躑躅か
丘
日は
午なり。あらら
木のたらたら坂に
樹の蔭もなし。寺の
門、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を
挟みて町の入口にはあたれど、のぼるに従ひて、ただ
畑ばかりとなれり。番小屋めきたるもの小だかき
処に見ゆ。谷には
菜の
花残りたり。
路の右左、
躑躅の花の
紅なるが、見渡す
方、見返る
方、いまを
盛なりき。ありくにつれて
汗少しいでぬ。
空よく晴れて一点の雲もなく、風あたたかに
野面を吹けり。
一人にては
行くことなかれと、
優しき姉上のいひたりしを、
肯かで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。山の上の
方より
一束の
薪をかつぎたる
漢おり
来れり。
眉太く、
眼の細きが、
向ざまに
顱巻したる、
額のあたり汗になりて、のしのしと近づきつつ、細き道をかたよけてわれを通せしが、ふりかへり、
「危ないぞ危ないぞ。」
といひずてに
眦に
皺を寄せてさつさつと
行過ぎぬ。
見返ればハヤたらたらさがりに、その
肩躑躅の花にかくれて、
髪結ひたる
天窓のみ、やがて
山蔭に見えずなりぬ。草がくれの
径遠く、小川流るる
谷間の
畦道を、
菅笠冠りたる
婦人の、
跣足にて
鋤をば肩にし、小さき
女の
児の手をひきて
彼方にゆく
背姿ありしが、それも杉の
樹立に入りたり。
行く
方も躑躅なり。
来し
方も躑躅なり。
山土のいろもあかく見えたる。あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わがゐたる
一株の躑躅のなかより、
羽音たかく、虫のつと立ちて頬を
掠めしが、かなたに飛びて、およそ五、六尺
隔てたる
処に
礫のありたるそのわきにとどまりぬ。羽をふるふさまも見えたり。手をあげて走りかかれば、ぱつとまた立ちあがりて、おなじ距離五、六尺ばかりのところにとまりたり。そのまま小石を拾ひあげて
狙ひうちし、石はそれぬ。虫はくるりと一ツまはりて、また
旧のやうにぞをる。追ひかくれば
迅くもまた
遁げぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあはひを置きてはキラキラとささやかなる
羽ばたきして、
鷹揚にその
二すぢの細き
髯を
上下にわづくりておし動かすぞいと
憎さげなりける。
われは
足踏して
心いらてり。そのゐたるあとを踏みにじりて、
「畜生、畜生。」
と
呟きざま、
躍りかかりてハタと打ちし、
拳はいたづらに土によごれぬ。
渠は
一足先なる
方に
悠々と
羽づくろひす。憎しと思ふ心を
籠めて
瞻りたれば、虫は動かずなりたり。つくづく見れば
羽蟻の形して、それよりもやや
大なる、身はただ
五彩の色を帯びて青みがちにかがやきたる、うつくしさいはむ
方なし。
色彩あり
光沢ある虫は毒なりと、姉上の教へたるをふと思ひ
出でたれば、
打置きてすごすごと
引返せしが、
足許にさきの石の
二ツに
砕けて落ちたるより
俄に心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒虫をねらひたり。
このたびはあやまたず、したたかうつて殺しぬ。
嬉しく走りつきて石をあはせ、ひたと
打ひしぎて
蹴飛ばしたる、石は
躑躅のなかをくぐりて
小砂利をさそひ、ばらばらと谷深くおちゆく音しき。
袂のちり
打はらひて空を
仰げば、
日脚やや
斜になりぬ。ほかほかとかほあつき
日向に唇かわきて、眼のふちより頬のあたりむず
痒きこと限りなかりき。
心着けば
旧来し
方にはあらじと思ふ坂道の
異なる
方にわれはいつかおりかけゐたり。丘ひとつ越えたりけむ、戻る
路はまたさきとおなじのぼりになりぬ。見渡せば、見まはせば、赤土の道幅せまく、うねりうねり
果しなきに、両側つづきの
躑躅の花、遠き
方は前後を
塞ぎて、日かげあかく
咲込めたる空のいろの
真蒼き下に、
彳むはわれのみなり。
鎮守の
社
坂は急ならず長くもあらねど、一つ
尽ればまたあらたに
顕る。起伏あたかも大波の如く
打続きて、いつ
坦ならむとも見えざりき。
あまり
倦みたれば、一ツおりてのぼる坂の
窪に
踞ひし、手のあきたるまま
何ならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。曲りたるもの、
直なるもの、心の趣くままに
落書したり。しかなせるあひだにも、頬のあたり
先刻に毒虫の触れたらむと覚ゆるが、しきりにかゆければ、
袖もてひまなく
擦りぬ。擦りてはまたもの書きなどせる、なかにむつかしき字のひとつ形よく出来たるを、姉に見せばやと思ふに、
俄にその顔の見たうぞなりたる。
立あがりてゆくてを見れば、左右より小枝を組みてあはひも
透かで
躑躅咲きたり。日影ひとしほ
赤うなりまさりたるに、手を見たれば
掌に照りそひぬ。
一文字にかけのぼりて、
唯見ればおなじ躑躅のだらだらおりなり。走りおりて走りのぼりつ。いつまでかかくてあらむ、こたびこそと思ふに
違ひて、道はまた
蜿れる坂なり。
踏心地柔かく小石ひとつあらずなりぬ。
いまだ家には遠しとみゆるに、忍びがたくも姉の顔なつかしく、しばらくも
得堪へずなりたり。
再びかけのぼり、またかけりおりたる時、われしらず泣きてゐつ。泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある
