一
「今のは、」
初阪ものの
赤毛布、という
処を、十月の半ば過ぎ、
小春凪で、ちと
逆上せるほどな暖かさに、下着さえ
襲ねて重し、野暮な
縞も隠されず、
頬被りがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、
筑波、はじめて、
出立つを初山と
称うるに
傚って、大阪の地へ
初見参という意味である。
その男が、
天満橋を北へ渡越した処で、
同伴のものに聞いた。
「今のは?」
「大阪城でございますさ。」
と
片頬笑みでわざと云う。
結城の
藍微塵の一枚着、
唐桟柄の
袷羽織、茶
献上博多の帯をぐいと
緊め、
白柔皮の緒の
雪駄穿で、髪をすっきりと刈った、気の利いた若いもの、風俗は一目で知れる……
俳優部屋の
男衆で、初阪ものには不似合な伝法。
「まさか、天満の橋の上から、
淀川を控えて、城を見て――当人寝が足りない処へ、こう
照つけられて、
道頓堀から千日前、この辺の
沸くり返る町の中を見物だから、
茫となって、夢を見たようだけれど、それだって、大阪に居る事は
確に承知の上です――言わなくっても大阪城だけは分ろうじゃないか。」
「
御道理で、ふふふ、」
男衆はまた笑いながら、
「ですがね、欄干へ立って、淀川堤を御覧なさると、
貴方、
恍惚とおなんなさいましたぜ。
熟と考え込んでおしまいなすって、何かお話しするのもお気の毒なような御様子ですから、私も
黙りでね。ええ、……時間の都合で、そちらへは廻らないまでも、網島の見当は御案内をしろって、親方に
吩咐かって参ったんで、あすこで一ツ、桜宮から網島を口上で申し上げようと思っていたのに、あんまり腕組をなすったんで、いや、案内者、大きに水を見て涼みました。
それから、ずっと黙りで、橋を渡った処で、(今のは、)とお尋ねなさるんでさ、義理にも大阪城、と申さないじゃ、第一日本一の名城に対して、ははは、」とものありげにちょっと顔を見る。
初阪は鳥打の
庇に手を当て、
「分りましたよ。
真田幸村に対しても、決して粗略には存じません。
萌黄色の海のような、音に聞いた淀川が、大阪を
真二つに分けたように
悠揚流れる。
電車の
塵も冬空です……
澄透った空に
晃々と
太陽が照って、五月頃の
潮が押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士を
視めるように、あの、城が見えたっけ。
川蒸汽の、ばらばらと川浪を
蹴るのなんぞは、
高櫓の
瓦一枚浮かしたほどにも思われず、……船に掛けた白帆くらいは、城の壁の映るのから見れば、
些細な塵です。
その、空に浮出したような、水に沈んだような、そして幻のような、そうかと思うと、
歴然と、ああ、あれが、
嬰児の時から桃太郎と一所にお
馴染の城か、と思って見ていると、城のその屋根の上へ、山も見えぬのに、
鵺が乗って来そうな雲が、
真黒な壁で上から
圧附けるばかり、鉛を
熔かして、むらむらと
湧懸って来たろうではないか。」
初阪は意気を込めて、
杖をわきに挟んで云った。
二
七筋ばかり、工場の
呼吸であろう、
黒煙が、こう、風がないから、
真直に
立騰って、城の
櫓の棟を巻いて、その
蔽被った暗い雲の中で、末が乱れて、むらむらと
崩立って、
倒に高く淀川の空へ
靡く。……
なびくに脈を打って、七筋ながら、
処々、斜めに太陽の光を浴びつつ、白泡立てて
渦いた、その
凄かった事と云ったら。
天守の千畳敷へ打込んだ、関東勢の
大砲が炎を吐いて転がる中に、淀君をはじめ、
夥多の美人の、
練衣、
紅の
袴が
寸断々々に、城と一所に滅ぶる景色が、目に見える。……雲を貫く、工場の太い煙は、丈に余る黒髪が、
縺れて乱れるよう、そして、
倒に立ったのは、
長に消えぬ人々の
怨恨と見えた。
大河の
両岸は、細い樹の枝に、薄紫の
靄が、すらすら。
蒼空の下を、
矢輻の
晃々と光る車が、
駈けてもいたのに、……水には帆の影も澄んだのに、……どうしてその時、大阪城の空ばかり
暗澹として曇ったろう。
「ああ、あの雲だ。」
と初阪は橋の北詰に、ひしひしと並んだ
商人家の、軒の看板に隠れた城の
櫓の、今は雲ばかりを、フト仰いだ。
が、
俯向いて、
足許に、二人連立つ影を見た。
「大丈夫だろうかね。」
「雷様ですか。」
男衆は
逸早く心得て、
「
串戯じゃありませんぜ。何の今時……」
「そんなら
可いが、」
歩行出す、と暗くなり掛けた影法師も、
烈しい人脚の塵に消えて、
天満筋の
真昼間。
初阪は
晴やかな顔をした。
「
凄かったよ、私は。……その癖、この陽気だから、自然と淀川の水気が立つ、
陽炎のようなものが、ひらひらと、それが櫓の
面へかかると、何となく、
※[#「火+發」、450-1]と美しい幻が添って、城の名を天下に彩っているように思われたっけ。その花やかな中にも、しかし、長い、濃い、黒髪が
潜んで、滝のように動いていた。」
城を語る時、初阪の色酔えるがごとく、土地
馴れぬ足許は、ふらつくばかり
危まれたが、
対手が、しゃんと来いの男衆だけ、
確に引受けられた
酔漢に似て、擦合い、行違う人の中を、
傍目も
触らず
饒舌るのであった。
「時に、それについて、」
「あの、
別嬪の事でしょう。私たちが
立停まって、お城を見ていました。四五間さきの所に、美しく立って、同じ方を
視めていた、あれでしょう。……
貴方が(今のは!)ッて一件は。それ、
奴を一人、お供に連れて、」
「奴を……十五六の小間使だぜ。」
「当地じゃ、奴ッてそう言います。島田
髷に
白丈長をピンと
刎ねた、
小凜々しい。お約束でね、御寮人には附きものの
小女ですよ。あれで御寮人の髷が、元禄だった日にゃ、
菱川師宣えがく、というんですね。
何だろう、とお尋ねなさるのは承知の上でさ、……また、今のを御覧なすって、お聞きなさらないじゃ、大阪が
怨みます。」
「人が悪いな、この人は。それまで心得ていて、はぐらかすんだから。(大阪城でございます、)はちと
癪だろうじゃないか。」
「はははは。」
「しかし縁のない事はない。そうして、
熟とあの、煙の中の
凄い櫓を
視めていると、どうだろう。
四五間
前に、上品な絵の具の
薄彩色で、
彳んでいた、今の、その美人の姿だがね、……淀川の流れに引かれた、私の目のせいなんだろう。すッと向うに浮いて行って、遠くの、あの、城の壁の、
矢狭間とも思う窓から、顔を出して、こっちを
覗いた。そう見えた。いつの間にか、城の中へ入って、向直って。……
黒雲の下、煙の中で、凄いの、美しいの、と云ッて、そりゃなかった。」
三
「だから、何だか容易ならん事が起った、と思って、……
口惜しいが聞くんです。
実はね、
昨夜、中座を見物した時、すぐ隣りの
桟敷に居たんだよ、今の
婦人は……」と
頷くようにして初阪は云う。
男衆はまた笑った。
「ですとも。それを知らん顔で、しらばっくれて、
唯今一見という顔をなさるから、はぐらかして上げましたんでさ。」
「だって、
住吉、天王寺も見ない
前から、大阪へ着いて早々、あの
婦は? でもあるまいと思う。それじゃ慌て過ぎて、振袖に
躓いて転ぶようだから、
痩我慢で
黙然でいたんだ。」
「ところが、辛抱が仕切れなくなったでしょう、ごもっともですとも。親方もね、実は、お景物にお目に掛ける、ちょうど
可いからッて、わざと
昨夜も、
貴方を隣桟敷へ御案内申したんです。
附込みでね、旦那と来ていました。取巻きに六七人
芸妓が附いて。」
男衆の顔を見て、
「はあ、すると堅気かい、……以前はとにかく、」
また男衆は、こう聞かれるのを
合点したらしく
頷くのであった。
「貴方、当時また南新地から出ているんです。……いいえ、旦那が変ったんでも、手が切れたのでもありません。やっぱり
昨夜御覧なすった、あれが元からの旦那でね。ええ、しかも、ついこの四五日前まで、久しく引かされて、桜の宮の
片辺というのに、それこそ一枚絵になりそうな御寮人で居たんですがね。あの旦那の飛んだもの
好から、
洒落にまた鑑札を請けて、以前のままの、お
珊という名で、新しく
披露をしました。」と
質実に話す。
「
阪地は風流だね、洒落に芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ、根こぎで
手活にした花を、人助けのため拝ませる、という寸法だろう。私なんぞも、お
庇で土産にありついたという訳だ。」
「いいえ、隣桟敷の
緋の
毛氈に
頬杖や、橋の欄干袖振掛けて、という姿ぐらいではありません。貴方、もっと立派なお土産を御覧なさいましょうよ。御覧なさいまし、明日、
翌々日の晩は、唯今のお珊の方が、千日前から道頓堀、新地をかけて宝市の
練に出て、下げ髪、緋の
袴という
扮装で、八年ぶりで練りますから。」
一言、下げ髪、緋の袴、と云ったのが、目のあたり城の上の雲を見た、初阪の耳を
穿って響いた。
「何、下げ髪で、緋の袴?……」
「勿論一人じゃありません――確か十二人、同じ姿で揃って練ります。が、自分の髪を
入髪なしに
解ほぐして、その緋の袴と擦れ擦れに丈に余るってのは、あの
婦ばかりだと云ったもんです。一度引いて、もうそんなに
経ちますけれども、
私あ今日も、つい近間で見て驚きました。
苦労も道楽もしたろうのに、
雁金額の
生際が、一厘だって抜上がっていませんやね、ねえ。
やっぱり入髪なしを水で解いて、宝市は屋台ぐるみ、象を
繋いで
曳きましょうよ。
旦那もね、市に出して、お珊さんのその姿を、見たり、見せたりしたいばかりに、素晴らしく派手を
遣って、
披露をしたんだって評判です。
その
市女は、
芸妓に限るんです。それも芸なり、
容色なり、
選抜きでないと、世話人の方で出しませんから……まず選ばれた
婦は、一年中の外聞といったわけです。
その中のお職だ、貴方。何しろ大阪じゃ、浜寺の魚市には、
活きた竜宮が
顕れる、この住吉の宝市には、天人の素足が見えるって言います。一年中の
紋日ですから、まあ、是非お目に掛けましょう。
貴方、一目見て
立すくんで、」
「立すくみは
大袈裟だね、人聞きが悪いじゃないか。」
「だって、今でさえ、
悚然なすったじゃありませんかね。」
四
男衆の浮かせ調子を、初阪はなぜか沈んで聞く。……
「まったくそりゃ
悚然としたよ。ひとりでに、あの姿が、城の中へふいと入って、向直って、こっちを見るらしい気がした時は。
黒い煙も、お珊さんか、……その人のために空に
被さったように思って。
天満の鉄橋は、瀬多の長橋ではないけれども、
美濃へ帰る旅人に、怪しい手箱を
託けたり、
俵藤太に加勢を頼んだりする人に似たように思ったのだね。
由来、橋の上で出会う綺麗な
婦は、すべて
凄いとしてある。――
が、場所によるね……
昨夜、隣桟敷で見た時は、同じその人だけれど、今思うと、まるで、違った
婦さ。……君も関東ものだから遠慮なく云うが、
阪地の
婦はなぜだろう、生きてるのか、死んでるのか、血というものがあるのか知らん、と近所に居るのも
可厭なくらい、
酷く、さました事があったんだから……」
「へい、何がございました。やたらに何か食べたんですかい。」
「何、
詰らんことを……そうじゃない。余りと言えば見苦しいほど、大入芝居の桟敷だというのに、旦那かね、その
連の男に、
好三昧にされてたからさ。」
「そこは
妾ものの悲しさですかね。どうして……当人そんなぐうたらじゃない
筈です。
意地張りもちっと
可恐いような
婦でね。以前、
芸妓で居ました時、
北新地、
新町、堀江が、一つ舞台で、芸較べを
遣った事があります。その時、南から舞で出ました。もっとも評判な踊手なんですが、それでも
他場所の姉さんに、ひけを取るまい。……その頃北に一人、向うへ廻わして、ちと目に余る、家元随一と云う名取りがあったもんですから、
生命がけに気を入れて、舞ったのは
道成寺。貴方、そりゃ近頃の見ものだったと評判しました。
能がかりか、何か、白の
鱗の
膚脱ぎで、あの髪を
颯と乱して、ト
撞木を
被って、供養の鐘を出た時は、何となく舞台が暗くなって、それで振袖の
襦袢を透いて、お珊さんの
真白な胸が、銀色に
蒼味がかって光ったって騒ぎです。
そのかわり、火のように舞い澄まして楽屋へ入ると、気を取詰めて、ばったり倒れた。後見が、
回生剤を呑まそうと首を抱く。一人が、装束の襟を
寛げようと、あの人の胸を開けたかと思うと、キャッと云って尻持をついたはどうです。
鳩尾を
緊めた
白羽二重の腹巻の中へ、
生々とした、長いのが一
尾、蛇ですよ。
畝々と巻込めてあった、そいつが、のッそり、」と
慌しい懐手、黒八丈を
襲ねた襟から、
拇指を出して、ぎっくり、と
蝮を
拵えて、肩をぶるぶると遣って
引込ませて、
「鎌首を出したはどうです、いや聞いても恐れる。」とばたばたと袖を
払く。
初阪もそれはしかねない
婦と見た。
「執念の深いもんだから、あやかる気で、
生命がけの
膚に
絡ったというわけだ。」
「それもあります。ですがね、心願も懸けたんですとさ。何でも願が
叶うと云います……
咒詛も、恋も、
情も、
慾も、意地張も同じ事。……その時
鳩尾に巻いていたのは、
高津辺の蛇屋で売ります……
大瓶の中にぞろぞろ、という一件もので、貴方御存じですか。」
初阪は出所を聞くと
悚然とした。我知らず声を
潜めて、
「知ッてる……
生紙の
紙袋の口を結えて、中に筋張った動脈のようにのたくる
奴を買って帰って、一晩内に寝かしてそれから高津の宮裏の穴へ放すんだってね。」
五
「ええ、そうですよ。その時、
願事を、思込んで言聞かせます。そして袋の口を
解くと、にょろにょろと
這出すのが、きっと一度、目の前でとぐろを巻いて、首を
擡げて、その人間の顔を
熟と
視て、それから横穴へ入って隠れるって言います。
そのくらい念の
入った長虫ですから、買手が来て、蛇屋が貯えたその
大瓶の
圧蓋を外すと、何ですとさ。黒焼の註文の時だと、うじゃうじゃ
我一に下へ潜って、瓶の口がぐっと透く。……放される客の時だと、ぬらぬら争って頭を上げて、瓶から煙が立つようですって、……もし、不気味ですねえ。」
初阪は
背後ざまに
仰向いて空を見た。時に、城の雲は、
賑かな町に立つ
埃よりも薄かった。
思懸けず、何の広告か、屋根一杯に大きな
布袋の絵があって、下から見上げたものの、さながら
唐子めくのに、思わず苦笑したが、
「
昨日もその話を聞きながら、兵庫の港、淡路島、煙突の煙でない処は残らず屋根ばかりの、大阪を一目に見渡す、高津の宮の高台から……湯島の女坂に似た石の段壇を下りて、それから黒焼屋の前を通った時は、軒から
真黒な
氷柱が下ってるように見えて
冷りとしたよ。
一時に寒くなって――たださえ
沸上り
湧立ってる大阪が、あのまた境内に、おでん屋、てんぷら屋、
煎豆屋、とかっかっぐらぐらと、煮立て、蒸立て、焼立てて、それが天火に
曝されているんだからね――びっしょり汗になったのが、お
庇ですっかり冷くなった。但し余り結構なお庇ではないのさ。
大阪へ来てから、お天気続きだし、夜は万燈の中に居る気持だし、何しろ暗いと思ったのは、町を
