時。
現代。
場所。
海底の琅殿。
人物。
公子。沖の僧都。(年老いたる海坊主)美女。博士。
女房。侍女。(七人)黒潮騎士。(多数)
[#改ページ]女房。侍女。(七人)黒潮騎士。(多数)
僧都 お腰元衆。
侍女一 (薄色の洋装したるが扉 より出 づ)はい、はい。これは御僧 。
僧都 や、目覚しく、美しい、異 った扮装 でおいでなさる。
侍女一 御挨拶 でございます。美しいかどうかは存じませんけれど、異った支度には違いないのでございます。若様、かねてのお望みが叶 いまして、今夜お輿入 のございます。若奥様が、島田のお髪 、お振袖と承りましたから、私 どもは、余計そのお姿のお目立ち遊ばすように、皆して、かように申合せましたのでございます。
僧都 はあ、さてもお似合いなされたが、いずこの浦の風俗じゃろうな。
侍女一 度々海の上へお出でなさいますもの、よく御存じでおあんなさいましょうのに。
僧都 いや、荒海を切って影を顕 すのは暴風雨 の折から。如法 たいてい暗夜 じゃに因って、見えるのは墓の船に、死骸 の蠢 く裸体 ばかり。色ある女性 の衣 などは睫毛 にも掛 りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、蒼 い炎の息を吹いても、素奴 色の白いはないか、袖の紅 いはないか、と胴の間 、狭間 、帆柱の根、錨綱 の下までも、あなぐり探いたものなれども、孫子 は措 け、僧都においては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内じゃ。
侍女一 (笑う)お精進 でおいで遊ばします。もし、これは、桜貝、蘇芳貝 、いろいろの貝を蕊 にして、花の波が白く咲きます、その渚 を、青い山、緑の小松に包まれて、大陸の婦 たちが、夏の頃、百合、桔梗 、月見草、夕顔の雪の装 などして、旭 の光、月影に、遥 に(高濶 なる碧瑠璃 の天井を、髪艶 やかに打仰ぐ)姿を映します。ああ、風情な。美しいと視 めましたものでございますから、私 ども皆が、今夜はこの服装 に揃えました。
僧都 一段とお見事じゃ。が、朝ほど御機嫌伺いに出ました節は、御殿 、お腰元衆、いずれも不断の服装 でおいでなされた。その節は、今宵、あの美女がこれへ輿入の儀はまだ極 らなんだ。じたい人間は決断が遅いに因ってな。……それじゃに、かねてのお心掛 か。弥 疾 く装 が間に合うたもののう。
侍女一 まあ、貴老 は。私 たちこの玉のような皆 の膚 は、白い尾花の穂を散らした、山々の秋の錦 が水に映ると同 じに、こうと思えば、ついそれなりに、思うまま、身の装 の出来ます体でおりますものを。貴老はお忘れなさいましたか。
貴老は。……貴老だとて違いはしません。緋 の法衣 を召そうと思えば、お思いなさいます、と右左、峯に、一本 燃立つような。
僧都 ま、ま、分った。(腰を屈 めつつ、圧 うるがごとく掌 を挙げて制す)何とも相済まぬ儀じゃ。海の住居 の難有 さに馴 れて、蔭日向 、雲の往来 に、潮 の色の変ると同様。如意自在 心のまま、たちどころに身の装 の成る事を忘れていました。
なれども、僧都が身は、こうした墨染の暗夜 こそ可 けれ、なまじ緋の法衣 など絡 おうなら、ずぶ濡 の提灯 じゃ、戸惑 をした の魚 じゃなどと申そう。圧 も石も利く事ではない。(細く丈長き鉄 の錨 を倒 にして携えたる杖 を、軽 く突直す。)
いや、また忘れてはならぬ。忘れぬ前 に申上げたい儀で罷出 た。若様へお取次を頼みましょ。
いや、また忘れてはならぬ。忘れぬ
侍女一 畏 りました。唯今 。……あの、ちょうど可 い折に存じます。
右の方 闥 を排して行 く。
僧都 (謹みたる体 にて室内を す。)
はあ、争われぬ。法衣 の袖に春がそよぐ。
(錨の杖を抱 きて彳 む。)
公子 (衝 と押す、闥 を排 きて、性急に登場す。面 玉のごとく丈 けたり。黒髪を背に捌 く。青地錦の直垂 、黄金 づくりの剣 を佩 く。上段、一階高き床の端に、端然として立つ。)
侍女五人、以前の一人を真先 に、すらすらと従い出づ。いずれも洋装。第五の侍女、年最も少 し。二人は床の上、公子 の背後 に。二人は床を下りて僧都の前に。第一の侍女はその背 に立つ。
僧都 は。(大床 に跪 く。控えたる侍女一、件 の錨の杖を預る)これはこれは、御休息の処を恐入りましてござります。
公子 (親しげに)爺い、用か。
僧都 紺青 、群青 、白群 、朱、碧 の御蔵の中より、この度の儀に就きまして、先方へお遣わしになりました、品々の類 と、数々を、念のために申上げとうござりまして。
公子 (立ちたるまま)おお、あの女の父親に遣 った、陸で結納 とか云うものの事か。
僧都 はあ、いや、御聡明なる若様。若様にはお覚違 いでござります。彼等夥間 に結納と申すは、親々が縁を結び、媒妁人 の手をもち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。しかるにこの度は、先方の父親が、若様の御支配遊ばす、わたつみの財宝に望 を掛け、もしこの念願の届くにおいては、眉目容色 、世に類 なき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓いました。すなわち、彼が望みの宝をお遣 しになりましたに因って、是非に及ばず、誓言 の通り、娘を波に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた数の宝は、彼等が結納と申そうより、俗に女の身代 と云うものにござりますので。
公子 (軽く頷 く)可 、何にしろすこしばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。
僧都 いやいや、鱗 一枚、一草 の空貝 とは申せ、僧都が承りました上は、活達なる若様、かような事はお気煩 かしゅうおいでなさりましょうなれども、老 のしょうがに、お耳に入れねばなりませぬ。お腰元衆もお執成 。(五人の侍女に目遣 す)平 にお聞取りを願わしゅう。
侍女三 若様、お座へ。
公子 (顧みて)椅子 をこちらへ。
侍女三、四、両人して白き枝珊瑚 の椅子を捧げ、床の端近 に据う。大隋円形 の白き琅 の、沈みたる光沢を帯べる卓子 、上段の中央にあり。枝のままなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅 きは花のごとく、白きは霞のごときを、相対して置く。侍女等が捧出 でて位置を変えて据えたるは、その白き方 一脚なり。
僧都 真鯛 大小八千枚。鰤 、鮪 、ともに二万疋 。鰹 、真那鰹 、各 一万本。大比目魚 五千枚。鱚 、魴 、鯒 、身魚 、目張魚 、藻魚 、合せて七百籠 。若布 のその幅六丈、長さ十五尋 のもの、百枚一巻 九千連。鮟鱇 五十袋。虎河豚 一頭。大の鮹 一番 。さて、別にまた、月の灘 の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(この分、手にて仕方す)周囲 三抱 の分にござりまして。ええ、月の真珠、花の真珠、雪の真珠、いずれも一寸の珠 三十三粒 、八分の珠百五粒、紅宝玉三十顆 、大 さ鶴の卵、粒を揃えて、これは碧瑪瑙 の盆に装 り、緑宝玉、三百顆、孔雀 の尾の渦巻の数に合せ、紫の瑠璃 の台、五色に透いて輝きまする鰐 の皮三十六枚、沙金 の包 七十袋 。量目 約百万両。閻浮檀金 十斤也。緞子 、縮緬 、綾 、錦 、牡丹 、芍薬 、菊の花、黄金色 の董 、銀覆輪 の、月草、露草。
侍女一 もしもし、唯今 のそれは、あの、残らず、そのお娘御 の身の代 とかにお遣わしの分なのでございますか。
