薄紅梅

泉鏡花




       一

 麹町こうじまち九段――中坂なかざかは、武蔵鐙むさしあぶみ江戸砂子えどすなご惣鹿子そうかのこ等によれば、いや、そんな事はどうでもいい。このあたりこそ、明治時代文芸発程の名地である。かつて文壇の梁山泊りょうざんぱくと称えられた硯友社けんゆうしゃ、その星座の各員が陣を構え、塞頭さいとう高らかに、我楽多文庫がらくたぶんこの旗をひるがえした、編輯所へんしゅうじょがあって、心織筆耕の花を咲かせ、あやなす霞を靉靆たなびかせた。
 若手の作者よ、小説家よ!……天晴あっぱれ、と一つあおいでやろうと、扇子を片手に、当時文界の老将軍――佐久良さくら藩の碩儒せきじゅで、むかし江戸のお留守居と聞けば、武辺、文道、両達の依田よだ学海翁が、ある夏土用の日盛ひざかりの事……生平きびらの揚羽蝶の漆紋に、はかま着用、大刀がわりの杖を片手に、芝居の意休を一ゆがきして洒然さっぱり灰汁あくを抜いたような、白いひげを、さわやかしごきながら、これ、はじめての見参。……
「頼む。」
 があいにく玄関も何もない。扇を腰に、がたがたと格子を開けると、汚い二階家の、上も下も、がらんとして、ジイと、ただ、招魂社辺の蝉の声が遠く沁込しみこむ、明放しの三間ばかり。人影も見えないのは、演義三国誌常套手段おきまりの、城門に敵をあざむく計略。そこは先生、武辺者だから、身構えしつつ、土間取附とっつきの急な階子段はしごだんきっと仰いで、大音に、
「頼もう!」
 人の気勢けはいもない。
「頼もう。」
 途端に奇なる声あり。
「ダカレケダカ、ダカレケダカ。」
 そのおん、まことに不気味にして、化猫が、抱かれたい、抱かれたい、と天井裏で鳴くように聞える。坂下の酒屋の小僧なら、そのまま腰を抜かす処を、学海先生、杖の手に気を入れて、再び大音に、
「頼む。」
「ダカレケダカ、と云ってるじゃあないか。へん、野暮め。」
「頼もう。」
「そいつも、一つ、タカノコモコ、と願いたいよ。……何しろ、米八よねはち仇吉あだきちの声じゃないな。彼女等きゃつらには梅柳というのがしゅんだ。夏やせをするたちだから、今頃は出あるかねえ。」
「頼むと申す……」
「何ものだ。」
 と、いきなり段の口へ、青天の雷神かみなりめったように這身はいみで大きな頭を出したのは、虎の皮でない、木綿越中の素裸すっぱだか――ちょっと今時の夫人、令嬢がたのために註しよう――唄に……
……どうすりゃ添われる縁じゃやら、じれったいね……
 というのがある。――恋は思案のほか――という折紙附の格言がある。よってもって、自から称した、すなわちこれ、自劣亭じれってい思案外史である。大学中途の秀才にして、のぼせを下げる三分刈の巨頭は、入道の名にうたわれ、かつは、硯友社の彦左衛門、と自から任じ、人も許して、夜討朝駆に寸分の油断のない、血気ざかりの早具足なのが、昼寝時の不意討に、蠅叩はえたたきもとりあえず、ひたと向合った下土間の白い髯を、あべこべに、炎天九十度の物干から、僧正坊がのぞいたか、と驚いた、という話がある。

       二

 おなじ人が、金三円ばかりなり、我楽多文庫売上の暮近い集金の天保銭……世に当百ときこえた、小判形が集まったのを、引攫ひっさらって、目ざす吉原、全盛の北のくるわへ討入るのに、しころの数ではないけれども、十枚で八銭だから、員数およそ四百枚、たもと懐中ふところ、こいつは持てない。辻俥つじぐるま蹴込けこみへ、ドンと積んで、山塞さんさいの中坂を乗下ろし、三崎ちょうの原を切って、水道橋から壱岐殿坂いきどのざかへ、ありゃありゃと、俥夫くるまやと矢声を合わせ、切通きりどおしあたりになると、社中随一のハイカラで、鼻めがねを掛けている、ちゅう山高、洋服の小説家に、天保銭のはねが生えた、緡束さしたばを両手に、二筋振って、きおいで左右へさばいた形は、空を飛んでけるがごとし。不忍池しのばずのいけを左に、三枚橋、山下、入谷いりやを一のしに、土手へ飛んだ。……当時の事の趣も、ほうけた鼓草たんぽぽのように、散って、残っている。
 近頃の新聞の三面、連日に、偸盗ちゅうとう邪淫じゃいん、殺傷の記事を読む方々に、こんな事は、話どころか、夢だとも思われまい。時世は移った。……
 ところで、天保銭吉原の飛行ひぎょうより、時代はずっと新しい。――ここへ点出しようというのは、くだんの中坂下から、飯田町どおりを、三崎町の原へ大斜めにく場所である。が、あの辺は家々の庭背戸が相応に広く、板塀、裏木戸、生垣の幾曲り、で、根岸の里の雪のの花、水の紫陽花あじさいの風情はないが、木瓜ぼけ、山吹の覗かれる窪地の屋敷町で、そのどこからも、駿河台するがだいの濃い樹立の下に、和仏英女学校というのの壁の色が、こがらしの吹く日も、暖かそうに霞んで見えて、裏表、露地の処々ところどころから、三崎座の女芝居の景気のぼりが、あかね浅黄あさぎ、青く、白く、また曇ったり、濁ったり、その日の天気、時々の空の色に、ひらひらと風次第になびくが見えたし、場処によると――あすこがもう水道橋――三崎稲荷いなりの朱の鳥居が、物干場の草原だの、浅蜊あさりしじみの貝殻の棄てたも交る、空地を通して、その名の岬に立ったように、土手の松に並んで見通された。
 ……と見て通ると、すぐもう広い原で、屋敷町の屋敷を離れた、家並やなみになる。まだ、ほんの新開地で。
 そこいらに、小川という写真屋の西洋館が一つ目立った。隣地の町角に、平屋だての小料理屋の、夏は氷店こおりみせになりそうなのがあるのと、通りを隔てた一方の角の二階屋に、お泊宿の軒行燈のきあんどんが見える。
 お泊宿から、水道橋の方へ軒続きの長屋の中に、小さな貸本屋の店があって……お伽堂とぎどう……びら同然のざつな額が掛けてある。
 お伽堂――少々気になる。なぜというに、仕入ものの、おとしの浅い箱火鉢の前に、二十六七の、色白で、ぽっとりした……生際はちっと薄いが、桃色の手柄の丸髷まるまげで、何だか、はれぼったい、まぶたをほんのりと、ほかほかする小春日の日当りに表を張って、客欲しそうに坐っているから。……
 羽織も、着ものも、おさすりらしいが、やわらかずくめで、前垂まえだれの膝も、しんなりとやわらかい。……その癖半襟を、あごすばかり包ましく、胸の紐の結びめの深い陰から、色めく浅黄の背負上しょいあげが流れたようにこぼれている。解けば濡れますが、はい、身はかたくめて包んで置きます、といった風容ふう。……これを少々気にしたが悪いだろうか……お伽堂の店番を。

       三

 何、別に仔細しさいはない。客引に使った中年増でもなければ、手軽なめかけが世間体を繕っているのでもない。お伽堂というのは、この女房の名の、おときをちょっとなまったので。――勿論亭主の好みである。
 つい近頃、北陸の城下町から稼ぎに出て来た。商売往来の中でも、横町へそれた貸本屋だが、亭主が、いや、役人上りだから主人といおう、県庁に勤めた頃、一切猟具を用いず、むずと羽掻はがいをしめて、年紀としは娘にしていい、甘温、脆膏ぜいこう胸白むなじろのこのかもを貪食した果報ものである、と聞く。が、いささか果報焼けの気味で内臓を損じた。勤労に堪えない。静養かたがた女で間に合う家業でつないで、そのうち一株ありつく算段で、お伽堂の額を掛けたのだそうである。
 開業当初のっけに、僥倖ぎょうこうにも、素晴らしい利得もうけがあった。
「こちらじゃ貸すばかりで、買わないですか。」
 学生が一人、のっそり立ち、洋書を五六冊引抱ひんだいて突立つッたったものである。
「は、おいで遊ばしまし。」
 と、丁寧に、三指もどきのお辞儀をして、
「あの、もしえ。」
 と初々ういういしいほど細い声を掛けると、茶の間の悪く暗い戸棚の前で、その何かしら――内臓病者補壮の食はまだ考えない、むぐむぐ頬張っていた士族はげ胡麻塩ごましおで、ぶくりと黄色い大面おおづらのちょんびり眉が、女房の古らしい、汚れた※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチを首に巻いたのが、鼠色の兵子帯へこおびで、ヌーと出ると、ひねってもねじっても、めじりと一所に垂れ下る髯の尖端とっさきを、グイとみ、
「おいでい。」
 と太い声で、右の洋冊ようしょを横縦に。その鉄壺眼かなつぼまなこで……無論読めない。貫目を引きつつ、膝のめりやすを溢出はみださせて、
「まるで、こりゃ値になりませんぞ。」
 原著者は驚いたろう。
「しかし買うとして、いくらですか。」
 ――途方もない値をつけた。つけられた方は、呆れるより、いきなりなぐるべき蹴倒し方だったが、かたわらに、ほんのりしている丸髷まげゆえか、主人の錆びたびょうのような眼色めつき恐怖おそれをなしたか、気の毒な学生は、端銭はした衣兜かくし捻込ねじこんだ。――三日目に、仕入の約二十倍に売れたという
 味をしめて、古本を買込むので、床板を張出して、貸本のほかに、そのあきないをはじめたのはいいとして、手馴てなれぬ事の悲しさは、花客とくいのほかに、掻払かっぱらい抜取りの外道げどうがあるのに心づかない。毎日のようにさらわれる。一度の、どか利得もうけが大穴になって、丸髷だけでは店が危い。つい台所用に女房が立ったあとへは、鋲の目が出て髯を揉むと、「高利貸あいすが居るぜ。」とか云って、貸本の素見ひやかしまでが遠ざかる。当り触り、世渡よわたりむずかしい。が近頃では、女房も見張りに馴れたし、亭主も段々古本市だの場末の同業を狙って、掘出しに精々出あるく。
 ――い天気の、この日も、午飯ひるすぎると、日向ひなたに古足袋のほこりを立てて店を出たが、ひょこりと軒下へ、あと戻り。
「忘れものですか。」
「うふふ、丸髷まげども、よう出来たたい。」
「いやらし。」
 と顔をそらしながら、若い女房の、犠牲いけにえらしいあわれなこびで、わざと濡色のたぼを見せる。
「うふふ。」と鳥打帽のこうべすくめて、少し猫背で、水道橋の方へ出向いたあとで。……

       四

 遅い午餉ひるだったから、もう二時下り。亭主の出たあと、女房はぜんの上で温茶ぬるちゃを含んで、干ものの残りに皿をかぶせ、余った煮豆にふたをして、あと片附は晩飯ばんと一所。で、拭布ふきんを掛けたなり台所へ突出すと、押入続きに腰窓が低い、上の棚に立掛けた小さな姿見で、顔を映して、襟を、もう一息掻合わせ、ちょっと縮れて癖はあるが、髪結かみゆいも世辞ばかりでない、似合った丸髷まるまげで、さて店へ出た段取だったが……
 ――遠くの橋を牛車うしぐるまでも通るように、かたんかたんと、三崎座の昼芝居の、つけを打つのが合間に聞え、はやしの音がシャラシャラと路地裏の大溝おおどぶへ響く。……
 裏長屋のかみさんが、三河島の菜漬を目笊めざるで買いに出るにはまだ早い。そういえば裁縫おはりの師匠の内の小女こおんなが、たったいま一軒隣の芋屋から前垂まえだれで盆を包んで、裏へ入ったきり、日和のおもてに人通りがほとんどない。
 真向うは空地だし、町中は原のなごりをそのまま、窪地のあちこちには、草生くさはえがむらむらと、尾花は見えぬが、猫じゃらしが、小糠虫こぬかむしを、穂でじゃれて、逃水ならぬ日脚ひあしながれが暖くよどんでいる。
 例の写真館と隣合う、向うななめの小料理屋の小座敷の庭が、破れた生垣を透いて、うら枯れた朝顔の鉢が五つ六つ、中には転ったのもあって、葉がもう黒く、鶏頭ばかり根の土にまで日当りの色を染めた空を、スッスッと赤蜻蛉あかとんぼが飛んでいる。軒前のきさきに、不精たらしい釣荵つりしのぶがまだかかって、露も玉も干乾ひからびて、蛙の干物のようなのが、化けて歌でも詠みはしないか、赤い短冊がついていて、しばしば雨風をくらったと見え、摺切すりきれ加減に、小さくなったのが、フトこっち向に、舌を出した形に見える。……ふざけて、とぼけて、その癖何だか小憎らしい。
 立寄る客なく、通りも途絶えた所在なさに、何心なく、じっと見た若い女房が、遠く向うから、その舌で、頬を触るように思われたので、むずむずして、顔を振ると、短冊が軽く揺れる。あごで突きやると、向うへ動き、襟を引くと、ふわふわと襟へついて来る。……
「……まあ……」
 二三度やって見ると、どうも、顔の動くとおりに動く。
 頬のあたりがうそがゆい……女房はくすぐったくなったのである。
 袖で頬をこすって、
「いやね。」
 ツイと横を向きながら、おかしく、流盻ながしめそっくと、今度は、短冊の方からあごでしゃくる。顎ではない、舌である。細く長いその舌である。
 いかに、短冊としては、詩歌に俳句に、繍口錦心しゅうこうきんしんの節を持すべきが、かくて、品性を堕落し、威容を失墜したのである。
 が、じれったそうな女房は、上気した顔を向け直して、あれしょうの、少し乾いた唇でなぶるうち――どうせ亭主にうしろ向きに、今もまげめられた時に出した舌だ――すぼめ口に吸って、濡々とくちした。
 ――こういう時は、南京豆ほどの魔がおどるものと見える。――
 パッと消えるようであった、日の光に濃く白かった写真館の二階の硝子窓がらすまどを開けて、青黒い顔の長い男が、中折帽をかぶったまま、戸外おもてへ口をあけて、ぺろりと唇をめたのとほとんど同時であったから、窓と、店とで思わず舌の合った形になる。
 女房は真うつむけに突伏つッぷした、と思うと、ついと立って、茶の間へげた。着崩れがしたと見え、つまよじれて足くびが白く出た。

       五

「ごめんなさい。」
 返事を、引込ひっこめた舌のさきで丸めて、だんまりのまま、若い女房が、すぐ店へ出ると……文金の高島田、銀の平打ひらうち高彫たかぼり菊簪きくかんざし。十九ばかりの品のあるお嬢さんが、しっとり寂しいほど、着痩きやせのした、しまお召に、ゆうぜんの襲着かさねぎして、藍地あいじ糸錦の丸帯。ひわくちがちょっと触ってもかすか菫色すみれいろあざになりそうな白玉椿の清らかに優しい片頬を、水紅色ときいろの絹※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチでおさえたが、かつ桔梗ききょう紫に雁金かりがねを銀で刺繍ぬいとりした半襟で、妙齢としごろの髪のつやに月の影の冴えを見せ、うつむき加減のあぎとの雪。雪のすぐあとへは惜しいほど、黒塗の吾妻下駄あずまげたで、軒かげにななめに立った。
 実は、コトコトとその駒下駄の音を立てて店前みせさきへ近づくのに、ほっそさばいた褄から、山茶花さざんかの模様のちらちらと咲くのが、早く茶の間口から若い女房の目には映ったのであった。

 作者が――いたくないことだけれど、その……年暮くれの稼ぎに、ここに働いている時も、昼すぎ三時頃――、ちょうど、小雨の晴れた薄靄うすもやに包まれて、向うやしきあかい山茶花がのぞかれる、銀杏いちょうの葉の真黄色まっきいろなのが、ひらひらと散って来る、お嬢さんの肌についた、ゆうぜんさながらの風情も可懐なつかしい、として、文金だの、平打だの、見惚みとれたように呆然ぽかんとして、現在の三崎町…あの辺町あたりの様子を、まるで忘れていたのでは、相済むまい。
 ――場所によると、震災後の、まだ焼原やけのはら同然で、この貸本屋の裏の溝が流れ込んだはずの横川などは跡も見えない。古跡のつもりで、あらかじめ一度見て歩行あるいた。ひょろひょろものの作者ごときは、外套がいとうを着た蟻のようで、電車と自動車が大昆虫のごとく跳梁奔馳ちょうりょうほんちする。瓦礫がれき烟塵えんじん、混濁のちまたに面した、その中へ、小春の陽炎かげろうとともに、貸本屋の店頭みせさきへ、こうした娘姿を映出すのは――何とか区、何とか町、何とか様ア――と、大入の劇場から女の声の拡声器で、木戸口へ呼出すように楽にはかない。なかなかもって、アテナ洋墨インキや、日用品の唐墨の、筆、ペンなどでは追っつきそうに思われぬ。彫るにも刻むにも、すきくわだ。
 さあ、持って来い、鋤と鍬だ。
 これだと、勢い汗あぶらの力作とかいう事にもなって、外聞がい。第一、時節がら一般の気うけがかろう。
 鋤と鍬だ、と痩腕で、たちまち息ぜわしく、つい汗になる処から――山はもう雪だというのに、この第一回には、素裸の思案入道殿をさえ煩わした。
 が、再び思うに、むやみと得物えものを振廻しては、れない事なり、耕耘こううんの武器で、文金に怪我をさせそうで危かしい。
 またひるがえって、お嬢さんの出のあたりは――何をいうのだ――かながきの筆でく。
「あの……此店こちらに……」
 若い女房が顔を見ると、いま小刻みに、長襦袢ながじゅばんの色か、下着の褄か、はらはらと散りつつ急いで入った、息づかいが胸に動いて、頬の※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチが少し揺れて、
「辻町、糸七の――『たそがれ』――というのがおありになって。」
 と云った。
「おいで遊ばせ。」
 と若い女房、おくれせの挨拶をゆっくりして、
「ございますの。……ですけれど、まとまりました一冊本ではありません……あの、雑誌の中に交って出ていますのでして。」
「ええ、そうですよ。」
 と水紅色の半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)がまたゆれる。