歩行く時でも、寝る時でも、黒焼屋の前を通った時と、今しがた城の雲を見たばかりさ。」
男衆は
偶と
言を挟んで、
「何を御覧なさる。」
「いいえね、今擦違った、それ、」
とちょっと振向きながら、
「それ、あの、忠兵衛の
養母といった隠居さんが、
紙袋を提げているから、」
「
串戯じゃありません。」
「私は例のかと思った、……」
「ありゃ天満の
亀の
子煎餅、……成程亀屋の隠居でしょう。誰が、貴方、あんな婆さんが
禁厭の蛇なんぞを、」
「ははあ、
少いものでなくっちゃ、利かないかね。」
「そりゃ……色恋の方ですけれど……
慾の方となると、無差別ですから、
老年はなお烈しいかも知れません。
分けてこの二三日は、黒焼屋の蛇が売れ盛るって言います……
誓文払で、大阪中の呉服屋が、年に一度の大見切売をしますんでね、市中もこの通りまた別して
賑いまさ。
心斎橋筋の大丸なんかでは、景物の福引に十両二十両という品ものを
発奮んで出しますんで、一番引当てよう
了簡で、
禁厭に蛇の袋をぶら下げて、杖を
支いて、お十夜という形で、夜中に霜を踏んで、
白髪で橋を渡る婆さんもあるにゃあるんで。」
六
男衆もちょっと
町中を

した。
「まったくかも知れません、何しろ、この誓文払の前後に、何千
条ですかね、黒焼屋の
瓶が
空虚になった事があるって言いますから。慾は
可恐しい。悪くすると、ぶら提げてるのに
打撞らないとも限りませんよ。」
「それ! だから云わない事じゃない。」
内端ながら二ツ三ツ
杖を
掉って、
「それでなくッてさえ、こう見渡した大阪の町は、
通も路地も、どの家も、かッと陽気に
明い中に、どこか一個所、陰気な暗い処が
潜んで、礼儀作法も、由緒因縁も、先祖の
位牌も、色も恋も罪も
報も、三世相一冊と、今の蛇一疋ずつは、
主になって隠れていそうな気がする処へ、蛇瓶の話を
昨日聞いて、まざまざと
爪立足で、黒焼屋の前を通ってからというものは、うっかりすると、
新造も年増も、何か
下掻の
褄あたりに、
一条心得ていそうでならない。
昨夜も、芝居で……」
男衆は思出したように、如才なく一ツ手を
拍った。
「時に、どうしたと云うんですえ、お珊さんが、その旦那と?……」
「まあ、お聞き――隣合った私の桟敷に、髪を
桃割に結って、緋の半襟で、
黒繻子の襟を掛けた、黄の勝った八丈といった柄の着もの、
紬か何か、
絣の羽織をふっくりと着た。ふさふさの
簪を前のめりに挿して、それは人柄な、目の涼しい、眉の優しい、
口許の
柔順な、まだ肩揚げをした、十六七の娘が、一人入っていたろう。……出来るだけおつくりをしたろうが、着ものも帯も、余りいい
家の娘じゃないらしいのが、」
「居ました。へい、親方が、貴方に差上げた桟敷ですから、人の入る訳はないが、と云って、私が伺いましたっけ。貴方が、(構いやしない。)と
仰有るし、そこはね、大したお目触りのものではなし……あの通りの大入で、ちょっと
退けようッて
空場も見つからないものですから、それなりでお邪魔を願ッておきました。
後で聞きますと、出方が、しんせつに、まあ、喜ばせてやろうッて、内々で入れたんだそうで。ありゃ何ですッて、
逢阪下の辻――ええ、天王寺に
行く道です。公園寄の辻に、屋台にちょっと毛の生えたくらいの小さな店で、あんころ餅を売っている娘だそうです。いい
娘ですね。」
それは初阪がはじめて聞く。
「そう、餅屋の姉さんかい……そして何だぜ、あの芝居の
厠に番をしている、
爺さんね、大どんつくを着た
逞しい
親仁だが、影法師のように見える、
太く、よぼけた、」
「ええ、
駕籠伝、駕籠屋の伝五郎ッて、新地の駕籠屋で、ありゃその昔鳴らした男です。もう
年紀の上に、
身体を投げた無理が出て、便所の番をしています。その伝が?」
「娘の、爺さんか
父親なんだ。」
これは男衆が知らなかった。
「へい、」
「知らないのかい。」
「そうかも知れません、
私あ御存じの
土地児じゃないんですから、見たり、聞いたり、
透切だらけで。へい、どうして、貴方?」
「ところが分った事がある。……何しろ、私が、
昨夜、あの桟敷へ入った時、空いていた場所は、その私の処と、隣りに
一間、」
「そうですよ。」
「その二間しかなかったんだ。二丁がカチと入った時さ。娘を連れて、年配の出方が一人、横手の
通の、竹格子だね、中座のは。……
扉をツイと押して、出て来て、小さくなって、
背後の廊下、お
極りだ、この処へ立つ事無用。あすこへ顔だけ出して
踞んだもんです。(旦那、この
娘を一人願われませんでござりましょうか。
内々のもので、客ではござりません。お部屋へ知れますと悪うござりますが、
貴下様思召で、)と至って
慇懃です。
資本は
懸らず、こういう時、おのぼりの気前を見せるんだ、と思ったから、さあさあ御遠慮なく、で、まず引受けたんだね。」
七
「ずっと前へお出なさい、と云って勧めても、隅の口に遠慮して、膝に両袖を重ねて、
溢れる八ツ口の、綺麗な
友染を、
袂へ、手と一所に
推込んで、肩を落して坐っていたがね、……可愛らしいじゃないか。赤い
紐を
緊めて、雪輪に紅梅模様の
前垂がけです。
それでも、幕が開いて芝居に身が
入って来ると、
身体をもじもじ、膝を立てて伸上って――
背後に
引込んでいるんだから見辛いさね――そうしちゃ、舞台を
覗込むようにしていたっけ。つい、知らず知らず乗出して、仕切にひったりと胸を附けると、人いきれに、ほんのりと
瞼を染めて、ほっとなったのが、
景気提灯の下で、こう、私とまず顔を並べた。おのぼり心の
中に
惟えらく、光栄なるかな。
まあ、お聞きったら。
そりゃ
可かったが、一件だ。」
「一件と……おっしゃると?」
「長いの、長いの。」
「その
娘が、蛇を……嘘でしょう。」
「間違ったに違いない。けれども高津で聞いて、平家の水鳥で居たんだからね。
幕間にちょいと楽屋へ立違って、またもとの所へ入ろうとすると、その娘の
袂の
傍に、
紙袋[#「紙袋」は底本では「紙装」]が一つ出ています。
並んで坐ると、それがちょうど膝になろうというんだから、
大に
怯んだ。どうやら気のせいか、むくむく動きそうに見えるじゃないか。
で、私は後へ
引退った。ト娘の挿した
簪のひらひらする、美しい
総越しに舞台の見えるのが、花輪で額縁を取ったようで、それも
可さ。
所へ、さらさらどかどかです。荒いのと
柔なのと、急ぐのと、入乱れた
跫音を立てて、七八人。小袖幕で囲ったような
婦の中から、
赫と
真赤な顔をして、
痩せた
酒顛童子という、三分刈りの頭で、頬骨の張った、目のぎょろりとした、なぜか額の暗い、殺気立った男が、詰襟の紺の洋服で、靴足袋を長く
露した
服筒を
膝頭にたくし上げた、という妙な
扮装で、その
婦たち、鈍太郎殿の手車から転がり出したように、ぬっと
発奮んで出て、どしんと、音を立てて
躍込んだのが、隣の桟敷で……
唐突、横のめりに両足を投出すと、痛いほど、前の仕切にがんと
支いた
肱へ、頭を乗せて、自分で
頸を
掴んでも、そのまま
仰向けにぐたりとなる、
可いかね。
顔へ花火のように提灯の色がぶツかります。天井と舞台を等分に
睨み着けて、(何じゃい!)と一つ
怒鳴る、と思うと、かっと云う大酒の息を吐きながら、(こら、入らんか、)と
喚いたんだ。
背後に、島田やら、
銀杏返しやら、
累って立った
徒は、右の旦那よりか、その騒ぎだから、
皆が見返る、見物の方へ気を兼ねたらしく、顔を見合わせていたっけが。
この一喝を
啖うと、べたべたと、
蹴出しも袖も崩れて坐った。
大切な客と見えて、
若衆が一人、女中が二人、前茶屋のだろう、附いて来た。
人数は六人だったがね。旦那が一杯にのしてるから、どうして入り切れるもんじゃない。随分
肥ったのも、一人ならずさ。
茶屋のがしきりに、小声で
詫を云って
叩頭をしたのは、御威勢でもこの外に場所は取れません、と詫びたんだろう。(構いまへんで、お入りなされ。)
まずい口真似だ、」
初阪は男衆の顔を見て
微笑んだが、
「そう云って、茶屋の男が、私に
言も掛けないで、その中でも、なかんずく
臀の大きな大年増を一人、こっちの場所へ送込んだ。するとまたその
婦が、や、どッこいしょ、と掛声して、澄まして、ぬっと入って、ふわりと
裾埃で前へ出て、正面
充満に陣取ったろう。」
八
「娘はこの
肥満女に、のしのし隅っこへ
推着けられて、
可恐しく見勝手が悪くなった。ああ、可哀そうにと思う。ちょうど、その
身体が、舞台と私との中垣になったもんだからね。
可憐しいじゃないか……
密と横顔で振向いて、
俯目になって、(
貴下はん、見憎うおますやろ、)と云って、
極りの悪そうに目をぱちぱちと瞬いたんです。何事も思いません。大阪中の
詫言を一人でされた気がしたぜ。」
男衆は
頭を下げた。
「
御道理で。」
「いや、まったく。心配しないで楽に居て、御覧々々と重ねて云うと、芝居で泣いたなりのしっとりした
眉を、嬉しそうに
莞爾して、向うを向いたが、ちょっと白い指で
圧えながら、その
花簪を抜いたはどうだい。
染分の
総だけも、目障りになるまいという、しおらしいんだね。
(酒だ、酒だ。
疾くせい、のろま!)とぎっくり、と胸を
張反らして、目を
剥く。こいつが、どろんと濁って血走ってら。ぐしゃぐしゃ見上げ
皺が
揉上って筋だらけ。その癖、すぺりと
髯のない、まだ三十くらい、若いんです。
(はいはい、たった今、
直きに、)とひょこひょこと敷居に擦附ける、若衆は
叩頭をしいしい、(御寮人様、行届きまへん処は、何分、)と、こう内証で云った。
その御寮人と云われた、……旦那の
背後に、……髪はやっぱり銀杏返しだっけ……お召の半コオトを着たなりで控えたのが、」
「へい、成程、
背後に居ました。」
「お珊の
方かね、天満橋で見た
先刻のだ。もっとも東の
雛壇をずらりと通して、柳桜が、色と姿を競った中にも、ちょっとはあるまいと思う、
容色は容色と見たけれども、
歯痒いほど
意気地のない、何て
腑の抜けた、と今日より十段も見劣りがしたって訳は。……
いずれ
妾だろう。慰まれものには違いないが、若い衆も、(御寮人、)と奉って、何分、旦那を頼む、と云う。
取巻きの
芸妓たち、三人五人の手前もある。やけに土砂を振掛けても、
突張返った洋服の亡者
一個、
掌に
引丸げて、
捌を附けなけりゃ立ちますまい。
ところが
不可い。その騒ぐ事、暴れる事、桟敷へ狼を飼ったようです。(泣くな、わい等、)と
喚く――君の親方が
立女形で満場水を打ったよう、千百の見物が、目も口も頭も肩も、幅の広いただ一
人の形になって、
啜泣きの声ばかり、誰が持った
手巾も、夜会草の花を昼間見るように、ぐっしょり
萎んで、火影の映るのが血を絞るような処だっけ――(芝居を見て泣く奴があるものかい、や、
怪体な!
舞台でも何を
泣えくさるんじゃい。かッと
喧嘩を遣れ、面白うないぞ!
打殺して見せてくれ。やい、
腸を
掴出せ、へん、馬鹿な、)とニヤリと笑う。いや、そのね、ニヤリと
北叟笑みをする
凄さと云ったら。……待てよ、この御寮人が
内証で
情人をこしらえる。
嫉妬でその妾の
腸を
引摺り出す時、きっと、そんな笑い方をする男に相違ないと思った。
可哀を
留めたのは取巻連さ。
夢中になって、芝居を見ながら、旦那が
喚くたびに、はっとするそうで、
皆が申合わせた形で、ふらりと手を挙げる。……片手をだよ。……こりゃ、私の前を
塞いだ
肥満女も同じく遣った。
その癖、
黙然でね、チトもしお
静に、とも言い得ない。
すると、旦那です……(馬鹿め、
止めちまえ、)と言いながら、片手づきの
反身の肩を、御寮人さ、そのお珊の方の胸の処へ
突つけて、ぐたりとなった。……右の片手を逆に伸して、引合せたコオトの襟を
引掴んで、何か、自分の胸が窮屈そうに、こう

いて、
引開けようとしたんだがね、思う通りにならなかったもんだから、(ええ)と云うと、かと
開けた、細い
黄金鎖が
晃然と光る。帯を掴んで、ぐい、と引いて、
婦の膝を、洋服の尻へ
掻込んだりと思うと、もろに
凭懸った奴が、ずるずると
辷って、それなり
真仰向けさ。傍若無人だ。」
九
「膝枕をしたもんです。その
野分に、
衣紋が崩れて、
褄が乱れた。旦那の頭は
下掻の褄を裂いた
体に、
紅入友染の、膝の
長襦袢にのめずって、靴足袋をぬいと二ツ、仕切を空へ突出したと思え。
大蛇のような
鼾を
掻く。……
妾はいいなぶりものにされたじゃないか。私は浅ましいと思った。大入の芝居の桟敷で。
江戸児だと、見たが可い! 野郎がそんな
不状をすると、それが
情人なら
簪でも刺殺す……
金子で売った
身体だったら、思切って、
衝と立って、袖を払って帰るんだ。
処を、どうです。それなりに身を任せて、
静として、しかも
入身に
娜々としているじゃないか。
掴寄せられた帯も
弛んで、結び目のずるりと下った、
扱帯の
浅葱は冷たそうに、提灯の
明を引いて、寂しく
婦の姿を
庇う。それがせめてもの
思遣りに見えたけれども、それさえ、そうした度の過ぎた酒と色に血の荒びた、神経のとげとげした、狼の手で掴出された、
青光のする
腸のように見えて、あわれに
無慚な
光景だっけ。」
「……へい、そうですかね、」と云った男衆の声は、なぜか
腑に落ちぬらしく聞えたのである。
「聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇を
緊めた姉さんだと云うじゃないか。……その
扱帯が鎌首を
擡げりゃ
可かったのにさ。」
「まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、
葵の上などという
執着の深いものは、
立方禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのある
婦ですが……
金子の力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。」
「気の毒だね。」
「とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい
三昧、
我儘を、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。」
「金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるような我儘をされるんです。
身体を売って
栄耀栄華さ、それが浅ましいと云うんじゃないか。」
「ですがね、」
と男衆は、
雪駄ちゃらちゃら、で、
日南の横顔、小首を
捻って、
「我儘も
品によりまさ。
金剛石や
黄金鎖なら
妾の身じゃ、我儘という申立てにもなりませんがね。
自動車のプウプウも血の道に
触るか何かで、ある時なんざ、
奴の日傘で、青葉時に、それ女大名の信長公でさ。鳴かずんば鳴かして見しょう、
日中に
時鳥を聞くんだ、という
触込みで、天王寺へ練込みましたさ、貴方。