僧都 残らず身の代と?……はあ、いかさまな。(心付く)不重宝 。これはこれは海松 ふさの袖に記して覚えのまま、潮 に乗って、颯 と読流しました。はて、何から申した事やら、品目の多い処へ、数々ゆえに。ええええ、真鯛大小八千枚。
侍女一 鰤、鮪ともに二万疋。鰹、真那鰹各 一万本。
侍女二 (僧都の前にあり)大比目魚五千枚。鱚、魴、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚の類合せて七百籠。
侍女三 (公子の背後にあり)若布のその幅六丈、長さ十五尋のもの百枚一巻 九千連。
侍女四 (同じく公子の背後に)鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹一番 。まあ……(笑う。侍女皆笑う。)
僧都 (額の汗を拭 く)それそれさよう、さよう。
公子 (微笑しつつ)笑うな、老人は真面目 でいる。
侍女五 (最も少 し。斉 しく公子の背後に附添う。派手に美 しき声す)月の灘の桃色の枝珊瑚樹、対 の一株、丈八尺、周囲 三抱 の分。一寸の玉三十三粒……雪の真珠、花の真珠。
侍女一 月の真珠。
僧都 しばらく。までじゃまでじゃ、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、周囲三抱の分までにござった。(公子に)鶴の卵ほどの紅宝玉、孔雀の渦巻の緑宝玉、青瑪瑙の盆、紫の瑠璃の台。この分は、天なる(仰いで礼拝す)月宮殿に貢 のものにござりました。
公子 私もそうらしく思って聞いた。僧都、それから後に言われた、その董、露草などは、金銀宝玉の類は云うまでもない、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あの方 へ遣わしたものか。
僧都 綾、錦、牡丹、芍薬、縺 れも散りもいたしませぬを、老人の申条 、はや、また海松 のように乱れました。ええええ、その董、露草は、若様、この度の御旅行につき、白雪 の竜馬 にめされ、渚 を掛けて浦づたい、朝夕の、茜 、紫、雲の上を山の峰へお潜 びにてお出ましの節、珍しくお手に入 りましたを、御姉君 、乙姫 様へ御進物の分でござりました。
侍女一 姫様は、閻浮檀金 の一輪挿 に、真珠の露でお活 け遊ばし、お手許 をお離しなさいませぬそうにございます。
公子 度々は手に入らない。私も大方、姉上に進 げたその事であろうと思った。
僧都 御意。娘の親へ遣わしましたは、真鯛より数えまして、珊瑚一対……までに止 まりました。
侍女二 海では何ほどの事でもございませんが、受取ります陸 の人には、鯛も比目魚も千と万、少ない数ではございますまいに、僅 な日の間に、ようお手廻し、お遣わしになりましてございます。
僧都 さればその事。一国、一島、津や浦の果 から果を一網 にもせい、人間夥間 が、大海原 から取入れます獲 ものというは、貝に溜 った雫 ほどにいささかなものでござっての、お腰元衆など思うてもみられまい、鉤 の尖 に虫を附けて雑魚 一筋を釣るという仙人業 をしまするよ。この度の娘の父は、さまでにもなけれども、小船一つで網を打つが、海月 ほどにしょぼりと拡げて、泡にも足らぬ小魚を掬 う。入 ものが小さき故に、それが希望 を満しますに、手間の入 ること、何ともまだるい。鰯 を育てて鯨にするより歯痒 い段の行止 り。(公子に向う)若様は御性急じゃ。早く彼が願 を満たいて、誓 の美女を取れ、と御意ある。よって、黒潮、赤潮の御手兵をちとばかり動かしましたわ。赤潮の剣 は、炎の稲妻、黒潮の黒い旗は、黒雲の峰を築 いて、沖から と浴びせたほどに、一浦 の津波となって、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、門背戸 かけて、畳天井、一斉 に、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござったよ。
侍女三 まあ、お勇ましい。
公子 (少し俯向 く)勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。
僧都 いや、いや、黒潮と赤潮が、密 と爪弾 きしましたばかり。人命を断つほどではござりませなんだ。もっとも迷惑をせば、いたせ、娘の親が人間同士の間 でさえ、自分ばかりは、思い懸けない海の幸を、黄金 の山ほど掴 みましたに因って、他の人々の難渋ごときはいささか気にも留めませぬに、海のお世子 であらせられます若様。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭当りませぬ儀でございます。
公子 (頷 く)そんなら可 ――僧都。
僧都 はは。(更 めて手を支 く。)
公子 あれの親は、こちらから遣わした、娘の身の代 とかいうものに満足をしたであろうか。
僧都 御意、満足いたしましたればこそ、当御殿、お求めに従い、美女を沈めました儀にござります。もっとも、真鯛、鰹、真那鰹、その金銀の魚類のみでは、満足をしませなんだが、続いて、三抱え一対の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の端 出づる月の光に、真紫に輝きまするを夢のように抱きました時、あれの父親は白砂に領伏 し、波の裙 を吸いました。あわれ竜神、一命も捧げ奉ると、御恩のほどを難有 がりましたのでござります。
公子 (微笑す)親仁 の命などは御免だな。そんな魂を引取ると、海月 が殖 えて、迷惑をするよ。
侍女五 あんな事をおっしゃいます。
一同笑う。
公子 けれども僧都、そんな事で満足した、人間の慾 は浅いものだね。
僧都 まだまだ、あれは深い方でござります。一人娘の身に代えて、海の宝を望みましたは、慾念の逞 い故でござりまして。……たかだかは人間同士、夥間 うちで、白い柔 な膩身 を、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら売り渡すのが、峠の関所かと心得ます。
公子 馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ)恋しい女よ。望めば生命 でも遣 ろうものを。……はは、はは。
微笑す。
侍女四 お思われ遊ばした娘御は、天地 かけて、波かけて、お仕合せでおいで遊ばします。
侍女一 早くお着き遊 せば可 うございます。私 どももお待遠 に存じ上げます。
公子 道中の様子を見よう、旅の様子を見よう。(闥 の外に向って呼ぶ)おいおい、居間の鏡を寄越 せ。(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦の蔽 を掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。)
僧都も御覧。
僧都 失礼ながら。(膝行 して進む。侍女等、姿見を卓子 の上に据え、錦の蔽を展 く。侍女等、卓子の端の一方に集る。)
公子 (姿見の面 を指 し、僧都を見返る)あれだ、あれだ。あの一点の光がそれだ。お前たちも見ないか。
