一
「
杢さん、これ、
何?……」
と
小児が
訊くと、
真赤な鼻の
頭を
撫でて、
「綺麗な
衣服だよう。」
これはまた余りに
情ない。町内の
杢若どのは、
古筵の両端へ、
笹の葉ぐるみ青竹を立てて、縄を渡したのに、幾つも
蜘蛛の巣を
引搦ませて、
商売をはじめた。まじまじと控えた、が、そうした鼻の
頭の赤いのだからこそ
可けれ、
嘴の黒い烏だと、そのままの
流灌頂。で、お宗旨
違の神社の境内、額の古びた木の鳥居の
傍に、裕福な
仕舞家の土蔵の羽目板を
背後にして、秋の
祭礼に、
日南に店を出している。
売るのであろう、
商人と一所に、のほんと構えて、晴れた空の、薄い雲を見ているのだから。
飴は、今でも
埋火に
鍋を掛けて暖めながら、飴ん棒と云う
麻殻の軸に巻いて売る、
賑かな祭礼でも、
寂びたもので、お市、
豆捻、
薄荷糖なぞは、お婆さんが
白髪に
手抜を巻いて商う。何でも買いなの小父さんは、紺の筒袖を
突張らかして懐手の
黙然たるのみ。景気の
好いのは、
蜜垂じゃ蜜垂じゃと、
菖蒲団子の附焼を、はたはたと
煽いで呼ばるる。……毎年顔も店も
馴染の連中、場末から出る
際商人。
丹波鬼灯、
海酸漿は
手水鉢の
傍、大きな
百日紅の樹の下に風船屋などと、よき所に陣を敷いたが、鳥居外のは、気まぐれに山から出て来た、もの売で。――
売るのは果もの類。桃は遅い。小さな梨、
粒林檎、
栗は生のまま……うでたのは、
甘藷とともに店が違う。……奥州辺とは事かわって、
加越のあの辺に
朱実はほとんどない。ここに林のごとく売るものは、黒く紫な
山葡萄、黄と青の
山茱萸を、
蔓のまま、枝のまま、その甘渋くて、且つ
酸き事、狸が
咽せて、兎が酔いそうな珍味である。
このおなじ店が、
筵三枚、三軒ぶり。
笠被た女が二人並んで、片端に
頬被りした
馬士のような
親仁が一人。で、一方の
端の所に、
件の杢若が、縄に蜘蛛の巣を懸けて
罷出た。
「これ、何さあ。」
「美しい
衣服じゃが買わんかね。」と鼻をひこつかす。
幾歳になる……杢の
年紀が分らない。
小児の時から大人のようで、大人になっても小児に
斉しい。彼は、元来、この町に、立派な玄関を磨いた
医師のうちの、書生兼小使、と云うが、それほどの用には立つまい、ただ大食いの
食客。
世間体にも、容体にも、
痩せても
袴とある
処を、毎々薄汚れた
縞の
前垂を
〆めていたのは
食溢しが激しいからで――この頃は人も死に、
邸も
他のものになった。その
医師というのは、町内の
小児の記憶に、もう可なりの年輩だったが、色の白い、指の細く美しい人で、ひどく権高な、その癖
婦のように、口を利くのが優しかった。……細君は、
赭ら顔、横ぶとりの肩の広い
大円髷。
眦が下って、
脂ぎった
頬へ、こう……いつでもばらばらとおくれ毛を下げていた。
下婢から成上ったとも言うし、
妾を直したのだとも云う。
実の
御新造は、人づきあいはもとよりの事、
門、背戸へ姿を見せず、座敷牢とまでもないが、奥まった処に
籠切りの、長年の狂女であった。――で、赤鼻は、
章魚とも
河童ともつかぬ御難なのだから、
待遇も
態度も、河原の砂から拾って来たような
体であったが、実は前妻のその狂女がもうけた、実子で、しかも長男で、この生れたて変なのが、やや育ってからも変なため、それを気にして気が狂った、御新造は、以前、国家老の娘とか、それは美しい人であったと言う……
ある秋の半ば、
夕より、大雷雨のあとが
暴風雨になった、夜の四つ時十時過ぎと思う頃、
凄じい電光の中を、
蜩が鳴くような、うらさみしい、
冴えた、
透る、女の声で、キイキイと笑うのが、あたかも樹の上、雲の中を伝うように大空に高く響いて、この町を二三度、四五たび、風に吹廻されて
往来した事がある……
通魔がすると恐れて、老若、
呼吸をひそめたが、あとで聞くと、その晩、斎木(医師の姓)の御新造が
