旅僧
泉鏡花
上
去
(
い
)
にし
年
(
とし
)
秋
(
あき
)
のはじめ、
汽船
(
きせん
)
加能丸
(
かのうまる
)
の
百餘
(
ひやくよ
)
の
乘客
(
じようかく
)
を
搭載
(
たふさい
)
して、
加州
(
かしう
)
金石
(
かないは
)
に
向
(
むか
)
ひて、
越前
(
ゑちぜん
)
敦賀港
(
つるがかう
)
を
發
(
はつ
)
するや、
一天
(
いつてん
)
麗朗
(
うらゝか
)
に
微風
(
びふう
)
船首
(
せんしゆ
)
を
撫
(
な
)
でて、
海路
(
かいろ
)
の
平穩
(
へいをん
)
を
極
(
きは
)
めたるにも
關
(
かゝ
)
はらず、
乘客
(
じようかく
)
の
面上
(
めんじやう
)
に
一片
(
いつぺん
)
暗愁
(
あんしう
)
の
雲
(
くも
)
は
懸
(
かゝ
)
れり。
蓋
(
けだ
)
し
薄弱
(
はくじやく
)
なる
人間
(
にんげん
)
は、
如何
(
いか
)
なる
場合
(
ばあひ
)
にも
多
(
おほ
)
くは
己
(
おのれ
)
を
恃
(
たの
)
む
能
(
あた
)
はざるものなるが、
其
(
そ
)
の
最
(
もつと
)
も
不安心
(
ふあんしん
)
と
感
(
かん
)
ずるは
海上
(
かいじやう
)
ならむ。
然
(
さ
)
れば
平日
(
ひごろ
)
然
(
さ
)
までに
臆病
(
おくびやう
)
ならざる
輩
(
はい
)
も、
船出
(
ふなで
)
の
際
(
さい
)
は
兎
(
と
)
や
角
(
かく
)
と
縁起
(
えんぎ
)
を
祝
(
いは
)
ひ、
御幣
(
ごへい
)
を
擔
(
かつ
)
ぐも
多
(
おほ
)
かり。「
一人女
(
ひとりをんな
)
」「
一人坊主
(
ひとりばうず
)
」は、
暴風
(
あれ
)
か、
火災
(
くわさい
)
か、
難破
(
なんぱ
)
か、いづれにもせよ
危險
(
きけん
)
ありて、
船
(
ふね
)
を
襲
(
おそ
)
ふの
兆
(
てう
)
なりと
言傳
(
いひつた
)
へて、
船頭
(
せんどう
)
は
太
(
いた
)
く
之
(
これ
)
を
忌
(
い
)
めり。
其日
(
そのひ
)
の
加能丸
(
かのうまる
)
は
偶然
(
ぐうぜん
)
一
人
(
にん
)
の
旅僧
(
たびそう
)
を
乘
(
の
)
せたり。
乘客
(
じようかく
)
の
暗愁
(
あんしう
)
とは
他
(
た
)
なし、
此
(
こ
)
の
不祥
(
ふしやう
)
を
氣遣
(
きづか
)
ふにぞありける。
旅僧
(
たびそう
)
は
年紀
(
とし
)
四十二三、
全身
(
ぜんしん
)
黒
(
くろ
)
く
痩
(
や
)
せて、
鼻
(
はな
)
隆
(
たか
)
く、
眉
(
まゆ
)
濃
(
こ
)
く、
耳許
(
みゝもと
)
より
頤
(
おとがひ
)
、
頤
(
おとがひ
)
より
鼻
(
はな
)
の
下
(
した
)
まで、
短
(
みじか
)
き
髭
(
ひげ
)
は
斑
(
まだら
)
に
生
(
お
)
ひたり。
懸
(
か
)
けたる
袈裟
(
けさ
)
の
色
(
いろ
)
は
褪
(
あ
)
せて、
法衣
(
ころも
)
の
袖
(
そで
)
も
破
(
やぶ
)
れたるが、
服裝
(
いでたち
)
を
見
(
み
)
れば
法華宗
(
ほつけしう
)
なり。
甲板
(
デツキ
)
の
片隅
(
かたすみ
)
に
寂寞
(
じやくまく
)
として、
死灰
(
しくわい
)
の
如
(
ごと
)
く
趺坐
(
ふざ
)
せり。
加越地方
(
かゑつちはう
)
は
殊
(
こと
)
に
門徒眞宗
(
もんとしんしう
)
、
歸依者
(
きえしや
)
多
(
おほ
)
ければ、
船中
(
せんちう
)
の
客
(
きやく
)
も
又
(
また
)
門徒
(
もんと
)
七八
分
(
ぶ
)
を
占
(
し
)
めたるにぞ、
然
(
さ
)
らぬだに
忌
(
いま
)
はしき
此
(
こ
)
の「
一人坊主
(
ひとりばうず
)
」の、
別
(
わ
)
けて
氷炭
(
ひようたん
)
相容
(
あひい
)
れざる
宗敵
(
しうてき
)
なりと
思
(
おも
)
ふより、
乞食
(
こつじき
)
の
如
(
ごと
)
き
法華僧
(
ほつけそう
)
は、
恰
(
あたか
)
も
加能丸
(
かのうまる
)
の
滅亡
(
めつばう
)
を
宣告
