人がにこにこしながらやってきた。手品師のウイルキンスであった。ミサコが無愛想に云った。
「ハロー、ウイルキンス。よくやってこられたのね。」
「かけおちしましょう。ミサコさん。」と、彼がなれなれしくこたえた。
太田ミサコの顔が瞬間、
「ウイルキンス。約束のもの持ってきて?」
「五百円、たしかに。」