家を抜出し、町内を
彷徨って、疲れ果てた
身体を、
社の鳥居の柱に、黒髪を
颯と乱した
衣は
鱗の、
膚の雪の、
電光に
真蒼なのが、滝をなす雨に打たれつつ、怪しき
魚のように
身震して跳ねたのを、
追手が見つけて、
医師のその家へかつぎ込んだ。間もなく
枢という四方
張の
俎に
載せて焼かれてしまった。斎木の御新造は、人魚になった、あの
暴風雨は、北海の浜から、
潮が迎いに来たのだと言った――
その翌月、急病で斎木国手が亡くなった。あとは
散々である。代診を養子に取立ててあったのが、成上りのその
肥満女と、
家蔵を売って行方知れず、……下男下女、薬局の
輩まで。勝手に
掴み取りの、
梟に枯葉で散り散りばらばら。……薬臭い寂しい邸は、冬の日売家の札が
貼られた。
寂とした暮方、……空地の
水溜を町の
用心水にしてある
掃溜の
芥棄場に、枯れた柳の夕霜に、赤い鼻を、薄ぼんやりと、
提灯のごとくぶら下げて立っていたのは、屋根から落ちたか、
杢若どの。……親は子に、杢介とも杢蔵とも名づけはしない。待て、御典医であった、彼のお
祖父さんが選んだので、本名は
杢之丞だそうである。
――時に、木の鳥居へ引返そう。
二
ここに、杢若がその怪しげなる
蜘蛛の巣を拡げている、この鳥居の向うの隅、以前
医師の邸の裏門のあった処に、むかし番太郎と言って、町内の走り
使人、
斎、非時の
振廻り、
香奠がえしの
配歩行き、秋の夜番、冬は雪
掻の手伝いなどした
親仁が住んだ……半ば立腐りの長屋建て、
掘立小屋という
体なのが
一棟ある。
町中が、杢若をそこへ入れて、役に立つ立たないは話の外で、寄合持で、ざっと
扶持をしておくのであった。
「杢さん、どこから仕入れて来たよ。」
「縁の下か、
廂合かな。」
その蜘蛛の巣を見て、
通掛りのものが、苦笑いしながら、声を懸けると、……
「違います。」
と鼻ぐるみ頭を
掉って、
「
さとからじゃ、ははん。」と、ぽんと鼻を鳴らすような
咳払をする。
此奴が取澄ましていかにも高慢で、且つ
翁寂びる。争われぬのは、お祖父さんの御典医から、父典養に相伝して、脈を取って、ト小指を
刎ねた時の容体と少しも変らぬ。
杢若が、
さとと云うのは、山、村里のその里の意味でない。註をすれば里よりは山の義で、字に
顕せば
故郷になる……
実家になる。
八九年
前晩春の頃、同じこの境内で、
小児が
集って
凧を揚げて遊んでいた――杢若は
顱の大きい坊主頭で、誰よりも群を抜いて、のほんと脊が高いのに、その揚げる凧は糸を
惜んで、一番低く、山の上、松の空、桐の
梢とある中に、わずかに
百日紅の枝とすれすれな所を舞った。
大風来い、大風来い。
小風は、可厭、可厭……
幼い同士が威勢よく唄う中に、杢若はただ一人、寒そうな懐手、糸巻を
懐中に差込んだまま、この唄にはむずむずと襟を
摺って、
頭を
掉って、そして
面打って舞う
己が凧に、合点合点をして見せていた。
……にもかかわらず、烏が騒ぐ
逢魔が時、
颯と下した風も無いのに、杢若のその低い凧が、懐の糸巻をくるりと空に巻くと、キリキリと糸を張って、一ツ星に颯と
外れた。
「魔が来たよう。」
「
天狗が取ったあ。」
ワッと
怯えて、
小児たちの逃散る中を、
団栗の転がるように杢若は黒くなって、凧の影をどこまでも
追掛けた、その時から、行方知れず。
五日目のおなじ晩方に、骨ばかりの凧を提げて、やっぱり鳥居際にぼんやりと立っていた。天狗に
攫われたという事である。
それから時々、三日、五日、多い時は半月ぐらい、月に一度、あるいは三月に二度ほどずつ、人間界に居なくなるのが例年で、いつか、そのあわれな母のそうした時も、杢若は町には居なかったのであった。
「どこへ行ってござったの。」
町の老人が問うのに答えて、
「
実家へだよう。」