処に至らず、坂も躑躅も少しもさきに異らずして、日の傾くぞ心細き。肩、背のあたり寒うなりぬ。ゆふ日あざやかにぱつと
茜さして、眼もあやに躑躅の花、ただ
紅の雪の
降積めるかと疑はる。
われは涙の声たかく、あるほど声を
絞りて姉をもとめぬ。
一たび
二たび
三たびして、こたへやすると耳を
澄せば、
遥に滝の音聞えたり。どうどうと響くなかに、いと高く
冴えたる声の
幽に、
「もういいよ、もういいよ。」
と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ図なることを認め得たる、
一声くりかへすと、ハヤきこえずなりしが、やうやう心たしかにその声したる
方にたどりて、また坂ひとつおりて一つのぼり、こだかき所に立ちて
瞰おろせば、あまり
雑作なしや、堂の
瓦屋根、杉の
樹立のなかより見えぬ。かくてわれ
踏迷ひたる
紅の雪のなかをばのがれつ。
背後には
躑躅の花飛び飛びに咲きて、青き草まばらに、やがて堂のうらに達せし時は
一株も花のあかきはなくて、たそがれの色、
境内の
手洗水のあたりを
籠めたり。
柵結ひたる井戸ひとつ、
銀杏の
古りたる樹あり、そがうしろに人の家の
土塀あり。こなたは裏木戸のあき地にて、むかひに小さき
稲荷の堂あり。石の
鳥居あり。木の鳥居あり。この木の鳥居の左の柱には割れめありて太き鉄の輪を
嵌めたるさへ、心たしかに覚えある、ここよりはハヤ家に近しと思ふに、さきの恐しさは全く忘れ果てつ。ただひとへにゆふ日照りそひたるつつじの花の、わが
丈よりも高き
処、前後左右を
咲埋めたるあかき色のあかきがなかに、緑と、
紅と、紫と、
青白の光を
羽色に帯びたる毒虫のキラキラと飛びたるさまの広き景色のみぞ、
画の如く小さき胸にゑがかれける。
かくれあそび
さきにわれ泣きいだして
救を姉にもとめしを、
渠に認められしぞ
幸なる。いふことを
肯かで一人いで
来しを、弱りて泣きたりと知られむには、さもこそとて笑はれなむ。
優しき人のなつかしけれど、顔をあはせていひまけむは
口惜しきに。
嬉しく喜ばしき思ひ胸にみちては、また急に家に帰らむとはおもはず。ひとり
境内に
彳みしに、わツといふ声、笑ふ声、木の蔭、井戸の裏、堂の奥、廻廊の下よりして、五ツより
八ツまでなる
児の五、六人
前後に走り
出でたり、こはかくれ遊びの
一人が見いだされたるものぞとよ。
二人三人走り来て、わが
其処に立てるを見つ。皆
瞳を集めしが、
「お遊びな、
一所にお遊びな。」とせまりて勧めぬ。
小家あちこち、このあたりに住むは、かたゐといふものなりとぞ。風俗少しく異なれり。
児どもが親たちの家
富みたるも
好き
衣着たるはあらず、
大抵跣足なり。
三味線弾きて
折々わが
門に
来るもの、
溝川に
鰌を捕ふるもの、
附木、
草履など
鬻ぎに来るものだちは、皆この
児どもが母なり、父なり、祖母などなり。さるものとはともに遊ぶな、とわが友は常に
戒めつ。さるに
町方の者としいへば、かたゐなる
児ども
尊び敬ひて、
頃刻もともに遊ばんことを
希ふや、親しく、優しく勉めてすなれど、不断はこなたより遠ざかりしが、その時は先にあまり
淋しくて、友
欲しき念の
堪へがたかりしその心のまだ失せざると、恐しかりしあとの楽しきとに、われは
拒まずして
頷きぬ。
児どもはさざめき喜びたりき。さてまたかくれあそびを繰返すとて、
拳してさがすものを定めしに、われその任にあたりたり。
面を
蔽へといふままにしつ。ひツそとなりて、堂の
裏崖をさかさに落つる滝の音どうどうと
松杉の
梢ゆふ風に鳴り渡る。かすかに、
「もう
可いよ、もう可いよ。」
と呼ぶ声、
谺に響けり。眼をあくればあたり静まり返りて、たそがれの色また
一際襲ひ
来れり。
大なる樹のすくすくとならべるが
朦朧としてうすぐらきなかに隠れむとす。
声したる
方をと思ふ
処には
誰もをらず。ここかしこさがしたれど人らしきものあらざりき。
また
旧の
境内の中央に立ちて、もの淋しく
瞶しぬ。山の奥にも響くべく
凄じき音して堂の扉を
鎖す音しつ、
闃としてものも聞えずなりぬ。
親しき友にはあらず。常にうとましき児どもなれば、かかる
機会を得てわれをば苦めむとや
企みけむ。身を隠したるまま
密に
遁げ去りたらむには、探せばとて
獲らるべき。
益もなきことをとふと思ひうかぶに、うちすてて
踵をかへしつ。さるにても
万一わがみいだすを待ちてあらばいつまでも
出でくることを得ざるべし、それもまたはかりがたしと、
心迷ひて、とつ、おいつ、
徒に立ちて
困ずる折しも、
何処より
来りしとも見えず、暗うなりたる境内の、うつくしく
掃いたる土のひろびろと灰色なせるに
際立ちて、顔の色白く、うつくしき人、いつかわが
傍にゐて、うつむきざまにわれをば見き。
極めて
丈高き女なりし、その手を
懐にして肩を垂れたり。
優しきこゑにて、
「こちらへおいで。こちら。」
といひて
前に立ちて導きたり。見知りたる
女にあらねど、うつくしき顔の
笑をば含みたる、よき人と思ひたれば、
怪しまで、隠れたる
児のありかを教ふるとさとりたれば、いそいそと従ひぬ。
あふ
魔が
時
わが思ふ
処に
違はず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる
突あたりに小さき
稲荷の
社あり。青き旗、白き旗、二、三本その前に立ちて、うしろはただちに山の
裾なる
雑樹斜めに
生ひて、社の上を
蔽ひたる、その下のをぐらき
処、
孔の如き
空地なるをソとめくばせしき。
瞳は水のしたたるばかり
斜にわが顔を見て動けるほどに、あきらかにその心ぞ読まれたる。
さればいささかもためらはで、つかつかと
社の裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、
朽葉堆く水くさき土のにほひしたるのみ、人の
気勢もせで、
頸もとの
冷かなるに、と胸をつきて見返りたる、またたくまと思ふ
彼の
女はハヤ見えざりき。
何方にか去りけむ、暗くなりたり。
身の毛よだちて、思はず
呀と叫びぬ。
人顔のさだかならぬ時、暗き
隅に
行くべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人を
惑はすと、姉上の教へしことあり。
われは
茫然として
眼を
りぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、
左手に坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹き
出づると思ふ
黒闇々たる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで
社の裏の狭きなかににげ入りつ。眼を
塞ぎ、
呼吸をころしてひそみたるに、
四足のものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。
われは
人心地もあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの
女のうつくしかりし顔、
優かりし眼を忘れず。ここをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる
児どものありかにあらで、何らか恐しきもののわれを捕へむとするを、ここに
潜め、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして
小提灯の
火影あかきが坂下より急ぎのぼりて
彼方に走るを見つ。ほどなく
引返してわがひそみたる
社の前に近づきし時は、一人ならず
二人三人連立ちて
来りし感あり。
あたかもその
立留りし折から、別なる
跫音、また坂をのぼりてさきのものと
落合ひたり。
「おいおい分らないか。」
「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たといふものがあるんだが。」
とあとよりいひたるはわが
家につかひたる下男の声に似たるに、あはや
出でむとせしが、恐しきものの
然はたばかりて、おびき
出すにやあらむと恐しさは
一しほ増しぬ。
「もう一度念のためだ、
田圃の方でも廻つて見よう、お前も頼む。」
「それでは。」といひて
上下にばらばらと分れて
行く。
再び
寂としたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し
差出だして、
外の
方をうかがふに、何ごともあらざりければ、やや
落着きたり。
怪しきものども、何とてやはわれをみいだし得む、
愚なる、と
冷かに笑ひしに、思ひがけず、
誰ならむたまぎる声して、あわてふためき
遁ぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。
「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。
大沼
「ゐないツて
私あどうしよう、
爺や。」
「根ツからゐさつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お
前様遊びに出します時、帯の
結めを
丁とたたいてやらつしやれば
好いに。」
「ああ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそツと出て行つたろうではないかねえ。」
「それはハヤ
不念なこんだ。帯の
結めさへ
叩いときや、何がそれで姉様なり、
母様なりの
魂が入るもんだで
魔めはどうすることもしえないでごす。」
「さうねえ。」とものかなしげに語らひつつ、
社の前をよこぎりたまへり。
走りいでしが、あまりおそかりき。
いかなればわれ姉上をまで
怪みたる。
悔ゆれど及ばず、かなたなる
境内の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。
涙ぐみて
彳む時、ふと見る
銀杏の木のくらき夜の空に、
大なる
円き影して茂れる下に、女の
後姿ありてわが
眼を
遮りたり。
あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが
此処にあるを知られむは、
拙きわざなればと思ひてやみぬ。
とばかりありて、その姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが
優しき姉上の姿に
化したる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるはさもなくて、いま幻に見えたるがまことその人なりけむもわかざるを、何とて