幇間が先へ廻って、あの五重の塔の
天辺へ上って、わなわな震えながら
雲雀笛をピイ、はどうです。
そんな我儘より、もっと偉いのは、しかもその日だって云うんですがね。
御堂横から
蓮の池へ廻る
広場、
大銀杏の根方に
筵を敷いて、すととん、すととん、と太鼓を
敲いて、猿を踊らしていた小僧を、御寮人お珊の方、扇子を
半開か何かで、こう反身で見ると、(可愛らしいぼんちやな。)で、
俳優の誰とかに
肖てるッて御意の上……(私は人の妾やよって、えらい相違もないやろけれど、畜生に世話になるより、ちっとは
優や。旦那に頼んで出世させて上げる、来なはれ、)と直ぐに貴方。
その場から連れて戻って、
否応なしに、
旦を
説付けて、たちまち
大店の手代分。大道稼ぎの猿廻しを、
縞もの揃いにきちんと取立てたなんぞはいかがで。私は膝を
突つく腕に、ちっとは実があると思うんですが。」
初阪はこれを聞くと、様子が違って、
「さあ、事だよ! すると、
昨夜のはその猿廻しだ。」
十
「いや、黒服の
狂犬は、まだ
妾の膝枕で、ふんぞり返って
高鼾。それさえ見てはいられないのに、……その手代に違いない。……当時の久松といったのが、
前垂がけで、何か急用と見えて、逢いに来てからの
狼藉が、まったく目に余ったんだ。
悪口吐くのに、(
猿曳め、)と云ったが、それで分った。けずり廻しとか、
摺古木とか、
獣めとかいう事だろう。大阪では(猿曳)と怒鳴るのかと思ったが。じゃ、そのお珊の方が取立てた、
銀杏の下の芸人に疑いない。
となると!……あの、
婦はなお済まないぜ。
自分の世話をした若手代が、目の前で、額を
煙管で
打たれるのを、もじもじと見ていたろうじゃないか。」
「煙管で、へい?……」
「ああ、
垂々と血が出た。それをどうにもし得ないんだ。じゃ、天王寺の境内で、猿曳を拾上げたって何の功にもなりゃしない。
まあね、……旦那は寝たろう。取巻きの
芸妓一統、
互にほっとしたらしい。が、私に言わせりゃその
徒だって働きがないじゃないか。何のための取巻なんです。ここは腕があると、取仕切って、御寮人に楽をさせる処さね。その柔かい膝に、友染も
露出になるまで、石頭の
拷問に掛けて、芝居で泣いていては済みそうもないんだが。
可しさ、それも。
と、そこへ、酒
肴、水菓子を添えて運んで来た。するとね、
円髷に
結った仲居らしいのが、世話をして、御連中、いずれもお一ツずつは、いい気なもんです。
さすがに、御寮人は、
頭をちょっと振って受けなかった。
それにも構わず……(さあ一ツ。)か何かで、
美濃から
近江、こちらの桟敷に
溢れてる大きなお
臀を、隣から手を
伸して
猪口の
縁でコトコトと
音信れると、片手で
簪を
撮んで、ごしごしと
鬢の毛を
突掻き突掻き、ぐしゃりと
挫げたように仕切に
凭れて、乗出して舞台を見い見い、片手を
背後へ伸ばして、猪口を
引傾けたまま受ける、
注ぐ、それ、
溢す。(わややな、)と云う。
そいつが、私の胸の前で、手と手を千鳥がけに
始ったんだから驚くだろう。御免も失礼も、会釈一つするんじゃない。
しかし憎くはなかったぜ。君の親方が舞台に出ていて、
皆が夢中で遣る事なんだ。
憎いのは一人
狂犬さ。
やっと静まったと思う間もない。
(酒か、)と
喚くと、むくむくと
起かかって、
引担ぐような
肱の上へ、妾の膝で頭を載せた。
(注げ! 馬鹿めが、)と猪口を叱って、茶碗で、苦い顔して、がぶがぶと
掻喫う処へ、……色の白い、ちと
纎弱い、と云った柄さ。中脊の若いのが、
縞の羽織で、廊下をちょこちょこと来て、ト手をちゃんと
支いた。
(何や、)と一ツ
突慳貪に云って
睨みつけたが、
低声で、若いのが何か口上を云うのを、フーフーと鼻で
呼吸をしながら、目を
瞑って、真仰向けに聞いたもんです。
(旦那の、)旦那と云うんだ。(旦那のここに居るのがどないして知れた、何や、)とまた怒鳴って、(
判然ぬかしおれ。何や? 番頭が……ふ、ふ、ふ、ふん、)と
嘲けるような、あの、
凄い
笑顔。やがて、苦々しそうに、そして切なそうに、眉を
顰めて、唇を
引結ぶと、グウグウとまた
鼾を掻出す。
いや、しばらく起きない。
若手代は、膝へ手を
支いたなり、中腰でね、こう困ったらしく
俯向いたッきり。女連は、芝居に身が
入って
言も掛けず。
その
中に幕が
閉った。
満場わッと鳴って、ぎっしり
詰ったのが、
真黒に両方の廊下へ溢れる。
しばらくして、大分
鎮まった時だった。幕あきに間もなさそうで、
急足になる
往来の中を、また竹の
扉からひょいと出たのは、娘を世話した男衆でね。手に弁当を一つ持っていました。
(はいよ、お弁当、)と云って、娘に差出して、渡そうとしたっけが……」
十一
「そこに私も居る、……知らぬ間に
肥満女の込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(
和女、
極が悪いやろ。そしたら
私が方へ来て
食りなはるか。ああ、そうしなはれ、)と
莞爾々々笑う、気の
可い男さ。(
太いお邪魔にござります。)と、
屈んで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと
引退った。
娘がね、仕切に手を
支くと、向直って、抜いた
花簪を載せている、涙に濡れた、
細り畳んだ
手拭を置いた、友染の前垂れの膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つ
煽ぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……
私は
煙草がなくなったから、
背後の
運動場へ買いに出た。
余り見かねたから、
背後向きになっていたがね、出しなに見ると、
狂犬はそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。
西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ
坐直している、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身の
入った芝居ほど、運動場は寂しいもんです。
風は
冷し、
呼吸ぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、
喫かしながら、堅い
薄縁の板の上を、足袋の裏
冷々と、
快い心持で
辷らして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、
斜違に薄暗い便所が見えます。
そのね、
手水鉢の前に、
大な影法師見るように、
脚榻に腰を掛けて、綿の厚い
寝ン
寝子で
踞ってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」
「ぼけましたよ、ええ、
裟婆気な駕籠屋でした。」
「まったくだね、
股引の裾をぐい、と
端折った処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくの
圧に打たれて、猫背にへたへたと
滅入込んで、
臍から
頤が生えたようです。
十四五枚も、
堆く懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから
手拭きに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、
潰れた
古無尽の帳面の亡者にそっくり。
一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。
小さな銀貨を
一個握らせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に
難有、難有、難有、)と
懐中へ
頤を
突込んで礼をするのが、何となく、ものの
可哀が身に染みた。
その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……
坐睡りか、と思うと
悶いたんだ。
仰向けに
反って、両手の
握拳で、肩を
敲こうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。
うん、と云う。
や、
老人の早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、
下座の
三味線が、ト手首を口へ取って、
湿をくれたのが、ちらりと見える。
どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。
突然、
爺様の背中へ
掴まると、手水鉢の
傍に、南天の実の
撓々と、霜に伏さった冷い
緋鹿子、
真白な
小腕で、どんつくの肩をたたくじゃないか。
青苔の
緑青がぶくぶく
禿げた、湿った
貼の香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ
凭懸って、ああ、さすがにここも都だ、としきりに
可懐く
熟と
視た。
そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代――君が云う、その美少年の
猿廻。」
十二
「急いで手拭を
懐中へ突込むと、若手代はそこいらしきりに
前後を

した、……私は書割の山の陰に
潜んでいたろう。
誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ
推遣って、手代が自分で、
爺様の肩を
敲き出した。
二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」
「ほう、」
と
唐突に声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。
「私は
旅行をした
効があると思った。
声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘が
肯かないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいと
頷く風でね、
老年を
勦る男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹の
扉を出る時、ちょっと襟を合せましたよ。
私も帰った。
間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに
肩癖は
解れた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ
支膝、
以前のごとし。……
真中へ
挟った私を御覧。美しい絹糸で、
身体中かがられる、何だか
擽い気持に胸が
緊って、妙に窮屈な事といったらない。
狂犬がむっくり、鼻息を吹直した。
(柿があるか、
剥けやい、)と
涎で
滑々した口を切って、絹も
膚にくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、
真赤な目を

くと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、(
何しとる?
汝ゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。
(何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定
欲い、と取りに来た
金子なら、払うてやるは知れた事や。何
吐す。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんで
敲きつけろ、と番頭にそう
吐かせ。)
(はい、)と、手を
支く。
(さっさと
去ね、こない場所へのこのこと面出しおって、
何さらす、去ねやい。)
(はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手を
揉みながら、手代が立って、五足ばかり
行きかかると、
(多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。
(待てい、)と云う。はっと引返して、また手を
支くと、
婦の膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから
金子くれい、と使が来て店で待つじゃな。人
寄越いたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」
「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」
「そうかね、(丸官は催促されて
金子出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の
芸妓徒の顔をずらりと見渡すと、例の
凄いので
嘲笑って、
軍鶏が
蹴つけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人
剥いていた柿を
引手繰る、と仕切に
肱を立てて、
頤を、
新高に居るどこかの島田
髷の上に突出して、
丸噛りに、ぼりぼりと
喰かきながら、(
留めちまえ、)と舞台へ
喚く。
御寮人は、ぞろりと
褄を引合せる。多一は、その袖の蔭に、
踞っていたんだね。
するとね、くいほじった柿の
核を、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。
(鉄砲
打て、戦争
押始めろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、
尖った顔をして、じろりと多一を
睨みつけた。
(何しとる、うむ、)と
押潰すように云います。
(それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が
歩行き出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。
(
丁稚々々、)と今度は云うのさ。」
聞く男衆は歎息した。
「難物ですなあ。」
十三
「それからの
狂犬が、
条理違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。
(
汝ゃ、はいはいで、用を済まいた
顔色で、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や! 払うな、と俺が
吩咐けたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき
金子を払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)と