       六

「ちょいちょい、お借り下さる方がございまして、よく出ますから。……唯今ただいま見ますけれど。」
 女房は片膝立ちに腰を浮かしながら能書のうがきをいう。
「……私も読みたい読みたいと存じながら、商売もので、つい慾張よくばりまして、ほほほ、お貸し申します方が先へ立ちますけれど。……何ですか、お女郎の心中ものだとか申しますのね。」
「そうですって。……『たそがれ』……というのが、その娼妓しょうぎ――遊女おいらんの名だって事です。」
 と、りんとしたまなじりの目もきっぱりと言った。簪の白菊も冷いばかり、清く澄んだ頬が白い。心中にも女郎にも驚いた容子ようすが見えぬ。もっともこのくらいな事を気にしては、清元も、長唄も、文句だって読めなかろうし、早い話が芝居の軒もくぐれまい。が、うっかり小説の筋をらして、面と向ったから、女房が却ってまぶたを染めた。
 棚から一冊抜取ると、坐り直して、売りものに花だろう、前垂に据えて、その縮緬ちりめんしまでない、厚紙の表紙をでた。
「どうぞ、お掛けなさいまして、まあ、どうぞ。」
 はなからその気であったらしい、お嬢さんはかまちへ掛けるのを猶予ためらわなかった。帯の錦はたかい、が、膝もすんなりと、着流しの肩が細い。
「ちょうどいい処で、あの、ゆうべお客様から返ったばかりでございますの。それも書生さんや、職人衆からではございませんの。」
 娘客の白い指の、指環ゆびわを捜すように目で追って、
「中坂下からいらっしゃいます、紫鹿子かのこのふっさりした、結綿ゆいわたのお娘ご、召した黄八丈なぞ、それがようお似合いなさいます。それで、おはかまで、すぐお茶の水の学生さんなんでございますって。」
「その方。……」
 女房の膝の方へは手も出さず、お嬢さんは、しとやかに、
「その作者が、贔屓ひいき?」
 と莞爾にっこりした。
 辻町糸七、よく聞けよ。
「は?……」
 貸本屋の客には今までほとんど例のない、ものの言葉に、一度聞返して、合点のみこんで、
「別にそうと限ったわけではございません。何でもよくお読みになりますの。でも、その、ゆうべおいでなさいました時、「たそがれ。――いいのね。」とおっしゃいます。……晩方でございましょう。変に暗くて気味が悪し、心細し、といいますうちにも、立込みまして、せわしくって不可いけませんと申しましたら、お笑いなさいましたんでございます。長屋世帯はすぐそれですから、ほほほ。小説の題の事だったのでございますもの。大好きな女の名でいらっしゃるんですって。……田舎源氏、とかにもありますそうです。その時、京の五条とか三条あたりとかの暮方の、草の垣根に、雪白な花の、あわれに咲いたお話をききましたら、そのいやな入相いりあいが、ほんのりと、夕顔ほどに明るく、白くなりましてございましてね。」
 女房は、ふと気がさしたか、町通りの向う角へ顔を向けた、短冊の舌は知らん顔で、鶏頭が笑っている。写真館の硝子窓はしずかに白い日を吸って。……
「……古寺の事もうかがいました。清元にございますってね。……ところどころ、あの、ほんとうに身にみますようですから、そのお娘ごにおねだりして、少しばかり、巻紙の端へ。――あ、そうそう、この本の中へ挟んで、――まあ、いい事をいたしました。大事にしまって置こうと存じながら、つい、うっかりして、まあ、勿体ないこと。」
 と、軽く前髪へあてたのである。念のため『たそがれ』の作者に言おう。これは糸七を頂いたのでは決してない。……

       七

「拝見な。」
「は、どうぞ。」
 雑誌にかぶせた表紙の上へ、巻紙を添えて出す、かな交りの優しいで、
――折しも月は、むら雲に、影うす暗きをさいわいと、かたえに忍びてやりすごし、なおも人なき野中の細道、薄茅原すすきかやはら、押分け押分け、ここは何処いずこ白妙しろたえの、衣打つらんきぬたの声、かすかにきこえて、雁音かりがねも、遠く雲井に鳴交わし、風すこし打吹きたるに、月皎々こうこうと照りながら、むら雨さっと降りいづれば――
 水茎の墨の色が、はらはらとお嬢さんの睫毛まつげを走った。一露瞼にうけたように、またたきして、
「すぐこのあとへ、しののめの鬼が出るんですのね、可恐こわいんですこと……。」
 目白からは聞えまい。三崎座だろう、釣鐘がボーンと鳴る。
 柳亭種彦のその文章を、そっと包むように巻戻しながら、指を添え、表紙を開くと、薄、茅原、花野を照らす月ながら、さっと、むら雨に濡色の、二人が水のりそうな、光氏みつうじと、黄昏たそがれと、玉なす桔梗ききょう、黒髪の女郎花おみなえしの、みすで抱合う、道行みちゆき姿の極彩色。
永洗えいせんですね、この口絵の綺麗だこと。」
「ええ、絵も評判でございます。……中坂の、そのお娘ごもおっしゃいました。その小説の『たそがれ』は、現代いまのおいらんなんだそうですけれど、作者だか、絵師えかきさんだかの工夫ですか、意匠こころつもりで、むかし風にあつらえたんでしょう、とおっしゃって、それに、雑誌にはいろいろの作が出ておりますけれど、一番はなへのっておりますから、そうやって一冊本の口絵のように……だそうなんでございますッて。」
結綿ゆいわたの、御容子ごようすのいい。」
 口絵から目を放さず、
「その方、いろいろな事を、ようごぞんじ……羨しいこと。表紙を別につけて、こうなされば、単行――一冊ものもおんなじようで、作者だって、どんなにか嬉しいでしょうよ。」
 その方、という、この方、もいろいろな事を、ようご存じ。……で、その結綿のかな文字を、女房の手に返すと、これがために貸本屋へ立寄ったろう、借りて行く心づもりに、口絵を伏せて、表紙をきちんと、じっと見た。
「あら。」
 と瞳をうつくしく、
「ちょいと、辻町糸七作、『たそがれ』――お書きになったのは、これは、どちらの、あのこちらの御主人。」
「飛んだ、とんだ、いいえ、飛んでもない。」
 と何を狼狽うろたえたか、女房はまた顔を赤くした。同時に、要するに、黄色く、むくんだ、亭主の鼻に、額が打着ぶつかったに相違ない。とにかく、中味が心中で、口絵の光氏とたそがれが目前めさきにある、ここへ亭主に出られては、しょげるより、かなしむより、周章あわ狼狽うろたえずにいられまい。
「飛んでもない、あなた。」
 と、息もせわしく、肩をんで、
「宅などが、あなた、大それた。」
 そうだろう、題字は颯爽さっそうとして、輝かしい。行と、かなと、珊瑚灑さんごそそぎ、碧樹へきじゅくしけずって、触るものもおのずから気を附けよう。厚紙の白さにまだ汚点しみのない、筆の姿は、雪に珠琳じゅりんよそおいであった。
「あの、どうも、勿体なくて、つけつけ申しますのも、いかがですけれど、小石川台町にお住居すまいのございます、上杉様、とおっしゃいます。」
「ええ、映山先生。」
 お嬢さんの珊瑚をちりばめた蒔絵まきえの櫛がうつむいた。

       八

「どういたしまして。お嬢様、お心易さを頂くなぞとは、失礼で、おもいもよりませんのでございますけれど。」
 この紙表紙の筆について、お嬢さんが、貸本屋として、先生と知己ちかづきのいわれを聞いたことはいうまでもなかろう。
「実は、あの、上杉先生の、多勢のお弟子さん方の。……あなたは、小説がおすきでいらっしゃいますのを、お見受け申しましたから……ご存じかも知れませんけれど、そのお一人の、糸七さんでございますが。」
「ええ。」
「実は――私ども、うまれが同じ国でございましてね、御懇意を願っておりますものですから。」
「ちっとも私……まあ、そうですか。」
「その御縁で、ついこの間、糸七さんと、もう一人おつれになって、神保町辺へ用達ようたしにおいでなさいましたお帰りがけ、ご散歩かたがた、「どうだい、新店は立行たちゆくかい。」と最初のっけから掛構かけかまいなくおっしゃって。――こちらは、それと聞きますと、お大名か、お殿様が御微行おしのびで、こんな破屋あばらやへ、と吃驚びっくりしましたのに、「何にもらない。南画のいわのようなカステーラや、べんべらものの羊羹なんか切んなさるなよ。」とお笑いなすって、ちょうど宅が。」
 また眉をひそめたが、
小工面こぐめんに貸本へ表紙をかぶせておりましたのをごらんなさいまして、――「辻町のやつ、まだ単行が出来ないんだ。一冊まとまったもののように、楽屋うちで祝ってやろう。筆を下さい。」――この硯箱すずりばこを。」
「ちょいと、一度これを。」
 と、お嬢さんは、硯箱を押させて、仲よしの押絵の羽子板のように胸へ当てていた『たそがれ』を、きちんと据えた。
「……「ひどい墨だな、あやしい茶人だと、これを鳥の子に包むんだ。」とおっしゃりながら、すらすらおしたためになったんでございますが、あの、筆をおとり遊ばしながら、「おんな遊女おいらんだ、というじゃないか。……(おん箸入はしいれ。)とかくようだ。中味は象牙ぞうげじゃあるまい。馬の骨だろう。」……何ですか、さも、おかしそうに。――そうしますと、糸七さんは、そのそばで、小さくなって。……」
 お嬢さんの唇のほころびた微笑ほほえみに、つい笑って、
「何の事ですか、私などには解りませんの、お嬢様は。」
「存じません。」
「あれ御承知らしくていらしって……お意地の悪い、ほほほ。」
「いいえ、知りません。中坂とかの、その結綿の方ならお解りでしょうね。……それよりか、『たそがれ』の作者の糸七――まあ、私、さっきから、……此店こちらとお知合とはちっとも知らないもんだから、……悪かったわねえ。糸七さん、ともいいませんでした。」
「いいえ、あなた、お客様は、誰方どなただって、作者の名を、さん附にはなさいません。格別、お好きな、中坂のその方だって、糸七、と呼びすてでございますの。ええ、そうでございますとも。この辺でごらんなさいまし。三崎座の女役者を、御贔負ごひいきは、皆呼びずてでございます。」
 言い得て女房、妙である。(おん箸入)の内容が馬の骨なら、言い得て特に妙である。が、当時梨園に擢出ぬきんでた、名優久女八くめはちは別として、三崎座なみはなさけない。場面を築地辺にとればまだしもであったと思う。けれども、三崎町が事実なのである。
「ほほほ、お呼びずての方が却ってお心易くって、――ああ、お茶を一つ。」
「おかみさん、ちょいと、あの、それより冷水おひやを。」
「冷水?」
「あの、ざぶざぶ、冷水で、この※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチを絞って下さいませんか。御無心ですが。私ね、実は、その町の曲角で、飛んだ気味の悪い事がありましてね。」

       九

「そこの旅宿やどやの角まで、飯田町の方から来ますとね、わたしくるまだったんですけれど、ほろかかっていましたのに、何ですか、なまぬるい、ぬめりと粘った、濡れたものが、こっちの、この耳の下から頬へ触ったんです。」
 水紅色ときいろ※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチが、今度は花弁はなびらのしぼむさまに白い指のさきで揺れた。
「あれ、と思って、手を当てても何にもないんです。」
「あの、此店こちらへおいでなさいました、今しがた……」
 女房は頬をすぼめ、眉を寄せて、
「……まあ。」
「慌てて俥をとめましてね、上も下も見ましたけれど、別に何にもないんです。でも、可厭いやらしく、変ににおうようで、気味が悪くって、気味が悪くって。無理にも、何でもお願いしてと思っても、旅宿やどやでしょう、料理屋ですもの、両方とも。……お店の看板が「かし本」と見えました時は、ほんとうに、地獄で……血の池で……はすの花を見たようでしたわ。いきなり冷水おひやを、とも言いかねましたけれど、そのうちに、永洗の、名もいいんですのね、『たそがれ』の島田に、むら雨のかかる処だの、上杉先生の、結構なお墨の色を見ましたら、実は、いくらかすっきりして来ましたんです。」
 珊瑚碧樹の水茎は、すずしく、その汚濁おじょくを洗ったのである。
「いつまでも、さっきのままですと、私はほんとうに、おいらんの心中ではないんですけど、死んでしまいたいほどでしたよ。」
 大袈裟おおげさなのを笑いもしない女房は、その路連みちづれ、半町此方てまえぐらいには同感であったらしい
「ええええお易い事。まあ、ごじょうだんをおっしゃって、そんなお人がらな半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)を。……唯今、お手拭てぬぐい。」
 茶のへ入るうしろから、
綿屑わたくずで結構よ。」
 手拭をさえ惜しんだのは、余程よっぽど身にみた不気味さに違いない。
 女房はきがけに、安手な京焼の赤湯呑を引攫ひっさらうと、ごぼごぼと、仰向あおむくまであらためてうがいをしたが、俥で来たのなどは見た事もない、大事なお花客とくいである。たしない買水を惜気なく使った。――そうして半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)を畳みながら、行儀よく膝に両の手を重ねて待ったお嬢さんに、顔へ当てるように、膝をのばしざまに差出した。
「ほんとうに、あなた、蟆子ぶよのたかりましたほどのあともございませんから、御安心遊ばせ。絞りかえて差上げましょう。――さようでございますか、フとしたお心持に、何か触ったのでございましょう。御気分は……」
「はい、おかげで。」
「それにつけて、と申すのでもございませんけれど、そういえば、つい四五日前にも、同じ処で、おかしなことがあったんでございますの。ええ、本郷の大学へお通いなさいます学生さんで、時々おいで下さいます。その方ですが、あなた、今日のようないお日和ではありません、何ですか、しぐれて、曇って、寂しい暮方でございましたの。
 やあ、と云って、その学生さんが、あの辻の方から。――油を惜しむなよ、店が暗いじゃないか。今つける処なのよ、とお心易立てに、そんな口を利きましてね、釣洋燈つりらんぷそばに立っていますと、その時はお寄りなさらないで、さっさと水道橋の方へ通越していらっしゃいました。
 三崎座がねまして、両方へばらばら人通りがありました。それが途絶えましたちょうどあとで、お一人で、さっさとのぼりのかげへ見えなくおなんなすったんですが、がつきました、まだしんの加減もしません処へ、変だ、変だ、取殺される、幽霊だ、ばけものだ、と帽子なんか、仰向けに、あなた……」

       十

「……燈をあかるくしてくれ、変だ。あ、痛い痛いと、左の手を握って、何ですか――印を結んだとかいいますように、中指を一本押立てていらっしゃるんです。……はじめは蜘蛛くもの巣かと思ったよ、とそうおいいなさるものですから、狂犬やまいぬでなくて、お仕合せ、蜘蛛ぐらい、幽霊も化ものも、まあ、大袈裟なことを、とおかしいようでございましたが、燈でよく、私も一所に、その中指を、じっと見ますと、女の髪の毛が巻きついているんでございましてね。」
「髪の毛ですえ、女の。」
 お嬢さんは細い指を、白く揃えて、箱火鉢に寄せた。例の枯荵かれしのぶの怪しい短冊の舌は、この時朦朧もうろうとして、滑稽おどけが理に落ちて、寂しくなったし、鶏頭の赤さもやや陰翳かげったが、日はまだ冷くも寒くもない。娘の客は女房と親しさを増したのである。
「ええ、そうなんでございます。二人して、よく見ましたの、この火鉢の処で。」
 お嬢さんは手を引込ひっこめた。枯野の霧の緋葉もみじほど、三崎街道の人の目をひいたろう。色ある半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)も、安んじて袖のふりへ納った。が、うっかりした。その頬をぬぐった濡手拭は、火鉢の縁にかかっている。
 女房はさまでは汚がらないで、そのままで、
「――学生さんの制服で駈戻かけもどって来なさいましたのは水道橋の方からでございましょう。お稲荷様の鳥居が一つ、またを上げて飛んで来たように見えたのですけれど、変な事は――そこの旅宿やどやと向うの料理屋の中ほどの辻の処からだったんだそうでございましてね――灰色の雲の空から、すーっと、細いものが舞下って来て、顔から肩の処へかかったように思われたんでございますって。最初はな、蜘蛛の巣だろう……誰だってそう思いますわ。
 身体からだをもがいて払うほどの事じゃなし――声を掛けて、内の前をお通りなさいました時は、もうお忘れなすったほどだったそうなんですが、芝居の前あたりで、それが咽喉のどへ触りました、むずむずと、ぐうとしごくように。」
「いやですねえ。」
「いやでございますことね。――久女八が土蜘蛛をやっている、能がかりで評判なあの糸が、破風はふか、棟から抜出したんだろう。そんな事を、串戯じょうだんでなくお思いなすったそうです。
 芝居ずきな方で、酔っぱらった遊びがえりの真夜中に、あなた、やっぱり芝居ずきの俥夫くるまやと話がはずむと、壱岐殿坂の真中まんなかあたりで、俥夫わかいしゅは吹消した提灯かんばんを、鼠に踏まえて、真鍮しんちゅう煙管きせるを鉄扇で、ギックリやりますし、その方は蝦蟇口がまぐちを口に、忍術の一巻ですって、蹴込けこみしゃがんで、頭までかくした赤毛布あかげつとを段々に、仁木弾正にっきだんじよう糶上せりあがった処を、交番の巡査おまわりさんに怒鳴られたって人なんでございますもの。
 芝居のちっと先方さきへいらっしゃると、咽喉のどを、そのしめ加減が違って来て、呼吸いきにさわるほどですから、払ってもとれないのを、無理にむしり離して、からだを二つ三つ廻りながら、掻きはなすと、空へ消えたようだったそうでございますのに、また、キーと、まるで音でもしますように戻って来て、今度は、その中指へくるくると巻きついたんですが、巻きつくと一所に、きりきりきりきり引きしめて、きりきり、きりきり、その痛さといっては。……
 縫針のさきでさえ、身のうち響きますわ。ただ事でない。解くにも、引切ひっきるにも、目に見えるか、見えないほどだし、そこらは暗し、何よりか知ったとこ洋燈らんぷの灯を――それでもって、ええ。……
 さあ、女の髪と分りました、漆のような、黒い、すなおな、柔かな、細々した、その長うございましたこと。……お嬢様。」
「いいえ、私のは。」
 ついした様で、びんへ触った。一うち、という眉がりんとして、顔の色が一層白澄しろずんだ。が、怪しい黒髪に見くらべたらしい女房の素振を憎んだのでなく、妙な話が身にみたものらしい。
 女房のことばを切って、「いいえ」と云ったのは、またそんな意味ではなかったのである。
「あれ、変な人が、変な人が……」
 変な人が、女房の正面まおもてへ、写真館の前へ出たのであった。