言はかけざりしと、
打泣きしが、かひもあらず。
あはれさまざまのものの
怪しきは、すべてわが
眼のいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、
術こそありけれ、かなたなる
御手洗にて清めてみばやと寄りぬ。
煤けたる
行燈の横長きが一つ上にかかりて、ほととぎすの
画と句など書いたり。
灯をともしたるに、水はよく
澄みて、青き
苔むしたる
石鉢の底もあきらかなり。手に
掬ばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心を
籠めて、気を
鎮めて、両の
眼を
拭ひ拭ひ、水に
臨む。
われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかかるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわななきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、
「お、お、
千里。ええも、お前は。」と姉上ののたまふに、
縋りつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、
「あれ!」
といひて一足すさりて、
「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに
衝と
馳せ去りたまへり。
怪しき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつつ、ひたばしりに追いかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの
口惜しければ、とにかくもならばとてなむ。
坂もおりたり、のぼりたり、
大路と覚しき町にも
出でたり、暗き
径も
辿りたり、野もよこぎりぬ。
畦も越えぬ。あとをも見ずて駈けたりし。
道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如く
横はりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、
大沼とも覚しきが、
前途を
塞ぐと覚ゆる
蘆の葉の繁きがなかにわが
身体倒れたる、あとは知らず。
五位鷺
眼のふち
清々しく、涼しき
薫つよく薫ると
心着く、身は
柔かき
蒲団の上に臥したり。やや枕をもたげて見る、
竹縁の
障子あけ
放して、庭つづきに向ひなる
山懐に、緑の草の、ぬれ色青く
生茂りつ。その
半腹にかかりある
厳角の
苔のなめらかなるに、
一挺はだか
蝋に
灯ともしたる
灯影すずしく、
筧の水むくむくと
湧きて
玉ちるあたりに
盥を据ゑて、うつくしく
髪結うたる
女の、身に一糸もかけで、むかうざまにひたりてゐたり。
筧の水はそのたらひに落ちて、
溢れにあふれて、地の
窪みに流るる音しつ。
蝋の
灯は吹くとなき山おろしにあかくなり、くらうなりて、ちらちらと眼に映ずる雪なす
膚白かりき。
わが
寝返る音に、ふとこなたを見返り、それと
頷く
状にて、片手をふちにかけつつ片足を立てて
盥のそとにいだせる時、
颯と音して、
烏よりは小さき鳥の
真白きがひらひらと舞ひおりて、うつくしき人の
脛のあたりをかすめつ。そのままおそれげもなう翼を休めたるに、ざぶりと水をあびせざま
莞爾とあでやかに笑うてたちぬ。手早く
衣もてその胸をば
蔽へり。鳥はおどろきてはたはたと
飛去りぬ。
夜の色は極めてくらし、
蝋を取りたるうつくしき人の姿さやかに、
庭下駄重く引く音しつ。ゆるやかに
縁の端に腰をおろすとともに、手をつきそらして
捩向きざま、わがかほをば見つ。
「気分は
癒つたかい、坊や。」
といひて
頭を傾けぬ。ちかまさりせる
面けだかく、眉あざやかに、
瞳すずしく、鼻やや高く、唇の
紅なる、
額つき頬のあたり
たけたり。こは
予てわがよしと思ひ
詰たる
雛のおもかげによく似たれば
貴き人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。
知人にはあらざれど、はじめて逢ひし
方とは思はず、さりや、
誰にかあるらむとつくづくみまもりぬ。
またほほゑみたまひて、
「お前あれは
斑猫といつて大変な毒虫なの。もう
可いね、まるでかはつたやうにうつくしくなつた、あれでは
姉様が見違へるのも無理はないのだもの。」
われもさあらむと思はざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑はずなりて、のたまふままに
頷きつ。あたりのめづらしければ起きむとする
夜着の肩、ながく
柔かにおさへたまへり。
「ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、
落着いて、ね、気をしづめるのだよ、
可いかい。」
われはさからはで、ただ
眼をもて答へぬ。
「どれ。」といひて立つたる折、のしのしと
道芝を踏む音して、つづれをまとうたる
老夫の、顔の色いと赤きが
縁近う
入り来つ。
「はい、これはお
児さまがござらつせえたの、
可愛いお児じや、お前様も
