一
砂山を細く開いた、両方の
裾が向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の
踞ったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、
路の
傍に、
崖に添うて、一軒漁師の
小家がある。
崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと
鉄の
楯を
支いて、幾億
尋とも限り知られぬ、
潮の陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく
鎬を削る
頼母しさ。砂山に生え
交る、
茅、
芒はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、
千代万代の末かけて、
巌は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。
さればこそ、松五郎。我が
勇しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき
乳児を残して、日ごとに、
件の
門の前なる細路へ、
衝とその後姿、
相対える猛獣の間に
突立つよと見れば、直ちに
海原に
潜るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を
漕ぎ分けて、飛ぶ
鴎よりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。
留守はただ
磯吹く風に
藻屑の
匂いの、
襷かけたる
腕に染むが、浜百合の
薫より、
空燻より、女房には
一際床しく、
小児を抱いたり、
頬摺したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で
乾物をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。
浪の音には
馴れた身も、
鶏の
音に驚きて、
児と
添臥の夢を破り、
門引きあけて
隈なき月に虫の音の
集くにつけ、夫恋しき
夜半の頃、
寝衣に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、
弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも
艪の声にのみ耳を澄ませば、
生憎待たぬ
時鳥。鯨の冬の
凄じさは、逆巻き寄する海の
牙に、涙に氷る
枕を砕いて、泣く児を
揺るは
暴風雨ならずや。
母は
腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く
活計。
津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は
暖に、北は寒く、
一条路にも
蔭日向で、房州も
西向の、
館山北条とは事かわり、その裏側なる前原、
鴨川、古川、
白子、
忽戸など、
就中、
船幽霊の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には
一重の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる
荒磯海。
この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の
家造り、近ごろ別家をしたばかりで、
葺いた
茅さえ浅みどり、
新藁かけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、
年紀はまだ二十二三。
去年ちょうど今時分、秋のはじめが
初産で、お浜といえば
砂さえ、
敷妙の
一粒種。日あたりの納戸に据えた
枕蚊帳の
蒼き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと
寐入っているが、可愛らしさは
四辺にこぼれた、畳も、縁も、
手遊、
玩弄物。
犬張子が横に寝て、起上り
小法師のころりと
坐った、縁台に、はりもの板を斜めにして、
添乳の
衣紋も繕わず、
姉さんかぶりを
軽くして、
襷がけの二の腕あたり、日ざしに
惜気なけれども、都育ちの白やかに、
紅絹の
切をぴたぴたと、指を反らした手の
捌き、波の音のしらべに連れて、琴の糸を
辿るよう、世帯染みたがなお優しい。
秋日和の三時ごろ、人の影より、
黍の影、一つ
赤蜻蛉の飛ぶ向うの
畝を、威勢の
可い声。
「号外、号外。」
二
「三ちゃん、何の号外だね、」
と女房は、毎日のように顔を見る同じ
漁場の
馴染の
奴、
張ものにうつむいたまま、
徒然らしい声を懸ける。
片手を
懐中へ
突込んで、どう、してこました
買喰やら、一番蛇を
呑んだ袋を
懐中。
微塵棒を縦にして、前歯でへし折って
噛りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う
顱巻。
少兀の紺の
筒袖、どこの
媽々衆に
貰ったやら、
浅黄の
扱帯の裂けたのを、縄に
捩った
一重まわし、小生意気に
尻下り。
これが
親仁は
念仏爺で、網の破れを繕ううちも、
数珠を放さず手にかけながら、
葎の中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に
覗くと、いつも前はだけの
胡坐の
膝へ、台尻重く引つけ置く、三代相伝の火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、
狙は違えず、
真黒な羽をばさりと落して、
奴、おさえろ、と
見向もせず、また
南無阿弥陀で手内職。
晩のお
菜に、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに
爺の因果が孫に
報って、
渾名を
小烏の三之助、数え年十三の大柄な
童でござる。
掻垂れ眉を上と下、大きな口で
莞爾した。
「
姉様、
己の号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」
「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と
紅絹切の小耳を細かく、ちょいちょいちょいと
伸していう。
「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」
「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」
「何をよ、そんな事ッて。なあ、
姉様、」
「甘いものを食べてさ、がりがり
噛って、乱暴じゃないかねえ。」
「うむ、これかい。」
と目を
上ざまに細うして、下唇をぺろりと
嘗めた。肩も
脛も懐も、がさがさと袋を
揺って、