       十一

「こむ僧でしょうか、あれ、役者が舞台の扮装なりのままで写真を撮って来たのでしょうか。」
 と伸上るので、お嬢さんも連れられて目をった。
 この場末の、冬日の中へ、きらびやかとも言ッつべくあらわれたから、怪しいまで人の目を驚かした。が、話の続きでも、学生を悩ました一筋の黒髪とはいささかも関係はない。勿論揃って男で、変な人で、三人である。
 並んだ、その真中まんなかのが一番脊が高い。だから偉大なるの、親指と、小指を隠して、三本にはくを塗り、彩色したように見えるのが、横通りへは抜けないで、ずんずん空地の前を、このお伽堂へ押して来た。
 下駄と下駄の音も聞える。近づいたから、よく解る。三人とも揃いの黒羽二重はぶたえの羽織で、五つ紋の、その、紋の一つ一つ、円か、環の中へ、小鳥を一羽ずつ色絵に染めたあつらえで、着衣きものも同じ紋である。が、上下うえしたとも黒紬くろつむぎで、質素と堅実を兼ねた好みに見えた。
 しかし、はかまは、精巧ひらか、博多か、りゅうとして、皆見事で、就中なかんずくその脊の高い、顔の長い、色は青黒いようだけれども、目鼻立の、上品向きにのっぺりと、且つしおらしいほど口の小形なのが、あまつさえ、長い指で、ちょっとその口元をおさえているのは、特に緞子どんすの袴を着した。
 盛装した客である。まだお膳も並ばぬうち、譬喩たとえにもしろはばかるべきだが、そっおう。――繻子しゅすの袴の※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)ひだとるよりも――とさえいうのである。いわんや……で、あやの見事さはなお目立つが、さながら紋緞子の野袴である。とはいえ、人品ひとがらにはよく似合った。
 この人が、塩瀬の服紗ふくさに包んだ一管の横笛を袴腰に帯びていた。貸本屋の女房がのっけに、薦僧こもそうと間違えたのはこれらしい。……ばかりではない。
 一人、骨組の厳丈がっちりした、赤ら顔で、疎髯まだらひげのあるのは、張肱はりひじに竹の如意にょいひっさげ、一人、目の窪んだ、鼻の低いあごとがったのが、紐に通して、牙彫げぼり白髑髏しゃれこうべを胸からななめに取って、腰に附けた。
 その上、まだある。申合わせて三人とも、青と白と綯交ないまぜの糸の、あたかも片襷かただすきのごときものを、紋附の胸へ顕著にたいした。
 いずれも若い、三十許少わずかに前後。気を負い、色さかんに、心を放つ、血気のその燃ゆるや、男くささは格別であろう。
 お嬢さんは、上気した。
 処へ、竹如意ちくにょいと、白髑髏である。
 お嬢さんはまた少し寒気がした。
 横笛だけは、お嬢さんを三人で包んで立った時、焦茶の中折帽を真俯向うつむけに、爪皮つまかわかかった朴歯ほおばの日和下駄を、かたかたと鳴らしざまに、その紋緞子の袴の長い裾を白足袋で緩くねて、真中の位置をずれて、ツイと軒下を横に離れたが。
 弱い咳をすると、口元をおおうた指が離れしなに、舌を赤く、唇をぺろりとめた。
 貸本屋の女房は、耳朶みみたぶまで真赤まっかになった。
 写真館の二階窓で、しのぶの短冊とともにひるがえった舌はこれである。
 が、接吻とあやまったのは、心得違いであろう。腰の横笛を見るがいい。たしなみの楽の故に歌口をしめすのが、つい癖になって出たのである。且つその不断の特異な好みは、歯を染めているので分る。女は気味が悪かろうが、そんなことは一向構わん、艶々として、と見た目に、舌まで黒い。

       十二

「何とかいったな、あの言種いいぐさは。――宴会前で腹のすいた野原のっぱらでは、見るからにつばを飲まざるを得ない。薄皮で、肉充満いっぱいという白いのが、めかけだろう、妾に違いない。あの、とろりと色気のある工合がよ。お伽堂、お伽堂か、お伽堂。」
 竹如意が却って一竹箆ひとしっぺいくらいそうなことを言う。そのかわり、悟った道人のようなあッはッはッはッ。
「その、言種がよ、「ちとお慰みに何ぞごらん遊ばせ。」は悩ませるじゃないか。借問しゃもんす貸本屋に、あんな口上、というのがあるかい。」
「柄にあり、人により、類に応じて違うんだ。貸本屋だからと言って、股引ももひき尻端折しりはしょりで、読本よみほんの包みを背負って、とことこと道を真直まっすぐに歩行あるいて来て、曲尺形かねじゃくがた門戸もんかどを入って、「あ、本屋でござい。」とばかりは限るまい。あいつ妾か。あの妾が、われわれの並んで店へ立ったのに対して、「あ、本屋とござい。」と言って見ろ、「知ってるよ。」といって喧嘩けんかになりか、嘘にもしろ。」とその髑髏しゃれこうべを指ではじく。
「いや、その喧嘩がしたかった。実は、取組合とっくみあいたいくらいなものだった。「ちと、お慰みにごらん遊ばせ。」……おまけに、ぽッとあかくなった、怪しからん。」
「当る、当る、当るというに。如意をそう振廻わしちゃ不可いかんよ。」
 豆府屋の親仁おやじが、売声をやめて、このきらびやかな一行に見惚みとれた体で、背後あとに廻ったり、横に出たり、ついて離れて歩行あるくのが、この時一度うしろ退しざった。またこの親仁も妙である。青、黄に、朱さえ交った、麦藁むぎわら細工の朝鮮帽子、唐人笠か、尾のとがった高さ三尺ばかり、なまずの尾に似て非なるものを頂いて。その癖、素銅すあか矢立やたて古草鞋ふるわらじというのである。おしい事に、探偵ものだと、これが全篇を動かすほど働くであろう。が、今のチンドン屋の極めて幼稚なものに過ぎない。……しばらくあって、一つ「とうふイ、生揚なまあげがんもどき」……売声をあげて、すぐに引込ひっこはずである。
 従って一行三人には、目に留めさせるまでもなければ、念頭に置かせる要もない。
「あれが仮に翠帳すいちょうにおける言語にして見ろ。われわれが、もとの人間の形を備えて、ここを歩行あるいていられるわけのものじゃないよ。斬るか、斬られるか、真剣抜打の応酬なくんばあるべからざる処を、面壁九年、無言の行だ。――どうだい、御前ごぜん、この殿様。」
「おしよ、その御前、殿様は。」
 と、横笛の紋緞子が、軽くその口をおさえて、真中まんなかに居て二人を制した。
「あれだからな、仕方をしたり、目くばせしたり、ひたすら、自重謹厳を強要するものだから、むことを得ず、口をかんした。」
「無理はないよ、殿様は貸本屋を素見ひやかしたんじゃない。――見合の気だ。」
 とまた髑髏を弾く。
串戯じょうだんじゃありません。ほほほ。」
「ああ、心臓の波打つ呼吸いきだぜ、何しろ、今や、シャッターを切らむとする三人の姿勢を崩して、窓口へ飛出したんだ。写真屋も驚いたが、われわれも唖然とした。何しろ、おごるべし、今夜の会には非常なる寄附をしろ。くるまがそれなり駆抜けないで、今まで、あの店に居たのは奇縁だ。」
「しかし、我輩はくみしない。」
「何を。」
「寂しい、のみならず澄まし切ってる、冷然としたものだ。」
「お上品さ、そこが殿様の目のつけ処よ。」

       十三

「……何しろ、不思議な光景だった。かくして三人が、ほとんど無言だ。……」
「ほとんど処か全然無言で。……店頭みせさきをすとすと離れ際に、「帰途かえりに寄るよ。」はいささか珍だ。白い妾に対してだけに、河岸の張見世はりみせ素見すけん台辞せりふだ。」
「人が聞きますよ、ほほほ、見っともない。」
 と、横笛がしわぶきする。この時、豆府屋の唐人笠が間近くその鼻をかんとしたからである。
「ところで、立向って赴く会場が河岸の富士見楼で、それ、よくこの頃新聞にかくではないか、紅裙こうくんさ。給仕の紅裙が飯田町だろう。炭屋、薪屋まきや、石炭揚場の間から蹴出しを飜して顕われたんでは、黒雲の中にひらめく風情さ。羅生門に髣髴ほうふつだよ。……その竹如意はどうだい。」
「如意がどうした。」
 と竹如意を持直す。
「綱が切った鬼の片腕……待てよ、鬼にしては、可厭いや蒼白あおじろい。――そいつは何だ、講釈師がよく饒舌しゃべる、天保水滸伝てんぽうすいこでん中、笹川方の鬼剣士、平手造酒猛虎ひらてみきたけとらが、小塚原こづかっぱらで切取って、袖口に隠して、千住こつの小格子を素見ひやかした、内から握って引張ひっぱると、すぽんと抜ける、女郎を気絶さした腕に見える。」
「腰の髑髏が言わせますかね。いうことが殺風景に過ぎますよ。」
「殿様、かつぎたまうかな。わはは。」
 と揺笑ゆすりわらいをすると、腰の髑髏の歯も笑う。
「冷く澄んでお上品な処に、ぞっこんというんだから、切った、切ったが気になるんだ。」
「いや、縁はすぐつながるよ。会のかえりに酔払って、今夜、立処たちどころに飛込むんだ。おでん、鍋焼、おごる、といって、一升買わせて、あの白い妾。」
肝腎かんじんの文金が、何、それまで居るものか。」
「僕はむしろ妾にくみする。」
 三崎座ののぼりがのどかに揺れて、茶屋の軒のつくり桜が野中に返咲きの霞をせた。おもては静かだが、場は大入らしい、三人は、いろいろの幟の影を、袴で波形に乗って行く。
「また何か言われそうな気がしますがね、それはそれとしてだね、娘が借りるらしかった――あの小説を見ましたかね。」
「見た、なお且つ早くから知っている。――中味は読まんが、口絵は永洗だ、えんなものだよ。」
「そうだ、いや、それだ。」
 竹如意が歩行あるきざまの膝を打って、
「あの文金だがね、何だか見たようでいて、さっきから思出せなかったが、髑髏が言うので思出した。春頃出たんだ、『閨秀けいしゅう小説』というのがある、知ってるかい。」
「見ないが、聞いたよ。」
「樋口一葉、若松賤子しずこ――小金井きみ子は、宝玉入の面紗べールでね、洋装で素敵な写真よ、その写真が並んだ中に、たしか、あの顔、あの姿が半身で出ていたんだ。」
「私もそうらしいと思うですがね、ほほほ。」
「おかしいじゃないか、それにしちゃ、小説家が、小説を、小説の貸本屋で。」
「ほほほ、私たちだって、画師えかきの永洗の絵を、絵で見るじゃありませんか。」
「あそうか、清麗楚々そそとした、あの娘が、引抜くと鬼女になる。」
「戻橋だな、扇折の早百合さゆりとくるか、すごいぞ、さては曲者くせものだ。」
 と、気競きおって振返ると、髑髏が西日に燃えた、柘榴ざくろの皮のようである。連れて見返った、竹如意が茶色に光って、横笛が半ば開いた口の歯が、また黒い。
 三人の影が大きく向うの空地へ映ったが、位置を軽く転ずれば、たちまち、文金におおいかかりそうである。烏がカアと鳴いた。
 こうなると、皆化ける。安旅宿はたごの辻の角から、黒鴨仕立の車夫がちょろりと鯰のような天窓あたまを出すと、流るるごとく俥が寄った。お嬢さんの白い手が玉のようにのびて、軒はずれにと招いたのである。と、緋羽ひばねの蹴込敷へつまはずれ美しく、ゆうぜんの模様にない、雪なす山茶花さざんかがちらりと上へかくれた。

       十四

 しかり、文金たかしまだのお嬢さんは、当時中洲辺に住居すまいした、月村京子、雅名を一雪いっせつといって、実は小石川台町なる、上杉先生の門下の才媛さいえんなのである。
 ちょっとした緊張にも小さき神は宿る。ここに三人の凝視の中に、立って俥を呼んだ手の、玉を伸べたのは、宿れる文筆の気の、おのずから、美しい影をあらわしたものであろう。
 あたかも、髑髏と、竹如意と、横笛とが、あるいは燃え、あるいは光り、あるいは照らして、各々自家識見の象徴を示せるごとくに、
 そういえば――影はとがって一番長い、豆府屋の唐人笠も、この時その本領を発揮した。
 余りいて歩行あるいたのがやましかったか、道中みちなかへ荷を下ろして、首をそらし、口を張って、
 ――「とうふイ、生揚、雁もどき。」――
 唐突だしぬけに、三人のすぐそばで……馬鹿な奴である。
 またこの三人を誰だ、と思う?……しかしこれは作者のことばよりも、世上のおおいなるひびきに聞くのがかろう。――次いで、四日とたないうちに、小川写真館の貸本屋と向合むかいあった店頭みせさきに、三人の影像が掲焉けつえんとして、金縁の額になって顕われたのであるから。
 ――青雲社、三大画伯、御写真――
 よって釈然とした。紋の丸は、色も青麦である。小鳥は、雲雀ひばりである。
 幅広と胸に掛けた青白の糸は、すなわち、青天と白雲を心にたいした、意気衝天しょうてんの表現なのである。当時、美術、絵画の天地に、気あがり、意熱して、麦のごとく燃え、雲雀のごとくかけった、青雲社の同人は他にまた幾人か、すべておなじよそおいをしたのであった。
 ただしこれは如実の描写に過ぎない。ここに三画伯の扮装いでたちを記したのをて、衒奇げんき、表異、いささかたりとも軽佻けいちょう諷刺ふうしの意をぐうしたりとせらるる読者は、あの、紫の顱巻はちまきで、一つ印籠何とかの助六の気障きざさ加減は論外として、芝居の入山形段々だんだらのおそろいをも批判すべき無法な権利を、保有せらるべきものであらねばならない。

 ついでにいう。ちょうどこの時代じぶん――この篇、連載の新聞の挿絵さしえ受持で一座の清方きよかたさんは、下町育ちの意気なお母さんの袖のうちに、博多の帯の端然きちんとした、襟の綺麗な、眉の明るい、秘蔵子の健ちゃんであったと思う。
 さて続いて、健ちゃんに、上野あたりの雪景色をお頼み申そう。

 清水きよみず石磴いしだんは、三階五階、白瀬の走る、声のない滝となって、落ちたぎり流るる道に、巌角いわかどほどの人影もなし。
 不忍しのばずへ渡す橋は、玉の欄干を築いて、全山の樹立こだち真白まっしろである。
 これは――翌年の二月きさらぎ、末の七日の朝の大雪であった。――
 昨夜ゆうべ、宵のしとしと雨が、初夜過ぎに一度どっと大降りになって、それがむと、陽気もぽっと、近頃での春らしかったが、夜半よなか寂然しんと何の音もなくなると、うっすりと月がおぼろに映すように、大路、小路、露地や、背戸や、竹垣、生垣、妻戸、折戸に、そっと、人目を忍んで寄添う風情に、都振みやこぶりなる雪女郎の姿が、寒くば絹綿を、と柳にささやき、冷い梅のつぼみはもとより、行倒れた片輪車、掃溜はきだめ破筵やれむしろまでも、肌すく白い袖で抱いたのである。が、由来宿業しゅくごうとして情とあだと手のうらかえす雪女郎は、東雲しののめの頃の極寒に、その気色たちまち変って、こぶしを上げて、戸をあおり、ひさしたたき、褄を飛ばして棟をた。白面皓身こうしん夜叉やしゃとなって、大空を駆けめぐり、地を埋め、水を消そうとする。……
 今さかんに降っている。

       十五

 ……盛に降っている。
 たてに、ななめに、上に、下に、散り、飛び、あおち、舞い、漂い、乱るる、雪の中に不忍の池なる天女の楼台は、絳碧こうへきの幻を、うつばりの虹にちりばめ、桜柳の面影は、靉靆あいたいたる瓔珞ようらく白妙しろたえの中空に吹靡ふきなびく。
 いつくしき門のいしずえは、霊ある大魚の、左右さうに浪を立てて白く、御堂みどうを護るのを、もうずるものの、浮足に行潜ゆきくぐると、玉敷く床の奥深く、千条ちすじの雪のすだれのあなたに、丹塗にぬりの唐戸は、諸扉もろとびら両方に細めにひらけ、にしきとばり翠藍すいらんうちに、銀の皿の燈明は、天地の一白に凝って、紫の油、朱燈心、火尖ほさき金色こんじきの光を放って、三つ二つひらひらと動く時、大池の波は、さながら白蓮華びゃくれんげを競って咲いた。
 ――白雪のきざはしもとに、ただ一人、褄を折りめ、ひざまずいて、天女を伏拝む女がある。
 すぐわきに、空しき蘆簀張よしずばりの掛茶屋が、うもれた谷の下伏せの孤屋ひとつやに似て、御手洗みたらしがそれに続き、並んで二体の地蔵尊の、来迎らいごうの石におわするが、はて、このはの、と雪に顔を見合わせたまう。
 見れば島田まげの娘の、紫地の雨合羽あまがっぱに、黒天鵝絨びろうどの襟を深く、拝んで俯向うつむいたえりしろさ。
 吹乱す風である。渋蛇目傘しぶじゃのめを開いたままで、袖摺そでずれに引着けた、またその袖にも、霏々ひひと降りかかって、見る見るびんのおくれ毛に、白い羽子はねが、ちらりと来て、とまって消えては、ちらりと来て、消えては、飛ぶ。
 前髪にも、眉毛にも。
 その眉の上なる、朱の両方の円柱まるばしらに、
……妙吉祥みょうきっしょう……
……如蓮華にょれんげ……
 一れんの文字が、雪の降りつもるうちに、瑠璃るりと、真珠を刻んで、清らかに輝いた。
 再び見よ、烈しくなった池の波は、ざわざわとまた亀甲きっこうそばたてる。
 といううちに、ふと風が静まると、広小路あたりの物音が渡って来て、さっと浮世に返ると、枯蓮の残ンの葉、折れた茎の、且つ浮き且つ沈むのが、幾千羽の白鷺しらさぎのあるいはたたずみ、あるいは眠り、あるいは羽搏はうつ風情があった。
 青い頭、墨染の僧のわかい姿が、御堂みどう内に、白足袋でふわりと浮くと、蝋燭ろうそくが灯を点じた。二つ三つまた五つ、さきは白く立って、却って檐前のきさきを舞う雪の二片ふたひら三片みひらが、薄紅うすくれないの蝶にひるがえって、ほんのりと、娘のまぶたを暖めるように見える。
「お蝋をあげましてござります。」
「は。」
 僧は中腰に会釈して、
「早朝より、ようお詣り……」
「はい。」
「寒じが強うござります、ちとおあがりになって、御休息遊ばせ。」
 この僧が碧牡丹へきぼたんの扉の蔭へかくれた時、朝詣あさもうでの娘は、我がために燈明の新しい光を見守った。
 われら、作者なかまの申合わせで、ここは……を入れる処であるが、これが、べにで印刷が出来ると面白い。もの言わず念願する、娘の唇のかすかに動くように見えるから。黒ゝゝぼちぼちでは、睫毛まつげふるえる形にも見えない。見えても、ゝと短いようで悪いから、紙ついえだけれど、「    」白にする。

