みさごの鮨

泉鏡花




       一

旦那だんなさん、旦那さん。」
 目と鼻のさきに居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、ついはしの手をとめた痩形やせがたの、年配で――浴衣に貸広袖かしどてらを重ねたが――人品のいい客が、
「ああ、何だい。」
「どうだね、おいしいかね。」
 と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。
 客は余り唐突だしぬけなのに驚いたようだった。――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅籠はたごでも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪突ちょとつな質問を受けた事はかつてない。
 ところで決して不味まずくはないから、
「ああ、おいしいよ。」
 と言ってまたはしを付けた。
「そりゃい、北国ほっこく一だろ。」
 と洒落しゃれでもないようで、納まった真顔である。
「むむ、……まあ、そうでもないがね。」
 と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮健じょうぶそうで、口許くちもとのしまったはいが、その唇の少しとがった処が、化損ばけそこなった狐のようで、しかし不気味でなくて愛嬌あいきょうがある。手織縞ておりじまのごつごつした布子ぬのこに、よれよれの半襟で、唐縮緬とうちりめんの帯を不状ぶざまに鳩胸に高くしめて、髪はつい通りの束髪に結っている。
 これをあらためて見て客は気がついた。先刻さっきも一度その(北国一)を大声でとなえて、裾短すそみじかすねを太く、しりを振って、ひょいと踊るように次のの入口を隔てた古い金屏風きんびょうぶの陰へ飛出して行ったのがこの女中らしい。
 ところでその金屏風の絵が、極彩色の狩野かのう何某なにがし在銘で、玄宗皇帝が同じ榻子いすに、楊貴妃ようきひともたれ合って、笛を吹いている処だから余程よっぽど可笑おかしい。
 それは次のような場合であった。
 客が、加賀国山代やましろ温泉のこの近江屋おうみやへ着いたのは、当日ひる少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、柔和やわらかなちっとも気取きどりっけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手もみでをしながら、御逗留ごとうりゅうか、それともちょっと御入浴で、といた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰をかがめつつかしこまって、どうぞこれへと、自分で荷物をさばいて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次のが二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと不行届ふゆきとどきの儀は御容赦下さいまして、まず御緩ごゆっくりと……と丁寧に挨拶あいさつをして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。
 実は小春日こはるびあかるい街道から、と入ったのでは、人顔も容子ようすも何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた絨毯じゅうたんの模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の三幅対さんぷくついも、濃い霧の中に、山がはるかに、船もあり、朦朧もうろうとして小さな仙人の影がすばかりで、何の景色だか、これはあかりいても判然はっきり分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠いしどうろうに、こけ真蒼まっさおなさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、さっと渡る風に静寂な水のひびきを流す。庭の正面がすぐに切立きったての崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細くうねり蜿り自然の大巌おおいわを削ったこみちが通じて、高くこずえあがった処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下がかけはしのようにのぞかれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒鳥こまどりさえずるような、芸妓げいしゃらしい女の声がしたのであったが――
 入交いれかわって、歯を染めた、陰気な大年増が襖際ふすまぎわへ来て、瓶掛びんかけに炭を継いで、茶道具を揃えて銀瓶を掛けた。そこが水屋のように出来ていて、それから大廊下へ出入口に立てたのがくだんの金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃で、銀瓶はいけれども。……次にまた浴衣に広袖どてらをかさねて持って出たおんなは、と見ると、あから顔で、太々だいだいとした乳母おんばどんで、大縞のねんね子半纏ばんてんで四つぐらいな男のおぶったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から小児こどもの顔を客の方へ揉出もみだして、それ、小父おじさんに(今日は)をなさいと、顔と一所に引傾ひっかたげた。
 学士が驚いた――客は京の某大学の仏語ふつごの教授で、さかき三吉と云う学者なのだが、無心の小児に向っては、盗賊もあやすと言う……教授でも学者でも同じ事で、これには莞爾々々にこにことして、はい、今日は、と言った。この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものがあらわれるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。
 昼飯ひるの支度は、この乳母うばどのにあつらえて、それから浴室へ下りて一浴ひとあみした。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを、真昼間まっぴるま夜討ようちのように働く。……ちょうな、のこぎり鉄鎚かなづちにぎやかな音。――また遠く離れて、トントントントンとまないたを打つのが、ひっそりと聞えてこだまする……と御馳走ごちそうつぐみをたたくな、とさもしい話だが、四高(金沢)にしばらく居たことがあって、土地の時のものに予備知識のある学者だから、内々御馳走を期待しながら、門から敷石を細長く引込んだもとの大玄関を横に抜けて、広廊下を渡ると、一段ぐっと高く上る。座敷の入口に、いかにも(上段の間)と札に記してある。で、金屏風の背後うしろから謹んで座敷へ帰ったが、上段のの客にはちと不釣合な形に、脇息きょうそくを横倒しに枕して、ごろんとながくなると、瓶掛の火が、もみじをいたようにかッと赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕もとに松籟しょうらいをきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと、昼飯ひるぜんに、一銚子ひとちょうし添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで起上たちあがった。
 どこを探しても呼鈴よびりんが見当らない。
 二三度手をたたいてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が大分だいぶに遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。
「これは驚いた。」
 更に応ずるものがなかったのである。
 一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。
 何か、きのこに酔った坊さんが、山奥から里へ迷出たといった形で、手をたたき、たたき、例の玄関の処へ出て、これなら聞えようと、また手を敲こうとする足許あしもとへ、衝立ついたての陰から、ちょろりと出たのは、今しがた乳母どのにおぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て莞爾々々にこにこする。
 どうも、この鼻尖はなさきで、ポンポンはおだやかでない。
 仕方なしに、笑って見せて、悄々すごすごと座敷へ戻って、
「あきらめろ。」
 で、所在なさに、金屏風の前へかしこまって、吸子きゅうすに銀瓶の湯をいで、茶でも一杯と思った時、あの小児こどもにしてはと思う、おおき跫足あしおとが響いたので、顔を出して、むこうを見ると、小児と一所に、玄関前で、ひょいひょい跳ねている女があった。
「おおい、姉さん、姉さん。」
 どかどかどかと来て、
「旦那さんか、呼んだか。」
「ああ、呼んだよ。」
 と息をいて、
「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。」
「あれ。」
 と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、
「こんなでけい内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。」
「どこにある。」
「そら、そこにあるがね、見えねえかね。」
 と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、突立状つったちざまゆびさしたのは、床の間わきの、※(「木+靈」、第3水準1-86-29)れんじに据えた黒檀こくたんの机の上の立派な卓上電話であった。
「ああ、それかい。」
「これだあね。」
「私はまたほんとうの電話かと思っていた。」
「おお。」
 と目を円くして、きょろりとて、
「ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。」
「いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。」
「立派な仕掛しかけだろがねえ。」
「立派な仕掛だ。」
「北国一だろ。」
 ――それ、そこで言って、ひょいひょい浮足うきあしで出てく処を、背後うしろから呼んで、一銚子を誂えた。
いのを頼むよ。」
 と追掛けに言うと、
「分った、分った。」
 と振り向いて合点がってん々々をして、
「北国一。」
 と屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。――その北国一を、ここでまた聞いたのであった。