と、それ言うのである。この町からは、間に大川を一つ隔てた、山から山へ、峰続きを分入るに相違ない、魔の
棲むのはそこだと言うから。
「お
実家はどこじゃ。どういう人が居さっしゃる。」
「実家の事かねえ、ははん。」
スポンと栓を抜く、
件の
咳を一つすると、これと同時に、鼻が
尖り、眉が
引釣り、額の
皺が
縊れるかと
凹むや、
眼が光る。……歯が鳴り、舌が
滑に赤くなって、
滔々として弁舌鋭く、不思議に魔界の消息を
洩す――これを聞いたものは、親たちも、
祖父祖母も、その
児、孫などには、決して話さなかった。
幼いものが、生意気に
直接に
打撞る事がある。
「杢やい、
実家はどこだ。」
「実家の事かい、ははん。」
や、もうその
咳で、小父さんのお
医師さんの、
膚触りの柔かい、
冷りとした手で、脈所をぎゅうと握られたほど、
悚然とするのに、たちまち鼻が
尖り、眉が逆立ち、額の
皺が、ぴりぴりと
蠢いて眼が血走る。……
聞くどころか、これに
怯えて、ワッと
遁げる。
「実家はな。」
と
背後から、
蔽われかかって、
小児の目には小山のごとく追って来る。
「御免なさい。」
「きゃっ!」
その時に限っては、杢若の耳が且つ動くと言う――嘘を
吐け。
三
海、また湖へ、信心の
投網を
颯と打って、水に光るもの、輝くものの、仏像、名剣を得たと言っても、売れない
前には、その日一日の日当がどうなった、米は両につき三升、というのだから、かくのごとき杢若が番太郎小屋にただぼうとして
活きているだけでは、世の中が納まらぬ。
入費は、町中持合いとした処で、半ば
白痴で――たといそれが、
実家と言う時、魔の魂が入替るとは言え――半ば
狂人であるものを、肝心火の元の用心は何とする。……
炭団、
埋火、
榾、
柴を
焚いて煙は揚げずとも、大切な事である。
方便な事には、杢若は
切凧の一件で、山に
実家を持って以来、いまだかつて火食をしない。多くは果物を
餌とする。松葉を
噛めば、
椎なんぞ葉までも頬張る。
瓜の皮、
西瓜の種も差支えぬ。桃、栗、柿、大得意で、烏や
鳶は、むしゃむしゃと裂いて
鱠だし、
蝸牛虫やなめくじは刺身に扱う。春は若草、
薺、
茅花、つくつくしのお精進……
蕪を
噛る。
牛蒡、人参は縦に
啣える。
この、秋はまたいつも、食通大得意、というものは、木の実時なり、実り頃、実家の土産の
雉、山鳥、
小雀、
山雀、
四十雀、色どりの色羽を、ばらばらと辻に
撒き、
廂に散らす。ただ、魚類に至っては、金魚も目高も決して食わぬ。
最も得意なのは、も一つ
茸で、名も知らぬ、
可恐しい、
故郷の峰谷の、
蓬々しい名の無い
菌も、皮づつみの
餡ころ餅ぼたぼたと
覆すがごとく、
袂に襟に
溢れさして、山野の珍味に
厭かせたまえる殿様が、これにばかりは、露のようなよだれを
垂し、
「牛肉のひれや、人間の娘より、
柔々として
膏が滴る……
甘味ぞのッ。」
は
凄じい。
が、かく
菌を
嗜むせいだろうと人は言った、まだ杢若に不思議なのは、
日南では、影形が薄ぼやけて、陰では、汚れたどろどろの
衣の
縞目も
判明する。……
委しく言えば、昼は影法師に
肖ていて、夜は
明かなのであった。
さて、店を並べた、
山茱萸、
山葡萄のごときは、この
老鋪には余り資本が
掛らな過ぎて、恐らくお
銭になるまいと考えたらしい。で、精一杯に売るものは。
「何だい、こりゃ!」
「美しい
衣服じゃがい。」
氏子は
呆れもしない顔して、これは買いもせず、貰いもしないで、隣の木の実に
小遣を出して、枝を
蔓を提げるのを、じろじろと
流眄して、世に伯楽なし
矣、とソレ青天井を向いて、えへらえへらと
嘲笑う……
その
笑が、
日南に居て、蜘蛛の巣の影になるから、鳥が
嘴を開けたか、猫が
欠伸をしたように、人間離れをして、笑の意味をなさないで、ぱくりとなる……
というもので、
筵を並べて、笠を
被って坐った、山茱萸、山葡萄の
