陽炎座

泉鏡花




       一

「ここだ、この音なんだよ。」
 帽子あたまも靴も艶々てらてらと光る、三十ばかりの、しかるべき会社か銀行で当時若手のけものといった風采ふう。一ツ、容子ようすは似つかわしく外国語で行こう、ヤングゼントルマンというのが、その同伴つれの、――すらりとして派手に鮮麗あざやかな中に、扱帯しごきの結んだ端、羽織の裏、つまはずれ、目立たないで、ちらちらと春風にちらめく処々ところどころうっすりと蔭がさす、何か、ものおもいか、なやみが身にありそうな、ぱっと咲いて浅くかさな花片はなびらに、くもりのある趣に似たが、風情は勝る、花の香はそのくまから、かすかに、行違ゆきちがう人を誘うて時めく。かおりめて、藤、菖蒲あやめ、色の調う一枚小袖こそで長襦袢ながじゅばん。そのいずれも彩糸いろいとは使わないで、ひとえに浅みどりの柳の葉を、針で運んで縫ったように、姿を通して涼しさのなびくと同時に、袖にも褄にもすらすらと寂しの添った、せぎすな美しいひとに、――今のを、ト言掛けると、婦人おんなは黙ってうなずいた。
 が、もう打頷く咽喉のどの影が、半襟の縫の薄紅梅うすこうばいに白く映る。……
 あれ見よ。この美しいひとは、そのはだえ、そのかんざし、その指環ゆびわの玉も、とする端々透通すきとおって色に出る、心の影がほのめくらしい。
「ここだ、この音なんだよ。」
 婦人おんな同伴つれの男にそう言われて、時に頷いたが、かたわらでこれを見た松崎と云う、かすりの羽織で、鳥打をかぶった男も、共に心に頷いたのである。
「成程これだろう。」
 但し、松崎は、男女なんにょ、その二人の道ずれでも何でもない。当日ただ一人で、亀井戸かめいどもうでた帰途かえりであった。
 住居すまいは本郷。
 江東橋こうとうばしから電車に乗ろうと、水のぬるんだ、草萌くさもえの川通りを陽炎かげろうもつれて来て、長崎橋を入江町にかかる頃から、どこともなく、遠くで鳴物の音が聞えはじめた。
 松崎は、橋の上に、欄干にもたれて、しばらくたたずんで聞入ったほどである。
 ちゃんちきちき面白そうにはやすかと思うと、急に修羅太鼓しゅらだいこ摺鉦すりがねまじり、どどんじゃじゃんと鳴らす。亀井戸寄りの町中まちなかで、屋台に山形の段々染だんだらぞめ錣頭巾しころずきんで、いろはを揃えた、義士が打入りの石版絵を張廻わして、よぼよぼの飴屋あめや爺様じさまが、しわくたのまくり手で、人寄せにそのかね太鼓をたたいていたのを、ちっとさきに見た身にも、珍らしく響いて、気をそそられ、胸が騒ぐ、ばったりまた激しいのが静まると、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン、悠々とした糸が聞えて、……本所駅へ、がたくた引込ひっこむ、石炭を積んだ大八車の通るのさえ、馬士まご銜煙管くわえぎせるで、しゃんしゃんとくつわが揺れそうな合方となる。
 絶えず続いて、音色ねいろは替っても、囃子はやしは留まらず、行交ゆきかう船脚は水に流れ、蜘蛛手くもでに、つのぐむあしの根をくぐって、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶のの上になり下になり、陽炎かげろうに乗って揺れながら近づいて、日当ひあたりの橋の暖いたもとにまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退いて、
 ――おいで、おいで――
 と招いていそうで。
 手に取れそうな近い音。
 はっ、とその手を出すほどの心になると、橋むこうの、屋根を、ひょいひょいと手踊り雀、電信柱に下向きのかたがり燕、一羽気まぐれに浮いたかもめが、どこかの手飼いのうぐいす交りに、音を捕うる人心ひとごころを、はッと同音に笑いでもする気勢けはい
 春たけて、日遅く、本所はちりの上に、水にうかんだ島かとばかり、都を離れてしずかであった。
 屋根のほこり紫雲英げんげくれないおぼろのような汽車がぎる。
 その響きにも消えなかった。

       二

 松崎は、――汽車のとどろきの下にも埋れず、何等か妨げ遮るものがあれば、音となく響きとなく、飜然ひらりと軽く体をわす、形のない、思いのままに勝手な湧出わきいずる、空を舞繞まいめぐる鼓に翼あるものらしい、その打囃うちはやす鳴物が、――向って、斜違すじかいの角を広々と黒塀で取廻わした片隅に、低い樹立こだちの松をれて、朱塗しゅぬりの堂の屋根が見える、稲荷様いなりさまと聞いた、境内に、何か催しがある……その音であろうと思った。
 けれども、欄干に乗出して、も一つ橋越しに透かして見ると、門は寝静ねしずまったようにとざしてあった。
 いつの間にか、トチトチトン、のんきらしいひびきに乗って、駅と書いた本所停車場ステイションの建札も、うまやと読んで、白日、菜の花をながむる心地。真赤まっか達磨だるま逆斛斗さかとんぼを打った、忙がしい世の麺麭屋パンやの看板さえ、遠い鎮守の鳥居めく、田圃道たんぼみちでも通る思いで、江東橋の停留所に着く。
 いた電車が五台ばかり、燕が行抜けそうにがらんとしていた。
 乗るわ、降りるわ、混合こみあ人数にんずの崩るるごとき火水の戦場往来のつわものには、余り透いて、相撲最中の回向院えこういんが野原にでもなったような電車のていに、いささか拍子抜けの形で、お望み次第のどれにしようと、大分歩行あるき廻った草臥くたびれも交って、松崎はトボンと立つ。
 例の音はの底から、草の蒸さるるごとく、色にえて留まらぬ。
狸囃子たぬきばやしと云うんだよ、昔から本所の名物さ。」
「あら、嘘ばっかり。」
 ちょうどそこに、美しいひとと、その若紳士が居合わせて、こうことばを交わしたのを松崎は聞取った。
 さては空音そらねではないらしい。
 若紳士が言ったのは、例の、おいてけ堀、片葉のあし、足洗い屋敷、埋蔵うめぐらどぶ小豆婆あずきばば、送り提燈ぢょうちんとともに、土地の七不思議に数えられた、幻の音曲である。
 言った方もたわむれに、聞くひと串戯じょうだんらしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた伝説いいつたえを、夢のように思出した。
 興ある事かな。
 日は永し。
 今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、ひま医師いしゃと一般、仕事に悩んで持余もてあました身体からだなり、電車はいつでも乗れる。
 となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無いうちにも、囃子の音が、間近に、判然はっきりしたらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。
 その上、世を避けた仙人がを打つ響きでもなく、薄隠すすきがくれの女郎花おみなえしに露の音信おとずるる声でもない……音色ねいろこそ違うが、見世みせものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。
 向って日南ひなたの、背後うしろは水で、思いがけず一本の菖蒲あやめが町に咲いた、と見た。……その美しいひとの影は、分れた背中にひやひやとむ。……
 と、チャンチキ、チャンチキ、あざけるがごとくに囃す。……
 がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら歩行あるき出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。

       三

 片側はどす黒い、水のよどんだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、むしろやら、炭やら、まきやら、その中を蛇がうように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。
 あの鼠が太鼓をたたいて、いたちが笛を吹くのかと思った。……人通り全然まるでなし。
 片側は、右のその物置に、ただ戸障子を繋合つなぎあわせた小家こいえ続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、からすらなければ犬も居らぬ。縄暖簾なわのれんも居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽歩行あるいていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。
 太陽はたけなわに白い。
 さっと、のんびりした雲からおちかかって、目に真蒼まっさおに映った、物置の中の竹屋の竹さえ、茂った山吹の葉に見えた。
 町はそこから曲る。
 と追分でみちが替って、木曾街道へ差掛さしかかる……左右戸毎まていえなみ軒行燈のきあんどん
 ここにも、そこにも、ふらふらと、春の日をうちへ取って、白くひともしたらしく、真昼浮出てもうと明るい。いずれも御泊り木賃宿きちんやど
 で、どの家も、軒より、屋根より、これが身上しんしょう、その昼行燈ばかりが目に着く。うちには、廂先ひさしさきへ高々と燈籠とうろうのごとくに釣った、白看板の首をもたげて、屋台骨はつちの上にけもののごとく這ったのさえある。
 吉野、高橋、清川、槙葉まきは。寝物語や、美濃みの近江おうみ。ここにあわれをとどめたのは屋号にされた遊女おいらん達。……ちょっと柳が一本ひともとあれば滅びた白昼のくるわひとしい。が、夜寒よさむしろに焼尽して、塚のしるしの小松もあらず……荒寥こうりょうとして砂に人なき光景ありさまは、祭礼まつりに地震して、土の下に埋れた町の、壁の肉も、柱の血も、そのまま一落の白髑髏しゃれこうべと化し果てたる趣あり。
 絶壁の躑躅つつじと見たは、崩れた壁に、ずたずたの襁褓おむつのみ、猿曵さるひきが猿に着せるのであろう。
 生命いのちから桟橋かけはしから、あやうく傾いた二階の廊下に、日も見ず、背後うしろむきに鼠の布子ぬのこせなを曲げた首の色のあおい男を、フト一人見附けたが、軒に掛けた蜘蛛くもの、ブトリと膨れた蜘蛛の腹より、人間はせていた。
 ここに照る月、輝く日は、げた金銀の雲に乗った、土御門家つちみかどけ一流易道、と真赤まっかに目立った看板の路地から糶出せりだした、そればかり。
 空を見るさえのぞくよう、軒行燈の白いにつけ、両側の屋根は薄暗い。
 この春の日向ひなたの道さえ、びれた町の形さえ、行燈に似て、しかもその白けたあかりに映る……
 表に、御泊りとかいた字の、その影法師のように、町幅のまっただ中とも思う処に、曳棄ひきすてたらしい荷車が一台、屋台を乗せてガタリとある。
 ちかづいて見ると、いや、荷の蔭に人が居た。
 男か、女か。
 と、見たていは、せた尻切しりきりの茶の筒袖つつッぽを着て、袖を合わせて、手をこまぬき、紺の脚絆穿きゃはんばき草鞋掛わらじがけの細い脚を、車の裏へ、蹈揃ふみそろえて、と伸ばした、抜衣紋ぬきえもん手拭てぬぐいを巻いたので、襟も隠れて見分けは附かぬ。編笠、ひたりと折合わせて、ひもを深くかぶったなりで、がっくりと俯向うつむいたは、どうやら坐眠いねむりをしていそう。
 城の縄張りをしたていに、車のの中へ、きちんと入って、腰は床几しょうぎに落したのである。
 飴屋あめやか、豆屋か、団子を売るか、いずれにも荷が勝った……おでんを売るには乾いている、その看板がおもしろい。……