       二

「まあ、御飯をかえなさいよ。」
「ああ……御飯もいまかえようが……」
 さて客は、いまので話の口がほどけたと思うらしい面色おももちして、中休みに猪口ちょくの酒を一口した。……
「……ねえさん、ここの前を右へ出て、おおきな絵はがき屋だの、小料理屋だの、にぎやかな処を通り抜けると、旧街道のようで、町家まちやの揃った処がある。あれはどこへく道だね。」
「それはね、旦那さん、那谷なやから片山津かたやまづの方へ行く道だよ。」
「そうか――そこの中ほどに、さきが古道具屋と、手前が桐油とうゆ菅笠屋すげがさやの間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何と言ううちだい。」
白粉おしろいや香水も売っていて、鑵詰かんづめだの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。」
「全くだ、陰気な内だ。」
 と言って客は考えた。
「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけども。」
 と給仕盆をまりのように、とんとんと膝をゆすって、
治兵衛じへえ坊主ぼうずの家ですだよ。」
串戯じょうだんではない。紙屋で治兵衛は洒落ではないのか。」
「何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主できと分るよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を。」

 客は、これよりさき、ちょっと買ものに出たのであった。――実は旅の事欠けに、半紙に不自由をしたので、帳場へ通じて取寄せようか、買いにろうかとも思ったが、かたのごとき大まかさの、のんびりさの旅館であるから、北国一の電話で、呼寄せていいつけて、買いに遣って取寄せるひまに、自分で買って来る方が手取早てっとりばやい。……膳の来るにも間があろう。そう思ったので帽子もかぶらないで、だんまりで、ふいと出た。
 直き町の角の煙草屋たばこやも見たし、絵葉がき屋ものぞいたが、どうもその類のものが見当らない。小半町き、一町行き……山の温泉いでゆの町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見附けたのが、その陰気な雑貨店であった。浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上包うわづつみの色もせたが、ともしく重ねた半紙は戸棚の中に白かった。「御免なさいよ、今日は、」と二三度声を掛けたが返事をしない。しかしこんな事は、金沢の目貫めぬきの町の商店でも、経験のある人だから、気短きみじかにそのままにしないで、「誰か居ませんか、」と、もう一度呼ぶと、「はい、」とその時、なまめかしい優しい声がして、「はい、」と、すぐに重ね返事が、どうやらいきおいがなく、弱々しく聞えたと思うと、挙動こなしは早くつまを軽く急いだが、すそをはらりと、長襦袢ながじゅばんえんなのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向うつむけるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖がしおれて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔を背けたまま、「はい、何を差上げます。」と言う声が沈んで、泣いていたらしい片一方の目を、俯向けに、紅入べにいり友染ゆうぜんの裏が浅葱あさぎの袖口で、ひったりおさえた。
 中脊で、もの柔かな女の、ふっさり結った島田がもつれて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、もの可哀あわれで気の毒であった。が、用を言うと、「はい、」と背後うしろむきに、戸棚へ立った時は、目を圧えた手を離して、すらりとなったが、半紙を抽出ひきだして、立返る頭髪かみおもそうに褄さきの運びとともに、またうなだれて、堪兼ねた涙が、白く咲いた山茶花さざんかに霜の白粉おしろいの溶けるばかり、はらはらと落つるのを、うっかり紙にうけて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔をかくすと、なお濡れた。
 うっかり渡そうとして、「まあ、」と気づいたらしく、「あれ、取換えますから、」――「いや、よろしい。……」
 懐中ふところへ取って、ずっと出た。が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、このたもとに受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、白い山茶花のその花片はなびらに、日の片あたりが淡くさすように、目がはれぼったく、殊に圧えた方のまぶたの赤かったのは、煩らっているのかも知れない。あるいは急にほこりなどが飛込んだ場合で、その痛みに泣いていたのかも分らない。――そうでなくて、いかに悲痛な折からでも、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほど涙を流すのはちと情に過ぎる。大方は目の煩いだろう。
 トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽あきだる、漬ものおけなどがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨をたたくのと同一であった。
「――涙もこれだ。」
 と教授は思わず苦笑して、
「しかし、その方が僥倖しあわせだ。……」
 今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「おなかが空いたろがね。」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢よく引抱ひっかかえた黒塗くろぬり飯櫃めしびつを、客の膝の前へストンと置くと、一歩ひとあしすさったままで、突立つったって、じっと顔を瞰下みおろすから、この時も吃驚びっくりした目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、「給仕をするかね、」と言ったのである。
 教授はあきらめて落着いて、
「おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。」
「あッそうだ。」
 と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。
「腹が空いたろで、早くおまんまを食わせようと思うたでね。いたわいな、旦那さん。」
 と、そのまま跳廻はねまわったかと思うと。
「北国一だ。」
 と投げるようにけ出した。
 酒は手酌が習慣くせだと言って、やっと御免をこうむったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、しずかに、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
 話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
 