舞台転ず。しばし暗黒、寂寞 として波濤 の音聞ゆ。やがて一個 、花白く葉の青き蓮華燈籠 、漂々として波に漾 えるがごとく顕 る。続いて花の赤き同じ燈籠、中空 のごとき高処に出づ。また出づ、やや低し。なお見ゆ、少しく高し。その数五個 になる時、累々たる波の舞台を露 す。美女。毛巻島田 に結う。白の振袖、綾 の帯、紅 の長襦袢 、胸に水晶の数珠 をかけ、襟に両袖を占めて、波の上に、雪のごとき竜馬 に乗せらる。およそ手綱の丈を隔てて、一人下髪 の女房。旅扮装 。素足、小袿 に褄 端折りて、片手に市女笠 を携え、片手に蓮華燈籠を提ぐ。第一点の燈 の影はこれなり。黒潮騎士 、美女の白竜馬をひしひしと囲んで両側二列を造る。およそ十人。皆崑崙奴 の形相。手に手に、すくすくと槍 を立つ。穂先白く晃々 として、氷柱 倒 に黒髪を縫う。あるものは燈籠を槍に結ぶ、灯 の高きはこれなり。あるものは手にし、あるものは腰にす。
女房 貴女 、お草臥 でございましょう。一息、お休息 なさいますか。
美女 (夢見るようにその瞳を く)ああ、(歎息す)もし、誰方 ですか。……私の身体 は足を空に、(馬の背に裳 を掻緊 む)倒 に落ちて落ちて、波に沈んでいるのでしょうか。
女房 いいえ、お美しいお髪 一筋、風にも波にもお縺 れはなさいません。何でお身体 が倒などと、そんな事がございましょう。
美女 いつか、いつですか、昨夜 か、今夜か、前 の世ですか。私が一人、楫 も櫓 もない、舟に、筵 に乗せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ捕られて行 く、私へ供養のためだと云って、船の左右へ、前後 に、波のまにまに散って浮く……蓮華燈籠が流れました。
女房 水に目のお馴 れなさいません、貴女には道しるべ、また土産にもと存じまして、これが、(手に翳 す)その燈籠でございます。
美女 まあ、灯 も消えずに……
女房 燃えた火の消えますのは、油の尽きる、風の吹く、陸 ばかりの事でございます。一度、この国へ受取りますと、ここには風が吹きません。ただ花の香の、ほんのりと通うばかりでございます。紙の細工も珠 に替って、葉の青いのは、翡翠 の琅 、花片 の紅白は、真玉 、白珠 、紅宝玉。燃ゆる灯 も、またたきながら消えない星でございます。御覧遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髪 も乱れはしますまい。何で、お身体 が倒 でございましょう。
美女 最後に一目 、故郷 の浦の近い峰に、月を見たと思いました。それぎり、底へ引くように船が沈んで、私は波に落ちたのです。ただ幻に、その燈籠の様な蒼 い影を見て、胸を離れて遠くへ行 く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思いましたが、ふと見ますと、前途 にも、あれあれ、遥 の下と思う処に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。
女房 ああ、(望む)あの光は。いえ。月影ではございません。
美女 でも、貴方 、雲が見えます、雪のような、空が見えます、瑠璃色 の。そして、真白 な絹糸のような光が射 します。
女房 その雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、これから貴女がお出 遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎え申すのです。
美女 そして。参って、私の身体 は、どうなるのでございましょうねえ。
女房 ほほほ、(笑う)何事も申しますまい。ただお嬉しい事なのです。おめでとう存じます。
美女 あの、捨小舟 に流されて、海の贄 に取られて行 く、あの、( す)これが、嬉しい事なのでしょうか。めでたい事なのでしょうかねえ。
女房 (再び笑う)お国ではいかがでございましょうか。私たちが故郷 では、もうこの上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。
美女 あすこまで、道程 は?
女房 お国でたとえは煩 かしい。……おお、五十三次と承ります、東海道を十度 ずつ、三百度、往還 りを繰返して、三千度いたしますほどでございましょう。
美女 ええ、そんなに。
女房 めした竜馬は風よりも早し、お道筋は黄金 の欄干、白銀の波のお廊下、ただ花の香りの中を、やがてお着きなさいます。
美女 潮風、磯 の香、海松 、海藻 の、咽喉 を刺す硫黄 の臭気 と思いのほか、ほんに、清 しい、佳 い薫 、(柔 に袖を動かす)……ですが、時々、悚然 する、腥 い香のしますのは?……
女房 人間の魂が、貴女を慕うのでございます。海月 が寄るのでございます。
美女 人の魂が、海月と云って?
女房 海に参ります醜い人間の魂は、皆 、海月になって、ふわふわさまようて歩行 きますのでございます。
黒潮騎士 (口々に)――煩 い。しっしっ。――(と、ものなき竜馬の周囲を呵 す。)
美女 まあ、情 ない、お恥 しい。(袖をもって面 を蔽 う。)
女房 いえ、貴女は、あの御殿の若様の、新夫人 でいらっしゃいます、もはや人間ではありません。
美女 ええ。(袖を落す。――舞台転ず。真暗 になる。)――
女房 (声のみして)急ぎましょう。美しい方を見ると、黒鰐 、赤鮫 が襲います。騎馬が前後を守護しました。お憂慮 はありませんが、いぎ参ると、斬合 い攻合 う、修羅の巷 をお目に懸けねばなりません。――騎馬の方々、急いで下さい。
燈籠一つ行 き、続いて一つ行く。漂蕩 する趣して、高く低く奥の方 深く行く。
舞台燦然 として明るし、前 の琅殿顕 る。
公子、椅子の位置を卓子 に正しく直して掛けて、姿見の傍 にあり。向って右の上座 。左の方 に赤き枝珊瑚 の椅子、人なくしてただ据えらる。その椅子を斜 に下 りて、沖の僧都、この度は腰掛けてあり。黒き珊瑚、小形なる椅子を用いる。おなじ小形の椅子に、向って正面に一人、ほぼ唐代の儒の服装したる、髯 黒き一人 あり。博士 なり。
侍女七人、花のごとくその間を装い立つ。
舞台
公子、椅子の位置を
侍女七人、花のごとくその間を装い立つ。
公子 博士、お呼立 をしました。
博士 (敬礼す。)
公子 これを御覧なさい。(姿見の面 を示す。)
博士 至極 のお計 いに心得まするが。
公子 ところが、敵に備うるここの守備を出払わしたから不用心じゃ、危険であろう、と僧都が言われる。……それは恐れん、私が居れば仔細 ない。けれども、また、僧都の言われるには、白衣 に緋 の襲 した女子 を馬に乗せて、黒髪を槍尖 で縫ったのは、かの国で引廻しとか称 えた罪人の姿に似ている、私の手許 に迎入るるものを、不祥 じゃ、忌 わしいと言うのです。
事実不祥なれば、途中の保護は他にいくらも手段があります。それは構わないが、私はいささかも不祥と思わん、忌わしいと思わない。
これを見ないか。私の領分に入った女の顔は、白い玉が月の光に包まれたと同一 に、いよいよ清い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の紅は冴 えて、いささかも窶 れない。憂えておらん。清らかな衣 を着、新 に梳 って、花に露の点滴 る装 して、馬に騎した姿は、かの国の花野の丈 を、錦の山の懐に抽 く……歩行 より、車より、駕籠 に乗ったより、一層鮮麗 なものだと思う。その上、選抜した慓悍 な黒潮騎士の精鋭等 に、長槍をもって四辺 を払わせて通るのです。得意思うべしではないのですか。
僧都 (頻 に頭 を傾く。)
公子 引廻しと聞けば、恥を見せるのでしょう、苦痛を与えるのであろう。槍で囲み、旗を立て、淡く清く装った得意の人を馬に乗せて市 を練って、やがて刑場に送って殺した処で、――殺されるものは平凡に疾病 で死するより愉快でしょう。――それが何の刑罰になるのですか。陸と海と、国が違い、人情が違っても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想う。僧都は、うろ覚えながら確 に記憶に残ると言われる。……貴下 をお呼立した次第です。ちょっとお験 べを願いましょうか。