「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、
己が嫁さんに
遣ろうと思って、
姥が店で買って来たんで、
旨そうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」
とくるりと、はり板に並んで
向をかえ、縁側に手を
支いて、納戸の方を
覗きながら、
「やあ、寝てやがら、
姉様、
己が嫁さんは
寝ねかな。」
「ああ、今しがた昼寝をしたの。」
「人情がないぜ、なあ、
己が旨いものを持って来るのに。
ええ、おい、起きねえか、お浜ッ
児。へ、」
とのめずるように
頸を
窘め、腰を引いて、
「何にもいわねえや、
蠅ばかり、ぶんぶんいってまわってら。」
「ほんとに
酷い蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、
可哀そうなように
集るんだよ。それにこうやって
糊があるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの
許なんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも
幾干か少なかろうねえ。」
「やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ
打捕えて、
岡田螺とか何とかいって、お
汁の実にしたいようだ。」
とけろりとして真顔にいう。
三
こんな年していうことの、世帯じみたも
暮向き、塩焼く煙も
一列に、おなじ
霞の
藁屋同士と、女房は
打微笑み、
「どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。」
奴は心づいて笑い出し、
「ははは、所帯じみねえでよ、
姉さん。こんのお浜ッ子が出来てから、
己なりたけ
小遣はつかわねえ。吉や、七と、
一銭こを
遣ってもな、大事に気をつけてら。
玩弄物だのな、
飴だのな、いろんなものを買って来るんだ。」
女房は何となく、
手拭の
中に
伏目になって、声の調子も沈みながら、
「三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな
年紀恰好じゃ、
小児の持っているものなんか、
引奪っても自分が
欲い時だのに、そうやってちっとずつ
皆から
貰うお小遣で、あの
児に何か買ってくれてさ。
姉さん、しみじみ嬉しいけれど、ほんとに三ちゃん、お前さん、お
食りなら
可い、気の毒でならないもの。」
奴は嬉しそうに目を下げて、
「へへ、何、ねえだよ、気の毒な事はちっともねえだよ。嫁さんが食べる方が、
己が自分で食べるより
旨いんだからな。」
「あんなことをいうんだよ。」
と女房は顔を上げて
莞爾と、
「何て情があるんだろう。」
熟と見られて
独で
頷き、
「だって、男は誰でもそうだぜ。
兄哥だってそういわあ。船で
暴風雨に濡れてもな、屋根代の要らねえ内で、
姉さんやお浜ッ
児が雨露に濡れねえと思や、自分が寒い気はしねえとよ。」
「嘘ばッかり。」
と
対手が
小児でも女房は、思わずはっと
赧らむ顔。
「嘘じゃねえだよ、その
代にゃ、姉さんもそうやって働いてるだ。
なあ姉さん、
己が嫁さんだって何だぜ、己が漁に出掛けたあとじゃ、やっぱり、
張ものをしてくんねえじゃ己
厭だぜ。」
「ああ、しましょうとも、しなくってさ、おほほ、三ちゃん、何を張るの。」
「え、そりゃ、何だ、またその時だ、今は着たッきりで何にもねえ。」
と面くらった身のまわり、はだかった
懐中から、ずり落ちそうな菓子袋を、その時縁へ差置くと、鉄砲玉が、からからから。
「号外、号外ッ、」と
慌しく
這身で追掛けて平手で横ざまにポンと
払くと、ころりとかえるのを、こっちからも一ツ払いて、くるりとまわして、ちょいとすくい、
「は、」
とかけ声でポンと口。
「おや、
御馳走様ねえ。」
三之助はぐッと
呑んで、
「ああ号外、」と、きょとりとする。
女房は濡れた手をふらりとさして、すッと立った。
「三ちゃん。」
「うむ、」
「お前さん、その三尺は、大層色気があるけれど、余りよれよれになったじゃないか、ついでだからちょいとこの端へはっておいて上げましょう。」
「何こんなものを。」
とあとへ
退り、
「いまに解きます
繻子の帯……」
奴は聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな
足踏して、
「わい!」
日向へのッそりと来た、茶の
斑犬が、びくりと
退って、ぱっと砂、いや、その
遁げ
状の
慌しさ。
四
「
状を見ろ、弱虫め、誰だと思うえ、小烏の三之助だ。」
と
呵々と笑って大得意。
「
吃驚するわね、
唐突に怒鳴ってさ、ああ、まだ胸がどきどきする。」
はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の
踵を、清くこぼれた
褄にかけ、片手を
背後に、あらぬ空を
視めながら、
俯向き通しの疲れもあった、
頻に胸を
撫擦る。
「
姉さんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお
邸に、褄を
引摺っていたんだから駄目だ、意気地はねえや。」
女房は手拭を
掻い取ったが、
目ぶちのあたりほんのりと、
逆上せた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、
「
厭な
児だよ、また
裾を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」
「
錦絵の
姉様だあよ、見ねえな、
皆引摺ってら。」
「そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。」
「いまに解きます
繻子の帯とけつかるだ。お姫様だって、お小間使だって、そんなことは構わねえけれど、船頭のおかみさんが、そんな弱虫じゃ
不可ねえや、ああ、お浜ッ
児はこうは育てたくないもんだ。」と、機械があって人形の腹の中で聞えるような、顔には似ない高慢さ。
女房は打笑みつつ、向直って顔を見た。
「ほほほ、いうことだけ聞いていると、三ちゃんは、大層強そうだけれど、その実意気地なしッたらないんだもの、何よ、あれは?」
「あれはッて?」と目をぐるぐる。
「だって、源次さん千太さん、
理右衛門爺さんなんかが来ると……お前さん、この五月ごろから、
粋な小烏といわれないで、ベソを掻いた三之助だ、ベソ三だ、ベソ三だ。ついでに
鯔と改名しろなんて、何か高慢な口をきく度に、番ごと
籠められておいでじゃないか。何でも、
恐いか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、」とおかしそうに
正向に見られて、
奴は、口をむぐむぐと、
顱巻をふらりと下げて、
「へ、へ、へ。」と俯向いて苦笑い。
「見たが
可い、ベソちゃんや。」
と思わず軽く手をたたく。