「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」
 と言継いで、
彼家あそこに、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。」
「北国一だ。あはははは。」
 と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」
 また大声で、
押惚おっぽれたか。旦那さん。」
「驚かしなさんな。」
吃驚びっくりしただろ、あの、別嬪べっぴんに。……それだよ、それが小春こはるさんだ。この土地の芸妓げいしゃでね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」
「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」
「若い人だ、きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」
「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」
「何、旦那さん、癇癪持かんしゃくもちの、嫉妬やきもちやきで、ほうずもねえ逆気性のぼせしょうでね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」
「何?……」
「隠元豆、田螺たにしさあね。」
「分らない。」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」
「乱暴だなあ。」
「この山代の湯ぐらいではらちあかねえさ。脚気かっけ山中やまなか、かさ粟津あわづの湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体からだ掻毟かきむしって、目が引釣ひッつり上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子かねも、店も田地までも打込ぶちこんでね。一時いっときは、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。」
 ――初女房ういにょうぼう、花嫁ぶりの商いはこれで分った――
「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱えぬしの方で承知しねえだよ。ったんだの挙句が、小春さんはまたつまを取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、がふけてでも見なさいよ、いらいらして、逆気上のぼせあがって、痛痒いたがゆい処を引掻ひっかいたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだをんで喰噛くいかじるだよ。血は上ずっても、しょうは陰気で、ちり蓮華れんげの長い顔があおしょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲るだ。のぼせて、頭ばっかり赫々かッかッと、するもんだで、小春さんのいい人で、色男がるくせに、頭髪かみのけさ、すべりと一分刈にしている処で、治兵衛坊主、坊主治兵衛だ、なあ、旦那。」
 かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。たもとに包んだ半紙のしずくは、まさに山茶花さざんかの露である。
「旦那さん、何を考えていなさるだね。」

       三

「そうか――先刻さっき、買ものに寄った時、その芸妓げいしゃは泣いていたよ。」
「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、気立きだての優しいおだから、内証ないしょで逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛のばばも、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一日いちんち二日ふつか講中こうじゅうで出入りがやがやしておるで、そのひまそっと逢いに行ったでしょ。」
「お安くないのだな。」
「何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。」
「同じ事を……いとしい方にしておくがいい。」
 と客は、しめやかに言った。
いやな事だ。」
「大層嫌うな。……その執拗しつこい、嫉妬しっとぶかいのに、口説くどかれたらお前はどうする。」
「横びんたりこくるだ。」
「これは驚いた。」
「北国一だ。山代のともえ板額はんがくだよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。」
「偉い!……そのいきおいで、小春の味方をしておやり。」
「ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……」
「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」
 肩を振って、ねたように、
「要らねえよ。――うちこんなもの。……旦那さん。――旅行たびさきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……」
 と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客をて、
「旦那さん、いつ帰るかね。」
「いや、深切しんせつ難有ありがたいが、いま来たばかりのものに、いつ出程たつかは少しひどかろう。」
「それでも、先刻さっき来た時に、一晩どまりだと言ったでねえかね。」
「まったくだ、明日は山中やまなかへ行くつもりだ。忙しい観光団さ。」
ゆっくり居なさればいに――では、またじきに来なさいよ。」
 と、真顔で言った。
 客はそのことばに感じたように、
「勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。」
「あれ、何でえ?……」
「お嫁に行くから。」
 したたかかぶりって、
「ううむ、行かねえ。」
「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。」
「馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。」
「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿むこさんにしてくれれば。……」
「するともさ。」
「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」
「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、御飯おまんまを食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。」
勿体もったいないくらい、結構だな。」
「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。」
「ほんとかい。」
「それだがね、旦那さん。」
「御覧、それ、すぐに変替へんがえだ。」
「ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段のでは遣切やりきれねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が内証ないしょでどうともするだよ。」
 客は赤黒く、口のとがった、にきびでふとった顔を見つつ、
「姐さん、名は何と言う。」
 と笑って聞いた。
「ふ、ふ、ふ。」と首を振っている。
「何と言うよ。」
きなさい、そんな事。」
 と耳朶みみたぼまで真赤まっかにした。
「よ、ほんとに何と言うよ。」
「お光だ。」
 と、飯櫃めしびつに太い両手を突張つっぱって、ぴょいと尻を持立もったてる。遁構にげがまえでいるのである。
「お光さんか、年紀としは。」
「知らない。」
「まあ、幾歳いくつだい。」
「顔だ。」
「何、」
「私の顔だよ、猿だてば。」
「すると、幾歳だっけな。」
「桃栗三年、三歳みッつだよ、ははは。」
 と笑いながら駈出かけだした。この顔が――くどいようだが――楊貴妃の上へ押並んで振向いて、
二十はたちだ……いたちだ……べべべべ、べい――」