婦どもが、
件のぼやけさ加減に何となく誘われて、この姿も、またどうやら
太陽の色に
朧々として見える。
蒼い空、薄雲よ。
人の形が、そうした霧の
裡に薄いと、
可怪や、
掠れて、
明さまには見えない
筈の、
扱いて
搦めた
縺れ糸の、蜘蛛の
囲の
幻影が、幻影が。
真綿をスイと繰ったほどに判然と見えるのに、
薄紅の蝶、
浅葱の蝶、青白い蝶、黄色な蝶、金糸銀糸や消え際の
草葉螟蛉、
金亀虫、蠅の、蒼蠅、赤蠅。
羽ばかり秋の蝉、
蜩の身の
経帷子、いろいろの虫の
死骸ながら巣を
引って来たらしい。それ等が
艶々と色に出る。
あれ見よ、その蜘蛛の囲に、ちらちらと水銀の散った玉のような露がきらめく……
この空の晴れたのに。――
四
これには
仔細がある。
神の氏子のこの数々の町に、やがて、あやかしのあろうとてか――その年、秋のこの
祭礼に限って、
見馴れない、
商人が、妙な、
異ったものを売った。
宮の入口に、新しい石の鳥居の前に立った、白い
幟の下に店を出して、そこに
鬻ぐは何等のものぞ。
河豚の皮の水鉄砲。
蘆の軸に、
黒斑の皮を小袋に巻いたのを、握って離すと、スポイト仕掛けで、
衝と水が
迸る。
鰒は多し、また
壮に
膳に上す国で、魚市は言うにも及ばず、市内到る処の魚屋の店に、春となると、この
怪い
魚を
鬻がない処はない。
が、おかしな売方、
一頭々々を、あの
鰭の黄ばんだ、黒斑なのを、ずぼんと裏返しに、どろりと脂ぎって、ぬらぬらと白い腹を
仰向けて並べて置く。
もしただ二つ並ぼうものなら、切落して生々しい女の乳房だ。……しかも
真中に、ズキリと庖丁目を入れた処が、パクリと赤黒い口を
開いて、
西施の腹の裂目を
曝す……
中から、ずるずると引出した、長々とある
百腸を、巻かして、
束ねて、ぬるぬると重ねて、
白腸、
黄腸と
称えて売る。……あまつさえ、目の赤い
親仁や、
襤褸半纏の
漢等、俗に――云う
腸拾いが、出刃庖丁を斜に構えて、この
腸を切売する。
待て、我が食通のごときは、これに較ぶれば処女の膳であろう。
要するに、市、町の人は、
挙って、手足のない、女の白い
胴中を
筒切にして食うらしい。
その皮の水鉄砲。
小児は争って
買競って、手の
腥いのを
厭いなく、
参詣群集の
隙を見ては、シュッ。
「打上げ!」
「流星!」
と花火に
擬て、
縦横や十文字。
いや、隙どころか、
件の杢若をば
侮って、その蜘蛛の巣の店を打った。
白玉の露はこれである。
その露の
鏤むばかり、蜘蛛の囲に色
籠めて、いで
膚寒き
夕となんぬ。山から
颪す風一陣。
はや
篝火の夜にこそ。
五
笛も、太鼓も
音を絶えて、ただ
御手洗の水の音。
寂としてその
夜更け行く。この宮の境内に、
階の
方から、カタンカタン、三ツ四ツ七ツ足駄の歯の
高響。
脊丈のほども
惟わるる、あの
百日紅の樹の枝に、
真黒な
立烏帽子、
鈍色に黄を交えた
練衣に、水色のさしぬきした神官の姿一体。社殿の
雪洞も早や影の届かぬ、
暗夜の中に
顕れたのが、やや
屈みなりに腰を
捻って、その百日紅の
梢を
覗いた、霧に
朦朧と火が映って、ほんのりと
薄紅の
射したのは、そこに
焚落した
篝火の
残余である。
この
明で、白い襟、烏帽子の
紐の
縹色なのがほのかに見える。渋紙した顔に
黒痘痕、
塵を飛ばしたようで、
尖がった目の光、髪はげ、眉薄く、頬骨の張った、その
顔容を見ないでも、夜露ばかり雨のないのに、その高足駄の音で分る、本田
摂理と申す、この宮の社司で……草履か高足駄の
他は、下駄を
穿かないお
神官。
小児が社殿に遊ぶ時、
摺違って通っても、じろりと
一睨みをくれるばかり。威あって
容易く口を利かぬ。それを
可恐くは思わぬが、この社司の一子に、時丸と云うのがあって、おなじ
悪戯盛であるから、ある時、大勢が
軍ごっこの、番に当って、一子時丸が馬になった、
叱!