「だって、だって、何だ、」
と
奴は
口惜しそうな顔色で、
「
己ぐらいな
年紀で、
鮪船の
漕げる
奴は
沢山ねえぜ。
ここいらの
鼻垂しは、よう
磯だって泳げようか。たかだか
堰でめだかを
極めるか、古川の浅い処で、ばちゃばちゃと
鮒を
遣るだ。
浪打際といったって、
一畝り乗って見ねえな、のたりと天上まで高くなって、
嶽の堂は目の下だ。大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お
太陽様は
真蒼だ。
姉さん、
凪の
可い日でそうなんだぜ。
処を沖へ出て一つ
暴風雨と来るか、がちゃめちゃの
真暗やみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からをぺろぺろとお茶の子で、鼻唄を唄うんだい、誰が沖へ出てベソなんか。」
と肩を怒らして大手を振った、
奴、おまわりの
真似して力む。
「じゃ、
何だって、何だってお前、ベソ三なの。」
「うん、」
たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、
顱巻をいじくりながら、
「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」
五
「あれさ、ちょいと、用がある、」
と女房は呼止める。
奴は
遁げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた
腰附で、
「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」
「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お
待ッてばねえ。」
衝と身を起こして追おうとすると、
奴は
駈出した
五足ばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと
踞み、立った女房の
前垂のあたりへ、円い
頤、
出額で仰いで、
「おい、」という。
出足へ
唐突に
突屈まれて、女房の身は、前へしないそうになって
蹌踉いた。
「何だねえ、また、
吃驚するわね。」
「へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。」
「ああ、
可いよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。」
「お前は強いからベソを掻いたわけ、」と念のためいってみて、
瞬した、目が渋そう。
「
不可ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」
「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」
「だって
姉さん、ベソも掻かざらに。
夜一夜亡念の火が船について離れねえだもの。
理右衛門なんざ、
己がベソをなんていう口で、ああ見えてその時はお念仏唱えただ。」と強がりたさに目を
る。
女房はそれかあらぬか、内々
危んだ胸へひしと、色変るまで
聞咎め、
「ええ、亡念の火が
憑いたって、」
「おっと、……」
とばかり三之助は口をおさえ、
「黙ろう、黙ろう、」と
傍を向いた、
片頬に
笑を含みながら
吃驚したような色である。
秘すほどなお聞きたさに、女房はわざとすねて見せ、
「
可いとも、
沢山そうやってお秘しな。どうせ、三ちゃんは他人だから、お浜の婿さんじゃないんだから、」
と肩を引いて、身を斜め、
捩り切りそうに
袖を合わせて、女房は
背向になンぬ。
奴は出る
杭を打つ手つき、ポンポンと
天窓をたたいて、
「しまった!
姉さん、何も秘すというわけじゃねえだよ。
こんの
兄哥もそういうし、乗組んだ理右衛門
徒えも、姉さんには内証にしておけ、話すと
恐怖がるッていうからよ。」
「だから、
皆で秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって
可じゃないかね。」
「むむ、じゃ話すだがね、おらが
饒舌ったって、
皆にいっちゃ
不可えだぜ。」
「誰が、そんなことをいうもんですか。」
「お浜ッ
児にも内証だよ。」
と
密と伸上ってまた縁側から納戸の
母衣蚊帳を
差覗く。
「
嬰児が、何を知ってさ。」
「それでも夢に見て
魘されら。」
「ちょいと、そんなに
恐怖い事なのかい。」と女房は縁の柱につかまった。
「え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、
姉さん、この五月、三日流しの
鰹船で二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。
野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、
晩めに夕飯を食ったあとでよ。
昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、
皆胴の
間へもぐってな、そん時に千太どんが
漕がしっけえ。
急に、おお寒い、おお寒い、
風邪揚句だ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、
艫からドンと飛下りただ。
船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、
陸へ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」
女房は
打頷いた襟さみしく、
乳の張る胸をおさえたのである。
六
「晩飯の菜に、塩からさ
嘗め過ぎた。どれ、
糠雨でも飲むべい、とってな、
理右衛門どんが
入交わって
漕がしつけえ。
や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と
艫で
爺さまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は
天窓から
褞袍被ってころげた
達磨よ。
ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、
幽に呼ばる声がするだね。
どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。
来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも
疝気がきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと
踞まねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と
小半時でまた理右衛門
爺さまが潜っただよ。
われ
漕げ、頭痛だ、
汝漕げ、
脚気だ、と
