唄立山心中一曲

泉鏡花




       一

「ちらちらちらちら雪の降る中へ、松明たいまつがぱっと燃えながら二本――誰も言うことでございますが、ほかにいたし方もありませんや。真白まっしろな手が二つ、悚然ぞっとするほどなおんなが二人……もうやがてそこら一面にうっすり白くなった上を、しずかに通ってくのでございます。正体は知れていても、何しろそれに、所が山奥でございましょう。どうもね、余り美しくって物凄ものすごうございました。」
 と鋳掛屋いかけやが私たちに話した。
 いきなり鋳掛屋が話したでは、ちと唐突だしぬけに過ぎる。知己ちかづきになってこの話を聞いた場所と、そのいきさつをちょっと申陳もうしのべる。けれども、肝心な雪女郎と山姫が長襦袢ながじゅばんあらわれたようなお話で、少くとも御覧の方はさきをお急ぎ下さるであろうと思う、で、簡単にその次第を申上げる。
 所は信州姨捨おばすての薄暗い饂飩屋うどんやの二階であった。――饂飩屋さえ、のっけに薄暗いと申出るほどであるから、夜の山の暗い事思うべしで。……その癖、可笑おかしいのは、私たちは月を見ると言って出掛けたのである。
 別に迷惑を掛けるような筋ではないから、本名で言っても差支えはなかろう。その時のつれ小村雪岱こむらせったいさんで、双方あちらこちらの都合上、日取が思うつぼにはならないで、十一月の上旬、潤年うるうどしの順におくれた十三夜の、それも四日ばかり過ぎた日の事であった。
 ――居待月である。
 一杯飲んでいる内には、木賊とくさ刈るという歌のまま、みがかれづる秋のの月となるであろうと、その気でしのノ井で汽車を乗替えた。が、日の短い頃であるから、五時そこそこというのにもうとっぷりと日が暮れて、間は稲荷山いなりやまただ一丁場ひとちょうばだけれども、線路が上りで、進行が緩い処へ、乗客が急に少く、二人三人と数えるばかり、おおきな木の葉がぱらりと落ちたようであるから、掻合かきあわす外套がいとうそでも、妙にばさばさと音がする。外は霜であろう。山の深さも身にみる。さえそぞろに更け行くように思われた。
「来ましたよ。」
「二人きりですね。」
 と私は言った。
 名にし負う月の名所である。ここの停車場ステエションを、月の劇場の木戸口ぐらいな心得違いをしていた私たちは、のぼり万燈まんどうには及ばずとも、屋号をかいた弓張提灯ゆみはりぢょうちんで、へい、茗荷屋みょうがやでございます、旅店の案内者ぐらいは出ていようと思ったの大きな見当ちがい。絵にいた木曾の桟橋かけはしを想わせる、断崖がけの丸木橋のようなプラットフォームへ、しかも下りたのはただ二人で、改札口へ渡るべき橋もない。
 一人がバスケットと、一人が一升びんを下げて、月はなけれど敷板の霜に寒い影を映しながら、あちらへき、こちらへ戻り、で、小村さんが唇をちょっと曲げて、
「汽車が出ないと向うへは渡られませんよ。」
「成程。線路を突切つっきって行く仕掛けなんです。」
 やがてむらむらと立昇る白い煙が、妙に透通って、さっと屋根へかかる中を、汽車は音もしないようにしずかに動き出す、とうるしのごとき真暗まっくらな谷底へ、ごうこだまする……
「行っていらっしゃいまし……おしずかに――」
 と私はつい、目のさきをすれすれに行く、冷たそうに曇った汽車の窓のあかり挨拶あいさつした。ここへ二人きり置いて行かれるのが、山へてられるような気がして心細かったからである。
 壇はあるが、深いから、首ばかり並んで霧のなかなる線路を渡った。
「ちょっと、伺いますが。」
「はあ?」
 手ランプを提げた、真黒まっくろ扮装いでたちの、年のわかい改札がかりわずかに一人いちにん
 待合所の腰掛の隅には、頭から毛布けっとかぶったのが、それもただ一人居る。……これが伊勢だと、あすこをねらって吹矢を一本――と何も不平を言うのではない、旅の秋を覚えたので。――小村さんは一旦外へ出たが、出ると、すぐ、横の崖かいわを滴る、ひたひたと清水の音に、用心のため引返して、駅員に訊いたのであった。
「その辺に旅籠屋はたごやはありましょうか。」
「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約半道はんみちばかりきますと、湯の立つ家があるですよ。ほかは大概一週間に一度ぐらいなものですでなあ。」
「あの風呂を沸かしますのが。」
「さよう。」
難有ありがとう――少しどうも驚きました。とにかく、そこいらまで歩いてみましょう。」
 と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、
「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……なんしろ暗い。」
 と構内の柵について……ともしび百合ゆりが咲く、おおきな峰、広い谷に、はらはらとあるをたよりに、ものの十けんとは進まないで、口を開けて足をおおかみのようないわこみちに行悩んだ。
「どうです、いっそここへしゃがんで、壜詰びんづめの口を開けようじゃありませんか。」
「まさか。」
 と小村さんは苦笑して、
「姨捨山、田毎たごとの月ともあろうものが、こんなみちで澄ましているって法はありません。きっと方角を取違えたんでしょう。お待ちなさいまし、逆に停車場ステエションの裏の方へ戻ってみましょう。いくらかあかりが見えるようです。」
 双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、停車場ステエションには早や駅員の影も見えぬ。毛布けっとかぶりのせた達磨だるまの目ばかりが晃々きらきらと光って、今度はどうやら羅漢に見える。
 と停車場ステエションうしろは、突然いきなり荒寺の裏へ入った形で、ぷんと身にみるの葉のにおい、鳥の羽ででられるように、さらさらと――袖が鳴った。
 落葉を透かして、山懐やまふところの小高い処に、まだ戸をさないあかりが見えた。
 小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、
「きっと飲ませますよ、この戸の工合ぐあいが気に入りました」
いきおいよく、一足先に上ったが、程もあらせず、ざわざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、
「退却……」
「え、安達あだちヶ原ですか。」
と聞く方が慌てている。
「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋わらじを造っていましてね。何だ、誰じゃいッてわめくんです。」
「いや、それは恐縮々々。」
「まことに済みません。発起人がこの様子で。」
「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込ひっこむんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、……
わが心なぐさめかねつ更科さらしな
     姨捨山に照る月をみて
 照る月をみて慰めかねつですもの、暗いから慰められていわけです。いよいよ路が分らなければ、停車場ステエションで、次の汽車を待って、松本まで参りましょう。時間がありますからそこは気丈夫です。」
 しかるところ、暗がりに目がれたのか、空は星の上に星がかさなって、そこひなく晴れている――どこの峰にも銀の覆輪ふくりんはかからぬが、おのずから月の出の光が山のはだとおすかして、いわかけめも、路の石も、褐色かばいろに薄く蒼味あおみして、はじめ志した方へかすかながら見えて来た。灯前あかりさきの木の葉は白く、陰なる朱葉もみじの色もにじむ。
 かくして辿たどりついた薄暗い饂飩屋であった。
 なんしろ薄暗い。……赤黒くどんよりすすけた腰障子の、それも宵ながら朦朧もうろうと閉っていて、よろず荒もの、うどんあり、と記したおおきな字が、いびきをかいていそうに見えた。
 この店の女房が、東京ものは清潔きれいずきだからと、気を利かして、正札のついた真新しい湯沸ゆわかし達引たてひいてくれた心意気に対しても、言われた義理ではないのだけれど。
「これは少々酷過ひどすぎますね。」
「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」
 実は、この段、ささやき合って、ちょうどそこが三岐みつまたの、一方は裏山へ上る山岨やまそばの落葉のこみち。一方は崖を下る石ころ坂の急なやつ。で、その下りる方へ半町ばかりまた足探り試みたのであるが、がけの陰になって、暗さは暗し、路は悪し、は遠し、思切って逆戻りにその饂飩屋を音訪おとずれたのであった。
「御免なさい。」
 と小村さんが優しいおだやかな声を掛けて、がたがたがたと入ったが、向うの対手あいてより土間の足許あしもと俯向うつむいてつつ、横にとぼとぼと歩行あるいた。
 灯が一つ、ぼうと赤く、宙に浮いたきりで何も分らぬ。つりランプだが、火屋ほやも笠も、すすと一所に油煙で黒くなって正体が分らないのであった。
 が凝視みつめる瞳で、やっと少しずつ、四辺あたり黒白あいろが分った時、私はフト思いがけない珍らしいものをた。