騎った
奴がある。……で、廻廊を
這った。
大喝一声、太鼓の皮の裂けた音して、
「無礼もの!」
社務所を虎のごとく猛然として
顕れたのは摂理の
大人で。
「動!」と
喚くと、一子時丸の襟首を、長袖のまま
引掴み、壇を
倒に引落し、ずるずると広前を、石の大鉢の
許に
掴み去って、いきなり衣帯を
剥いで裸にすると、
天窓から
柄杓で浴びせた。
「塩を持て、塩を持て。」
塩どころじゃない、百日紅の樹を前にした、社務所と別な
住居から、よちよち、
臀を横に振って、
肥った色白な
大円髷が、夢中で
駈けて来て、一子の
水垢離を留めようとして、身を
楯に
逸るのを、
仰向けに、ドンと
蹴倒いて、
「
汚れものが、
退りおれ。――塩を持て、塩を持てい。」
いや、
小児等は一すくみ。
あの顔一目で縮み上る……
が、
大人に道徳というはそぐわぬ。博学深識の
従七位、花咲く霧に烏帽子は、大宮人の風情がある。
「火を、ようしめせよ、
燠が散るぞよ。」
と烏帽子を下向けに、その
住居へ声を懸けて、樹の下を出しなの時、
「雨はどうじゃ……ちと曇ったぞ。」と、
密と、袖を
捲きながら、紅白の旗のひらひらする、小松大松のあたりを見た。
「あの、大旗が濡れてはならぬが、降りもせまいかな。」
と半ば
呟き呟き、
颯と巻袖の
笏を上げつつ、とこう、石の鳥居の
彼方なる、高き帆柱のごとき
旗棹の空を仰ぎながら、カタリカタリと足駄を踏んで、斜めに木の鳥居に近づくと、や! 鼻の
提灯、
真赤な猿の
面、
飴屋一軒、犬も
居らぬに、杢若が
明かに店を張って、暗がりに、のほんとしている。
馬鹿が
拍手を
拍った。
「
御前様。」
「杢か。」
「ひひひひひ。」
「何をしておる。」
「少しも売れませんわい。」
「馬鹿が。」
と夜陰に、一つ
洞穴を抜けるような
乾びた声の大音で、
「何を売るや。」
「美しい
衣服だがのう。」
「何?」
暗を見透かすようにすると、ものの静かさ、松の香が
芬とする。
六
鼠色の
石持、黒い
袴を
穿いた
宮奴が、
百日紅の下に影のごとく
踞まって、びしゃッびしゃッと、
手桶を片手に、
箒で水を打つのが見える、と……そこへ――
あれあれ何じゃ、ばばばばばば、と赤く、かなで書いた字が宙に出て、白い四角な
燈が通る、三箇の人影、六本の
草鞋の脚。
燈一つに
附着合って、スッと鳥居を
潜って来たのは、三人
斉しく山伏なり。
白衣に白布の
顱巻したが、
面こそは
異形なれ。
丹塗の天狗に、
緑青色の
般若と、
面白く鼻の黄なる狐である。魔とも、妖怪変化とも、もしこれが
通魔なら、あの火をしめす宮奴が気絶をしないで
堪えるものか。で、般若は一
挺の
斧を提げ、天狗は
注連結いたる半弓に矢を取添え、狐は腰に
一口の太刀を
佩く。
中に荒縄の太いので、
笈摺めかいて、
灯した
角行燈を
荷ったのは天狗である。が、これは、勇しき男の獅子舞、
媚かしき女の
祇園囃子などに斉しく、特に
夜に
入って
練歩行く、祭の催物の一つで、意味は分らぬ、(やしこばば)と
称うる若連中のすさみである。それ、腰にさげ、帯にさした、
法螺の貝と横笛に拍子を合せて、
やしこばば、うばば、
うば、うば、うばば。
火を一つ貸せや。
火はまだ打たぬ。
あれ、あの山に、火が一つ見えるぞ。
やしこばば、うばば。
うば、うば、うばば。
……と唄う、ただそれだけを繰返しながら、矢をはぎ、斧を舞わし、太刀をかざして、
頤から頭なりに、首を一つぐるりと振って、
交る
交るに緩く舞う。舞果てると鼻の
尖に指を立てて
臨兵闘者云々と九字を切る。一体、悪魔を払う趣意だと云うが、どうやら夜陰のこの