       十六

 時に、伏拝むのに合せた袖口の、雪に未開紅の風情だったのを、ひらりと一咲き咲かせて立って、ちょっとおくれ毛を直した顔を見ると、これは月村一雪、――中洲のお京であった。
 実は――――
「……小説が上手に書けますように……」
 どうも可訝おかしい、絵が上手になりますように、踊が、浄瑠璃じょうるりが、裁縫おしごとが、だとよくきこえるけれども、小説は、ほかに何とか祈念のしようがありそうに思われる。作者だってそう思う。人生の機微に針のさきで触れますように、真理を鋭刀メスで裂きますように、もう一息、世界の文豪を圧倒しますように……でないと、承知の出来ない方々が多いと思う。が、一雪のお京さんはたしかに前条のごとくに祈念したのである。精確な処は、かたえ真白まっしろに立たせたまえる地蔵尊に、今からでも聞かるるがい。
 なお、かし本屋の店頭でもそうだし、ここでの紫の雨合羽に、ぬりの足駄など、どうも尋常ただな娘で、小説家らしい処がない。断髪で、靴で、頬辺ほおべが赤くないと、どうも……らしくない。が、硯友社けんゆうしゃより、もっと前、上杉先生などよりなお先に、一輪、大きく咲いたという花形のあけぼの女史と聞えたは、浅草の牛肉屋の娘で――御新客ごしんきなべ御酒ごしゅ――帳場ばかりか、立込むと出番をする。緋鹿子ひがのこ襷掛たすきがけで、二の腕まで露呈あらわに白い、いささかも黒人くろうとらしくなかったと聞いている。
 また……ああ惜しいかな、前記の閨秀けいしゅう小説が出て世評一代を風靡ふうびした、その年の末。秋あわれに、残ンの葉の、胸のやまいあかい小枝にすがったのが、こがらしはかなく散った、一葉女史は、いつも小机に衣紋えもん正しく筆を取り、端然として文章を綴ったように、誰も知りまた想うのである。が、どういたして……
 ――やがてこのあとへ顔を出す――辻町糸七が、その想う盾の裏を見せられて面食めんくらった。糸七は、一雑誌の編輯にゆかりがあって、その用で、本郷丸山町、その路次が、(あしき隣もよしや世の中)と昂然こうぜんとして女史が住んだ、あしき隣の岡場所で。……
――おい、木村さん、信さん寄っておいでよ、お寄りといったら寄ってもいではないか、また素通りで二葉屋へ行く気だろう――
にはじまって、――ある雨の日のつれづれにおもてを通る山高帽子の三十男、あれなりと取らずんば――と二十三の女にして、読書界に舌を巻かせた、あの、すなわちその、怪しからん……しかも梅雨時、陰惨としていた。低い格子戸を音訪おとずれると、見通しの狭い廊下で、本郷の高台の崖下だから薄暗い。部屋が両方にある、茶の間かと思う左の一層暗い中から、ひたひたと素足で、銀杏返いちょうがえしのほつれながら、きりりとした蒼白あおじろい顔を見せた、が、少し前屈まえかがみになった両手で、黒繻子くろじゅすと何か腹合せの帯の端を、ぐい、と取って、腰を斜めに、しめかけのままかまちへ出た。さて、しゃんとしまったところが、(引掛ひっかけ、)また、(じれった結び)、腰の下緊したじめへずれ下った、一名(まおとこ結び)というやつ、むすび方のとなえを聞いただけでも、いまでは町内で棄て置くまい。差配が立処たちどころたなだてをわせよう。
 ――「失礼な、うまいなり、いいえね、余りくさくさするもんですから、湯呑で一杯……てったところ……黙ってて頂戴。」――
 端正どころか、これだと、しごきで、頽然たいぜんとしていた事になる。もっとも、おいらんの心中などを書く若造を対手あいてゆえの、心易さの姐娘あねご挙動ふるまいであったろうも知れぬ。
 ――「今日は珍らしいんです、いつも素見ぞめき大勢。山の方から下りていらっしゃる方、皆さん学者、詩人連でおいで遊ばすでしょう。英語はもとより、仏蘭西フランスをどうの、独乙ドイツをこうの、伊太利イタリー語、……希臘ギリシャ拉甸ラテン……」――
 と云って、にっこり笑ったそうである。
 が、山から下りて来るという、この人々に対しては、(じれった結び)なぞ見せはしない、所帯ぎれのした昼夜帯も(お互に貧乏で、相向った糸七も足袋の裏が破れていた。)きちんと胸高なお太鼓に、一銭が紫粉むらさきこで染返しの半襟も、りゅうと紗綾形さやがた見せたであろう、通力自在、姐娘の腕は立派である。
 ――それにつけても、お京さんは娘であった。雪の朝の不忍の天女もうでは、可憐いとしく、可愛い。

       十七

 お京は下向げこうの、碧玳瑁へきたいまい紅珊瑚こうさんご粧門しょうもんもとで、ものを期したるごとくしばらく人待顔にたたずんだのはがためだろう。――やがて頭巾ずきんかぶった。またこれだけも一仕事で、口でくわえても藤色縮緬ちりめんを吹返すから、おとがいへ手繰って引結うのに、しなった片手は二の腕まで真白まっしろ露呈あらわで、あこがるる章魚たこ太刀魚たちのうお烏賊いかたぐいが吹雪の浪を泳ぎ寄りそうで、危っかしい趣さえ見えた。
 ――ついでに言おう。形容にもせよ、章魚、太刀魚はいかがだけれど、烏賊は事実居た……透かして見て広小路まで目は届かずとも、料理店、待合など、池のはたあたりにはふらふらと泳いでいたろう――
 その頃は外套がいとうの襟へ三角なり羅紗らしゃ帽子を、こんな時に、いや、こんな時に限らない。すっぽりと被るのが、寒さを凌ぐより、半分は見得で、帽子の有無ありなしでは約二割方、仕立上りの値が違う。ところで小座敷、勿論、晴れの席ではない、卓子台ちゃぶだいの前へ、右のその三角帽子、外套のなりで着座して、左褄ひだりづま折捌おりさばいたの、部屋着をはだけたのだのが、さしむかいで、盃洗が出るとなっては、そのままいきなり、泳いでよろしい、それで寄鍋をつつくうちは、まだしも無鱗類の餌らしくて尋常だけれども、沸燗にえがんを、めらめらと燃やして玉子酒となるともがらは、もう、妖怪に近かった。立てばやり烏賊、坐れば烏賊、動く処は、あおり烏賊、と拍子にかかると、また似たものがほかにあった。
 季節はそれるが、その形は、油蝉にも似たのである。
 ――月府玄蝉げっぷげんせん――上杉先生が、糸七同門の一人にたわむれに名づけたので、いう心は月賦でこしらえた黒色外套の揶揄やゆである。これが出来上った時、しかも玉虫色の皆絹裏かいきうらがサヤサヤと四辺あたりを払って、と、出立いでたった処は出来でかしたが、懐中むなしゅうして行処ゆくところがない。まさか、蕎麦屋そばやで、かけ一、御酒なしでも済まないので、苦心の結果、場末の浪花節を聞いたという。こんなのは月賦が必ずたまる。……洋服屋の宰取さいとりの、あのセルの前掛まえかけで、頭の禿げたのが、ぬかろうものか、春暖相催し申候や否や、結構なお外套、ほこり落しは今のうち、と引剥ひきはいで持ってくと、今度は蝉の方で、ジイジイ鳴噪なきさわいでも黐棹もちざおの先へも掛けないで、けろりと返さぬのがおきまりであった。
 ――弁持べんもち十二――というのも居た。おなじ門葉もんようの一人で、手弁で新聞社へ日勤する。月給十二円の洒落しゃれ、非ず真剣を、上杉先生が笑ったのである。
 ここに――もう今頃は、仔細しさいあって、変な形でそこいらをのそついているだろう――辻町糸七の名は、そんな意味ではない。
 上杉先生の台町とは、山……一つ二つあなたなる大塚辻町に自炊して、長屋が五十七番地、かれ自ら思いついた、辻町はまずいい、はじめは五十七、いそなの磯菜。
「ヘン笑かすぜ、」「にやけていやがる、」友達が熱笑冷罵する。そこで糸七としたのである。七夕の恋の意味もない。三味線さみせんの音色もない。
 その糸七が、この大雪に、乗らない車坂あたりを段々に、どんな顔をしていよう。名を聞いただけでも空腹すきばらへキヤリと応える、雁鍋がんなべの前あたりへ……もう来たろう。
 お京の爪皮つまかわが雪をんで出た。まっすぐに清水きよみず下の道へは出ないで、横に池について、褄はするするとさばくが、足許の辿々たどたどしさ。

       十八

 寒い、めっきり寒い。……
 氷月と云う汁粉屋の裏垣根に近づいた時、……秋は七草で待遇もてなしたろう、枯尾花に白い風が立って、雪が一捲ひとまき頭巾を吹きなぐると、紋の名入の緋葉もみじがちらちらと空に舞った。お京の姿は、傘もたわわに降り積り、浅黄で描いた手弱女たおやめ朧夜おぼろよ深き風情である。
「あら、月村さん。」
 紅入ゆうぜんのすそも蹴開くばかり、包ましい腰の色気も投棄てに……風はその背後うしろからあおっている……吹靡ふきなびく袖で抱込むように、前途ゆくてから飛着いたさまなる女性にょしょうがあった。
 濃緑こみどりの襟巻に頬を深く、書生羽織で、花月巻の房々したのに、頭巾は着ない。雪のからかさはげしく両手に揺るるとともに、唇で息を切って、
「済みません、済みませんでした、お約束の時間におくれッちまいまして。」
「まあ、よくねえ。」
 と、此方こなたも息をほっとしながら、
「これではどうせ――三浜みはまさん、らっしゃらないと思ったもんですから、参詣おまいりを先に済ませて、失礼でしたわ。」
「いいえ、いいえ。」
「何しろこの雪でしょう、それに私などと違って、あなたはお勤めがおありになりますから。」
「ところが、ですの。」
 とまた一息して、
「私の方こそ、あなたと違って、歩行あるくのも、動くのも、雨風だって、毎日体操同然なんでございますものね。」
 と云った。「教え子」と題した、境遇自叙の一篇が、もう世に出ていた。これも上杉先生の門下で。――思案入道殿のやかたに近い処、富坂とみざか辺に家居いえいした、礫川れきせん小学校の訓導で、三浜なぎさ女史である。年紀としはお京より三つ四つ姉さんだし、勤務が勤務だし、世馴よなれて身の動作こなしも柔かく、内輪のうちにもおのずから世の中つい通り――ここは大衆としようか――大衆向のつやを含んで、胸も腰もふっくらしている。
「わけなし、はやくに支度をして、この日曜だというのに袴まで穿きましたんです、風がありますからですが。この雪と来て、あなたは不断お弱いし……きっとお出掛けなさりはしないだろう、と一人でめて、その袴もけてさ、まあ。ご丁寧に、それで火鉢にかじりついたんですけど……そうでもない、ほかの事とは違って、お参詣まいりをするのに、他所よその方が、こうだから、それだから、どうの、といっては勿体なし……一人ででも、と思いますと、さあ、あなたも同じ心でお出掛けになったかも分らない。――急に火鉢の火のつくように、飛上って、時間がおくれた、大変だ。お待合わせを約束の仲ちょうを出た、あの大時計が雪の塔、大吹雪の峠の下に、一人旅で消えそうにっていらっしゃるのが目さきに隠現ちらつくもんですから、一息に駆出すようにして来たんです。気ばかり急いで。」
 と、顔をひたと合わせそうに、からかさを横に傾けたので、耳にまで飛ぶ雪を、びんを振って、払い、はらい、
「この煙とも霧とももやとも分らない卍巴まんじともえの中に、ただ一人、うっすりとあなたのお姿を見ました時は、いきなり胸で引包ひっつつんで、抱いてあげたいと思いましたよ。」
「抱かれたい、おほほ。」
 と口紅が小さく白く、雪に染まった。
「え?」
 ただの世辞ではなかったが、おもいがけないお京の返事が胸をいたから、ちょっと呆れて、ちょっと退しさって、
「まあ、月村さん」
「おほほ、三浜さん」
「お元気、お元気……」

       十九

 渚も元気を増したらしい。
「ですが、顔の色がお悪いわ、少し蒼ざめて。……何しろ、ここへ入って休みましょう――ええ、私のお詣りはそれから、お精進だから構いません、お汁粉ですもの。家がまた氷月ですね。気のきかない、こんな時は、ストーブ軒か、炬燵亭こたつていとでもすればござんすのに。」
 その木戸口に、柳が一本ひともと、二人をおお被衣かつぎのように。
「閉っていたって。」
 と、少し脊伸びの及腰およびごしに、
「この枝折戸しおりどの掛金は外ずしてありましょう。表へだと、大廻りですものね。さあ、いらっしゃい。まこと開かなけりゃ四目垣ぐらい、破るか、乗越のっこすかしちまいますわ。抱かれてやろうといって下すった、あなたのためなら。……飛んだ門破りの板額はんがくですね。」
 渚が傘を取直して、
武器えものは、薙刀なぎなた。」
「私は、懐剣。」
 二人が、莞爾にっこり
 お京の方が先んじて、ギイと押すと、木戸が向うへ、一歩先陣、蹴出す緋鹿子、ゆるぎの糸が、弱腰をしめて雪を開いた。
「おお、まあ、天晴あっぱれ。」
「と、おっしゃって下すった処で、敵手あいてはお汁粉よ。」
「あなたは。」
「え、私は、塩餡しおあん。」
「ご尋常……てまえは、いなか。」
「あとで、鴨雑煮かもぞうに。」
おごる平家ね、揚羽の蝶のように、まだ釣荵つりしのぶがかかっていますわ。」
 と閉った縁のひさしを見つつ、急に渚が肩をよじた。
「ああ、冷い、柳の枝がうしろから。」
 肩を払うと、顔へかかるのを、片手でまたき遣って、頬をすぼめた。
しずくもしないのに濡れたんですか、冷いこと。」
 お京も立停たちどまって振向いた。
「髪の毛ですわ……あら、私ンじゃない。」
 しごいて、引いて、幾重にも巻取るようにした指を、離すと、すっと解けて頬を離れる。成程、渚のではない。その渚が――女だ、髪にはどこまでも目が繊細こまかい――雪を透かして、
「まあ、長い、黒い、美しい……どこまでも雪の上を。――月村さん、あなたのですよ。」
「いいえ、私。」
い薫もするようです。どこかに梅かしら。それ、そうですとも。……頭巾をこぼれて、黒く一筋。」
「すこしは長いといいますけれど、薄いほどだって言われますもの。」
 と頭巾を解き、さっあらわれた島田の銀の丈長たけなが指尖ゆびさきとともに揺れると、思わず傘を落した。
「気味の悪い。」
 降りしきったのが小留おやみをした、春の雪だから、それほどの気色でも、れるとはやい。西空の根津一帯、藍染あいそめ川の上あたり、一筋の藍を引いた。池の水はまだ暗い。
「気味の悪い?……気味の悪い事があるもんですか。手で引いてごらんなさいよ、ね、それ、触るでしょう、耳の下、ちっと横、手繰って。……そう、そう、すらすらと動きますわ、木戸の外の柳の上まで、まあ。」
「私どうしましょう。」
「結構じゃありませんか、あなたの指から、ああびんの中へ。」
 と、相傘するまで、つと寄添う。
「私どうしましょう。」
 と、乳のあたりへ袖をめつつ、
「空から降って来やしないんでしょうか。」
「……空からでしょうよ、池からでしょうよ、天女からお授かりなすったのかも知れませんね、羨しいったらありませんわねえ。」

       二十

「でも、私、小説が上手に出来ますように――笑わないで頂戴……そういって拝んだんですのに。」
「じょうだんじゃありません、かりにもそのくらいなものをお授かりになったんですのに。」
「半分切ってあげましょうか。」
「驚いた……誰方どなたにさ。」
「三浜さんに。」
「まあ。」
「だって、二人でお詣りに来たんですもの。」
「まあ、よくのおあんなさらない、可愛い、それだから私に抱かれようって……ほんとに抱きますよ。」
「あれ、人が居ます、ほほほ。」
「ええ、そう。――もうあそこまで行きました。」
 ――ひとしく見遣った。
 富士おろしというのであろう。西の空はわずかに晴間を見せた。が、池の端を内へ、柵に添って、まだ濛々もうもうと、雪烟ゆきけぶりする中を、スイと一人、スイと、もう一人。やや高いのと低いのと、海月くらげが泳ぐような二人づれが、足はただようのに、向ううつむけに沈んでく。……
 脊の高い方は、それでも外套がいとう一着で、すっぽりと中折帽をかぶっている。が、寸の短い方は、黒の羽織に袴なし、みのもなしで、見っともない、その上紋着もんつき。やがて渚に聞けば、しかも五つ紋で。――これは外套の頭巾ばかりを木菟みみずくに被って、藻抜けたか、辷落すべりおちたか、その魂魄こんぱくのようなものを、片手にふらふらと提げている。渚に聞けば、竹の皮包だ――そうであった。
「――あれ、辻町さんよ、ちょいと。」
「辻……町」
「糸七さんですってば。――つい、取紛れて、いきなり噂をしようって処、おくれちまいましたんですがね、いま、さっき、現にいま……」
「今……」
「懐剣、といって、花々しく、あなたがその木戸をお開けなすった時ですよ。立停たちどまってしばらく見ていましたんですよ、二人とも。頭巾を被っておいでだし、横吹きに吹掛けていましたから、お気がつかなかったんです。もっともね、すぐその前、あすこで――私はお約束の大時計より、大変なおくれ方ですから、くるまをおりると、早廻りに、すぐ池の端へ出て、揚出しわきの、あの、どんどんの橋を渡って、正面に傘を突翳つきさして来たんでしょう。ぶつかりそうに、後縋うしろすがりに、あの二人に。
 おや……帽子はすっぽりでも、顔は分りましたから、ちょっと挨拶はしましたけれど、御堂みどうの方へ心はせきます。それにお連れがまるで知らない人ですから、それなり黙ってさ。それだって、様子を見ただけでも、お久しぶりとも、第一、お早う、とも言えた義理じゃありませんわ。」
「どうしたんでしょう、こんな朝……雪見とでもいうのかしら。」
「あなたもあんまりお嬢さんね。――吉原の事を随筆になすったじゃありませんか。」
「いやです、きまりの悪いこと。……親類に連れられて、浅草から燈籠とうろうを見に行っただけなんです、玉菊の、あの燈籠のいわれは可哀あわれですわね。」
「その燈籠は美しく可哀だし、あの落武者……きまっていますよ、吉原がえりの落武者は、みじめにあわれだこと。あのなさけない様子ったら。おや、立停りましたよ、また――それ、こっちを見ています。挨拶――およしなさい、つれがありますから。どんなことを言出そうも知れません。糸七さん一人だって、あなたは仲が悪いんでしょう。おなじ雑誌に、その随筆の、あの人、悪口をいたじゃありませんか。」
「よくご存じですこと。」
 かんざしを挿込むと、きりりと一文字にひそめた眉を、隠すように、傘を取って、じっと、糸七とその連をた。