       二

 かまちの柱、天秤棒てんびんぼうを立掛けて、鍋釜なべかま鋳掛いかけの荷が置いてある――亭主が担ぐか、場合に依ってはこうしたてあい小宿こやどでもするか、鋳掛屋の居るに不思議はない。が、珍らしいと思ったのは、薄汚れた鬱金木綿うこんもめんの袋に包んで、その荷に一ちょうまがうべくもない、三味線をゆわえ添えた事である。
 話に聞いた――谷を深く、ふもとを狭く、山の奥へ入った村里を廻る遍路のような渠等かれらには、小唄浄瑠璃じょうるりに心得のあるのが少くない。く先々の庄屋のものおき、村はずれの辻堂などを仮の住居すまいとして、昼は村の註文を集めて仕事をする、傍ら夜は村里の人々に時々の流行唄はやりうた浪花節なにわぶしなどをも唄って聞かせる。聞く方では、祝儀のかわりに、なくても我慢の出来る、片手とれた鍋の鋳掛もあつらえるといった寸法。小児こども飴菓子あめがしを売って一手ひとて踊ったり、唄ったり、と同じ格で、ものは違っても家業の愛想――盛場さかりばの吉原にさえ、茶屋小屋のおかっぱお莨盆たばこぼんに飴を売って、じじやあっち、ばばやこっち、おんじゃらこっちりこ、ぱあぱあと、鳴物入でたことおかめの小人形を踊らせた、おんじいがあったとか。同じ格だが、中にはすごいようなうまいのがあるという。
 唄いながら、草や木の種子たねを諸国にく。……怪しい鳥のようなものだと、その三味線が、ひとりで鳴くようにじった。
「相談は整いました。」
「それは難有ありがたい。」
「きあ、二階へどうぞ……なんしろ汚いんでございますよ。」
 と、雨もりのような形が動くと、紺の上被うわっぱりを着たおんなになって、ガチリと釣ランプをひねって離して、かまちから直ぐの階子段はしごだん
 小村さんが小さな声で、
なんしろこのていなんですから。」
「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」
「では、そのおつもりで――さあ、あがりましょう。」
 といきおいよく、下駄を踏違えるトタンに、
「あっ、」と言った。
 きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。
 見事に小狗こいぬふみつけた。小村さんは狼狽うろたえながら、穴をのぞくように土間を透かして、
「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」
 で、げないばかりに階子はしごあがると、続いた私も、一所にぐらぐらと揺れるのに、両手を壇のはじにしっかりすがった。二階から女房が、
「お気をつけなさいましよ……おつむをどうぞ……お危うございますよ、お頭を。」
なあに。」
 ほっとしながら、小村さんは気競きおったように、
「踏着けられた狗から見りゃ、頭をつけるなんぞ何でもない。」
 日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程周章あわてたに違いない。
 きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と断々きれぎれに、声が細って泣止なきやまない。
「身にみますね、何ですか、狐が鳴いてるように聞えます。」
 木地の古びたのが黒檀こくたんに見える、卓子台ちゃぶだいにさしむかって、小村さんは襟を合せた。
 くだんの油煙で真黒まっくろで、ぽっと灯の赤いランプの下にかしこまって、動くたびに、ぶるぶると畳の震う処は天変に対し、謹んで、日蝕を拝むがごとく、少なからず肝を冷しながら、
「旅はこれだからいんです。何も話の種です。……話の種と言えばね、小村さん。」
 と、探らないと顔が分らぬ。
「はあ。」
「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、月宵鄙物語つきのよいひなものがたりというのがあります、御存じでしょうけれど。」
「いいえ。」
「それはね、月見の人に、木曾の麻衣あさぎぬまくり手したる坊さん、というのが、話をする趣向になっているんですがね。(更科山さらしなやまの月見んとて、かしこにまかり登りけるに、おおいなるいわにかたかけて、ひじれ造りたる堂あり。観音を据えたてまつれり。鏡台とか云う外山とやまに向いて、)……と云うんですから、今の月見堂の事でしょう。……きっとこの崖の半腹にありましょうよ。……そこの高欄におしかかりながら、月を待つのおとぎにとて、その坊さんが話すのですが、薗原山そのはらやま木賊刈とくさがり伏屋里ふせやのさと箒木ははきぎ、更科山の老桂ふるかつら千曲川ちくまがわ細石さざれいし、姨捨山の姥石うばのいしなぞッて、標題みだしばかりでも、妙にあわれに、もの寂しくなるのです。皆この辺の、山々谷々の事なんでしょう。なんにしろ、
信濃なる千曲の川のさゞれ石も
    君しふみなば玉とひろはん
 と言う場所なんですもの。――やあ、明るくなった。」
 と思わず言った。
 釣ランプが、真新しい、あかるいのに取換ったのである。
「お待遠様、……済みません。」
「どういたしまして、飛んだ御無理をお願い申して。」
 女房は崩れたびんの黒い中から、思いのほか白い顔で莞爾にっこりして、
「私どもでは難有ありがたいんでございますけれども、まあ、何しろ、お月様がいらっしって下さると可いんですけれども。」
 その時、一列に蒲鉾形かまぼこがたった障子を左右に開けると、ランプの――小村さんが用心につるおさえた――灯が一煽ひとあおり、山気がさっと座に沁みた。
「一昨晩の今頃は、二かさも三かさもおおきい、真円まんまるいお月様が、あの正面へおいでなさいましてございますよ。あれがね旦那、鏡台山きょうだいざんでございますがね、どうも暗うございまして。」
「音に聞いた。どれ、」
 と立つと、ぐらぐらとなる……
「おっと。」
 欄干につかまって、蝸牛かたつむりという身で、背を縮めながら首を伸ばし、
「漆で塗ったようだ、ぼっと霧のかかった処は研出とぎだしだね。」
 宵の明星が晃然きらりあおい。
「あの山裾やますそが、左の方へ入江のように拡がって、ほんのり奥にあかりが見えるでございましょう。善光寺平ぜんこうじだいらでございましてね。灯のありますのは、善光寺の町なんでございますよ。」
「何里あります。」
「八里ございます。」
「ははあ。」
「真下の谷底に、ちらちらとが見えましょう、あそこが、八幡やはたの町でございましてね、お月見の方は、あそこから、皆さんが支度をなすって、私どもの裏の山へお上りになりますんでございますがね。鏡台山と、ちょうどさし向いになっております――おお、冷えますこと、……唯今ただいまお火鉢を。」
「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」
 と座に戻ると、小村さんは真顔でひざに手を置いて、
「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、桟敷さじきが落ちそうで危険けんのんですから。」
「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。可恐おそろしいね。」
 と二人は顔を見合せた。
 が、註文通り、火鉢に湯沸ゆわかしが天上して来た、火もかッと――この火鉢と湯沸が、前に言った正札つきなる真新しいのである。酒も銚子ちょうしだけを借りて、持参の一升びんかんをするのに、女房は気障きざだという顔もせず、お客冥利みょうりに、義理にうどんをあつらえれば、乱れてもすなおに銀杏返いちょうがえしびんを振って、
「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞおこうのものを差上げましょう。」
 その心意気。
難有ありがたい。」
 と熱燗あつかん三杯、手酌でたてつけた顔を撫でて、
「おかみさん。」
 杯をずいとさして、
「一つ申上げましょう、お知己ちかづきに……」
「私は一向に不調法ものでございまして。」
「まあ一盞ひとつ。」
「もう、全く。」
「でも、一盞ひとつぐらい、お酌をしましょう。」
 と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、すべるように、しかもきしんでげ下りる。
「何だい。」
「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうかしら。」
「泊りましょうか。」
御串戯ごじょうだんを。」
 クイッ、キュウ、クック――と……うらかなしげに、また聞える。
「弱りました。あのいぬには。」
 と小村さんはまた滅入めいった。
 のしのしみしり、大皿を片手に、そこへ天井を抜きそうに、ぬいとあらわれたのは、色の黒い、いがぐりで、しるし半纏ばんてんの上へ汚れくさった棒縞ぼうじま大広袖おおどてらはおった、からすねの毛だらけ、図体はおおきいが、身のしまった、腰のしゃんとした、鼻の隆い、目の光る……年配は四十あまりで、稼盛かせぎざかりの屈竟くっきょう山賊面さんぞくづら……腰にぼッ込んだ山刀の無いばかり、あの皿はんだ、へッへッ、生首二個ふたつ受取ろうか、と言いそうな、が、そぐわないのは、あごに短い山羊髯やぎひげであった。
「御免なせえ……お香のものと、媽々衆かかしゅが気前を見せましたが、取っておきのこの奈良漬、こいつあ水ぽくてちとちゅうでがす。菜ッ葉が食えますよ。長蕪ながかぶてッて、ここら一体の名物で、おつに食えまさ、めしあがれ。――ところで、媽々衆のことづてですがな。せつかく御酒を一つと申されたものを、やけな御辞退で、何だかね、南蛮なんばん秘法の痲痺薬しびれぐすり……あの、それ、何とか伝三熊の膏薬こうやくとか言う三題ばなしを逆に行ったような工合で、旦那方のお酒に毒でもありそうな様子あいが、申訳がございません。で、居候のわっしに、代理として一杯、いんえただ一つだけ。おしるしに頂戴してくれるようにと申すんで、や、も、御覧のとおり不躾ぶしつけながらまかり出ました。実はね、媽々衆、ああ見えて、浮気もんでね、亭主は旅稼ぎで留守なり、こちらのお若い方のような、おッこちが欲しさに、酒どころか、杯をっておりますんでね。はッはッはッ。」
 階子はしごの下から、伸上った声がして、
「馬鹿な事を言わねえもんだ。」
 と、むきになると、まるだしの田舎なまり。
真鍮台しんちゅうだいめ。」と言った。
「……真鍮台?……」
 聞くと……真鍮台、またの名を銀流しの藤助とうすけと言う、金箔きんぱくつきの鋳掛屋で、これが三味線の持ぬしであった。面構つらがまえでも知れる……このしたたかものが、やがて涙ぐんで……話したのである。

