◇
寫眞も、この
頃は
猫も
杓子もやるといふ風な、はやり
物になつて、それに
趣味を持つなどゝいふのが
變に
當たり前
過ぎる
感じで、
却て
氣がひけるやうなことにさへなつてしまつた。が、いつだつたか、或る
雜誌にのつてゐたゴシツプによると、
文藝の
士の
余技の内
玉突と寫
眞とでは
私が
筆頭ださうだ。
無論、そんなことで
筆頭などゝ
認められても、
格別嬉しくもないが、そも/\
私が
寫眞を
初めたのは、十一二の時分のことで、年
號にすれば、
明治三十五六年、
流行
物どころか
しろうとに
寫眞など
寫せるものではないといふやうな
考へのある時
代だつた。
ところで、どういふ
譯で、そんな子
供の私が
寫眞などはじめるやうになつたかといへば、その
頃私は、
三宅克巳氏
著の「
少年
寫眞術」なる一書を手に入れたのだ。それは、子
供向きに
寫眞の
沿革から
撮影、
現像、燒
付の
法、それに
簡單な
暗箱の
作り方までを
説明してある。たしか
博文館發行の
少年
理科叢書の一
册だつたかと
思ふ。それを
讀むことによつて、
私は
寫眞に
對する子
供らしい
好奇心と
興味とを大に
刺戟されたのであつた。
◇
當時、
私の一家は長
崎に
住んでゐた。その長
崎には、
下岡蓮杖翁と
並んで、日本寫
眞界の
元祖である
上野彦馬翁が同じく
住んでゐた。これは
偶然「
少年
寫眞術」の
沿革史の一
節にも書いてあることだつたが、うちで
寫眞を
寫すといふと、いつもその上
野寫眞館へ出かけたもので、その
頃翁は
直接撮影塲に出るといふやうなことはなかつたが、
頭のすつかり
銀髮になつた、
額の
廣い、
あごの
角張つた
翁の
顏を、この人が
寫眞の
元祖だといふ風な一
種の
敬意を以て
眺めたことが、うつすりと
私の
記憶に
殘つてゐる。――が、さて、その一書によつて
深く
寫眞熱をあふられた
私は、何よりも
寫眞機がほしくてたまらない。母はもとより
私の
望みなら先づ大
概は
聞いてもらへた
祖父母にも
盛んにせがんで見たが、
「子
供に
寫眞など
寫せるものではない」
そんなことで、
到底相手にされなかつた。それに子
供だましの
寫眞器の二三円でも、
當時では、
可なりの
贅澤品に
違ひなかつたし、
然るべき
寫眞器など、
無論買つてもらへるはずもなかつた。
◇
仕方なくそれは
諦めたが、その
頃から
割合に手先の
器用な
私だつたので、「
少年
寫眞術」の
説明に
從つて、
私はとう/\寫
眞器自作を
志た。
薄板を
組合せて名
刺形の
暗箱をこしらへる。内
部を
墨で
塗る。
眼鏡
屋から十五錢ばかりで
然るべき
焦點距離を持つ虫
眼鏡を
買つて來て竹
筒にはめ
込んだのを、一方の
面にとりつける。それに蓋をつける。
最も
苦心したのは、
乾板を入れる
裝置の
處だつたが、とに
角一
週間ほどの
素晴らしい
苦心で、それが、どうにか出來上つた。
それから或る日、町中を探し歩いてやつと見つけたのが、
藥屋が
主の
寫眞材料店、名
刺形の
乾板の
半ダース、
現像液に
定着
液、
皿、赤色
燈、それだけは
懇願の
末、
祖母から
資金を
貰つたのだつたが、
胸を
躍らせながら、
押入へもぐり
込んで
乾板を
裝置して、
庭の景色などを寫してみた一
枚、二
枚、三
枚。
しかし、
夜を
待つて、また
押入の中での
現像の
結果は、
乾板の
黄色い
面がまつ
黒になつてしまふばかり。とう/\二ダースの
乾板を
無駄にしたが、
影像は
全く
膜面に
現れて來なかつた。
「そおれ
御覽なさい……」
といふ母や
祖父母の
聲、
不平はモデルにした妹
達や女中までから來た。
私はすつかり、しよげた。
資金ねだりにも、
祖母は、さう/\いゝ
顏は見せなくなつた。が、
根が
負ず
嫌ひでもあつたし、またさうなると、今までの
苦心
努力の報いられなかつた悔しさから、
成功への
要求が
逆に
強くなつた。そして、
撮影法にも、
現像法にも、
無論手
製の
裝置にも
改善を
加へて
更に何
枚かを
試みたが、あゝ、それは何といふ
狂喜だつたか?
