ただ
仰向けに倒れなかったばかりだったそうである、松村
信也氏――こう
真面目に名のったのでは、この話の模様だと、御当人少々
極りが悪いかも知れない。信也氏は東――新聞、学芸部の記者である。
何しろ……胸さきの苦しさに、ほとんど前後を忘じたが、あとで注意すると、環海ビルジング――帯暗
白堊、五階建の、ちょうど、昇って三階目、空に
聳えた滑かに巨大なる
巌を、みしと切組んだようで、
芬と湿りを帯びた階段を、その上へなお
攀上ろうとする廊下であった。いうまでもないが、このビルジングを、
礎から貫いた
階子の、さながら
只中に当っていた。
浅草寺観世音の仁王門、芝の三門など、あの
真中を正面に切って通ると、怪異がある、魔が
魅すと、言伝える。偶然だけれども、信也氏の場合は、重ねていうが、ビルジングの中心にぶつかった。
また、それでなければ、行路病者のごとく、こんな壁際に
踞みもしまい。……
動悸に波を打たし、ぐたりと手をつきそうになった時は、
二河白道のそれではないが――石段は幻に白く浮いた、
卍の馬の、
片鐙をはずして
倒に落ちそうにさえ思われた。
いや、どうもちっと
大袈裟だ。信也氏が作者に話したのを直接に聞いた時は、そんなにも思わなかった。が、ここに書きとると何だか誇張したもののように聞こえてよくない。もっとも読者諸賢に対して、作者は謹んで真面目である。処を、信也氏は実は酔っていた。
宵から、銀座裏の、腰掛ではあるが、
生灘をはかる、料理が安くて、庖丁の利く、小皿盛の店で、十二三人、気の置けない会合があって、狭い
卓子を囲んだから、端から端へ杯が
歌留多のようにはずむにつけ、店の亭主が
向顱巻で
気競うから菊正宗の
酔が一層
烈しい。
――松村さん、木戸まで急用――
いけ
年を
仕った、学芸記者が
馴れない軽口の
逃口上で、帽子を
引浚うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って
退口を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くすると、
同伴に催促されるまで
酔潰れかねないのが、うろ抜けになって出たのである。どうかしてるぜ、
憑ものがしたようだ、
怪我をしはしないか、と深切なのは、うしろを通して立ったまま見送ったそうである。
が、開き直って、今晩は、環海ビルジングにおいて、そんじょその辺の
芸妓連中、音曲のおさらいこれあり、頼まれました義理かたがた、ちょいと顔を見に参らねばなりませぬ。思切って、ぺろ
兀の
爺さんが、
肥った若い
妓にしなだれたのか、
浅葱の襟をしめつけて、
雪駄をちゃらつかせた若いものでないと、この口上は――しかも会費こそは安いが、いずれも一家をなし、一芸に、携わる連中に――面と向っては言いかねる、こんな時に持出す親はなし、やけに女房が産気づいたと言えないこともないものを、臨機縦横の気働きのない学芸だから、中座の申訳に困り、
熱燗に舌をやきつつ、飲む酒も、ぐッぐと
咽喉へ
支えさしていたのが、いちどきに、
赫となって、その横路地から、七彩の電燈の火山のごとき銀座の木戸口へ飛出した。
たちまち群集の波に
捲かれると、大橋の
橋杭に
打衝るような円タクに、
「――環海ビルジング」
「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」
おやおや、会場は近かった。
土橋寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕を落したように、バッタリ寂しい。……大きな建物ばかり、四方に
聳立した中にこの
仄白いのが、四角に
暗夜を
抽いた、どの窓にも光は見えず、
靄の曇りで陰々としている。――場所に間違いはなかろう――大温習会、日本橋連中、と門柱に立掛けた、字のほかは
真白な立看板を、白い電燈で照らしたのが、清く涼しいけれども、もの寂しい。四月の末だというのに、
湿気を含んだ夜風が、さらさらと
辻惑いに吹迷って、
卯の花を乱すばかり、
颯と、その看板の
面を渡った。
扉を押すと、反動でドンと閉ったあとは、もの音もしない。正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の
諸脚の
真黒な筋のごとく、二ヶ処に
洞穴をふんで、冷く、不気味に
突立っていたのである。
――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ――
が、こうした事に、もの
馴れない、学芸部の
了簡では、会場にさし向う、すぐ目前、
紅提灯に景気幕か、時節がら、藤、つつじ。百合、
撫子などの造花に、
碧紫の電燈が
燦然と輝いて――いらっしゃい――受附でも
出張っている事、と心得違いをしていたので。
どうやら、これだと、見た処、会が済んだあとのように思われる。
――まさか、十時、まだ五分前だ――
立っていても、エレベエタアは水に沈んだようで動くとも見えないから、とにかく、左へ
石梯子を昇りはじめた。元来慌てもののせっかちの癖に、かねて心臓が弱くて、ものの一町と駆出すことが出来ない。かつて、彼の叔父に、ある芸人があったが、六十七歳にして、若いものと一所に四国に遊んで、負けない気で、
鉄枴ヶ峰へ押昇って、煩って、どっと寝た。
聞いてさえ恐れをなすのに――ここも一種の鉄枴ヶ峰である。あまつさえ、目に
爽かな、敷波の松、
白妙の
渚どころか、一毛の青いものさえない。……草も木も影もない。まだ、それでも、一階、二階、はッはッ肩で息ながら上るうちには、芝居の
桟敷裏を折曲げて、縦に
突立てたように――
芸妓の
温習にして見れば、――客の
中なり、楽屋うちなり、
裙模様を着けた草、
櫛さした木の葉の二枚三枚は、廊下へちらちらとこぼれて来よう。心だのみの、それが
仇で、人けがなさ過ぎると、虫も
這わぬ。
心は
轟く、
脉は鳴る、酒の
酔を円タクに蒸されて、汗ばんだのを、車を下りてから一度夜風にあたった。息もつかず、もうもうと
四面の壁の
息を吸って昇るのが草いきれに包まれながら、性の知れない、魔ものの
胴中を、くり抜きに、うろついている心地がするので、たださえ心臓の苦しいのが、悪酔に