       四

 屋台の正面を横に見せた、両方の柱を白木綿で巻立てたは寂しいが、左右へ渡して紅金巾べにがなきんをひらりと釣った、下に横長な掛行燈かけあんどん
一………………………………坂東よせなべ
一………………………………尾上天麩羅おのえてんぷら
一………………………………大谷おそば
一………………………………市川玉子焼
一………………………………片岡 椀盛わんもり
一………………………………嵐  お萩
一………………………………坂東あべ川
一………………………………市村しる粉
一………………………………沢村さしみ
一………………………………中村 洋食
 初日出揃い役者役人車輪に相勤め申候
 名の上へ、藤の花を末濃すそごの紫。口上あと余白の処に、赤い福面女おかめに、黄色な瓢箪男ひょっとこあお般若はんにゃ可恐こわい面。黒の松葺まつたけ、浅黄のはまぐり、ちょっと蝶々もあしらって、霞を薄くぼかしてある。
 引寄せられて慕って来た、囃子の音には、これだけ気の合ったものは無い。が、松崎は読返してみて苦笑いした。
 坂東あべ川、市村しるこ、かれはあまい名を春狐しゅんこと号して、福面女に、瓢箪男、般若の面、……二十五座の座附きで駈出かけだしの狂言方であったから。――
串戯じょうだんじゃないぜ。」
 思わず、声を出して独言ひとりごと
親仁おとっさん、おう、親仁さん。」
 なぞのものぞ、ここに木賃の国、行燈の町に、壁を抜出た楽がきのごとく、陽炎にあらわれて、我をふうするがごとき浅黄の頭巾ずきんは?……
 屋台の様子が、小児こども対手あいてで、新粉細工を売るらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅、そこへ並べさせてみよう了簡りょうけん
「おい、おい。」
ひまなあまりの言葉がたき。わざとちゅうッ腹に呼んでみたが、寂寞じゃくまくたる事、くろんぼ同然。
 で、あやつりの糸の切れたがごとく、手足を突張つっぱりながら、ぐたりと眠る……俗には船をぐとこそ言え、これはいかだを流すてい
 それに対して、そのまま松崎のわかったたもとは、我ながら蝶が羽繕いをする心地であった。
 まだ十歩と離れぬ。
 その物売の、布子の円い背中なぞへ、同じ木賃宿のそこがゆがみなりの角から、町幅を、一息、苗代形に幅の広くなった処があって、思いがけずいらかうずたかい屋形が一軒。ななめに中空をさしてこいうろこの背を見るよう、電信柱に棟の霞んでそびえたのがある。
 空屋か、知らず、窓も、かども、皮をめくった、面にひとしく、おおきな節穴が、二ツずつ、がッくりくぼんだまなこを揃えて、骸骨がいこつを重ねたような。
 が、月には尾花か、日向ひなたの若草、ひさしに伸びたも春めいて、町から中へ引込んだだけ、生ぬるいほどほかほかする。
 四辺あたりに似ない大構えの空屋に、――二間ばかりの船板塀ふないたべいが水のぬるんだいせきに見えて、その前に、お玉杓子たまじゃくし推競おしくらで群るさまに、大勢小児こどもたかっていた。
 おけらの虫は、もじゃもじゃもじゃと皆動揺どよめく。
 その癖静まって声を立てぬ。
 きその物売の前に立ちながら、この小さな群集の混合ったのに気が附かなかったも道理こそ、松崎は身に染みた狂言最中見ぶつのひっそりした桟敷さじきうらを来たも同じだと思った。
 役者は舞台で飛んだり、ねたり、子供芝居が、ばたばたばた。

       五

 大当り、尺的しゃくまとに矢のささっただけは新粉屋の看板より念入なり。一面藤の花に、蝶々まで同じ絵を彩った一張の紙幕を、船板塀の木戸口に渡して掛けた。正面前の処へ、破筵やれむしろを三枚ばかり、じとじとしたのを敷込んだが、日に乾くか、あやしい陽炎となって、むらむらと立つ、それが舞台。
 取巻いた小児こどもの上を、ふななまず、黒い頭、緋鯉ひごいと見たのは赤いきれ結綿仮髪ゆいわたかつらで、幕の藤の花の末をあおって、泳ぐようにながめられた。が、近附いて見ると、坂東、沢村、市川、中村、尾上、片岡、役者の連名も、如件くだんのごとし、おそば、お汁粉、牛鍋なんど、紫の房の下に筆ぶとに記してあった……
 松崎が、立寄った時、カイカイカイと、ちょうど塀の内で木が入って、紺の衣服きものに、黒い帯した、円いしりが、かかとをひょい、と上げて、頭からその幕へ潜ったのを見た。――筵舞台は行儀わるく、両方へゆがんだが。
 半月形に、ほかほかとのぼせた顔して、取廻わした、小さな見物、わやわやとまた一動揺ひとどよめき
 中に、目の鋭い屑屋くずやが一人、はしかごを両方に下げて、挟んで食えそうな首は無しか、とじろじろと睨廻ねめまわす。
 もう一人、あわせ引解ひっときらしい、汚れたしま単衣ひとえものに、綟れの三尺で、頬被ほおかぶりした、ずんぐりふとった赤ら顔の兄哥あにいが一人、のっそり腕組をしてまじる……
 二人ばかり、十二三、四五ぐらいな、子守のちびが、横ちょ、と猪首いくび小児こども背負しょって、唄も唄わず、肩、背をゆする。他は皆、茄子なすびつるに蛙の子。
 楽屋――その塀のうちで、またカチカチと鳴った。
 処へ、とおりから、ばらばらとけて来た、別に二三人の小児を先に、やっこを振らせた趣で、や! あの美しいひとと、中折なかおれの下に眉の濃い、若い紳士と並んで来たのは、浮世の底へ霞を引いて、天降あまくだったように見えた。
 ここだ、この音だ――と云ったその紳士のことばを聞いた、松崎は、やっぱり渠等かれらも囃子の音に誘われて、男女なんにょのどちらが言出したか、それは知らぬが、連立って、先刻さっきの電車の終点から、ともに引寄せられて来たものだと思った。
 時に、その二人も、松崎も、大方この芝居の鳴物が、遠くまで聞えたのであろうとうなずく……囃子はその癖、ここに尋ね当った現下いまは何も聞えぬ。……
 絵の藤の幕間まくあいで、木は入ったが舞台は空しい。
「幕が長いぜ、開けろい。らねえか、遣らねえか。」
 とずんぐり者の頬被ほおかぶりは肩をゆすった。が、閉ったばかり、いささかも長い幕間でない事が、自分にも可笑おかしいか、鼻先はなっさき手拭てぬぐい結目むすびめを、ひこひこと遣って笑う。
 様子が、思いも掛けず、こんな場所、子供芝居の見物のむれに来た、美しいひとに対して興奮したものらしい。
 実際、雲の青い山の奥から、淡彩うすいろどり友染ゆうぜんとも見える、名も知れない一輪の花が、細谷川を里近く流れでて、ふちあいに影を留めて人目に触れた風情あり。石斑魚うぐいが飛んでも松葉が散っても、そのまま直ぐに、すらすらと行方も知れず流れよう、それをしばらくでも引留めるのは、ただちっとも早く幕を開ける外はない、と松崎の目にも見て取られた。
「頼むぜ頭取。」
 頬被ほおかぶりがまたわめく。

       六

 あたかもその時、役者の名の余白に描いた、福面女おかめ瓢箪男ひょっとこの端をばさりとまくると、月代さかやき茶色に、半白ごましおのちょん髷仮髪まげかつらで、眉毛のさがった十ばかりの男のが、渋団扇しぶうちわ[#「団扇」は底本では「団扉」]の柄を引掴ひッつかんで、ひょこりと登場。
「待ってました。」
 と頬被が声を掛けた。
 やっこは、とぼけた目をきょろんとったが、
「ちぇ、小道具め、しようがねえ。」
 と高慢な口を利いて、尻端折しりはしょりの脚をすってん、ねるがごとく、二つ三つ、舞台をくるくると廻るや否や、背後うしろ向きに、ちょっきり結びの紺兵児こんへこ出尻でっちりで、頭から半身また幕へくぐったが、すぐに摺抜すりぬけて出直したのを見れば、うどん、当り屋とのたくらせた穴だらけの古行燈ふるあんどんを提げて出て、むしろの上へ、ちょんと直すと、やっこはその蔭で、膝を折って、膝開ひざはだけに踏張ふんばりながら、くだんの渋団扇で、ばたばたとあおいで、台辞せりふ
「米が高値たかいから不景気だ。媽々かかあめにまた叱られべいな。」
 でも、ちょっと含羞はにかんだか、日に焼けた顔を真赤まっか俯向うつむく。同じ色した渋団扇、ばさばさばさ、と遣った処は巧緻うまいものなり。
「いよ、牛鍋。」と頬被。
 片岡牛鍋と云うのであろう、が、役は饂飩屋うどんや親仁おやじである。
 チャーン、チャーン……幕のうちかねを鳴らす。
 ――迷児まいごの、迷児の、迷児やあ――
 呼ばわり連れると、ひょいひょいと三人出た……団粟どんぐりほどな背丈を揃えて、紋羽もんばの襟巻をくびに巻いた大屋様。月代さかやき真青まっさおで、びんの膨れた色身いろみな手代、うんざり鬢のいさみが一人、これがさきへ立って、コトン、コトンと棒を突く。
「や、これ、太吉さん、」
 と差配様おおやさま声を掛ける。中の青月代あおさかやきが、提灯ちょうちんを持替えて、
「はい、はい。」と返事をした。が、界隈かいわいの荒れた卵塔場から、葬礼とむらいあとを、引攫ひっさらって来たらしい、その提灯は白張しらはりである。
 大屋は、カーンと一つかねを叩いて、
「大分が更けました。」
亥刻いのこく過ぎでございましょう、……ねえ、かしら。」
「そうよね。」
 と棒をコツン、で、くすくすと笑う。
「笑うな、真面目まじめに真面目に、」と頬被がまた声を掛ける。
 差配様が小首を傾け、
「時に、もし、迷児、迷児、と呼んで歩行あるきますが、誰某だれそれと名を申して呼びませいでも、分りますものでござりましょうかね。」
わっしもさ、思ってるんで。……どうもね、ただこう、迷児と呼んだんじゃ、前方さきで誰の事だか見当が附くめえてね、迷児と呼ばれて、はい、手前でござい、と顔を出すやつもねえもんでさ。」とうんざり鬢が引取って言う。
「まずさね……それでくらがりから顔を出せば、飛んだ妖怪ばけものでござりますよ。」
 青月代の白男しろおとこが、袖を開いて、両方をおさえ、
御道理ごもっともでございますとも。それがでございますよ。はい、こうして鉦太鼓で探捜さがしに出ます騒動ではございますが、捜されます御当人のうちへ、声が聞えますような近い所で、名を呼びましては、表向おもてむきの事でもきまりが悪うございましょう。それも小児こども爺婆じじばばならまだしも、取って十九という妙齢としごろの娘の事でございますから。」
 と考え考え、切れ切れに台辞を運ぶ。
 その内も手を休めず、ばっばっと赤い団扇、火が散るばかり、これは鮮明あざやか