博士 仰聞 けの記憶は私 にもありますで。しかし、念のために験べまするで。ええ、陸上一切の刑法の記録でありましょうか、それとも。
公子 面倒です、あとはどうでも可 い。ただ女子 を馬に乗せ、槍を立てて引廻したという、そんな事があったかという、それだけです。
博士 正史でなく、小説、浄瑠璃 の中を見ましょうで。時の人情と風俗とは、史書よりもむしろこの方が適当でありますので。(金光燦爛 たる洋綴 の書を展 く。)
公子 (卓子 に腰を掛く)たいそう気の利いた書物ですね。
博士 これは、仏国の大帝奈翁 が、西暦千八百八年、西班牙 遠征の途に上りました時、かねて世界有数の読書家。必要によって当時の図書館長バルビールに命じて製 らせました、函入 新装の、一千巻、一架 の内容は、宗教四十巻、叙事詩四十巻、戯曲四十巻、その他の詩篇六十巻。歴史六十巻、小説百巻、と申しまするデュオデシモ形 と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君 、乙姫様が御工夫を遊ばしました。蓮 の糸、一筋を、およそ枚数千頁に薄く織拡げて、一万枚が一折 、一百二十折を合せて一冊に綴 じましたものでありまして、この国の微妙なる光に展 きますると、森羅万象 、人類をはじめ、動植物、鉱物、一切の元素が、一々 ずつ微細なる活字となって、しかも、各々 五色の輝 を放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、句読 、いずれも個々別々、七彩に照って、かく開きました真白 な枚 の上へ、自然と、染め出さるるのでありまして。
公子 姉上 が、それを。――さぞ、御秘蔵のものでしょう。
博士 御秘蔵ながら、若様の御書物蔵へも、整然 と姫様がお備えつけでありますので。
公子 では、私の所有ですか。
博士 若様はこの冊子と同じものを、瑪瑙 に青貝の蒔絵 の書棚、五百架 、御所有でいらせられまする次第であります。
公子 姉があって幸福 です。どれ、(取って披 く)これは……ただ白紙だね。
博士 は、恐れながら、それぞれの予備の知識がありませんでは、自然のその色彩ある活字は、ペエジの上には写り兼ねるのでございます。
公子 恥入るね。
博士 いやいや、若様は御勇武でいらせられます。入道鰐 、黒鮫 の襲いまする節は、御訓練の黒潮、赤潮騎士、御手の剣 でのうては御退けになりまする次第には参らぬのでありまして。けれども、姉姫様の御心づくし、節々は御閲読 の儀をお勧め申まするので。
僧都 もろともに、お勧め申上げますでござります。
公子 (頷 く)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。
博士 確 に。(書を披く)手近に浄瑠璃にありました。ああ、これにあります。……若様、これは大日本浪華 の町人、大経師以春 の年若き女房、名だたる美女のおさん。手代 茂右衛門 と不義顕 れ、すなわち引廻し礫 になりまする処を、記したのでありまして。
公子 お読み。
博士 (朗読す)――紅蓮 の井戸堀、焦熱 の、地獄のかま塗 よしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の田長 の田がりよし、野辺 より先を見渡せば、過ぎし冬至 の冬枯の、木 の間 木の間にちらちらと、ぬき身の槍 の恐しや、――
公子 (姿見を覗 きつつ、且つ聴きつつ)ああ、いくらか似ている。
博士 ――また冷返 る夕嵐、雪の松原、この世から、かかる苦患 におう亡日 、島田乱れてはらはらはら、顔にはいつもはんげしょう、縛られし手の冷たさは、我身一つの寒の入 、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。……
侍女等、傾聴す。
公子 ただ、いい姿です、美しい形です。世間はそれでその女の罪を責めたと思うのだろうか。
博士 まず、ト見えまするので。
僧都 さようでございます。
公子 馬に騎 った女は、殺されても恋が叶 い、思いが届いて、さぞ本望であろうがね。
僧都 ――袖に氷を結びけり。涙などと、歎き悲しんだようにござります。
公子 それは、その引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭 を掉 る。)博士――まだ他に例があるのですか。
博士 (朗読す)……世の哀 とぞなりにける。今日は神田のくずれ橋に恥をさらし、または四谷、芝、浅草、日本橋に人こぞりて、見るに惜 まぬはなし。これを思うに、かりにも人は悪 き事をせまじきものなり。天これを許したまわぬなり。……
公子 (眉を顰 む。――侍女等斉 しく不審の面色 す。)
博士 ……この女思込みし事なれば、身の窶 るる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて美 わしき風情。……
公子 (色解く。侍女等、眉をひらく。)
博士 中略をいたします。……聞く人一しおいたわしく、その姿を見おくりけるに、限 ある命のうち、入相 の鐘つくころ、品 かわりたる道芝の辺 にして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いずれの道にも煙はのがれず、殊に不便はこれにぞありける。――これで、鈴ヶ森で火刑 に処せられまするまでを、確か江戸中棄札 に槍 を立てて引廻した筈 と心得まするので。
公子 分りました。それはお七という娘でしょう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。どこに当人が歎き悲 みなぞしたのですか。人に惜 まれ可哀 がられて、女それ自身は大満足で、自若 として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵 の杖 、情 の鞭 だ。実際その罪を罰しようとするには、そのまま無事に置いて、平凡に愚図愚図 に生存 らえさせて、皺 だらけの婆 にして、その娘を終らせるが可 いと、私は思う。……分けて、現在、殊にそのお七のごときは、姉上が海へお引取りになった。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かった。姉上は御覧になった。鉄の鎖は手足を繋 いだ、燃草 は夕霜を置残してその肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子 を燃え抜いた。緋の牡丹 が崩れるより、虹 が燃えるより美しかった。恋の火の白熱は、凝 って白玉 となる、その膚 を、氷った雛芥子 の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注いだのだった。そのまま海の底へお引取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅 の珊瑚の中に、結綿 の花を咲かせているのではないか。
男は死ななかった。存命 えて坊主になって老い朽ちた。娘のために、姉上はそれさえお引取りになった。けれども、その魂は、途中で牡 の海月 になった。――時々未練に娘を覗 いて、赤潮に追払われて、醜く、ふらふらと生白 く漾 うて失 する。あわれなものだ。
娘は幸福 ではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼の生命を飾ったのです。抜身 の槍の刑罰が馬の左右に、その誉 を輝かすと同一 に。――博士いかがですか、僧都。