嘔気がついた。
身悶えをすれば
吐きそうだから、
引返して
階下へ抜けるのさえむずかしい。
突俯して、(ただ
仰向けに倒れないばかり)であった――
で、背くぐみに両膝を抱いて、
動悸を
圧え、
潰された
蜘蛛のごとくビルジングの壁際に
踞んだ処は、やすものの、探偵小説の
挿画に似て、われながら、浅ましく、
情ない。
「
南無、
身延様――三百六十三段。南無身延様、三百六十四段、南無身延様、三百六十五段……」
もう一息で、頂上の境内という処だから、
団扇太鼓もだらりと下げて、音も立てず、
千箇寺参りの五十男が、口で石段の数取りをしながら、顔色も青く
喘ぎ喘ぎ上るのを――下山の間際に
視たことがある。
思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、
繋いで掛け、雲の
桟に似た石段を――
麓の
旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を
煽りつけた
勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛けて駆昇った事がある。……
呼吸が切れ、目が
眩むと、あたかも三つ目と想う段の継目の、わずかに身を
容るるばかりの石の上へ仰ぎ倒れた。胸は上の段、およそ百ばかりに高く波を打ち、足は下の段、およそ百ばかりに震えて重い。いまにも胴中から裂けそうで、
串戯どころか、その時は、合掌に胸を
緊めて、
真蒼になって、
日盛の
蚯蚓でのびた。叔父の鉄枴ヶ峰ではない。身延山の石段の
真中で目を
瞑ろうとしたのである。
上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。
酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、
生命の
数珠が切れそうだった。が、三十分ばかり、
静としていて辛うじて
起った。――もっともその折は
同伴があって、力をつけ、介抱した。手を取って助けるのに、
縋って
這うばかりにして、辛うじて頂上へ
辿ることが出来た。
立処に、無熱池の水は、白き
蓮華となって、水盤にふき
溢れた。
――ああ、一口、水がほしい――
実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。
何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。
噛みたいほどの
雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。
……その冷く快かった入口の、立看板の白く
冴えて寂しいのも、再び見る、露に濡れた
一叢の
卯の花の水の
栞をすると思うのも、いまは谷底のように遠く、深い。ここに、突当りに切組んで、二段ばかり目に映る階段を望んで次第に上層を思うと、峰のごとく
遥に高い。
気が違わぬから、声を出して人は呼ばれず、たすけを、人を、水をあこがれ求むる、瞳ばかり
ったが、すぐ、それさえも
茫となる。
その目に、ひらりと影が見えた。真向うに、
矗立した壁面と、相接するその階段へ、上から、黒く落ちて、鳥影のように映った。が、羽音はしないで、すぐその影に
薄りと色が染まって、
婦の
裾になり、白い
蝙蝠ほどの足袋が出て、踏んだ草履の緒が青い。
翼に
藍鼠の
縞がある。大柄なこの怪しい鳥は、
円髷が黒かった。
目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻の
隆いのが、……段の上からと、廊下からと、二ヶ処の電燈のせいか、その怪しい影を、やっぱり
諸翼のごとく、両方の壁に映しながら、ふらりと来て、
朦朧と映ったが、近づくと、こっちの息だか
婦の肌の
香だか、
芬とにおって酒臭い。
「酔ってますね、ほほほ。」
蓮葉に笑った、
婦の方から。――これが
挨拶らしい。が、私が酔っています、か、お前さんは酔ってるね、だか分らない。
「やあ。」
と、渡りに船の
譬喩も恥かしい。水に縁の切れた
糸瓜が、物干の
如露へ伸上るように身を起して、
「――御連中ですか、お師匠……」
と言った。
薄手のお太鼓だけれども、今時珍らしい
黒繻子豆絞りの帯が
弛んで、一枚小袖もずるりとした、はだかった胸もとを、きちりと紫の
結目で、西行法師――いや、
大宅光国という
背負方をして、
樫であろう、
手馴れて研ぎのかかった白木の細い……所作、
稽古の棒をついている。とりなりの乱れた
容子が、
長刀に使ったか、太刀か、刀か、舞台で立廻りをして、
引込んで来たもののように見えた。
ところが、
目皺を寄せ、頬を刻んで、妙に
眩しそうな顔をして、
「おや、師匠とおいでなすったね、おとぼけでないよ。」
とのっけから、
「ちょいと
旦那、この敷石の道の
工合は、河岸じゃありませんね、五十間。しゃっぽの旦那は、金やろかいじゃあない……何だっけ……
銭とるめんでしょう、その口から、お師匠さん、あれ、恥かしい。」
と片袖をわざと顔にあてて
俯向いた、襟が白い、が
白粉まだらで。……
「……風体を、ごらんなさいよ。ピイと吹けば
瞽女さあね。」
と仰向けに目をぐっと
瞑り、口をひょっとこにゆがませると、所作の棒を
杖にして、コトコトと床を鳴らし、めくら
反りに胸を反らした。
「
按摩かみしも三百もん――ひけ過ぎだよ。あいあい。」
あっと
呆気に取られていると、
「
鉄棒の音に目をさまし、」
じゃらんとついて、ぱっちりと目を開いた。が、わが信也氏を
熟と見ると、
「おや、先生じゃありませんか、まあ、先生。」
「…………」
「それ……と、たしか松村さん。」
心当りはまるでない。
「松村です、松村は確かだけれど、あやふやな男ですがね、弱りました、弱ったとも弱りましたよ。いや、何とも。」
上脊があるから、下にしゃがんだ男を、
覗くように傾いて、
「どうなさいました、まあ。」
「何の事はありません。」
鉄枴ヶ峰では分るまい……
「身延山の石段で、行倒れになったようなんです。口も利けない始末ですがね、場所はどこです、どこにあります、あと何階あります、場所は、おさらいの会場は。」