       七

 青月代は辿々たどたどしく、
「で、ございますから、遠慮をしまして、名は呼びません、でございましたが、おっしゃる通り、ただ迷児迷児とわめきました処で分るものではございません。もう大分町も離れました、徐々そろそろ娘の名を呼びましょう。」
「成程々々、御心附至極の儀。そんなら、ここから一つ名を呼んで捜す事にいたしましょう。かしら、音頭を願おうかね。」
「迷児の音頭はりつけねえが、ままよ。……差配おおやさん、合方だ。」
 チャーンとかね
「おいなさんやあ、――トこの調子かね。」
「結構でございますね、差配さん。」
 差配はも一つ真顔でチャーン。
「さて、呼声に名がりますと、どうやら遠い処で、かすかに、はあい……」と可哀あわれな声。
「変な声だあ。」
 とかしらは棒をゆすって震える真似する。
「この方、総入歯で、若い娘の仮声こわいろだちね。いえさ、したが何となく返事をしそうで、おおきに張合が着きましたよ。」
「その気で一つしましょうよ。」
 三人この処で、声を揃えた。チャーン――
「――迷児の、迷児の、お稲さんやあ……」
 と一列ひとならび、むしろの上を六尺ばかり、ぐるりと廻る。手足も小さくあどない顔して、目立った仮髪かつらまげばかり。麦藁細工むぎわらざいくが化けたようで、黄色の声でせた事、ものを云う笛を吹くか、と希有けぶに聞える。
 美しいひとは、すっと薄色の洋傘パラソルを閉めた……ヴェールを脱いだように濃い浅黄の影が消える、と露の垂りそうなすずしい目で、同伴つれの男に、ト瞳を注ぎながら舞台を見返す……その様子が、しばらく立停たちどまろうと云うらしかった。
鍋焼饂飩なべやきうどん…」
 と高らかに、舞台で目を眠るまで仰向あおむいて呼んだ。
「……ああ、腹が空いた、饂飩屋。」
「へいへい、かしら難有ありがとうござります。」
 うんざりびんは額を叩いて、
「おっと、礼はまだ早かろう。これから相談だ。ねえ、太吉さん、差配さん、ちょっぴり暖まって、行こうじゃねえかね。」
「賛成。」
 と見物の頬被りは、そりを打っておおいに笑う。
 仕種しぐさを待構えていた、饂飩屋小僧は、これから、割前わりまえの相談でもありそうな処を、もどかしがって、
「へい、お待遠様で。」と急いで、渋団扇で三人へ皆配る。
「早いんだい、まだだよ。」
 と差配になったのが地声で甲走かんばしった。が、それでも、ぞろぞろぞろぞろと口で言い言い三人、指二本で掻込かっこ仕形しかた
かしら、……御町内様も御苦労様でございます。お捜しなさいますのは、お子供衆で?」
「小児なものかね、妙齢としごろでございますよ。」
 と青月代が、襟をしごいて、ちょっと色身で応答あしらう。
「へい、お妙齢、殿方でござりますか、それともお娘御で。」
「妙齢の野郎と云う奴があるもんか、初厄の別嬪べっぴんさ。」とかしらは口で、ぞろりぞろり。
「ああ、さて、走りびとでござりますの。」
「はしり人というのじゃないね、同じようでも、いずれ行方は知れんのだが。」
 と差配は、チンとはなをかむ。
 美しいひとの唇に微笑ほほえみが見えた……
「いつの事、どこから、そのお姿が見えなくなりました。」
 と饂飩屋は、渋団扇をむしろいて、ト中腰になってく。

       八

 差配おおや溜息ためいきと共に気取ってうなずき、
「いつ、どこでと云ってね、おめえ、縁日の宵の口や、顔見世の夜明から、見えなくなったというのじゃない。その娘はね、長い間煩らって、寝ていたんだ。それから行方ゆくえが知れなくなったよ。」
 子供芝居の取留めのない台辞せりふでも、ちっと変な事を言う。
「へい。」
 舞台の饂飩屋も異な顔で、
「それでは御病気を苦になさって、死ぬ気で駈出かけだしたのでござりますかね。」
「寿命だよ。ふん、」と、も一つかんで、差配は鼻紙をたもとへ落す。
「御寿命、へい、何にいたせ、それは御心配な事で。お怪我けががなければうございます。」
さいの河原は礫原こいしはら、石があるからつまずいて怪我をする事もあろうかね。」と陰気に差配。
「何を言わっしゃります。」
「いえさ、饂飩屋さん、合点の悪い。その娘はもう亡くなったんでございますよ。」と青月代がそばから言った。
「お前様も。死んだ迷児まいごという事が、世の中にござりますかい。」
「六道のやみに迷えば、はて、迷児ではあるまいか。」
「や、そんなら、お前様方は、亡者もうじゃをお捜しなさりますのか。」
「そのための、この白張提灯しらはりぢょうちん。」
 と青月代が、白粉おしろいしろけた顔を前へ、トぶらりと提げる。
「捜いて、捜いて、やみから闇へ行く路じゃ。」
「ても……気味の悪い事を言いなさる。」
「饂飩屋、どうだ一所に来るか。」
 とかしらは鬼のごとく棒を突出す。
 饂飩屋は、あッと尻餅。
 引被ひっかぶせて、青月代が、
「ともに冥途めいど連行つれゆかん。」
きたれや、来れ。」と差配おおやは異変な声繕こわづくろい
 一堪ひとたまりもなく、饂飩屋はのめり伏した。渋団扇で、頭を叩くと、ちょん髷仮髪まげかつらが、がさがさと鳴る。
「占めたぞ。」
喰遁くいにげ。」
 とささき合うと、三人のは、ひょいと躍って、蛙のようにポンポン飛込む、と幕の蔭に声ばかり。
 ――迷児の、迷児の、お稲さんやあ――
 描ける藤は、どんよりと重く匂って、おなじ色に、閃々きらきらと金糸のきらめく、美しいひとの半襟と、陽炎に影を通わす、居周囲いまわりは時に寂寞ひっそりした、楽屋の人数にんずを、狭い処に包んだせいか、張紙幕びらまくが中ほどから、見物に向いて、風をはらんだか、と膨れて見える……この影が覆蔽かぶさるであろう、破筵やれむしろは鼠色に濃くなって、しゃがみ込んだ児等こどもの胸へ持上って、ありが四五疋、うようよとった。……が、なぜか、物の本の古びた表面おもてへ、――来れや、来れ……と仮名でかきちらす形がある。
 見つつ松崎が思うまで、来れや、来れ……と言った差配おおやの言葉は、怪しいまで陰に響いて、幕の膨らんだにつけても、誰か、大人が居て、蔭で声をけたらしく聞えたのであった。
 見物の児等は、神妙に黙って控えた。
 頬被ほおかぶりのずんぐり者は、腕を組んで立ったなり、こくりこくりと居眠る……
 饂飩屋が、ぼやんとした顔を上げた。さては、差置いた荷のかわりの行燈あんどんも、草紙の絵ではない。
 蟻は隠れたのである。

       九

「狐か、狸か、今のは何じゃい、どえらい目に逢わせくさった。」
 と饂飩屋は坂塀はずれに、空屋の大屋根から空を仰いで、茫然ぼんやりする。
 美しいひとと若い紳士の、並んで立った姿が動いて、両方木賃宿きちんやどの羽目板の方を見向いたのを、――無台が寂しくなったため、もう帰るのであろうと見れば、さにあらず。
 そこへ小さな縁台を据えて、二人の中に、ちょんぼりとした円髷まるまげ俯向うつむけに、揉手もみてでお叩頭じぎをする古女房が一人居た。
「さあ、どうぞ、旦那様、奥様、これへお掛け遊ばして、いえ、もう汚いのでございますが、お立ちなすっていらっしゃいますより、ちっとはましでございます。」
 と手拭てぬぐいで、ごしごし拭いを掛けつつ云う。その手で――一所に持って出たらしい、踏台が一つに乗せてあるのを下へおろした。
「いや、おれたちは、」
 若い紳士は、手首白いのを挙げて、払い退けそうにした。が、美しいひとが、意を得たという晴やかな顔して、黙ってそのまま腰を掛けたので。
難有ありがとう。」
 かれひとしく並んだのである。
「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも。」と古女房は、まくし掛けて、早口に饒舌しゃべりながら、踏台を提げて、小児こどもたちの背後うしろを、ちょこちょこ走り。で、松崎の背後うしろへ廻る。
貴方あなた様は、どうぞこれへ。はい、はい、はい。」
「恐縮ですな。」
 かねてしたるもののごとく猶予ためらわず腰を落着けた、……松崎は、美しいひととそのつれとが、去る去らないにかかわらず、――舞台の三人がかねをチャーンで、迷児の名を呼んだ時から、子供芝居は、とにかくこの一幕を見果てないうちは、足を返すまいと思っていた。
 声々に、可哀あわれに、寂しく、遠方おちかたかすかに、――そして幽冥ゆうめいさかいやみから闇へ捜廻さがしまわると言った、厄年十九の娘の名は、お稲と云ったのを鋭く聞いた――仔細しさいあって忘れられぬ人の名なのであるから。――
「おかみさん、この芝居はどういう筋だい。」
「はいはい、いいえ、貴下あなた、子供が出たらめに致しますので、取留めはございませんよ。何の事でございますか、私どもは一向に分りません。それでも稽古けいこだの何のと申して、それは騒ぎでございましてね、はい、はい、はい。」
 で手をみ手を揉み、正面まともには顔を上げずに、ひょこひょこして言う。この古女房は、くたびれた藍色あいいろ半纏はんてんに、茶の着もので、紺足袋に雪駄穿せったばきで居たのである。
「馬鹿にしやがれ。へッ、」
 と唐突だしぬけに毒を吐いたは、立睡たちねむりで居た頬被りで、弥蔵やぞうひじを、ぐいぐいと懐中ふところから、八ツ当りに突掛つっかけながら、
「人、面白くもねえ、貴方様お掛け遊ばせが聞いてあきれら。おはいはい、襟許えりもとに着きやがって、へッ。俺の方が初手ッから立ってるんだ。衣類きるいに脚が生えやしめえし……草臥くたびれるんなら、こっちがさきだい。服装みなり価値ねだんづけをしやがって、畜生め。ああ、人間さがりたくはねえもんだ。」
 古女房は聞かないふりで、ちょこちょこと走って退いた。一体、縁台まで持添えて、どこから出て来たのか、それは知らない。そうして引返ひっかえしたのは町の方。
 そこに、先刻さっきの編笠目深まぶかな新粉細工が、出岬でさきに霞んだ捨小舟すておぶねという形ちで、寂寞じゃくまくとしてまだ一人居る。その方へ、ひょこひょこく。
 ト頬被りは、じろりと見遣って、
「ざまあ見ろ、巫女いちこ宰取さいとりきた兄哥あにいの魂が分るかい。へッ、」と肩をしゃくりながら、ぶらりと見物のむれを離れた。
 ついでに言おう、人間を挟みそうに、籠と竹箸たけばしを構えた薄気味の悪い、黙然だんまり屑屋くずやは、古女房が、そっち側の二人に、縁台を進めた時、ギロリと踏台の横穴をのぞいたが、それ切りフイと居なくなった。……
 いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。

       十

「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」
 少々舞台に間が明いて、つままれたなりの饂飩小僧うどんこぞうは、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。
 幕のはじから、以前の青月代あおさかやきが、黒坊くろんぼの気か、俯向うつむけに仮髪かつらばかりをのぞかせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くともながめられる。
「まだじゃねえか、まだお前、その行燈あんどんがかがみにならねえよ……しぐさが抜けてるぜ、早くんねえな。」
 と云って、すぽりと引込ひっこむ。――はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の凸凹でこぼこする蹈台ふみだいの腰を乗出す。
 同じ思いか、面影おもかげも映しそうに、美しいひとじった。ひとり紳士は気の無い顔して、反身そりみながらぐったりと凭掛よりかかった、ステッキの柄を手袋の尖で突いたものなり。
 饂飩屋は、行燈に向直ると、誰も居ないのに、一人で、へたへたと挨拶あいさつする。
光栄おいでなさいまし。……直ぐと暖めて差上げます。今、もし、飛んだお前さん、馬鹿な目に逢いましてね、火も台なしでござります。へい、辻の橋の玄徳稲荷げんとくいなり様は、御身分柄、こんな悪戯いたずらはなさりません。狸かかわうそでござりましょう。迷児の迷児の、――とかねたたいて来やがって饂飩を八杯らいました……お前さん。」
 と滑稽おどけた眉毛を、寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃと饒舌しゃべったが、
「や、一言いちごんも、お返事なしだね、黙然坊だんまりぼう様。鼻だの、口だの、ぴこぴこ動いてばかり。……あれ、誰か客人だと思ったら――わしの顔だ――道理で、兄弟分だと頼母たのもしかったに……宙に流れる川はなし――七夕たなばた様でもないものが、銀河あまのがわには映るまい。星も隠れた、真暗まっくら、」
 と仰向あおむけに、空をる、と仕掛けがあったか、頭の上のその板塀ごし、幕の内かくぐらして、両方を竹で張った、真黒まっくろな布の一張ひとはりむしろの上へ、ふわりと投げてさっと拡げた。
 と見て、知りつつ松崎は、俄然がぜんとして雲がいたか、とぎょっとした、――電車はあっても――本郷から遠路とおみちを掛けた当日。うららかさも長閑のどかさも、余りつもって身に染むばかり暖かさが過ぎたので、思いがけない俄雨にわかあめ憂慮きづかわぬではなかった処。
 彼方むこうの新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路はるかな思いがある。
 また、余所よそは知らず、目の前のざっと劇場ほどなその空屋のうちには、本所の空一面にみなぎらす黒雲は、畳込んで余りあるがごとくに見えた。
 暗い舞台で、小さな、そして爺様じいさまの饂飩屋は、おっかな、吃驚びっくり、わなわな大袈裟おおげさに震えながら、
「何に映る……わしが顔だ、――行燈あんどんか。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をせまいぞ。この上手前てめえに口を利かれてはかなわねえ。何分頼むよ。……つらの皮は、雨風にめくれたあとを、幾たびも張替えたが、火事には人先に持ってげる何十年以来このかた古馴染ふるなじみだ。
 馴染がいに口を利くなよ、わしが呼んでも口を利くなよ。はて、何に映る顔だ知らん。……口を利くな、口を利くな。」
 ……と背の低いのが、滅入込めりこみそうに、おおき仮髪かつらうなじすくめ、ひッつりそうなこぶしを二つ、耳の処へおどすがごとく、張肱はりひじに、しっかと握って、腰をくなくなと、抜足差足。
 で、目を据え、眉を張って、行燈に擦寄り擦寄り、
「はて、何に映った顔だ知らん、行燈か、行燈か、……口を利くなよ、行燈か。」
 とじっのぞく。
 途端に、沈んだが、通る声で、
「私……行燈だよ。」
「わい、」と叫んで、饂飩屋は舞台を飛退とびのく。