皆苦い顔をして、
出人がねえだね。
平胡坐でちょっと磁石さ見さしつけえ、
此家の
兄哥が、
奴、
汝漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、
奴は
顱巻の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、
「いきなり
艫へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で
辷るというもんだ。
どッこいな、と腰を
極めたが、ずッしりと手答えして、
槻の大木根こそぎにしたほどな
大い
艪の
奴、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと
歩行くようで、底が
轟々と
沸えくり返るだ。
ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、
真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。
西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の
畝ると
同一に声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。
その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と
真黒な中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。
やあ、火が
点れたいッて、おらあ、
吃驚して
喚くとな、……
姉さん。」
「おお、」と女房は変った
声音。
「黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の
間で、
苫の下でいわっしゃる。
また、千太がね、あれもよ、
陸の
人魂で、十五の年まで見ねえけりゃ、一生
逢わねえというんだが、十三で出っくわした、
奴は
幸福よ、と
吐くだあね。
おらあ、それを聞くと、
艪づかを握った手首から、寒くなったあ。」
「……まあ、
厭じゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、
恐怖いわねえ。」
とおくれ毛を風に吹かせて、女房も
悚然とする。
奴の顔色、
赤蜻蛉、
黍の穂も夕づく日。
「そ、そんなくれえで、お浜ッ
児の婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。
炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。
姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の
形だんべい、おらが
天窓より高くなったり、船底へ
崖が出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇ののたくるようについて来るだ。」
「………………」
「そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、
上下に
底澄んで、遠いのが耳について聞えるだ。」
七
「何でも、はあ、おらと同じように、誰かその、炎さ
漕いで来るだがね。
傍へ来られてはなんねえだ、と
艪づかを刻んで、急いでしゃくると、はあ、
不可え。
向うも、ふわふわと
疾くなるだ。
こりゃ、なんねえ、しょことがない、ともう
打ちゃらかして、おさえて
突立ってびくびくして見ていたらな。やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、
舳の上へ、水際さ離れて、たかったがね。一あたり風を食って、向うへ、ぶくぶくとのびたっけよ。またいびつ
形に円くなって、ぼやりと黄色い、薄濁りの影がさした。大きな船は舳から胴の間へかけて、半分ばかり、黄色くなった。
婦人がな、
裾を拡げて、
膝を立てて、飛乗った形だっけ。一ぱし大きさも大きいで、艪が上って、向うへ重くなりそうだに、はや他愛もねえ軽いのよ。
おらあ、わい、というて、艪を放した。
そん時だ、われの、顔は
真蒼だ、そういう
汝の
面は黄色いぜ、と
苫の間で、てんでんがいったあ。――あやかし火が通ったよ。
奴、黙って漕げ、何ともするもんじゃねえッて、
此家の
兄哥が、いわっしゃるで、どうするもんか。おら
屈んでな、
密とその火を見てやった。
ぼやりと黄色な、底の方に、うようよと何か動いてけつから。」
「えッ、何さ、何さ、三ちゃん、」と
忙しく聞いて、女房は
庇の陰。
日向の
奴も、暮れかかる秋の日の黄ばんだ中に、薄黒くもなんぬるよ。
「何だかちっとも分らねえが、
赤目鰒の
腸さ、引ずり出して、たたきつけたような、うようよとしたものよ。
どす赤いんだの、うす
蒼いんだの、にちにち
舳の板にくッついているようだっけ。
すぽりと離れて、海へ落ちた、ぐるぐると廻っただがな、大のしに
颯とのして、
一浪で遠くまで持って行った、どこかで
魚の目が光るようによ。
おらが肩も軽くなって、船はすらすらと
辷り出した。胴の間じゃ
寂りして、幽かに
鼾も聞えるだ。夜は恐ろしく更けただが、浪も
平になっただから、おらも息を
吐いたがね。
えてものめ、何が息を吐かせべい。
アホイ、アホイ、とおらが耳の
傍でまた呼ばる。
黙って漕げ、といわっしゃるで、おらは、スウとも泣かねえだが、腹の中で懸声さするかと思っただよ。
厭だからな、聞くまいとして頭あ
掉って、耳を紛らかしていたっけが、畜生、船に
憑いて火を呼ぶだとよ。
波が
平だで、なおと
不可え。火の
奴め、苦なしでふわふわとのしおった、その時は、おらが漕いでいる艪の方へさ、ぶくぶくと泳いで来たが、急にぼやっと拡がった、狸の
睾丸八畳敷よ。
そこら一面、波が黄色に光っただね。
その中に、はあ、細長い、ぬめらとした、黒い島が浮いたっけ。
あやかし火について、そんな晩は、
鮫の奴が化けるだと……あとで
爺さまがいわしった。
そういや、目だっぺい。
真赤な火が二つ空を向いて、その背中の
突先に
睨んでいたが、しばらくするとな。いまの
化鮫めが、
微塵になったように、大きい形はすぽりと消えて、百とも千とも数を知れねえ、いろんな
魚が、すらすらすらすら、黄色な浪の上を渡りおったが、化鮫めな、さまざまにして見せる。
唐の海だか、
天竺だか、
和蘭陀だか、分ンねえ夜中だったけが、おらあそんな事で泣きやしねえ。」と
奴は一息に勇んでいったが、
言を途切らし
四辺を
視めた。
目の前なる砂山の根の、その向き合える猛獣は、
薄の葉とともに黒く、海の空は浪の末に黄をぼかしてぞ
紅なる。
八
「そうする内に、またお猿をやって、ころりと
屈んだ人間ぐれえに縮かまって、そこら一面に、さっと暗くなったと思うと、あやし火の
奴め、ぶらぶらと