「おさらい……おさらいなんかありませんわ。」
「ええ。」
ビルジングの三階から、ほうり出されたようである。
「しかし、師匠は。」
「あれさ、それだけはよして頂戴よ。ししょう……もようもない、ほほほ。こりゃ、これ、かみがたの
口合や。」
と手の甲で唇をたたきながら、
「場末の……いまの、ルンならいいけど、足の生えた、ぱんぺんさ。先生、それも、お前さん、いささかどうでしょう、ぷんと来た処をふり売りの途中、下の辻で、木戸かしら、入口の看板を見ましてね、あれさ、お前さん、ご存じだ……」
という。が、お前さんにはいよいよ分らぬ。
「鶏卵と、玉子と、字にかくとおんなじというめくらだけれど、おさらいの看板ぐらいは形でわかりますからね、叱られやしないと
多寡をくくって、ふらふらと入って来ましたがね。おさらいや、おおさえや、そんなものは
三番叟だって、どこにも、やってやしませんのさ。」
「はあ。」
とばかり。
「お前さんも、おさらいにおいでなすったという処で見ると、満ざら、私も間違えたんじゃアありませんね。ことによったら、もう
刎ねっちまったんじゃありませんか。」
さあ……
「成程、で、その連中でないとすると、弱ったなあ。……失礼だが、まるっきりお見それ申したがね。」
「ええ、ええ、ごもっとも、お目に
掛ったのは震災ずっと前でござんすもの。こっちは、商売、
慾張ってますから、両三度だけれど覚えていますわ。お分りにならない
筈……」
と無雑作な中腰で、廊下に、
斜に向合った。
「吉原の小浜屋(引手茶屋)が、焼出されたあと、
仲之町をよして、
浜町で鳥料理をはじめました。それさ、お前さん、鶏卵と、玉子と同類の頃なんだよ。京千代さんの、
鴾さんと、一座で、お前さんおいでなすった……」
「ああ、そう……」
夢のように思出した。つれだったという……京千代のお京さんは、もとその小浜屋に
芸妓の娘分が三人あった、一番の年若で。もうその時分は、鴾の細君であった。鴾氏――画名は遠慮しよう、実の名は
淳之助である。
(――つい、今しがた銀座で一所に飲んでいた――)
この場合、うっかり口へ出そうなのを、ふと控えたのは、この
婦が、見た処の容子だと、銀座へ押掛けようと言いかねまい。……
そこの腰掛では、現に、ならんで隣合った。画会では権威だと聞く、
厳しい審査員でありながら、厚ぼったくなく、もの
柔にすらりとしたのが、小丼のもずくの
傍で、海を飛出し、銀に光る、
鰹の皮づくりで、
静に
猪口を傾けながら、
「おや、もう帰る。」信也氏が早急に席を出た時、つまの
蓼を
真青に
噛んで立ったのがその画伯であった。
「ああ、やっと、思出した……おつまさん。」
「市場の、さしみの……」
と
莞爾する。
「おさらいは構わないが、さ、さしあたって、水の算段はあるまいか、一口でもいいんだが。」
「おひや。暑そうね、お前さん、
真赤になって。」
と、
扇子を抜いて、風をくれつつ、
「私も暑い。赤いでしょう。」
「しんは青くなっているんだよ……息が切れて倒れそうでね。」
「おひや、ありますよ。」
「有りますか。」
「もう、二階ばかり上の高い処に、
海老屋の屋根の天水
桶の雪の遠見ってのがありました。」
「聞いても飛上りたいが、お妻さん、
動悸が激しくって、動くと嘔きそうだ。下へもおりられないんだよ。恩に
被るから、何とか一杯。」
「おっしゃるな。すぐに算段をしますから。まったく、いやに蒸すことね。その癖、乾き切ってさ。」
とついと立って、
「五月雨の……と心持でも濡れましょう。池の
菰に水まして、いずれが、あやめ
杜若、さだかにそれと、よし原に、ほど遠からぬ水神へ……」
扇子をつかって、トントンと向うの段を、天井の巣へ、鳥のようにひらりと行く。
一あめ、さっと聞くおもい、なりも、ふりも、うっちゃった容子の
中に、争われぬ
手練が見えて、こっちは、
吻と息を
吐いた。……
――踊が
上手い、声もよし、
三味線はおもて芸、
下方も、笛まで出来る。しかるに芸人の自覚といった事が少しもない。顔だちも目についたが、色っぽく見えない処へ、
媚しさなどは
気もなかった。その頃、銀座さんと
称うる化粧問屋の
大尽があって、
新に、「
仙牡丹」という
白粉を製し、これが大当りに当った、祝と披露を、
枕橋の
八百松で催した事がある。
裾を
曳いて帳場に
起居の女房の、
婀娜にたおやかなのがそっくりで、半四郎茶屋と呼ばれた引手茶屋の、大尽は常客だったが、
芸妓は小浜屋の
姉妹が一の
贔屓だったから、その祝宴にも
真先に取持った。……当日は
伺候の芸者大勢がいずれも売出しの白粉の銘、仙牡丹に
因んだ趣向をした。
幇間なかまは、大尽客を、
獅子に
擬え、黒牡丹と題して、金の角の縫いぐるみの牛になって、大広間へ
罷出で、馬には狐だから、牛に狸が乗った、
滑稽の
果は、縫ぐるみを崩すと、幇間同士が血のしたたるビフテキを捧げて出た、獅子の口へ、身を
牲にして奉った、という
生命を
賭した、
奉仕である。
(――同町内というではないが、信也氏は、
住居も近所で、鴾画伯とは別懇だから、時々その細君の京千代に、茶の間で煙草話に聞いている――)
小浜屋の芸妓姉妹は、その祝宴の八百松で、その京千代と、――中の姉のお
民――(これは仲之町を圧して売れた、)――
小股の切れた、色白なのが居て、二人で、
囃子を揃えて、すなわち
連獅子に骨身を絞ったというのに――上の姉のこのお妻はどうだろう。興
酣なる
汐時、まのよろしからざる処へ、田舎の
媽々の
肩手拭で、
引端折りの
蕎麦きり色、
草刈籠のきりだめから、へぎ盆に取って、上客からずらりと席順に配って
歩行いて、「くいなせえましょう。」と野良声を出したのを、何だとまあ思います?
(――鴾の細君京千代のお京さんの茶の間話に聞いたのだが――)
つぶし
餡の
牡丹餅さ。ために、浅からざる御不興を
蒙った、そうだろう。新製売出しの当り祝につぶしは
不可い。のみならず、酒宴の半ばへ牡丹餅は
可笑しい。が、すねたのでも、
諷したのでも何でもない、かのおんなの性格の自然に出でた趣向であった。
……ここに、信也氏のために、きつけの水を
汲むべく、屋根の雪の天水桶を志して、環海ビルジングを上りつつある、つぶし餡のお妻が、さてもその後、黄粉か、