嬉しかろ。ははは、どりや、またいつものを頂きましよか。」
腰をななめにうつむきて、ひつたりとかの
筧に顔をあて、口をおしつけてごつごつごつとたてつづけにのみたるが、ふツといきを吹きて空を
仰ぎぬ。
「やれやれ甘いことかな。はい、参ります。」
と
踵を返すを、こなたより呼びたまひぬ。
「ぢいや、御苦労だが。また来ておくれ、この
児を返さねばならぬから。」
「あいあい。」
と答へて去る。
山風颯とおろして、
彼の白き鳥また
翔ちおりつ。黒き
盥のふちに乗りて
羽づくろひして静まりぬ。
「もう、風邪を引かないやうに寝させてあげよう、どれそんなら私も。」とて
静に雨戸をひきたまひき。
九ツ
谺
やがて
添臥したまひし、さきに水を浴びたまひし
故にや、わが
膚をりをり
慄然たりしが何の心もなうひしと
取縋りまゐらせぬ。あとをあとをといふに、をさな物語
二ツ
三ツ聞かせ
給ひつ。やがて、
「
一ツ
谺、坊や、
二ツ
谺といへるかい。」
「二ツ谺。」
「
三ツ
谺、
四ツ
谺といつて御覧。」
「四ツ谺。」
「
五ツ
谺。そのあとは。」
「
六ツ
谺。」
「さうさう
七ツ
谺。」
「
八ツ
谺。」
「
九ツ
谺――ここはね、
九ツ
谺といふ
処なの。さあもうおとなにして寝るんです。」
背に手をかけ
引寄せて、
玉の如きその
乳房をふくませたまひぬ。
露に白き
襟、肩のあたり
鬢のおくれ毛はらはらとぞみだれたる、かかるさまは、わが姉上とは
太く違へり。
乳をのまむといふを姉上は許したまはず。
ふところをかいさぐれば常に
叱りたまふなり。母上みまかりたまひてよりこのかた
三年を
経つ。
乳の味は忘れざりしかど、いまふくめられたるはそれには似ざりき。
垂玉の
乳房ただ
淡雪の如く含むと舌にきえて触るるものなく、すずしき
唾のみぞあふれいでたる。
軽く
背をさすられて、われ
現になる時、
屋の
棟、天井の上と
覚し、
凄まじき音してしばらくは鳴りも
止まず。ここにつむじ風吹くと
柱動く恐しさに、わななき
取つくを
抱きしめつつ、
「あれ、お客があるんだから、もう今夜は
堪忍しておくれよ、いけません。」
とキとのたまへば、やがてぞ静まりける。
「
恐くはないよ。
鼠だもの。」
とある、さりげなきも、われはなほその
響のうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるへたり。
うつくしき人はなかばのりいでたまひて、とある
蒔絵ものの手箱のなかより、
一口の
守刀を
取出しつつ
鞘ながら
引そばめ、
雄々しき声にて、
「何が来てももう恐くはない。安心してお寝よ。」とのたまふ、たのもしき
状よと思ひてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。
残燈暗く
床柱の黒うつややかにひかるあたり薄き紫の
色籠めて、
香の
薫残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく
閉たまひたる
眼の
睫毛かぞふるばかり、すやすやと寝入りてゐたまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし
瞻りしが、
淋しさにたへねばひそかにその唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと
打まもりぬ。ふとその
鼻頭をねらひて手をふれしに
空を
捻りて、うつくしき人は
雛の如く顔の
筋ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで
近々とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、
乳の下に
面をふせて、強く
額もて
圧したるに、顔にはただあたたかき
霞のまとふとばかり、のどかにふはふはとさはりしが、
薄葉一重の
支ふるなく着けたる
額はつと下に落ち沈むを、
心着けば、うつくしき人の胸は、もとの如く
傍にあをむきゐて、わが鼻は、いたづらにおのが
膚にぬくまりたる、
柔き
蒲団に
埋れて、をかし。
渡船
夢幻ともわかぬに、心をしづめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまひし元のまま
柔かに力なげに
蒲団のうへに垂れたまへり。
片手をば胸にあてて、いと白くたをやかなる
五指をひらきて
黄金の
目貫キラキラとうつくしき
鞘の
塗の輝きたる小さき
守刀をしかと持つともなく
乳のあたりに落して
据ゑたる、鼻たかき顔のあをむきたる、唇のものいふ如き、閉ぢたる
眼のほほ笑む如き、髪のさらさらしたる、枕にみだれかかりたる、それも
違はぬに、胸に
剣をさへのせたまひたれば、
亡き母上のその時のさまに
紛ふべくも見えずなむ、コハこの
君もみまかりしよとおもふいまはしさに、はや
取除けなむと、胸なるその
守刀に手をかけて、つと引く、せつぱゆるみて、青き光
眼を
射たるほどこそあれ、いかなるはずみにか
血汐さとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと両の
拳もてしかとおさへたれど、
留まらで、たふたふと音するばかりぞ
淋漓としてながれつたへる、
血汐のくれなゐ
衣をそめつ。うつくしき人は
寂として石像の如く