裾に泡を立てて、いきをついて
畝って来て、今度はおらが足の
舵に
搦んで、ひらひらと燃えただよ。
おらあ、目を塞いだが、鼻の
尖だ。
艫へ
這上りそうな形よ、それで片っぺら燃えのびて、おらが持っている
艪をつかまえそうにした時、おらが手は爪の色まで黄色くなって、目の玉もやっぱりその色に染まるだがね。だぶりだぶり
舷さ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、
姉さん、金色になって光るなら、
金の船で大丈夫というもんだが、あやかしだからそうは行かねえ。
時々
煙のようになって船の形が消えるだね。浪が
真黒に畝ってよ、そのたびに化物め、いきをついてまた燃えるだ。
おら一生懸命に、艪で
掻のめしてくれたけれど、火の奴は舵にからまりくさって、はあ、
婦人の裾が巻きついたようにも見えれば、
爺の腰がしがみついたようでもありよ。大きい
鮟鱇が、腹の中へ、
白張提灯鵜呑みにしたようにもあった。
こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを
蹈んだもんだで、舵へついたかよ、と
理右衛門爺さまがいわっしゃる。ええ、
引からまって
点れくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれようぜ、と
滅入った声で松公がそういっけえ。
奴や。
ひゃあ。
そのあやし火の中を
覗いて見ろい、いかいこと
亡者が居らあ、地獄の
状は一見えだ、と千太どんがいうだあね。
小児だ、馬鹿をいうない、と
此家の
兄哥がいわしっけ。
おら
堪んなくなって、ベソを掻き掻き、おいおい
恐怖くって泣き出したあだよ。」
いわれはかくと聞えたが、女房は何にもいわず、唇の色が
褪せていた。
「
苫を上げて、ぼやりと光って、こんの兄哥の形がな、
暗中へ出さしった。
おれに貸せ、
奴寝ろい。なるほどうっとうしく
憑きやあがるッて、ハッと
掌へ
呼吸を吹かしったわ。
一しけ来るぞ、騒ぐな、といって艪づかさ取って、
真直に空を見さしったで、おらも、ひとりでにすッこむ
天窓[#ルビの「あたま」は底本では「あまた」]を上げて
視めるとな、一面にどす赤く濁って来ただ。波は、そこらに
真黒な小山のような海坊主が、かさなり合って寝てるようだ。
おら胴の間へ転げ込んだよ。ここにもごろごろと八九人さ、小さくなってすくんでいるだね。
どこだも知んねえ海の中に、船さただ一
艘で、目の前さ、化物に取巻かれてよ、やがて
暴風雨が来ようというだに、
活きて働くのはこんの兄哥、ただ一人だと思や心細いけんどもな、兄哥は船頭、こんな時のお船頭だ。」
女房は引入れられて、
「まあ、ねえ、」とばかり深い息。
奴は高慢に打傾き、耳に小さな手を
翳して、
「
轟――とただ鳴るばかりよ、長延寺様さ大釣鐘を半日
天窓から
被ったようだね。
うとうととこう眠ったっぺ。相撲を取って、ころり投げ出されたと思って目さあけると、船の中は大水だあ。あかを
汲み出せ、大変だ、と船も人もくるくる舞うだよ。
苫も何も吹飛ばされた、恐しい音ばかりで雨が降るとも思わねえ、
天窓から水びたり、真黒な海坊主め、船の前へも後へも、右へも左へも五十三十。ぬくぬくと肩さ並べて、手を組んで
突立ったわ、手を上げると袖の中から、口い
開くと
咽喉から
湧いて、
真白な
水柱が、から、
倒にざあざあと船さ目がけて
突蒐る。
アホイ、ホイとどこだやら呼ばる声さ、あちらにもこちらにも耳について聞えるだね。」
九
「その時さ、船は
八丁艪になったがな、おららが呼ばる声じゃねえだ。
やっぱりおなじ処に、
舵についた、あやし火のあかりでな、影のような船の形が、薄ぼんやり、鼠色して
煙が吹いて消える
工合よ、すッ飛んじゃするすると浮いて
行く。
難有え、島が見える、着けろ着けろ、と千太が
喚く。やあ、どこのか船も
漕ぎつけた、島がそこに、と
理右衛門爺さま。
直さそこに、すくすくと山の形さあらわれて、
暗の中
突貫いて大幅な樹の枝が、※
[#「さんずい+散」、288-10]のあいだに
揺ぶれてな、帆柱さ
突立って、波の上を泳いでるだ。
血迷ったかこいつら、爺様までが何をいうよ、島も山も、海の上へ出たものは
石塊一ツある処じゃねえ。
暗礁へ誘い寄せる、
連を呼ぶ
幽霊船だ。気を
確に持たっせえ、弱い
音を出しやあがるなッて、
此家の
兄哥が怒鳴るだけんど、見す見す
天竺へ吹き流されるだ、地獄の土でも構わねえ、
陸へ
上って
呼吸が
吐きたい、助け船――なんのって弱い音さ出すのもあって、七転八倒するだでな、兄哥
真直に突立って、ぶるッと
身震をさしっけえよ、
突然素裸になっただね。」
「内の人が、」と声を出して、女房は
唾を
呑んだ。
「
兄哥がよ。おい。
あやかし火さ、まだ舵に
憑いて放れねえだ、
天窓から黄色に光った下腹へな、
鮪縄さ、ぐるぐると巻きつけて、その
片端を、胴の間の横木へ
結えつけると、さあ、念ばらしだ、
娑婆か、地獄か見届けて来るッてな、ここさ、はあ、こんの
兄哥が、
渾名に呼ばれた
海雀よ。鳥のようにびらりと
刎ねたわ、海の中へ、飛込むでねえ――
真白な波のかさなりかさなり崩れて来る、大きな山へ――
駈上るだ。
百尋ばかり
束ね上げた鮪縄の、
舷より高かったのがよ、
一掬いにずッと
伸した! その、十丈、十五丈、弓なりに上から
覗くのやら、反りかえって、
睨むのやら、口さあげて
威すのやら、
蔽わりかかって取り囲んだ、黒坊主の
立はだかっている中へ浪に
揉まれて行かしっけえ、船の中ではその綱を手ン手に取って、理右衛門爺さま、その時にお念仏だ。
やっと時が立って戻ってござった。舷へ手をかけて、神様のような顔を出して、何にもねえ、八方から波を
打つける
暗礁があるばかりだ、迷うな、ッていわしった。
お船頭、御苦労じゃ、御苦労じゃ、お船頭と、
皆握拳で拝んだだがね。
坊主も島も船の影も、さらりと消えてよ。そこら山のような波ばかり。
急に、あれだ、またそこらじゅう、空も、船も、人の顔も波も大きい大きい海の上さ半分仕切って薄黄色になったでねえか。
ええ、何をするだ、あやかしめ、また拡がったなッて、
皆くそ焼けに怒鳴ったっけえ。そうじゃねえ、東の空さお
太陽さまが
上らっしたが、そこでも、
姉さん、天と波と、
上下へ放れただ。
昨夜、
化鮫の背中出したように、一面の黄色な中に薄ぼんやり黒いものがかかったのは、
嶽の堂が目の
果へ出て来ただよ。」
女房はほっとしたような
顔色で、
「まあ、
可かったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。」
「思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。」
「三十里、」
とまた驚いた
状である。
「何だなあ、
姉さん、三十里ぐれえ何でもねえや。
それで、はあ夜が明けると、黄色く
環どって透通ったような水と天との間さ、薄あかりの中をいろいろな、片手で片身の