       二十一

「しかし、しかしだね、(雪見と志した処が、まだしも)……何とかいったっけ、そうだ(……まだしも、ふびんだ。)」
「あわれ、憫然というやつかい。」
「やっぱり、まだしも、ふ憫だ。――(いや、ますます降るわえ、奇絶々々。)と寒さにふるえながら牛骨が虚飾みえをいうと(妙。)――と歯を喰切くいしばって、骨董こっとうが負惜しみに受ける処だ。
 またあたかも三馬の向島の雪景色とおなじように、巻込まれた処へ、(骨董子、向うから来るのはたしかに婦人だぜ。)と牛骨がいうと、(さん候この雪中を独歩するもの、俳気のある婦人か、さてはこしの国にありちゅう雪女なるべし、)やといお針か、産婆だろう、とある処へ。……聞いたら怒るだろう、……バッタリ女教師の渚女史にぶつかったなぞは――(奇絶、奇絶。)妙……とお言いよ。」
「言えないよ。女作家の事はまた、べつとして……馬鹿々々しいよ。」
「三馬(式亭)が馬鹿々々しい、といって……女郎買に振られて帰ったこの朝だ。俥賃くるまちんなしの大雪に逢って、飜訳ものの、トルストイや、ツルゲネーフと附合ったり、ゲーテ、シルレルを談じたって、何の役に立つものか。そこへくと三馬だ。お馴染なじみがいにいくらか、景気をつけてくれる。――「人間万事嘘誕計にんげんばんじうそばっかり」――骨董と牛骨が向島へ雪見の洒落で、ふられた雪を吹飛ばそう。」
「外聞の悪いことをいうなよ、雪は知らないが、ふられたのは俺じゃないぜ。」
 と、大島の小袖に鉄無地の羽織で、角打の紐を縦に一扱ひとしごき扱いたのは、大学法科出の新学士。肩書の分限ぶげんに依って職を求むれば、すみやかに玄関を構えて、新夫人にかしずかるべき処を、へきして作家を志し、名は早く聞えはするが、名実あいかなわず、砕いて言えば収入みいりが少いから、かくの始末。藍染川と、忍川の、晴れて逢っても浮名の流れる、茅町かやちょうあたりの借屋に帰って、吉原がえりの外套を、今しがた脱いだところ。姓氏は矢野弦光げんこうで、対手あいてとは四つ五つ長者である。
 さし向って、三馬とトルストイをごっちゃに饒舌しゃべる、飜訳者からすれば、不埒ふらちともいうべき若いのは、想像でも知れた、辻町糸七。道づれなしに心中だけは仕兼ねない、身のまわり。ほうしょの黒の五つ紋(借りもの)を鴨居かもいの釘に剥取はぎとられて、大名縞とて、笑わせる、よれよれ銘仙めいせんの口綿一枚。素肌の寒さ。まだ雪のしずくない足袋は、ぬれ草鞋わらじのように脱いだから、素足の冷たさ。実は、フランネルの手首までの襯衣しゃつは着て出たが、洗濯をしないから、仇汚あだよごれて、且つその……言い憎いけれど、少し臭う。遊女おいらんに嫌われる、と昨宵ゆうべ行きがけに合乗俥あいのりぐるまの上で弦光がからかったのを、酔った勢い、ほろの中で肌脱ぎに引きかなぐり、松源の池が横町にあるあたりで威勢よく、ただし、竜どころか、のみ刺青ほりものもなしに放り出した。後悔をしても追附おっつかない。で、弦光のひとり寝の、浴衣をかさねた木綿広袖どてらくるまって、火鉢にしがみついて、肩をすくめているのであった。
 が、さいわいに窓はあかるい。閉め込んだ障子も、ほんのりと桃色に、畳も小庭の雪影に霞を敷いた。いま、忍川の日もくれないを解き、藍染川の雲も次第に青く流れていよう。不忍しのばずの池の風情が思われる。
 上野の山も、広小路にも、人と車と、一斉いっとき動揺どよめいて、都大路を八方へあふれる時、揚出しの鍋は百人の湯気を立て、隣近となりぢかな汁粉屋、その氷月の小座敷には、閨秀二人が、雪も消えて、衣紋えもんも、つまも、春の色にややけたであろう。
 先刻さっきに氷月の白い柳の裏木戸と、遠見の馬場の柵際と、相望んでから、さて小半時っている。
 崖下ながら、ここの屋根に日は当るが、軒もひさしもまだ雫をしないから、狭いのに寂然しんとした平屋の奥の六畳に、火鉢からやや蒸気いきれが立って、炭の新しいのが頼もしい。小鍋立こなべだてというと洒落に見えるが、何、無精たらしい雇婆やといばあさんの突掛つッかけの膳で、安ものの中皿に、ねぎ菎蒻こんにゃくばかりが、うずたかく、狩野派末法の山水を見せると、かたわらに竹の皮の突張つッぱった、牛の並肉のあか溢出はみでた処は、未来派尖鋭の動物を思わせる。

       二十二

「仰せにゃ及ぶべき。そうよ、誰も矢野がふられたとは言やしない。今朝――先刻さっきのあの形は何だい。この人、帰したくない、とか云って遊女おんなが、その帯で引張ひっぱるか、階子段はしごだんの下り口で、げる、引く、くるくる廻って、ぐいと胸で抱合った機掛きっかけに、頬辺ほっぺた押着おッつけて、大きな結綿ゆいわたの紫が垂れかかっているじゃないか。その顔で二人で私を見て、ニヤニヤはどうしたんだ、こっちは一人だぜ。」
「そうずけずけとのたまうな、はははは談じたまうなよ、息子は何でも内輪がいい。……まずお酌だ。」
 いかがな首尾だか、あのくらい雪にのめされながら、割合に元気なのは、帰宅早々婆さんを使いに、角店の四方よもから一升徳利を通帳かよいという不思議な通力で取寄せたからで。……これさえあれば、むかしも今も、狸だって酒は呑める。
 二人とも冷酒ひやあおった。
 やがて、小形の長火鉢で、かんもつき、鍋もかかったのである。
「あれはね、いいかい、這般しゃはん瑣事さじはだ、雪折笹にむら雀という処を仕方でやったばかりなんだ。――わりの二の段、方程式のほんの初歩さ。人の見ている前の所作なんぞ。――望む処は、ひけ過ぎの情夫まぶの三角術、三蒲団の微分積分を見せたかった……といううちにも、何しろ昨夜ゆうべは出来が悪いのさ。本来なら今朝の雪では、遊女おんなも化粧を朝直しと来て、青柳か湯豆府とあろう処を、大戸をくぐって、むかえも待たず、……それ、女中が来ると、祝儀が危い……。一目散に茶屋まで仲之町を切って駆けこんだろう。お同伴つれは、と申すと、外套なし。」
「そいつは打殺ぶちころしたのを知ってる癖に。」
きざした悪心の割前の軍用金、分っているよ、分っている……いるだけに、五つ紋の雪びたしは一層あわれだ、しかも借りものだと言ったっけかな。」
「春着に辛うじて算段した、苦生にがせいの一張羅さ。」
「苦生?……」
「知ってるじゃないか、月府玄蝉、弁持十二。」
い、好い。」
「並んだ中にいつも陰気で、じめじめして病人のようだからといって、上杉先生が、おなじく渾名あだなして――久須利くすり苦生くせい。」
「ああ、そう、久須利か。」
「くせえというようで悪いから、みんなで、苦生にがせい、苦生だよ。」
「さてまたさぞにがる事だろう、ほうしょは折目れが激しいなあ。ああ、おやおや、五つ紋の泡が浮いて、黒の流れにあいげて出た処は、まるで、藍瓶あいがめの雪解だぜ。」
「奇絶、奇絶。――妙とお言いよ。」
「妙でないよ、また三馬か。」
「いい燗だ。そろそろ、トルストイ、ドストイフスキーが煮えて来た。」
「やけを言うなというに。そのから元気を見るにつけても、年下の息子を悩ませ、且つその友達を苦らせる、(一張羅だと聞けばかなしも。)我ながらなさけない寂しい声だな。――懺悔ざんげをするがね。茶屋で、「お傘を。」と言ったろう。――「お傘を」――家来どもが居並んだ処だと、このことばは殿様に通ずるんだ、それ、麻裃あさがみしもか、黒羽二重くろはぶたえはかまで、すっとす、姿は好いね。処をだよ。……呼べば軒下までくるまの自由につく処を、「お俥。」となぜいわない。「お傘。」と来ては、茶屋めが、お互の懐中ふところを見透かした、俥賃なし、とにらんだり、と思ったから、そこは意地だよ、見得もありか、土手まで雪見だ、と仲之町で袖を払った。」
「私は、すぼめた。」
「ははは、借りものだっけな、皮肉をいうなよ。息子はおとなしく内輪が好い。がつらつら思うに、茶屋の帳場は婆さんか、痘痕あばたの亭主に限ります。もっともそれじゃ、繁昌はしまいがね。早いから女中はまだいびきで居る。名代の女房の色っぽいのが、長火鉢の帳場奥から、寝乱れながら、艶々とした円髷まるまげで、はぎも白やかに起きてよ、達手巻だてまきばかり、引掛ひっかけた羽織の裏にも起居たちいの膝にも、浅黄縮緬あさぎちりめんがちらちらしているんだ。」……

       二十三

 つれづれ草の作者に音が似ているから、法師とも人が呼ぶ、弦光法師は、さかずきを置き息をついて、
「しかもくだんの艶なのが、あまつさえ大概番傘の処を、その浅黄をからめた白い手で、蛇目傘じゃのめと来た。祝儀なしに借りられますか。且つまたこれを返す時の入費が可恐おそろしい。ここしばらくあてなしなんだからね。」
「そこで、雪の落人おちゅうどとなったんだね。私は見得も外聞も要らない。なぜ、この降るのに傘を借りないだろうと、途中では怨んだけれど、外套の頭巾をはずしてかぶせてくれたのには感謝した、烏帽子えぼしをつけたようで景気が直った。」
「白く群がる朝返りの中で、土手を下りた処だったな。その頭巾の紐をしめながらどこで覚えたか――一段と烏帽子が似合いて候。――と器用な息子だ。しかも節なしはありがたかった。やがて静の前に逢わせたいよ。」
「静といえば。」
「乗出すなよ。こいつ、昨夜ゆうべ遊女おいらんか。」
「そんなものは名も知らない。てんで顔を見せないんだから。」
自棄やけをいうなよ、そこが息子の辛抱どころだ。その遊女おんなに、馴染なじみをつけて、このぬし辻町様(おん箸入)に、象牙が入って、蝶足の膳につかなくっちゃ。……もっともこの箸、万客に通ずる事は、口紅と同じだがね、ははは。」
「おって教授に預ろうよ。そんな事より、私のいうのは、昨夜ゆうべそれ引前ひけまえを茶屋へのたり込んだ時、籠洋燈かごらんぷわきで手紙を書いていた、巻紙に筆を持添えて……」
「写実、写実。」
「目のりんとした、一の字眉の、瓜実顔うりざねがおの、すそを引いたなり薄い片膝立てで黒縮緬の羽織を着ていた、芸妓島田げいこしまだの。」
「うむ、それだ。それは婀娜あだなり……それに似て、これは素研清楚こうしょうせいそなり、というのを不忍の池で。……」
 と、半ば口で消して、
「さあ、お酌だ。重ねたり。」
「あれは、内芸者というんだろう。ために傘を遠慮した茶屋の女房なぞとは、較べものにならなかったよ。」
「よくない、よくない量見だ。」
 と、法師は大きく手を振って、
「原稿料じゃ当分のうち間に合いません。稿料不如しかず傘二本か。一本だと寺を退く坊主になるし、三本目には下り松か、遣切やりきれない。」
 と握拳にぎりこぶしで、猫板ドンとやって、
「糸ちゃん! お互にちっと植上げをする工夫はないかい。」
 と、喟然きぜんとして歎じて、こんどは、ぐたりとその板へひじをつく。
「へい、へい、おそなわりましてござります。」
 爪の黒ずんだ婆さんの、皺頸しわくび垢手拭あかてぬぐいを巻いたのが、からびた葡萄豆ぶどうまめを、小皿にして、げた汁椀を二つ添えて、盆を、ぬい、と突出した。片手に、旦那様穿換はきかえの古足袋を握っている。
「ああ、これだ。」と、喟然として歎じて、こんどは、畳へ手をついた。
 このやといにさえ、弦光法師は配慮した。……俥賃には足りなくても、安肉四半斤……二十匁以上、三十匁以内だけの料はある。竹の皮包を土産らしく提げて帰れば、さとから空腹すきばらだ、とは思うまい。――内証だが、ここで糸七は実は焼芋を主張した。かて温石おんじゃくと凍餓共に救う、万全の策だったのである、けれども、いやしくも文学者たるべきものの、紅玉ルビー緑宝玉エメラルド、宝玉を秘め置くべき胸から、黄色に焦げたにおいを放って、手を懐中ふところに暖めたとあっては、蕎麦屋そばやの、もり二杯の小婢の、ぼろ前垂まえだれの下に手首を突込むのと軌を一にする、と云ってしりぞけた。良策の用いられざるや、古今敗亡のそれこそ、軌を一にする処である。
 が、途中まず無事に三橋まで引上げた。池の端となって見たがいい、時を得顔の梅柳が、行ったり来たり緋縮緬に、ゆうぜんに、白いものをちらちらと、人を悩す朝である。はたそれ、二階の欄干てすり、小窓などから、下界をのぞいて――野郎めが、「ああ降ったる雪かな、あの二人のもの、みのを着れば景色になるのに。」――おんなめが、「なぜまたしじみを売らないだろう。」と置炬燵おきごたつで、白魚鍋しらおなべでもつつかれてみろ、畜生! 吹雪に倒るればといって、黒塀の描割かきわりの下が通れるものか。――そこで、どんどんから忍川の柵内へ、池のまわり、雪の原へ迷込んだ次第であったが。……

       二十四

「ありがたい、この、汁レルから湯気が立つ。」
 と、味噌椀の蓋を落して、かぶりついた糸七が、
「何だ、中味は芋※殻いもがら[#「くさかんむり/哽のつくり」、71-10]か、下手な飜訳みたいだね。」
「そういうなよ、漂母のさんだよ。婆やの里から来たんだよ。」
「それだから焼芋を主張したのに、ほぐして入れると直ぐにになる。」
「仲之町の芸者の噂のあとへ、それだけは、その、焼芋、焼芋だけはあやまるよ。」
 と、弦光がつむりを下げた。
 同感である。――糸七のおなじ話でも、紅玉ルビー緑宝玉エメラルドだと取次ばえがするが、何分焼芋はあやまる。安っぽいばかりか、稚気が過ぎよう。近頃は作者夥間なかまも、ひとりぎめに偉くなって、割前の宴会のみかいの座敷でなく、我が家の大広間で、脇息きょうそくと名づくる殿様道具のおしまずきって、近う……などと、若い人たちをあごさしまね剽軽者ひょうきんものさえあると聞く。ほのかに聞くにつけても、それらの面々の面目に係ると悪い。むかし、八里半、僭称せんしょうして十三里、一名、書生の羊羹、ともいった、ポテト……どうも脇息向のせんでない。

 ついこの間の事――ある大書店の支配人が見えた。関東名代の、強弓つよゆみの達者で、しかも苦労人だと聞いたが違いない。……話の中に、田舎から十四で上京した時は、鍛冶町辺の金物屋へ小僧で子守に使われた。泥濘ぬかるみで、小銅五厘を拾った事がある。小銅五厘なり、交番へ届けると、このおさばきが面白い、「おはん金鍔きんつばを食うがかッ。」勇んで飛込んだ菓子屋が、立派過ぎた。「余所よそへ行きな、金鍔一つは売られない。」という。そこで焼芋。
 と、活機きっかけに作者が、
「三つ。」
 声と共に、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)※(「口+云」、第3水準1-14-87)あうんの呼吸で、支配人が指を三本。……こうなると焼芋にも禅がある。
 が、何しろ、煮豆だの、芋※[#「くさかんむり/哽のつくり」、72-15]殻だのと相並んで、婆やが持出した膳もさめるし、新聞の座がさめる。ものが清新でないのである。
 不精髯ぶしょうひげも大分のびた。一つ髪でも洗って来ようと、最近人に教えられ、いくらか馴染になった、有楽町辺の大石造館十三階、地階の床屋へ行くと、お帽子お外套というもきまりの悪いしろものがぼたんで棚へ入って、「お目金、」と四度半が手近な手函てばこすわる、歯科のほかでは知らなかった、椅子がぜんまいでギギイと巻上る……といったいきおい。しゃぼんの泡は、糸七が吉原返りに緒をしめた雪の烏帽子ほどにかぶさる。冷い香水がざっと流れる。どこか場末の床店とこみせが、指のさきで、そっとクリームをいてで広げて息で伸ばして、ちょんぼりと髯剃あとへ塗る手際などとは格別の沙汰で、しかもその場末より高くない。
 お職人が念のために、分け目をじっると、やっこ、いや、少年の助手が、肩から足の上まで刷毛はけを掛ける。「お麁末様そまつさま。」「お世話でした。」とい気持になって、ドアを出ると、大理石の床続きの隣、パール(真珠)と云うレストランに青衿菫衣せいきんきんいの好女子ひとりあり、緑扉りょくひりてたたずめり。
「番町さん。」
「…………」
「泉さん。」
 驚いて縮めた近目のしわを、莞爾にっこり……でもって、鼻の下まで伸ばさせて、
「床屋へお入んなったのを……どうもそうらしいと思ったもんですから、お帰り時分を待っていたの、寄ってらっしゃいよ。」
「は、いや、その。」
 ああ、そうか、思い出した。この真珠パールの本店が築地の割烹かっぽう懐石で、そこに、月並に、懇意なものの会がある。客が立込んだ時ここから選抜えりぬきでけに来た、その一人である。
「どこかへいらっしゃる、ちょっと紅茶でも。」
 面喰めんくらったあわただしい中にも、忽然として、いつぞのむかし吉原の横町の、ずるずる引摺ひきずった青いすそと、あか扱帯しごきと、脂臭やにくさい吸いつけ煙草を憶起おもいおこすと、憶起す要はないのに、独りで恥しくなって、横を向いた。
「お可厭いや。」
「飛んでもない。」
「あら、ご挨拶。」
「飛んでもない。可厭なものかね。」
「お世辞のいいこと、熱燗あつかんも存じております。どうぞ――さあいらっしゃい。」