胡麻か、いろが出来て、日光へ駆落ちした。およそ、獅子大じんに牡丹餅をくわせた姉さんなるものの、
生死のあい手を考えて御覧なさい。相撲か、役者か、渡世人か、いきな処で、こはだの
鮨は、もう居ない。
捻った処で、かりん糖売か、皆違う。こちの人は、京町の交番に新任のお
巡査さん――もっとも、
角海老とかのお職が命まで打込んで、
上り藤の金紋のついた手車で、楽屋入をさせたという、新派の
立女形、二枚目を兼ねた藤沢浅次郎に、よく
肖ていたのだそうである。
あいびきには無理が出来る。いかんせん世の
習である。いずれは身のつまりで、
遁げて心中の覚悟だった、が、
華厳の滝へ飛込んだり、並木の杉でぶら下ろうなどというのではない。
女形、二枚目に似たりといえども、
彰義隊の落武者を父にして旗本の血の流れ
淙々たる巡査である。御先祖の霊前に近く、覚悟はよいか、嬉しゅうござんす、お妻の胸元を刺貫き――
洋刀か――はてな、そこまでは聞いておかない――返す刀で、
峨々たる
巌石を
背に、十文字の立ち腹を
掻切って、
大蘇芳年の筆の
冴を見よ、描く処の
錦絵のごとく、黒髪山の山裾に血を流そうとしたのであった。が、仏法僧のなく
音覚束なし、誰に助けらるるともなく、
生命生きて、浮世のうらを、古河銅山の
書記になって、二年ばかり、子まで出来たが、気の毒にも、山小屋、飯場のパパは、煩ってなくなった。
お妻は石炭
屑で黒くなり、枝炭のごとく、
煤けた
姑獲鳥のありさまで、おはぐろ
溝の
暗夜に立ち、
刎橋をしょんぼりと、
嬰児を抱いて小浜屋へ立帰る。……と、場所がよくない、そこらの口の悪いのが、日光がえりを、美術の
淵源地、荘厳の
廚子から
影向した、
女菩薩とは心得ず、ただ雷の本場と心得、ごろごろさん、ごろさんと、以来かのおんなを
渾名した。――嬰児が、二つ三つ、片口をきくようになると、
可哀相に、いつどこで覚えたか、ママを呼んで、ごよごよちゃん、ごよちゃま。
○
日月星昼夜織分――ごろからの夫婦喧嘩に、なぜ、かかさんをぶたしゃんす、もうかんにんと、ごよごよごよ、と雷の
児が泣いて留める、
件の
浄瑠璃だけは、一生の断ちものだ、と眉にも頬にも
皺を寄せたが、のぞめば段もの
端唄といわず、
前垂掛けで、
朗に、またしめやかに、唄って聞かせるお妻なのであった。
前垂掛――そう、髪もいぼじり巻同然で、紺の
筒袖で台所を手伝いながら――そう、すなわち前に言った、浜町の鳥料理の頃、鴾氏に誘われて四五
度出掛けた。お妻が、わが信也氏を知ったというはそこなのである。が、とりなりも右の通りで、ばあや、同様、と遠慮をするのを、鴾画伯に取っては、
外戚の姉だから、座敷へ招じて
盃をかわし、大分いけて、ほろりと酔うと、誘えば唄いもし、促せば、立って踊った。家元がどうの、流儀がどうの、合方の調子が、あのの、ものの、と七面倒に気取りはしない。口
三味線で間にあって、そのまま動けば、
筒袖も振袖で、かついだ割箸が、柳にしない、花に咲き、さす手の影は、じきそこの隅田の雲に、
時鳥がないたのである。
それでは、おなじに、吉原を焼出されて、一所に浜町へ
落汐か、というと、そうでない。ママ、ごよごよは出たり引いたり、ぐれたり、飲んだり、八方流転の、そして、その頃はまた落込みようが深くって、しばらく行方が知れなかった。ほども遠い、……奥沢の
九品仏へ、
廓の
講中がおまいりをしたのが、あの辺の露店の、ぼろ市で、着たのはくたびれた浴衣だが、白地の
手拭を吉原かぶりで、色の浅黒い、すっきり鼻の
隆いのが、
朱羅宇の
長煙草で、
片靨に
煙草を吹かしながら田舎の
媽々と、
引解ものの
価の掛引をしていたのを
視たと言う……その直後である……浜町の鳥料理。
お妻が……言った通り、気軽に唄いもし、踊りもしたのに、
一夜、近所から時借りの、三味線の、
爪弾で……
丑みつの、鐘もおとなき古寺に、ばけものどしがあつまりア……
――おや、聞き
馴れぬ、と思う、うたの続きが糸に紛れた。――
きりょうも、いろも、雪おんな……
ずどんと鳴って、壁が揺れた。雪見を喜ぶ都会人でも、あの屋根を
辷る、軒しずれの雪の音は、
凄じいのを知って驚く……春の雨だが、ざんざ降りの、夜ふけの
忍駒だったから、かぶさった雪の、その落ちる、雪のその音か、と
吃驚したが、隣の間から、小浜屋の
主婦が
襖をドシンと打ったのが、古家だから、床の壁まで
家鳴をするまで響いたのである。
お妻が、糸の切れたように、黙った。そうしてうつむいた。
「――魔が
魅すといいますから――」
一番
鶏であろう……
鶏の声が聞こえて、ぞっとした。――引手茶屋がはじめた鳥屋でないと、
深更に聞く、鶏の声の嬉しいものでないことに、読者のお察しは、どうかと思う。
時に、あの唄は、どんな化ものが出るのだろう。鴾氏も、のちにお京さん――細君に聞いた。と、忘れたと云って教えなかった。
「――まだ小どもだったんですもの――」
浜町の鳥屋は、すぐ
潰れた。小浜屋
一家は、世田ヶ谷の奥へ
引込んで、唄どころか、おとずれもなかったのである。
(この話の中へも、関東ビルジングの廊下へも、もうすぐ、お妻が、水を調えて降りて来よう。)
まだ少し石の段の続きがある。
――お妻とお民と京千代と、いずれも養女で、小浜屋の
芸妓三人の上に、おおあねえ、すなわち、
主婦を、お
来といった――(その夜、隣から襖を叩いた人だが、)これに、伊作という弟がある。うまれからの
廓ものといえども、見識があって、役者の
下端だの、
幇間の
真似はしない。書画をたしなみ
骨董を
捻り、俳諧を友として、内の控えの、千束の寮にかくれ住んだ。……小遣万端いずれも本家持の処、小判小粒で仕送るほどの身上でない。……両親がまだ達者で、
爺さん、
媼さんがあった、その媼さんが、
刎橋を渡り、露地を抜けて、食べものを運ぶ例で、門へは一廻り面倒だと、裏の垣根から、「伊作、伊作」――店の都合で夜のふける事がある……「伊作、伊作」――いやしくも廓の寮の俳家である。卯の花のたえ間をここに
音信るるものは、江戸座、雪中庵の社中か、
抱一上人の三代目、少くとも蔵前の
成美の末葉ででもあろうと思うと、違う。……
田畝に狐火が
灯れた時分である。太郎
稲荷の
眷属が
悪戯をするのが、毎晩のようで、暗い垣から「伊作、伊作」「おい、お