(
せんこく
)
せむとて、
惡魔
(
あくま
)
の
遣
(
つか
)
はしたる
使者
(
ししや
)
としも
見
(
み
)
えたりけむ、
乘客等
(
じようかくら
)
は二
人
(
にん
)
三
人
(
にん
)
、
彼方
(
あなた
)
此方
(
こなた
)
に
額
(
ひたひ
)
を
鳩
(
あつ
)
めて
呶々
(
どゞ
)
しつゝ、
時々
(
とき/″\
)
法華僧
(
ほつけそう
)
を
流眄
(
しりめ
)
に
懸
(
か
)
けたり。
旅僧
(
たびそう
)
は
冷々然
(
れい/\ぜん
)
として、
聞
(
きこ
)
えよがしに
風説
(
うはさ
)
して
惡樣
(
あしざま
)
に
罵
(
のゝし
)
る
聲
(
こゑ
)
を
耳
(
みゝ
)
にも
入
(
い
)
れざりき。
せめては
四邊
(
あたり
)
に
心
(
こゝろ
)
を
置
(
お
)
きて、
肩身
(
かたみ
)
を
狹
(
せま
)
くすくみ
居
(
ゐ
)
たらば、
聊
(
いさゝ
)
か
恕
(
じよ
)
する
方
(
はう
)
もあらむ、
遠慮
(
ゑんりよ
)
もなく
席
(
せき
)
を
占
(
し
)
めて、
落着
(
おちつ
)
き
澄
(
すま
)
したるが
憎
(
にく
)
しとて、
乘客
(
じようかく
)
の一
人
(
にん
)
は
衝
(
つ
)
と
其
(
そ
)
の
前
(
まへ
)
に
進
(
すゝ
)
みて、
「
御出家
(
ごしゆつけ
)
、
今日
(
けふ
)
の
御天氣
(
おてんき
)
は
如何
(
いかゞ
)
でせうな。」
旅僧
(
たびそう
)
は
半眼
(
はんがん
)
に
閉
(
ふさ
)
ぎたる
眼
(
め
)
を
開
(
ひら
)
きて、
「さればさ、
先刻
(
さつき
)
から
降
(
ふ
)
らぬから、お
天氣
(
てんき
)
でござらう。」と
言
(
い
)
ひつゝ
空
(
そら
)
を
打仰
(
うちあふ
)
ぎて、
「はゝあ、
是
(
これ
)
はまた
結構
(
けつこう
)
なお
天氣
(
てんき
)
で、
日本晴
(
につぽんばれ
)
と
謂
(
い
)
ふのでござる。」
此
(
こ
)
の
暢氣
(
のんき
)
なる
答
(
こたへ
)
を
聞
(
き
)
きて、
渠
(
かれ
)
は
呆
(
あき
)
れながら、
「そりや、
誰
(
だれ
)
だつて
知
(
し
)
つてまさ、
私
(
わつし
)
は
唯
(
たゞ
)
急
(
きふ
)
に
天氣模樣
(
てんきもやう
)
が
變
(
かは
)
つて、
風
(
かぜ
)
でも
吹
(
ふ
)
きやしまいかと、
其
(
それ
)
をお
聞
(
き
)
き
申
(
まを
)
すんでさあ。」
「
那樣事
(
そんなこと
)
は
知
(
し
)
らぬな。
私
(
わし
)
は
目下
(
いま
)
の
空模樣
(
そらもやう
)
さへお
前
(
まへ
)
さんに
聞
(
き
)
かれたので、やつと
氣
(
き
)
が
着
(
つ
)
いたくらゐぢやもの。いや
又
(
また
)
雨
(
あめ
)
が
降
(
ふ
)
らうが、
風
(
かぜ
)
が
吹
(
ふ
)
かうが、そりや
何
(
なに
)
もお
天氣次第
(
てんきしだい
)
ぢや、
此方
(
こつち
)
の
構
(
かま
)
ふこツちや
無
(
な
)
いてな。」
「
飛
(
と
)
んだ
事
(
こと
)
を。
風
(
かぜ
)
が
吹
(
ふ
)
いて
耐
(
たま
)
るもんか。
船
(
ふね
)
だ、もし、
私等
(
わつしら
)
御同樣
(
ごどうやう
)
に
船
(
ふね
)
に
乘
(
の
)
つて
居
(
ゐ
)
るんですぜ。」
と
渠
(
かれ
)
は
良
(
やゝ
)
怒
(
いかり
)
を
帶
(
お
)
びて
聲高
(
こわだか
)
になりぬ。
旅僧
(
たびそう
)
は
少
(
すこ
)
しも
騷
(
さわ
)
がず、
「
成程
(
なるほど
)
、
船
(
ふね
)
に
居
(
ゐ
)
て
暴風雨
(
あれ
)
に
逢
(
あ
)
へば、
船
(
ふね
)
が
覆
(
かへ
)
るとでも
謂
(
い
)
ふ
事
(
こと
)
かの。」
「
知
(
し
)
れたこツたわ。
馬鹿々々
(
ばか/\
)
しい。」
渠
(
かれ
)
の
次第
(
しだい
)
に
急込
(
せきこ
)
むほど、
旅僧
(
たびそう
)
は
益
(
ますま
)
す
落着
(
おちつ
)
きぬ。
「して
又
(
また