博士 しかし、しかし若様、私 は慎重にお答えをいたしまする。身はこの職にありながら、事実、人間界の心も情も、まだいささかも分らぬのでありまして。若様、唯今 の仰 せは、それは、すべて海の中にのみ留 まりまするが。
公子 (穏和に頷 く)姉上も、以前お分りにならぬと言われた。その上、貴下 がお分りにならなければこれは誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違う。彼を迎える、道中のこの(また姿見を指 す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思う。
僧都 唯今、仰 せ聞けられ承りまする内に、条理 は弁 えず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、ただ、黒潮の抜身 で囲みました段は、別に忌わしい事ではござりませんように、老人にも、その合点参りましてござります。
公子 可 、しかし僧都、ここに蓮華燈籠の意味も分った。が、一つ見馴 れないものが見えるぞ。女が、黒髪と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、あれは何かね。
僧都 はあ。(卓子 に伸上る)はは、いかさま、いや、若様。あれは水晶の数珠 にございます。海に沈みまする覚悟につき、冥土 に参る心得のため、檀那寺 の和尚 が授けましたのでござります。
公子 冥土とは?……それこそ不埒 だ。そして仇光 りがする、あれは……水晶か。
博士 水晶とは申す条、近頃は専ら硝子 を用いますので。
公子 (一笑す)私の恋人ともあろうものが、無ければ可 い。が、硝子 とは何事ですか。金剛石、また真珠の揃うたのが可い。……博士、贈ってしかるべき頸飾 をお検 べ下さい。
博士 畏 りました。
公子 そして指環 の珠の色も怪しい、お前たちどう見たか。
侍女一 近頃は、かんてらの灯の露店 に、紅宝玉 、緑宝玉 と申して、貝を鬻 ぐと承ります。
公子 お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚 に散った、あの貝が宝石か。
侍女二 錦襴 の服を着けて、青い頭巾 を被 りました、立派な玉商人 の売りますものも、擬 が多いそうにございます。
公子 博士、ついでに指環を贈ろう。僧都、すぐに出向うて、遠路であるが、途中、早速、硝子 とその擬 い珠 を取棄てさして下さい。お老寄 に、御苦労ながら。
僧都 (苦笑す)若様には、新夫人 の、まだ、海にお馴 れなさらず、御到着の遅いばかり気になされて、老人が、ここに形を消せば、瞬く間ものう、お姿見の中の御馬の前に映りまする神通 を、お忘れなされて、老寄に苦労などと、心外な御意を蒙りまするわ。
公子 ははは、(無邪気に笑う)失礼をしました。
博士、僧都、一揖 して廻廊より退場す。侍女等慇懃 に見送る。
少し窮屈であったげな。
侍女等親しげに皆その前後に斉眉 き寄る。
性急な私だ。――女を待つ間 の心遣 にしたい。誰か、あの国の歌を知っておらんか。
侍女三 存じております。浪花津 に咲くやこの花冬籠 、今を春へと咲くやこの花。
侍女四 若様、私 も存じております。浅香山を。
公子 いや、そんなのではない。(博士がおきたる書を披 きつつ)女の国の東海道、道中の唄だ。何とか云うのだった。この書はいくらか覚えがないと、文字が見えないのだそうだ。(呟 く)姉上は貴重な、しかし、少しあてっこすりの書をお拵 えになったよ。ああ、何とか云った、東海道の。
侍女五 五十三次のでございましょう、私 が少し存じております。
公子 歌うてみないか。
侍女五 はい。(朗かに優しくあわれに唄う。)
都路は五十路 あまりの三つの宿、……
公子 おお、それだ、字書のように、江戸紫で、都路と標目 が出た。(展 く)あとを。
侍女五 ……時得て咲くや江戸の花、浪静 なる品川や、やがて越来 る川崎の、軒端 ならぶる神奈川は、早や程ヶ谷に程もなく、暮れて戸塚に宿るらむ。紫匂 う藤沢の、野面 に続く平塚も、もとのあわれは大磯 か。蛙 鳴くなる小田原は。……(極悪 げに)……もうあとは忘れました。
公子 可 、ここに緑の活字が、白い雲の枚 に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教えてやろう。この歌で、五十三次の宿を覚えて、お前たち、あの道中双六 というものを遊んでみないか。上 りは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人上って、双六の済む時分、ちょうど、この女は(姿見を見つつ)着くであろう。一番上りのものには、瑪瑙 の莢 に、紅宝玉の実を装 った、あの造りものの吉祥果 を遣 る。絵は直ぐに間に合ぬ。この室 を五十三に割って双六の目に合せて、一人ずつ身体 を進めるが可 かろう。……賽 が要る、持って来い。
(侍女六七、うつむいてともに微笑す)――どうした。
侍女六 姿見をお取寄せ遊ばしました時。
侍女七 二人して盤の双六をしておりましたので、賽は持っておりますのでございます。
公子 おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順になって始めるが可 い。
侍女七 床へ振りましょうでございますか。
公子 心あって招かないのに来た、賽にも魂がある、寄越 せ。(受取る)卓子 の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に従うて順に動くが可 い。さあ、集 れ。
(侍女七人、いそいそと、続いて廻廊のはずれに集り、貴女 は一。私は二。こう口々に楽しげに取定 め、勇みて賽を待つ。)
可 いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人また進む)三は五だ、戸塚へ行 け。
(かくして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乗り、正面突当りなる窓際に進み、他と、間 隔る。公子。これより前 、姿見を見詰めて、賽の目と宿の数を算 え淀 む。……この時、うかとしたる体 に書を落す。)
まだ、誰も上らないか。
(かくして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乗り、正面突当りなる窓際に進み、他と、
まだ、誰も上らないか。
侍女一 やっと一人天竜川まで参りました。
公子 ああ、まだるっこい。賽を二つ一所に振ろうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等 く其方 を凝視す。)
侍女五 きゃっ。(叫ぶ。隙 なし。その姿、窓の外へ裳 を引いて颯 と消ゆ)ああれえ。
侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫 が、鮫が、入道鮫が、と立乱れ騒ぎ狂う。
公子 入道鮫が、何、(窓に衝 と寄る。)
侍女一 ああ、黒鮫が三百ばかり。
侍女二 取巻いて、群りかかって。
侍女三 あれ、入道が口に銜 えた。
公子 外道 、外道、その女を返せ、外道。(叱 しつつ、窓より出でんとす。)
侍女等縋 り留 む。
侍女四 軽々しい、若様。