       十一

 この古行燈が、あだなさけも、赤くこぼれた丁子ちょうじのごとく、すすの中に色をめて消えずにいて、それが、針の穴を通して、不意に口を利いたような女の声には、松崎もぎょっとした。
 饂飩屋は吃驚びっくりの呼吸を引いて、きょとんとしたが
おいら可厭いやだぜ。」と押殺した低声こごえ独言ひとりごとを云ったと思うと、ばさりと幕摺まくずれに、ふらついて、隅から蹌踉よろけ込んで見えなくなった。
 時に――私……行燈だよ、――と云ったのは、美しいひとである事に、松崎も心附いて、――驚いて楽屋へげた小児こどもさま可笑おかしさに、莞爾にっこりえみを含んだ、燃ゆるがごときそのひとの唇を見た。
「つい言ッちまったのよ。」
 と紳士を見向く。
「困った人だね、」
 とステッキを取って、立構えをしながら、
「さあ、行こうか。」
いわ、もうちっと……」
恐怖こわいよう。」
 と子守のたもとにぶら下った小さな児が袖を引張ひっぱって言う。
「こわいものかね、行燈じゃないわ。……綺麗な奥さんが言ったんだわ。」とその子守はせなの子をゆすり上げた。
 舞台を取巻いた大勢が、わやわやとざわついて、同音に、声を揚げてみんな笑った……小さいのが二側ふたかわ三側みかわ、ぐるりと黒くかたまったのが、変にここまで間をいて、思出したように、遁込にげこんだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、どっというのが、一つ、町を越した空屋の裏あたりに響いて、壁を隔てて聞くようにぼやけて寂しい。
「東西、東西。」
 青月代あおさかやきが、例の色身いろみに白い、ふっくりした童顔わらわがお真正面まっしょうめんに舞台に出て、猫が耳をでる……トいった風で、手を挙げて、見物を制しながら、おでんと書いた角行燈をひょいと廻して、ト立直して裏を見せると、かねて用意がしてあった……その一小間ひとこまあいを濃く真青まっさおに塗ってあった。
 行燈が化けると云った、これが、かがみのつもりでもあろう、が、上をおおうた黒布の下に、色が沈んで、際立って、ちょうど、間近な縁台の、美しいひと向合むきあわせに据えたので、雪なすおもてに影を投げて、なまめかしくもすごくも見える。
 青月代は飜然ひらりくぐった。
 それまでは、どれもこれも、吹矢に当って、バッタリと細工ものがあらわれる形に、幕へ出入りのひょっこらさ加減、絵にいた、小松葺こまつたけ、大きなはまぐり十ばかり一所に転げて出そうであったが。
 舞台に姿見のあおい時よ。
 はじめて、白玉のごとき姿を顕す……一にん立女形たておやま、撫肩しなりとはぎをしめつつつまを取ったさまに、内端うちわ可愛かわいらしい足を運んで出た。糸も掛けない素の白身はくしん、雪の練糸ねりいとを繰るように、しなやかなものである。
 背丈恰好かっこう、それも十一二の男の児が、文金高髷の仮髪かつらして、含羞はにかんだか、それとも芝居の筋の襯染したじめのためか、胸をくわえる俯向うつむき加減、前髪の冷たさが、身に染む風情に、すべすべと白い肩をすくめて、乳を隠す嬌態しならしい、片手柔いひじを外に、指を反らして、ひたりと附けた、そのおとがいのあたりをおおい、額も見せないで、なよなよとむしろに雪のかかとを散らして、しずかに、行燈の紙の青い前。

       十二

 綿かと思うやわらかな背を見物へ背後うしろむきに、そのこしらえし姿見に向って、筵に坐ると、しなった、細い線を、左の白脛しらはぎに引いて片膝を立てた。
 この膝は、松崎の方へ向く。右の掻込かっこんで、その腰を据えた方に、美しいひとと紳士の縁台がある。
 まだ顔を見せないで、打向った青行燈の抽斗ひきだしを抜くと、そこに小道具の支度があった……白粉刷毛おしろいばけの、夢の覚際さめぎわ合歓ねむの花、ほんのりとあるのを取って、なまめかしく化粧をし出す。
 知ってはいても、それが男の児とは思われない。耳朶みみたぼ黒子ほくろも見えぬ、なめらかな美しさ。松崎は、むざとたかって血を吸うのがいたましさに、蹈台ふみだいをしきりに気にした
 蹈台の蚊は、おかしいけれども、はじめ腰掛けた時から、間をいては、ぶんと一つ、ぶんとまた一つ、穴からうなって出る……足と足を摺合すりあわせたり、かぶりったり、けつ払いつしていたが、日脚の加減か、この折から、ぶくぶくとどぶから泡の噴くていに数を増した。
 人情、なぜか、筵の上のその皓体こうたいたからせたくないので、背後うしろへ、町へ、両の袂を叩いて払った。
 そして、この血にえてうめく虫の、次第にいきおいを加えたにつけても、天気模様の憂慮きづかわしさに、居ながら見渡されるだけの空をのぞいたが、どこのか煙筒えんとつの煙の、一方に雪崩なだれたらしいくまはあったが、黒しとあやしむ雲はなかった。ただ、町のしずかさ。板の間のからびた、人なき、広い湯殿のようで、暖い霞の輝いてよどんで、ただよい且つみなぎる中に、蚊を思うと、その形、むらむら波を泳ぐ海月くらげに似て、ほこよこたえて、餓えたる虎の唄を唄ってねる。……
 この影がさしたら、四ツ目あたりに咲き掛けた紅白の牡丹ぼたんも曇ろう。……はしを鳴らして、ひらりひらりと縦横無尽に踊る。
 が、うつつなの光景ありさまは、長閑のどか日中ひなかの、それが極度であった。――
 やがて、蚊ばかりではない、舞台で狐やら狸やら、太鼓をたたき笛を吹く……本所名代の楽器に合わせて、猫が三疋。小夜具こよぎかぶって、仁王だち、一斗だるの三ツ目入道、裸の小児こどもと一所になって、さす手の扇、ひく手の手拭、揃って人も無げに踊出おどりいだした頃は、俄雨にわかあめを運ぶ機関車のごとき黒雲が、音もしないで、浮世のやぶれめを切張きりばりの、木賃宿の数の行燈、薄暗いまで屋根を圧して、むくむくと、両国橋から本所の空を渡ったのである。
 次第は前後した。
 これよりさき、姿見に向った裸の児が、濃い化粧で、襟白粉えりおしろいを襟長く、くッきりとよそおうと、カタンと言わして、刷毛はけと一所に、白粉を行燈の抽斗ひきだししまった時、しなりとした、立膝のままで、見物へ、ひょいと顔を見せたと思え。
 島田ばかりが房々ふさふさと、やあ、目も鼻も無い、のっぺらぼう。
 唇ばかり、埋め果てぬ、雪の紅梅、しべ白く莞爾にっこりした。
 はっと美しいひとは身を引いて、肩をった羽織の手先を白々と紳士の膝へ。
 額も頬も一分、三分、小鼻も隠れたまで、いや塗ったとこそ言え。白粉で消した顔とは思うが、松崎さえ一目見ると変な気がした。
 そこへ、くだんの三ツ目入道、どろどろどろとあらわれけり

       十三

 樽を張子はりこで、鼠色の大入道、金銀張分けの大のまなこを、行燈見越みこしたちはだかる、と縄からげの貧乏徳利どっくりをぬいと突出す。
丑満うしみつの鐘を待兼ねたやい。……わりゃ雪女。」
 とドス声でかんを殺す……この熊漢くまおとこの前に、月からこぼれた白いうさぎ、天人の落し児といった風情の、一束ひとつかねの、雪のはだは、さては化夥間ばけなかまの雪女であった。
「これい、化粧が出来たら酌をしろ、ええ。」
 と、どか胡坐あぐら、で、着もののすそうずたかい。
 その地響きが膚にこたえて、震えるさまに、脇の下をすぼめるから、雪女は横坐りに、
「あい、」と手をく。
「そりゃ、」
 と徳利を突出した、入道は懐から、鮑貝あわびがい掴取つかみとって、胸を広く、腕へ引着け、がんの首をじるがごとく白鳥の口からがせて、
「わりゃ、わなわなと震えるが、素膚すはだに感じるか、いやさ、寒いか。」と、じろじろとみつめて寛々たり。
 雪女細い声。
「はい……冷とうござんすわいな。」
「ふん、それはな、三途河そうずか奪衣婆だつえばきものがれて、まだ間が無うてれぬからだ。ひくひくせずと堪えくされ。雪女が寒いとぬかすと、火が火を熱い、水が水を冷い、貧乏人が空腹ひだるいと云うようなものだ。うぬが勝手の我ままだ。」
なさけない事おっしゃいます、辛うて辛うてなりませんもの。」
 とやっぱりわななく。その姿、あわれに寂しく、生々なまなまとした白魚の亡者に似ている。
「もっともな、わりゃ……」
 言い掛けた時であった。この見越入道、ふと絶句で、おおきな樽のつらを振って、三つ目を六つに晃々ぎらぎらときょろつかす。
 幕の蔭と思う絵の裏で、誰とも知らず、静まった藤の房に、生温なまぬるい風の染む気勢けはいで、
「……紅蓮ぐれん、大紅蓮、紅蓮、大紅蓮……」と後見うしろをつけたものがある。
「紅蓮、大紅蓮の地獄にきたって、」
と大入道は樽の首を揺据ゆりすえた。
「わりゃ雪女となりおった。が、魔道の酌取しゃくとり枕添まくらぞい芸妓げいしゃ遊女じょろうのかえ名と云うのだ。娑婆しゃば、人間の処女きむすめで……」
 また絶句して、うむと一つ、樽に呼吸いきを詰めてつかえると、ポカンとした叩頭おじぎをして、
「何だっけね、」
 と可愛い声。
「お稲、」と雪女が小さく言った。
 松崎は耳を澄ます。
 と同時であった。
「……お稲、お稲さんですって、……」と目のふちに、薄く、行燈の青い影がした。美しいひとは、ふと紳士を見た。
「お稲荷いなり、稲荷さんと云うんだね、白狐しろぎつねの化けた処なんだろう。」
 わけもなくそう云って、紳士は、ぱっと巻莨まきたばこに火を点ずる。
 その火が狐火のように見えた。
「ああ、そうなのね。」
 美しいひとうなずいたのである。
 松崎も、聞いて、成程そうらしくも見て取った。
「むむ、そのお稲で居た時の身の上話、酒のさかなに聞かさんかい。や、ただわなわなと震えくさる、まだ間が無うて馴れぬからだ。こりゃ、」
 と肩へむずと手を掛けると、ひれ伏して、雪女は溶けるように潸然さめざめと泣く。