大な声して、(
端金子、)で、底力を入れて
塗りつけるように声を
密めて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ!
大白痴、その位な事が分らんか。)
で、また
追立てて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。
(分ったか、何、分った、偉い!
出来す、)と云ってね、ふふん、と例の
厭な
笑方をして、それ、直ぐに
芸妓連の顔をぎょろり。
(分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、
饒舌れ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を
仰向けに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の
黄金煙管を握って、立続けに、ふかふか吹かす。
(
判然言え、判然、ちゃんと口上をもって
吐かせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、
金子を払え?……黙れ! 沙汰過ぎた青二才、)と
可恐い顔になった。(誰が?)と
吠えるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!
丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つに
揺り上げて、(大胆ものめが、土性骨の太い
奴や。主人のものだとたかを
括って、大金を何の
糟とも思いくさらん、乞食を忘れたか。)
と言う。
目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、
退って廊下へ手を
支くと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、
汝ゃ動くな。)とまた柿を
引手繰って、かツかツと喰いかきながら、(
止めちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。
(旦那様、旦那様、)多一が
震声で呼んだと思え。
(早いな、
汝がような
下根な奴には、三年かかろうと思うた分別が、
立処は偉い。
俺を呼ぶからには工夫が着いたな。まず、
褒美を遣る。そりゃ頂け、)と柿の
蔕を、色白な多一の頬へたたきつけた。
(もし、御寮人様、)と
熟と顔を見て、(どうしましたら
宜しいのでございましょう、)と
縋るようにして言ったか言わぬに、(
猿曳め、
汝ゃ、
婦に、……畜生、)と
喚くが
疾いか、
伸掛って、ピシリと
雁首で額を
打ったよ。
羅宇が
真中から折れた。
こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。
芸妓達も
一時に振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一が
圧えた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな
容子には弱ったね。おまけに知らない
振をして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。
私は、ふいと立って、部屋へ帰った。
傍に居ちゃ、もうこっちが
撮出されるまでも、
横面一ツ
打挫がなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が
取組合った、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。
頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。
その
婦だ、呆れたぐうたらだと思ったが、」
「もし、もし、」
と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。
十四
歩行くともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、
真直に見渡す。――狭いが、
群集の
夥しい町筋を、斜めに
奴を連れて帰る――
二個、
前後にすっと並んだ薄色の
洋傘は、大輪の
芙蓉の
太陽を浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。
水打った
地に、
裳の
綾の影も
射す、色は
四辺を払ったのである。
「やあ、居る……」
と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、
累り合って露店もあり。軒にも、路にも、
透間のない
人立したが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見
赤毛布のその
風采で、
慌しく(居る、)と云えば、
件の
婦に
吃驚した事は、
往来の人の、近間なのには残らず分った。
意気な案内者
大に弱って、
「驚いては
不可ません。天満の青物市です。……それ、
真正面に、御鳥居を御覧なさい。」
はじめて心付くと、
先刻視めた城に対して、
稜威は高し、
宮居の屋根。雲に連なる
甍の棟は、玉を刻んだ峰である。
向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、
日蔽の
葭簀を払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男も
婦も、折から
市人の
服装は皆黒いのに、一ツ
鮮麗に
行く美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。
「音に聞いた天満の市へ、
突然入ったから驚いたんです。」
「そうでしょう。」
擦違った人は、
初阪の顔を見て皆
笑を含む。
両人は苦笑した。
「ほっこり、
暖い、暖い。」
蒸芋の湯気の中に、紺の
鯉口した女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。
「おでんや、おでん!」
「
饂飩あがんなはらんか、饂飩。」
「
煎餅買いなはれ、買いなはれ。」
鮨の
香気が
芬として、あるが中に、
硝子戸越[#「硝子戸越」は底本では「硝戸戸越」]の
紅は、住吉の浦の鯛、淡路島の
蝦であろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の
蕪と見た。……
頬被したお百姓、
空籠荷うて
行違う。
軒より高い
競売もある。
傘さした
飴屋の前で、奥深い白木の
階に、二人まず、帽子を手に取った時であった。――
前途へ、今大鳥居を
潜るよと見た、見る目も
彩な、お珊の姿が、それまでは、よわよわと
気病の床を
小春日和に、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、
扱帯で
褄取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、
徐々と拾ったのが、たちまち
電のごとく、
颯と、
照々とある
円柱に影を残して、鳥居際から
衝と左へ切れた。
が、目にも留まらぬばかり、
掻消すがごとくに見えなくなった。
高く
競売屋が居る、古いが、黒くがっしりした屋根
越の
其方の空、一点の雲もなく、
冴えた水色の
隈なき中に、
浅葱や、
樺や、朱や、青や、色づき
初めた銀杏の
梢に、風の
戦ぐ、と
視めたのは、皆見世ものの
立幟。
太鼓に、
鉦に、ひしひしと、打寄する
跫音の、遠巻きめいて、
遥に淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る
人数。お珊も暮るれば練るという、宝の市の
夜をかけた、大阪中の
賑いである。
十五
「御覧なさい、これが亀の池です。」
と云う、男衆の目は、――ここに人を渡すために
架けたと云うより、
築山の景色に刻んだような、
天満宮の境内を左へ入って、池を渡る橋の上で――池は
視ないで、向う岸へ
外れた。
階を昇って
跪いた時、言い知らぬ神霊に、
引緊った身の、
拍手も堅く
附着たのが、このところまで
退出て、やっと
掌の開くを覚えながら、岸に、そのお珊の
彳んだのを見たのであった。
麩でも投げたか、
奴と二人で、同じ
状に
洋傘を傾けて、
熟と池の
面を見入っている。
初阪は、不思議な物語に伝える
類の、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく
立顕れた、世にも
凄いまで美しい
婦の手から、一通
玉章を秘めた
文箱を
託って来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な
美人が受取りに出たような気がしてならぬ。
しかもそれは、途中
互にもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、
殷賑、
心斎橋、
高麗橋と相並ぶ、天満の町筋を
徹してであるにもかかわらず、説き難き一種
寂寞の感が身に迫った。
参詣群集、隙間のない、宮、
社の、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、
日中は分けて見る事がおりおりある。
ちょうど池の
辺には、この時、他に人影も見えなかった。……
橋の上に
小児を連れた乳母が居たが、
此方から連立って、二人が
行掛った
機会に、
「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の
方へ
徐々帰った。その
状が、人間界へ立帰るごとくに見えた。
池は小さくて、武蔵野の
埴生の小屋が今あらば、その
潦ばかりだけれども、
深翠に
萌黄を
累ねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ
苔滑。
牡丹を彫らぬ欄干も、
巌を削った
趣がある。あまつさえ、
水底に
主が
棲む……その逸するのを封ずるために、雲に
結えて
鉄の網を張り詰めたように、百千の
細な影が、
漣立って、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に
充満た亀なのであった。
枯蓮もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、
硫黄ヶ島の
赤蜻蛉。
鯡鯉の背は
飜々と、お珊の
裳の影に
靡く。
居たのは、つい、橋の
其方であった。
半襟は、黒に、
蘆の穂が
幽に白い、
紺地によりがらみの細い格子、お
召縮緬の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。
髪の
艶も、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、
一楽らしいくすんだ中に、
晃々と
冴えがある、きっぱりした地の
藍鼠に、
小豆色と茶と紺と、すらすらと色の通った
縞の
乱立。
蒼空の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は
紅に、茶は
萌黄に、紺は紫の
隈を染めて、
明い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年
古る池に、ただその、すらりと雪を
束ねたのに、霧ながら
木の葉に
綾なす、
虹を取って、細く
滑かに美しく、肩に掛けて背に
捌き、腰に流したようである。
汀は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。
光線は白かった。
十六
その
艶なのが、
女の
童を従えた風で、
奴と
彳む。……汀に寄って……
流木めいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、
苔塗れに
生簀の
蓋のように見えるのがあった。日は水を
劃って、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。
それへ、ほかほかと
甲を干した、
木の葉に交って青銭の散った
状して、大小の亀は
十ウ二十、
磧の石の数々居た。中には軽石のごときが交って。――
いずれ一度は
擒となって、供養にとて放された、が狭い池で、昔
売買をされたという
黒奴の
男女を思出させる。島、海、沢、
藪をかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、
暗夜には
潜んで、ひそひそと身の上話がはじまろう。
故郷なる、何を見るやら、
向は違っても一つ一つ、首を据えて目を

る。が、人も、もの言わず、
活ものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが
幽に、えへん、と
咳払をしそうで
寂しい。
一頭、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く
反って、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と
斉しく、絹糸の虹を
視めたに違いない。
「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」
男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に
凭れて
低声で云う。あえて
忍音には及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、
直に話すほど、間近な人に皆聞える。
「まったく、
魚じゃ
鯔の
面色が瓜二つだよ。」
その何に似ているかは言わずとも知れよう。
「ああああ、板の下から
潜出して、一つ水の中から
顕れたのがあります。大分大きゅうがすせ。」
成程、たらたらと
漆のような腹を
正的に、
甲に濡色の
薄紅をさしたのが、
仰向けに
鰓を
此方へ、むっくりとして、そして頭の
尖に黄色く輪取った、その目が
凸にくるりと見えて、
鱗のざらめく
蒼味がかった手を、ト板の
縁へ
突張って、水から半分ぬい、と出た。
「大将、
甲羅干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」
と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。