)
、
船
(
ふね
)
が
覆
(
かへ
)
れば
生命
(
いのち
)
を
落
(
おと
)
さうかと
云
(
い
)
ふ、
其
(
そ
)
の
心配
(
しんぱい
)
かな。いや
詰
(
つま
)
らぬ
心配
(
しんぱい
)
ぢや。お
前
(
まへ
)
さんは
何
(
なに
)
か(
人相見
(
にんさうみ
)
)に、
水難
(
すゐなん
)
の
相
(
さう
)
があるとでも
言
(
い
)
はれたことがありますかい。まづ/\
聞
(
き
)
きなさい。さも
無
(
な
)
ければ
那樣
(
そんな
)
ことを
恐
(
こは
)
がると
云
(
い
)
ふ
理窟
(
りくつ
)
がないて。
一體
(
いつたい
)
お
前
(
まへ
)
さんに
限
(
かぎ
)
らず、
乘合
(
のりあひ
)
の
方々
(
かた/″\
)
も
又
(
また
)
然
(
さ
)
うぢや、
初手
(
しよて
)
から
然
(
さ
)
ほど
生命
(
いのち
)
が
危險
(
けんのん
)
だと
思
(
おも
)
ツたら、
船
(
ふね
)
なんぞに
乘
(
の
)
らぬが
可
(
い
)
いて。また
生命
(
いのち
)
を
介
(
かま
)
はずに
乘
(
の
)
ツた
衆
(
しう
)
なら、
風
(
かぜ
)
が
吹
(
ふ
)
かうが、
船
(
ふね
)
が
覆
(
かへ
)
らうが、
那樣事
(
そんなこと
)
に
頓着
(
とんぢやく
)
は
無
(
な
)
い
筈
(
はず
)
ぢやが、
恁
(
か
)
う
見渡
(
みわた
)
した
處
(
ところ
)
では、
誰方
(
どなた
)
も
怯氣々々
(
びく/\
)
もので
居
(
ゐ
)
らるゝ
樣子
(
やうす
)
ぢやが、さて/\
笑止千萬
(
せうしせんばん
)
な、
水
(
みづ
)
に
溺
(
おぼ
)
れやせぬかと、
心配
(
しんぱい
)
する
樣
(
やう
)
な
者
(
もの
)
は、
何
(
ど
)
の
道
(
みち
)
はや
平生
(
へいぜい
)
から、
後生
(
ごしやう
)
の
善
(
い
)
い
人
(
ひと
)
ではあるまい。
先
(
ま
)
づ
人
(
ひと
)
に
天氣
(
てんき
)
を
問
(
と
)
はうより、
自分
(
じぶん
)
の
胸
(
むね
)
に
聞
(
き
)
いて
見
(
み
)
るぢやて。
(
己
(
おのれ
)
は
難船
(
なんせん
)
に
會
(
あ
)
ふやうなものか、
何
(
ど
)
うぢや。)と、
其處
(
そこ
)
で
胸
(
むね
)
が、(お
前
(
まへ
)
は
隨分
(
ずゐぶん
)
罪
(
つみ
)
を
造
(
つく
)
つて
居
(
ゐ
)
るから
何
(
ど
)
うだか
知
(
し
)
れぬ。)と
恁
(
か
)
う
答
(
こた
)
へられた
日
(
ひ
)
にや、
覺悟
(
かくご
)
もせずばなるまい。もし(
否
(
いゝや
)
、
惡
(
わる
)
い
事
(
こと
)
をした
覺
(
おぼえ
)
もないから、
那樣
(
そんな
)
氣遣
(
きづかひ
)
は
些
(
ちつ
)
とも
無
(
な
)
い。)と
恁
(
か
)
うありや、
何
(
なん
)
の
雨風
(
あめかぜ
)
ござらばござれぢや。
喃
(
なあ
)
、
那樣
(
そんな
)
ものではあるまいか。
して
見
(
み
)
るとお
前
(
まへ
)
さん
方
(
がた
)
のおど/\するのは、
心
(
こゝろ
)
に
覺束
(
おぼつか
)
ない
處
(
ところ
)
があるからで、
罪
(
つみ
)
を
造
(
つく
)
つた
者
(
もの
)
と
見
(
み
)
える。
懺悔
(
ざんげ
)
さつしやい、
發心
(
ほつしん
)
して
坊主
(
ばうず
)
にでもならつしやい。(
一人坊主
(
ひとりばうず
)
)だと
言
(
い
)
うて
騷
(
さわ
)
いでござるから
丁度
(
ちやうど
)
可
(
い
)
い、
誰
(
だれ
)
か
私
(
わし
)
の
弟子
(
でし
)
になりなさらんか、
而
(
さう
)
して二三
人
(
にん
)
坊主
(
ぼうず
)
が
出來
(
でき
)
りや、もう(
一人坊主
(
ひとりばうず
)
)ではなくなるから、
頓
(
とん
)
と
氣
(
き
)
が
濟
(
す
)
んで
可
(
よ
)
くござらう。」
斯
(
か
)
く
言
(
い
)
ひつゝ
法華僧
(
ほつけそう
)
は
哄然
(
こうぜん
)
と
大笑