静なる
鳩尾のしたよりしてやがて半身をひたし
尽しぬ。おさへたるわが手には血の色つかぬに、
燈にすかす指のなかの
紅なるは、人の血の
染みたる色にはあらず、
訝しく
撫で
試むる
掌のその血汐にはぬれもこそせね、こころづきて見定むれば、かいやりし夜のものあらはになりて、すずしの絹をすきて見ゆるその
膚にまとひたまひし
紅の色なりける。いまはわれにもあらで
声高に、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、
効なくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと
覚し。顔あたたかに胸をおさるる
心地に眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。
われはハヤゆうべ見し顔のあかき
老夫の
背に負はれて、とある
山路を
行くなりけり。うしろよりは
彼のうつくしき人したがひ来ましぬ。
さてはあつらへたまひし如く家に送りたまふならむと
推はかるのみ、わが胸の
中はすべて見すかすばかり知りたまふやうなれば、わかれの
惜しきも、ことのいぶかしきも、
取出でていはむは
益なし。教ふべきことならむには、
彼方より先んじてうちいでこそしたまふべけれ。
家に帰るべきわが
運ならば、強ひて
止まらむと
乞ひたりとて何かせん、さるべきいはれあればこそ、と
大人しう、ものもいはでぞ
行く。
断崖の左右に
聳えて、
点滴声する
処ありき。
雑草高き
径ありき。
松柏のなかを
行く
処もありき。きき知らぬ鳥うたへり。褐色なる
獣ありて、をりをり
叢に
躍り入りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、
去年の
落葉道を
埋みて、人多く
通ふ所としも見えざりき。
をぢは
一挺の
斧を腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、
茨など
生ひしげりて、
衣の
袖をさへぎるにあへば、すかすかと切つて払ひて、うつくしき人を通し参らす。されば山路のなやみなく、高き
塗下駄の見えがくれに長き
裾さばきながら来たまひつ。
かくて
大沼の岸に臨みたり。水は漫々として
藍を
湛へ、まばゆき日のかげも
此処の森にはささで、水面をわたる風寒く、
颯々として声あり。をぢはここに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を
抱きたまふ、
衣の
袖左右より長くわが肩にかかりぬ。
蘆間の
小舟の
纜を解きて、
老夫はわれをかかへて乗せたり。
一緒ならではと、しばしむづかりたれど、めまひのすればとて乗りたまはず、さらばとのたまふはしに
棹を立てぬ。船は
出でつ。わツと泣きて
立上りしがよろめきてしりゐに倒れぬ。舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、
背後にゐたまへりとおもふ人の
大なる
環にまはりて
前途なる
汀にゐたまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ
左手なる
汀に見えき。見る見る
右手なる
汀にまはりて、やがて
旧のうしろに立ちたまひつ。
箕の形したる
大なる沼は、
汀の
蘆と、松の木と、
建札と、その
傍なるうつくしき人ともろともに
緩き
環を描いて廻転し、はじめは
徐ろにまはりしが、あとあと急になり、
疾くなりつ、くるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき
処に松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて眼の
前にうつくしき顔の
たけたるが
莞爾とあでやかに
笑みたまひしが、そののちは見えざりき。蘆は
繁く
丈よりも高き
汀に、船はとんとつきあたりぬ。
ふるさと
をぢはわれを
扶けて船より
出だしつ。またその
背を向けたり。
「泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの
家ぢや。」と慰めぬ。かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてただ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるるやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある
板塀のあたりに来て、日のややくれかかる時、
老夫はわれを
抱き
下して、溝のふちに立たせ、ほくほく
打ゑみつゝ、
慇懃に
会釈したり。
「おとなにしさつしやりませ。はい。」
といひずてに
何地ゆくらむ。別れはそれにも
惜しかりしが、あと追ふべき力もなくて見おくり果てつ。指す
方もあらでありくともなく
歩をうつすに、
頭ふらふらと足の
重たくて
行悩む、前に
行くも、後ろに帰るも皆
見知越のものなれど、
誰も取りあはむとはせで
往きつ
来りつす。さるにてもなほものありげにわが顔をみつつ
行くが、
冷かに
嘲るが如く
憎さげなるぞ
腹立しき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足はわれ知らず