が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。
「今度は乗るぜ。」
やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して
踏張った。が、力足らず、乗出した
勢が余って、取外ずすと、ずんと沈む。
「や、
不可い。」
たちまち猛然としてまた浮いた。
で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を
伸上げる。
「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また
辷った。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。
汀のお珊は、
褄をすらりと足をちょいと踏替えた。
奴島田は、
洋傘を畳んで
支いて、直ぐ目の下を、前髪に
手庇して
覗込む。
この度は、場処を替えようとするらしい。
斜に甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、
棹で操るがごとくになって、
夥多の
可心持に乾いた亀の子を、カラカラと
載せたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、
熟として
嚔したもの一つない。
板の一方は細いのである。
そこへ、手を伸ばすと、腹へ
抱込めそうに見えた。
いや、困った事は、
重量に
圧されて、板が
引傾いたために、だふん、と潜る。
「ほい、しまった。いや、
串戯じゃない。しっかり頼むぜ。」
と、男衆は欄干をトントン叩く。
あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が
掛った。と思うと、ずぼりと出る。
「
蛙だと
青柳硯と云うんです。」
「まったくさ。」
十七
けれども、その時もし遂げなかった。
「ああ、
惜い。」
男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。
「執念深いもんですね。」
「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」
と言う間もなかった。
この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の
揺ぐばかり力が入って、その手を
扁平く板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。
「ははあ、考えた。」
「あいつを力に取って
伸上るんです、や、や、どッこい。やれ
情ない。」
ざぶりと
他愛なく、またもや沈む。
男衆が時計を
視た。
「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、
徐々帰りましょう。」
「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」
「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで
掛るかも知れませんから。」
「妙に
残惜いようだよ。」
男衆は、
汀の
婦にちょいと目を遣って、
密と
片頬笑して声を
潜めた。
「
串戯じゃありませんぜ。ね、それ、何だか
薄りと美しい五色の霧が、
冷々と
掛るようです。……変に
凄いようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その
機会に、黒雲を
捲起して、震動雷電……」
「さあ、出掛けよう。」
二人は肩を寒くして、コトコトと橋の
中央から取って返す。
やがて、
渡果てようとした時である。
「ちょっと、ちょっと。」
と
背後から、
優いが
張のある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の
仔細なしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。
袖を合せて、
前後に、ト
斉しく振返ると、
洋傘は畳んで、それは
奴に持たした。
縺毛一条もない黒髪は、取って
捌いたかと思うばかり、
痩ぎすな、透通るような頬を包んで、
正面に顔を合せた、襟はさぞ、雪なす
咽喉が細かった。
「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。
奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。
「そうどす。」と
判然云って
莞爾する、
瞼に薄く色が染まって、
類なき
紅葉の中の
俤である。
「一遍お待ちやす……
思を遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。
私が手伝うさかいな。」
猶予いあえず、バチンと
蓮の
果の飛ぶ音が響いた。お珊は
帯留の
黄金金具、緑の
照々と輝く玉を、
烏羽玉の夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、
友染を
柔な膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て――あたかも腹を空に
突張ってにょいと上げた、藻を押分けた――亀の手に、
縋れよ、引かむ、とすらりと投げた。
帯留は、
銀の曇ったような
打紐と見えた。
その
尖は水に
潜って、亀の子は、ばくりと紐を
噛む、ト袖口を軽く
袂を絞った、
小腕白く雪を伸べた。が、
重量がかかるか、引く手に
幽に脈を打つ。その二の腕、顔、襟、
頸、
膚に白い処は云うまでもない、袖、
褄の、
艶に色めく姿、
爪尖まで、――さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。
十八
池の
面は、
蒼く、お珊の唇のあたりに影を
籠めた。
風少し吹添って、城ある
乾の
天暗く、天満宮の屋の棟が
淀り曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、
幟の声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形を
掠めて。……この水のある空ばかり、雲に
硝子を
嵌めたるごとく、
美女の
虹の姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めた
木の葉は淡く、松の影が
颯と濃い。
打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、
腕の色ながら、しろじろと
鱗が光って、その友染に
搦んだなりに
懐中から
一条の
蛇の
蜿り出た、思いかけず、ものの
凄じい形になった。
「あ、」
と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口に
銜えたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。
奴はじりじりと後に
退った。
お珊は
汀にすっくと立った。が、血が留って、
俤は
瑪瑙の白さを削ったのであった。
この
婦が、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。
日も待たず、その
翌の日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、――丸官が
昨夜芝居で振舞った、酒の上の
暴虐の
負債を果させるため、とあって、――南新地の浪屋の奥二階。
金屏風を
引繞らした、
四海波静に青畳の八畳で、お珊自分に、
雌蝶雄蝶の
長柄を取って、
橘活けた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。
晴の装束は、お珊が
金子に
飽かして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。
まず上席のお美津を
謂おう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七が
潰し島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。
緋縮緬のかけおろし。橘に実を抱かせた
笄を両方に、雲井の
薫をたきしめた、
烏帽子、
狩衣。
朱総の紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に
薄霞、
朱鷺色絹に白い裏、
膚の雪の
紅の
襲に透くよう
媚かしく、白の
紗の、その狩衣を装い澄まして、
黒繻子の帯、箱文庫。
含羞む
瞼を染めて、玉の
項を
差俯向く、ト見ると、
雛鶴一羽、松の羽衣
掻取って、
曙の雲の上なる、
宴に召さるる風情がある。
同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて
面伏そうな、多一は
浅葱紗の
素袍着て、
白衣の袖を
粛ましやかに、膝に両手を差置いた。
前なるお美津は、小鼓に
八雲琴、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、
金蒔絵に
銀鋲打った欄干づき、
輻も漆の車屋台に、
前囃子とて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。
後囃子が、また幕打った高い屋台に、これは男の
稚児ばかり、すり
鉦に太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。
二人を前に、
銚子を控えて、人交ぜもしなかった……その時お珊の
装は、また
立勝って目覚しや。
十九
宝の市の屋台に付いて、
市女また姫とも
称うる十二人の美女が練る。……
練衣小袿の
紅の
袴、とばかりでは言足らぬ。ただその
上下を
装束くにも、支度の夜は
丑満頃より、
女紅場に顔を揃えて一人々々
沐浴をするが、雪の
膚も、
白脛も、その湯は一人ずつ
紅を流し、
白粉を
汲替える。髪を洗い、
櫛を入れ、丈より長く
解捌いて、緑の
雫すらすらと、
香枕の香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、
元結に染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、
唐衣を着け、袴を
穿くと、しらしらと早や
旭の影が、霧を破って色を映す。
さて住吉の朝ぼらけ、
白妙の松の
樹の間を、静々と
詣で進む、路の
裳を、
皐月御殿、
市の式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。……
その市の姫十二人、御殿の正面に
揖して
出づれば、神官、威儀正しく
彼処にあり。
土器の
神酒、結び昆布。やがて
檜扇を授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、
萌黄や、金銀の
縫箔光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白く
梢を
繞る
松林に日の
射す中に、一列に
並居る時、
巫子するすると
立出でて、美女の
面一人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もて
黛を描く、と聞く。
素顔の雪に化粧して、
皓歯に紅を濃く含み、神々しく気高いまで、お珊はここに、黛さえほんのりと描いている。が、女紅場の
沐浴に、美しき
膚を衆に
抽き、解き揃えた黒髪は、
夥間の丈を
圧えたけれども、一人
渠は、住吉の式に
連る事をしなかった。
間際に人が欠けては事が済まぬ。
世話人一同、袴腰を
捻返して
狼狽えたが、お珊が思うままな
金子の力で、身代りの
婦が急に立った。
で、これのみ
巫女の手を借りぬ、
容色も
南地第一人。袴の色の緋よりも冴えた、
笹紅の
口許に美しく
微笑んだ。
「多一さん、
美津さん、ちょっと、どないな気がおしやす。」
唐織衣に思いもよらぬ、
生地の
芸妓で、心易げに、島台を前に、声を掛ける。
素袍の
紗に透通る、
燈の影に
浅葱とて、月夜に色の白いよう、多一は照らされた
面色だった。
「なあ?」とお珊が聞返す、胸を薄く数を
襲ねた、雪の深い襲ねの襟に、檜扇を取って挿していた。
「御寮人様。」
と手を下げて、
「何も、何も、
私は申されませぬ。あの、ただ夢のようにござります。」とやっと云って、烏帽子を正しく、はじめて上げた、女のような優しい眉の、右を残して斜めに巻いたは、
笞の
疵に、
無慚な
繃帯。
お珊は黒目がちに、
熟と

って、
「ほんに、そう云うたら夢やな。」
と清らかな
襖のあたり、座敷を
衝と

した。
ト柱、
襖、その金屏風に、人の影が残らず映った。
映って、そして、緋に、紫に、
朱鷺色に、二人の烏帽子、素袍、狩衣、
彩あるままに色の影。ことにお珊の黒髪が、
一条長く、横雲掛けて見えたのである。
二十
時に、
間を隔てた、同じ浪屋の表二階に並んだ座敷は、残らず丸官が借り占めて、同じ宗右衛門町に軒を揃えた、両側の揚屋と
斉しく、
毛氈を
聯ねた中に、やがて時刻に、ここを出て、一まず女紅場で列を整え、先立ちの露払い、十人の
稚児が通り、
前囃子の屋台を
挟んで、そこに、十二人の姫が続く。第五番に、
檜扇取って練る約束の、
我がお珊の、市随一の
曠の姿を見ようため、
芸妓、
幇間をずらりと並べて、宵からここに座を構えた。
が、その座敷もまだ
寂寞して、時々、
階子段、廊下などに、遠い
跫音、近く床しき
衣摺の音のみ聞ゆる。
お珊は袖を開き、居直って、
「まあな、ほんに夢のようにあろな。私かて、夢かと思う。」
と、
丈けた
黛、
恍惚と、多一の顔を
瞻りながら、
「けど、何の、何の夢やおへん。たとい夢やかて。……丸官はんの方もな、私が身に替えて、承知させた……
三々九度やさかい、ああした
我ままな、好勝手な、朝云うた事は晩に変えやはる人やけど、こればかりは、私が附いているよって、
承合うて、どないしたかて夢にはせぬ。……あんじょう思うておくんなはれや。
美津さん、」
と娘の前髪に、瞳を返して、
「不思議な御縁やな。ほほ、」
手を口許に
翳したが、
「こう云うたかて、多一さんと
貴女とは、前世から約束したほど、深い
交情でおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。
思うてみれば、
一昨日の
夜さり、中の芝居で見たまでは天王寺の