       四

 ここに、第九師団衛戍えいじゅ病院の白い分院がある。――薬師寺、万松園まんしょうえん春日山かすがやまなどと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。御覧なさい。
 病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。
 この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう温泉いでゆの町も場末のはずれで、道が一坂小だかくなって、三方は見通しの原で、東に一帯の薬師山の下が、幅の広いなわてになる。桂谷かつらだにと言うのへ通ずる街道である。病院の背後をしきって、蜿々うねうねと続いた松まじりの雑木山は、畠を隔てたばかり目のさきに近いから、遠い山も、けわしいみねも遮られる。ために景色が穏かで、空も優しい。真綿のように処々白い雲をいたおっとりとした青空で、ややななめな陽が、どことなく立渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝いて、光は弱いが、まともに照らされては、のぼせるほどの暖かさ。が、陰の袖は、そぞろに冷い。
 その近山ちかやますそは半ば陰ったが、病院とは向う合せに、この畷から少し低く、くだりめになって、陽の一杯に当る枯草のみちが、ちょろちょろとついて、そのこみちと、畷の交叉点こうさてんがゆるく三角になって、十坪ばかりの畑が一枚。見霽みはらしの野山の中に一つある。一方が広々とした刈田かりたとの境に、垣根もあったらしいが、竹も塀もこわれごわれで、朽ちたくいばかり一本、せめて案山子かかしにでも化けたそうに灰色に残って、尾花が、ぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、あ、あ、長閑のどか欠伸あくびでも出そうに、その杭にもたれている。わらが散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたりさかんに植える、杓子菜しゃくしなと云って、株の白い処が似ているから、蓮華菜れんげなとも言うのを、もう散々に引棄てたあとへ、陽気があたたかだから、乾いた土の、ほかほかともりあがった処へ、細く青く芽をふいた。
 畑の裾は、町裏の、ごみごみした町家まちや、農家が入乱れて、樹立こだちがくれに、小流こながれを包んで、ずっと遠く続いたのは、山中みちで、そこは雲の加減で、陽が薄赤くさっす。
 色も空も一淀ひとよどみする、この日溜ひだまりの三角畑の上ばかり、雲の瀬にべにの葉がしがらむように、夥多おびただしく赤蜻蛉あかとんぼが群れていた。――出会ったり、別れたり、上下うえしたにスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……遊びもたけなわに、恍惚うっとりしたらしく、夢を※(「彳+尚」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまようように、ふわふわと浮きつ、沈みつ、ただよいつ。で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。
 日南ひなたにじの姫たちである。
 風情に見愡みとれて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背にめぐらしつつたたずんでいるのであった。
 四辺あたり長閑のどかさ。しかししずかな事は――昼飯をすませてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ歩行あるきでぶらりと出て、温泉いでゆくるわを一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。両側の商店が、やがて片側になって、なまめかしい、べにがら格子ごうしを五六軒見たあとは、細流せせらぎが流れて、薬師山を一方に、呉羽神社くれはじんじゃの大鳥居前を過ぎたあたりから、往来ゆきかう人も、来る人も、なくなって、古ぼけた酒店さかみせの杉葉のもとに、茶と黒と、まりの伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳をんだり、ちょいと鼻づらをひっかき合ったり。……これを見ると、うらやましいか、おけの蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小狗こいぬは出て来ても、村の閑寂間しじまか、棒切ぼうきれ持った小児こどもも居ない。
 で、ここへ来た時……前途むこう山の下から、頬被ほおかぶりした脊の高い草鞋わらじばきの親仁おやじが、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの一升罎いっしょうびんをぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香をぷんとさせて、蛇の茣蓙ござとなうる、裏白の葉をうずたかった大籠おおかご背負しょったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろつきも、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得たほこりを示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、なまずのような、小鮒こぶなのような、頭のおおきたけがびちびち跳ねていそうなのが、温泉いでゆの町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。
 客は、ひなたの赤蜻蛉に見愡みとれた瞳を、ふと、畑際はたぎわの尾花に映すと、蔭の片袖が悚然ぞっとした。一度、しかとしめてこまぬいた腕をほどいて、やや震える手さきを、小鬢こびんそっと触れると、喟然きぜんとしておもてを暗うしたのであった。
 日南ひなたに霜が散ったように、鬢にちらちらと白毛しらがが見える。その時、赤蜻蛉の色の真紅まっかなのが忘れたようにスッと下りて、尾花のもとに、杭のさきとまった。……一度伏せた羽を、と張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと此方こなたへ振動かした。
 小狗のたわむれにも可懐なつかしんだ。幼心おさなごころに返ったのである。
 教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真黒まっくろな厚いおおき外套がいとうの、背腰を屁びりにかがめて、及腰およびごしに右の片手をのばしつつ、そっねらって寄った。が、どうしてどうして、小児こどものように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。……南無三宝なむさんぽう、赤蜻蛉はさっれた。
 はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
 花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
 向うに狗児いぬころかげも、早や見えぬ。四辺あたりに誰も居ないのを、一息のもとに見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟とっさに渋面を造って、身をじるように振向くと……
 この三角畑の裾の樹立こだちから、広野ひろのの中に、もう一条ひとすじなわてと傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道あぜみちがあるのが屏風のごとくつらなった、長く、せいの高い掛稲かけいねのずらりと続いたのにおおわれて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月にけるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残したあわの穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
 と見向いた時、畦の嫁菜をつまにして、その掛稲の此方こなたに、目もはるかな野原刈田を背にしてあわいが離れてしかとは見えぬが、薄藍うすあい浅葱あさぎの襟して、髪のつややかな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
 おや、顔に何かついている?……すべりをしごいて、思わずでると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛につばと見えたろう。
 金切声で、「ほほほほほほ。」
 十歩ばかり先に立って、一人男のつれが居た。しまがらは分らないが、くすんだなりで、青磁色の中折帽なかおれぼうを前のめりにした小造こづくりな、せた、形の粘々ねばねばとした男であった。これが、その晴やかな大笑おおわらいの笑声に驚いたように立留って、ひさしにらみに、女を見ている。
 何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑おかしいのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老人としよりにも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広袖どてら出歩行であるく。いきおいなのは浴衣一枚、裸体はだかも見えた。もっとも宿を出る時、外套はと気がさしたが、借りて着込んだ浴衣ののり硬々こわごわ突張つっぱって、広袖のはだにつかないのが、悪く風を通して、ぞくぞくするために、すっぽりと着込んでいるのである。成程、ただ一人、帽子も外套も真黒まっくろに、畑に、つッくりと立った処は、影法師に狐がいたようで、ふんどしをぶら下げて裸でおかに立ったより、わかい女には可笑おかしかろう……
 いや、蜻蛉釣とんぼつりだ。
 ああ、それだ。
 小鬢こびんに霜のわれらがと、たちまち心着いて、思わず、禁ぜざる苦笑をもらすと、その顔がまた合った。
「ぷッ、」と噴出すように更に笑った女が、たまらぬといったていに、裾をぱッぱッと、もとのかたへ、五歩いつあし六歩むあし駈戻かけもどって、じたように胸を折って、
「おほほほほ。」
 胸をそらして、仰向あおむけに、
「あはははは。」
 たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに叩頭おじぎをする姿で、うつむいて、
「おほほ、あはは、あははははは。あははははは。」
 やがて、朱鷺色ときいろ手巾ハンケチで口を蔽うて、肩で呼吸いきして、向直って、ツンとすまして横顔で歩行あるこうとした。が、何と、おのずから目がこっちに向くではないか。二つ三つ手巾に、すぶりをくれて、たたきつけて、また笑った。
「おほほほほ、あははは、あははははは。」
 八口やつくちくれないに、腕の白さのちらめくのを、振ってんで身悶みもだえする。
 きょろんと立ったつれの男が、一歩ひとあし返して、おさえるごとくに、握拳にぎりこぶしをぬっと突出すと、今度はその顔をかがみ腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。
 教授もこらえず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りの事に、そこで、うっかり、べかッこを遣ったと思え。
「きゃっ、ひいッ。」と逆に半身を折って、前へ折曲げて、脾腹ひばらを腕で圧えたが追着おッつかない。身を悶え、肩を揉み揉みへとへとになったらしい。……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。半襟の藍に嫁菜が咲いて、
「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。」
 そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花がくすぐる! はだかる襟の白さを合すと、合す隙に、しどけない膝小僧の雪を敷く。島田髷しまだも、切れ、はらはらとなって、
「堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。」
 と、手をふるはずみに、鳴子縄なるこなわに、くいつくばかり、ひしとすがると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。
「あはははははは。おほほほほほ。」
 勃然むっとしたていで、島田の上で、握拳の両手を、一度打擲ちょうちゃくをするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝をらし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身をうねらせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするがはやいか。
「きゃあ――」と笑って、けざまに、男のあとを掛稲の背後うしろへ隠れた。
 その掛稲は、一杯の陽の光と、あふれるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なおこらえず、おほほほほ、笑声を吸込んで、遣切やりきれなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇をあかく、
「おほほほほほほほ、あはははははは。」
白痴奴だらめおどれ!」
 ねつい、いかった声が響くと同時に、ハッとして、もとの路へげ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、かわそうとしたのが、真横にばったり。
 しかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花の穂がへし折れるように見えて打擲した。
 顔も、髪も、どろまみれに、真白まっしろな手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。
 瞬くばかりの間である。
「何をする、何をする。」
 たかが山家やまがの恋である。男女の痴話の傍杖そばづえより、今は、高きそら、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、
「何をする、何をするんだ。」
 草のみちももどかしい。あぜともいわず、刈田と言わず、真直まっすぐ突切つっきって、さっと寄った。
 この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んでげた。
「おお。」
「あ、あれ、先刻さっきの旦那さん。」
 遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
「外套をかぶって、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。」
 と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白まっさおな顔をして、涙の目でなお笑った。
「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」
 妙齢としごろだ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然ぶぜんとしつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝もくれないの乱れたおんなの、半ば起きた肩を抱いた。
「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方あなたの、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」
「いや、我ながら、思えば可笑おかしい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。つれの男は何という乱暴だ。」
「ええ、うちではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中しんじゅうの相談をしに来た処だものですから、あはははは。」
 ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
「おほほほほほほ。」