       二十五

「人が見てはいやなんでしょう。おれなさらない場所ですから。――あいにく三組ばかり宴会があって、多勢お見えになっていますから。……ああと……こっちが可いわ。」
 拙者生れてより、今この年配としで、人見知りはしないというのに、さらさら三方をカーテンで囲って、
のぞいちゃ不可いけません。」
 何事だろうと、布目を覗く若いをたしなめて、内の障子より清純きれいだというのに、卓子掛てえぶるかけの上へ真新しいのをまた一枚敷いて、その上をしなった指で一のし伸して、
「お紅茶?」
「いや、酒です、燗を熱く。」
「分っていますわ。」
「それから、勿論食べます。」
「お無駄をなさらないでも。」
「食べますとも、空腹です。そこで、お任せ、という処だけれど、鳥を。」
「蒸焼にしましょう、よく、火を通して。」
 それまで御存じか、感謝を表して、一礼すると、もう居なくなる。
 すっと入交いれかわったのが、の大きい、色の白い、年の若い、あれは何と云うのか、引緊ひきしまったスカートで、肩がふわりと胴が細って、腰の肉置ししおき、しかも、そのゆたかなのがりんりんとしている。
「私も築地で……先日は。」
 乳のふくらみを卓子テエブルに近く寄せて朗かに莞爾にっこりした。そのよそおい四辺あたりを払って、泰西の物語に聞く、少年の騎士ナイトさわやかよろったようだ。高靴のかかととがりを見ると、そのままポンとて、馬にって、いきなり窓の外を、棟を飛んで、避雷針の上へ出そうに見える。
 カーネーション、フリージヤの陰へ、ひしゃげた煙管きせるを出してけようとしていたが、火燧マッチをパッとさし寄せられると、かかる騎士に対して、脂下やにさがる次第にはかない。雁首がんくび俯向うつむけにして、内端うちわに吸いつけて、
「有難う。」
 と、まず落着こうとして、ふと、さあ落着かれぬ。
「はてな、や、忘れた。」
「え。」
「下足札。」
 吃驚びつくりしたように顔を見たが、
「そこに穿いていらっしゃるじゃないの。」
 実は外套を預けた時、札を貰わなかったのを、うっかりと下足札。ああ、面目次第もない。
 騎士ナイトが悟って、おかしがって、笑う事笑う事、上身をほとんど旋廻して、よろい腹筋はらすじる処へ、以前のが、銚子を持参。で、入れかわるように駆出した。
「お帽子もステッキも、私が預ったじゃありませんか。安心してめしあがれ。あの方、今日は会計係、がちゃがちゃん、ごとンなの。……お酌をしますわ。」
 やがて少々、とろりとなって、「さてそこへ立っていちゃ、ああ成程――風紀上、もっともです……と、従って杯は。」
「さあ。(あたりを忍び目、カーテンばかり。)ちょっと一杯ひとつぐらい……お盃洗がなくて不可いけませんわね。」
「いや、特に感謝します、結構です。」
「あの、番町さん。私あの辺を知っていますわ。――学院の出ですもの。」
「ほう、すると英学者だ、そのお酌では恐縮です、が超恐縮で、光栄です。」
 焼を念入に注意したが、もう出来たろうと、そこで運出はこびだした一枚は、胸を引いて吃驚するほどな大皿に、添えものがうずたかく、鳥の片股かたもも譬喩たとえはさもしいが、それ、支配人が指を三本の焼芋を一束ひとつかねにしたのに、ズキリと脚がついた処は、大江山の精進日の尾頭ほどある、ピカピカと小刀ナイフ肉叉フォーク、これが見事に光るので、呆れて見ていると、あがりにくくば、取分けて、で、折返して小さめの、皿に、小形小刀の、肉叉がまたきらりと光る。
「ご念の入った事で……光栄です、ありがたい。」
「……お気にめして……おいしいこと。……まあ、嬉しい。それはね、手で持って、めしあがって、結構よ。」
「構いませんか、そいつはい、光栄です。」
 おおせに従うと、口のまわりが……
「はい、お手拭。」

       二十六

 お会計はあちらで、がちゃがちゃがちゃんの方なんですが……ここで……分っていますからと、鉛筆を軽く紙片に走らせた。
 この会計だが、この分では、物価騰昇とうしょう寒さのみぎり堅炭かたずみ三俵が処と観念のほぞを固めたのに、
「おうう、こんな事で。……光栄です。」
「お給仕の分もついておりますから、ご心配なく。」
「いよいよ光栄です。」
 と思わず口へ出た。床屋の分を倍額に、少し内へ引込んだのである。ここにおいて、番町さんの、泉、はじめて悠然として、下足を出口へ運ぶと、クローク(預所あずかりしょ)とかで、青衿が、外套を受取って、着せてくれて、帽子、ステッキ、またどうぞ、というのが、それ覚えてか、いつのこと……。後朝きぬぎぬに、冷い拳固を背中へくらったのとはたちが違う。
 ああ、世も許し、人も許し、何よりも自分も許して、今時も河岸をぞめいているのであったら、ここでぷッつりと数珠を切る処だ!……思えば、むかし、夥間なかまの飲友達の、遊びほうけて、多日しばらく寄附よりつかなかった本郷の叔母さんのもとを訪ねたのがあった。お柏で寝る夜具より三倍ふっくらした坐蒲団すわりぶとん。濃いお茶が入って、お前さんの好きな藤村の焼ぎんとんだよ、おあがり、今では宗旨が違うかい。連雀れんじゃくの藪蕎麦が近いから、あの佳味おいしいので一銚子、と言われて涙を流した。親身の情……これが無銭ただである。さても、どれほどの好男いいおとこに生れかわって、どれほどの金子かねを使ったら、遊んでこれだけ好遇もてるだろう。――しかるにもかかわらず、迷いは、その叔母さんに俥賃を強請ゆすって北廓なかへ飛んだ。耽溺たんでき、痴乱、迷妄めいもうの余り、夢ともうつつともなく、「おれの葬礼とむらいはいつ出る。」と云って、無理心中かと、遊女おいらんを驚かし、二階中を騒がせた男がある。
 これにつけ、またそれよ、壱岐殿坂で鼠のいんを結んでより、雪の中を傘なしで、池の端まで、などと云うにつけても、天保銭を車に積んで切通しを飛んだ、思案入道殿の方が柄が大きい。……その意気や、仙台、紀文を凌駕りょうがするものである。
 と、大理石の建物にはあるまじき、ひょろひょろとした楽書らくがきの形になってたたずむ処に、おほりの方から、円タクが、するすると流して来て、運転手台から、仰向あおむけに指を三本出した。
「これだ。」
 外套の袖を浮せて膝をたたいた。番町は、何のために、この床屋へ来たんだ。あまりそこらに焼芋のにおいがするから、気をかえようと髪を洗いに来たのである。そうだ、焼芋の事を、ここにちなんで(真珠)としよう。
 ものは称呼となえも大事である。辻町糸七が、その時もし、真珠、と云って策を立てたら、弦光も即諾して、こまぎれ同然な竹の皮包は持たなかったに違いない。雪に真珠を食にて、真珠をもって手を暖むとせんか、含玉鳳炭がんぎょくほうたん奢侈しゃしけだし開元天宝の豪華である。
 即時、その三本に二貫たして、円タクで帰ったが、さて、思うに大分道草――(これも真珠としよう)――真珠を食った。
 茅町の弦光の借屋の膳の上には、芋がらの汁と、葡萄豆ぽっちり、牛鍋には糸菎蒻ばかりが、火だけはさかんだから炎天の蚯蚓みみずのようだ、焦げて残っている、と云った処で、真珠を食ったあとだから、気がおごって、そんなものには、構っておられん。
 本文を取急ごう。
 その主意たるや、要するに矢野弦光が、その日、今朝、しんもって、月村一雪、お京さんの雪の姿に惚れたのである。
 一升徳利の転がったを枕にして、投足の片膝組みの仰向けで、酒の酔を陰に沈めて、天井を睨んでいたのが、むっくり、がばと起きると、どたりと凭掛よりかかったまま、窓下の机をハタと打った。崖下の雪解の音は余所よそよりも。……
 いま、障子外の雨落のしずくがこの響きでねそうであった。
「糸こう。」
「ええ、驚いた。」
 この方は、袖よじれに横倒れで、鉄張りの煙管を持った手を投出したまま、吸殻を忘れたらしい、畳に焼焦――最も紳士の恥ずべきこと――をこしらえながら、うとうとしていた。
「呼んだぐらいで驚いてくれちゃ困る。よ、糸こう、いい名だなあ、従兄弟いとこに聞えて、親身のようだ。そのつもりで聞いてくれよ。ああ私は実は酔わん、酔えなかったんだよ。生れて三十年にして、いま目が覚めた。――ついてはだ。」

       二十七

「――賛成だ、至極いいよ。私たち風来とは違って、矢野には学士の肩書がある。――御縁談は、と来ると、悪く老成おやじじみるが仕方がない……として、わけなくまとまるだろうと思うがね、実はこのお取次は、私じゃ不可まずいよ。」
「そう、そう、そう来るだろうと思ったんだ。が、こうなれば刺違えても今更糸こうに譲って、指をくわえて、引込ひっこみはしない。」
 と、わざとらしいまで、膝の上でこぶしを握ると、糸七はもない顔で、
「何を刺違えるんだ、間違えているんだろう。」
「だってそうじゃないか、いつか雑誌に写真が出ていたそうだが、そんなものはほとんど眼中になかった。今朝の雪は不意打さ。俥で帰ると、追分で一生の道が南北へ分れるのを、ほんとうに一呼吸という処で、不思議な縁で……どうも言う事が甘ったるいが、どうもどうも、腹の底まで汁粉に化けた。
 ――氷月の雪の枝折戸しおりどを、片手ざしの渋蛇目傘しぶじゃのめで、いて入るようにつまを上げた雨衣あまぐの裾の板じめだか、鹿子絞りだか、あの緋色がよ、またただ美しさじゃない、清さ、と云ったら。……ここをいうのだ、茶屋の女房の浅黄縮緬のちらちらなぞは、突っくるみものの寄切よせぎれだよ、……目も覚め、むねみようじゃないか。
 ……同時に、時々の出入りとまでしばしばでなくても、同門の友輩ともだちで知合ってる糸こうが、少くとも、岡惚れを。」
「その事かい、何だ。」
 と笑いもカラカラと五徳に響いて、煙管をはたいた。
対手あいては素人だ、はばかりながら。」
昨夜ゆうべ振られてもかい。」
「勿論。」
「直言を感謝す。」
 と俯向うつむいて、袖口をのばすように膝に手を長く置き、
「人さかんなる時は、娘に勝ち、人衰うる時は女房が欲しい。……その意気だ。が、そうすると、話に乗ってくれるのに、また何が不都合だろう。」
「月村としょうが合わないんだ。先方さきは言うまでもなかろうが、私も虫が好かないんだ。ぜんにね、月村が随筆を書いた事がある。燈籠見に誘われて、はじめてくるわのぞいたというんだがね、雑誌の編輯でも、女というと優待するよ。――年方としかたの挿絵でね、編中の見物の中に月村の似顔の娘が立っている。」
「素晴しいね。早速捜そう。」
「見るんなら内にあるよ。その随筆だがね、足が土についていない。お高く中洲の中二階、いや三階あたりに。――政党出の府会議員――一雪の親だよ――その令嬢が、自分一人。女は生れさえすりゃ誰でも処女だ、純潔だのに、一人で純潔がって廓の売色を、けがれた、ただれた、浅ましい、とその上に、余計な事を、あわれがって、慈善家がって、おつう済まして、ツンと気取った。」
「おおおお念入りだ。」
「そいつがしゃくに障ったから。――折から、焼芋(訂正)真珠を、食過ぎたせいか、私が脚気かっけになってね。」
「色気がないなあ。」
祖母としよりに小豆を煮て貰って、三度、三度。」
せよ、……今、酒を追加する……小豆は意気を銷沈しょうちんせしめる。」
「意気銷沈より脚気衝心しょうしん可恐こわかったんだ。――そこで、その小豆を喰いながら、わたいらが、売女なら、どうしよってんだい、小姐ちいねえさん、内々の紐が、ぶら下ったり、爪の掃除をしない方が、余程よっぽど汚れた、頽れた、浅ましい。……塩みがきの私らを大きにお世話だ、お茶でもあがれ、とべっかっこをして見せた。」
「そうだろう、べっかっこでなくっちゃ筋は通らない。まともに弁じて、汚れた売女を憎んだのじゃない、あわれんだに……無理はないから。」
「勿論、つけた題が『べっかっこ。』さ――」
「見たいな、糸七……本名か。」
「まさか――署名は――江戸町河岸の、紫。おなじ雑誌の翌月の雑録さ。令嬢は随。……野郎は雑。――編輯部の取扱いが違うんだ。」
「辛うじて一坂越したよ、お互に、静かに、静かに。」
 弦光は一息ふッ、日のあたる窓下の机のほこりを吹き、吹いた後を絹切ではらった。

       二十八

「それでも、上杉先生の、詞成堂――台町の山の屋敷の庭続き崖下にあるやれ借家……矢野も二三度遊びに行ったね、あの塾の、小部屋小部屋に割居して、世間ものの活字にはまだ一度も文選されない、雑誌の半面、新聞の五行でも、そいつを狙って、鷹の目、ふくろうの爪で、待機中の友達のね、墨色の薄いのと、字のまずいのばかり、先生にまだしも叱正を得て、色の恋のと、少しばかり甘たれかかると、たちまち朱筆の一棒をくらうだけで、気の吐きどころのない、ぐうを負う虎、壁裏の蝙蝠こうもり穴籠あなごもりの熊か、中には瓜子うりこという可憐なのも、気ばかり手負の荒猪あらじしだろう。
 見す見す一雪女史にせんを越されて、畜生め、でいる処へ、私のその『べっかっこ』だ、った! 行った! 痛快! などと喝采だから、内々得意でいたっけが――一日あるひ、久しく御不沙汰で、台町へ機嫌伺いに出た処が、三和土たたきに、見馴れた二足の下駄が揃えてある。先生お出掛けらしい。玄関には下の塾から交代の当番で、弁持十二が居るのさ。日曜だったし……すぐの座敷で、先生は箪笥たんすの前で着換えの最中、博多の帯をきりりとしまった処なんだ。令夫人は藤色の手柄の高尚こうとう円髷まるまげで袴を持って支膝つきひざという処へ、敷居越にこのつらが、ヌッと出た、と思いたまえ。」
「その顔だね。」
「このつらだ。――今朝なぞは特に拙いよ。「糸。」縮んだよ、先生の声が激しい。「お前、中洲のお京の悪口を書いたそうだな。」いきなりだろう、へどもどした。「は、いえ、別に。」「何、何を……悪気はない。悪気がなくって、悪口あっこうを、何だ、洒落しゃれだ。黙んな、黙んな。洒落は一廉ひとかどの人間のする事、云う事だ。そのつらで洒落なんぞ、第一読者に対して無礼だよ。べっかっこが聞いて呆れる。そのべっかっこという面を俺の前へ出して見ろ。うわさに聞けば、友子づれで、吉原の河岸をせせって。格子へ飛びつくというから、だぼ沙魚はぜのようになりやがった。――弁持……」十二のくすくす笑っているのを呼びかけて、「どぶをせせって、格子へ飛びつくのは、だぼ沙魚じゃない……お前はよく、くだらない事を知っている、何だっけな。」弁持が鹿爪らしく、「は、飛沙魚とびはぜです、は。」「飛沙魚だ、贅沢ぜいたくだ。もぐり沙魚の孑孑ぼうふらだ。――先方さきは女だ、娘だよ。可哀そうに、(口惜くやしいか、)と俺が聞いたら、(恥かしい、)と云って、ほろりとしたんだ、袖で顔を隠したよ。孑孑め、女だって友だちだ、頼みある夥間なかまじゃないか。黒髪を腰へさばいた、緋縅ひおどしの若い女が、敵の城へ一番乗で塀際へ着いた処を、孑孑が這上はいあがって、乳の下をくすぐって、同じどぶの中へ引込むんだ。」と……」
「分った、もうい、もう可い。」
 と弦光は膝も浮きそうに、火鉢の向うで、肩をわななかせて、手を振った。
「雪のごとき、玉のごとき、乳の下を……串戯じょうだんにしろ、話にしろ、ものの譬喩たとえにしろ、聞いちゃおられん。私には、今日こんにち今朝こんちょうよりの私には――ははははは。」
 寂しい笑いで、
「話はおかしいが、大心配な事が出来た。糸こうの先生、上杉さんは、その様子じゃ大分一雪女史が贔屓ひいきらしい。あの容色きりょうで、しんなりと肩で嬌態あまえて、机のそばよ。先生が二階の時なぞは、令夫人ややおだやかならずというんじゃないかな。」
串戯じょうだんじゃない、片田舎の面疱にきびだらけの心得違こころえちがいの教員なぞじゃあるまいし、女の弟子を。失礼だ。」
「失礼、結構、失礼で安心した。しかし、一言でそうむきになって、腰のものを振廻すなよ。だから振られるんだ、遊女おいらん持てのしない小道具だ。淀屋よどやか何か知らないが、黒の合羽張かっぱばり両提ふたつさげ煙草入たばこいれ、火皿までついてるが、何じゃ、塾じゃ揃いかい。」
「先生に貰ったんだ。弁持と二人さ、あとは巻莨まきたばこだからね。」
「何しろ真田さなだの郎党がかくし持った張抜の短銃たんづつと来て、物騒だ。」
「こんなものを物騒がって、一雪を細君に……しっかりおしよ。月村はね、駿河台へ通って、依田学海翁に学んでいるんだ。」
 と居直った。