常楽会にも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。
一見でこうなった。
貴女な、ようこそ、芝居の裏で、お
爺はんの肩
摺って上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、
一条なと、可愛い可愛い
女房はんに、
沢山芝居を見せたい心や。またな、その心を
汲取って、
鶉へ
嬉々お帰りやした、貴女の優しい、
仇気ない、可愛らしさも身に染みて。……
私はな、丸官はんに、
軋々と……四角な
天窓乗せられて、鶉の仕切も
拷問の柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、
身節も
弛んで、
恍惚するまで
視めていた。あの………
扉の、お仕置場らしい青竹の
矢来の向うに……
貴女等の
光景をば。――
悪事は虎の千里走る、
好い事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、
貴女二人は孝行の徳、恋の
功、恩愛の
報だすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。
逢阪に店がある、餅屋の評判のお
娘さん、
御両親は、どちらも
行方知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。
天満の天神様へ行た、その
帰途に、つい
虚気々々と、もう
黄昏やいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」
と微笑みながら、二人を前に。
「多一さんが、使の
間をちょっと逢いに寄って、町並
灯の
点された中に、その店だけは
灯もつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」
二十一
小指を
外らして指の輪を、我目の
前へ、……お珊はそれが縁を結ぶ
禁厭であるようにした。
「
密々、話していやはったな。……そこへ、私が
行合[#ルビの「ゆきあ」は底本では「ゆきわ」]わせたも、この杯の
瑞祥だすぜ。
ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、
世帯持ってそこから
本店へ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らして
行かはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんに
否は言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。
美津さんが、あの、嬉しそうなえ。
どうや、
九太夫はん。」
と云った、お珊は、
密と声を立てて、打解けた笑顔になった。
多一は素袍の
浅葱を濃く、袖を
緊めて、またその顔を、はッと伏せる。
「ほほほほ多一さん、
貴下、そうむつかしゅうせずと、
胡坐組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんの
傍に居るのやない、この一月は籍のある、
富田屋の以前の
芸妓、そのつもりで酌をするのえ。
仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。
後にまたあらためて、
歴然とした
媒妁人立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな
串戯は言えやへん。
そない
極らずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」
「御寮人様。」
と片手を畳へ、
「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫は
情のうござります。」
と、術なき中にも、ものの嬉しそうな
笑を含んだ。
「そうやかて、
貴方、
一昨日の暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛
框の縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」
言う――それは事実であった。――
「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。その
框へ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。
その上、入る穴はなし、貴女様の召しものの
薫が、魔薬とやらを
嗅ぎますようで、気が遠くなりました。
その辛さより、犬になってのこのこと、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」
「ほほほ
可厭な、この人は。……最初はな、内証で
情婦に逢やはるより何の
余所の人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心の
裡が、水臭いようにあって、
口惜いと思うたけれど、な、……手を
支いて
詫言やはる……その時に、
門のとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、
大な猿が、土間へ
跳下りて、
貴下と一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。
柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。
天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた
先方を話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、
大切な
許に居るやもの。
おお、それなりで、
貴方たちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」
「はい、」
と娘が引取った、我が身の姿と、この場の
光景、踊のさらいに
台辞を云うよう、細く
透る、が声震えて、
「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」
二十二
「飼主とは申しましても、かえって私の方が養われました、あの、猿でさえ、……」
多一は片手に胸を
圧えて、
「御寮人様は申すまでもござりません、大道からお拾い下さりました。……また旦那様の目を盗みまして、私は実に、畜生にも劣りました、……」
「何や……
怪我に
貴方は何やかて、
美津さんは天人や、その人の夫やもの。まあ、二人して装束をお見やす、
雛を並べたようやないか。
けどな、多一さん、
貴下な、九太夫やったり、そのな、額の
疵で、床下から出やはった処は
仁木どすせ。
沢山忠義な家来ではどちらやかてなさそうな。」
と軽口に、奥もなく云うて
退けたが、ほんのりと
潤みのある、
瞼に淡く影が
映した。
「ああ、わやく云う事やない。……
貴方、その疵、ほんとにもう
疼痛はないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私が
傍に居たものを。
美津さんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。
そやけど、美津さん、
怨みにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、
打擲されて、
熟と
堪えていやはったも、辛抱しとげて、
貴女と一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の
心中の
極印打ったも同じ事、喜んだかて
可いのどす。」
お美津は
堪えず、目に袖を当てようとした。が、
朱鷺色衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手に
搦む、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬の
靨に、前髪の艶しとしとと。
お珊は
眦を多一に返して、
「な、多一さんもそうだすやろな。」
「はい!」と聞返すようにする。
「丸官はんに、柿の
核吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、
羅宇のポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、
死身になって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」
「…………」
「なあ、貴方、」
「…………」
「ええ、多一さん、
新枕の
初言葉と、私もここでちゃんと聞く。……
女子は女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」
と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は
俯向いて見なかった。
「……ものやさかい、美津さんの後の
手券に、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」
「ええ、」
「あの、美津さんへの心中だてかえ。」
多一はハッと畳に手を……その素袍、
指貫に、刀なき腰は寂しいものであった。
「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」
お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れに
支いていた、
簪の
橘薫りもする。
「おお……嬉し……」
と胸を張って、思わず、つい云う。声の
綾に、我を忘れて、道成寺の
一条の真紅の糸が、
鮮麗に織込まれた。
それは禁制の
錦であった。
ふと心付いた
状して、
動悸を鎮めるげに、襟なる
檜扇の端をしっかと
圧えて、ト
後を見て、
襖にすらり
靡いた、その下げ髪の丈を
視めた。
お珊の姿は陰々とした。
二十三
夫婦が二人、その若い顔を上げた時、お珊は何気なき
面色した。
「ほんになあ、くどいようなが多一さん、よう辛抱しやはった。中の芝居で、あの事がなかったら、幾ら私が無理云うたかて、丸官はんにこの祝言を承知さす事はようせんもの。……そりゃな、夫婦にはならはったかて、立行くように世帯が出来んとならんやないか。
通い勤めなり、別に資本出すなりと、丸官はんに、応、言わせたも、皆、
貴方が、
美津さんのために
堪えなはった、
心中立一つやな。十年七年の奉公を一度に済ましなはったも同じ事。
額の
疵は、その烏帽子に、
金剛石を飾ったような光が
映す……おお、
天晴なお婿はん。
さあ、お嫁はん、お酌しょうな。」
と軽く云ったが、
艶麗に、しかも威儀ある座を正して、
「お
盞。」
で、長柄の
銚子に手を添えた。
朱塗の
蒔絵の
三組は、浪に夕日の影を重ねて、
蓬莱の島の松の葉越に、いかにせし、鶴は狩衣の袖をすくめて、その盞を取ろうとせぬ。
「さ、お受けや。」
と、お珊が二度ばかり勧めたけれども、
騒立つらしい胸の響きに、烏帽子の
総の揺るるのみ。美津は
遣瀬なげに手を控える。
ト
熟と
視て、
「おお、まだ年の
行かぬ、
嬰児はんや。多一はんと、
酒事しやはった覚えがないな。
貴女盞を先へ取るのを遠慮やないか。三々九度は、嫁はんが初手に受けるが法やけれど、別に儀式だった祝言やないよって、どうなと構わん。
そやったら多一さん、
貴方先へお受けやす。」
「はい、」と
斉しく
逡巡する。
「どうしやはったえ。」
「御寮人様、一生に一度の事でござります。とてもの事に、ものが逆になりませんよう、やっぱり美津から……」
とちょっと目を合せた。
「女から、お盞を頂かして下さりまし。」
「そやかて、
含羞でいて取んなはらん。……何や、
貴方がた、おかしなえ。」
ふと気色ばんだお珊の
状に、座が
寂として白けた時、表座敷に、テンテン、と二ツ三ツ、
音じめの音が響いたのである。
二人は黙って
差俯向く。……
お珊は、するりと膝を寄せた。
屹として、
「早うおしや! 邪魔が入るとならんよって、私も
直きに女紅場へ行かんとならんえ。……な、あの、酌人が不足なかい。」
二人は、せわしげに瞳を合して、しきりに目でものを云っていた。
「もし、」
と多一が
急いた声で、
「御寮人様、この上になお罰が当ります。不足やなんの、さような事がありまして
可いものでござりますか。御免下さりまし、申しましょう。貴女様、その召しました、両方のお
袂の中が動きます。……美津は、あの、それが
可恐いのでござります。」と
判然云った。
と、
頤を
檜扇に、白小袖の底を
透して、
「これか、」
と投げたように言いながら、
衝と、両手を中へ、袂を探って、肩をふらりと、なよなよとその唐織の袖を垂れたが、
品を崩して、お手玉持つよ、と若々しい、
仇気ない風があった。
「何や、この
二条の蛇が可恐い云うて?……両方とも、言合わせたように、
貴方二人が、自分たちで、心願掛けたものどっせ。
餅屋の店で逢うた時、多一さん、
貴方はこの袋一つ持っていた。な、買うて来るついではあって、
一夜祈はあげたけれど、用の間が忙しゅうて、夜さり高津の蛇穴へ放しに
行く
隙がない、頼まれて
欲い――云うて、美津さんに
託きょう、とそれが用で顔見に
行かはった云うたやないか。」
二十四
「美津さんもまた、日が暮れたら、高津へ行て放す心やった云うて、自分でも一筋。同じ袋に入ったのが、二ツ、ちょんと、あの、猿の
留木の下に揃えてあって、――その時、私に打明けて二人して言やはったは、つい
一昨日の晩方や。
それもこれも、
貴方がた、芝居の事があってから、あんな奉公早う
罷めて、すぐにも夫婦になれるようにと、
身体は両方別れていて、言合せはせぬけれど、同じ日、同じ時に、同じ
祈を掛けやはる。……
蛇も二筋落合うた。
案の定、その場から、思いが
叶うた、お二人さん。
あすこのな、蛇屋に蛇は多けれど、貴方がたのこの
二条ほど、
験のあったは外にはないやろ。私かて、親はなし、
稚い時から
勤をした、辛い事、悲しい事、
口惜しい事、恋しい事、」
と懐手のまま、目を

って、
「死にたいほどの事もある。……何々の
思が遂げたいよって、
貴方二人に
類似りたさに、同じ蛇を預った。今少し、身に附けていたいよって、こうしておいておくれやす。
貴方、結ぶの神やないか。
けどな、思い詰めては、自分の手でも持ったもの。一度、
願が叶うた上では、人の袂にあるのさえ、美津さん、
婦は、蛇は、
可厭らしな!