       三

わッしはね、旦那。まだその時分、宿を取っちゃあいなかったんでございます、居酒屋、といった処で、豆腐も駄菓子もつッくるみに売っている、天井につるした蕃椒とうがらしの方が、よりは真赤まっかに目に立つてッた、しなびた店で、ほだ同然のにしんに、山家片鄙へんぴはおきまりの石斑魚いわな煮浸にびたし衣川ころもがわくいしばった武蔵坊弁慶の奥歯のようなやつをせせりながら、店前みせさきで、やた一きめていた処でございましてね。
 ちょっとわっし懐中合ふところあいと、鋳掛屋風情のこの容体では、宿が取悪とりにくかったんでございますよ。というのが、焼山やけやまの下で、パッと一くべ、おへッつい様をしたも同じで、山を越しちゃあ、別に騒動も聞えなかったんでございますが、五日ばかり前に、その温泉に火事がありました。ために、木賃らしい、この方に柄相当のなんぞ焼けていて、二三軒残ったのは、いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。
 ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中やまなかで、……狼温泉――」
 「ああ、どこか、三峰山みつみねさんの近所ですか。」
 と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参ぬけまいりをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐こわい思いをした小村さんは、聞怯ききおじをして口を入れた……むがごとく杯をふくみながら、
「あすこじゃあ、お狗様いぬさまと言わないと山番に叱られますよ。」
 藤助は真顔で、微酔ほろよいかぶりった。
「途方もねえ、見当違い、山また山をはるかに離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里もおくへ入った、飛騨ひだの山中――心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。
 山坂を踏越えて、少々たいらな盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰ひざたはまた格別、……ひどいもので、村はずれには、落葉、枯葉、焼灰に交って、※(「けものへん+葛」、第3水準1-87-81)子鳥あとり頬白ほおじろ山雀やまがらひわ小雀こがらなどと言う、あかだ、青だ、黄色だわ、紫の毛も交って、あの綺麗な小鳥どもが、路傍みちばたにはらはらと落ちている。こいつあ、それ、時節が今頃になりますと、よく、この信州路、木曾街道の山家には、暗い軒に、糸で編んで、ぶら下げて、美しい手鞠てまりもつれたように売ってるやつだて。それが、お前さん、火事騒ぎに散らかったんで――驚いたのは、中に交って、鴛鴦おしどりが二羽……つがいかね。……
 や、頂きます、ト、ト、ごぜえやさ。」
 と小村さんの酌を、ふたするようなおおきてのひらで請けながら、
「どうもね、捨って抱きたいようでがしたぜ。まさか、池に泳いだり、樹に眠ったのが、火の粉を浴びはしますめえ。売ものが散らばりましたか、真赤まっかそまった木の葉を枕で、目を眠っていましたよ。
 天秤棒一本で、天井へ宙乗ちゅうのりでもするように、ふらふらふらふら、山から山を経歴へめぐって……ええちょうど昨年の今月、日は、もっと末へ寄っておりましたが――この緋葉もみじ真最中まっさいちゅう、草も雲もにじのような彩色の中を、飽くほどて通ったわっしもね、これには足がとまりました。
 なんと……綺麗な、その翼の上も、一重ひとえ敷いて、うっすり、白くなりました。この景色に舞台がかわって、雪の下から鴛鴦おしどりの精霊が、鬼火をちらちらと燃しながら、すっと糶上せりあがったようにね、お前さん……唯今の、その二人のおんなが、わっしの目に映りました。すごいように美しゅうがした。」
 と鋳掛屋は、肩をやわらかに、胸を低うして、あらためて私たち二人をたが、
「で、山路へかかる、狼温泉の出口を通るんでございますが、場所はソレくだんの盆地だ。わっしが飲んでいました有合ありあい御肴おんさかなというおきまりの一膳めしの前なんざ、小さな原場はらっぱぐらい小広うございますのに――それでも左右へ並ばないで、前後あとさきになって、すっと連立って通ります。
 前へ立ったのは、みのを着て、竹の子笠をかぶっていました。……端折った片褄かたづま友染ゆうぜんが、わらすそに優しくこぼれる、稲束いなたばの根に嫁菜が咲いたといった形。ふっさりとした銀杏返いちょうがえし耳許みみもとへばらりと乱れて、道具は少し大きゅうがすが、背がすらりとしているから、その眉毛の濃いのも、よく釣合って、抜けるほど色が白い、ちと大柄ではありますが、いかにも体つきの嫋娜しなやかおんなで、
(今晩は。)
 と、通掛とおりかかりに、めし屋へ声を掛けてきました。が、ぱっ[#「火+發」、174-5]と燃えてる松明たいまつの火で、おくれ毛へ、こう、雪の散るのが、白い、その頬をぐようで、鮮麗あざやかに見えて、いたいたしい。
 いたいたしいと言えば、それがね、素足に上草履うわぞうり。あの、旅店やどやで廊下を穿かせる赤い端緒はなおの立ったやつで――しっとりとちと沈んだくらい落着いたおんななんだが、実際その、心も空になるほど気のめるわけがあって――思い掛けず降出した雪に、足駄でなし、草鞋わらじでなし、中ぶらりに右のつッかけ穿ばきで、ストンと落ちるように、旅館から、上草履で出たと見えます。……その癖、一生の晴着というので、おっかさん譲りの裙模様、紋着もんつきなんか着ていました。
 お話をしますうちに、仔細しさいは追々おわかりになりますが――これが何でさ、双葉屋と言って、土地での、まず一等旅館の女中で、お道さんと言う別嬪べっぴん、以前で申せば湯女ゆななんだ。
 いや、湯女ゆな見惚みとれていて、肝心の御婦人がおくれました。もう一人の方は、山茶花さざんかと小菊の花の飛模様のコオトを着て、白地の手拭てぬぐいを吹流しの……妙なこしらえだと思えば……道理こそ、降りかゝる雪をいとったも。お前さん、いま結立ゆいたてと見える高島田の水のりそうなのに、対に照った鼈甲べっこう花笄はなこうがい花櫛はなぐし――このこしらえじゃあ、白襟に相違ねえ。お化粧も濃く、紅もさしたが、なぜか顔の色が透き通りそうに血が澄んで、品のいいのが寂しく見えます。華奢きゃしゃな事は、吹つけるほどではなくても、雪を持った向風むかいかぜにゃ、傘も洋傘こうもりも持切れますめえ、かぶりもしないで、湯女ゆなと同じ竹の子笠を胸へ取って、襟を伏せて、俯向うつむいてきます。……袖の下には、お位牌いはいを抱いて葬礼ともらい施主せしゅに立ったようで、こう[#「こう」は底本では「かう」]正しく端然しゃんとした処は、る目に、神々しゅうございます。何となく容子ようす四辺あたりを沈めて、陰気だけれど、気高いんでございますよ。
 同じ人間もな……鑄掛屋を一人土間であおらして、納戸の炬燵こたつに潜込んだ、一ぜん飯の婆々ばば媽々かかなどと言うてあいは、お道さんの(今晩は。)にただ、(ふわ、)と言ったきりだ。顔も出さねえ。その(ふわ、)がね、何の事アねえ、鼠の穴から古綿が千断ちぎれて出たようだ。」
「ちと耳がいたいだな。」
 と饂飩屋の女房が口を入れた、――女房は鋳掛屋の話に引かれて、二階の座に加わっていたのである。
「そのかわり大まかなものだよ。店の客人が、飲さしの二合びんと、もう一本、棚より引攫ひっさらって、こいつを、丼へ突込つッこんで、しばらくして、婦人おんなたちのあとを追ってぶらりと出て行くのに、何とも言わねえ。山は深い、旦那方のおっしゃる、それ、何とかって、山中暦日なしじゃあねえ、狼温泉なんざ、いつもお正月で、人間がめでてえね。」
「ははあ。」
「成程。」
 私たちは、そんな事はあだに聞いて、さきを急いだ。
「荷はどうしたよ。」
 と女房が笑って言った。
「ほい忘れた。いや、忘れたんじゃあねえ、一ぜん飯に置放おきッぱなしよ。」
「それ見たか、あんな三味線だって、壜詰びんづめ二升ぐらいな値はあるでござんさあ、なあ、旦那方。」
「うむ、まったくな。」
 と藤助は額をおさえて、
「おめでてえのはこっちだっけ、はッはッはッ。」

       四

「さて旦那方、洒落しゃれ串戯じょうだんじゃあねえんでございます。……御覧の通り人間の中の変なきのこのような、こんな野郎にも、不思議なまわり合せで、そのおんなたちのあとをけてかなけりゃならねえ一役ついていたのでございましてね。……乗掛のりかかった船だ。鬱陶うっとうしくもお聞きなせえ。」
 すっとこかぶりで、
 襟をたたいて、
「どんつくで出ましたわ……見えがくれにく段取だから、急ぐにゃ当らねえ。別して先方さきは足弱だ。はてな、ここらに色鳥の小鳥の空蝉うつせみ鴛鴦おしどり亡骸なきがらと言うのが有ったっけと、酒のいきおい、雪なんざ苦にならねえが、赤い鼻尖はなさきを、頬被ほおかぶりから突出して、へっぴり腰でぐ工合は、夜興引よこひきじじいが穴一のばらぜにを探すようだ。余計な事でございますがね――しょうが知れちゃいましても、何だか、おんなの二人の姿が、鴛鴦の魂がスッと抜出したようでなりませんや。この辺だっけと、今度は、雪まじりに鳥の羽より焼屑やけくずうずたかい処を見着けて、お手向たむけにね、びんの口からお酒を一雫ひとしずくと思いましたが、待てよとわっしあ考えた、正覚坊じゃアあるめえし、鴛鴦が酒を飲むやら、飲ねえやら。いっその事だと、手前の口へね、喇叭らつぱった……こうすりゃ鳥の精がめしあがると同じ事だと……何しろ腹ン中は鴛鷲で一杯でございました。」
 女房がふとった膝で、畳に当って、
「藤助さんよ。」
「ああ。」
「酒の話じゃあないじゃあないかね、ねえ、旦那方。」
「何しろ、そこで。」
 と、促せば、
「と二人はもう雑木林の崖に添って、上りを山路やまみちかかっています。白い中を、ふつふつと、真紅まっかな鳥のたつように、向うへく。……一軒、家だか、穴だか知れねえ、えた、非人の住んでいそうな、引傾ひっかしいだ小屋に、むしろを二枚ぶら下げて、こいつが戸になる……横の羽目に、半分ちぎれた浪花節なにわぶし比羅びらがめらめらと動いているのがありました、それが宿しゅくはずれで、もう山になります。峠を越すまで、当分のうち家らしいものはございませんや。
 水の音が聞えます。ちょろちょろ水が、青いように冷く走る。山清水の小流こながれのへりについてあとを慕いながら、いい程合で、透かして見ると、坂も大分急になった※(「石+鬼」、第4水準2-82-48)いしころみちで、誰がどっちのを解いたか、扱帯しごきをな、一条ひとすじ湯女ゆなの手からうしろに取って、それをそのわかい貴婦人てった高島田のが、片手に控えてすがっています……もう笠は外して脊へ掛けて……しぼりあかいのがね、松明たいまつが揺れる度に、雪に薄紫にさっえながら、螺旋らせん道条みちすじにこううねると、そのたびに、崖の緋葉もみじがちらちらと映りました、夢のようだ。
 やつの方が夢のようだから、御当人たちはうつつかも知れねえ。
 でその二人は、そうやって、雪の夜道を山坂かけて、どこへ行くんだと思召おぼしめす。
 ここだて――旦那。」
 藤助は息継いきつぎぐいあおって、
「この二階から、鏡台山を――(少し薄明りがしますぜ、月が出ましょう。まあ、御緩ごゆるりなさいまし、)――それ、こうやってるように、狼温泉の宿はずれの坂から横正面といった、肩でこう捻向ねじむいて高く上を視る処に、耳はねえが、あのトランプのハアト形にかしら押立おったったふくろたけ、梟、梟と一口にとなえて、何嶽と言うほどじゃねえ、丘が一座ひとくら、その頂辺てっぺんに、天狗の撞木杖しゅもくづえといった形に見える、柱が一本。……風の吹まわしで、松明のさきがぼっと伸びると、白くなってあらわれる時は、耶蘇ヤソの看板の十字架てったやつにも似ている……こりゃ、もし、電信柱で。
 蔭に隠れて見えねえけれど、そこに一張ひとはり天幕テントがあります。何だと言うと、火事で焼けたがために、仮ごしらえの電信局で、温泉場から、そこへ出張でばっているのでございます。
 そこへ行くんだね、おんな二人は。
 で、その郵便局の天幕のうちに、この湯女ゆな別嬪べっぴんが、生命いのちがけ二年ごしに思い詰めている技手の先生……ともう一人は、上州高崎の大資産家おおかねもちの若旦那で、この高島田のお嬢さんの婿さんと、その二人が、いわれあって、二人を待って、対の手戟てぼこ石突いしづきをつかないばかり、洋服を着た、毘沙門天びしゃもんてん増長天ぞうちょうてんという形で、五体をめて、殺気を含んで、呼吸いきを詰めて、待構えているんでがしてな。
 お嬢さんの方は、名を縫子さんと言うんで、申さずとも娘ッ子じゃありません、こりゃ御新姐ごしんぞ……じゃあねえね――若奥様。」