(
たいせう
)
して、
其
(
その
)
まゝ
其處
(
そこ
)
に
肱枕
(
ひぢまくら
)
して、
乘客等
(
のりあひら
)
がいかに
怒
(
いか
)
りしか、いかに
罵
(
のゝし
)
りしかを、
渠
(
かれ
)
は
眠
(
ねむ
)
りて
知
(
し
)
らざりしなり。
下
恁
(
かく
)
て、
數時間
(
すうじかん
)
を
經
(
へ
)
たりし
後
(
のち
)
、
身邊
(
あたり
)
の
人聲
(
ひとごゑ
)
の
騷
(
さわ
)
がしきに、
旅僧
(
たびそう
)
は
夢
(
ゆめ
)
破
(
やぶ
)
られて、
唯
(
と
)
見
(
み
)
れば
變
(
かは
)
り
易
(
やす
)
き
秋
(
あき
)
の
空
(
そら
)
の、
何時
(
いつ
)
しか
一面
(
いちめん
)
掻曇
(
かきくも
)
りて、
暗澹
(
あんたん
)
たる
雲
(
くも
)
の
形
(
かたち
)
の、
凄
(
すさま
)
じき
飛天夜叉
(
ひてんやしや
)
の
如
(
ごと
)
きが
縱横無盡
(
じうわうむじん
)
に
馳
(
は
)
せ
(
まは
)
るは、
暴風雨
(
あらし
)
の
軍
(
いくさ
)
を
催
(
もよほ
)
すならむ、
其
(
その
)
一團
(
いちだん
)
は
早
(
はや
)
く
既
(
すで
)
に
沿岸
(
えんがん
)
の
山
(
やま
)
の
頂
(
いたゞき
)
に
屯
(
たむろ
)
せり。
風
(
かぜ
)
一陣
(
ひとしきり
)
吹
(
ふ
)
き
出
(
い
)
でて、
船
(
ふね
)
の
動搖
(
どうえう
)
良
(
やゝ
)
激
(
はげ
)
しくなりぬ。
恁
(
かく
)
の
如
(
ごと
)
き
風雲
(
ふううん
)
は、
加能丸
(
かのうまる
)
既往
(
きわう
)
の
航海史上
(
かうかいしじやう
)
珍
(
めづら
)
しからぬ
現象
(
げんしやう
)
なれども、(
一人坊主
(
ひとりばうず
)
)の
前兆
(
ぜんてう
)
に
因
(
よ
)
りて
臆測
(
おくそく
)
せる
乘客
(
じやうかく
)
は、
恁
(
かゝ
)
る
現象
(
げんしやう
)
を
以
(
もつ
)
て
推
(
すゐ
)
すべき、
風雨
(
ふうう
)
の
程度
(
ていど
)
よりも、
寧
(
むし
)
ろ
幾十倍
(
いくじふばい
)
の
恐
(
おそれ
)
を
抱
(
いだ
)
きて、
渠
(
かれ
)
さへあらずば
無事
(
ぶじ
)
なるべきにと、
各々
(
おの/\
)
我
(
わが
)
命
(
いのち
)
を
惜
(
をし
)
む
餘
(
あまり
)
に、
其
(
その
)
死
(
し
)
を
欲
(
ほつ
)
するに
至
(
いた
)
るまで、
怨恨
(
うらみ
)
骨髓
(
こつずゐ
)
に
徹
(
てつ
)
して、
此
(
こ
)
の
法華僧
(
ほつけそう
)
を
憎
(
にく
)
み
合
(
あ
)
へり。
不幸
(
ふかう
)
の
僧
(
そう
)
はつく/″\
此
(
この
)
状
(
さま
)
を
(
みまは
)
し、
慨然
(
がいぜん
)
として、
「あゝ、
末世
(
まつせ
)
だ、
情
(
なさけ
)
ない。
皆
(
みんな
)
が
皆
(
みんな
)
で、
恁
(
か
)
う
又
(
また
)
信仰
(
しんかう
)
の
弱
(
よわ
)
いといふは
何
(
ど
)
うしたものぢやな。
此處
(
こゝ
)
で
死
(
し
)
ぬものか、
死
(
し
)
なないものか、
自分
(
じぶん
)
で
判斷
(
はんだん
)
をして、
活
(
い
)
きると
思
(
おも
)
へば
平氣
(
へいき
)
で
可
(
よ
)
し、
死
(
し
)
ぬと
思
(
おも
)
や
靜
(
しづか
)
に
未來
(
みらい
)
を
考
(
かんが
)
へて、
念佛
(
ねんぶつ
)
の
一
(
ひと
)
つも
唱
(
とな
)
へたら
何
(
ど
)
うぢや、
何方
(
どつち
)
にした
處
(
ところ
)
が、わい/\
騷
(
さわ
)
ぐことはない。はて、
見苦
(
みぐる
)
しいわい。
然
(
しか
)
し
私
(
わし
)
も
出家
(
しゆつけ
)
の
身
(
み
)
で、
人
(
ひと
)
に
心配
(
しんぱい
)
を
懸
(
か
)
けては
濟
(
す
)
むまい。
可
(
よ
)
し、
可
(
よ
)
し。」
と
渠
(
かれ
)
は
獨
(