祖母さん」くしゃんと
嚔をして消える。「畜生め、またうせた。」これに悩まされたためでもあるまい。夜あそびをはじめて、ぐれだして、使うわ、ねだるわ。勘当ではない自分で
追出て、やがて、おかち町辺に、もぐって、かつて女たちの、
玉章を、きみは今……などと
認めた覚えから、一時、代書人をしていた。が、くらしに足りない。なくなれば、しゃっぽで、
袴で、はた、洋服で、小浜屋の店さして、揚幕ほどではあるまい、かみ手から、ぬっと来る。
(お京さんの茶の間話に聞くのである。)
鴾の細君の弱ったのは、爺さんが、おしきせ何本かで、へべったあと、だるいだるい、うつむけに畳に伸びた
蹠を踏ませられる。……ぴたぴたと
行るうちに、
草臥れるから、
稽古の時になまけるのに、催促をされない稽古棒を持出して、
息杖につくのだそうで。……これで
戻駕籠でも思出すか、善玉の
櫂でも使えば殊勝だけれども、
疼痛疼痛、「お京何をする。」……はずんで、脊骨……へ飛上る。浅草の
玉乗に夢中だったのだそうである。もっとも、すぺりと円い
禿頭の、
護謨、
護謨としたのには、少なからず誘惑を感じたものだという。げええ。
大なおくび、――これに弱った――
可厭だなあ、臭い、お爺さん、
得ならぬにおい、というのは
手製りの塩辛で、この爺さん、彦兵衛さん、むかし料理番の入婿だから、ただ同然で、でっち
上る。「友さん
腸をおいて
行きねえ。」婆さんの方でない、安達ヶ原の納戸でないから、はらごもりを
割くのでない。
松魚だ、鯛だ。
烏賊でも構わぬ。
生麦の
鰺、佳品である。
魚友は意気な
兄哥で、お来さんが少し
思召しがあるほどの男だが、
鳶のように魚の腹を
握まねばならない。その
腸を二升瓶に貯える、
生葱を刻んで
捏ね、七色唐辛子を
掻交ぜ、掻交ぜ、
片襷で練上げた、東海の
鯤鯨をも吸寄すべき、恐るべき、どろどろの
膏薬の、おはぐろ
溝へ、黄袋の唾をしたような異味を、べろりべろり、と
嘗めては、ちびりと飲む。塩辛いきれの
熟柿の口で、「なむ、御先祖でえでえ」と茶の間で仏壇を拝むが日課だ。お来さんが、通りがかりに、ツイとお
位牌をうしろ向けにして
行く……とも知らず、とろんこで「御先祖でえでえ。」どろりと寝て、お京や、
蹠である。時しも、
鬱金木綿が薄よごれて、しなびた包、おちへ来て
一霜くらった、
大角豆のようなのを嬉しそうに開けて、一粒々々、根附だ、玉だ、
緒〆だと、むかしから伝われば、道楽でためた秘蔵の小まものを並べて楽しむ処へ――それ、しも手から、しゃっぽで、
袴で、代書代言伊作氏が縁台の端へ
顕われるのを見ると、そりゃ、そりゃ矢藤さんがおいでになったと、
慌しく鬱金木綿を
臍でかくす……他なし、書画骨董の大方を、野分のごとく、この長男に吹さらわれて、わずかに
痩莢の豆ばかりここに残った
所以である。矢藤は小浜屋の姓である。これで見ると、廓では、人を敬遠する時、我が子を呼ぶに、名を言わず、姓をもってするらしい。……
矢藤老人――ああ、年を取った伊作翁は、小浜屋が流転の前後――もともと世功を積んだ苦労人で、万事じょさいのない処で、
将棊は素人の二段の腕を持ち、碁は実際初段うてた。それ等がたよりで、隠居仕事の寮番という処を、時流に乗って、丸の内辺の某
倶楽部を預って暮したが、震災のために、立寄ったその樹の蔭を失って、のちに古女房と二人、京橋三十間堀裏のバラック
建のアパアトの小使、兼番人で
佗しく住んだ。身辺の寒さ寂しさよ。……霜月末の風の
夜や……
破蒲団の
置炬燵に、歯の抜けた
頤を
埋め、この奥に目あり
霞めり。――
徒らに鼻が
隆く目の
窪んだ処から、まだ
娑婆気のある頃は、
暖簾にも看板にも(目あり)とかいて、
煎餅を焼いて売りもした。「目あり煎餅」勝負事をするものの
禁厭になると、一時弘まったものである。――その目をしょぼしょぼさして、長い顔をその炬燵に据えて、いとせめて親を思出す。千束の寮のやみの
夜、おぼろの
夜、そぼそぼとふる小雨の夜、狐の声もしみじみと
可懐い折から、「伊作、伊作」と女の
音で、
扉で呼ぶ。
「婆さんや、人が来た。」「うう、お爺さん」内職の、
楊枝を
辻占で巻いていた古女房が、
怯えた顔で――「話に聞いた魔ものではないかのう。」とおっかな
吃驚で
扉を開けると、やあ、化けて来た。いきなり、けらけらと笑ったのは大柄な女の、くずれた
円髷の大年増、
尻尾と下腹は何を巻いてかくしたか、
縞小紋の糸が透いて、膝へ
紅裏のにじんだ小袖を、ほとんど素膚に着たのが、馬ふんの燃える夜の
陽炎、ふかふかと湯気の立つ、
雁もどきと、
蒟蒻の煮込のおでんの皿盛を白く吐く息とともに、ふうと吹き、
四合壜を片手に提げて「ああ敷居が高い、敷居が高い、(鳥居さえ飛ぶ癖に)
階子段で息が切れた。若旦那、お久しゅう。てれかくしと、寒さ
凌ぎに
夜なしおでんで
引掛けて来たけれど、おお寒い。」と穴から渡すように、丼をのせるとともに、その炬燵へ、
緋の
襦袢むき出しの膝で、のめり込んだのは、絶えて久しい、お妻さん。……
「――わかたなは、あんやたい――」若旦那は、ありがたいか、暖かな、あの屋台か、
五音が乱れ、もう、よいよい染みて
呂律が廻らぬ。その癖、若い時から、酒は一滴もいけないのが、おでんで濃い茶に浮かれ出した。しょぼしょぼの若旦那。
さて、お妻が、流れも流れ、お
落ちも落ちた、奥州青森の裏借屋に、五もくの師匠をしていて、
二十も年下の、炭屋だか、炭焼だかの息子と出来て、東京へ舞戻り、本所の隅っ子に長屋で居食いをするうちに、この
年齢で、馬鹿々々しい、二人とも、とやについて、どっと寝た。青森の親元へ
沙汰をする、手当薬療、息子の腰が立つと、手が切れた。むかいに来た親は、
善知鳥、うとうと、なきながら子をくわえて
皈って
行く。
片翼になって大道に倒れた裸の浜猫を、ぼての魚屋が拾ってくれ、いまは三河島辺で、そのばさら屋の
阿媽だ、と煮こごりの、とけ出したような、みじめな身の上話を茶の
伽にしながら――よぼよぼの若旦那が――さすがは江戸前でちっともめげない。「五もくの師匠は、かわいそうだ。お前は芸は出来るのだ。」「武芸十八般一通り。」と魚屋の阿媽だけ、太刀の
魚ほど
反って云う。「義太夫は」「ようよう久しぶりお出しなね。」と見た処、壁にかかったのは、