       五

峰の白雪、ふもとの氷、
今は互に隔てていれど、
やがて嬉しく、溶けて流れて、
合うのじゃわいな。……
わっしは日暮前に、その天幕張テントばりの郵便局の前を通って来たんでございますよ。……ちょうど狼の温泉へ入込いりこみます途中でな。……晩に雪が来ようなどとは思いも着かねえ、小春日和こはるびよりといった、ぽかぽかしたい天気。……
 もっとも、甲州から木曾街道、信州路を掛けちゃあ、ふもと岐路えだみちを、天秤てんびんで、てくてくで、路傍みちばたの木の葉がね、あれしょうの、いい女の、ぽうとなって少し唇の乾いたという容子ようすで、へりを白くして、日向ひなたにほかほかしていて、草も乾燥はしゃいで、足のうらがくすぐってえ、といった陽気でいながら、やり、穂高、大天井、やけにやけヶ嶽などという、大薩摩おおざつまでものすごいのが、雲の上にかさなって、天に、大波を立てている、……裏の峰が、たちまちさっと暗くなって、雲がかぶったと思うと、あおるように前の峰へうねりを立ててあびせ掛けると、浴びせておいて晴れると思えば、その裏の峰がもう晴れた処から、ひだを取って白くなります。見る見るうちに雪がかかるんでございましてね。左右の山は、紅くなったり、黄色かったり、酔ったり、めたりして、移って来るそのむら雲を待っている。
 といった次第わけで、雪の神様が、黒雲の中を、おおきな袖を開いて、虚空を飛行ひぎょうなさる姿が、遠くのその日向の路に、螽斯ばったほどの小さな旅のものに、ありありと拝まれます。
 だから、日向で汗ばむくらいだと言った処で、雑樹一株隔てた中には、草の枯れたのに、日がすかと見れば、何、瑠璃色るりいろに小さくった竜胆りんどうが、日中ひなかも冷い白い霜をんでいます。
 が、陽の赤い、その時梟ヶ嶽は、猫が日向ぼっこをしたような形で、例の、草鞋わらじ脚絆きゃはんくすぐってえ。……満山のもみじのうちに、もくりと一つ、道も白く乾いて、枯草がぽかぽかする。……かんばしい落葉の香のする日の影を、まともに吸って、くしゃみが出そうなのを獅噛面しかみづらで、
(鋳掛……錠前の直し。)
 すくッと立った電信柱に添って、片枝折れた松が一株、崖へのしかかって立っています、天幕張だろうが、掘立小屋だろうが、人さえ住んでいれば家業冥利みょうり……
(鋳掛……錠前直し。)……
 と、天幕とその松のあります、ちょっと小高くなった築山つきやまてった下を……温泉場の屋根を黒く小さく下に見て、通りがかりに、じろり……」
 藤助は、ぎょろりとしながら、頬辺ほっぺたを平手でたたいて、
「この人相だ、お前さん、じろりとよりか言いようはねえてね、トった時、はじめて見たのが湯女のその別嬪だ。お道さんは、半襟の掛った縞の着ものに、前垂掛まえだれがけ、昼夜帯、若い世話女房といった形で、その髪のいい、垢抜あかぬけのした白い顔を、神妙に俯向うつむいて、麁末そまつな椅子に掛けて、卓子テエブル凭掛よりかかって、足袋を繕っていましたよ、紺足袋を……
(鋳掛……錠前の直し。)……
 ちょっと顔を上げて見ましたっけ。すぐに、じっと足袋を刺すだて。
 動いただけになおきて、光沢つやを持った、きめのこまかな襟脚のさなんと言っちゃねえ。……通り切れるもんじゃあねえてね、お前さん、雲だか、風だか、ふらふらと野道山道宿なしの身のほまちだ。
 一言ひとことぐらい口を利いて、渋茶の一杯も、あのお手からと思いましたがね、ぎょっとしたのは半分焦げたなりで天幕の端に真直まっすぐに立った看板だ。電信局としてある……
 茶屋小屋、出茶屋のねえさんじゃあねえ。風俗なりふりはこの目でたしかにらんだが……おやおや、お役人の奥様かい。……郵便局員の御夫人かな。
 これが旦那方だと仔細しさいねえ。湯茶の無心も雑作はねえ。西行法師なら歌をよみかける処だが、山家めぐりの鋳掛屋じゃあ道を聞くのもばつが変だ。
 ところで、椅子はまだ二三脚、何だか、こちとらにゃ分らねえが、ぴかぴか機械を据附けた卓子テエブルがもう一台。向ってきちんと椅子が置いてあるが、役人らしいのは影も見えねえ。
 ははあ、来る道で、むこうの小山の土手腹どてっぱらに伝わった、電信の鋼線はりがねの下あたりを、木の葉の中に現れて、茶色の洋服で棒のようなものを持って、毛虫が動くように小さく歩行あるいている形をた。……鉄砲打の鳥おどしかと思ったが、大きにそんなのが局員の先生で、この姉さんの旦那かも知れねえよ。
 が何しろ留守だ。
(鋳掛……錠前直し。)……
 と崖ぶちの日向ひなたに立ったが、紺足袋の繕い。……雪の襟脚、白い手だ。悚然ぞっとするほど身に沁みてなりませんや。
 はるかに見える高山の、かげって桔梗色ききょういろしたのが、すっと雪をかついでいるにつけても。で、そこへまず荷をおろしました。
(や、えいとこさ。)と、草鞋わらじの裏が空へかえるまで、山端やまばたへどっしりと、暖かい木の葉に腰を落した。
 間拍子もきっかけも渡らねえから、ソレ向うのたけの雪をながら、
(ああ、降ったる雪かな。)
 とか何とか、うろ覚えの独言ひとりごとを言ってね、お前さん、
(それ、雪は鵝毛がもうに似て飛んで散乱し、人は※(「敞/毛」、第3水準1-86-46)かくしょうを着て立って徘徊はいかいすと言えり……か。)
 なんのッて、ひらひらと来る紅色べにいろの葉から、すぐに吸いつけるように煙草たばこを吹かした。が、何分にも鋳掛屋じゃあおさまりませんな。
 ところでさて、首に巻いた手拭てぬぐいを取って、はたいて、馬士まごにも衣裳いしょうだ、芳原かぶりと気取りましたさ。古三味線を、チンとかツンとか引掻鳴ひっかきならして、ここで、内証で唄ったやつでさ。
峰の白雪、麓の氷――
 旦那、顔を見っこなし……きまりが悪い……何と、もし、これで別嬪の姉さんを引寄せようという腹だ、おかしな腹だ、たぬきの腹だね。
 だが、こいつあこちとらであいの、すなわち狸の腹鼓という甘術あまてでね。不気味でも、気障きざでも、何でも、聞く耳を立てるうちに、うかうかと釣出されずにゃいねえんだね。どうですえ、……それ、来ました。」
 と不意に振向く、階子段はしごだんの暗い穴。
 小村さんも私も慄然ぞっとした。
 女房はなおの事……
「あれ、吃驚びっくりした。」
 と膝で摺寄すりよる。
 藤助は一笑して、
「まずは、この寸法でございましてね、お道さんを引寄せた工合というのが、あはッはッ。」

       六

「見ないふり、知らない振、雪の遠山とおやまに向いて、……溶けて流れてと、唄っていながら、後方うしろへ来るのが自然と分るね、鹿の寄るのとは違います。……別嬪のかおりがほんのりで、縹緻きりょうに打たれて身に沁む工合が、温泉の女神様おんながみさまが世話に砕けてあらわれたようでございましたぜ。……(逢いたさに見たさに)何とかって、チャンと句切ると、
(あの、鋳掛屋さん。)
 と、初音はつねだね。……
 ると、朱塗の盆に、吸子きびしょ、茶碗を添えて持っている。黒繻子くろじゅす引掛帯ひっかけおびで、浅葱あさぎの襟のその様子が何とも言えねえ。
 いえ、もう一つ、盆の上に、紙に包んだ蝶々というのがっていました。……それがためにめるんじゃあねえけれど、こしらえねえで、なまめいたもんでしたぜ。人を喰ったこっちの芳原かぶりなんざ、もの欲しそうできまりが悪くなったくらいで。
(へい、へい、へい、こりゃ奥様、恐入りました。)
 とわざとらしくも、茶碗をな、両手で頂かずにゃいられなかった。
 ねえさんが、初々しい、しおらしい事を、お聞きなせえ、ぽうッとなって、
(まあ、あんな事、私は奉公人なんですよ。)
 さ、その奉公人風情が、生意気のようだけれど、唄をもう一つ唄って聞かしてもらえまいか、と言うんじゃありませんかい。おあつらえが註文にはまった。こんな処でよろしければ、山で樹の数、幾つだって構やあしませんと、……今度は(浮世はなれて奥山ずまい、恋もりん気も忘れていたが、)……で御機嫌を取結ぶと、それよりか、やっぱり、せんの(やがて嬉しく溶けて流れて合うのじゃわいな)の方を聞かして欲しいと、山姫様、御意遊ばす。」
 藤助は杯でちょっと句切って、眉も口も引緊ひきしまった。
「旦那方の前でございますがね、こう中腰に、〆加減しめかげんい帯腰で、下に居て、白い細い指の先を、染めた草につくようにしてじっと聞く。……聞手が、聞手だ。唄う方も身につまされて、これでもお前さん、人間交際づきええもすりゃ、女出入でいりも知らねえじゃあねえ。わかい時を思い出して、何となく、我身ながら引入れられて、……覚えて、ついぞねえ、一生に一度だ。くらべものにゃあなりませんが、むかし琵琶法師びわほうしの名誉なのが、こんな処で草枕、山の神様に一曲奏でた心持。
 と姉さんがとけて流れて合うのじゃわいなと、きき入りながら、睫毛まつげを長くうつむいて、ほろりとした時、こっらも思わず、つい、ほろり……いえさ、このつらだからポタリと出ました。」
 と口では言いつつ声が湿った。
「(つかん事を聞きますけれど、鋳掛屋さん、錠の合鍵あいかぎを頼まれて下さいますか。)……と姉さんがね。
 わっしあこれを聞いて、ポンと両手をった。
 このくらいつく事は、私の唄が三味線につくようなもんじゃあねえ。
(鍵が狂ったんでございますかい。)
(いいえ、無いんですけれど。)
(雑作はがあせん、煙草三服飲むうちだ。)
 そこで錠前を見て、という事になると、ちと内証事らしい。……しとやかな姉さんが、急に何だか、そわついて、あっちこっち※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしましたが、高い処にこう立つと、風がさらって、すっと、雲の上へ持ってきそうであぶなッかしいように見えます。
 勿論人影は、ぽッつりともない。
 が、それでも、天幕テントの正面からじゃあ、気咎きとがめがしたと見えて、
(済みませんが、こっちから。)
 裏へ廻わると、ほころびた処があるので。……姉さんはしなよく消えたが、こっちは自雷也じらいやの妖術にアリャアリャだね。列子せこという身で這込はいこみました。が、それどころじゃあねえ。この錠前だと言うのを一見に及ぶと、片隅に立掛けた奴だが、大蝦蟆おおがまの干物とも、河馬かば木乃伊みいらともたとえようのねえ、しなびて突張つっぱって、兀斑はげまだらの、大古物のでっかい革鞄かばんで。
 こいつを、古新聞で包んで、薄汚れた兵児帯へこおびでぐるぐると巻いてあるんだが、結びめは、はずれて緩んで、新聞もばさりと裂けた。そこからそれ、すすを噴きそうなつらを出して、あしずいから谷のぞくと、鍵の穴を真黒まっくろに窪ましているじゃアありませんか。
(何が入っておりますえ。)
 失礼な……人様の革鞄を……だが、わっしあつい、うっかり言った。
(あの、旦那さんのお大事なものばかり。)
(へい、貴女あなたの旦那様の?)
(いいえ、技師の先生の方ですが、その方のお大事なものが残らず、お国でおかくれになりました奥様のおこつも、たったお一人ッ子の、かけがえのない坊ちゃまのお骨も、この中に入っていらっしゃるんですって。)
 と、こう言うんですね。」
 小村さんと私は、黙って気を引いて瞳を合した。
 藤助は一息ついて、
「それを聞いて、安心をしたくらいだ。技師の旦那の奥様と坊ちゃまのお骨と聞いて、安心したも、おかしなものでございますがね、一軒家の化葛籠ばけつづらだ、天幕の中の大革鞄じゃあ、うちに何が入ってるか薄気味が悪かったんで。
(へい、その鍵をおなくしなすった……そいつはお困りで、)
 と錠前の寸法を当りながら、こう見ますとね、新聞のまだ残った処に、青錆あおさびにさびた金具の口でくいしめた革鞄の中から、紫の袖が一枚。……
 たもとが中に、袖口をすんなり、白羽二重の裏が生々いきいきと、女のはだを包んだようで、た人がらも思われる、裏が通って、揚羽あげはの蝶の紋がちらちらと羽を動かすように見えました。」
 小村さんと私とは、じっと見合っていたままの互の唇がぶるぶると震えたのである。