◇
或る日の
午後
縁側に
坐らせた學校友
達の一人を
寫してみた
乾板に
遂にうつすりとそれらしい
影像が
現れた。
押入の
暗闇で赤色
燈に
現像皿をかざしてみながら、いかに
私は
歡喜の笑みを
浮かべたことであらうか?それから
けふまでもう二十
余年、
私の長い
寫眞物語りのペエジにも
悲喜こも/″\の出來事が
繰返されたが、あの
刹那にまさる
嬉しさがもう
再びあらうとは
思へない。
◇
その後
間もない十二年の歳の
秋に、
私は三つ時分からの持
病の
喘息に新しい
療法が
發見されたといふので、母と
共にはる/″\上
京したが、その時三月近く
滯在してゐた母の
實家で
若い
叔父が
寫眞をやつてゐた。それは今から
思へば、七八円
程の
安價な
組立寫眞器だつたが、それを見、また景色にしろ人
物にしろ相
當立派に
寫し出されてゐるPOP
印畫を
眺めた時、
私は
嫉妬に近い
羨ましさを
感じ、かつはどれほど
寫眞熱を
刺戟されたか分らなかつた。そして叔父からいろ/\
教へを
受けると同時に、いよ/\長
崎へ
歸るといふ時に、さん/″\母にせびつて
漸く
買つてもらつたのが二円五十錢の、
至極簡單ながら
速寫
裝置もある
箱形の
輕便寫眞器だつた。その
買つた
店といふのが、新
橋の
博品館の
隣の今は
帽子
屋になつてゐる
雜貨店で、狹い
銀座通にはまだ
鐡道馬車が通ひ、新
橋品川
間が
電車になつたばかりの
頃だつた。本石町の小西と
淺沼、今川小
路の
進々
堂――それらが
當時の
有名な
店だつたが、とにかく東
京にも
寫眞器屋などはまだ
數へるほどしかなかつたやうに
思ふ。
◇
三十八年の
春に一家が東
京へ
住み
移るやうになつてから、やがて二
度目に買つてもらつたのが、前のにちよつと
毛のは※
[#変体仮名え、8-5-2]たくらゐの五円ばかりの
箱形寫眞器、
少し
寫眞の※
[#こと、8-5-3]が分りかけて來た
私にはとても
不滿でたまらない
程度のものだつた。そして、いゝ
寫眞器に
對する憧憬は日に日に高まるばかりだつたが、さう手
易く
買つてもらへる
筈のものでもなかつた。
で、
仕方なく小西、
淺沼、
進々
堂あたりから
寫眞器の目
録を
取りよせたりして、いはば高
根の花のいゝ
寫眞器の挿
繪や
説明などを
讀むことによつて、
氣持を慰さめてゐた。プレモ、オオトシヤツタア、ソルントンシヤツタア、フオルカルプレンシヤツタア、カアルツアイス、百分の一、千分の一、テツサア、アナスチグマツト――さういふ
寫眞用語がいかに
歴亂として
私の
腦裡を
動き、いかに
胸躍るやうな
空想を
描かせ、いかに儚ない
慰樂を
與へたことか?