ひと
)
り
頷
(
うなづ
)
きつゝ、
從容
(
しようよう
)
として
立上
(
たちあが
)
り、
甲板
(
デツキ
)
の
欄干
(
てすり
)
に
凭
(
よ
)
りて、
犇
(
ひしめ
)
き
合
(
あ
)
へる
乘客等
(
じようかくら
)
を
顧
(
かへり
)
みて、
「いや、
誰方
(
どなた
)
もお
騷
(
さわ
)
ぎなさるな。もう
斯
(
か
)
うなつちや
神佛
(
かみほとけ
)
の
信心
(
しんじん
)
では
皆
(
みな
)
の
衆
(
しう
)
に
埒
(
らち
)
があきさうもないに
依
(
よ
)
つて、
唯
(
たゞ
)
私
(
わし
)
が
居
(
ゐ
)
なければ
大丈夫
(
だいぢやうぶ
)
だと、
一生懸命
(
いつしやうけんめい
)
に
信仰
(
しんかう
)
なさい、
然
(
さ
)
うすれば
屹度
(
きつと
)
助
(
たす
)
かる。
宜
(
よろ
)
しいか/\。
南無
(
なむ
)
、」
と
一聲
(
ひとこゑ
)
、
高
(
たか
)
らかに
題目
(
だいもく
)
を
唱
(
とな
)
へも
敢
(
あ
)
へず、
法華僧
(
ほつけそう
)
は
身
(
み
)
を
躍
(
をど
)
らして
海
(
うみ
)
に
投
(
とう
)
ぜり。
「
身投
(
みなげ
)
だ、
助
(
たす
)
けろ。」
船長
(
せんちやう
)
の
命
(
めい
)
の
下
(
もと
)
に、
水夫
(
すいふ
)
は
一躍
(
いちやく
)
して
難
(
なん
)
に
赴
(
おもむ
)
き、
辛
(
から
)
うじて
法華僧
(
ほつけそう
)
を
救
(
すく
)
ひ
得
(
え
)
たり。
然
(
しか
)
りし
後
(
のち
)
、
此
(
こ
)
の(
一人坊主
(
ひとりばうず
)
)は、
前
(
さき
)
とは
正反對
(
せいはんたい
)
の
位置
(
ゐち
)
に
立
(
た
)
ちて、
乘合
(
のりあひ
)
をして
却
(
かへ
)
りて
我
(
われ
)
あるがために
船
(
ふね
)
の
安全
(
あんぜん
)
なるを
確
(
たしか
)
めしめぬ。
如何
(
いかん
)
となれば、
乘客等
(
じようかくら
)
は
爾
(
しか
)
く
身
(
み
)
を
殺
(
ころ
)
して
仁
(
じん
)
を
爲
(
な
)
さむとせし、
此
(
この
)
大聖人
(
だいせいじん
)
の
徳
(
とく
)
の
宏大
(
くわうだい
)
なる、
天
(
てん
)
は
其
(
そ
)
の
報酬
(
はうしう
)
として
渠
(
かれ
)
に
水難
(
すゐなん
)
を
與
(
あた
)
ふべき
理由
(
いはれ
)
のあらざるを
斷
(
だん
)
じ、
恁
(
かゝ
)
る
聖僧
(
せいそう
)
と
與
(
とも
)
にある
者
(
もの
)
は、
此
(
この
)
結縁
(
けちえん
)
に
因
(
よ
)
りて、
必
(
かなら
)
ず
安全
(
あんぜん
)
なる
航行
(
かうかう
)
をなし
得
(
う
)
べしと
信
(
しん
)
じたればなり。
良
(
やゝ
)
時
(
とき
)
を
經
(
へ
)
て
乘客
(
じようかく
)
は、
活佛
(
くわつぶつ
)
――
今
(
いま
)
新
(
あら
)
たに
然
(
し
)
か
思
(
おも
)
へる――の
周圍
(
しうゐ
)
に
集
(
あつま
)
りて、
一條
(
いちでう
)
の
法話
(
ほふわ
)
を
聞
(
き
)
かむことを
希
(
こひねが
)
へり。
漸
(
やうや
)
く
健康
(
けんかう
)
を
囘復
(
くわいふく
)
したる
法華僧
(
ほつけそう
)
は、
喜
(
よろこ
)
んで
之
(
これ
)
を
諾
(
だく
)
し、
打咳
(
うちしはぶ
)
きつゝ
語出
(
かたりいだ
)
しぬ。
「
私
(
わし
)
は
一體
(
いつたい
)
京都
(
きやうと
)
の
者
(
もの
)
で、
毎度
(
まいど
)
此
(
こ
)
の
金澤
(
かなざは
)
から
越中
(
ゑつちう
)
の
方
(
はう
)
へ
出懸
(
でか
)
けるが、一
度
(
ど
)
ある
事
(
こと
)
は二
度
(
ど
)
とやら、
船
(
ふね
)
で(
一人坊主
(
ひとりばうず
)
)になつて、
乘合
(
のりあひ
)
の
衆
(
しう
)
に
嫌
(
きら
)
はれるのは
今度
(
こんど
)
がこれで二
度目
(
どめ