業体は、
魑魅魍魎の類を、呼出し招き寄せるに
髣髴として、実は、
希有に、怪しく不気味なものである。
しかもちと来ようが遅い。
渠等は
社の抜裏の、くらがり坂とて、穴のような中を抜けてふとここへ
顕れたが、坂下に大川一つ、橋を向うへ越すと、山を
屏風に
繞らした、
翠帳紅閨の
衢がある。おなじ時に祭だから、宵から、その軒、格子先を
練廻って、ここに時おくれたのであろう。が、あれ、どこともなく瀬の音して、雨雲の一際黒く、
大なる蜘蛛の
浸んだような、峰の天狗松の常燈明の一つ
灯が、地獄の一つ星のごとく見ゆるにつけても、どうやら三体の通魔めく。
渠等は、すっと来て通り
際に、従七位の神官の姿を見て、黙って、言い合せたように、音の無い草鞋を
留めた。
この行燈で、巣に
搦んだいろいろの虫は、
空蝉のその
羅の
柳条目に見えた。灯に
蛾よりも
鮮明である。
但し異形な山伏の、天狗、般若、狐も見えた。が、
一際色は、杢若の鼻の
頭で、
「えら美しい
衣服じゃろがな。」
と
蠢かいて言った処は、青竹二本に渡したにつけても、魔道における
七夕の貸小袖という趣である。
従七位の摂理の太夫は、
黒痘痕の
皺を
歪めて、
苦笑して、
「
白痴が。今にはじめぬ事じゃが、まずこれが衣類ともせい……どこの
棒杭がこれを着るよ。余りの事ゆえ尋ねるが、おのれとても、氏子の一人じゃ、こう訊くのも、氏神様の、」
と
厳に袖に
笏を立てて、
「恐多いが、
思召じゃとそう思え。誰が、着るよ、この
白痴、蜘蛛の巣を。」
「綺麗なのう、若い
婦人じゃい。」
「何。」
「綺麗な若い
婦人は、お姫様じゃろがい、そのお姫様が着さっしゃるよ。」
「天井か、縁の下か、そんなものがどこに居る?」
と従七位はまた苦い顔。
七
杢若は
筵の上から、古綿を
啣えたような唇を
仰向けに反らして、
「あんな事を言って、従七位様、天井や縁の下にお姫様が居るものかよ。」
馬鹿にしないもんだ、と
抵抗面は
可かったが、
「解った事を、草の中に居るでないかね……」
はたして、言う事がこれである。
「そうじゃろう、草の中でのうて、そんなものが居るものか。ああ、
何んと云う、どんな虫じゃい。」
「あれ、虫だとよう、従七位様、えらい
博識な神主様がよ。お姫様は
茸だものをや。……虫だとよう、あはは、あはは。」と、火食せぬ
奴の歯の白さ、べろんと舌の赤い事。
「茸だと……これ、
白痴。聞くものはないが、あまり
不便じゃ。氏神様のお尋ねだと思え。茸が
婦人か、おのれの目には。」
「
紅茸と言うだあね、
薄紅うて、白うて、
美い綺麗な
婦人よ。あれ、知らっしゃんねえがな、この位な事をや。」
従七位は、
白痴の毒気を避けるがごとく、
笏を廻して、二つ三つ
這奴の鼻の
尖を払いながら、
「ふん、で、そのおのれが
婦は、蜘蛛の巣を
被って草原に寝ておるじゃな。」
「寝る時は
裸体だよ。」
「む、茸はな。」
「起きとっても裸体だにのう。――
粧飾す時に、
薄らと裸体に巻く宝ものの
美い
衣服だよ。これは……」
「うむ、天の
恵は洪大じゃ。茸にもさて、
被るものをお授けなさるじゃな。」
「違うよ。――お姫様の、めしものを持て――
侍女がそう言うだよ。」
「何じゃ、
待女とは。」
「やっぱり、はあ、
真白な
膚に
薄紅のさした紅茸だあね。おなじものでも位が違うだ。人間に、神主様も飴屋もあると
同一でな。……従七位様は何も知らっしゃらねえ。あはは、
松蕈なんぞは正七位の
御前様だ。
錦の
褥で、のほんとして、お姫様を
視めておるだ。」
「黙れ!