       七

 ――実はこの時から数えて前々年の秋、おなじ小村さんと、(つれがもう一人あった。)三人連で、軽井沢、碓氷うすいのもみじを見た汽車のうちに、まさしく間違うまい、これに就いた事実があって、私は、不束ふつつかながら、はじめ、淑女画報に、「革鞄かばんの怪。」後に「片袖。」と改題して、小集のうちに編んだ一篇を草した事がある。
 たしかに紫の袖の紋も、揚羽の蝶と覚えている。高島田に花笄はなこうがいの、盛装した嫁入姿の窈窕ようちょうたる淑女が、その嫁御寮に似もつかぬ、卑しげなけんのある女親まじりに、七八人の附添とともに、深谷ふかや駅から同じ室に乗組んで、御寮はちょうど私たちの真向うの席に就いた。まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣こころやりと、恐怖おそれと、えみと、涙とは、そのまま膝に手を重ねて、つむりを重たげに、ただ肩を細く、さしうつむいた黒髪に包んで、顔も上げない。まことにしとやかな佳人であった。
 この片袖が、隣席にさし置かれた、他の大革鞄の口に挟まったのである。……失礼ながらその革鞄は、ここに藤助が饒舌しゃべるのと、ほぼ大差のないものであった。
 が、持ぬしは、意気沈んで、ひげ、髪もぶしょうにのび、おもて憔悴しょうすいはしていたが、素純にして、しかも謹厳なる人物であった。
 汽車の進行中に、この出来事が発見された時、附添の騒ぎ方は……無理もないが、思わぬ※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうであろう、失策した人物に対して、はたの見る目はむしろ気の毒なほどであった。
 一も二もない、したたかに詫びて、その革鞄の口を開くので、事は決着するに相違あるまい。
 我も人も、しかあるべく信じた。
 しかるにもかかわらず、その人物は、人々が騒いで掛けた革鞄の手の中から、すかりと握拳にぎりこぶしの手を抜くとひとしく、列車の内へすっくと立って、日に焼けたつらかわら黄昏たそがるるごとく色を変えながら、決然たる態度で、同室の御婦人、紳士の方々、と室内に向って、掠声かすれごえして言った。……これなる窈窕たる淑女(――私もここにその人物の言ったことばを、そのまま引用したのであるが)窈窕たる淑女のはれ着の袖をおかしたのは偶然の麁※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)である。はじめは旅行案内を掴出つかみだして、それを投込んで錠を下した時に、うっかり挟んだものと思われる。が、それを心着いた時は――と云って垂々たらたらと額に流るる汗をぬぐって――ただ一瞬間に千万無量、万劫ばんごうの煩悩を起した。いかに思い、いかに想っても、この窈窕たる淑女は、まさしくひとに嫁せらるるのである……ばかりでない、次か、あるいはその次の停車場ステエションにて下車なさるるとともにたちまち令夫人とならるる、その片袖である。自分は生命を掛けて恋した、生命を掛くるのみか、罪はまさに死である、死すともこの革鞄の片袖はあえて離すまいと思う。思い切って鍵を棄てました。わたくしはこの窓から、はるかに北の天に、雪を銀襴のごとく刺繍ししゅうした、あの遠山えんざんの頂を望んで、ほとんど無辺際に投げたのです、と言った。
 ――汽車は赤城山あかぎさんをそのたつみの窓に望んで、広漠たる原野の末を貫いていたのであった。――
 かれは電信技師である。立野竜三郎たつのりゅうざぶろうと自ら名告なのった。かれはもとより両親も何もない、最愛のを失い、最愛の妻を失って、世を果敢はかなむの余り、その妻と子の白骨と、ともに、失うべからざるものの一式、余さずこの古革鞄に納めた、むしろ我がみひとつ煢然けいぜんたる影をも納めて、野に山に棄つるがごとく、絶所、僻境へききょうを望んで飛騨山中の電信局へ唯今赴任する途中である。すでに我身ながら葬り去った身は、ここに片袖とともに蘇生よみがえった。蘇生ると同時に、罪は死である。いや、死はなお容易たやすい、天のとが、地のせめ、人の制規おきて、いかなる制裁といえども、甘んじて覚悟して相受ける。各位が、わがために刑を撰んで、その最も酷なのは、はりつけでない、獄門でない、牛裂うしざきの極刑でもない。この片袖を挟んだ古革鞄を自分にぶら下げさせて、嫁御寮のあとに犬のごとく従わせて、そのまま今日こんにちの婿君の脚下に拝しひざまずかせらるる事である。よし、その厳罰をこうむりましょう、断じて自分はこの革鞄を開いて片袖は返さぬのである。ただ、天地神明に誓うのは、貴女きじょの淑徳と貞潔である。自分は生れてより今に及んで、その姿をたのはわずかに今よりぜん、約三十分に過ぎない、……包ましくさしうつむかれた淑女は、申すまでもなく、自分に向って瞳をも動かされなかった事を保証する、――謹んで断罪を待ちます……各位。
 吶々とつとつとして、しかも沈着に、純真に、縷々るるこの意味の数千言を語ったのが、轟々ごうごうたる汽車のうちに、あたかも雷鳴をしのぐ、深刻なる独白のごとく私たちの耳に響いた。
 附添の数多あまたの男女は、あるいは怒り、あるいののしり、あるいは呆れ、あるいは呪詛のろった。が、狼狽ろうばいしたのは一様である。車外には御寮をむかえ人数にんずが満ちて、汽車は高崎に留まろうとしたのであるから……
 既に死灰のごとく席に復して瞑目めいもくした技師がその時再び立った。ここに手段があります、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀ナイフをもって革鞄を切開く事なのです。……わたくしは拒みません。刀ものは持合せました、と云って、さやをパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相けんそうな女親が革鞄の口を切裂こうとして、きっ猜疑さいぎの瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。
「いいえ!」
 と一言ひとこと、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切ひっきった。長襦袢ながじゅばんぱっ[#「火+發」、192-6]と燃える、片身を火に焼いたようにつッと汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめきつどう群集は黒煙くろけむりに似たのである。
 技師は真俯向まうつむけに、革鞄の紫の袖に伏した。
 乗合は喝采かっさいして、万歳の声がどっと起った。
 汽車の進むがままに、私たちは窓からた。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に、雪なす小手をかざして此方こなたを見送った半身のくれないは、美しき血をもって描いたる煉獄れんごくの女精であった。
 碓氷の秋は寒かった。