蝙蝠傘と
箒ばかり。お妻が手拍子、口
三味線。
若旦那がいい声で、
夢が、浮世か、うき世が夢か、夢ちょう里に住みながら、住めば住むなる世の中に、よしあしびきの大和路や、壺坂の片ほとり土佐町に、沢市という座頭あり。……
妻のお里はすこやかに、夫の手助け賃仕事……
とやりはじめ、唄でお山へのぼる時分に、おでん屋へ、酒の継足しに出た、というが、二人とも炬燵の谷へ落込んで、朝まで寝た。――この挿話に用があるのは、翌朝かえりがけのお妻の態度である。りりしい眉毛を、とぼけた顔して、
「――少しばかり、若旦那。……あまりといえば、おんぼろで、伺いたくても伺えなし、伺いたくて
堪らないし、損料を借りて来ましたから、肌のものまで。……ちょっと、それにお恥かしいんだけど、電車賃……」
(お京さんから、つい去年の暮の事だといって、久しく中絶えたお妻のうわさを、最近に聞いていた。)
お妻が、段を下りて、廊下へ来た。と、いまの身なりも、損料か、借着らしい。
「さ、お待遠様。」
「
難有い。」
「灰皿――灰落しらしいわね。……廊下に台のものッて寸法にいかないし、
遣手部屋というのがないんだもの、湯呑みの工面がつきやしません。……いえね、いよいよとなれば、私は借着の寸法だけれど、
花柳の
手拭の切立てのを持っていますから、ずッぷり平右衛門で、一時
凌ぎと思いましたが、いい
塩梅にころがっていましたよ。大丈夫、ざあざあ洗って洗いぬいた上、もう私が三杯ばかりお毒見が済んでいますから。ああ、そんなに
引かぶって、襟が冷くありませんか、手拭をあげましょう。」
「一滴だってこぼすものかね、ああ助かった。――いや、この上欲しければ、今度は自分で
歩行けそうです。――助かった。恩に
被ますよ。」
「とんでもない、でも、まあ、嬉しい。」
「まったく活返った。」
「ではその元気で、上のおさらいへいらっしゃるか。そこまで、おともをしてもよござんす。」
「で、
演っていますかね。三味線の音でも聞こえますか。」
「いいえ。」
「途中で、連中らしいのでも見ませんか。」
「人ッこ一人、……大びけ過ぎより、しんとして薄気味の悪いよう。」
「はてな、
間違ではなかろうが、……何しろ、きみは、ちっともその方に引っかかりはないのでしたね。」
「ええ、私は風来ものの大気紛れさ、といううちにも、そうそう。」
中腰の膝へ、
両肱をついた、
頬杖で。
「じかではなくっても――御別懇の鴾先生の、お京さんの姉分だから、ご存じだろうと思いますが……今、芝、
明舟町で、娘さんと二人で、お弟子を取っています、お師匠さん、……お民さんのね、……まあ、先生方がお聞きなすっては馬鹿々々しいかも知れませんが、……目を据える、
生命がけの事がありましてね、その事で、ちょっと、切ッつ、はッつもやりかねないといった
勢で、だらしがないけども、私がさ、この稽古棒(よっかけて壁にあり)を
槍、
鉄棒で、
対手方へ出向いたんでござんすがね、――
入費はお師匠さん持だから、乗込みは、ついその銀座の西裏まで、円タクさ。
――
呆れもしない、目ざす
敵は、喫茶店、カフェーなんだから、めぐり合うも捜すもない、すぐ
目前に
顕われました。ところがさ、商売柄、ぴかぴかきらきらで、
廓の
張店を
硝子張の、竜宮づくりで輝かそうていったのが、むかし六郷様の裏門へぶつかったほど、一棟、
真暗じゃありませんか。拍子抜とも、間抜けとも。……お前さん、近所で聞くとね、これが何と……いかに
業体とは申せ、いたし方もこれあるべきを、裸で、小判、……いえさ、銀貨を、何とか、いうかどで……営業おさし留めなんだって。……
出がけの意気組が意気組だから、それなり
皈るのも詰りません。
隙はあるし、
蕎麦屋でも、
鮨屋でも気に向いたら一口、こんな
懐中合も近来めったにない事だし、ぶらぶら歩いて来ましたところが、――ここの前さ、お前さん、」
と低いが壁天井に、目を上げつつ、
「角海老に似ていましょう、時計台のあった頃の、……ちょっと、当世ビルジングの御前様に対して、こういっては相済まないけども。……
熟と
天頂の方を見ていますとね、さあ、……五階かしら、屋の棟に近い窓に、女の姿が見えました。部屋着に、伊達巻といった風で、いい、おいらんだ。……
串戯じゃない。今時そんな間違いがあるものか。それとも、おさらいの看板が見えるから、
衣裳をつけた踊子が涼んでいるのかも分らない、入って見ようと。」
「ああ、それで……」
「でござんさあね。さあ、上っても上っても。……私も
可厭になってしまいましてね。とんとんと
裏階子を駆下りるほど、要害に
馴れていませんから、うろうろ気味で下りて来ると、はじめて、あなた、たった一人。」
「だれか、人が。」
「それが、あなた、こっちが
極りの悪いほど、雪のように白い、後姿でもって、さっきのおいらんを、
丸剥にしたようなのが、廊下にぼんやりと、少し遠見に……おや! おさらいのあとで、お湯に入る……ッてこれが、あまりないことさ。おまけに高尾のうまれ土地だところで、野州塩原の温泉じゃないけども、段々の谷底に風呂場でもあるのかしら。ぼんやりと見てる間に、扉だか部屋だかへ消えてしまいましたがね。」
「どこのです。」
「ここの。」
「ええ。」
「それとも
隣室だったかしら。何しろ、私も見た時はぼんやりしてさ、だから、下に居なすった、お前さんの姿が、その女が脱いで置いた
衣ものぐらいの場所にありましてね。」
信也氏は思わず
内端に袖を払った。
「見た時は、もっとも、気もぼっとしましたから。今思うと、――ぞっこん、これが、目にしみついていますから、私が
背負っている……雪おんな……」
(や、浜町の
夜更の雨に――
……雪おんな……
唄いさして、ふと消えた。……)
「?……雪おんな。」
「ここに背負っておりますわ。それに
実に、見事な絵でござんすわ。」
と、肩に
斜なその紫包を、胸でといた端もきれいに、片手で捧げた
肱に
靡いて、
衣紋も
褄も
整然とした。
「絵ですか、……誰の絵なんです。」
「あら、御存じない?……あなた、鴾先生のじゃありませんか。」
「ええ、鴾君が、いつね、その絵を。」
(いままだ、銀座裏で飲んでいよう、すました顔して、すくすくと
銚子の数を並べて。)