白痴!……と、こんなものじゃ。」
と従七位は、山伏どもを、じろじろと横目に掛けつつ、過言を叱する威を示して、
「で、で、その
衣服はどうじゃい。」
「ははん――
姫様のおめしもの持て――
侍女がそう言うと、黒い所へ、黄色と
紅条の
縞を持った女郎蜘蛛の肥えた奴が、両手で、へい、この金銀珠玉だや、それを、その織込んだ、透通る
錦を捧げて、
赤棟蛇と言うだね、燃える炎のような蛇の
鱗へ、馬乗りに乗って、谷底から
駈けて来ると、蜘蛛も光れば蛇も光る。」
と物語る。君がいわゆる
実家の
話柄とて、
喋舌る杢若の目が光る。と、
黒痘痕の
眼も輝き、天狗、般若、白狐の、
六箇の眼玉も
赫となる。
「まだ足りないで、
燈を――燈を、と細い声して言うと、土からも
湧けば、大木の幹にも伝わる、土蜘蛛だ、朽木だ、
山蛭だ、
俺が
実家は
祭礼の蒼い万燈、紫色の揃いの提灯、さいかち
茨の赤い
山車だ。」
と言う……葉ながら散った、
山葡萄と
山茱萸の夜露が化けた風情にも、
深山の
状が思わるる。
「いつでも俺は、気の向いた時、勝手にふらりと
実家へ
行くだが、今度は山から迎いが来たよ。
祭礼に就いてだ。この間、宵に大雨のどッとと降った夜さり、あの用心池の
水溜の所を通ると、
掃溜の前に、円い笠を着た黒いものが
蹲踞んでいたがね、俺を見ると、ぬうと立って、すぽんすぽんと
歩行き出して、雲の底に月のある、どしゃ
降の中でな、時々、のほん、と
立停っては俺が方をふり向いて見い見いするだ。頭からずぼりと黒い奴で、顔は分んねえだが、こっちを呼びそうにするから、その後へついて
行くと、石の鳥居から曲って入って、こっちへ来ると見えなくなった――
俺あ家へ入ろうと思うと、向うの
百日紅の樹の下に立っている……」
指した
方を、従七位が見返った時、もうそこに、
宮奴の影はなかった。
御手洗の音も途絶えて、
時雨のような川瀬が響く。……
八
「そのまんま消えたがのう。お
社の柵の横手を、坂の方へ行ったらしいで、後へ、すたすた。坂の
下口で気が附くと、
驚かしやがらい、畜生めが。俺の袖の中から、
皺びた、いぼいぼのある
蒼い顔を出して笑った。――山は
御祭礼で、お迎いだ――とよう。……
此奴はよ、
大い
蕈で、
釣鐘蕈と言うて、叩くとガーンと音のする、
劫羅経た
親仁よ。……
巫山戯た
爺が、驚かしやがって、頭をコンとお見舞申そうと思ったりゃ、もう、すっこ抜けて、坂の中途の
樫の木の下に雨宿りと澄ましてけつかる。
川端へ着くと、
薄らと月が出たよ。大川はいつもより幅が広い、霧で
茫として海見たようだ。
流の上の
真中へな、小船が一
艘。――
先刻ここで木の実を売っておった
婦のような、丸い笠きた、白い女が二人乗って、川下から流を逆に泳いで通る、
漕ぐじゃねえ。底蛇と言うて、川に
居る蛇が船に乗ッけて底を渡るだもの。船頭なんか、要るものかい、ははん。」
と高慢な笑い方で、
「船からよ、白い手で招くだね。黒親仁は俺を
負って、ざぶざぶと
流を渡って、船に乗った。二人の
婦人は、柴に
附着けて売られたっけ、毒だ言うて川下へ流されたのが
遁げて来ただね。
ずっと川上へ
行くと、そこらは濁らぬ。山奥の方は
明い月だ。
真蒼な
激い流が、白く
颯と分れると、
大な蛇が迎いに来た、でないと船が、もうその上は小蛇の力で動かんでな。底を
背負って、一廻りまわって、
船首へ、鎌首を
擡げて泳ぐ、竜頭の船と言うだとよ。俺は殿様だ。……
大巌の岸へ着くと、その鎌首で、親仁の頭をドンと
敲いて、(お先へ。)だってよ、べろりと赤い舌を出して笑って谷へ隠れた。山路はぞろぞろと皆、お
祭礼の茸だね。
坊主様も尼様も交ってよ、尼は大勢、びしょびしょびしょびしょと湿った所を、坊主様は、すたすたすたすた乾いた土を
行く。
湿地茸、