公子 放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髪が溢 れて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙 が喰入る。ええ、油断した。……骨も筋も断 れような。ああ、手を悶 える、裳 を煽 る。
侍女六 いいえ、若様、私たち御殿の女は、身 は綿よりも柔かです。
侍女七 蓮 の糸を束 ねましたようですから、鰐 の牙が、脊筋と鳩尾 へ噛合 いましても、薄紙一重 透きます内は、血にも肉にも障りません。
侍女三 入道も、一類も、色を漁 るのでございます。生命 はしばらく助りましょう。
侍女四 その中 に、その中に。まあ、お静まり遊ばして。
公子 いや、俺の力は弱いもののためだ。生命 に掛けて取返す。――鎧 を寄越せ。
侍女二人衝 と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、背後 より颯 と肩に投掛く。
公子、上へ引いて、頸 よりつらなりたる兜 を頂く。角 ある毒竜、凄 じき頭 となる。その頭を頂く時に、侍女等、鎧の裾 を捌 く。外套 のごとく背より垂れて、紫の鱗 、金色 の斑点連り輝く。
公子、また袖を取って肩よりして自ら喉 に結ぶ、この結びめ、左右一双の毒竜の爪なり。迅速に一縮す。立直るや否や、剣 を抜いて、頭上に翳 し、ハタと窓外を睨 む。
侍女六人、斉 しくその左右に折敷き、手に手に匕首 を抜連れて晃々 と敵に構う。
公子、上へ引いて、
公子、また袖を取って肩よりして自ら
侍女六人、
外道、退 くな。(凝 と視 て、剣の刃を下に引く)虜 を離した。受取れ。
侍女一 鎧をめしたばっかりで、御威徳を恐れて引きました。
侍女二 長う太く、数百 の鮫のかさなって、蜈蚣 のように見えたのが、ああ、ちりぢりに、ちりぢりに。
侍女三 めだかのように遁 げて行 きます。
公子 おお、ちょうど黒潮等が帰って来た、帰った。
侍女四 ほんに、おつかい帰りの姉さんが、とりこを抱取って下すった。
公子 介抱してやれ。お前たちは出迎え。
侍女三人ずつ、一方は闥 のうちへ。一方は廻廊に退場。
公子、真中 に、すっくと立ち、静かに剣 を納めて、右手 なる白珊瑚 の椅子に凭 る。騎士五人廻廊まで登場。
公子、
騎士一同 (槍 を伏せて、裾 り、同音に呼ぶ)若様。
公子 おお、帰ったか。
騎士一 もっての外な、今ほどは。
公子 何でもない、私は無事だ、皆御苦労だったな。
騎士一同 はッ。
公子 途中まで出向ったろう、僧都はどうしたか。
騎士一 あとの我ら夥間 を率いて、入道鮫を追掛けて参りました。
公子 よい相手だ、戦闘は観 ものであろう。――皆は休むが可 い。
騎士 槍は鞘 に納めますまい、このまま御門を堅めまするわ。
公子 さまでにせずとも大事ない、休め。
騎士等、礼拝して退場。侍女一、登場。
侍女一 御安心遊ばしまし、疵 を受けましたほどでもございません。ただ、酷 く驚きまして。
公子 可愛相 に、よく介抱してやれ。
侍女一 二人が附添っております、(廻廊を見込む)ああ、もう御廊下まで。(公子のさしずにより、姿見に錦の蔽 を掛け、闥 に入 る。)
美女。先達 の女房に、片手、手を曳 かれて登場。姿を粛 に、深く差俯向 き、面影やややつれたれども、さまで悪怯 れざる態度、徐 に廻廊を進みて、床を上段に昇る。昇る時も、裾捌 き静 なり。
侍女三人、燈籠二個 ずつ二人、一つを一人、五個 を提げて附添い出で、一人々々、廻廊の廂 に架 け、そのまま引返す。燈籠を侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女をその上段、紅 き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に礼して、美女に椅子を教う。
侍女三人、燈籠
女房 お掛け遊ばしまし。
美女、据置かるる状 に椅子に掛く。女房はその裳 に跪居 る。
美女、うつむきたるまましばし、皆無言。やがて顔を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据えて瞬 きせず。――間 。
美女、うつむきたるまましばし、皆無言。やがて顔を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据えて
公子 よく見えた。(無造作に、座を立って、卓子 の周囲 に近づき、手を取らんと衝 と腕 を伸ばす。美女、崩るるがごとくに椅子をはずれ、床に伏す。)
女房 どうなさいました、貴女 、どうなさいました。
美女 (声細く、されども判然)はい、……覚悟しては来ましたけれど、余りと言えば、可恐 しゅうございますもの。
女房 (心付く)おお、若様。その鎧 をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのもごもっともでございます。
公子 解いても可 い、(結び目に手を掛け、思慮す)が、解かんでも可 かろう。……最初に見た目はどこまでも附絡 う。(美女に)貴女 、おい、貴女、これを恐れては不可 ん、私はこれあるがために、強い。これあるがために力があり威がある。今も既にこれに因って、めしつかう女の、入道鮫に噛 まれたのを助けたのです。
美女 (やや面 を上ぐ)お召使が鮫の口に、やっぱり、そんな可恐 い処なんでございますか。
公子 はははは、(笑う)貴女、敵のない国が、世界のどこにあるんですか。仇 は至る処に満ちている――ただ一人 の娘を捧ぐ、……海の幸を賜われ――貴女の親は、既に貴女の仇なのではないか。ただその敵に勝てば可 いのだ。私は、この強さ、力、威あるがために勝つ。閨 にただ二人ある時でも私はこれを脱ぐまいと思う。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、仇から、世界から貴女を守護する。弱いもののために強いんです。毒竜の鱗 は絡 い、爪は抱 き、角 は枕してもいささかも貴女の身は傷 けない。ともにこの鎧に包まるる内は、貴女は海の女王なんだ。放縦に大胆に、不羈 、専横 に、心のままにして差支えない。鱗に、爪に、角に、一糸掛けない白身 を抱 かれ包まれて、渡津海 の広さを散歩しても、あえて世に憚 る事はない。誰の目にも触れない。人は指 をせん。時として見るものは、沖のその影を、真珠の光と見る。指 すものは、喜見城 の幻景 に迷うのです。
女の身として、優しいもの、媚 あるもの、従うものに慕われて、それが何の本懐です。私は鱗をもって、角をもって、爪をもって愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思う。(従容 として椅子に戻る。)
美女 (起直り、会釈す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を覆して、ここへ、遠い海の中をお連れなすった、お力。道すがらはまたお使者 で、金剛石のこの襟飾 、宝玉のこの指環、(嬉しげに見ゆ)貴方 の御威徳はよく分りましたのでございます。
公子 津波位 、家来どもが些細 な事を。さあ、そこへお掛け。
女房、介抱して、美女、椅子に直る。
美女 まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。
公子 あれは草です。較 ぶればここのは大樹だ。椅子の丈は陸 の山よりも高い。そうしている貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消残ったようであろう。少しく離れた私の兜 の竜頭 は、城の天守の棟に飾った黄金の鯱 ほどに見えようと思う。
美女 あの、人の目に、それが、貴方?