「つい近頃だと言いますよ。それも、わけがありましてね、私が今夜、――その酒場へ、槍、鉄棒で押掛けたといいました。やっぱりその事でおかきなすったんだけれどもね。まあ、お目にかけますわ……お待なさい。ここは、廊下で、途中だし、下へ出た処で、往来と……ああ、ちょっとこの部屋へ入りましょうか。」
「名札はかかっていないけれど、いいかな。」
「あき
店さ、お前さん、
田畝の
葦簾張だ。」
と云った。
「ぬしがあっても、夜の旅じゃ、休むものに
極っていますよ。」
「しかし、なかに、どんなものか置いてでもあると、それだとね。」
「御本尊のいらっしゃる、堂、
祠へだって入りましょう。……人間同士、構やしません。いえ、そこどころじゃあない、私は野宿をしましてね、変だとも、おかしいとも、何とも言いようのない、ほほほ、男の何を飾った処へ、のたれ込んだ事がありますわ。野中のお堂さ、お前さん。……それから見りゃ、――おや開かない、鍵が
掛っていますかね、この扉は。」
「無論だろうね。」
「
圧してみて下さい。開きません? ああ、そうね、あなたがなすって
[#「なすって」は底本では「なすつて」]は御身分がら……お待ちなさいよ、おつな
呪禁がありますから。」
懐紙を器用に裂くと、端を
捻り、頭を
抓んで、
「てるてる坊さん、ほほほ。」
すぼけた
小鮹が、扉の鍵穴に、指で踊った。
「いけないね、坊さん一人じゃあ足りないかね。そら、もう一人、出ました。また一人、もう一人。これじゃ長屋の井戸替だ。あかないかね。そんな筈はないんだけれど、――雨をお天気にする力があるなら、掛けた鍵なぞわけなしじゃあないか。しっかりおしよ。」
ぽんと、丸めた紙の頭を順にたたくと、手だか足だか、ふらふらふらと
刎ねる拍子に、何だか、けばだった処が口に見えて、
尖って、
目皺で笑って、揃って騒ぐ。
「いえね、お前さん出来るわけがありますの。……その野宿で倒れた時さ――当にして行った仙台の人が、青森へ住替えたというので、取りつく島からまた流れて、なけなしの汽車のお代。盛岡とかいう処で、ふっと気がつくと、紙入がない、切符がなし。まさか、風体を
視たって箱仕事もしますまい。間抜けで落したと気がつくと、鉄道へ申し訳がありません。どうせ、恐入るものをさ、あとで気がつけば青森へ着いてからでも
御沙汰は同じだものを、ちっとでも里数の少い方がお
詫がしいいだろうでもって、馬鹿さが
堪らない。お前さん、あたふた、次の駅で下りましたがね。あわてついでに改札口だか、何だか、ふらふらと出ますとね、停車場も汽車も居なくなって、町でしょう、もう日が、とっぷり暮れている。夜道の落人、ありがたい、網の目を抜けたと思いましたが、さあ、それでも追手が
掛りそうで、恐い事――つかまったって、それだけだものを、大した御法でも背いたようでね。ええ、だもんだから、腹がすけば、ぼろ
撥一
挺なくっても口三味線で門附けをしかねない図々しい度胸なのが、すたすたもので、町も、村も、ただ人気のない処と
遁げましたわ、知らぬ他国の奥州くんだり、東西も
弁えない、心細い、
畷道。赤い月は、野末に一つ、あるけれど、もと末も分らない、雲を落ちた水のような
畝った道を、とぼついて、堪らなくなって――辻堂へ、
路傍の
芒を分けても、手に露もかかりません。いきれの強い残暑のみぎり。
まあ、のめり込んだ御堂の中に、月にぼやっと菅笠ほどの影が出来て、大きな
梟――また、あっちの森にも、こっちの林にも鳴いていました――その梟が、
顱巻をしたような、それですよ。……祭った怪しい、御本体は。――
この私だから度胸を据えて、
褌が
紅でないばかり、おかめが
背負ったように、のめっていますと、(姉さん一緒においで。――)そういって、堂のわきの茂りの中から、大方、
在方の枝道を伝って出たと見えます。うす青い
縞の浴衣だか
単衣だか、へこ帯のちょい結びで、
頬被をしたのが、菅笠をね、
被らずに、お前さん、背中へ掛けて、小さな風呂敷包みがその下にあるらしい……から
脛の色の白いのが素足に
草鞋ばきで、竹の杖を身軽について、すっと出て来てさ、お前さん。」
お妻は、踊の棒に手をかけたが、
「……実は、夜食をとりはぐって、こっちも腹がすいて堪らない。堂にお供物の赤飯でもありはしないか、とそう思って
覗いて、お前を見たんだ、女じゃ食われない、食いもしようが
可哀相だ、といって笑うのが、まだ三十前、いいえ二十六七とも見える若い人。もう少し辛抱おしと、話しながら四五町、土橋を渡って、
榎と柳で暗くなると、
家があります。その
取着らしいのの表戸を、きしきし、その若い人がやるけれど、開きますまい、あきません。その時さ、お前さんちょっと捜して、
藁すべを一本見つけて。」
お妻は懐紙の坊さん(その
言に従う)を一人、指につまんでいった。あと連は、
掌の中に、こそこそ縮まる。
「それでね、あなた、そら、かなの、※
[#「耳」を崩した変体仮名「に」、136-11]形の、その字の上を、まるいように、ひょいと結んで、(お開け、お開け。)と言いますとね。」
信也氏はその顔を
瞻って、黙然として聞いたというのである。
「――苦もなく開いたわ。お前さん、中は土間で、腰掛なんか、台があって……
一膳めし屋というのが、腰障子の字にも見えるほど、黒い森を、柳すかしに、青く、くぐって、月あかりが、水で一
漉し漉したように映ります。
目も夜鳥ぐらい光ると見えて、すぐにね、あなた、丼、小鉢、お
櫃を抱えて、――軒下へ、棚から落したように並べて、ね、蚊を払い(おお、飯はからだ。)(お
菜漬だけでも、)私もそこへ取着きましたが、きざみ
昆布、雁もどき、
鰊、焼豆府……皆、ぷんとむれ臭い。(よした、よした、
大餒えに餒えている。この
温気だと、命仕事だ。)(あなたや……私はもう我慢が出来ない、お酒はどう。)……ねえ、お前さん。――
(酒はいけない。
飢い時の飯粒は、天道もお目こぼし、姉さんが改札口で見つからなかったも同じだが、酒となると恐多い……)と素早いこと、さっさ、と片づけて、さ、もう一のし。
今度はね、大百姓……古い農家の玄関なし……土間の広い処へ入りましたがね、若い人の、ぴったり戸口へ寄った工合で、鍵のかかっていないことは分っています。こんな蒸暑さでも心得は心得で、縁も、戸口も、雨戸はぴったり閉っていましたが、そこは古い農家だけに、節穴だらけ、だから、