木茸、
針茸、
革茸、
羊肚茸、
白茸、やあ、一杯だ一杯だ。」
と
筵の上を膝で刻んで、嬉しそうに、ニヤニヤして、
「
初茸なんか、親孝行で、夜遊びはいたしません、指を
啣えているだよ。……さあ、お姫様の踊がはじまる。」
と、首を横に
掉って手を敲いて、
「お姫様も一人ではない。
侍女は千人だ。女郎蜘蛛が蛇に乗っちゃ、ぞろぞろぞろぞろみんな衣裳を持って来ると、すっと巻いて、袖を開く。
裾を浮かすと、
紅玉に乳が透き、
緑玉に
股が映る、
金剛石に肩が輝く。
薄紅い影、青い
隈取り、水晶のような可愛い目、
珊瑚の玉は唇よ。揃って、すっ、はらりと、すっ、袖をば、
裳をば、
碧に
靡かし、紫に颯と
捌く、
薄紅を
飜す。
笛が聞える、鼓が鳴る。ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン、おひゃら、ひゅうい、チテン、テン、ひゃあらひゃあら、トテン、テン。」
廓のしらべか、松風か、ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン。あらず、天狗の
囃子であろう。杢若の声を
遥に呼交す。
「唄は、やしこばばの唄なんだよ、ひゅうらひゅうら、ツテン、テン、
やしこばば、うばば、
うば、うば、うばば、
火を一つくれや……」
と、唄うに連れて、囃子に連れて、少しずつ手足の
科した、
三個のこの山伏が、腰を入れ、肩を
撓め、首を振って、踊出す。太刀、斧、弓矢に似もつかず、手足のこなしは、しなやかなものである。
従七位が、首を
廻いて、
笏を振って、
臀を廻いた。
二本の
幟はたはたと飜り、虚空を落す天狗風。
蜘蛛の囲の虫
晃々と輝いて、
鏘然、
珠玉の
響あり。
「
幾干金ですか。」
般若の山伏がこう聞いた。その声の
艶に
媚かしいのを、神官は
怪んだが、やがて三人とも仮装を脱いで、裸にして
縷無き雪の
膚を
顕すのを見ると、いずれも、……血色うつくしき、
肌理細かなる
婦人である。
「
銭ではないよ、みんな裸になれば一反ずつ
遣る。」
価を問われた時、杢若が蜘蛛の巣を指して、そう言ったからであった。
裸体に、
被いて、大旗の下を行く三人の姿は、神官の目に、
実に、
紅玉、
碧玉、
金剛石、真珠、珊瑚を星のごとく
鏤めた
羅綾のごとく見えたのである。
神官は高足駄で、よろよろとなって、鳥居を入ると、
住居へ
行かず、
階を
上って拝殿に入った。が、額の下の
高麗べりの畳の隅に、人形のようになって
坐睡りをしていた、十四になる
緋の
袴の
巫女を、いきなり、引立てて、袴を脱がせ、
衣を
剥いだ。……この巫女は、当年初に仕えたので、こうされるのが
掟だと思って自由になったそうである。
宮奴が仰天した、馬顔の、
痩せた、貧相な中年もので、かねて
吶であった。
「従、従、従、従、従七位、七位様、
何、何、何、何事!」
笏で、ぴしゃりと胸を打って、
「
退りおろうぞ。」
で、虫の死んだ蜘蛛の巣を、巫女の
頭に
翳したのである。
かつて、山神の
社に
奉行した時、
丑の
時参詣を谷へ
蹴込んだり、と
告った、大権威の摂理太夫は、これから発狂した。
――既に、
廓の
芸妓三人が、あるまじき、その
夜、その怪しき仮装をして内証で練った、というのが、
尋常ごとではない。
十日を
措かず、町内の娘が一人、白昼、素裸になって格子から抜けて出た。
門から手招きする杢若の、あの、宝玉の錦が欲しいのであった。余りの事に、これは親さえ組留められず、あれあれと追う
間に、番太郎へ飛込んだ。
市の町々から、やがて、
木蓮が散るように、
幾人となく女が舞込む。
――夜、その小屋を見ると、おなじような姿が、白い
陽炎のごとく、杢若の鼻を取巻いているのであった。
大正七(一九一八)年四月