奴だの、首のねえのだの、
蝦蟇が
呼吸吹くようなのだの、犬の背中へ炎さ
絡まっているようなのだの、牛だの、馬だの、
異形なものが、
影燈籠見るようにふわふわまよって、さっさと駈け抜けてどこかへ
行くだね。」
十
「あとで、はい、
理右衛門爺さまもそういっけえ、この年になるまで、
昨夜ぐれえ
執念深えあやかしの
憑いた事はねえだって。
姉さん。
何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする
駈け出して
失せるだに、
手許が
明くなって、
皆の顔が
土気色になって見えてよ、
艪が白うなったのに、
舵にくいついた、えてものめ、まだ
退かねえだ。
お
太陽さまお
庇だね。その色が段々
蒼くなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと
裾の方が水際で膨れたあ、
蛭めが、吸い
肥ったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で
突張って、
刎ねてるだ。
まあ、めでてえ、と
皆で顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい
衣物が一枚出来たっぺい、あん時の
鰹さ、今年中での大漁だ。
舳に立って釣らしった
兄哥の
身のまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。」
と暮れかかる
蜘蛛の
囲の
檐を仰いだ、
奴の
出額は暗かった。
女房もそれなりに
咽喉ほの白う
仰向いて、目を閉じて見る、胸の
中の覚え書。
「じゃ何だね、
五月雨時分、夜中からあれた時だね。
まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、
生命がけで飛込んでさ。
私はただ、波の音が恐しいので、宵から
門へ
鎖をおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。
どんな
烈しい浪が来ても裏の
崖は崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと
打つかるごとに、崖と浪とで
戦をする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを
慾にして、
冷いとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。
そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、
船幽霊だのの中で、内の人は海から見りゃ
木の葉のような板一枚に乗っていてさ、」と女房は
首垂れつつ、
「私にゃ何にもいわないんだもの……」と思わず襟に
一雫、ほろりとして、
「済まないねえ。」
奴は何の
仔細も知らず、慰め顔に威勢の
可い声、
「何も済まねえッて
事アありやしねえだ。よう、
姉さん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、
兄哥がそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。
そのかわり今もいっけえよ。
兄哥のために姉さんが、お
膳立てしたり、お酒買ったりよ。
おら、酒は飲まねえだ、お芋で
可いや。
よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が
靡きます、あれは何ぞと問うたれば」
と、いたいけに手をたたき、
「
石々合わせて、塩
汲んで、
玩弄のバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ
焚くわいのだ。……よう
姉さん、」
奴は急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、
「おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。」
女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、
「ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、」
と調子をかえて、心ありげに呼びかける。
十一
「ああ、」
「あのね、私は何も新しい
衣物なんか
欲いとは思わないし、坊やも、お菓子も
用らないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ
他の商売にしておくれな、
姉さん、お願いだがどうだろうね。」
と思い入ったか
言もあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。
奴は遊び過ぎた
黄昏の、
鴉の鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も
上つき、
「
姉さん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。」
「ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、」
とそわそわするのを
圧えていったが、
奴はよくも聞かないで、
「
姉さんこそ聞きねえな、あらよ、堂の
嶽から、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、
盗賊をする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。
姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、」
と烏の下で小さく躍る。
「じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。」と
良人[#ルビの「おっと」は底本では「をっと」]の帰る嬉しさに、何事も忘れた
状で、女房は
衣紋を直した。
「まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。
五六里の処、
嗅ぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを
狙うだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。
やあ、見さっせえ、また十五六羽
遣って来た、沖の船は当ったぜ。
姉さん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」
舌打の高慢さ、
「おらも乗って
行きゃ
小遣が
貰えたに、号外を遣って
儲け損なった。お浜ッ
児に何にも
玩弄物が買えねえな。」