)
でござる。
今
(
いま
)
から二三
年前
(
ねんまへ
)
のこと、
其時
(
そのとき
)
は、
船
(
ふね
)
の
出懸
(
でが
)
けから
暴風雨模樣
(
あれもやう
)
でな、
風
(
かぜ
)
も
吹
(
ふ
)
く、
雨
(
あめ
)
も
降
(
ふ
)
る。
敦賀
(
つるが
)
の
宿
(
やど
)
で
逡巡
(
しりごみ
)
して、
逗留
(
とうりう
)
した
者
(
もの
)
が七
分
(
ぶ
)
あつて、
乘
(
の
)
つたのはまあ三
分
(
ぶ
)
ぢやつた。
私
(
わし
)
も
其時分
(
そのじぶん
)
は
果敢
(
はか
)
ない
者
(
もの
)
で、
然
(
さう
)
云
(
い
)
ふ
天氣
(
てんき
)
に
船
(
ふね
)
に
乘
(
の
)
るのは、
實
(
じつ
)
は
二
(
に
)
の
足
(
あし
)
の
方
(
はう
)
であつたが。
出家
(
しゆつけ
)
の
身
(
み
)
で
生命
(
いのち
)
を
惜
(
をし
)
むかと、
人
(
ひと
)
の
思
(
おも
)
はくも
恥
(
はづ
)
かしくて、
怯氣々々
(
びく/\
)
もので
乘込
(
のりこ
)
みましたぢや。さて
段々
(
だん/\
)
船
(
ふね
)
の
進
(
すゝ
)
むほど、
風
(
かぜ
)
は
荒
(
あら
)
くなる、
波
(
なみ
)
は
荒
(
あ
)
れる、
船
(
ふね
)
は
搖
(
ゆ
)
れる。
其
(
その
)
又
(
また
)
搖
(
ゆ
)
れ
方
(
かた
)
と
謂
(
い
)
うたら
一通
(
ひととほり
)
でなかつたので、
吐
(
は
)
くやら、
呻
(
うめ
)
くやら、
大苦
(
おほくるし
)
みで
正體
(
しやうたい
)
ない
者
(
もの
)
が
却
(
かへ
)
つて
可羨
(
うらやま
)
しいくらゐ、と
云
(
い
)
ふのは、
氣
(
き
)
の
確
(
たしか
)
なものほど、
生命
(
いのち
)
が
案
(
あん
)
じられるでな、
船
(
ふね
)
が
恁
(
か
)
うぐつと
傾
(
かたむ
)
く
度
(
たび
)
に、はツ/\と
冷
(
つめた
)
い
汗
(
あせ
)
が
出
(
で
)
る。さてはや、
念佛
(
ねんぶつ
)
、
題目
(
だいもく
)
、
大聲
(
おほごゑ
)
に
鯨波
(
とき
)
の
聲
(
こゑ
)
を
揚
(
あ
)
げて
唸
(
うな
)
つて
居
(
ゐ
)
たが、やがて
其
(
それ
)
も
蚊
(
か
)
の
鳴
(
な
)
くやうに
弱
(
よわ
)
つてしまふ。
取亂
(
とりみだ
)
さぬ
者
(
もの
)
は
一人
(
ひとり
)
もない。
恁
(
かう
)
云
(
い
)
ふ
私
(
わし
)
が
矢張
(
やはり
)
その、おい/\
泣
(
な
)
いた
連中
(
れんぢう
)
でな、
面目
(
めんぼく
)
もないこと。
昔
(
むかし
)
彼
(
か
)
の
文覺
(
もんがく
)
と
云
(
い
)
ふ
荒法師
(
あらほふし
)
は、
佐渡
(
さど
)
へ
流
(
なが
)
される
船路
(
みち
)
で、
暴風雨
(
あれ
)
に
會
(
あ
)
つたが、
船頭水夫共
(
せんどうかこども
)
が
目
(
め
)
の
色
(
いろ
)
を
變
(
か
)
へて
騷
(
さわ
)
ぐにも
頓着
(
とんぢやく
)
なく、
大
(
だい
)
の
字
(
じ
)
なりに
寢
(
ね
)
そべつて、
雷
(
らい
)
の
如
(
ごと
)
き
高鼾
(
たかいびき
)
ぢや。
すると
船頭共
(
せんどうども
)
が、「
恁
(
こんな
)
惡僧
(
あくそう
)
が
乘
(
の
)
つて
居
(
ゐ
)
るから
龍神
(
りうじん
)
が
祟
(
たゝ
)
るのに
違
(
ちが
)
ひない、
疾
(
はや
)
く
海
(
うみ
)
の
中
(
なか
)
へ
投込
(
なげこ
)
んで、
此方人等
(
こちとら
)
は
助
(
たす
)
からう。」と
寄
(
よ
)
つて
集
(
たか
)
つて
文覺
(
もんがく
)
を
手籠
(
てごめ
)
にしようとする。
其時
(
そのとき
)
荒坊主
(
あらばうず
)
岸破
(
がば
)
と
起上
(
おきあが
)
り、
舳
(
へさき
)
に
突立
(
つゝた
)
ツて、はつたと
睨
(
ね
)
め
付
(
つ
)
け、「いかに
龍神
(
りうじん