       十四

「陰気だ陰気だ、此奴こいつ滅入めいって気が浮かん、こりゃ、汝等わいら出てはしゃげやい。」
 三ツ目入道、懐手の袖をねて、飽貝あわびっかいの杯を、でかを描いて楽屋を招く。
 これの合図に、相馬内裏そうまだいり古御所ふるごしょの管絃。笛、太鼓にかねを合わせて、トッピキ、ひゃら、ひゃら、テケレンどん、幕をあおって、どやどやと異類異形が踊ってでた。
 狐が笛吹く、狸が太鼓。猫が三疋、赤手拭、すッとこかぶり、吉原かぶり、ちょと吹流し、と気取るも交って、猫じゃ猫じゃの拍子を合わせ、トコトンとむしろを踏むと、塵埃ちりほこり立交る、舞台に赤黒い渦を巻いて、吹流しが腰をしゃなりと流すと、すッとこ被りが、ひょいとねる、と吉原被りは、ト招ぎの手附。
 狸の面、と、狐の面は、差配の禿はげと、青月代あおさかやき仮髪かつらのまま、饂飩屋の半白頭ごましおあたまは、どっち付かず、いたちのような面を着て、これが鉦で。
 時々、きちきちきちきちという。狐はお定りのコンを鳴く。狸はあやふやに、モウとうなって、膝にのせた、腹鼓。
 囃子に合わせて、猫が三疋、踊る、踊る、いや踊る事わ。
 青い行燈とその前に突伏つっぷした、雪女の島田のまわりを、ぐるりぐるりと廻るうちに、三ツ目入道も、ぬいと立って、のしのしと踊出す。
 続いて囃方はやしかた惣踊そうおどり。フト合方が、がらりと替って、楽屋で三味線さみせんを入れた。
 ――必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな――
 と揃って、異口同音くちぐちに呼ばわりながら、水車みずぐるまを舞込むごとく、次第びきに、ぐるぐるぐる。……幕へと消える時は、何ものか居て、操りの糸を引手繰ひったぐるようにさっと隠れた。
 筵舞台に残ったのは、青行燈あおあんどんと雪女。
 しおれて、一人、ただうなだれているのであった。
 上なる黒い布は、ひらひらと重くなった……空は化物どもが惣踊りに踊る頃から、次第に黒くなったのである。
 美しいひとは、はずして、膝の上に手首に掛けた、薄色のショオルを取って、撫肩のうなじに掛けて身繕い。
 此方こなたに松崎ももう立とうとした。
 青月代が、ひょいとのぞいた。幕の隙間へあごを乗せて、
「誰か、おい、前掛まえかけを貸してくんな、」と見物を左右に呼んだ。
「前掛を貸しておくれよ、……よう、誰でも。」
 美しいひとから、七八人小児こどもを離れて、二人並んでいた子守の娘が、これを聞くと真先まっさきにあとじさりをした。言訳だけも赤い紐の前掛をしていたのは、その二人ぐらいなもので、……他は皆、横撫での袖とくいこぼしの膝、光るのはただあかばかり。
 かたわらから、また饂飩屋が出て舞台へ立った。
「これから女形おんながた演処しどころなんだぜ。居所がわりになるんだけれど、今度は亡者じゃねえよ、きてる娘の役だもの。裸では不可いけねえや、前垂まえだれを貸しとくれよ。誰か、」
後生ごしょうだってば、」
 と青月代も口を添える。
 子守の娘はまた退しさった。
 幼い達は妙にてれて、舞台の前で、土をいじッて俯向うつむいたのもあるし、ちょろちょろ町の方へ立つのもあった。
しみたれだなあ。」
 饂飩屋がチョッ、舌打する。
「貸してくれってんだぜ、……きっと返すッてえに。……可哀相かわいそうじゃないか、雪女になったなりで裸で居ら。この、お稲さんに着せるんだよ。」
 と青月代も前へ出て、雪女の背筋のあたりを冷たそうに、ひたりと叩いた……
「前掛でなくては。不可いけないの?」
 美しい人はすッと立った。
 紳士は仰向あおむいて、妙な顔色かおつき
 松崎の、うっかり帰られなくなったのは言うまでもなかろう。

       十五

「兄さん、ほかのものじゃ間に合わない?」
 あきれ顔な舞台の二人に、美しいひとは親しげにそう云った。
「他の物って、」と青月代は、ちょんぼり眉で目をぱちくる。
「羽織では。」
 美しいひと華奢きゃしゃな手を衣紋えもんに当てた。
「羽織なら、ねえ、おい。」
「ああ、そんなうめえ事はねえんだけれど、前掛でさえ、しみったれているんだもの、貸すもんか。それだしね、羽織なんて誰も持ってやしませんぜ。」
 と饂飩屋は吐出すように云う。成程、羽織を着たものは、ものの欠片かけらも見えぬ。
ければ、私のを貸してあげるよ。」
 美しいひとは、ことばの下に羽織を脱いだ、手のしないは、白魚が柳をくぐって、裏は篝火かがりびがちらめいた、かりがねむすびの紋と見た。
品子しなこさん、」
 紳士は留めようとして、ずッと立つ。
いのよ、貴方あなた。」
 と見返りもしないで、
「帯がないじゃないか、さあ、これが可いわ。」と一所に肩をすべった、その白と、薄紫と、山が霞んだような派手なうすもののショオルを落してやる……
 雪女は、早く心得て、ふわりとその羽織を着た、黒縮緬くろちりめん紋着もんつきかさねて、霞を腰に、前へすらりと結んだ姿は、あたかもし、小児こどもの丈にすそいて、振袖長く、影も三尺、左右に水が垂れるばかり、その不思議ななまめかしさは、貸小袖に魂が入って立ったとも見えるし、行燈のともしおおうた裲襠かけたもとに、蝴蝶ちょうちょうが宿って、夢が※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまようとも見える。
難有ありがとう、」
「奥さん難有う。」
 互に、青月代と饂飩屋が、仮髪かつらを叩いて喜び顔。
 雪女の、その……なぞらえた……姿見に向って立つ後姿を、美しいひとは、とながめて、
「島田もいこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも扱帯しごきを前帯じゃどう。遊女おいらんのようではなくって、」
「構わないの、お稲さんが寝衣ねまきの処だから、」
「ああ、ちょっと。」
 と美しいひとが留める間に、聞かれた饂飩屋はツイと引込ひっこむ。
「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、貴方。」
 と言う。紳士を顧みた美しいひとまつげが動いて、目瞼まぶたきっ引緊ひきしまった。
「何、稲荷いなりだよ、おい、稲荷だろう。」
 紳士も並んで、見物の小児こどもの上から、舞台へ中折なかおれのぞかせた。
「ねえ、この人の名は?……」
 黒縮緬の雪女は、さすが一座に立女形たておやまの見識を取ったか、島田の一さえ、端然きちんと済まして口を利こうとしないので、美しいひとはまた青月代に、そういた。
「嵐お萩ッてえの……東西々々。」
 と飜然ひらりと隠れる。
芸名げいみょうではない。役の娘の名を聞かしておくれ、何て云うの、よ、お前。」
 と美しいひとは、やや急込せきこんで言って、病身らしく胸をおさえた。脱いだ羽織の、肩寒そうな一枚小袖の嬌娜姿やさすがた、雲をでたる月かとれば、離れた雲は、雪女に影を宿して、墨絵につやある青柳あおやぎの枝。
 春の月のすごきまで、蒼青まっさおな、姿見の前に、立直って、
「お稲です。」
 と云って、ふと見向いた顔は、目鼻だち、水におぼろなものではなかった。

       十六

 舞台は居所がわりになるのだ、と楽屋のものが云った、――俳優やくしゃは人に知らさないのを手際に化ものの踊るうち、俯向伏うつむきふしている間に、玉のくもりぬぐったらしい。……眉は鮮麗あざやかに、目はぱっちりとはりを持って、口許くちもとりんとした……ややきついが、妙齢としごろのふっくりとした、濃い生際はえぎわ白粉おしろいの際立たぬ、色白な娘のその顔。
 松崎は見て悚然ぞっとした……
 名さえ――お稲です――
 たとは迂哉おろか。今年如月きさらぎ、紅梅に太陽の白き朝、同じ町内、御殿町ごてんまちあたりのある家の門を、内端うちわな、しめやかな葬式とむらいになって出た。……その日は霜が消えなかった――居周囲いまわりの細君女房連が、湯屋でも、髪結かみゆいでもまだ風説をたやさぬ、お稲ちゃんと云った評判娘にそっくりなのであった。
「私も今はじめて聞いて吃驚びっくりしたの。」
 その時、松崎の女房は、二階へばたばたと駈上かけあがり、御注進と云う処を、よろいしま半纏はんてんで、草摺くさずりみじかな格子の前掛、ものが無常だけに、ト手はひるがえさず、すなわち尋常に黒繻子くろじゅすの襟を合わせて、火鉢の向うへ中腰で細くなる……
 髪も櫛巻くしまき透切すきぎれのした繻子の帯、この段何とも致方いたしかたがない。亭主、号が春狐であるから、名だけは蘭菊らんぎくとでもおごっておけ。
 春狐は小机を横に、座蒲団ざぶとんからななめになって、
「へーい、ちっとも知らなかった。」
「私もさ……今ね、内の出窓の前に、お隣家となり女房かみさんが立って、とおりの方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお葬式ともらいが出る所だって、他家よそでも最惜いとしくってしようがないって云うんでしょう。――そう云えば成程何だわね、この節じゃ多日しばらく姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あのが通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、おのぞきだっけがね。」
 苦笑いで、春狐子。
「余計な事を言いなさんな、……しかしおしいね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。」
「うっかり下町にだってあるもんですか。」
「などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまではめないやつさ、顔がちっときつすぎる、何のってな。」
「ええ、それは廂髪ひさしがみでお茶の水へ通ってた時ですわ。もう去年の春から、娘になって、島田に結ってからといったら、……そりゃ、くいつきたいようだったの。
 髮のいい事なんて、もっともさかりも盛だけれども。」
幾歳いくつだ。」
「十九……明けてですよ。」
「ああ、」と思わず煙管きせるを落した。
「勿論、お婿さんは知らずらしいね。」
「ええ、そのお婿さんの事で、まあ亡くなったんですよ。」
 はっと思い、
「や、自殺か。」
「おお吃驚びっくりした……慌てるわねえ、お前さんは。いいえ、自殺じゃないけれども、私の考えだと、やっぱり同一おんなじだわ、自殺をしたのも。」
「じゃどうしたんだよ。」
「それがだわね。」
じれったい女だな。」
「ですからしずかにお聞きなさいなね、稲ちゃんの内じゃ、成りたけ内証ないしょかくしていたんだそうですけれど、あのはね、去年の夏ごろから――その事で――狂気きちがいになったんですって。」
「あの、綺麗なが。」
「まったくねえ。」
 と俯向うつむいて、も一つ半纏の襟を合わせる。