       二十九

「学海翁に。」
 弦光は※(「目+登」、第3水準1-88-91)とうもく一番した。
「まさか剣術じゃあるまいな。それじゃ、僧正坊の術譲りと……そうか、言わずとも白氏文集。さもありなん、これぞ淑女のたしなむ処よ。」
「違う違う、稗史はいしだそうだ。」
「まさか、金瓶梅きんぺいばい……」
紅楼夢こうろうむかも知れないよ。」
「何だ、紅楼夢だ。しん代第一の艶書、翁が得意だと聞いてはいるが、待った、待った。」
 と上目づかいに、酒の呼吸いきを、ふっと吐いて、
「学海説一雪紅楼夢いっせつにこうろうむをとく――待った、待った、第一の艶書を、あのに説かれては穏かでない。」
「教ゆ。授く。」
「……教ゆ。授く。気になる、気になる。」
「施す。」
「……施す、妙だ。いや、待った。待った。」
 とてのひらで押えて留めるとともに、今度は、ぐっと深く目をつむって、
「学海施一雪紅楼夢――や不可いけねえ。あのひげが白い頸脚えりあしへ触るようだ。女教員渚の方は閑話休題として、前刻さっき入って行った氷月の小座敷に天狗てんぐの面でもかかっていやしないか、悪くひねって払子ほっすなぞが。大変だ、胸がどきどきして来たぞ。」
 弦光はわざとらしく胸をわななかせたと思うと、その胸をらし、畳後たたみうしろへ両の手をどさんといた。
「安心するがいい。誰が紅楼夢だときめたよ、一人で慌てているんじゃないか。一雪の習ってるのは水滸伝すいこでんだとさ、白文でね。」
「何、水滸伝。はてな、妙齢の姿色、忽然こつねんとして剣侠けんきょう下地だ、うっかりしちゃいられない。」
 とおもてを正しく、口元をめて坐り直し、
「寝ているうちに、匕首ひしゅが飛んで首をさらうんだ、恐るべし……どころでない、魂魄こんぱくをひょいとつかんで、血の道の薬に持ってく。それも、もう他事ひとごとではない、既に今朝の雪の朝茶の子に、肝まで抜かれて、ぐったりとしているんだ。聞けば聞得で、なお有難い。その様子じゃ――調ったとして婚礼の時は、薙刀なぎなたの先払い、新夫人はにしきの帯に守刀というんだね。夢にでも見たいよ、そんなのを。……
 ……といううちにも、糸こう糸的きみはひとりで目の覚めた顔をして澄ましているが、内で話した、外で逢ったという気振けぶりも見せない癖に、よく、そんな、……お京さんいい名だなあ、そのの駿河台の研学の科目なぞを知っているね。あいつ、高慢だことの、ツンとしているのと、口でけなして何とかじゃないのかい。刺違えるならここで頼む。お互に怪我はしても、生命いのちに別条のない決闘なら、立処たちどころにしようと云うんだ。俺はもう目がすわっている、真剣だよ。」
対手あいてにならないが、次第わけは話そう。――それ、弁持の甘き、月府のきさ、誰某たれそれと……久須利苦生の苦きに至るまで、目下、素人堅気輩には用なしだ。誰が売女くろうとに好かれるか、それは知らないけれどもだよ。――塾の中に一人、自ら、新派の伊井蓉峰ようほうに「似てるです。」と云って、あごを撫でる色白な鼻の突出た男がいる。映山先生がれ聞いてね、渾名あだなして、曰く――荷高似内にたかにない――何だか勘平と伴内を捏合こねあわせたようだけれど、おもしろかろう。ところがこれだけが素人ばりの、大の、しんし。」
「大のしんし、いいとこの息子、きんありかい。」
「お互に懐中は寂しいね、一杯おつぎよ、満々と。しんしと聞いていい許の息子かは慌て過ぎる、大晦日おおみそかに財布を落したようだ。しんしだよ、張物に使う。……押を強く張る事経師屋以上でね。着想に、文章に、共鳴するとか何とか唱えて、この男ばかりが、ちょいちょい、中洲の月村へ出向くのさ。隅田おおかわに向いた中二階で、蒔絵まきえの小机の前を白魚しらお船がすぐ通る、欄干にもたれて、二人で月をた、などと云う、これが、駿河台へ行く一雪の日取まで知っているんだ。
 だんまりでは相済まないと思って、「先生、わたくしも、京子とともに無点本の水滸伝。」上杉先生が、「そのひまに、すいとんか、おでんを売れ。」「ははっ。」とこそは荷高似内、口をへの字にあごの下まで結んで鼻を一すすり、無念の思入で畳をすごすごと退さがる処は、旧派の花道の引込ひっこみさ。」
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
 弦光は猫板に握拳にぎりこぶしを、むずと出して、
驚破すわ、驚破、その短銃たんづつという煙草入を意気込んで持直した、いざとなると、やっぱり、辻町が敵なのか。」
「噴出さしちゃ不可いけないぜ。私は最初はなから、気にも留めていなかった、まったくだ。いまこう真剣となると、黙っちゃいられない。対手あいてがある、美芸青雲派の、矢野きみも知ってる名高い絵工えかきだ。」

       三十

「――野土青麟のづちせいりんだよ。」
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に可厭いややつ。」
「当代無類の気障きざだ。」
 声をはやって、言うとともに、火鉢越に二人が思わず握手した。
(……ふと思うと、前段に述べた、作者が、真珠やきいも三枚みッつで、書店の支配人と、ばらりの調子で声と指を合わせたと、趣をひとしゅうする。)
「絵だけ描いていれぱ、当人も世間も助かるものを、紫の太緒ふとひもを胸高々と、紋緞子もんどんすはかま引摺ひきずって、ひとが油断をしようものなら、白襟を重ねて出やがる。歯茎が真黒まっくろだというが。」
 この弦光の言、――聞くべし、特説なり
「乱杭、歯くそかくし鉄漿かねをつけて、どうだい、そのざまで、全国の女子の服装を改良しようの、音楽を古代にかえすの、美術をどうのと、鼻のさきで議論をして、舌で世間をめやがる。爪垢つまあかで楽譜を汚して、万葉、古今を、あの臭い息で笛で吹くんだ。生命いのち知らずが、誰にも解りこないから、歌を一つ一つ、異変、畜類な声を張り、高らかにうたって、続くは横笛、ひゃらひゅで、緞子袴の膝をたたくと、一座を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわし、ほほほ、と笑って、おほん、と反るんだ。たまらないと言っちゃない。あいつ、麟を改めてうろことすればいい、青大将め。――聞けばそいつが(次第前後す、段々解る)その三崎町のお伽堂とかでとぐろを巻いて黒い舌をべらべらとやるのかい。」
「横笛は、八本の調子を、もう一本上げたいほど高い処で張ってるのさ。貸本屋へしけ込むのは、道士逸人いつじん、どれも膏切あぶらぎった髑髏しゃれこうべと、竹如意ちくにょいなんだよ――「ちとお慰みにごらん遊ばせ。」――などとお時の声色をそのまま、手や肩へ貸本ぐるみしなだれかかる。女房がまた、背筋や袖をしなり、くなり、自由にまれながら、どうだい頬辺ほっぺたと膝へ、道士、逸人の面を附着くッつけたままで、口絵の色っぽい処を見せる、ゆうぜんが溢出はみでるなぞは、地獄変相、極楽、いや天国変態の図だ。」
「図かい。」
「図だよ。」
「見料は高かろう。」
「高い、何、見料どころか、この図をながら、ちょんぼりひげの亭主が、「えへへ、ごさかんこつだい。」いきおいの趣くところ、とうとう袴を穿いて、辻の角の(安旅籠やすはたご)へ、両画伯を招待さ……「見苦しゅうはごわすが、料理店は余り露骨……」料理屋の余り露骨は可訝おかしいがね、腰掛同然の店だからさ、そこから、むすび針魚さよりわん、赤貝の酢などという代表的なやつを並べると、お時が店をしめて、台所から、これが、どうだい葛籠つづらに秘め置いた小紋の小袖に、繻珍しゅちんの帯という扮装いでたちで画伯ご所望の前垂まえだれをはずしてお取持さ。色紙、短冊、扇面、紙本、立どころに、雨となり、雲となり……いや少し慎もう……竹となり、蘭となる。……情流既に枯渇して、今はただ金慾きんよくく髯だからね。向うの写真館の、それ「三大画伯お写真。」へは、三崎座の看板前、大道の皿廻しほどには人だかりがするんだから、考えたんだよ。
(――これ皆、中洲を伺い、三崎町を覗く、荷高似内の見聞して報ずるところさ。)
 ところで、青麟――青麟と中洲の関係は、はじめ、ただ、貸本屋から本を借りるには、帳面へ、所番地を控える常規きまりだ。きっと、馴染か、その時が初めかは分らないが、店頭みせさきで見たお嬢さんの住居すまいも名も、すぐ分るだろう、というので、誰に見せる気だか薄化粧うすげって。」
白粉おしろいを?……遣るだろう!」
「すぼめ口に紅をつけて「ほほほ景気はどうかね。」とお伽堂へ一人で青麟があらわれたそうだ。この方は、女房の手にも足にも触りっこなし、傍へ寄ろうともしない澄まし方、納まり方だそうだが、見ていると、むかっとする、離れていても胸が悪い、口をきかれると、虫唾むしずが走る、ほほほ、と笑われると、ぐ、ぐ、と我知らず、お時が胸へ嘔上こみあげて、あとで黄色い水を吐く……」
「聞いちゃおられん、そ、そいつが我がお京さんを。」
「痛い、痛い。」
「あ、何度めだい、また握手した。糸こうもよく一息に饒舌しゃべったなあ。」

       三十一

「まず握手を解こう。両方がこう意気込んでは、青麟輩に――断って置くが、意地にも我慢にも、所得は違うが――彼等に対して、いやしくも、糸七、弦光二人がかりのようで癪に障る。そこで、大切なその話はどうなったんだい。」
「……いずれ、その安料理屋へ青麟を請待しょうだいさ。こいつは、あと二人より大分に値が違うそうだからね。その節は、席を改めまして、が、富士見楼どころだろう。お伽堂の亭主の策略さ。
 そこへ、愛読のくるま、一つ飛べば敬拝の馬車に乗せて、今を花形の女義太夫もどきで中洲の中二階から、一雪をおびき出す。」
「三崎町へ、いいえさ、地獄変相の図の中へな、ううう。」
「せき込むなよ……という事も出来るし、亭主がまた髯をひねって、「先方御親父しんぷが、府会議員とごわすれば、直接に打附ぶつかって見るも手廻しが早いでごわす。久しく県庁に勤めたで、大なり、小なり議員を扱う手心も承知でごわす。」などという段取になってるそうだ。」
 弦光がこの時、腕をこまぬいた。
「少からずうるさいな、いつからだね、そんな事のはじまってるのは。」
「初冬から年末……ははは、いやに仲人染みたぜ……そち以来こちだそうだ。」
「……だそうじゃ不可いけないよ、冷淡だよ、友達がいのない。」
「頼まれたのは、今日はじめてじゃないか。」
「それにしても冷淡過ぎるよ。――したたかに中洲へ魔手が伸びているのに。」
「私は中洲が煮て喰われようが、焼いて……不可いけない、人道の問題だ。ただし、呼出されようが、出されまいが、喰わそうが喰わすまいが、一雪の勝手だから、そんな事は構っちゃいられん。……不首尾重って途絶えているけれど、中洲より洲崎すさき遊女おんなが大切なんだ。しかし、心配は要るまいと思う。荷高の偵察によれば――不思議な日、不思議な場合、も知れない悪臭い汚い点滴したたりが頬を汚して、一雪が、お伽堂へ駆込んだ時、あとで中洲の背後うしろ覆被おいかぶさった三人のうちにも、青麟の黒い舌の臭気が頬にかかった臭さと同じだ、というのを、荷高が、またお時から、又聞またぎき、孫引に聞いている。お時でさえ黄水を吐く。一雪はめられると血を吐くだろう、話にはなりゃしないよ。」
 弦光は案じ入って、立処たちどころに年を取ることとおばかり。
「いやいや、そうでない。すべて悲劇はそこらで起る。不思議に、そんな縁の――万々一あるまいが――結ばる事が、事実としてありかねない。予感が良くない。胸が騒ぐ。……糸ちゃん、すぐにもお伽堂とかへ行って。」
「そいつは、そいつは不可いけない……」
「なぜだよ、どうもお伽堂というのは、糸こうの知合からはじまった事らしいのに、妙に自分を除外して、荷高ばかりを廻しているし、第一、中洲がだね、二三度、その店へきながら、糸こうのうわさなぞをしないらしいのは、おかしいじゃないか。」
「ちっともしない、何にも言わない。またこっちも、うわさなんかして貰いたくないんだよ。」
――(様子を見ると、仔細しさい※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)いかに、京子が『たそがれ』を借りた事など、女房は、それに一言も及ばぬらしい。)――
「ただ、いかんせん、亭主に高利の借がある。催促が厳しいんだ。亭主の催促が厳しいのに――そこを蔭になり、日向になり、「あなたア」などとその目でじろりと遣るだろう……白肉の柔いたてになって、かばってくれようという――女房を、その上に、近い頃また痛めつけた。」
「誰だい、髑髏かい、竹如意かい。」
「また急込せきこむよ。中洲の話になってからというものは、どうも、骨董こっとうはあせって不可いけない。話の続きでも知れてるじゃないか。……高利の借りぬし、かくいう牛骨、私とそれに弁持十二さ。」
「何だ二人でか、まさか、そんな竹如意、髑髏の亜流のごとき……」
「黙るよ、私は。失礼な、素人を馬鹿な、誰が失礼を。」
「はやまった、ことばのはずみだ、逸外はやまった。その短銃たんづつを、すぐに引掴ひっつかんで引金をひねくるから殺風景だ。」
「けれどもね。実は、その時の光景というのが、短銃と短刀同然だったよ。弁持と二人で、女房を引挟ひっぱさんで。」
 といって、苦笑した。

       三十二

「――何ね、義理と附合で、弁持と二人で出掛けなくちゃならない葬式とむらいがあった、青山の奥の裏寺さ。不断は不断、お儀式の時の、先生のいいつけが厳しい。……というのは羽織袴です――弁持も私も、銀行は同一おなじ取引の資産家だから、出掛けに、捨利すてりで一着に及んだ礼服を、返りがけに質屋の店さきで、腰を掛けながら引剥ひっぱぐと、江戸川べりの冬空に――いいかね――青山から、歩行てくで一度中の橋手前の銀行へ寄ったんだ。――着流きながしと来て、たもとへ入れた、例の菓子さ、紫蘇入しそいり塩竈しおがま両提ふたつさげの煙草入と一所にぶらぶら、皀莢さいかちの実で風に驚く……端銭はしたもない、お葬式とむらいで無常は感じる、ここが隅田おおかわで、小夜時雨さよしぐれ、浅草寺の鐘の声だと、身投げをすべき処だけれど、凡夫さかんにして真昼間まっぴるま午後一時、風は吹いても日和はよしと……どうしても両国を乗越のっこさないじゃ納まらない。弁持も洲崎に馴染なじみがあってね、洲崎の塩竈……松風空風からかぜ遊びという、菓子台一枚で、女人とともに涅槃ねはんろう。……その一枚とさえいう処を、台ばかり。……菓子はこれだ、と袂から二人揃って、くだんの塩竈を二包。……こいつには、笹川の剣士、平手造酒ひらてみきの片腕より女郎がるぜ、痛快! となった処で――端銭もない。
 ほかに工面のしようがないので、お伽堂へ大刀だんびらさ。
 三崎町の土手を行ったり来たり、お伽堂の裏手になる。……なまじっかあしがばらばらだから、直ぐ汐入しおいりの土手が目先にちらついて、気ははやるが、亭主が危い。……古本あさりに留守の様子は知ってるけれど、鉄壺眼かなつぼまなこが光っては、としゃがむわ、首を伸ばすわで、幸いあいてる腰窓からうかがって、大丈夫。店前みせさきへ廻ると、「いい話がある、内証だ。」といきなり女房を茶の間へ連込むと、長火鉢の向うへ坐るか坐らないに、「達引たてひけよや。」と身構えた。「ありませんわ。」きまってら。「そこだ。」というと、言合わせたように、両方から詰寄るのと、両提から鉄砲張てっぽうばりを、両人、ともに引抜くのとほとんど同時さ、「身体からだから借りたいんだ。」「あれえ、」といったぜ。いやみな色気だ、袖屏風そでびょうぶで倒れやがる、片膝はみ出させた、蹴出けだしでね。「騒ぐな。」と言句もんくすごいぜ、が、二人とも左右にげてね、さて、身体から珊瑚さんご五分珠ごぶだまというかんざしを借りたんだがね。……この方の催促は、またそれ亭主がくといういやなものがからんでさ、たぶさつかんで、引きずって、火箸ひばしたれました、などと手紙を寄越す、田舎芝居の責場があるから。」
「いや、はや、どうも。いや、どうも。」
 屋根の雪がずるずると、窓下へ、どしんと響く。
 弦光は坐り直して、
「出直しだ、出直しだ。この上はただ、ひとえに上杉さんに頼むんだ。……と云っておれも若いものよ。あのを拝むとも言いたくないから、似合いだとか、頃合いだとか、そこは何とか、糸的きみの心づもりで、糸的きみの心からこの縁談を思いついたようによ、な、上杉さんに。」
「分ったよ。」
「直ぐにも頼む、もう、あの娘は俺の命だから、あの娘なしには半日も――午砲どん! までも生きられない。ううむ。」
 うむとうなって、徳利を枕にごろんとなると、すべった徳利が勃然むっくと起き、弦光の頸窪ぼんのくぼはころんと辷って、畳のへりで頭を抱える。
「討死したな。……何も功徳だ、すぐにも先生のとこへ駆附けよう。――湯に行きたいな。」
「勿論よ。清めてくれ。――婆や、湯に行く支度だ。婆や婆や。」
「ふええ。」
「あれだ、聞いたか――池の端茅町の声でないよ、麻布狸穴まみあなおんだ。ああ、返事と一所に、鶯を聞きたいなあ。」
 やがて、水のながれを前にして、まばゆ日南ひなたの糸桜に、燦々さんさんと雪の咲いた、暖簾のれんあいもぱっとあかるい、桜湯の前へ立った。
「糸ちゃん、望みが叶うと、よ、もやいの石鹸しゃぼんなんか使わせやしない。お京さんの肌の香がぷんとする、女持の小函こばこをわざと持たせてあげるよ。」
 悚然ぞっとして、糸七は不思議に女の肌を感じた。
昨夜ゆうべふられているんだい。」
「おや。」
 背中を、どしんとくらわせた。
「こいつ、こいつ。――しかし、さすがに上杉先生のお仕込みだ、もてたと言わない。何だ、見ろ。耳朶みみたぶに女の髪の毛が巻きついているじゃないか。」
「頭巾を借りてかぶったから、矢野きみのだよ。ああ、何だか、急に、むずむずする。」
「長いなあ、長い、細い、真漆まうるし。……口惜くやしいが、俺のはこんな美人じゃない。待てここは二瀬よ。藍染川へ、忍川へ……流すは惜しい、桜の枝へ……」――
 桜の枝が、たよたよして、しずれ落ちに雪がさらさらと落ちて、巻きかけた一筋のその黒髪の丈を包んだ。
 上野の山の松杉の遠く真白まっしろな中から、柳が青くあやに流れて、御堂みどうの棟は日の光紫に、あの氷月の背戸あたり、雪の陽炎かげろう幻の薄絹かけて、くれないの花が、二つ、三つ。