       五

「旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……」
「――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんがよくばかりでだましたのでみた処で……こっちは芸妓げいしゃだ。罪もむくいもあるものか。それに聞けば、今までに出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽しているんだ。……勝手な極道ごくどうとか、遊蕩ゆうとうとかで行留りになった男の、名はていのいい心中だが、死んでく道連れにされてたまるものではない。――その上、一人身ではないそうだ。――ここへ来る途中で俄盲目にわかめくらとっさんに逢って、おなじような目の悪い父親があると言って泣いたじゃないか。」――

 掛稲かけいね、嫁菜の、あぜに倒れて、この五尺の松にすがって立った、山代の小春を、近江屋へ連戻った事は、すぐにうなずかれよう。芸妓げいしゃである。そのまま伴って来るのに、何の仔細しさいもなかったこともまた断るに及ぶまい。
 なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、しずか日南ひなたの隙を計って、岐路えだみちをあれからすぐ、桂谷へ行くと、浄行寺じょうぎょうじと云う門徒宗が男の寺。……そこで宵のに死ぬつもりで、対手あいてたもとには、あきないものの、(何とか入らず)と、懐中には小刀ナイフさえ用意していたと言うのである。
 上前うわまえ摺下ずりさがる……腰帯のゆるんだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少しあとへ退さがってついて来る小春の姿は、道行みちゆきからげたとよりは、山奥の人身御供ひとみごくうから助出たすけだされたもののようであった。
 左山中みち、右桂谷道、と道程標みちしるべの立った追分おいわけへ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、あごとがった、せこけたじいさんの、すげの一もんじ笠を真直まっすぐに首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに破脚絆やぶれぎゃはん草鞋穿わらじばきで、とぼとぼと竹のつえかれて来たのがあった。
 この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず横添よこぞいに導きつつ、くたびれ脚を引摺ったのは、目も耳もかくれるようなおおきな鳥打帽の古いのをかぶった、八つぐらいの男ので。これも風呂敷包を中結なかゆわえして西行背負さいぎょうじょいに背負っていたが、道中みちなかへ、弱々と出て来たので、横に引張合ひっぱりあった杖が、一方通せん坊になって、道程標みちしるべの辻の処で、教授は足を留めて前へ通した。が、細流せせらぎは、これから流れ、鳥居は、これから見え、町もこれからにぎやかだけれど、俄めくらと見えて、突立つったった足を、こぶらに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差出して、手探りで、巾着きんちゃくほどな小児こどもに杖を曳かれて辿たどさま。いま生命いのちびろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、山家の冬は、この影よりして、町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄昏たそがれた。
 駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、桃割ももわれぬれた結立ゆいたてで、緋鹿子ひがのこ角絞つのしぼり。かんざしをまだささず、黒繻子くろじゅすの襟の白粉垢おしろいあかの冷たそうな、かすりの不断着をあわれに着て、……前垂まえだれと帯の間へ、古風に手拭てぬぐいこまかく挟んだ雛妓おしゃくが、殊勝にも、お参詣まいりもどりらしい……急足いそぎあしに、つつッと出た。が、盲目めくらとっさんとすれ違って前へ出たと思うと、空から抱留められたように、ひたりと立留って振向いた。
「や、姉ちゃん。」――と小児こどもが飛着く。
 見る見るうちに、雛妓の、水晶のような※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった目は、一杯の涙である。
 小春はそっと寄添うた。
「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから、……ちょっと姉ちゃんを見てえってなあ。……」
 西行背負の風呂敷づつみを、肩の方から、いじけたように見せながら、
「姉ちゃん、大すきな豆のあんもを持って来た。」
 ものも言い得ず、姉さんは、弟のそのつむりでると、仰いで笠のうちじった。その笠をかぶって立てるさまは、かかる苦界にある娘に、あわれな、みじめな、見すぼらしい俄盲目には見えないで、しなびた地蔵菩薩じぞうぼさつのようであった。
 親仁おやじは抱しめもしたそうに、手探りに出した手を、火傷やけどしたかと慌てて引いて、その手を片手おがみに、あたりを拝んで、誰ともなしに叩頭おじぎをして、
「御免下され、御免下され。」
 と言った。