       十七

妙齢としごろで、あの容色きりょうですからね、もうぜんにから、いろいろ縁談もあったそうですけれど、おきまりの長し短しでいた処、お稲ちゃんが二三年前まで上っていなすった……でも年二季の大温習おおざらいには高台へ出たんだそうです……長唄のお師匠さんの橋渡しで。
 うちは千駄木辺で、お父さんは陸軍の大佐だか少将だか、それで非職ひいてるの。その息子さんが新しい法学士なんですって……そこからね、是非、お嫁さんにほしいって言ったんですとさ。
 途中で、時々顔を見合って、もう見合いなんか済んでるの。男の方は大変な惚方ほれかたなのよ。もっとも家同士、知合いというんでも何でもないんですから、口を利いたことなんて、そりゃなかったんでしょうけれど、ほんに思えば思わるるとやらだわね。」
 半纏着の蘭菊は、指のさきで、火鉢のふちへちょいと当って、
「お稲ちゃんの方でも、嬉しくない事はなかったんでしょう。……でね、内々その気だったんだって、……お師匠さんは云うんですとさ、――隣家となり女房かみさんの、これは談話はなしよ。」
 まだ卒業前ですから、お取極とりきめは、いずれ学校が済んでからッて事で、のびのびになっていたんだそうですがね。
 去年の春、お茶の水の試験が済むと、さあ、その翌日あくるひにでも結納を取替わせるいきおいで、男の方から急込せきこんで来たんでしょう。
 けれども、こっちぢゃ煮切にえきらない、というのがね――あの、にはおっかさんがありません。お父さんというのは病身で、滅多に戸外そとへも出なさらない、何でも中気か何からしいんです――後家さんで、その妹さん、お稲ちゃんには叔母に当る、お婆さんのハイカラが取締って、あのの兄さん夫婦が、すっかり内の事をっているんだわね。
 その兄さんというのが、何とか云う、朝鮮にも、満洲とか、台湾にも出店のある、おおきな株式会社に、才子で勤めているんです。
 その何ですとさ、会社の重役の放蕩息子どらむすこが、ダイヤの指輪で、春の歌留多かるたに、ニチャリと、お稲ちゃんの手をおさえて、おお可厭いやだ。」
 と払う真似して、
「それで、落第、もう沢山。」
「どうだか。」
「ほんとうですとも。それからそのニチャリが、」
「右のな、」
 と春狐は、ああと歎息する。
「ええ、ぞっこんとなって、お稲ちゃんをたってと云うの、これにはあによめが一はながけに乗ったでしょう。」
きまりでいやあがる。」
「大分、お芝居になって来たわね。」
「余計な事を言わないで……それから、」
「兄さんの才子も、やっぱりその気だもんですからね、いよいよという談話はなしの時、きっぱり兄さんから断ってしまったんですって――無い御縁とおあきらめ下さい、か何かでさ。」
「その法学士の方をだな、――無い御縁がすさまじいや、てめえが勝手に人の縁を、あごにしゃぼん玉の泡沫あぶくを塗って、鼻の下を伸ばしながら横撫でにめけやあがる西洋剃刀かみそりで切ったんじゃないか。」
「ねえ……ふさいでいましたとさ、お稲ちゃんは、初心うぶだし、世間見ずだから、口へ出しては何にも言わなかったそうだけれど……段々、御飯が少くなってね、すきなものもちっとも食べない。
 その癖、身じまいをする事ったら、髪も朝に夕に撫でつけて、びんの毛一筋こぼしていた事はない。肌着も毎日のように取替えて、欠かさずに湯に入って、綺麗にお化粧をして、寝る時はきっと寝白粧ねおしろいをしたんですって。
 皓歯しらはべによ、すごいようじゃない事、夜が更けた、色艶いろつやは。
 そして二三度見つかりましたとさ。起返って、帯をお太鼓にきちんとめるのを――お稲や、何をおしだって、叔母さんがとがめた時、――私はおっかさんのとこへ行くの――
 そう云ってね、枕許まくらもとへちゃんと坐って、ぱっちり目を開けて天井を見ているから、起きてるのかと思うと、うつつで正体がないんですとさ。
 思詰おもいつめたものだわねえ。」

       十八

「まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中にそっ箪笥たんす抽斗ひきだしを開けたんですよ。」
「法学士の見合いの写真?……」
「いいえ、そんならいけれど、短刀をそっと持ったの、お母さんの守護刀まもりがたなだそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……妙齢としごろで可愛い中にも品のかった事を御覧なさい。」
「余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、」
「あれ、」
 と見向く、と朱鷺色ときいろに白のすかしの乙女椿おとめつばきがほつりと一輪。
 じったが、狭い座敷で袖が届く、女房は、くの字に身を開いて、色のうつるようてのひらに据えて俯向うつむいた。
 隙間もる冷い風。
「ああ、四辻がざわざわする、お葬式ともらいが行くんですよ。」
 と前掛の片膝、障子へ片手。
「二階の欄干てすりから見るやつがあるものか。見送るならかどへお出な。」
しましょう、おもいの種だから……」
 と胸を抱いて、
「この一輪は蔭ながら、お手向たむけになったわね。」と、鼻紙へそっと置くと、冷い風に淡いくれない……女心はかくやらむ。
 窓の障子に薄日がした。
「じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。」
「いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へしまって、じょうをおろして、兄さんがそのかぎを握って寝たんだっていうんですもの。」
「ははあ、重役のせがれに奉って、手繰りつく出世のつる、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。」
「お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、おいでだったかと思うと、そうじゃないの……精々せっせ裁縫おしごとをするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、火熨斗ひのしを掛けて、ちゃんとしまって、それなり手を通さないでも、ものの十日もつと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの嬰児あかんぼのおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。」
「おやおや、兄の嬰児あかんぼの洗濯かね。」
あによめというのが、ぞろりとして何にもしやしませんやね。またちょっとふめるんだわ。そりゃお稲ちゃんのそばへは寄附よッつけもしませんけれども。それでもね、妹が美しいから負けないようにって、――どういう了簡りょうけんですかね、兄さんが容色きりょう望みでったっていうんですから……
 小児こどもは二人あるし、うちは大勢だし、小体こていに暮していて、別に女中っても居ないんですもの、おりから何から、みんな、お稲ちゃんがしたんだわ。」
「ははあ、その児だ……」
 ともすると、――それが夕暮が多かった――嬰児あかんぼ背負おぶって、別にあやすでもなく、結いたての島田で、夕化粧したのが、顔をまっすぐに、すずしい目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、蝙蝠こうもりも柳も無しに、何を見るともなく、じっと暮れかかる向側むこうがわの屋根をながめて、其家そこ門口かどぐちたたずんだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。
 面影は、その時の見覚えで。
 出窓の硝子越がらすごしに、娘の方がゆきかえりの節などは、一体傍目わきめらないで、竹をこぼるる露のごとく、すいすいと歩行あるふり、打水にもつまのなずまぬ、はで姿、と思うばかりで、それはよくは目に留まらなかった。
 が、思い当る……葬式とむらいの出たあとでも、お稲はその身の亡骸なきがらの、白いひつぎさまを、あの、かどに一人立って、さも恍惚うっとりと見送っているらしかった。

       十九

 女房はかたり続けた――
「お稲ちゃんが、そんなに美しく身のまわりの始末をしたのも、あとで人に見られて恥かしくないようにたしなんでいたんだわね――そして隙さえあれば、直ぐに死ぬ気で居たんでしょう、寝しなにお化粧をするのなんか。
 ですから、病院へ入ったあとで、針箱の抽斗ひきだしにも、畳紙たとうがみの中にも、しわになった千代紙一枚もなく……油染あぶらじみた手柄一掛ひとかけもなかったんですって。綺麗にしておいたんだわ……友達から来た手紙なんか、中には焼いたのもあるんですって、……心掛けたじゃありませんか。おしまれるは違うわね。
 ぐっと取詰とりつめて、気が違った日は、晩方、髪結かみゆいさんが来て、鏡台に向っていた時ですって。夏の事でね、庭に紫陽花あじさいが咲いていたせいか、知らないけれど、その姿見のあおさったら、月もささなかったって云うんですがね。――そして、お稲ちゃんのその時の顔ぐらい、色の白いって事は覚えないんですとさ――
 髪結さんが、隣家となり女房かみさん談話はなしなんです。
 同一おなじのが廻りますからね。
 隣家となりと、お稲ちゃんとこと、同一おなじのは、そりゃいけれど、まあ、飛んでもない事……その法学士さんのうちが、一つ髪結さんだったんでしょう。だもんだから、つい、その頃、法学士さんに、余所よそからお嫁さんが来て、……箱根へ新婚旅行をして帰った日に頼まれて行って、初結いをしたって事を……ござんすか……お稲ちゃんの島田を結いながら、髪結さんが話したんです。」
「ああ、悪い。」
 と春狐は聞きながら、眉をひそめた。
 同じように、打顰うちひそんで、蘭菊は、つげの櫛でびんの毛を、ぐいと撫でた。
「……気を附けないと……何でも髪結さんが、得意先の女の髪を一条ひとすじずつ取って来て、内証ないしょで人のと人のと結び合わせてしまっておいて御覧なさい。
 世間は直ぐに戦争いくさよりは余計乱れると、私、思うんですよ。
 お稲さんは黙って俯向うつむいていたんですって。左挿しに、毛筋を通して銀の平打ひらうちを挿込んだ時、先が突刺つっささりやしないかと思った。はっと髪結さんが抜戻した発奮はずみで、飛石へカチリと落ちました。……
 ――口惜くやしい――とお稲ちゃんが言ったんですって。根揃ねぞろえ自慢でめたばかりの元結もっといが、プッツリ切れ、背中へ音がしてさっと乱れたから、髪結さんは尻餅をつきましたとさ。
 でも、髪結さんは、あのの髪の事ばかり言っておしがってるそうですよ。あんな、美しい、柔軟やわらかな、つやい髪は見た事がないってね、――死骸しがいを病院から引取る時も、こう横に抱いて、看護婦が二人で担架へ移そうとすると、背中から、ずッとかかって、裾よりか長うござんしたって……ほんとうに丈にも余るというんだわね。」
「ああ……聞いてもおしい……何のために、髪までそんなに美しく世の中へ生れて来たんだ。」
 春狐は思わず、なじるがごとく急込せきこんで火鉢をたたいた。
「ねえ、私にだって分りませんわ。」
「で、どうしたんだい。」
「お稲ちゃんは、髪を結った、その時きり、夢中なの。別に駈出かりだすの、手がかかるのって事はなかったんだそうですけれど、たださえ細った食が、もうまるっきり通りますまい。
 すかしても、叱っても。
 しようがないから、病院へ入れたんです。お医者さんもはじめから首をおげだったそうですよ。
 まあね。それでも出来るだけ手当をしたにはしたそうだけれど、やっぱり、……ねえ……おとむらいになってしまって――」
 とうっすりした目のうちが、さっとさめると、ほろりとする。