「さうだ
貯金をしよう、
貯金を……」
或る日、
私はそれ
等の目
録を
眺めながら、せめて百分の一
秒ぐらゐまでのシヤツタア
裝置のある三四十円の
寫眞器を
買はうと
思ひ
立つて、さう心をきめた。そして、月々きまつてもらふお小
遣ひを
少しづゝ
郵便貯金にし
初め、いつも
祖母がくれるお中
元お歳
暮の金も今までのやうに
無駄には
使はないことにした。
◇
その
貯金が二十円あまりになつた中學二年生の
夏、それと同
額ぐらゐの足し前を
祖母にせがんで
漸く
理想に近い
寫眞器を買つたそれは
可成り
明るいアナスチグマツトレンズ
[#「アナスチグマツトレンズ」は底本では「アナチグスマツトレンズ」]に百分の一
秒まで利くオオトシヤツタア
裝置を持つプレモ
形の二
枚掛寫眞器で、その
取框に中框を
使つて大
概手
札乾板ばかりで寫してゐたが、
處女
撮影から寫る寫る、
立派に寫る。五
段伸の三
脚の上に
立てゝ
黒布をかぶりながら
焦點を
合せる時の
私の
滿足と
嬉しさ、とまた
誇らしさとはいひやうもなかつた。そして、家の中での人
物撮影は、いふまでもなく日
曜日には
可成り
重いそれの鞄をかついで
郊外へ
撮影に行く。
旅行の時にはもう
戀人のやうな
伴侶で、
撮影、
現像、
燒き
付の
技量も
自然と巧くなつて、學校での
展覽會では
得意な出
品物であり、
常陸の海
岸で
朝鰹船の出かけを
寫した
印畫を或る
專門家に見せた時には、どうしてもそれが中學三年生の
素人である
私の
撮影、
現像、
燒き
付にかゝるといふことを
信じてもらへなかつた。
◇
三田の
文科生になつてからは、さすがに
寫眞熱もさめてしまつたが、
旅行の時だけは、もう
可なり
古びた上に
舊式になつたその
寫眞器を相
變らず
伴侶にしてゐた。手
慣れてゐるばかりでなく、
割によく
寫る
寫眞器で、一ダースが一ダース、めつたに
失敗もないといふやうなことが、
買ふまでの
苦心の
思ひ出と相
俟つて、それは
私に長い
愛着を持たせてゐたのである。が、大正九年の
秋、たま/\ヨーロツパから
歸つて來た
親戚の人からイーストマンの葉書
判の
寫眞器を
みやげにもらつた。それは
裝置が新しく
便利だといふ以
外には、
所持のプレモと大して
變りもないものだつたが、大正十一年の
支那旅行の時には、それを
肩にして行つた。ところが、
支那では
税がかゝらないので、
知り
合ふ
在留日本人
達は、みんな
立派な
器械を持つてゐる。いつもその
點では
氣がひけたが、
印畫を見せてもらふと
安心した。
撮影の
技量では
自分が
露骨にうまいなと
思はせられたからである。
しかし、やがて
贈り
主の
悲しき
形見になつたその
寫眞器は、
支那の旅から
歸ると
間もなく、或る
文學青年の
詐欺にかゝつてうしなはれた。
最近
廣津和郎氏が「さまよへる
琉球人」といふ
作の
主人
公にした青年がどうもその青年と同一人らしいので、
私はちよつと
驚いてゐる。
◇
中學時分に
買つた
寫眞器も、その
少し以前或る
寫眞好きの友
達に
贈つてしまつたので、それ以來
暫く
私の手
元には
寫眞器の
影がなくなつてしまつたがその
翌年のこと、
私は
偶然ある人から、やゝ
身にあまるやうなのを
讓り
受けることが出來た。
英國
製で、シイ・テツサア四・五
鏡玉、千百六十分の一
秒まで
利くシヤツタア付の、手
札形レフレツクス、
素人
用としては
殆どこの上ないものといつて
差支へないのだが、それで一時
盛返した
熱も今は又すつかりさめきつて、それは空しく
押入の
奧で
ほこりにまみれてゐる。
あの手
製の
暗箱をこしらへた
頃、毎日目
録を
眺めては
樂しんでゐた
頃、
汽車の
疾走などを大
騷ぎで
寫して
喜んでゐた
頃、それらを
思ひ返すと、
私の
胸には何かしら
變な
寂しさが
湧いてくる。
假に今のレフレツクスのやうなのが、そのころの
私に
授けられてゐたとしたら?
◇
しかし、いろ/\
合せて、もう千
余枚を數へる
印畫のアルバムを時
折繰眺めるのは、
樂く
愉快である。そこには
私及び
私の
周圍をなした人
達や旅の風
景などの
過去の一
面々々が、あざやかに
記録されてゐる。
一
體私は、この
頃流行のいはゆる
藝術寫眞には、何の
感興も持たない。あの
變に
氣取つた、いかにも
思はせ
振な、しかも一
種の
型にはまつた
印畫のとこが
[#「とこが」はママ]いゝといふのであらう?
要するに、
寫眞の本
領は、
興味はさういふ
意味の
記録を、いひ
換れば、
過去を
再現して、
思ひ出の
樂さや
回想の懷かしさを
與へるところにある。そして、
印畫の
價値や
面白
味は、
遂にそれ以上に出るものではないと
私は
思ふ。
(一五、四、二七)