覗くと、よく見えました。土間の向うの、
大い炉のまわりに女が三人、男が六人、ごろんごろん寝ているのが。
若い人が、鼻紙を、と云って、私のを――そこらから拾って来た、いくらもあります、農家だから。――藁すべで、
前刻のような人形を九つ、お前さん、――そこで、その懐紙を、引裂いて、ちょっと
包めた分が、白くなるから、妙に三人の女に見えるじゃありませんか。
敷居際へ、――炉端のようなおなじ
恰好に、ごろんと順に寝かして、三度ばかり、上から
掌で
俯向けに
撫でたと思うと、もう楽なもの。
若い人が、ずかずか入って、寝ている人間の、
裾だって
枕許だって、構やしません。大まかに掻捜して、御飯、お香こう、お茶の土瓶まで……目刺を串ごと。旧の盆過ぎで、
苧殻がまだ沢山あるのを、へし折って、まあ、戸を開放しのまま、敷居際、燃しつけて焼くんだもの、呆れました。(
門火、門火。)なんのと、
呑気なもので、(酒だと
燗だが、こいつは
死人焼だ。このしろでなくて仕合せ、お給仕をしようか。)……がつがつ私が食べるうちに、若い女が、一人、炉端で、うむと胸も裾もあけはだけで起上りました。あなた、その時、火の誘った夜風で、白い小さな人形がむくりと立ったじゃありませんか。ぽんと若い人が、その人形をもろに倒すと、むこうで、ばったり、今度は、うつむけにまた寝ました。
驚きましたわ。藁を
捻ったような人形でさえ、そんな
業をするんだもの。……活きたものは、いざとなると、どんな事をしようも知れない、
可恐いようね、ええ?……――もう
行ってる、
寝込の御飯をさらって死人焼で目刺を――だって、ほほほ、まあ、そうね……
いえね、それについて、お前さん――あなたの前だけども、お友だちの奥さん、京千代さんは、半玉の時分、それはいけずの、いたずらでね、なかの妹(お民をいう)は、お人形をあつかえばって、
屏風を立てて、友染の
掻巻でおねんねさせたり、枕を二つならべたり、だったけれど、京千代と来たら、玉乗りに凝ってるから、
片端から、
姉様も殿様も、
紅い糸や、太白で、ちょっとかがって、大小
護謨毬にのッけて、ジャズ騒ぎさ、――今でいえば。
主婦に大目玉をくった事があるんだけれど、
弥生は里の
雛遊び……は
常磐津か何かのもんくだっけ。お雛様を飾った時、……五人
囃子を、毬にくッつけて、ぽんぽんぽん、ころん、くるくるなんだもの。
ところがね、真夜中さ。いいえ、二人はお座敷へ行っている……こっちはお茶がちだから、お節句だというのに、三人のいつもの部屋で寝ました処、枕許が
賑かだから、船底を傾けて見ますとね、枕許を走ってる、長い黒髪の、白いきものが、球に乗って、……くるりと廻ったり、うしろへ反ったり、前へ
辷ったり、あら、大きな蝶が、いくつも、いくつも
雪洞の火を
啣えて踊る、ちらちら紅い
袴が、と
吃驚すると、お囃子が雛壇で、目だの、鼓の手、笛の口が動くと思うと、ああ、遠い高い処、空の座敷で、イヤアと冴えて、太鼓の掛声、それが聞覚えた、京千代ちい
姐。
……ものの形をしたものは、こわいように、生きていますわね。
――やがてだわね、大きな樹の下の、
畷から入口の、牛小屋だが、
厩だかで、がたんがたん、騒しい音がしました。すっと立って若い人が、その方へ行きましたっけ。もう返った時は、ひっそり。
苧殻の
燃さし、藁の人形を揃えて、くべて、逆縁ながらと、土瓶をしたんで、ざあ、ちゅうと皆消えると、夜あらしが、
颯と吹いて、月が
真暗になって、しんとする。(行きましょう、行きましょう。)ぞっと私は
凄くなって、若い人の袖を
引張って、見はるかしの田畝道へ。……ほっとして、
(聞かして下さいまし、どんなお方)。
(私か。)
(あなた。)
(森の祠の、
金勢明神。)
(…………)
(男の勢だ。)
(キャア。)
話に聞いた
振袖新造が――台のものあらしといって、大びけ過ぎに女郎屋の廊下へ出ましたと――狸に抱かれたような声を出して、夢中で小一町駆出しましたが、振向いても、立って待っても、影も形も見えません、もう朝もやが白んで来ました。
それなの、あなた、ただいま行いました、小さなこの人形たちは。」
掌にのせた紙入形を
凝とためて、
「
人数が足りないかしら、もっとも九ツ坊さんと来りゃあ、恋も
呪もしますからね。」
で、口を手つだわせて、手さきで
扱いて、
懐紙を、
蚕を引出すように数を
殖すと、九つのあたまが揃って、黒い扉の鍵穴へ、手足がもじゃ、もじゃ、と動く。……信也氏は脇の下をすくめて、身ぶるいした。
「だ……」
がっかりして、
「めね……ちょっと……お待ちなさいよ。」
信也氏が口をきく間もなく、
「私じゃ術がきかないんだよ。こんな時だ。」
何をする。
風呂敷を解いた。見ると、絵筒である。お妻が
蓋を抜きながら、
「雪おんなさん。」
「…………」
「あなたがいい、おばけだから、出入りは自由だわ。」
するすると早や絹地を、たちまち、水晶の五輪塔を、月影の梨の花が包んだような、扉に白く絵の姿を半ば映した。
「そりゃ、いけなかろう、お妻さん。」
鴾の作品の扱い方をとがめたのではない、お妻の
迷をいたわって、悟そうとしたのである。
「いいえ、浅草の絵馬の馬も、草を食べたというじゃありませんか。お京さんの旦那だから、
身贔屓をするんじゃあないけれど、あれだけ有名な方の絵が、このくらいな事が出来なくっちゃ。」
絵絹に、その面影が
朦朧と映ると見る間に、押した扉が、ツトおのずから、はずみにお妻の形を吸った。
「ああ、
吃驚、でもよかった。」
と、
室の中から、
「そら、御覧なさい、さあ、あなたも。」
どうも、あけ方が約束に背いたので、はじめから、鍵はかかっていなかったらしい。ただ信也氏が手を掛けて試みなかったのは、他に
責を転じたのではない。
空室らしい事は分っていたから。しかし、その、あえてする事をためらったのは、
卑怯ともいえ、消極的な道徳、いや礼儀であった。
つい信也氏も誘われた。
する事も、いう事も、かりそめながら、懐紙の九ツの坊さんで、力およばず、うつくしいばけものの、雪おんな、雪女郎の、……手も袖もまだ見ない、
膚であいた
室である。
一室――ここへ入ってからの第二の……第三の
妖は……………………
昭和八(一九三三)年七月