向直りて、とぼとぼとまた山ある
方にあるき
出しぬ。
けたたましき
跫音して
鷲掴に
襟を
掴むものあり。あなやと
振返ればわが
家の
後見せる
奈四郎といへる
力逞ましき叔父の、
凄まじき
気色して、
「つままれめ、
何処をほツつく。」と
喚きざま、
引立てたり。また庭に
引出して水をやあびせられむかと、
泣叫びてふりもぎるに、おさへたる手をゆるべず、
「しつかりしろ。やい。」
とめくるめくばかり背を
拍ちて宙につるしながら、走りて家に帰りつ。
立騒ぐ
召つかひどもを
叱りつも
細引を持て来さして、しかと両手をゆはへあへず奥まりたる三畳の暗き
一室に
引立てゆきてそのまま柱に
縛めたり。近く寄れ、
喰さきなむと思ふのみ、歯がみして
睨まへたる、
眼の色こそ
怪しくなりたれ、
逆つりたる
眦は
憑きもののわざよとて、寄りたかりて口々にののしるぞ無念なりける。
おもての
方さざめきて、
何処にか
行きをれる姉上帰りましつと
覚し、
襖いくつかぱたぱたと音してハヤここに来たまひつ。叔父は
室の外にさへぎり迎へて、
「ま、やつと
取返したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走つてゐて、すきがあると駈け出すぢや。
魔どのがそれしよびくでの。」
と
戒めたり。いふことよくわが心を得たるよ、しかり、
隙だにあらむにはいかでかここにとどまるべき。
「あ。」とばかりにいらへて姉上はまろび入りて、ひしと
取着きたまひぬ。ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん
情手にこもりて
抱かれたるわが胸
絞らるるやうなりき。
姉上の膝に
臥したるあひだに、医師
来りてわが脈をうかがひなどしつ。叔父は医師とともに
彼方に去りぬ。
「ちさや、どうぞ気をたしかにもつておくれ。もう
姉様はどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。」
といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、
涙痕したたるばかりなり。
その心の安んずるやう、
強ひて顔つくりてニツコと笑うて見せぬ。
「おお、
薄気味が悪いねえ。」
と
傍にありたる
奈四郎の妻なる人
呟きて身ぶるひしき。
やがてまた人々われを
取巻きてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて
疑を解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、
根問ひ、
葉問ひするに
一々説明かさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつつ心に何をかいひたる。
やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること
皆人の
疑を増すをいかにせむ。ひしと
取籠めて庭にも
出さで日を過しぬ。血色わるくなりて
痩せもしつとて、姉上のきづかひたまひ、
後見の叔父夫婦にはいとせめて
秘しつつ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、
門辺にありたる多くの
児ども我が姿を見ると、
一斉に、アレさらはれものの、
気狂の、狐つきを見よやといふいふ、
砂利、
小砂利をつかみて投げつくるは
不断親しかりし
朋達なり。
姉上は
袖もてわれを
庇ひながら顔を赤うして
遁げ入りたまひつ。人目なき
処にわれを
引据ゑつと見るまに取つて
伏せて、打ちたまひぬ。
悲しくなりて
泣出せしに、あわただしく
背をばさすりて、
「
堪忍しておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。」
といひかけて、
「
私あもう気でも違ひたいよ。」としみじみと
掻口説きたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を
確に、心を
鎮めよ、と涙ながらいはるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を
危ぶむやうそのたびになりまさりて、
果はまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。
たとへば
怪しき糸の
十重二十重にわが身をまとふ
心地しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく
思あり。それをば
刈払ひ、
遁出でむとするにその
術なく、すること、なすこと、人見て必ず、
眉を
顰め、
嘲り、笑ひ、
卑め、
罵り、はた
悲み
憂ひなどするにぞ、気あがり、
心激し、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。
口惜しく腹立たしきまま身の
周囲はことごとく
敵ぞと思わるる。町も、家も、樹も、
鳥籠も、はたそれ何らのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには
一たびわれを見てその弟を忘れしことあり。