       二十

 春狐は肩をそびやかした。
「なったんじゃない……葬式ともらいにされたんだ。殺されたんだよ。だから言わない事じゃない、言語道断だ、不埒ふらちだよ。妹をえさに、どじょうが滝登りをしようなんて。」
「ええ、そうよ……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もう不可いけないっていう時分から、ひどく何かを気にしてさ。嬰児あかんぼが先に死ぬし、それに、この葬式ともらいの中だ、というのに、あによめだわね、御自慢の細君が、またどっと病気で寝ているもんだから、ああ稲がとりに来たとりに来たって、蔭ではそう云っていますとさ。」
「待っていた、そうだろう。その何だ、ハイカラな叔母なんぞを血祭りに、家中鏖殺みなごろしに願いたい。ついでにお父さんの中気だけ治してな。」と妙に笑った。
「まあ、」
 と目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、
串戯じょうだんじゃないわ、人の気も知らないで。」
「無論、串戯ではないがね、女言みだりに信ずべからず、半分は嘘だろう。」
「いいえ!」
「まあさ、お前の前だがね、隣の女房かみさんというのが、また、とかく大袈裟おおげさなんですからな。」
「勝手になさいよ、人に散々饒舌しゃべらしといて、嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね。」
 と乙女椿に頬摺ほおずりして、鼻紙に据えて立つ……
 実はそれさえ身に染みた。
 床の間にも残ったが、と見ると、つぼみの堅いのと、かすかに開いた二輪のみ。
「ちょっと、お待ち。」
なあに、」とふすまに手を掛ける。
「でも、少し気になるよ、肝心、こがじにをされた、法学士の方は、別に聞いた沙汰なしかい。」
先方さきでもね、お稲ちゃんがその容体だってのを聞いて、それはそれは気の毒がってね――法学士さんというのが、その若い奥さんに、真になって言ったんだって――お前は二度目だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、たしかに結婚したつもりだって――」
 春狐はふと黙ってそれには答えず……
「ああ、その椿は、成りたけ川へ。」
「流しましょうね、ちょっと拝んで、」
 と二階を下りる[#「 と二階を下りる」は底本では「「と二階を下りる」]、……その一輪の朱鷺色ときいろさえ、消えた娘の面影に立った。
 が、幻ならず、最も目に刻んで忘れないのは、あの、夕暮を、かどに立って、恍惚うっとり空をながめた、およそ宇宙の極まる所は、艶やかに且つ黒きその一点の秘密であろうと思う、お稲の双の瞳であった。
 同じその瞳である。同じその面影である。……
 ――お稲です――
 と云って、振向いた時の、舞台の顔は、あまつさえ、なぞらえたにせよ、向って姿見の真蒼まっさおなと云う行燈あんどんがあろうではないか。
 美しいひとと紳士を振向いた。
貴方あなた。」
 若い紳士は、ステッキを小脇に、細い筒袴ずぼんで、伸掛のしかかってのぞいて、
「稲荷だろう、おい、狐が化けた所なんだろう。」と中折なかおれひさしおしつけるように言った。
 羽織に、ショオルを前結び。またそれが、人形に着せたように、しっくりと姿に合って、真向まんむきに直った顔を見よ。
「いいえ、私はお稲です。」
 紳士は、射られたように、縁台へ退さがった。
 美しい女のつまは、真菰まこもがくれの花菖蒲はなあやめ、で、すらりとむしろの端にかかった……
「ああ、お稲さん。」
 と、あたかもその人のように呼びかけて、
「そう。そして、どうするの。」
 お稲は黙って顔を見上げた。
 小さなその姿は、ちょうど、美しいひとが、脱いだ羽織をしなやかに、ひじに掛けた位置に、なよなよとして見える。
せ!品子さん。」
いわ。」
「見っともないよ。」
「私は構わないの。」

       二十一

「ねえ、お稲さん、どうするの。」
 とまた優しく聞いた。
「どうするって、何、小母さん。」
 役者は、ために羽織を脱いだ御贔屓ごひいきに対して、舞台ながらもおとなしい。
「あのね、この芝居はどういう脚色しくみなの、それが聞きたいの。」
「小母さん見ていらっしゃい。」
 と云った。
 そのうちも、縁台に掛けたり、立ったり、若い紳士は気が気ではなさそうであった。
「おい、もう帰ろうよ、暗くなった。」
 雲にも、人にも、松崎は胸がとどろく。
「待ってて下さい。」
 と見返りもしないで、
「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いいだから。」
「だって、言ったって、芝居だって、同一おなじなんですもの、見ていらっしゃい。」
「急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、不可いけない。」
 お稲は黙ってかぶりる。
「まあ、強情だわねえ。」
「強情ではござりませぬ。」
 と思いがけず幕の中から、しわがれた声を掛けた。美しいひとは瞳を注いだ、松崎はと踏台を離れて立った。――その声は見越入道が絶句した時、――紅蓮ぐれん大紅蓮とつけて教えた、目に見えぬものと同一おなじであった。
「役者は役をしますのじゃ。何も知りませぬ。貴女あなたがお急ぎであらばの、衣裳いしょうをお返し申すがい。」
 と半ば舞台に指揮さしずをする。
「いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです。役者が知らないなら、誰でも構いません。差支えなかったら聞かして下さい。一体ここはどこなんです。」
「六道の辻の小屋がけ芝居じゃ。」
 と幕が動くように向うで言った。
 松崎は、思わず紳士と目を見合った。小児こどもなぞは眼中にない、男は二人のみだったから。
 美しいひとは、かえって恐れげもなくこう言った。
「ああ、分りました、そしてお前さんは?」
「いろいろの魂をかめに入れて持っている狂言方じゃ。たって望みならば聞かせようかの。」
「ええ、どうぞ。」
 と少々わかわかしいのが、あわれに聞えた。
「そこへ……髪結かみゆいが一人出るわいの。」
 松崎は骨の硬くなるのを知ったのである。
「それが、そのお稲の髪を結うわいの。髪結の口からの、若い男と、美しい女と、祝言して仲の睦じい話をするのじゃ。
 その男というのはの、聞かっしゃれ、お稲の恋じゃわいの、命じゃわいの。
 もうもう今までとてもな、腹のきたない、よくまなこくらんだ、兄御のために妨げられて、双方で思い思うた、繋がる縁が繋がれぬ、その切なさで、あわれや、かぼそい、白い女が、紅蓮ぐれん、大紅蓮、……」
 ああ、可厭いやな。
阿鼻焦熱あびしょうねつ苦悩くるしみから、手足がはり、きりこまざいた血の池の中で、もだくるしんで、半ばき、半ば死んで、生きもやらねば死にもらず、死にも遣らねば生きも遣らず、うめき悩んでいた所じゃ。
 また万に一つもと、果敢はかない、細い、はすの糸を頼んだ縁は、その話で、鼠のきばにフッツリと食切られたが、……
 ドンと落ちた穴の底は、狂気きちがいの病院いりじゃ。この段替ればいの、狂乱の所作しょさじゃぞや。」
 と言う。風が添ったか、紙の幕が、あおつ――煽つ。お稲はことばにつれて、すべてしぐさを思ったか、ふりが手にうっかり乗って、恍惚うっとりと目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。……

       二十二

「どうするの、それから。」
 細い、がとおる、力ある音調である。美しいひとのその声に、この折から、背後うしろのみ見返られて、雲のひだにじみにおおいかかる、桟敷裏さじきうらとも思う町を、影法師のごとくようやく人脚の繁くなるのに気を取られていた、松崎は、また目を舞台に引附けられた。
 舞台を見返す瞬間、むこうから、先刻さっきの編笠をかぶったからすような新粉細工が、ふと身を起して、うそうそと出て来るのを認めた。且つそれが、古綿のようにむくむくと、雲の白さが一団ひとかたまり残って、底にかすか蒼空あおぞらの見える……はるかに遠い所から、たとえば、ものの一里も離れた前途さきから、黒雲を背後うしろいておそい来るごとく見て取られた。
 それ、もうそこに、編笠を深く、舞台をのぞく。
 いつの間にか帰って来て、三人に床几しょうぎを貸した古女房も交って立つ。
 彼処かしこに置捨てた屋台車が、ぬしを追うて自らきしるかと、ひびきが地をうねって、轟々ごろごろらいの音。絵の藤も風にさっと黒い。その幕の彼方かなたから、紅蓮、大紅蓮のその声、舌も赤う、ひらめくと覚えて、めらめらと饒舌しゃべる。……
「まだ後が聞きとうござりますか。お稲は狂死くるいじにに死ぬるのじゃ。や、じゃが、家眷親属うからやから余所よそで見るまなこには、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、睫毛まつげを黒うふさいで、の、長煩らいの死ぬ身にはちりすわらず、色が抜けるほど白いばかり。さまでせもせず、苦患くげんも無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心のうち苦痛くるしみはよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。」
「そして、後は、」
 と美しいひとは、白い両手で、しかと紫の襟をおさえた。
「死骸になっての、空蝉うつせみの藻脱けたはだは、人間の手を離れて牛頭ごず馬頭めずの腕に上下からつかまれる。や、そこを見せたい。その仮髪かつらぢゃ、お稲の髪には念を入れた。……島田が乱れて、糸もきれもかからぬ膚を黒く輝く、が天女の後光のように包むを見さい。末はかかとに余ってくぞの。
 鼓草たんぽぽの花の散るように、娘の身体からだは幻に消えても、その黒髪は、金輪こんりん、奈落、長く深く残って朽ちぬ。百年ももとせ千歳ちとせせず、枯れず、次第に伸びて艶を増す。その髪千筋一筋ずつ、けものが食えば野の草から、鳥がめば峰の花から、同じお稲の、同じ姿かたちとなって、一人ずつ世に生れて、また同一おなじ年、同一おなじ月日に、親兄弟、家眷親属、おのが身勝手な利慾りよくのために、恋をせかれ、なさけを破られ、縁をられて、同一おなじ思いで、狂死くるいじにするわいの。あの、厄年の十九を見され、五人、三人一時いっときせるじゃろうがの。死ねば思いが黒髪に残ってその一筋がまた同じ女と生れる、生きかわるわいの。死にかわるわいの。
 その誰もが皆揃うて、親兄弟を恨む、家眷親属を恨む、人を恨む、世をうらむ、人間五常の道乱れて、黒白あやめも分かず、日をおおい、月を塗る……魔道の呪詛のろいじゃ、何と! 魔の呪詛を見せますのじゃ、そこをよう見さっしゃるがい。
 お稲の髪の、乱れてなびく処をのう。」
「死んだお稲さんの髪が乱れて……」
 と美しいひとは、びんに手を遣ったが、ほつれ毛よりも指がゆらいで、
「そして、それからはえ?」
 ときっと言う
此方こなた、親があらば叱らさりょう。よう、それからと聞きたがるの、根問ねどいをするのは、愛嬌あいきょうが無うてようないぞ。女子おなごは分けて、うら問い葉問はどいをせぬものじゃ。」
 雲の暗さが増すと、あたりに黒く艶がす。
 その中に、美しいひとは、声も白いまで際立って、
「いいえ、聞きたい。」

       二十三

「たって聞きたくばの、こうさしゃれ。」
 幕の蔭で、を置いて、落着いて、
「お稲の芝居は死骸の黒髪の長いまでじゃ。ここでは知らぬによって、後はんで、二度ぞいどのに聞かっしゃれ、二度添いの女子おなごに聞かっしゃれ。」
「二度添とは? 何です、二度添とは。」
 扱帯しごきを手繰るように繰返して問返した。
「か、知らぬか、のう。二度添とはの、二度目の妻の事じゃ。男に取替えられた玩弄おもちゃ女子おなごじゃ。古い手に摘まれた、新しい花の事いの。後妻うわなりじゃ、後妻ごさいと申しますものじゃわいのう。」
 ト一度ひっかかったように見えたが、ちらりとむしろの端を、雲の影に踏んで、美しいひとの雪なす足袋は、友染すごく舞台に乗った。
 目をあきらかにじって、
「その後妻とは、二度添とは誰れ、そこに居る人。」と肩を斜め、手を、びたがたてのごとく、行燈あんどんしかと置く。
「おおおお、誰や知らぬ、その二度添というのはの、……お稲がのぞみが遂げなんだ、縁の切れた男に、後で枕添まくらぞえとなった女子おなごの事いの。……娑婆しゃばはめでたや、虫のい、その男はの、我が手で水を向けて、娘の心を誘うておいて、弓でも矢でも貫こう心はなく、先方さきの兄者に、ただ断り言われただけで指をくわえて退すさったいの、その上にの。
 我勝手われがってや。娘がこがれじにをしたと聞けば、おのれが顔をかがみで見るまで、自惚うぬぼれての。何と、早や懐中ふところに抱いた気で、お稲はその身の前妻じゃ。――
 との、まだお稲が死なぬ前に、ちゃッと祝言した花嫁御寮に向うての、――おぬしは後妻じゃ、二度目ぢゃと思うておくれい、――との。何と虫がかろうが。その芋虫にまた早や、うてなしべめられる、二度添どのもあるわいの。」
 と言うかと思う、声の下で、
「ほほほほほ」
 と口紅がこぼれたように、散って舞うよと花やかに笑った。
 ああ、はだが透く、心が映る、美しいひとの身の震う影がくまなくきぬ柳条しまからんで揺れた。
「帰ろう、品子、何をしとる。」
 紳士はずかずかと寄って、
つまらん、さあ、帰るんです、帰るんだ。」
 とせり着くように云ったが、身動きもしないのを見て、たまりかねたていで、ぐいと美しいひとの肩を取った。
「帰らんですか、おい、帰らんのか。」
 その手はと袖で払われた。
貴方あなたは何です。女の身体からだに、勝手に手を触っていんですか。他人の癖に、……」
「何だ、他人とは。」
 憤気むきになると、……
「舞台へ、靴で、誰、お前は。」
 先刻さっきから、ただ柳が枝垂しだれたように行燈にもたれていた、黒紋着くろもんつきのその雪女が、りんとなって、両手で紳士の胸をした。
 トはっとしたていで、よろよろと退しさったが、腰も据らず、ひょろついて来てすがるように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。
貴方あなたを、伴侶つれ、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」
 紳士は探険と言った。
「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」
「それはよくない。不可いけません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」
「そ、そんなら、さいを――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出ひっぱりだして下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」