よう
貴女、これを持つまで、多一さんを思やはった、
婦同士や、察せいでか。――袂にあったら、粗相して落すとならん。
憂慮なやろさかい、私がこうするよって、大事ないえ。」
と袖の中にて手を引けば、
内懐の
乳のあたり、浪打つように膨らみたり。
「
婦の急所で
圧えておく。……乳
銜えられて、私が死のうと、盞の影も
覗かせぬ。さ、美津さん、まず、お前に。」
お珊は長柄をちょうと取る。
美津は盞を震えて受けた。
手の震えで
滴々と
露散るごとき酒の
雫、
蛇の色ならずや、酌参るお珊の手を掛けて
燈の影ながら、青白き
艶が映ったのである。
はたはたとお珊が手を
拍くと、かねて心得さしてあったろう。廊下の障子の開く音して、すらすらと
足袋摺に、一間を過ぎて、また
静にこの
襖を開けて、
「お召し、」
とそこへ手を
支いた、
裾模様の振袖は、島田の
丈長、
舞妓にあらず、
家から
斉眉いて来ている
奴であった。
「
可いかい。」
「はい。」と言いさま、はらはらと小走りに、もとの廊下へ一度出て、その中庭を角にした、向うの襖をすらりと開けると、
閨紅に、
翠の夜具。
枕頭にまた一人、同じ姿の奴が居る。
お珊が黙って、
此方から
差覗いて立ったのは、
竜田姫の
彳んで、
霜葉の錦の
谿深く、夕映えたるを望める
光景。居たのが立って、入ったのと、奴二人の、同じ八尺
対扮装。紫の袖、白襟が、紫の袖、白襟が。
袖口燃ゆる
緋縮緬、ひらりと折目に手を掛けて、きりきりと左右へ廻して、枕を
蔽う六枚
屏風、表に
描いたも、
錦葉なるべし、裏に
白銀の水が走る。
「あちらへ。」
お珊が二人を導いた時、とかくして座を立った、美津が狩衣の袴の裾は、膝を
露顕な素足なるに、恐ろしい
深山路の霜を踏んで、あやしき神の
犠牲に
行く……なぜか畳は
辿々しく、ものあわれに見えたのである。奴二人は姿を隠した。
二十五
屏風を隔てて、この
紅の袴した
媒人は、花やかに笑ったのである。
一人を
褥の上に据えて、お珊がやがて、一人を、そのあとから
閨へ送ると、前のが、屏風の片端から、烏帽子のなりで、するりと抜ける。
下髪であとを追って、手を取って、
枕頭から送込むと、そこに据えたのが、すっと立って、裾から屏風を抜けて出る。トすぐに続いて、
縋って抱くばかりにして、送込むと、おさえておいたのが、はらはら出る。
素袍、狩衣、唐衣、
綾と錦の影を交えて、風ある
状に、裾袂、追いつ追われつ、ひらひらと立舞う風情に閨を
繞った。
巫山の雲に
桟懸れば、名もなき恋の
淵あらむ。左、
橘、右、桜、
衣の模様の色香を浮かして、水は
巴に渦を巻く。
「おほほほほ、」
呼吸も絶ゆげな、なえたような美津の
背を、屏風の外で抱えた時、お珊は、その花やかな
笑を聞かしたのである。
好き
機会とや思いけん。
廊下に
跫音、ばたばたと早く刻んで、羽織袴の、宝の市の世話人一人、
真先に、すっすっすっと来る、当浪屋の
女房さん、仲居まじりに、奴が続いて、迎いの
人数。
口々に、
「御寮人様。」
「お珊様。」
「女紅場では、屋台の組も乗込みました。」
「貴女ばかりを待兼ねてござります。」
襖の中から、
「車は?」
と
静に云う。
「綱も申し着けました、」と世話人が答えたのである。
「待たせはせぬえ、大事な処へ、何や!」
と声が
凜とした。
黙って、すたすた、一同は廊下を引く。
とばかりあって、襖をあけた時、今度は美津が閨に隠れて、枕も、袖も見えなんだ。
多一が屏風の外に居て、床の柱の、
釣籠の、
白玉椿の葉の艶より、ぼんやりとした素袍で立った。
襖がくれの半身で、廊下の
後前を
熟と
視て、人の影もなかった途端に、振返ると、引寄せた。お珊の
腕が
頸にかかると、倒れるように、ハタと膝を
支いた、多一の唇に、
俯向きざまに、
衝と。――
丸官の座敷を、表に
視めて、左右に開いたに立寄りもせず、
階子段を
颯と下りる、とたちまち
門へ姿が出た。
軒を離れて、
俥に乗る時、欄干に立った、丸官、と顔を
上下に合すや否や、矢を射るような
二人曳。あれよ、あれよと云うばかり、
廓の
灯に影を散らした、
群集はぱっと道を分けた。
宝の市の見物は、これよりして早や宗右衛門町の両側に、人垣を築いて見送ったのである。
その年十月十九日、宝の市の最後の
夜は、
稚児、
市女、順々に、
後圧えの
消防夫が、
篝火赤き女紅場の庭を離れる時から、屋台の囃子、姫たちなど、
傍目も
触らぬ
婦たちは、さもないが、
真先に
神輿を
荷うた
白丁はじめ、
立傘、
市女笠持ちの人足など、
頻りに気にしては空を
視めた。
通り筋の、屋根に、
廂に、しばしば
鴉が鳴いたのである。
次第に数が増すと、まざまざと、
薄月の曇った空に、
嘴も翼も見えて、やがては、
練ものの上を飛交わす。
列が道頓堀に小休みをした時は、立並ぶ芝居の中の見物さえ、頻りに
鴉鳴を聞いた、と後で云う。……
二十六
「
宗八、
宗八。」
浪屋の表座敷、床の間の正面に、丸田官蔵、この成金、何の好みか、例なる
詰襟の紺の洋服、
高胡坐、座にある
幇間を大音に呼ぶ。
「はッ、」
「き様、逢阪のあんころ餅へ、使者に、
後押で
駈着けて、今帰った処じゃな。」
「御意にござります、へい。」
「何か、直ぐに連れてここへ来る
手筈じゃった、猿は、
留木から落ちて縁の下へ半分
身体を
突込んで、
斃死ていたげに云う……嘘でないな。」
「実説正銘にござりまして、へい。餅屋
店では、
爺の伝五めに、今夜、
貴方様、お珊の方様、」
と額を
敲いて、
「すなわち、御寮人様、市へお練出しのお供を、お
好とあって承ります。……さてまた、名代娘のお美津さんは、御夫婦これに――ええ、すなわち逢阪の辻店は、戸を寄せ掛けた
明巣にござります。
処へ宗八、丸官閣下お使者といたし、車を一散に乗着けまして、隣家の豆屋の女房立会い、戸を押開いて見ましたれば、いや、はや、何とも
悪食がないたいた様子、お望みの猿は血を吐いて
斃ち果てておりましたに毛頭相違ござりません。」
「うむ。」
と
苦切って
頷きながら、
「多一、あれを聞いたかい、その通りや。」と、ぐっと見下ろす。
一座の末に、うら若い新夫婦は、
平伏していたのである。
これより先、余り御無体、お待ちや、などと、
慌しい
婦まじりの声の中に、丸官の形、猛然と
躍上って、廊下を鳴らして魔のごとく、二人の
閏へ押寄せた。
襖をどんと突明けると、床の間の白玉椿、怪しき明星のごとき別天地に、こは思いも掛けず、二人の姿は、綾の
帳にも
蔽われず、
指貫やなど、烏帽子の
紐も解かないで、
屏風の外に、美津は多一の膝に
俯し、多一は美津の
背に額を附けて、五人囃子の
雛二個、袖を合せたようであった。
揃って、胸先がキヤキヤと痛むと云う。
「酒
啖え、意気地なし!」
で、有無を言わせず、表二階へ引出された。
欄干の
緋の
毛氈は似たりしが、今夜は額を破るのでない。
「練ものを待つ内、退屈じゃ。多一やい、皆への
馳走に猿を舞わいて見せてくれ。
恥辱ではない。
汝ゃ、
丁稚から飛上って、今夜から、大阪の旦那の一
人。
旧を忘れぬためという……取立てた主人の
訓戒と思え。
呼べ、と言えば、
婦どもが
愚図々々
吐す。
新枕は
長鳴鶏の
夜があけるまでは待かねる。
主従は三世の中じゃ、遠慮なしに閨へ推参に及んだ、悪く思うまいな。
汝ゃ、天王寺境内に太鼓たたいていて、ちょこんと猿
負背で、小屋へ帰りがけに、太夫どのに餅買うて、
汝も食いおった、行帰りから、その娘は
馴染じゃげな。足洗うて、丁稚になるとて、右の猿は餅屋へ預けて、現に猿ヶ餅と云うこと、ここに居る
婦どもが知った中。
田畝の鼠が、
蝙蝠になった、その
素袍ひらつかいたかて、今更隠すには当らぬやて。
かえって
卑怯じゃ。
遣ってくれい。
が、聞く通り、ちゃと早手廻しに使者を立てた、宗八が帰っての口上、あの通り。
残念な、猿太夫は
斃ちたとあるわい。
唄なと歌え、形なと見せおれ。
何
吐す、」
と、とりなしを云った二三人の年増の
芸妓を
睨廻いて、
「やい、多一!」
二十七
「致します、致します。」
と
呼吸を切って、
「皆さん御免なさりまし。」
多一はすっと
衣紋を
扱いた。
浅葱の素袍、侍烏帽子が、丸官と向う正面。芸妓、舞妓は左右に開く。
その時、膝に手を
支いて、
「……ま猿めでとうのう
仕る、踊るが
手許立廻り、肩に小腰をゆすり合せ、静やかに舞うたりけり……」
声を張った、扇拍子、畳を軽く
拍ちながら、「筑紫下りの西国船、
艫に八
挺、
舳に八挺、十六挺の
櫓櫂を立てて……」
「やんややんや。ああ
惜い、太夫が
居らぬ。千代鶴やい、猿になれ。一若、立たぬか、立たぬか、
此奴。ええ!