「正念寺様におまいりをして、それから木賃へくそうです。いま参りましたのは、あのがちょっと……やかたへ連れて行きましたの。」
 突当つきあたりらしいが、横町を、その三人が曲りしなに、小春が行きすがりに、雛妓おしゃくささやいて「のちにえ。」と言って別れに、さて教授にそう言った。
 ――来た途中の俄盲目は、これである――
 やがて、近江屋の座敷では、小春を客分に扱って、膳を並べて、教授がねんごろに説いたのであった。

「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。」
「死んでたまるものか、死ぬ方が間違ってるんだ。」
「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのおことばばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんかいやだと言います。おかげさまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――そのくるしみも抜けました。貴方は神様です。仏様です。」
「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」
「おほほ。」
「ああ、ほんとに笑ったな――もうし、決して死ぬんじゃないよ。」
「たとい間違っておりましても、貴方のおことばばかりできます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女ばいただと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。」
「あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。」
「いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。」
「…………」
「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、落胆がっかりして、力が抜けて。何ですか、余り身体からだにたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。」
 と、膝にそっと手を置いて、振仰いだらしい顔がほの白い。つやき髪のかおりより、眉がほんのりとにおいそうに、近々とありながら、上段の間は、いまほとんど真暗まっくらである。

       六

 実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を歩行あるれたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷もかろうじて黒白あいろの分るくらいであった。金屏風きんびょうぶとむきあった、客の脱すてを掛けた衣桁いこうもとに、何をしていたか、つぐんでいて、道陸神どうろくじんのような影を、ふらふらと動かして、ぬいと出たものがあった。あれと言った小春と、ぎょっとした教授に「北国一。」とあびせ掛けて、またたく間に廊下をすっ飛んで行ったのは、あのお光であったが。
 すぐに小春が、客の意を得て、例の卓上電話で、二人の膳を帳場に通すと、今度註文をうけに出たのは、以前の、歯を染めた寂しいおんなで、しょんぼりと起居たちいをするのが、何だか、産女鳥うぶめのように見えたほど、――時間はさまでにもなかったが、わけてこの座敷は陰気だった。
 頼もしいほど、陽気ににぎやかなのは、ひさしはずれに欄干の見える、崖の上の張出しの座敷で、客も大勢らしい、四五人の、芸妓の、いろいろな声に、客のがまじって、唄う、弾く、踊っていた。
 船のみよしの出たように、もう一座敷かさなって、そこにも三味線さみせんの音がしたが、時々どっと笑う声は、天狗てんぐこだまを返すように、崖下の庭は暮れるものを、いつまでも電燈がつかない。
 小春のあいの淡い襟、冷い島田が、幾度いくたびも、縁をのぞいて、ともにともしを待ちもした。
 この縁の突当りに、上敷うわしきを板に敷込んだ、後架こうかがあって、機械口の水もさわやかだったのに、その暗紛れに、教授が入った時は一滴の手水ちょうずも出なかったので、小春に言うと、電話までもなく、帳場へ急いで、しばらくして、真鍮しんちゅうの水さしを持って来て言うのには、手水は発動機で汲上くみあげている処、発電池に故障があって、電燈もそのためにおくれると、帳場で言っているそうで。そこで中縁なかえんの土間のおおきな石の手水鉢、ただし落葉が二三枚、不思議に燈籠に火をともしたように見えて、からからに乾いて水はない。そこへ誘って、つき膝で、えんになまめかしくさっと流してくれて、
「あれ、はんけちを田圃道たんぼみちで落して来て、……」
「それも死神の風呂敷だったよ。」
可恐こわいわ、旦那さん。」

 その水さしが、さて……いまやっぱり、手水鉢のはたすわっているのがかすかに見える。夕暮のさぎが長いくちばしで留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、木菟みみずくのようになって、とっぷりと暮れて真暗まっくらだった。