塵一つとしてわが眼に入るは、すべてものの
化したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて
現じたるものならむ。さればぞ姉がわが
快復を祈る
言もわれに心を狂はすやう、わざとさはいふならむと、
一たびおもひては
堪ふべからず、力あらば
恣にともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、
蹴飛ばしやらむ、
掻むしらむ、
透あらばとびいでて、
九ツ
谺とをしへたる、たうときうつくしきかのひとの
許に
遁げ去らむと、胸の
湧きたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。
千呪陀羅尼
毒ありと疑へばものも食はず、薬もいかでか飲まむ、うつくしき顔したりとて、
優しきことをいひたりとて、いつはりの姉にはわれことばもかけじ。眼にふれて見ゆるものとしいへば、たけりくるひ、
罵り叫びてあれたりしが、つひには声も
出でず、身も動かず、われ人をわきまへず
心地死ぬべくなれりしを、うつらうつら
舁きあげられて高き石壇をのぼり、
大なる門を入りて、
赤土の色きれいに
掃きたる
一条の道長き、右左、
石燈籠と
石榴の樹の小さきと、おなじほどの距離にかはるがはる続きたるを
行きて、
香の
薫しみつきたる太き
円柱の
際に寺の本堂に
据ゑられつ、ト思ふ耳のはたに竹を
破る
響きこえて、僧ども
五三人一斉に声を
揃へ、高らかに
誦する声耳を
聾するばかり
喧ましさ
堪ふべからず、
禿顱ならびゐる木のはしの法師ばら、何をかすると、
拳をあげて一
人の
天窓をうたむとせしに、
一幅の青き光
颯と窓を射て、水晶の
念珠瞳をかすめ、ハツシと胸をうちたるに、ひるみて
踞まる時、
若僧円柱をいざり
出でつつ、ついゐて、サラサラと
金襴の
帳を
絞る、
燦爛たる
御廚子のなかに
尊き
像こそ拝まれたれ。一段高まる経の声、トタンにはたたがみ
天地に鳴りぬ。
端厳微妙のおんかほばせ、雲の
袖、
霞の
袴ちらちらと
瓔珞をかけたまひたる、
玉なす胸に
繊手を添へて、ひたと、をさなごを
抱きたまへるが、
仰ぐ仰ぐ
瞳うごきて、ほほゑみたまふと、見たる時、やさしき手のさき肩にかかりて、姉上は念じたまへり。
滝やこの堂にかかるかと、折しも雨の降りしきりつ。
渦いて寄する風の音、遠き
方より
呻り来て、どつと
満山に
打あたる。
本堂
青光して、はたたがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつつ、今は姉上を頼までやは、あなやと
膝にはひあがりて、ひしとその胸を
抱きたれば、かかるものをふりすてむとはしたまはで、あたたかき
腕はわが
背にて
組合はされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る
明かに、耳の鳴るがやみて、恐しき
吹降りのなかに
陀羅尼を
呪する
聖の
声々さわやかに聞きとられつ。あはれに心細くもの
凄きに、身の
置処あらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に
縋りながら顔もてその胸を押しわけたれば、
襟をば
掻きひらきたまひつつ、
乳の下にわがつむり
押入れて、
両袖を
打かさねて深くわが
背を
蔽ひ
給へり。
御仏のそのをさなごを
抱きたまへるもかくこそと
嬉しきに、おちゐて、
心地すがすがしく胸のうち安く
平らになりぬ。やがてぞ
呪もはてたる。
雷の音も遠ざかる。わが
背をしかと
抱きたまへる姉上の
腕もゆるみたれば、ソとその
懐より顔をいだしてこはごはその顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり。雨風のなほはげしく
外をうかがふことだにならざる、静まるを待てば
夜もすがら
暴通しつ。家に帰るべくもあらねば姉上は
通夜したまひぬ。その一夜の風雨にて、くるま山の山中、俗に
九ツ
谺といひたる谷、あけがたに
杣のみいだしたるが、
忽ち
淵になりぬといふ。
里の者、町の人
皆挙りて見にゆく。日を
経てわれも姉上とともに
来り見き。その日
一天うららかに空の色も水の色も青く
澄みて、
軟風おもむろに
小波わたる淵の上には、
塵一葉の浮べるあらで、白き鳥の
翼広きがゆたかに
藍碧なる水面を横ぎりて舞へり。
すさまじき
暴風雨なりしかな。この谷もと
薬研の如き形したりきとぞ。
幾株となき
松柏の根こそぎになりて谷間に
吹倒されしに山腹の
土落ちたまりて、底をながるる谷川をせきとめたる、おのづからなる堤防をなして、
凄まじき水をば
湛へつ。
一たびこのところ
決潰せむか、
城の
端の町は
水底の都となるべしと、人々の恐れまどひて、
怠らず土を
装り石を
伏せて堅き堤防を築きしが、あたかも今の
関屋少将の夫人姉上十七の時なれば、年つもりて、
嫩なりし
常磐木もハヤ
丈のびつ。草
生ひ、
苔むして、いにしへよりかかりけむと思ひ
紛ふばかりなり。
あはれ
礫を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたづらを
叱り
留めつ。年若く
面清き海軍の少尉候補生は、
薄暮暗碧を
湛へたる
淵に臨みて
粛然とせり。