と
出額をがッくり、
爪尖に
蠣殻を突ッかけて、
赤蜻蛉の散ったあとへ、ぼたぼたと
溢れて映る、烏の影へ
足礫。
「何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。」
黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、
「だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ
他の商売をするように心懸けておくんなさいよ。」という声もうるんでいた。
奴ははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、
「何だって、漁師を
止めて、何だって、よ。」
「だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、
恐いじゃないか。
内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、
家へ入って
窘んでいても、向うが強ければ
捉まえられるよ。お浜は
嬰児だし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。」
としみじみいうのを、
呆れた顔して、聞き澄ました、
奴は上唇を舌で
甞め、
眦を下げて
哄々とふき
出し。
「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、
魚が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ
歩行いて、
鰭で
棹を持つのかよ、よう、
姉さん。」
「そりゃ
鰹や、
鯖が、棹を
背負って、そこから浜を
歩行いて来て、軒へ
踞むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが
棲んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、――今日は、三ちゃんばかりじゃないか。」
と女房は早や薄暗い納戸の
方を顧みる。
十二
「ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。」
とうら寂しげな
夕間暮、
生干の
紅絹も黒ずんで、
四辺はものの
磯の風。
奴は、
旧来た
黍がらの
痩せた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ
径を見返り、
「もっと町の方へ引越して、軒へ
瓦斯燈でも
点けるだよ、
兄哥もそれだから稼ぐんだ。」
「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が
可哀そうだから、号外屋でも何んでもいい、
他の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、
可いかい、
解ったの、三ちゃん。」
と因果を含めるようにいわれて、枝の
鴉も
頷き顔。
「むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて
駈けまわるだ、帰ったら一番、
爺様と相談すべいか、だって、お
銭にゃならねえとよ。」
と
奴は
悄乎げて指を
噛む。
「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。
突然そんな事をいっちゃ
不可いよ、まあ、話だわね。」
と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は
張板をそっと
撫で、
「慾張ったから乾き切らない。」
「何、
姉さんが泣くからだ、」
と
唐突にいわれたので、急に胸がせまったらしい。
「ああ、」
と
片袖を目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。
「がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。」
三之助はまた笑い、
「海から魚が釣りに来ただよ。」
「あれ、
厭、
驚かしちゃ……」
お浜がむずかって、
蚊帳が動く。
「そら御覧な、目を覚ましたわね、人を
驚かすもんだから、」
と
片頬に
莞爾、ちょいと
睨んで、
「あいよ、あいよ、」
「やあ、目を
覚したら
密と見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、
先刻から辛抱してただ。」と、かごとがましく身を
曲る。
「お
逢いなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、」
と女房は暗い納戸で、
母衣蚊帳の前で
身動ぎした。
「おっと、」
奴は縁に飛びついたが、
「ああ、
跣足だ
姉さん。」
と
脛をもじもじ。
「
可よ、お上りよ。」
「だって、
姉さんは
綺麗ずきだからな。」
「構わないよ、ねえ、」
といって、抱き上げた
児に
頬摺しつつ、横に見向いた顔が白い。
「やあ、もう笑ってら、今泣いた
烏が、」
と
縁端に遠慮して遠くで顔をふって、あやしたが、
「ほんとに騒々しい烏だ。」
と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと
嶽の堂を流れて出た、一団の雲の
正中に、
颯と揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。
「三ちゃん、」
「や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって
圧えべい。」
「まあ、遊んでおいでよ。」
と女房は、胸の雪を、
児に暖く解きながら、斜めに抱いて納戸口。
十三
「ねえ、今に内の人が帰ったら、菜のものを分けてお
貰い、そうすりゃ叱られはしないからね。何だか、今日は寂しくッて、心細くッてならないから、もうちっと、遊んで行っておくれ、ねえ、お浜、もうお
父さんがお帰りだね。」
と顔に顔、
児にいいながら縁へ出て来た。
おくれ毛の、こぼれかかる耳に響いて、号外――号外――とうら寂しい。
「おや、もういってしまったんだよ。」
女房は顔を上げて、
「
小児だねえ」
と独りでいったが、
檐の下なる
戸外を透かすと、薄黒いのが立っている。
「何だねえ、人をだましてさ、まだ、そこに居るのかい、
此奴、」
と
小児に
打たせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして
退った。
檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、
朦朧として
頭の円い、袖の平たい、入道であった。
女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。