「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」
「ああれ、旦那さん。」
 と、かわやの板戸を、内から細目に、小春の姿が消えそうに、
「私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。」
「そうか。」
 と教授が我が手で、その戸を開けてやりつつ、
「こっちへお出で、かけてやろう。さ。」
「は。」
いか、十分に……」
「あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。」
 懐紙に二階の影が散る。……高い廊下をちらちらと燭台しょくだいの火が、その高楼たかどの欄干てすりを流れた。
「罰の当ったはこの方だ。――しかし、婦人おんなの手に水をかけたのは生れてからはじめてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。おかげで白髪が皆消えて、真黒まっくろになったろう。」
 まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。
「この手水鉢は、実盛さねもり首洗くびあらいの池も同じだね。」
「ええ、縁起でもない、旦那さん。」
「ま、姦通まおとこめ。ううむ、おどれ等。」
「北国一だ。……あぶねえよ。」
 殺した声と、うめく声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、むこう二階で喝采やんや、ともろ声にわめいたのとほとんど一所に、赤い電燈が、蒟蒻こんにゃくのようにぶるぶると震えていた。

       七

 小春の身を、背にかばって立った教授が、見ると、繻子しゅすの黒足袋の鼻緒ずれに破れたやつを、ばたばたと空にねる、治兵衛坊主を真俯向まうつむけに、押伏せて、お光が赤蕪あかかぶのような膝をはだけて、のしかかっているのである。
「危い――刃ものを持ってるぞ。」
 絨毯じゅうたんを縫いながら、治兵衛の手の大小刀おおナイフが、しかし赤黒い電燈に、錆蜈蚣さびむかでのようにうごめくのを、事ともしないで、
「何が、犬にもきばがありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ嫉妬野郎やきもちやろうだ。でけい声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽうりこくってやろうかね。」
「ああ、しずかに――乱暴をしちゃ不可いけない。」
 教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の籐椅子とういすに掛けた。
「君は、誰を斬るつもりかね。」
「うむ、おどれから先に……当前あたりまえじゃい。うむ、放せ、口惜くやしいわい。」
「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸妓げいしゃを呼んで遊んだが、それがどうした。」
おどれ、俺の店まで、呼出しに、汝、逢曳あいびきにうせおって、姦通まおとこめ。」
「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った金子かねに世の中が行詰ゆきづまって、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして附絡つけまとうのは卑劣じゃあないか。――投出す生命いのちに女のつれこさえようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、のみが一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、寝冷ねびえをするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ生命いのちを持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、継足つぎたしをしてやるがい。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、清潔きれいだよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが蜻蛉とんぼ釣る形の可笑おかしさに、道端へ笑い倒れる妙齢としごろの気の若さ……今もだ……うっかり手水ちょうずに行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。」
「ううむ、ううむ。」とうなった。
「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、田螺たにしの分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、いかすもあるものか。――しずかにここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生命いのちの養生をするがい。」
「餓鬼めが、畜生!」
「おっと、どっこい。」
「うむ、放せ。」
ねえさん、放しておやり。」
あぶねえ、旦那さん。」
「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」
「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」
「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つおさえていない。婦人おんなってそこへすがれば、話は別だ。桂清水かつらしみずとか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たがい。婦人おんなは、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。」
 また電燈が、滅びるように、呼吸いきをひいて、すっと消えた。
「二人とも覚えてけつかれ。」
「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓をくぐって、ちっこい、庭境にわざかい隣家となりの塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁をって、窓をって、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。」
 小春は花のいきするように、ただ教授の背後うしろから、帯に縋って、さめざめと泣いていた。

       八

 ここの湯のくるわは柳がいい。分けて今宵は月夜である。五株、六株、七株、すらすらと立ち長くなびいて、しっとりと、見附みつけめぐって向合う湯宿が、皆この葉越はごしうかがわれる。どれも赤い柱、白い壁が、十五けん間口、十間間口、八間間口、大きな(舎)という字をさながらに、湯煙ゆけむりの薄い胡粉ごふんでぼかして、月影に浮いていて、いらかの露も紫に凝るばかり、中空にえた月ながら、気の暖かさにおぼろである。そして裏に立つ山にき、処々に透く細い町に霧が流れて、電燈のあお砂子すなごちりばめた景色は、広重ひろしげがピラミッドの夢を描いたようである。
 柳のもとには、二つ三つ用心みずの、石で亀甲きっこうに囲った水溜みずたまりの池がある。が、れて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に散込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。とすれば月がのぞく。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る、柳も化粧をするのである。分けて今年はあたたかさに枝垂しだれた黒髪はなおこまやかで、中にも真中まんなかに、月光を浴びて漆のように高く立った火の見階子ばしごに、袖を掛けた柳の一本ひともと瑠璃天井るりてんじょうの階子段に、遊女のもたれた風情がある。
 このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩行あるきの人通り。見附正面の総湯の門には、浅葱あさぎに、紺に、茶の旗が、納手拭おさめてぬぐいのように立って、湯の中は祭礼まつりかと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。軒前のきさきには、駄菓子みせ、甘酒の店、あめの湯、水菓子の夜店が並んで、客も集れば、湯女ゆなも掛ける。ひげすする甘酒に、歌の心は見えないが、白い手にむく柿の皮は、染めたささがにの糸である。
 みな立つ湯気につつまれて、布子も浴衣の色に見えた。
 人の出入り一盛り。仕出しの提灯ちょうちん二つ三つ。あかいは、おでん、白いは、蕎麦そば。横路地をついと出て、ややかどとざす湯宿の軒を伝う頃、一しきりしずかになった。が、十夜をあての夜興行の小芝居もどりにまた冴える。女房、娘、若衆わかいしゅたち、とある横町の土塀の小路こみちから、ぞろぞろと湧いて出た。が、陸軍病院の慰安のための見物がえりの、四五十人の一行が、白いよそおいでよぎったが、霜の使者つかいが通るようで、宵過ぎのうそ寒さの再び春に返ったのも、更に寂然せきぜんとしたのであった。
 月夜鴉つきよがらすが低く飛んで、水をくぐるように、柳から柳へ流れた。
「うざくらし、いやな――おあんさん……」
 芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、潜戸くぐりどを細目に背にした門口かどぐちに、月に青い袖、帯黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待顔に袖を合せて、肩つき寒くたたずんだ、影のようなおんながある。と、裏の小路からふらりと出て、横合からむずと寄って肩を抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、じっとすかして――そう言った。
「おかどが違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。
 紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣家となりの柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附着くッついた。
 何の真似やら、おなじような、あたまから羽織をひっかぶった若いしゅが、溝を伝うて、二人、三人、胡乱々々うろうろする。
 この時であった。
 も既に、十一時すぎ、の刻か。――柳を中に真向いなる、かどとざし、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫掛とまかけた大船のごとく静まって、ふくろが演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽くすべると、帳場が見えて、勝手はあかるい――そこへ、真黒まっくろ外套がいとうがあらわれた。
 背後うしろについて、長襦袢ながじゅばんするすると、伊達巻だてまきばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みのぼらと、比目魚ひらめのあるのを、うっかりまたいで、おびえたようなはぎ白く、莞爾にっこりとした女が見える。
「くそったれめ。」
 見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまにほっそりと見送る処を、外套が振返って、頬ずりをしようとすると、あれ人が見る、島田をって、おくれ毛とともに背いたけれども、弱々となって顔を寄せた。
 これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとくうろこを立てて、さかさまとがって燃えた。
 途端に小春の姿はかくれた。
 あとの大戸を、金の額ぶちのように背負しょって、揚々として大得意のていで、紅閨こうけいのあとを一散歩、ぜいる黒外套が、悠然と、柳を眺め、池をのぞき、火の見を仰いで、移香うつりが惜気おしげなく、えいざましに、月の景色を見るさまの、その行く処には、返咲かえりざきの、桜が咲き、柑子こうじも色づく。……よその旅館の庭の前、垣根などをぶらつきつつ、やがて総湯の前に近づいて、いま店をひらきかけて、屋台になべをかけようとする、なしの饂飩屋うどんやの前に来た。
 獺橋かわうそばしの婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである。
 犬ほどの蜥蜴とかげが、修羅をもやして、煙のようにさっと襲った。
「おどれめ。」
 とうめくがはやいか、治兵衛坊主が、その外套の背後うしろから、ナイフを鋭く、つかをせめてグサと刺した。
「うーむ。」と言うと、ドンと倒れる。
 獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から、顔を出してニヤリとした。串戯じょうだんだと思ったろう。
「北国一だ――」
 と高く叫ぶと、その外套の袖があおって、あかい裾が、はらはらと乱れたのである。