公子 譬喩 です、人間の目には何にも見えん。
美女 ああ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、ここに、見ますれば私が裳 を曳 きます床も、琅 の一枚石。こうした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情 のう存じます。
公子 いや、そんなに謙遜をするには当らん。陸 には名山、佳水 がある。峻岳 、大河がある。
美女 でも、こんな御殿はないのです。
公子 あるのを知らないのです。海底の琅の宮殿に、宝蔵の珠玉金銀が、虹 に透いて見えるのに、更科 の秋の月、錦 を染めた木曾の山々は劣りはしない。……峰には、その錦葉 を織る竜田姫 がおいでなんだ。人間は知らんのか、知っても知らないふりをするのだろう。知らない振 をして見ないんだろう。――陸 は尊い、景色は得難い。今も、道中双六 をして遊ぶのに、五十三次の一枚絵さえ手許 にはなかったのだ。絵も貴 い。
美女 あんな事をおっしゃって、絵には活 きたものは住んでおりませんではありませんか。
公子 いや、住居 をしている。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振 をしているんだから、決して人間の凡 てを貴いとは言わない、美 いとは言わない。ただ陸 は貴い。けれども、我が海は、この水は、一畝 りの波を起して、その陸を浸す事が出来るんだ。ただ貴く、美 いものは亡 びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦 を亡 ぼして、ここへ迎え取ったのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎え入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜 ばねば不可 い、嬉しがらなければならない、悲しんではなりません。
女房 貴女、おっしゃる通りでございます。途中でも私 が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎 きなさいます事はありません。
美女 いいえ、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。ただ歎きますもの、悲しみますものに、私の、この容子 を見せてやりたいと思うのです。
女房 人間の目には見えません。
美女 故郷 の人たちには。
公子 見えるものか。
美女 (やや意気ぐむ)あの、私の親には。
公子 貴女は見えると思うのか。
美女 こうして、活 きておりますもの。
公子 (屹 としたる音調)無論、活きている。しかし、船から沈む時、ここへ来るにどういう決心をしたのですか。
美女 それは死ぬ事と思いました。故郷 の人も皆そう思って、分けて親は歎き悲しみました。
公子 貴女の親は悲しむ事は少しもなかろう。はじめからそのつもりで、約束の財を得た。しかも満足だと云った。その代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。
美女 けれども、父娘 の情愛でございます。
公子 勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。(頭 を掉 る)が、まあ、情愛としておく、それで。
美女 父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚 の砂に、父の倒伏 しました処は、あの、ちょうど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました処なのです。そして、後 の歎 は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だったでございましょう。
公子 じゃ、その枝珊瑚を波に返して、約束を戻せば可 かった。
美女 いいえ、ですが、もう、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、家蔵 に代っていたのでございます。
公子 可 、その金銀を散らし、施し、棄て、蔵を毀 ち、家を焼いて、もとの破蓑 一領、網一具の漁民となって、娘の命乞 をすれば可かった。
美女 それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のような黒い人が、夜ごと夜ごと天井を覗 き、屏風 を見越し、壁襖 に立って、責めわたり、催促をなさいます。今更、家蔵に替えましたッて、とそう思ったのでございます。
公子 貴女の父は、もとの貧民になり下るから娘を許して下さい、と、その海坊主に掛合 ってみたのですか。みはしなかろう。そして、貴女を船に送出す時、磯 に倒れて悲しもうが、新しい白壁、艶 ある甍 を、山際の月に照らさして、夥多 の奴婢 に取巻かせて、近頃呼入れた、若い妾 に介抱されていたではないのか。なぜ、それが情愛なんです。
美女 はい。……(恥じて首低 る。)
公子 貴女を責 るのではない。よしそれが人間の情愛なれば情愛で可 い、私とは何の係わりもないから。ちっとも構わん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな故郷 を思うて、歎いては不可 ん。悲しんでは不可んと云うのです。
美女 貴方。(向直る。声に力を帯ぶ)私は始めから、決して歎いてはいないのです。父は悲しみました。浦人 は可哀 がりました。ですが私は――約束に応じて宝を与え、その約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乗っても沈みはしまい。もし事実として、浪に引入るるものがあれば、それは生 あるもの、形あるもの、云うまでもありません、心あり魂あり、声あるものに違いない。その上、威があり力があり、栄 と光とあるものに違いないと思いました。ですから、人はそうして歎いても、私は小船で流されますのを、さまで、慌騒 ぎも、泣悲しみも、落着過ぎもしなかったんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命 はあるんですもの。覆す手があれば、それは活 きている手なんです。その手に縋 って、海の中に活きられると思ったのです。
公子 (聞きつつ莞爾 とす)やあ、(女房に)……この女は豪 いぞ! はじめから歎いておらん、慰め賺 す要はない。私はしおらしい。あわれな花を手活 にしてながめようと思った。違う! これは楽 く歌う鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。
手を挙ぐ。たちまち闥 開けて、三人の侍女、二罎 の酒と、白金の皿に一対の玉盞 を捧げて出づ。女房盞を取って、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を両方に注 ぐ。
女房 めし上りまし。
美女 (辞宜 す)私は、ちっとも。
公子 (品よく盞を含みながら)貴女、少しも辛うない。
女房 貴女の薄紅 なは桃の露、あちらは菊花の雫 です。お国では御存じありませんか。海には最上の飲料 です。お気が清 しくなります、召あがれ。
美女 あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽 うて、うつむき飲む)は。(と小 き呼吸 す)何という涼しい、爽 やいだ――蘇生 ったような気がします。
公子 蘇生ったのではないでしょう。更に新しい生命 を得たんだ。
美女 嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私がこうして活 きていますのを、見せてやりとう存じます。
公子 別に見せる要はありますまい。
美女 でも、人は私が死んだと思っております。
公子 勝手に思わせておいて可 いではないか。
美女 ですけれども、ですけれども。
公子 その情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。
美女 ええ、父をはじめ、浦のもの、それから皆 に知らせなければ残念です。
公子 (卓子 に胸を凭出 す)帰りたいか、故郷へ。
美女 いいえ、この宮殿、この宝玉、この指環、この酒、この栄華、私は故郷へなぞ帰りたくはないのです。
公子 では、何が知らせたいのです。
美女 だって、貴方、人に知られないで活きているのは、活きているのじゃないんですもの。
公子 (色はじめて鬱 す)むむ。
美女 (微酔の瞼 花やかに)誰も知らない命は、生命 ではありません。この宝玉も、この指環も、人が見ないでは、ちっとも価値 がないのです。
公子 それは不可 ん。(卓子 を軽く打って立つ)貴女は栄燿 が見せびらかしたいんだな。そりゃ不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値 をつけさせて、それに従うべきものじゃない。(近寄る)人は自分で活きれば可 い、生命 を保てば可い。しかも愛するものとともに活きれば、少しも不足はなかろうと思う。宝玉とてもその通り、手箱にこれを蔵すれば、宝玉そのものだけの価値を保つ。人に与うる時、十倍の光を放つ。ただ、人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる。
美女 ええ、ですから……来るお庭にも敷詰めてありました、あの宝玉一つも、この上お許し下さいますなら、きっと慈善に施して参ります。