       二十四

「いいえ、御心配には及びません。」
 松崎は先んじられた……そして美しいひとは、ふちの測り知るべからざる水底みなそこの深き瞳を、鋭く紳士のおもてに流して
「私はたしかです。発狂するなら貴方がなさい、御令妹ごれいまいのお稲さんのために。」
 と、さわやかに言った。
「私とは、他人なんです。」
「他人、何だ、何だ。」
 とあえぐ、
「ですが、私に考えがあって、ちょっと知己ちかづきになっていたばかりなんです。」
 美しいひとは、そんなものは、と打棄うっちゃる風情で、とまた幕に向って立直った。
「そこに居る人……お前さんは不思議に、よく何か知っておいでだね、地獄、魔界の事まで御存じだね。えらいのね。でも悪魔、変化へんげばかりではない、人間にも神通じんずうがあります。私が問うたら、お前さんは、って聞けと言いましたね。
 私は即座に、その二度ぞい、そのうわなり、その後妻に、今ここで聞きました。……
 お稲さんが亡くなってから、あとのその後妻の芝居を、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんは御存じかい。」
 幕の内で、
朧気おぼろげじゃ、冥土めいどの霧で朧気じゃ。はっきりした事を聞きたいのう。」
「ええ、聞かしてあげましょう。――男に取替えられた玩弄おもちゃは、古い手に摘まれた新しい花は、はじめは何にも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、あさひに向って咲いたのだと人なみに思っていました。ですが、蝶が来て、一所に遊ぶ間もなかったんです。
 お稲さんの事を聞かされました。玩弄おもちゃは取替えられたんです、花は古い手につまれたんです……男は、潔い白い花を、後妻になれと言いました。
 贅沢ぜいたくです、生意気です、行過ぎています。思った恋をし遂げないで、引込んだら断念めればい、そのために恋人が、そうまでにして生命いのちを棄てたと思ったら、自分も死ねばいんです。死なれなければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていれば可いんです。
 力が、男に足りないで、殺させた女を前妻だ、と一人めにして、その上に、新妻にいづまを後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれ、といけ洒亜々々しゃあしゃあとして、髪を光らしながら、鰌髭どじょうひげの生えた口で言うのは何事でしょうね。」
「いよいよ発狂だ、人の前で見っともない。」
 紳士は肩で息をした、その手は松崎にすがっている。……
「ええ、人の前で、見っともないと云って、ここには幾多いくたり居ます。指を折って数えるほどもない。夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だか知れません。
 夫も夫、お稲さんの恋を破った。そこにおいでの他人も他人、みんな、女のかたきです。
 幕の中の人、お聞きなさい。
 二度添にされた後妻はね……それから夫のことばに、わざと喜んで従いました。
 涙を流して同情して、いっそ、後妻と云うんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。そのうまれ代わりになりましょう、と云って、表向きつてを求めて、お稲さんの実家に行って、そして私を――その後妻を――兄さんの妹分にして下さい、と言ったんです。
 そこに居る他人は、涙を流して喜びました。もっとも、そこに居るようなハイカラさんは、わかい女が、兄さん、とさえ云ってやれば、何でもでも涙を流すにきまっています。
 私は精々せっせ出入ではいりしました。先方さきからも毎日のように来るんです。そして兄さん、兄さんと、云ううちには、きっと袖を引くにきまっているんです。しかも奥さんは永々の病気の処、私はそれが望みでした。」
 いなびかりが、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、撞木しゅもく橋、川を射て、橋に輝くか、とと町をとおった。

       二十五

「その望みがかなったんです。
 そして、今日も、夫婦のような顔をして、二人づれで、お稲さんの墓参りに来たんです――夫は、私がこうするのを、お稲さんの霊魂たましいが乗りうつったんだと云って、無性に喜んでいるんです。
 殺した妹の墓の土もまだ乾かないのに、私と一所に、墓参りをして、御覧なさい、裁下たちおろしの洋服の襟に、乙女椿の花を挿して、お稲は、こういう娘だったと、平気で言います。
 その気ですからね。」
 紳士の身体からだは靴を刻んで、揺上ゆりあがるようだったが、ト松崎が留めたにもかかわらず、かッと握拳にぎりこぶしで耳をおさえて、横なぐれに倒れそうになって、たちまち射るがごとく町を飛んだ。そのさまは、人の見る目に可笑おかしくあるまい、つぶてのごとき大粒の雨。
 雨の音で、寂寞ひっそりする、と雲にむせるように息がつまった。
「幕の内の人、」
 美しいひとは、吐息といきして、あらためて呼掛けて、
「お前さんが言った、その二度添いの談話はなしは分ったんですか。」
「それから、」
 と雨に濡れたような声して言う。
「これが知れたら、男二人はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思います。それが幕なのです。」
「さて、そのあとはどうなるのじゃ。」
「あら、……」
 もどかしや。
「お前さんも、根問ねどいをするのね。それでいではありませんか。」
「いや、うないわいの、まだ肝心な事が残ったぞ。」
「肝心な事って何です。」
「はて、此方こなたも、」
 雨に、つと口を寄せた気勢けはいで、
「知れた事じゃ……肝心のその二度添ぞいどのはどうなるいの。」
 聞くにも堪えじ、と美しいひとまなじりあがった。
「ええ、廻りくどい! 私ですよ。」
 と激したさまで、行燈あんどんを離れて、横ざまに幕の出入口に寄った。流るるような舞台の姿は、斜めに電光いなびかりさっと送られた。……
「分っているがの。」
 と鷹揚おうように言って、
「さてじゃ、此方こなたの身ははてはどうなるのじゃ。」
「…………」
 ふと黙って、美しいひとは、行燈に、しょんぼりと残ったお稲の姿にそのまなじりを返しながら、
「お前さんの方の芝居は? この女はどうなる幕です。」
「おいの、……や、紛れて声を掛けなんだじゃで、お稲は殊勝気けなげに舞台じゃった。――雨に濡りょうに……折角の御見物じゃ、幕切れだけ、ものを見しょうな。」
 と言うかと思うと、唐突だしぬけにどろどろと太鼓が鳴った。音を綯交なえまぜに波打つらい鳴る。
 猫が一疋といたちが出た。
 ト無慙むざんや、行燈の前に、仰向あおむけに、一個ひとつつむりを、一個ひとつ白脛しらはぎを取って、宙に釣ると、わがねの緩んだ扱帯しごきが抜けて、紅裏もみうらが肩をすべった……雪女はほっそりとあからさまになったと思うと、すらりと落した、肩なぞえの手を枕に、がっくりとうなじさがって、目を眠った。その面影にさっと影、黒髪がたけに乱れて、舞台より長く敷いたのを、兇悪異変なつら二つ、ただめんのごとく行燈より高い所を、ずるずると引いて、美しいひとの前を通る。
 幕に、それが消える時、風がなげうつがごとく、虚空から、――雨交りに、電光の青き中を、朱鷺色ときいろが八重に縫う乙女椿の花一輪。はたと幕に当って崩れもせず……お稲の玉なす胸に留まって、たちまち隠れた。
 美しいひとむしろ爪立つまだって身悶みもだえしつつ、
「お稲さんは、お稲さんは、これからどうなるんです、どうなるんです。」
「むむ、くどいの、あとは魔界のものじゃ。雪女となっての、三つ目入道、大入道の、酌なととぎなとしょうぞいの。わはは、」
 と笑った。
 美しいひとは、額を当てて、幕をつかんで、
「生意気な事をお言いでない。幕の中の人、悪魔、私も女だよ、十九だよ……お稲さんと同じ死骸になるんだけれど、誰が、誰が、酌なんか、……可哀相にお稲さんを――女はね、女はね、そんな弱いものじゃない。私を御覧。」
 はたた、はたた神。
 南無三宝なむさんぽう、電光に幕あるのみ。
「あれえ。」と聞えた。
 瞬間、松崎は猶予ためらったが、棄ておかれぬのは、続いて、編笠した烏と古女房が、と幕を揚げて追込んだ事である。
 手を掛けると、触るものなく、しのつく雨のすだれが落ちた。
 と見ると、声のしたものは何も見えない。三つ目入道、狐、狸、猫も鼬もごちゃごちゃと小さく固まっていたが、松崎の殺進に、気を打たれたか、ばらばらと、奥へげる。とはてしもなく野原のごとく広い中に、塚を崩した空洞うつろと思う、穴がぽかぽかとおおきくぼんで蜂の巣を拡げたような、その穴の中へ、すぽん、と一個ひとつずつ飛込んで、ト貝鮹かいだこと云うものめく……頭だけ出して、ケラケラと笑ってせた。
 何等の魔性ぞ。這奴しゃつ等が群り居た、土間の雨に、※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)ひきむしられたきぬあやを、驚破すわや、蹂躙ふみにじられた美しいひとかと見ると、帯ばかり、扱帯しごきばかり、花片はなびらばかり、葉ばかりぞ乱れたる。
 途端に海のような、真昼を見た。
 広場は荒廃して日久しき染物屋らしい。縦横たてよこに並んだのは、いずれも絵の具の大瓶おおがめである。
 あわれ、その、せめて紫の瓶なれかし。鉄のひびわれたごとき、遠くの壁際の瓶の穴に、美しいひとの姿があった。つむりを編笠が抱えた、手も胸も、面影も、しろしろと、あの、舞台のお稲そのままに見えたが、ただ既に空洞うつほへ入って、底から足をくものがあろう、美しいひとは、半身を上に曲げて、腰のあたりは隠れたのである。
 雪のような胸には、同じ朱鷺色ときいろの椿がある。
 叫んで、走りかかると、瓶の区劃しきりつまずいて倒れた手に、はっと留南奇とめきして、ひやひやと、氷のごとく触ったのは、まさしく面影を、垂れたかいなにのせながら土間を敷いて、長くそこまでなびくのを認めた、美しいひとの黒髪の末なのであった。
 この黒髪は二筋三筋指にかかって手に残った。
 海に沈んだか、と目に何も見えぬ。
 四ツの壁は、流るるいなびかりと輝く雨である。とどろとどろと鳴るかみは、大灘おおなだの波のうなりである。
「おでんや――おでん。」
 戸外おもてく、しかも女の声。
 我に返って、うように、空屋の木戸を出ると、雨上りの星が晃々きらきら
 後で伝え聞くと、同一おなじ時、同一おなじ所から、その法学士の新夫人の、行方の知れなくなったのは事実とか。……松崎は実は、うらわかい娘の余り果敢はかなさに、亀井戸もうで帰途かえるさ、その界隈かいわいに、名誉の巫子いちこを尋ねて、そのくちよせを聞いたのであった……霊のきたったさまは秘密だから言うまい。たまあがる時、巫子は、くうを探って、何もない所から、ゆんづるにかかった三筋ばかりの、長い黒髪を、お稲の記念かたみぞとて授けたのを、とやせんとばかりでまよいちまた
 黒髪は消えなかった。
大正二(一九一三)年五月





底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日発行
※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月12日作成
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