)
不禮
(
ぶれい
)
をすな、
此
(
この
)
船
(
ふね
)
には
文覺
(
もんがく
)
と
云
(
い
)
ふ
法華
(
ほつけ
)
の
行者
(
ぎやうじや
)
が
乘
(
の
)
つて
居
(
ゐ
)
るぞ!」と
大音
(
だいおん
)
に
叱
(
しか
)
り
付
(
つ
)
けたと
謂
(
い
)
ふ。
何
(
なん
)
と
難有
(
ありがた
)
い
信仰
(
しんかう
)
ではないか。
強
(
つよ
)
い
信仰
(
しんかう
)
を
持
(
も
)
つて
居
(
ゐ
)
る
法師
(
ほふし
)
であつたから、
到底
(
たうてい
)
龍神
(
りうじん
)
如
(
ごと
)
きがこの
俺
(
おれ
)
を
沈
(
しづ
)
めることは
出來
(
でき
)
ない、
波浪
(
はらう
)
不能沒
(
ふのうもつ
)
だ、と
信
(
しん
)
じて
疑
(
うたが
)
はぬぢやから、
其處
(
そこ
)
でそれ
自若
(
じじやく
)
として
居
(
ゐ
)
られる。
又
(
また
)
死
(
し
)
んでも
極樂
(
ごくらく
)
へ
確
(
たしか
)
に
行
(
ゆ
)
かれる
身
(
み
)
ぢやと
固
(
かた
)
く
信
(
しん
)
じて
居
(
ゐ
)
る
者
(
もの
)
は、
恁
(
かう
)
云
(
い
)
ふ
時
(
とき
)
には
驚
(
おどろ
)
かぬ。
まあ
那樣事
(
そんなこと
)
は
措
(
お
)
いて、
其時
(
そのとき
)
船
(
ふね
)
の
中
(
なか
)
で、
些
(
ちつ
)
とも
騷
(
さわ
)
がぬ、いやも
頓
(
とん
)
と
平氣
(
へいき
)
な
人
(
ひと
)
が
二人
(
ふたり
)
あつた。
美
(
うつく
)
しい
娘
(
むすめ
)
と
可愛
(
かはい
)
らしい
男
(
をとこ
)
の
兒
(
こ
)
ぢや。
※弟
(
きやうだい
)
[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、9-3]
と
見
(
み
)
えてな、
似
(
に
)
て
居
(
ゐ
)
ました。
最初
(
さいしよ
)
から
二人
(
ふたり
)
對坐
(
さしむかひ
)
で、
人交
(
ひとまぜ
)
もせぬで
何
(
なに
)
か
睦
(
むつ
)
まじさうに
話
(
はなし
)
をして
居
(
ゐ
)
たが、
皆
(
みんな
)
がわい/\
言
(
い
)
つて
立騷
(
たちさわ
)
ぐのを
見
(
み
)
ようともせず、まるで
別世界
(
べつせかい
)
に
居
(
ゐ
)
るといふ
顏色
(
かほつき
)
での。
但
(
たゞ
)
金石間近
(
かないはまぢか
)
になつた
時
(
とき
)
、
甲板
(
かんぱん
)
の
方
(
はう
)
に
何
(
なに
)
か
知
(
し
)
らん
恐
(
おそろ
)
しい
音
(
おと
)
がして、
皆
(
みんな
)
が、きやツ!と
叫
(
さけ
)
んだ
時
(
とき
)
ばかり、
少
(
すこ
)
し
顏色
(
かほいろ
)
を
變
(
か
)
へたぢや。
別
(
べつ
)
に
仔細
(
しさい
)
もなかつたと
見
(
み
)
えて、
其内
(
そのうち
)
靜
(
しづ
)
まつたが、
※弟
(
きやうだい
)
[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、9-7]
は
立
(
た
)
ちさうにもせず、まことに
常
(
つね
)
の
通
(
とほ
)
りに、
澄
(
すま
)
して
居
(
ゐ
)
たに
因
(
よ
)
つて、
餘
(
あま
)
り
不思議
(
ふしぎ
)
に
思
(
おも
)
うたから、
其日
(
そのひ
)
難
(
なん
)
なく
港
(
みなと
)
に
着
(
つ
)
いて、
※弟
(
きやうだい
)
[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、9-8]
が
建場
(
たてば
)
の
茶屋
(
ちやや
)
に
腕車
(
くるま
)
を
雇
(
やと
)
ひながら
休
(
やす
)
んで
居
(
ゐ
)
る
處
(
ところ
)
へ
行
(
い
)
つて、
言葉
(
ことば
)
を
懸
(
か
)
けて
見
(
み
)
ようとしたが、
其
(
その
)
子達
(
こだち
)
の
氣高
(
けだか
)
さ!
貴
(
たふと
)
さ!