公子 ここに、用意の宝蔵がある。皆、貴女のものです。施すは可 い。が、人知れずでなければ出来ない、貴女の名を顕 し、姿を見せては施すことはならないんです。
美女 それでは何にもなりません。何の効 もありません。
公子 (色やや嶮 し)随分、勝手を云う。が、貴女の美しさに免じて許す。歌う鳥が囀 るんだ、雲雀 は星を凌 ぐ。星は蹴落 さない。声が可愛らしいからなんです。(女房に)おい、注 げ。
女房酌す。
美女 (怯 れたる内端 な態度)もうもう、決して、虚飾 、栄燿 を見せようとは思いません。あの、ただ活きている事だけを知らせとう存じます。
公子 (冷 かに)止 したが可 かろう。
美女 いいえ、唯今 も申します通り、故郷 へ帰って、そこに留 まります気は露ほどもないのです。ちょっとお許しを受けまして生命 のあります事だけを。
公子、無言にして頭 掉 る。美女、縋 るがごとくす。
あの、お許しは下さいませんか。ちっとの外出 もなりませんか。
公子 (爽 に)獄屋ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、僅少 の憂 あり、不平あるものさえ一日も一個 たりとも国に置かない。が、貴女には既に心を許して、秘蔵の酒を飲ませた。海の果 、陸の終 、思って行 かれない処はない。故郷 ごときはただ一飛 、瞬 きをする間 に行 かれる。(愍 むごとくしみじみと顔を視 る)が、気の毒です。
貴女にその驕 と、虚飾 の心さえなかったら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だった。貴女、これ。
(美女顔を上ぐ。その肩に手を掛く)ここに来た、貴女はもう人間ではない。
美女 ええ。(驚く。)
公子 蛇身になった、美しい蛇 になったんだ。
美女、瞳を る。
その貴女の身に輝く、宝玉も、指環も、紅 、紫の鱗 の光と、人間の目に輝くのみです。
美女 あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つつ、わななき震う。雪の指尖 、思わず鬢 を取って衝 と立ちつつ)いいえ、いいえ、いいえ。どこも蛇にはなりません。一 、一枚も鱗はない。
公子 一枚も鱗はない、無論どこも蛇 にはならない。貴女は美しい女です。けれども、人間の眼 だ。人の見る目だ。故郷に姿を顕 す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全国の、貴女を見る目は、誰も残らず大蛇と見る。ものを云う声はただ、炎の舌が閃 く。吐 く息は煙を渦巻く。悲歎の涙は、硫黄 を流して草を爛 らす。長い袖は、腥 い風を起して樹を枯らす。悶 ゆる膚 は鱗を鳴 してのたうち蜿 る。ふと、肉身のものの目に、その丈より長い黒髪の、三筋、五筋、筋を透 して、大蛇の背に黒く引くのを見る、それがなごりと思うが可 い。
美女 (髪みだるるまでかぶりを掉 る)嘘です、嘘です。人を呪 って、人を詛 って、貴方こそ、その毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇体になろう筈 がない。遣 って下さい。故郷 へ帰して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない私の身が験 したい。遣って下さい。故郷 へ帰して下さい。
公子 大自在の国だ。勝手に行 くが可 い、そして試すが可 かろう。
美女 どこに、故郷 の浦は……どこに。
女房 あれあすこに。(廻廊の燈籠を指 す。)
美女 おお、(身震 す)船の沈んだ浦が見える。(飜然 と飛ぶ。……乱るる紅 、炎のごとく、トンと床を下りるや、颯 と廻廊を突切 る。途端に、五個の燈籠斉 しく消ゆ。廻廊暗し。美女、その暗中に消ゆ一舞台の上段のみ、やや明 く残る。)
公子 おい、その姿見の蔽 を取れ。陸 を見よう。
女房 困った御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞台暗くなる。――やがて明 くなる時、花やかに侍女皆あり。)
公子。椅子に凭 る。――その足許 に、美女倒れ伏す――疾 く既に帰り来 れる趣。髪すべて乱れ、袂 裂け帯崩る。
公子 (玉盞 を含みつつ悠然として)故郷はどうでした。……どうした、私が云った通 だろう。貴女の父の少 い妾 は、貴女のその恐しい蛇の姿を見て気絶した。貴女の父は、下男とともに、鉄砲をもってその蛇を狙ったではありませんか。渠等 は第一、私を見てさえ蛇体だと思う。人間の目はそういうものだ。そんな処に用はあるまい。泣いていては不可 ん。
美女悲泣 す。
不可ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰 む。)
女房 (背を擦 る)若様は、歎悲 むのがお嫌 です。御性急でいらっしゃいますから、御機嫌に障ると悪い。ここは、楽しむ処、歌う処、舞う処、喜び、遊ぶ処ですよ。
美女 ええ、貴女方は楽 いでしょう、嬉しいでしょう、お舞いなさい、お唄いなさい、私、私は泣死 に死ぬんです。
公子 死ぬまで泣かれて堪 るものか。あんな故郷 に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。ここには悲哀のあることを許さんぞ。
美女 お許しなくば、どうなりと。ええ、故郷 の事も、私の身体 も、皆 、貴方の魔法です。
公子 どこまで疑う。(忿怒 の形相)お前を蛇体と思うのは、人間の目だと云うに。俺 の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。
美女 ええ、ええ、お殺しなさいまし。活 きられる身体 ではないのです。
公子 (憤然として立つ)黒潮等は居 らんか。この女を処置しろ。
言下に、床板を跳ね、その穴より黒潮騎士 、大錨 をかついで顕 る。騎士二三、続いて飛出づ。美女を引立て、一の騎士が倒 に押立てたる錨に縛 む。錨の刃越 に、黒髪の乱るるを掻掴 んで、押仰向 かす。長槍 の刃、鋭くその頤 に臨む。
女房 ああ、若様。
公子 止めるのか。
女房 お床が血に汚れはいたしませんか。
公子 美しい女だ。花を るも同じ事よ、花片 と蕊 と、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に蔵 っておこう。――殺せ。(騎士、槍を取直す。)
美女 貴方、こんな悪魚の牙 は可厭 です。御卑怯 な。見ていないで、御自分でお殺しなさいまし。
(公子、頷 き、無言にてつかつかと寄り、猶予 わず剣 を抜き、颯 と目に翳 し、衝 と引いて斜 に構う。面 を見合す。)
ああ、貴方。私を斬 る、私を殺す、その、顔のお綺麗さ、気高さ、美しさ、目の清 しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可 さ。もう、故郷も何も忘れました。早く殺して。ああ、嬉しい。(莞爾 する。)
公子 解け。
騎士等、美女を助けて、片隅に退 く。公子、剣 を提 げたるまま、
こちらへおいで。(美女、手を曳 かる。ともに床に上 る。公子剣を軽く取る。)終生を盟 おう。手を出せ。(手首を取って刃を腕 に引く、一線の紅血 、玉盞 に滴る。公子返す切尖 に自から腕を引く、紫の血、玉盞に滴る。)飲め、呑もう。
あれ見い、血を取かわして飲んだと思うと、お前の故郷 の、浦の磯 に、岩に、紫と紅 の花が咲いた。それとも、星か。
(一同打見る。)
あれは何だ。
(一同打見る。)
あれは何だ。
美女 見覚えました花ですが、私はもう忘れました。
公子 (書を見つつ)博士、博士。
博士 (登場)……お召。
公子 (指 す)あの花は何ですか。(書を渡さんとす。)
博士 存じております。竜胆 と撫子 でございます。新夫人 の、お心が通いまして、折からの霜に、一際色が冴 えました。若様と奥様の血の俤 でございます。
公子 人間にそれが分るか。
博士 心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございましょう。
公子 お前、私の悪意ある呪詛 でないのが知れたろう。
美女 (うなだる)お見棄 のう、幾久しく。
一同 ――万歳を申上げます。――
公子 皆、休息をなさい。(一同退場。)
公子、美女と手を携えて一歩す。美しき花降る。二歩す、フト立停 まる。三歩を動かす時、音楽聞ゆ。
美女 一歩 に花が降り、二歩 には微妙の薫 、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞えます。ここは極楽でございますか。
公子 ははは、そんな処と一所にされて堪 るものか。おい、女の行 く極楽に男は居らんぞ。(鎧 の結目 を解きかけて、音楽につれて徐 ろに、やや、ななめに立ちつつ、その竜の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に仄 に見ゆ)男の行く極楽に女は居ない。
――幕――
大正二(一九一三)年十二月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十六卷」岩波書店
1942(昭和17)年10月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2006年9月21日作成
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