       八

 藤助は語り継いだ。
ねえさんが、そうすると……驚いたように、
(あれ、それを見ちゃ不可いけません。)
(やあ、つい※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうを。)
 と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、低声こごえになって気の毒そうに、
(でも、あの、そういう私が、そっと出して、見たいんでございます。)
(そこで鍵が御入用。)
(ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。)
(何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)
 とその容子ようすだもの、お前さん、何だって構やしません。――お手軽様に言って退けると、口に袖をあてながら、うっかり釣込まれたような様子でね、また前後あとさきましたっけ。
(では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵をこしらえるよりさきに、手で開けるわけには参りませんの。)
 ぶるぶるぶる……わっしあ、頭とくちばしを一所に振った。旦那のめえだが、……指を曲げて、口を押えて、まぶたへ指の環を当がって、もう一度頭をった。それ、鍵の手は、内証でっても、たちまちお目玉。……不可いけねえてんだ、お前さん。
御法度ごはっとだ。)
 と重く持たせて、
(ではござれども、姉さんの事だ、遣らかしやしょう、大達引おおたてひき。奥様のお記念かたみだか、何だか知らねえ。成程こいつあ、そのな、へッへッ、誰方どなたかに向っての姉さんの心意気では……お邪魔になるでございましょうよ。奥歯にものが挟まったってたとえはこれだ。すっぱり、打開ぶちまけてお出しなせえまし。)
(いえ、あの、開けて出すよりか、私が中へ入りたい。)
 と仇気あどけなく莞爾にっこりすら、チェーしたもんだ。
御串戯ごじょうだんで、中へ入ると、恐怖おっかねえ、その亡くなった奥さんのこつがあるんじゃありませんかい。)
(もう、私は、あの、奥さまの、そのほねになりたいの。)
 ああ、その骨になりたいか、いや、その骨でこっちは海月くらげだ、ぐにゃりとなった。
(御勝手だ。)
(あれ、そのかわりに奥さまが、活きた私におなんなさる、容色きりょうは、たとえこんなでも。)
(御勝手だ。いや、御法度だね。)
(そんな事を言わないで、後生ですから、鋳掛屋さん。)
(開けますよ。だがね……)
 と、一つ勿体もったいで、
(こいつあ口伝くでんだ、見ちゃ不可いけねえ、目をつぶっていておくんなさい。)
(はい。)
(もっと。)
(はい。)
不可いけねえ不可え、薄目を開けてら。)
(まあ、では後を向きますわ。)
ひきしまって、ふっくりとやわらかで、ああ、たまらねえ腰附だ。)
可厭いや……知りませんよ。)
 と向直ると、串戯じょうだんの中にしんみりと、
(あれ、ちょっと待って下さいまし。いま目をふさいで考えますと、おゆるしがないのに錠前を開けるのは、どうも心が済みません。神様、仏様に、誓文せいもんして、悪い心でなくっても、よくない事だと存じます。)
 わっし真面目まじめにうなずきました。
(でも、合鍵は拵えて下さいまし、大事にそれを持っていて、……出来るだけ我慢はしますけれども、どうしても開けたくってならなくなりました時に、生命いのちにかえても、開けて見とうございますから。)――
 晩のとまりはどこだって聞きますから、向うの峰の日脚を仰向あおむいて、下の温泉だと云いますとね、双葉屋の女中だと、ここで姉さんが名を言って、お世話しましょうと、きつい発奮はずみさ。
 御旅館などは勿体ねえ、こちとら式がと木賃がると、今頃はからあきで、人気ひとけがなくって寂しいくらい。でも、お一方――一昨日おとといから、上州高崎の方だそうだけれど、東京にもすくなかろう、品のいい美しい、お嬢さんだか、夫人おくさまだか、わかい方がお一方……」
「お一方?」
 と、うっかりいて私は膝を堅うした。――小村さんも同じ思いは疑いない。――あの時、その窈窕たる御寮が、汽車を棄てたのは、かしこで、その高崎であった。
「さようで。――お一方御逗留ごとうりゅう、おさみしそうなその方にも、いまの立山が聞かせたいと、何となくそのお一方が、もっての外気になるようで、妙に眉のあたりを暗くしましたっけ、じっと日のかげる山をながめたが、
(ああ。鋳掛屋さん。)
 とあわただしい。……皆まで聞かずと飲込んだ、旦那様帰り引[#「引」は小文字]と……ここらはだてね、天幕テント逢目あいめをひょこりと出た。もとの山端やまっぱな引退ひきさがり、さらば一服つかまつろう……つぎ置の茶の中には、松の落葉と朱葉もみじが一枚。……」

(ああ、腹が減った……)
 と色気のない声を出して、どかりと椅子に掛けたのは、焦茶色の洋服で、身のしまった、骨格のいい、中古ちゅうぶるの軍人といった技師の先生だ。――言うまでもなく、立野竜三郎はかれである――
(減った、減った、無茶に減った。)
 と、いきなり卓子テエブルの上の風呂敷包みを解くと、中が古風にも竹の子弁当。……御存じはございますまい、三組みつぐみ食籠わりごで、畳むと入子いれこかさなるやつでね。案ずるまでもありませんや、お道姉さんが心入れのお手料理か何かを、旅館から運ぶんだね。
(うまい、ああうまい、この竹輪は骨がなくて難有ありがたい。)
 余り旨そうなので、こっちは里心が着きました。建場たてば々々で飲酒りますから、滅多に持出した事のない仕込の片餉かたげ油揚あぶらげ煮染にしめに沢庵というのを、もくもくと頬張りはじめた。
 お道さんが手拭を畳んでちょっと帯に挟んだ、茶汲女ちゃくみおんなという姿で、湯呑を片手に、半身で立ってわっしの方をましたがね。

旦那様だんなさん……あの、鋳掛屋さんが、お弁当を使いますので、お茶を御馳走ごちそういたしました。……お盆がなくて手で失礼でございます。)
 と湯気の上る処を、卓子の上へ置くんでございますがね、加賀の赤絵の金々たるものなれども、ねえ、湯呑は嬉しい心意気だ。
(何、鋳掛屋。)
 と、何だか、気を打ったように言って、先生、扁平ひらたい肩でじて、わっしの方をのぞきましたが、
(やあ、御馳走はありますか。)
 とかすれ笑いをしなさるんだ。
(へッ、へッ。)と、先はお役人様でがさ、お世辞わらいをしたばかりで、こちらも肩で捻向くつらだ、道陸神どうろくじんの首を着換つけかえたという形だてね。
(旨い。)
 姉さんが嬉しそうな顔をしながら、
(あの、電信の故障は、直りましてございますか。)
(うむ、取払ったよ。)
 と頬張った含声ふくみごえで、
(思ったより余程さきだった。)
 ははあ、電線に故障があって、さわるものの見当が着いた処から、先生、山めぐりで見廻ったんだ。道理こそ、いまし方天幕へ戻って来た時に、段々塗の旗竿はたざおを、北極探検の浦島といった形で持っていて、かたりと立掛けてへえんなすった。
(どうかなっていましたの。)
(変なもの……何、くだらないものが、線の途中に引搦ひっからまって……)
 カラリとはしを投げる音が響いた。
(うむ、来た。……トーン、トーン……し。)
 お道さんの声で、
(旦那様、何ぞ御心配な事ではございませんか。)
 一口がぶりと茶を飲んで、
つまらぬ事を……他所よそへ来た電報に、一々気をんでいてたまるもんですか。)
(でも、先刻さっき、この電信が参りました時、何ですか、お顔の色が……)
(……故障のためですよ、青天井の煤払すすはきは下さりませんからな、は、は。)
 と笑った。
 坂をするすると這上はいあがる、蝙蝠こうもりか、穴熊のようなのが、つッと近く来ると、海軍帽をかぶったが、なりは郵便の配達夫――高等二年ぐらいな可愛い顔の少年が、ちゃんとうやうやしく礼をした。
(ああ、ちょうどいまつながった。)
(どうした故障でございますか。)
 と切口上で、さも心配をしたらしい。たのもしいじゃあございませんか。
網掛場あみかけばの先の処だ、烏を蛇がいたなりで、電線に引搦ひっからまって死んでいたんだよ。烏が引啣ひきくわえて飛ぼうとしたんだろう……可なりおおきな重い蛇だから、飛切れないで鋼線はりがねに留った処を、電流で殺されたんだ。ぶら下った奴は、下から波を打って鎌首をもたげたなりに、黒焦くろこげになっていた――君、急いでくれ給え、約四時間延着だ。)
(はっ。)
 と云ってくのを、
(ああ、時さん。)
 とお道さんは沈んで呼んだ。が、寂しい笑顔を向け直して、
(配達さん――どこへ……)といた。
 少年が正しく立停たちとどまって、畳んだ用紙をまっすぐにて、
(狼温泉――双葉館方……村上縫子……)
(そしてどちらから。)
(ヤホ次郎――行って来ます。)
(そんな事を聞くもんじゃあない。)
(ああ、済みませんでした。)
(何、構わないようなもんじゃあるがね――どっこいしょ。)
 がた、がたんと音がする。先生、もう一つの卓子テエブルを引立って、猪と取組とっくむようにいきおいよく持って出ると、お道さんはわけも知らないなりに、椅子を取って手伝いながら、
(どう遊ばすの。)
 と云ううちに、一段下りた草原くさっぱらへ据えたんでございますがね、――わけも知らずに手伝った、お道さんの心持を、あとで思うと涙が出ます。」
 と肩もげっそりと、藤助は沈んで言った。……
「で、何でございますよ――どう遊ばすのかと、お道さんが言うと、心待、この日暮にはここに客があるかも知れんと、先生が言いますわ。あれ、それじゃこんな野天でなく、と、言おうじゃあございませんか。
(いや、中で間違まちがいがあるとならんので。)
(え、間違とおっしゃって。)
 とお道さんが、ひったり寄った。
(私は、)
 と先生は、ひじで口のはた横撫よこなでして、
ひげもまずいが、言う事がまずくて不可いかんです。間違じゃあない、故障です、素人は気なしだからして、あんな狭い天幕の中で、器械にでも障って、また故障にでもなると不可んのだ。決して心配な事ではないのです、――さあ飯だ、飯だ。)
 と今度はなぜか、箸を着けずに弁当をしまいかけて、……親方の手前もある、客に電報が来た様子では、また和女おまえの手も要るだろう、余り遅くならないうちにと、ねんごろに言うと、
(はい、はい。)
 と柔順すなおに返事する。片手間に、継掛けの紺足袋と、寝衣ねまきに重ねる浴衣のような洗濯ものを一包、弁当をぶら下げて、素足に藁草履わらぞうり、ここらは、山家で――悄々しおしおと天幕を出た姿に、もう山の影が薄暗く隈を取って映りました。
(今、何時だろう。)
 と天幕口へ出て、先生が後姿を呼びましたね。
(……四時半頃にもなりましょうか。)
(時計がとまったよ――気をつけておいで。)
 とおおきな懐中時計と、旗竿の影を、すっくり立って、片頬かたほ夕日を浴びながら、じっと落着いてながめていなさる。……落着いてちゃあいなすったが、先生少々どうかなさりやしねえのかと思ったのは、こう変に山が寂しくなって、通魔とおりまでもしそうな、静寂しじまの鐘の唄の塩梅あんばい。どことなくドン――と響いて天狗倒てんぐだおし木精こだまと一所に、天幕のうちじゃあ、局の掛時計がコトリコトリと鳴りましたよ。
 お地蔵様が一体、もし、この梟ヶ嶽の頭を肩へ下り口に立ってござる。――わっしどもは、どうかすると一日いちんちうちにゃ人間の数より多くお目にかかる、至極可懐なつかしいお方だが……後で分りました。この丘は、むかし、小さな山寺があったあとだそうで、そう言や草の中に、崩れた石の段々がつたと一所に、真下のこみちへ、山懐やまぶところへまとっています。その下の径というのが、温泉宿ゆのやど入りの本街道だね。
 お道さんが、帰りがけに、その地蔵様を拝みました。石の袈裟けさの落葉を払って、白い手を、じっと合せて、しばらくして、
(また、お目にかかります。)
 と顔を上げて、
(後程に――)
 もう先生は天幕へ入った――で、わっしにしみじみとした調子で云った時の面影が忘れられねえ!……睫毛まつげにたまって、涙が一杯。……風が冷く、山はこれから、湿っぽい。
 秋の日は釣瓶つるべ落しだ、お前さん、もうやがて初冬はつふゆとは言い条、別して山家だ。しずかに大沼の真中まんなかへ石を投げたように、山際へ日暮の波が輪になってさっと広がる中で、この藤助と云う奴が、何をしたと思召おぼしめす。
 三尺をしめ直す、脚絆のほこりはたいたり、荷づなを天秤てんびんに掛けたり、はずしたり。……三味線の糸をゆるめたり、袋に入れたり……さてまた袋を結んだり。
 そこへ……いまお道さんが下りました、草にきれぎれの石段を、じ攀じ、ずッとあがって来た、一個ひとり年紀としわか紳士だんながあります。
 山の陰気な影をうけて、すごいような色の白いのが、黒の中折帽を廂下ひさしさがりに、洋杖ステッキも持たず腕を組んだ、背広でオオバアコオトというのが、色がまた妙に白茶けて、うそ寂しい。せて肩の立った中脊でね。これが地蔵様の前へ来て、すっくりと立ったと思うと、頭髪かみの伸びた技師の先生が、ずかずかと天幕を出ました。
 それ、卓子テエブルを中に、控えて、開いて、きっと向合ったと思召せ。
 わか紳士だんな慇懃いんぎんに、
(失礼ですが、立野竜三郎氏でいらっしゃいますか。)
(さよう、お尋ねをこうむりました竜三郎、わたくしであります。)
(申しおくれました、私は村上八百次郎やおじろうと申すものです。はじめてお目にかかります……唯今、名刺を。)
(いや。)
 と先生、卓子の上へ両手をずかといて、
(三年ぜんから、御尊名は、片時といえども相忘れません、出過ぎましたが、ほぼ、御訪問[#「訪問」は底本では「訪門」]に預りました御用向ごようむきも存じております。)
 と、わかいのが少しきっとなって、
(用向を御存じですか?)
(まず、お掛け下さい。)
 と先生は、ドカリと野天の椅子に掛けた。
 何となく気色ばんだ双方の意気込が、殺気を帯びて四辺あたりを払った。このていを視たわっしだ。むかし物語によくあります、峰の堂、山のほこらで、怪しくすごい神たちが、神つどいにつどわせたという場所へ、破戒坊主が、はいつくばったという体で、可恐おそろし可恐し、地蔵様の前にしゃがんで、こう、伏拝むなりをして、そっと視たんで。
 先生はあらためて、両手を卓子につき直して、
「――受信人、……狼温泉二葉屋方、村上縫子、発信人は尊名、貴姓であります。
   コンニチゴゴツク。ヨウイ(今日午後着く。用意)」
 と聞きも済まさず、若い紳士だんなは、ななめと開いて、身構えて、
(何、私信を見た上、用件を御承知になりましたな。)
ひとえに申訳をいたします。電報を扱います節、文字もんじは拾いますが、文字は普通……拾いますが、職務の徳義として、文字は綴りましても、用件は記憶しません。しかるところ、唯今申上げました(コンニチゴゴツク、ヨウイ)で、不意に故障が起りました、幾度も接続を試みますうちに、うかと記憶に残ったのです。のち四時間、やっと電線が恢復かいふくして(ヨキカ)と受信しましたのです。謹んで謝罪いたします。」
 とおもてを上げ、からびたせきして、
「すなわち、受信人、狼温泉、二葉屋方、村上縫子。発信人、尊名、貴姓、すなわち、(今日午後着く。用意よきか。)」
(分りました。)
 としずかに言う時、ふと見返った目が、わっしに向いた、と一所にな……先生のまなこも光りました。
 おびえて立ったね、悚然ぞっとした。
 荷を担いで、ひょうろ、ひょろ。
 ようやく石段の中ほどで、ほっと息をして立った処が、薄暮合うすくれあいの山のすごさ。……天秤かついだうぬなりが、何でございますかね、天狗様の下男が清水を汲みに山一つ彼方あなたへといったていで、我ながら、余り世間離れがした心細さに、
(ほっ、)
 と云ったが、声も、ふやける。肩をかえて性根だめしに、そこで一つ……
(鋳掛――錠前の直し。)――
 何と――旦那。」