思
(
おも
)
はず
此
(
こ
)
の
天窓
(
あたま
)
が
下
(
さが
)
つたぢや。
そこで
土間
(
どま
)
へ
手
(
て
)
を
支
(
つか
)
へて、「
何
(
ど
)
ういふ
御修行
(
ごしゆぎやう
)
が
積
(
つ
)
んで、あのやうに
生死
(
しやうじ
)
の
場合
(
ばあひ
)
に
平氣
(
へいき
)
でお
在
(
いで
)
なされた」と、
恐入
(
おそれい
)
つて
尋
(
たづ
)
ねました。
すると
答
(
こたへ
)
には、「
否
(
いゝえ
)
、
私等
(
わたくしども
)
は
東京
(
とうきやう
)
へ
修行
(
しゆぎやう
)
に
參
(
まゐ
)
つて
居
(
ゐ
)
るものでござるが、
今度
(
こんど
)
國許
(
くにもと
)
に
父
(
ちゝ
)
が
急病
(
きふびやう
)
と
申
(
まを
)
す
電報
(
でんぱう
)
が
懸
(
かゝ
)
つて、
其
(
それ
)
で
歸
(
かへ
)
るのでござるが、
急
(
いそ
)
いで
見舞
(
みま
)
はんければなりませんので、
止
(
や
)
むを
得
(
え
)
ず
船
(
ふね
)
にしました。しかし
父樣
(
おとつさん
)
には
私達
(
わたしたち
)
二人
(
ふたり
)
の
外
(
ほか
)
に、
子
(
こ
)
と
云
(
い
)
ふものはござらぬ、
二人
(
ふたり
)
にもしもの
事
(
こと
)
がありますれば、
家
(
いへ
)
は
絶
(
た
)
えてしまひまする。
父樣
(
おとつさん
)
は
善
(
よ
)
いお
方
(
かた
)
で、
其
(
それ
)
きり
跡
(
あと
)
の
斷
(
た
)
えるやうな
惡
(
わる
)
い
事
(
こと
)
爲置
(
しお
)
かれた
方
(
かた
)
ではありませんから、
私
(
わたくし
)
どもは
甚
(
どんな
)
危
(
あぶな
)
い
恐
(
こは
)
い
目
(
め
)
に
出會
(
であ
)
ひましても、
安心
(
あんしん
)
でございます。それに
私
(
わたくし
)
が
危
(
あやふ
)
ければ、
此
(
こ
)
の
弟
(
おとうと
)
が
助
(
たす
)
けてくれます、
私
(
わたくし
)
もまた
弟
(
おとうと
)
一人
(
ひとり
)
は
殺
(
ころ
)
しません。
其
(
それ
)
で
二人
(
ふたり
)
とも
大丈夫
(
だいぢやうぶ
)
と
思
(
おも
)
ひますから。
少
(
すこ
)
しも
恐
(
こは
)
くはござらぬ。」と
恁
(
か
)
う
云
(
い
)
ふぢや。
私
(
わし
)
にはこれまで
讀
(
よ
)
んだ
御經
(
おきやう
)
より、
餘程
(
よつぽど
)
難有
(
ありがた
)
くて
涙
(
なみだ
)
が
出
(
で
)
た。まことに
善知識
(
ぜんちしき
)
、そのお
庇
(
かげ
)
で
大
(
おほ
)
きに
悟
(
さと
)
りました。
乘合
(
のりあひ
)
の
衆
(
しう
)
も
何
(
なに
)
がなしに、
自分
(
じぶん
)
で
自分
(
じぶん
)
を
信仰
(
しんかう
)
なさい。
船
(
ふね
)
が
大丈夫
(
だいぢやうぶ
)
と
信
(
しん
)
じたら
乘
(
の
)
つて
出
(
で
)
る、
出
(
で
)
た
上
(
うへ
)
では
甚
(
どんな
)
颶風
(
はやて
)
が
來
(
こ
)
ようが、
船
(
ふね
)
が
沈
(
しづ
)
まうが、
體
(
からだ
)
が
溺
(
おぼ
)
れようが、なに、
大丈夫
(
だいぢやうぶ
)
だと
思
(
おも
)
つてござれば、
些
(
ちつ
)
とも
驚
(
おどろ
)
くことはない。こりやよし
死
(
し
)
んでも
生返
(
いきかへ
)
る。もし
又
(
また
)
船
(
ふね
)
が
危
(
あぶな
)
いと
信
(
しん
)
じたらば、
乘
(
の
)
らぬことでござるぞ。
何
(
なん
)
でも
あやふや
だと
安心
(
あんしん
)
がならぬ、
人
(
ひと
)
を
恃
(
たの
)
むより
神佛
(
しんぶつ
)
を
信
(
しん
)
ずるより、
自分
(
じぶん
)
を
信仰
(
しんかう
)
なさるが
一番
(
いちばん
)
ぢや。」
船
(
ふね
)
の
港
(
みなと
)
に
着
(
つ
)
きけるまで
懇
(
ねんごろ
)
に
説聞
(
ときき
)
かして、
此
(
この
)
殺身爲仁
(
さつしんゐじん
)
の
高僧
(
かうそう
)
は、
飄然
(
へうぜん
)
として
其
(
その
)
名
(
な
)
も
告
(
つ
)
げず
立去
(
たちさ
)
りにけり。
底本:「鏡花全集 卷二」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日第1刷発行
1973(昭和48)年12月3日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年10月28日作成
2011年3月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA
9-3、9-7、9-8
●図書カード