時に身じろぎをしたと
覚しく、
彳んだ僧の姿は、
張板の横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣に
護られた砂山の横穴のごとき入口を、幅一杯に
塞いで立った。背高き形が、
傍へ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、
一条海の空に残っていた。
良人が乗った稲葉丸は、その下あたりを
幽な横雲。
それに
透すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、
瘠せたか、肥えたか知らぬけれども、
窪んだ目の赤味を帯びたのと、
尖って黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を
海方へ続いて、且つその背のあたりが
連りに息を
吐くと見えて、
戦いているのである。
心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を
漁るべく海から
顕われたとは、余り
目のあたりゆえ考えず。女房は、ただ総毛立った。
けれども、
厭な、気味の悪い
乞食坊主が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、
箪笥の
傍なる暗い隅へ、横ざまに
片膝つくと、
忙しく、しかし、
殆んど無意識に、
鳥目を。
早く
去ってもらいたさの、女房は自分も急いで、表の縁へするすると出て、
此方に控えながら、
「はい、」
という、それでも声は優しい女。
薄黒い入道は目を留めて、その
挙動を見るともなしに、
此方の
起居を知ったらしく、今、報謝をしようと
嬰児を片手に、
掌を差出したのを見も迎えないで、大儀らしく、かッたるそうに
頭を下に垂れたまま、
緩く二ツばかり
頭を
掉ったが、さも
横柄に見えたのである。
また泣き出したを
揺りながら、女房は
手持無沙汰に
清しい目を
ったが、
「何ですね、何が
欲いんですね。」
となお
物貰いという念は
失せぬ。
ややあって、
鼠の衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。
指すとともに、ハッという息を
吐く。
渠飢えたり矣。
「三ちゃん、お起きよ。」
ああ居てくれれば
可かった、と
奴の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。
十四
強盗に
出逢ったような、居もせぬ
奴を呼んだのも、我ながら、それにさへ、
動悸は一倍高うなる。
女房は
連りに
心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、
飯櫃を引寄せて、
及腰に
手桶から水を結び、
効々しゅう、
嬰児を
腕に抱いたまま、手許も
上の空で
覚束なく、三ツばかり
握飯。
潮風で漆の
乾びた、
板昆布を折ったような、
折敷にのせて、カタリと櫃を
押遣って、立てていた
踵を下へ、直ぐに出て来た。
「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」
今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、
先刻口を指したまま、
鱗でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、
発奮か、
冴か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、
蟹を
潰した渋柿に似てころりと飛んだ。
僧はハアと息が長い。
余の事に
熟と
視て、我を忘れた女房、
「何をするんですよ。」
一足
退きつつ、
「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」
と
屹といったが、腹立つ下に心弱く、
「
御坊さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。
それでは
御膳にしてあげましょうか。
そうしましょうかね。
それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって
小児に世話が焼けますのに、
入相で
忙しいもんですから。……あの、
茄子のつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」
薄暗がりに
頷いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、
「じゃ、そうしましょう/\。お前さん、何にもありませんよ。」
勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が
固って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。
これにギョッとして
立淀んだけれども、さるにても
婦人一人。
ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける
間ももどかしく、
良人の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが
口惜かったけれども、目を
瞑って、やがて
嬰児を襟に包んだ胸を
膨らかに、膳を据えた。
「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると
不可ません、ようござんすか。」
と茶碗に
堆く
装ったのである。
その時、
間の四隅を
籠めて、
真中処に、のッしりと
大胡坐でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく
覆った。
「あれえ、」
と驚いて女房は腰を浮かして
遁げさまに、
裾を乱して、ハタと手を
支き、
「何ですねえ。」
僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる
中にも袖で
庇った、女房の胸をじりりとさしつつ、
(
児を
呉れい。)
と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。
我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと
取縋って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は
冷くなっていた。
こんな心弱いものに留守をさせて、良人が
漁る海の幸よ。
その夜はやがて、砂白く、
崖蒼き、
玲瓏たる江見の月に、
奴が号外、悲しげに浦を
駈け廻って、
蒼海の浪ぞ荒かりける。
明治三十九年(一九〇六)年一月