       九

「……時に――雪の松明たいまつが二前後あとさきに次第に高くなって、白いふくろ、化梟、蔦葛つたかずらが鳥の毛に見えます、その石段をじるのは、まるで幻影まぼろしの女体が捧げて、頂の松、電信柱へ、竜燈があがるんでございました。
 上り果てた時分には、もう降っているのがみましたっけ。根雪に残るのじゃあございません、ほんの前触れで、一きよめ白くしましたので、ぼっとほの白く、薄鼠に、梟の頂が暗夜やみに浮いて見えました。
 苦しい時ばかりじゃあねえ。こんな時も神頼み、で、わっし崖縁がけぶちをひょいと横へ切れて、のしこと地蔵様の背後うしろしゃがみ込んでのぞいたんで。石像のお袈裟けさの前へは、真白まっしろに吹掛けましたが、うしろはこけのお法衣ころものまま真黒まっくろで、お顔が青うございましたよ。
 大方いまの雪のために、先生も、客人も、天幕に引籠ひきこもったんでございましょう。卓子テエブルばかりで影もない。野天のその卓子が、雪で、それ大理石。――立派やかなお座敷にも似合わねえ、安火鉢のゆがんだやつが転がるように出ていました。
 その火鉢へ、二人が炬火たいまつをさし込みましたわ。一ふさりふさって、柱のように根を持って、かっと燃えます。そのあかりで、早や出端でばなに立って出かかった先生方、左右の形は、天幕がそのままの巌石がんせきで、言わねえ事じゃあねえ、青くまた朱に刻みつけた、怪しい山神さんじんに、そっくりだね。
 ツツとあとへ引いて、若い紳士だんなが、卓子に、さきの席を取って、高島田の天人を、
(縫子さん。)
 と呼びました。
 御婦人が、髪の吹流ふきながしを取った、気高い顔は、松明の火に活々いきいきと、その手拭で、お召のコオトの雪を払っていなすったけ、揺れて山茶花さざんかが散るようだ。
(立野さんに御挨拶をなさい。)
(唯今。)
 としずかに言って、例の背後せなかに掛けた竹の子笠を、紐を解いて、取りましたが、吹添って、風はあるのに、気で鎮めたかして、その笠が動きもしません。
 卓子の脚に、お道さんのと重ねて置いて、
貴方あなた――御機嫌よう。)
(は。)
 と先生は一言云ったきり、顔も上げないで、めり込むように深く卓子の端についた太い腕が震えたが、それより深いのは、若旦那の方の年紀としとも言わない額に刻んだ幾筋かのしわで、短く一分刈かと見えるつぶりは、坊さんのようで、福々しく耳の押立おったっておおきいのに、引締った口が窪んで、大きく見えるまで、げっそりと頬の肉が落ちている。
夫人おくさん。)
 と先生はうつむいたままで、
(再び、御機嫌のお顔を拝することを得まして、わたくし一代の本懐です。生れつきの口不調法が、かく眼前まのあたりに、貴方のお姿に対しましては、何も申上げることばを覚えません、ただしかし、唯今。)
 と、よろめいて立って、椅子の手にすがりました。
(唯今、一言ひとこと御挨拶を申上げます。)
 と天幕に入ると、提げて出た、卓子を引抱ひっかかえたようなものではない、千じんの重さに堪えないていに、大革鞄を持った胸が、吐呼吸といきを浪にく。
 それと見ると、みのを絞って棄てました、お道さんが手を添えながら、顔を見ながら、からんで、もつれて、うっかりしたように手伝う姿は、かえって、あの、紫の片袖に魂が入って、革鞄を抜けたように見えました。
 ずしりと、卓子の上に置くと、……先生は一足退さがって、起立のなりで、
(もはや、お二方に対しましては、……御夫婦に向いましては、立って身を支えるにも堪えません、一刻も早くこの人畜にんちく行為おこないに対する、御制裁を待ちます。即時に御処分のほどを願います。)
 若旦那が、
(よろしいか。)
 とちと甘いほどな、この場合優しい声で、御夫人に言いました。
(はい。)
 と、若奥様は潔い。
 若旦那はまっすぐに立直って、
(立野さん。)
(…………)
(では、御要求をいたします。)
(謹んで承ります、一点といえども相背きはいたしますまい。)
(そこに、卓子の上に横にお置きなさいました、革鞄を、縦にまっすぐにお直し下さい。)
(承知いたしました――いやいや罪人の手伝をしては、お道さん、けがれるぞ。)
 と手伝を払って、しっかとその処へ据直す。
(立野さん。貴下あなたは革鞄の全形と折重おりかさなって、その容量を外れない範囲内にお立ち下さい。縫子が私の妻として、婚礼の日の途中、汽車の中で。)
 と云う声が少し震えました。
(貴下に、その紫の袖を許しました、そのせめに任ずるために、ここに短銃ピストルを所持しております、――その短銃をもってここに居て革鞄を打ちます。弾丸をもって錠前を射切いきるのです。錠前を射切うちきって、その片袖を――同棲三年間――まだ純真なる処女の身にして、私のために取返すんです。袖が返るとともに、あらためて結婚します。夫婦になります。が、勿論しかし、それが夫婦のものの、身の終結になるかも分りません。なぜと云うに、革鞄と同時に、兇器をもって貴下のお身体からだに向うのです。万一お生命いのちを縮めるとなれば、私はその罪を負わねばならないのですから。それは勿論覚悟の前です……お察し下さい、これはほとんど私が生命を忘れ、世間を忘れ、甚しきは一にんの親をも忘れるまで、寝食を廃しまして、熟慮反省を重ねた上の決意なのです。はじめは貴方が、当時汽車の窓から赤城山の絶頂に向って御投棄てになったという、革鞄の鍵を、なんとぞして、拾い戻して、その鍵を持ちながらお目にかかって、貴下の手から錠を解いて、縫のその袖を返して頂きたいと存じ、およそ半年、百日にわたりまして、狂と言われ、痴と言われ、愚と言われ、嫉妬しっとと言われ、じんすけとあざけられつつも、多勢たぜいの人数を狩集かりあつめて、あの辺の汽車の沿道一帯を、あわ蕎麦そば、稲を買求めて、草に刈り、あくたにむしり、甚しきは古塚の横穴をあばいてまで、捜させました。流星のごとく天際に消えたのでしょう、一点似た釘も見当りません。――唯今……要求しますのは、そののちの決心である事をりょうとして下さいまし。縫もよくこの意を体して、三年の間、昼夜を分かず、的を射る修錬をいたしました。――最初、的をつくります時、縫がものさしを取って、革鞄の寸法を的に切りましたが、ここで実物を拝見しますと、そのおおきさと言い、錠前のある位置と言い、ほとんど寸分の違いもありません。……不思議です。……特に奇蹟と存じますのは、――家の地続きをしきって、的場を建てましたのですが、土地の様子、景色、一本の松の形、地蔵のあるまで。)
 ――わっしはすくんだね――
(夢のようによく似ています。……多分、皆お互に、こうした運命だと存じます。……短銃ピストルは特に外国に註文して、英国製の最優良なのを取寄せました。連発ですが、弾丸はただ一つしかめてありません、きっと仕損じますまい。しかし、御覚悟を下さいまし。――もっとも革鞄とかさなってお立ち下さいますのに、その間隔は、五けん、十間、あるいは百間、三百間、貴下あなたの、お心に任せます。要はただ、着弾距離をお離れになりません事です。)
(一歩もここを動きません。)
 先生は、こまぬいた腕を解いて言いましたぜ。」
 ――そうだろうと、私たちも思ったのである。