婆どもでまけてやろう、
古猿になれ、
此奴等……立たぬな、おのれ。」
と
立身上りに、
盞を取って投げると、
杯洗の
縁にカチリと砕けて、
颯と
欠らが
四辺に散った。
色めき白ける
燈に、
一重瞼の目を
清しく、美津は伏せたる
面を上げた。
「ああ、皆さん、私が猿を舞いまっせ
[#「舞いまっせ」は底本では「舞いまつせ」]。旦那さん、男のためどす。畜生になってな、私が天王寺の
銀杏の下で、トントン踊って、養うよってな。世帯せいでも大事ない、もう
貴下、多一さんを
虐めんとおくれやす。
ちゃと
隙もろうて
去ぬよって、多一さん、さあ、唄いいな、続いて、」
と、襟の扇子を
衝と抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京は
紅、雪の狩衣
被けながら、
下萌ゆる血の、うら若草、
萌黄は
難波の色である。
丸官は
掌を握った。
多一の声は
凜々として、
「しもにんにんの宝の中に――火取る玉、水取る玉……イヤア、」
と一つ掛けた声が、たちまち切なそうに
掠れた時よ。
(ハオ、イヤア、ハオ、イヤア、)霜夜を且つちる
錦葉の音かと、虚空に響いた鼓の掛声。
(コンコンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、カラ、タッポッポ)
摺鉦入れた
後囃子が、
遥に交って聞えたは、先駆すでに町を渡って、前囃子の間近な
気勢。
が、座を乱すものは一人もなかった。
「船の中には何とお
寝るぞ、
苫を敷寝に、苫を敷寝に
楫枕、楫枕。」
玉を伸べたる
脛もめげず、ツト美津は、畳に投げて
手枕した。
その時は、別に変った様子もなかった。
多一が次第に、歯も
軋むか、と声を絞って、
「葉越しの葉越しの月の影、松の葉越の月見れば、しばし曇りてまた
冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる……」
ト袖を捲いて、
扇子を
翳し、胸を反らして
熟と仰いだ、美津の瞳は氷れるごとく、
瞬もせず

ると
斉しく、
笑靨に
颯と影がさして、
爪立つ足が震えたと思うと、唇をゆがめた
皓歯に、
莟のような血を
噛んだが、烏帽子の紐の乱れかかって、胸に
千条の
鮮血。
「あ、」
と一声して、ばったり倒れる。人目も
振も、しどろになって
背に
縋った。多一の片手の
掌も、我が唇を
圧余って、
血汐は指を
溢れ落ちた。
一座わっと立騒ぐ。
階子へ
遁げて落ちたのさえある。
引仰向けてしっかと抱き、
「
美津さん!……二、二人は毒害された、お珊、お珊、御寮人、お珊め、
婦!」
二十八
「
床几、」
と、
前後の屋台の間に、
市女の姫の第五人目で、お珊が朗かな声を掛けた。
背後に二人、朱の台傘を
廂より高々と
地摺の黒髪にさしかけたのは、
白丁扮装の
駕寵人足。並んで、
萌黄紗に朱の
総結んだ、市女笠を捧げて従ったのは、特にお珊が望んだという、お美津の
爺の伝五郎。
印半纏、
股引、腹掛けの若いものが、さし心得て、露じとりの地に据えた床几に、お珊は
真先に腰を掛けた。が、これは
我儘ではない。
練ものは、揃って、宗右衛門町のここに休むのが
習であった。
屋台の前なる
稚児をはじめ、間をものの二
間ばかりずつ、
真直に取って、十二人が十二の
衣、色を
勝った南地の
芸妓が、揃って、一人ずつ皆床几に掛かる。
台傘の朱は、総二階一面軒ごとの
緋の
毛氈に、色
映交わして、
千本植えたる桜の
梢、
廊の空に咲かかる。白の狩衣、紅梅小袖、
灯の影にちらちらと、囃子の舞妓、芸妓など、霧に
揺据って、小鼓、
八雲琴の
調を休むと、
後囃子なる素袍の稚児が、
浅葱桜を織交ぜて、すり
鉦、太鼓の
音も憩う。
動揺渡る見物は、大河の水を
堰いたよう、見渡す限り列のある間、――一尺ごとに
百目蝋燭、裸火を
煽らし立てた、黒塗に台附の柵の堤を築いて、両方へ押分けたれば、練もののみが静まり返って、人形のように美しく且つ
凄い。
ただその中を、福草履ひたひたと地を刻んで、
袴の裾を
忙しそう。二人三人、世話人が、列の柵
摺れに
往きつ
還りつ、時々顔を合わせて、二人
囁く、直ぐに別れてまた一人、別な世話人とちょっと
出遇う。中に一人落しものをしたように、うろうろと、市女たちの
足許を
覗いて
歩行くものもあって、
大な蟻の
働振、さも事ありげに見えるばかりか、傘さしかけた白丁どもも、三人ならず、五人ならず、眉を
顰め口を開けて空を見た。
その空は、暗く濁って、ところどころ朱の色を交えて曇った。中を
一条、列を切って、どこからともなく
白気が渡って、細々と長く、
遥に城ある
方に
靡く。これを、あたりの湯屋の煙、また、遠い
煙筒の煙が、風の死したる大阪の空を、あらん限り縫うとも言った。
宵には風があった。それは冷たかったけれども、
小春凪の日の
余残に、薄月さえ
朧々と底の暖いと思ったが、道頓堀で小休みして、やがて太左衛門橋を練込む頃から、
真暗になったのである。
鴉は次第に数を増した。のみならず、白気の
怪みもあるせいか、誰云うとなく、今夜十二人の市女の中に、姫の数が一人多い。すべて十三人あると言交わす。
世話人
徒が、妙に気にして、それとなく、一人々々数えてみると、なるほど一人姫が多い。誰も彼も多いと云う。
念のために、
他所見ながら顔を
覗いて、名を銘々に心に留めると、決して姫が
殖えたのではない。
定の通り十二人。で、また見渡すと十三人。
……式の最初、住吉
詣の
東雲に、女紅場で支度はしたが、急にお珊が気が変って、
社へ参らぬ、と言ったために一人
俄拵えに数を
殖やした。が、それは
伊丹幸の
政巳と云って、お珊が
稚い時から可愛がった妹分。その女は、と探ってみると、現に丸官に呼ばれて、浪屋の表座敷に居ると云うから、その身代りが交ったというのでもないのに。……
それさえ
尋常ならず、とひしめく処に、
搗てて加えて易からぬは、世話人の一人が見附けた――屋台が道頓堀を越す頃から、橋へかけて、列の中に、たらたら、たらたらと
一雫ずつ、血が落ちていると云うのである。
二十九
一人多い、その姫の影は
朧でも、血のしたたりは現に見て、誰が目にも
正しく留った。
灯の影に地を探って、
穏ならず、うそうそ
捜ものをして
歩行くのは、その血のあとを
辿るのであろう。
消防夫にも、駕籠屋にも、あえて怪我をしたらしいのはない。
婦たちにも様子は見えぬ。もっとも、南地第一の大事な市の列に立てば、
些細な
疵なら、弱い舞妓も我慢して
秘して
退けよう。
が、市に取っては、上もなき
可忌しさで。
世話人は皆激しく
顰んだ。
知らずや人々。お珊は既に、襟に
秘し持った縫針で、裏を
透して、左の手首の動脈を刺し貫いていたのである。
ただ、
初から不思議な血のあとを拾って、列を縫って
検べて
行くと、
静々と揃って練る時から、お珊の袴の影で留ったのを人を知った。
ここに休んでから、それとなく、五人目の姫の顔を
差覗くものもあった。けれども端然としていた。
黛の他に
玲瓏として顔に一点の雲もなかった。が、
右手に捧げた
橘に見入るのであろう、
寂しく目を閉じていたと云う。
時に、途中ではさもなかった。ここに休む内に、怪しき気のこと、
点滴る血の事、
就中、姫の数の幻に一人多い事が、いつとなく、伝えられて、
烈しく女どもの気を打った。
自然と、髪を垂れ、袖を合せて、床几なる姫は皆、
斉しくお珊が臨終の姿と同じ、肩のさみしい風情となった。
血だらけだ、血だらけだ、血だらけの稚児だ――と叫ぶ――柵の外の
群集の波を、
鯱に追われて泳ぐがごとく、多一の顔が
真蒼に
顕れた。
「お呼びや、私をお知らせや。」
とお珊が云った。
伝五
爺は、懐を大きく、仰天した
皺嗄声を振絞って、
「多一か、多一はん――御寮人様はここじゃ。」と
喚く。
早や柵の上を
蹌踉めき越えて、虚空を
掴んで探したのが、立直って、
衝と寄った。
が、床几の前に、ぱったり倒れて、起直りざまの目の色は、口よりも血走った。
「ああ、
待遠な、多一さん、」
と黒髪
揺ぐ、
吐息と共に、男の肩に手を掛けた。
「毒には加減をしたけれど、私が先へ死にそうでな、幾たび目をば
瞑ったやろ。やっとここまで
堪えたえ。も一度顔を、と思うよって……」
丸官の
握拳が、時に、
瓦の
欠片のごとく、群集を打ちのめして
掻分ける。
「傘でかくしておくれやす。や、」と云う。
台傘が
颯と斜めになった。が、丸官の
忿怒は遮り果てない。
靴足袋で青い足が、柵を踏んで乗ろうとするのを、一目見ると、
懐中へ
衝と手を入れて、両方へ振って、
扱いて、投げた。既に袋を出ていた蛇は、二筋
電のごとく光って飛んだ。
わ、と立騒ぐ
群集の中へ、丸官の影は
揉込まれた。一人
渠のみならず、もの見高く、
推掛った両側の千人は、一斉に
動揺を立て、悲鳴を揚げて、泣く、叫ぶ。茶屋
揚屋の軒に余って、土足の泥波を店へ
哄と……津波の
余残は太左衛門橋、
戒橋、
相生橋に
溢れかかり、畳屋町、笠屋町、玉屋町を横筋に渦巻き落ちる。
見よ、見よ、鴉が
蔽いかかって、人の目、
頭に、
嘴を鳴らすを。
お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と
遁惑うた。その数はただ
二条ではない。
屋台から舞妓が一人
倒に落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。
それ、怪我人よ、
人死よ、とそこもここも湧揚る。
お珊は、心
静に多一を抱いた。
「よう、顔見せておくれやす。」
「
口惜い。御寮人、」と、血を吐きながら
頭を振る。
「
貴方ばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血が
涸れて、
蒼白んで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、
鮮血に染まったのが、重く多一の膝に落ちた。
男はしばらく
凝視めていた。
「口惜いは私こそ、……多一さん。女は世間に何にも出来ん。恋し、
愛しい事だけには、立派に我ままして見しょう。
宝市のこの
服装で、大阪中の人の見る前で、
貴方の手を引いて……なあ、見事丸官を
蹴て見しょう、と命をかけて思うたに。……
先刻盞させる時も、押返して問うたもの、お珊、お前へ心中立や、と一言いうてくれはらぬ。
一昨日の芝居の難儀も、こうした内証があるよって、私のために、
堪えやはった辛抱やったら、一生にたった一度の、嬉しい思いをしようもの、多一さん、
貴下は
二十。三つ上の姉で居て、何でこうまで迷うたやら、堪忍しておくれや。」
とて、はじめて、はらはらと落涙した。
絶入る耳に聞分けて、納得したか、
一度は
頷いたが、
「私は、私は、御寮人、
生命が
惜いと申しません。
可哀気に、何で、何で、お美津を……」
と聞きも果さず……
「わあ、」と
魂切る。
伝五
爺の胸を
圧えて、
「人が立騒いで邪魔したら、
撒散かいて払い
退きょうと、お前に預けた、金貨銀貨が、その
懐中に
沢山ある。不思議な事で、使わいで済んだよって、それもって、な、えらい不足なやろけれど、不足、不足なやろけれど、……ああ、術ない、もう身がなえて声も出ぬ。
お聞きやす、多一さん、
美津さんは、一所に連れずと、一人
活かいておきたかった。
貴方と二人、人は交ぜず、死ぬのが私は本望なが、まだこの上、貴方にも美津さんにも、済まん事や思うたによってな。
違うたかえ、分ったかえ、
冥土へ行てかて、二人をば並べておく、……
遣瀬ない、私の身にもなってお見や。」
幽ながらに声は
透る。
「多一さん、手を取って……手を取って……離さずと……――左のこの手の動く方は、義理やあの
娘の手をば私が引く。……さあ、三人で行こうな。」
と床几を離れて、すっくと立つ。
身動ぎに乱るる黒髪。
髻ふつ、と
真中から
二岐に
颯となる。半ばを多一に振掛けた、半ばを握って
捌いたのを、
翳すばかりに、浪屋の二階を
指麾いた。
「おいでや、美津さんえ、……美津さんえ。」
練ものの列は
疾く、ばらばらに糸が
断れた。が、十一の姫ばかりは、さすが
各目に名を恥じて、落ちたる市女笠、折れたる台傘、
飛々に、
背を
潜め、
顔を
蔽い、膝を折敷きなどしながらも、嵐のごとく、中の島
籠めた
群集が
叫喚の
凄じき中に、
紅の袴一人々々、点々として皆
留まった。
と見ると、雲の黒き下に、次第に
不知火の消え行く
光景。行方も分かぬ三人に、遠く遠く
前途を示す、それが光なき十一の緋の炎と見えた。
お珊は、
幽に、目も
遥々と、一人ずつ、その十一の
燈を
視た。
明治四十五(一九一二)年一月