       九

 ――「小春さん、先刻さっきの、あの可愛い雛妓おしゃくと、盲目めくらとっさんたちをここへお呼び。で、お前さんが主人になって、みんなで湯へ入って、御馳走を食べて、互に慰めもし、また、慰められもするがい。
 治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ境界きょうがいにある夥間なかまだ、よくのみ込むであろうから、爺さんをお前さんの父親、小児こどもを弟に、不意に尋ねて来た分に、治兵衛の方へ構えるがい。場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるもかろう。あのめしいた人、あの、いたいけな、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また間違まちがいがないとも限らぬ。その後難こうなん憂慮うれいのないように、治兵衛の気をなやし、心を鎮めさせるのに何よりである。
 私は直ぐに立って、山中へ行く。
 わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前にほこりが立つ。構わないにしても気が散ろう。
 泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よくたのしみ、よくお遊び。」――
 あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、あらためて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を発程ったのは、同じの、実は、八時頃であった。
 勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対してもおだやかでない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、たもとを振切る。……
 
 お光が中くらいなかばんを提げて、肩をいからすように、大跨おおまた歩行あるいて、電車の出発点まで真直まっすぐに送って来た。
 道は近い、またすぐに出る処であった。
「旦那さん、のみにくわれても、あまッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。」
 停車じょうの人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点頭うなずいた。
「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一品ひとしな下んせね。鼻紙でも、手巾ハンケチでも、よ。」
 教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。
 このおもみに、トンとされたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串戯じょうだんだったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳摺ひきずるのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。
 発車した。

 ――お光は、ひまのあいてから、これを着て、嬉しがって戸外おもてへ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、
「北国一。」
 と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚衾あつぶすま、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、睦言むつごとのように語り合う、小春と、雛妓おしゃく、爺さん、小児こどもたちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに――
 黒い外套を来た湯女ゆなが、総湯の前で、殺された、刺された風説うわさは、山中、片山津、粟津、大聖寺だいしょうじまで、電車で人とともに飛んでたちまち響いた。
 けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツをねて起きた。
 寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、
「旦那さん、――お光さんが貴方あなたの、お身代り。……私はおくれました。」
 と言って、小春がおもはゆげに泣いてすがった。
「お光さん、私だ、榊だ、分りますか。」
「旦那さんか、旦那さんか。」
 と突拍子な高調子で、譫言うわごとのように言ったが、
「ようこそなあ――こんなものに……つらも、からだも、山猿に火熨斗ひのしを掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかりみんなめた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを切って、旦那さんに上げて下さんせ。」
 立会った医師が二人まで、目をしばたたいて、学士に会釈しつつ、うなずいた。もはや臨終だそうである。
「頂戴しました。――貰ったぞ。」
「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」
「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」
 と、ありなしのえんに曳かれて、雛妓のとみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、盲目めくらの爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、
「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。」
「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」
「おお、見られるとも、のう。ありがたや阿弥陀あみだ様。おありがたや親鸞しんらん様も、おありがたや蓮如れんにょ様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。」
「そんなものは見とうない。」
 と、ツト杖を向うへねた。
「私は死んでも、旦那さんのそばに居て、旦那さんの顔を見るんだよ。」
「勿体ないぞ。」
 と口のうちでつぶやいて、おやじが、黒い幽霊のように首をのばして、杖に縋って伸上って、見えぬ目をうわねむりに見据えたが、
「うんにゃ、道理もっともじゃ。おらも阿弥陀仏より、御開山より、娘の顔が見たいぞいの。」
 と言うと、持った杖をハタとげた。その風采ふうさいや、さながら一山いっさんの大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。
大正十二(一九二三)年一月





底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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