       十

たまらねえやね。お前さん。
 わっし猿坊えてんぼのように、ちょろりと影をうねって這出はいだして、そこに震えて立っている、お道姉さんの手に合鍵をおッつけた。早く早く、と口じゃあ言わねえが、袖を突いた。
 ――若奥様の手が、もう懐中ふところに入った時でございますよ。
(御免遊ばせ。)
 とすがりつくように、伸上って、お道さんが鍵を合せ合せするのが、あせるから、ツルツルと二三度すべりました。
(ああ、ちょっと。)
 と若奥様が、手でおさえて、
(どうぞ……そればかりは。)
 とすずしく言います。この手二つが触ったものを、錠前の奴、がんとして、雪になっても消えなんだ。
 舌のこわばったような先生が、
(飛んでもない事――お道さん。)
(いいえ、構いません。)
 と若旦那はきっぱりと、
(飛んでもない事ではありません。それが当然なのです。立野さん。貴下あなたが御自分でなくっても、貴下が許して、錠前をさえお開き下さるなら――方法はえらびません。短銃ピストルなんぞ何になりましょう、私はそれで満足します。)
(旦那様。)
 と精一杯で、お道さんが、押留められた一つの手を、それなり先生の袖に縋って、無量のおもいの目を凝らした。
(はあ、)
 と落込むような大息して、先生の胸が崩れようとしますとな。
(貴方、……あの鍵が返りましたか。……優しい、お道さん、美しい、ねえさん、……お優しい、お美しい姉さんに、貴方はもうお心が移りましたか。)
 と云って、若奥様がじっました。
 先生が蒼くなって、両手でお道さんを押除おしのけながら、
(これは余所よその娘です、あわれな孤児みなしごです。)
 とあとが消えた。
(決行なさい、縫子。)
(…………)
(打て、お打ちなさい。)
(唯今。)
 と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。あおりもせぬのに気が立って、さっと火の上る松明たいまつより、くれないに燃立つばかり、紋縮緬もんちりめん長襦袢ながじゅばんが半身に流れました。……袖を切ったと言う三年前ぜんの婚礼の日の曠衣裳はれいしょうを、そのままで、一方紫の袖の紋の揚羽の蝶は、革鞄に留まった友を慕って、火先にひらひらと揺れました。
 若奥様が片膝ついて、その燃ゆる火の袖に、キラリと光る短銃ピストルを構えると、先生は、両方の膝に手を垂れて、目をつむって立ちました。
(お身代りに私が。)
 とお道さんが、その前に立塞たちふさがった。
「あ、危い、あなた。」
 と若旦那が声を絞った。
 若奥様は折敷いたままで、
不可いけません――お道さん。)
(いいえ、本望でございます。)
(私がきません。)
 と若奥様がかぶりります。
(貴方が、お肯き遊ばさねば、旦那様にお願い申上げます。こんな山家の女でも、心にかわりはござんせん、ねがいかなえて下さいまし。おなさけはうけませんでも、色も恋も存じております。もみじを御覧なさいまし、つれない霜にも血を染めます。私はただきておりますより、旦那さんのかわりに死にたいのです。その方が嬉しいのです。こんな事があろうと思って、もう家を出ます時、なくなった母親の記念かたみの裾模様を着て参りました。……手織木綿に前垂まえだれした、それならば身分相応ですから、人様の前に出られます。時おくれの古い紋着もんつき、襦袢も帯もうつりません、あられもないなりをして、恋のかたきの奥様と、並んでここへ参りました。ふびんと思って下さいまし。ああ女は浅間しい、私にはただ一枚、母親の記念かたみだけれど、奥様のお姿と、こんなはかないなりをくらべて、思う方の前に出るのは死ぬよりも辛うござんす。それさえ思い切りました。男のために死ぬのです。冥加みょうがに余って勿体ない。……ただ心がかりなは、私と同じ孤児みなしごの、時ちゃん―少年の配達夫―の事ですが、あのも先生おもいですから、こうと聞いたら喜びましょう。)
 若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。
 先生は胸に大波を打たせながら、半ば串戯じょうだんにするように、手を取って、泣笑なきわらいをして、
(これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。)
(ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思いはしません。私は、馬鹿が嬉しゅうございます。)
(弱った。これ、つまらん、そんな。)
(お手間が取れます。)
(さあ、お退き、これ、そっちへ。)
(いいえ、いいえ。)
 否々いやいやをして、かぶりをふって甘える肩を、先生が抱いて退けようとするなり、くるりとうしろ向きになって、前髪をひしと胸に当てました。
 呼吸いきしずめて、いだいた腕を、ぐいと背中へきましたが、
(お退きと云うに。――やあ、お道さんのおん母君、母堂、お記念かたみの肉身と、衣類に対して失礼します、御許し下さい……御免。)
 と云うと、抱倒して、
(ああれ。)
 と震えてもがくのを、しかと片足に蹈据ふみすえて、仁王立におうだちにすっくと立った。
(用意はよろしい。……縫子さん。)
(…………)
(…………)
(さようなら……)
(……さようなら、貴方。)
 日光の御廟おたまやの天井に、墨絵の竜があって鳴きます、尾の方へ離れると音はしねえ、あごの下の低い処で手を叩くと、コリンと、高い天井で鳴りますので、案内者は、勝手に泣竜と云うのでございますが、同じ音で。――
 コリンと響いたと思うと、先生の身体からだは左右へふらふらして動いたが、不思議な事には倒れません。
 南無三宝なむさんぽう
 片手づきに、白襟の衣紋えもんを外らして仰向あおむきになんなすった、若奥様の水晶のような咽喉のどへ、口からたらたらと血が流れて、元結もっといが、ぷつりと切れた。
 トタンにな、革鞄の袖が、するすると抜けて落ちました。
(貴方……短銃ピストルを離しても、もううございますか。)
 若旦那がひざまずいてその手を吸うと、釣鐘を落したように、軽そうな手を柔かに、先生の膝に投げて、
(ああ、嬉しい。……立野さん、お道さん、短銃をそちらへ向けて打つような女とお思いなさいましたか。)
只今ただいま立処たちどころに自殺します。)
 と先生の、手をついて言うのをきいて、かぶりをって、櫛笄くしこうがいも、落ちないで、乱れかかる髪をそのまま莞爾にっこりして、
(いいえ、百万年ののちに……また、お目にかかります。お二方に、これだけに思われて、縫は世界中のしあわせです――貴方、おわびは、あの世から……)
 最後の言葉でございました。」

「お道さんが銀杏返いちょうがえしの針を抜いて、あの、片袖を、死骸の袖に縫つけました。
 その間、膝にのせて、胸に抱いて、若旦那が、お縫さんの、柔かに投げたかいなを撫で、撫で、
(この、清い、雪のような手を見て下さい。私の偏執と自我と自尊と嫉妬のために、せんずるにはげしい恋のために、――三年の間、に、日に、短銃ピストルを持たせられた、血を絞り、肉を刻み、骨を砂利にするような拷掠ごうりゃくに、よくもこの手が、鉄にも鉛にもなりませんでした。ああ、全く魔のごとき残虐にも、美しいものは滅びません。私は慚愧ざんきします。しかし、貴下あなたと縫子とで、どんなにもお話合のつきますように、私に三日先立って、縫子をこちらによこしました、それに、あからさまに名を云って、わざと電報を打ちました。……貴下あなたを当電信局員と存じましていたした事です。とにかく私の心も、身のはても、やがて、お分りになりましょう。)
 と、いいいい、地蔵様の前へ、男が二人でそっかつぐと、お道さんが、笠を伏せて、その上に帯を解いて、畳んで枕にさせました。
 わっしも十本の指を、額に堅く組んで頂いて拝んだ。
 そこらの木の葉を、やたらに火鉢にくべながら……
(失礼、支度をいたしますから。)
 若旦那がするすると松の樹の処へきます。
 そこで内証で涙を払うのかと偲うと、肩に一揺ひとゆすり、ゆすぶりをくれるや否や、切立きったての崖の下は、つるぎを植えたいわの底へ、真逆様まっさかさま。霧の海へ、薄ぐろく、影が残って消えません。
 ――旦那方。
 先生を御覧なせえ、いきなりうしろからお道さんの口へ猿轡さるぐつわめましたぜ。――一人は放さぬ、一所に死のうともだえたからで。――それをね、天幕テントの中へ抱入れて、電信事務の卓子テエブルに向けて、椅子にのせて、手はゆわえずに、腰も胸も兵児帯でぐるぐる巻だ。
(時夫の来るまで……)
 そう言って、石段へずッとく。
 わっし下口おりくちまで追掛おっかけたが、どうしていか、途方にくれてくるくる廻った。
 お道さんが、さんばら髪に肩を振って、身悶えすると、消えかかった松明がかッと燃えて、あれあれ、女の身の丈に、めらめらと空へ立った。
 先生の身体からだが、影のように帰って来て、いましめを解くと一所に、五体も溶けたようなお道さんを、しかと腕に抱きました。
 いや何とも……酔った勢いで話しましたが、その人たちの事を思うと、何とも言いようがねえ。
 実は、わっしと云うものは……若奥様には内証だが、その高崎の旦那に、頼まれまして、技師の方がい、とさえと一言ひとこと云えば、すぐに合鍵をこしらえるように、道中お抱えだったので。……何、鍵までもありゃしません。――天幕でお道さんが相談をしました時、寸法を見るふりをして、錠は、はずしておいたんでございますのに――
 皆、何とも言いようがねえ、見てござった地蔵様にも手のつけようがなかったに違えねえ。若旦那のお心持も察して上げておくんなせえ。
 あくる日岨道そばみちを伝いますと、山から取った水樋みずどよが、空を走って、水車みずぐるまさっかかります、真紅まっかな木の葉が宙を飛んで流れましたっけ、誰の血なんでございましょう。」

(峰の白雪ふもとの氷
   今は互に隔てていれど)
 あとで、鋳掛屋に立山を聴いた――追善の心である。皆涙を流した……座は通夜のようであった。
 姨捨山の月霜にして、はてしなき谷の、暗きもやの底に、千曲川は水晶の珠数の乱るるごとく流れたのである。
大正九(一九二〇)年十二月





底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十卷」岩波書店
   1941(昭和16)年5月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「安達あだちヶ原」「ふくろたけ」は小振りに、「やけヶ嶽」は大振りにつくっています。
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について