       三十三

 辻町糸七は、ぽかんとしていた仕入もの、小机のわきの、火もない炉辺ろばたから、縁を飛んで――跣足はだしで逃げた。
 逃げた庭――庭などとはぜいの言分。放題の荒地で、雑草は、やがて人だけに生茂おいしげった、上へ伸び、下をって、芥穴ごみあなを自然に躍った、怪しき精のごとき南瓜かぼちゃの種が、いつしか一面に生え拡がり、縦横無尽にはびこり乱れて、十三夜が近いというのに、今が黄色な花ざかり。花盛りで一つも実のない、ない実の、そのあってい実の数ほど、大きな蝦蟇がまがのそのそと這いありく。
 歌俳諧や絵につかう花野茅原とは品変って、おのずから野武士の殺気がこもるのであるから、蝶々も近づかない。赤蜻蛉あかとんぼもツイとそれて、尾花の上からながめている。……そのすすきさえ、垣根の隅に忍ぶばかり、南瓜のいきおいたくましく、葉の一枚も、烏を組んで伏せそうである。
 ――遠くに居る家主が、かつて適切なる提案をした。曰く、これでは地味が荒れ果てる、無代ただで広い背戸を皆借そうから、胡瓜きゅうりなり、茄子なすなり、そのかわり、実のない南瓜を刈取って雑草を抜けという。が、肥料なしに、前栽せんざいもの、実入みいりはない。二十六、七の若いものに、はたけいじりは第一無理だし、南瓜のつる焚附たきつけにもならぬ。町に、隠れたる本草家があって、その用途を伝授しても、鎌を買う資本もとでがない、従ってかの女、いや、あの野郎の狼藉ろうぜきにまかせてあるが、跳梁跋扈ちょうりょうばっこすさまじさは、時々切って棄てないと、木戸をじ、縁側へ這いかかる。……こんな荒地は、糸七ごときに、おのずからの禄と見えて、一方は隣地の華族やしきの厚い塀だし、一方は大きな植木屋の竹垣だし、この貸屋の背戸として、小さく囲った、まばら垣は、早く朽崩れたから杭もないのに、縁側の片隅に、がたがただけれども、南瓜の蔓がてする、その木戸が一つ附いていて、前長屋総体と区切があるから、およそ一百坪に余るのが、おのずから、糸七の背戸のようになっている。
(――そこへげた――)
 糸七は、南瓜の葉をかぶらんばかり、驚破すわといえば躍越えて遁げるつもりの植木屋の竹垣について、すすきの根にかくれて、蝦蟇がまのようにしゃがんで、遁げた抜けがらの巣を――うかがえば――
 ――こもるのは、故郷から出て来て寄食している、糸七の甥の少年で、小説家の巣に居ながら、心掛は違う、見上げたものの大学志願で、試験準備に、神田あたりの学校へ通って、折からちょうど居なかった。
 七十八歳になるただ一人、祖母ばかり。大塚の場末の――くるまがその辻まで来ると、もう郡部だといって必ず賃銀の増加まし強請ねだる――馬方の通る町筋を、奥へ引込ひっこんだ格子戸わきの、三畳の小部屋で。……ああ、他事ひとごとながらいたわしくて、記すのに筆がふるえる、遥々はるばる故郷おくにから引取られて出て来なすっても、不心得な小説孫が、かたのごとき体装ていたらくであるから、汽車の中でねむるにもその上へ白髪しらがの額を押当てて頂いた、勿体ない、鼠穴のある古葛籠ふるつづらを、仏壇のない押入の上段うわだんに据えて、上へ、お仏像と先祖代々の位牌いはいを飾って、今朝も手向けた一もん蝋燭ろうそくも、三分一が処で、倹約でしめした、糸心のあと、ちょんぼりと黒いのをせなに、日だけはよく当る、そこで、破足袋やぶれたびの継ぎものをしてござった。
 さて、その、ひょいと持って軽く置くと、古葛籠の上へも据りそうな、小さな白髪の祖母おばあさんの起居たちいの様子もなしに、くわしく言えば誰が取次いだという形もなしに、土間から格子戸まで見通しのかまちの板敷、取附とっつきの縦四畳、框を仕切った二枚の障子が、すっと開いて、開いた、と思うと、すぐと閉った。穴だらけの障子紙へ、穴から抜けたように、すらりと立った、霧のような女の姿。
 姿を。……
 ここから、南瓜の葉がくれにじっのぞくと、霧が濃くなり露のしたたる、水々とした濡色の島田まげに、平打ひらうちがキラリとした。中洲のお京さん、一雪である。
糸七は、ひきと踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。

       三十四

 ――この破屋あばらやへ、ついぞない、何しに来たろう――
 来やがったろう、と言いたくらいだ。そりの合わない……というのも行き過ぎか、合うにも合わないにも妙齢としごろの女なんぞ影も見せたことのない処へ何しに来たろう。――ああ、そうか。矢野(弦光)の、通俗、首ったけなれかたを、台町の先生に直ぐ取次いだところ、「かろう。」と笑いながらの声がかかった。先生の一言だ、「好かろう。」は引受けたと同然だから、いずれ嬉しい返事を、と弦光も待つうちに、さあ……梅雨ごろだったか、降っていた。持崩した身は、雨にたたかれたわらのようになって、どこかの溝へ引掛ひっかかり、くさり抜いた、しょびたれで、昼間は見っともなくて長屋居廻いまわりへ顔も出せない。日が暮れておそく帰ると、牛込の料理屋から、俥夫くるまやが持ってけつけたという、先生の手紙があって、「弦光座にあり、待つ」とおっしゃる。……飛びたいにも、駈けたいにも、俥賃なぞあるんじゃない、天保銭の翼も持たぬ。破傘やれがさ尻端折しりっぱしょり、下駄をつまんだ素跣足すはだしが、茗荷谷みょうがだに真黒まっくろに、切支丹坂きりしたんざか下から第六天をまっしぐら。中の橋へ出て、牛込へ潜込もぐりこんだ、が、ああ、おくれた。料理屋の玄関へ俥が並んで、※(「車+隣のつくり」、第3水準1-92-48)からからと、一番のほろの中から、「遅いじゃないか。」先生の声にひやりとすると、その後から、「待っていたんですよ。」という声は、令夫人。こんな処へ御同行は、見た事、聞いた事もない、と呆れた、がまた吃驚びっくり。三つ目の俥の楫棒かじぼうを上げた、幌に覗かれた島田の白い顔が……
 ……あの、お京……いやに、ひったり俯向うつむいた……
 幌の中で、どしばたして、弦光が、「辻町か、引返ひっかえして飲もう」という時、先生の俥がちょっとあと戻りして、「矢野は酔ってる、もう帰んな。……塾のものには誰にも黙っているんだぜ。」――馬鹿にも分った、これは、見合だ。
 納ったか、悦に入ったか、気取ったか、弦光め、それきり多日しばらく顔を見せに来ない。酒でも催促するようで癪だからこっちからは出向かずと――塾では先生にお目にはかかるが、月府、弁持、久須利、荷高の面々が列している。口留をされたほどだから話は出ずと。――結婚はいつだ、とその後、矢野に打撞ぶつかれば、「息子は世間を知らないよ、紳士、淑女の一生の婚礼だ、引きつけで対妓あいかたきまるように、そう手軽に行くものか、ははは。」とわらいの、何だか空虚うつろさ。所帯気でしまると、笑も理に落ちるかと思ったっけ。やがて、故郷、佐賀県の田舎の実家に、整理すべき事がある、といって、夏うち国に帰ったのが――まだ出て来ない。それについて、御縁女、相談にせられたかな……
糸七は蟇と踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で、
 覗きながら、咄嗟とっさむねで思ううちに、かまちの障子の、そこに立ったお京の、あでやかに何だか寂しい姿が、褄さきが冷いように、畳をしとしと運ぶのが見えて、縁の敷居際で、すんなりとしなうばかり、浮腰の膝をついた。
 同時に南瓜の葉が一面に波を打って、真黄色まっきいろかもめがぱっと立ち、尾花が白く、冷い泡で、糸七のつらを叩いた。
 大塚のとおりを、舟がぎ、帆が走る……
 ――や、あの時にそっくりだ。そうだ、しかも八月極暑よ。去んぬる年、一葉女史を、福山町の魔窟に訪ねたと同じ雑誌社の用向きで、中洲の住居すまい音信おとずれた事がある。府会議員の邸と聞いたが、場処柄だろう、四枚格子の意気造り。式台で声をかけると、女中も待たず、夕顔のほんのり咲いた、肌をそのままかと思う浴衣が、青白い立姿で、蘆戸よしどの蔭へ透いて映ると、すぐ敷居際に――ここに今見ると同じ、支膝つきひざの七分身。くれないでない、水紅ときより淡い肉色の縮緬ちりめんが、片端とけざまにゆるんで胸へふっさりと巻いた、背負上しょいあげの不思議な色気がまだ目に消えない。
 ――原稿を十四五枚、言託ことづけただけで帰ろうと思うのを、「どうぞ、」と黙って入ってしまった。ほこりだらけの足を、下駄へ引擦ひっこすったなり、中二階のような夏座敷へ。……団扇うちわを出したっけな、お京も持って。さて、何を聞いたか、饒舌しゃべったか、腰掛窓の机の前の大川の浪に皆流れた。成程、夕顔の浴衣を着た、白い顔の眉の上を、すぐに、すらすらと帆が通る……と見ただけでも、他事よそながら、しんし、荷高似内のする事に、挙動ふるまいの似たのが、気とがめして、浅間しく恥しく、我身を馬鹿とののしって、何も知らないお京の待遇もてなしを水にした。アイスクリームか、ぶっかきか、よくも見ないで、すたすた、どかどか、がらん、うしろを見られる極りの悪さに、とッつき玄関の植込の敷石に蹴躓けつまずいて、ひょろ、ひょろ。……
「何のざまだ。」
 心のうちつぶやいた……
糸七は蟇と踞み。
南瓜の葉蔭に……

       三十五

尾花を透かして、
蜻蛉の目で。
 内へ帰れば借金取、そこら一面八方ふさがり、不義理だらけで、友達もい顔せず、渡ってきたい洲崎へも首尾成らず……と新大橋の真中まんなかに、ひょろ、ひょろのままで欄干にすがって立つと、魂が中ぶらり、心得違いの気の入れどころが顛倒ひっくりかえっていたのであるから、手玉に取って、月村に空へ投出されたように思った。一雪め、小説なぞ書かなければ、雑誌編輯の用だと云って、こんな使いはしまいものを、お京め。と、隅田の川波、渺々びょうびょうたるに、網の大きく水脚を引いたような、斜向うの岸に、月村のそれらしい、青簾あおすだれのかかった、中二階――隣に桟橋を張出した料理店か待合の庭の植込が深いから、西日を除けて日蔭の早い、その窓下の石垣をおおうて、もう夕顔がほの白い……
 ……時であった。簾が巻き消えに、上へ揚ると、その雪白の花が、一羽、翡翠ひすいくわえた。いや、お京の口元に含んだ浅黄の団扇が一枚。大潮を真南まんみなみに上げさっと吹く風とともに、その団扇がハッと落ちて、宙に涼しい昼の月影のようにひらひらとひるがえると見るうちに、水面へスッと流れて、水よりも青くすらすらと橋へ寄った。その時悚然ぞっとして、目をふさいで俯向うつむいた――挨拶おじぎをしたかも知れない。――
 さて何と思ったろう……その晩だったか、あと二三日おいてだったか、東雲しののめの朝帰りに、思わず聞いた、「こんな身体からだで、墓詣りをしてもいいだろうか。」遊女おいらんが、「仏様でしたら差支えござんすまい。御両親。」その墓は故郷にある。「お許婚いいなずけ……?」「いや、」一葉女史の墓だときいて、庭の垣根の常夏とこなつの花、朝涼あさすずだからしぼむまいと、朝顔を添えた女の志を取り受けて、築地本願寺の墓地へ詣でて、夏の草葉の茂りにも、しきみのうらがれを見た覚えがある……
 ……とばかりで、今、今まで胴忘れをしていた、お京さん……が、何しに来たろう。ああ、あの時の雑誌の使いの挨拶だ。
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。……
 見ていると、その縁の敷居際に膝をついたまま、こちらをながめたようだっけ……後姿に、そっと立った。真横のふすまを越して、背戸正面に半ば開いたのが見える。角の障子の、その、隅へ隠れたらしい。
 それは居間だ。四畳半、机がある。仕事場である。が、すずりも机もほこりだらけ、炉とは名のみの、炬燵こたつの藻抜け、吸殻ばかりで、火の気もない。
 右手の一方は甥の若いのが遣り放し、散らかし放題だが、まだその方へ入ってくれればよかったものをと、さながら遁出にげしたあとの城を、乗取のっとられたようなありさまで。――とにかく、来客――跣足はだしのまま、素袷すあわせのくたびれた裾を悄々しおしおとして、縁側へ――下まではびこる南瓜の蔓で、引拭ひきぬぐうても済もうけれど、淑女の客に、そうはなるまい。台所へ廻ろうか、足をいてと、そこに居るひとの、呼吸いき気勢けはいを、伺い伺い、縁端えんばなへ。――がらり、がちゃがちゃがちゃん。吃驚びっくりした。
 耳元近い裏木戸が開くのと、バケツをッつけたのが一時いっときで、
「やーい、けいせい買のふられ男の、意気地なしの弱虫や、花嫁さんが来たって遁げたや、ちゃッ、ちゃッ、ちゃッ。」
 ……と、みそさざいのように笑ったのは、お滝といって、十一二、前髪を振下げた、舞みだれの蝶々まげ。色も白く、子柄もいいが、氏より育ちで長屋中のお茶ッぴい。
「足をお洗いよ、さあ、ぼんやりしないで、よ、光邦みつくに様。」 
 けいせい買の、ふられ男の弱虫は、障子が開くと、冷汗をした。あまつさえ、光邦様。……
 五目の師匠も近所なり、近い頃氷川様の祭礼おまつりに、踊屋台の、まさかどに、附きっきりで居てから以来、自から任じて、滝夜叉たきやしゃだから扱いにくい。
「チチーン、シャン、チチチ、チチチン。(鼓の口真似)ポン、ポン、大宅おおやの太郎は目をさまし……ぼんやりしないでさ。」
「馬鹿、雑巾がないじゃないか。」
「まあ、この私とした事が、ほんにそうでござんした、おほほ。」
 ちゃッちゃッ、と笑いながら、お滝が木戸をポイと出る。糸七の気早く足へ掛けたバケツの水は、南瓜にしぶいて、ばちゃばちゃ鳴るのに、障子一重、そこのお京は、気息けはいもしない。はじめからの様子も変だし、消えたのではないか、と足首から背筋が冷い。
 きぬの薫が、ほんのりと、お京がすッとそこへ出た。

       三十六

 慌てて、
唯今ただいま、御挨拶。」
 これには、ただ身の動作こなしで、返事して、
「おつかいなさいましな。」
 と、すぐに糸七が腰かけた縁端えんばなへ、袖摺れに、色香折敷くかがみ腰で、手に水色の※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチを。
「私が、あの……」
 と、その半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)を足へ寄せる。
 呆気あっけに取られる。
「ね。」
「よして、よして下さい。罰が、罰が当る。」
「罰の当りますのは私の方です、私の方です。」
 せまった声して、
「――牛込の料理屋へ、跣足はだしで雨の中をおいでなさいました。あの時にも、おみあしを洗って上げたかったんです。」
「何の事です、あれは先生の用で駆けつけたんです。」
「でも、それだって。」
不可いけない不可い、不可いけません。あなたの罰はともかくも、御両親の罰が当る――第一何の洒落しゃれです。」
「洒落……」
 と引息に声がかすれて、志を払退はらいのけられたように、ひぞりもしねたさまに、身を起してお京が立った。
 そこへ、お滝が飛込んで――
「あい、雑巾。あら、あら、二人とも気取ってる。バケツが引っくり返ってるじゃないの――テン、チン、嵯峨さがやおむろの花ざかり、浮気な蝶も色かせぐ、くるわのものにつれられて、外めずらしき嵐山、ソレ覚えてか、きみさまの、袴も春の朧染おぼろぞめ、おぼろげならぬ殿ぶりを、見初みそめて、そめて、恥かしの、森の下露、思いは胸に、」
 と早饒舌はやしゃべりの一息にやってのけ、
「わあい……光邦、妖術にかかって、宙に釣られて、ふらふらしてるよ。」
 背中にひったり、うしろ姿でお京が立ったのを、弱った糸七は沓脱くつぬぎがないから、拭いた足を、成程釣られながら、そっと振向いて見ると、うれいまぶたに含めて遣瀬やるせなさそうに、持ち忘れたもののような※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチが、宙に薄青く、白昼まひる燐火おにびのように見えて、寂しさの上にすごいのに、すぐ目を反らして首垂うなだれた。
 お滝が、ひょいと、飛んでそばへ来て、
「きれいなお姉ちゃん、少しお動きよ。」
「はい、動きましょう。」
 と、縁をうつくしい褄捌つまさばき、袖の動きに半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)を持添えて、お滝のてのひらへ、ひしと当てた。
「これ、雑巾のおうつりです。」
「あら、あら、私に。」
「でも新しいんですから。」
 お滝は受けた半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)を、前髪に当て、額に当て、頬に当て、頬摺ほおずりして、肩へかけ、胸にいだいた、その胸ではらりと拡げ、小腕を張って、目を輝かして身を反らし、
「さてこそさてこそ、この旗を所持なすからは、問うに及ばず、将門まさかどが忘れがたみ、滝夜叉姫であろうがな。」
「何だ、あべこべじゃないか、違ってら。」
「チエエ、残念や、口おしや、かくなるうえは何をかつつまん、まこと我こそ――滝夜叉なるわ。どろんどろん、」
 と、あとしざりに、
「……帯だって出来るわ、この半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)。嬉しい! 花嫁さん、ありがとう、お楽しみ光邦様、どろんどろん。」
 木戸も閉めないで、トンとく。
「――何とも、かとも、言いようはありません。」
 すぐにお京を招じ入れた、というよりも、お京はひとりでに、ものあって誘うように、いま居た四畳半の縁の障子と、格子戸見通しの四畳を隔てた破襖やれぶすまの角柱で相合うその片隅に身を置いたし、糸七は窓下の机の、此方こなたへ、炉を前にすると同時に、いきなりこうべを下げて、せき込んで言ったのである。
「何とも、かとも、いいようはありません、失礼しました。」
 お京は薄い桔梗色ききょういろの襟を深く、俯向うつむいて、片手で胸をおさえて黙っていたが、島田をかんざしで畳の上へ縫ったように手をついた。
「辻町さん……私を折檻せっかんして、折檻して下さいまし。折檻して下さいまし。」
「何、折檻。」
「ええ。」
「折檻、あなたはおよそ折檻ということを、知っていますか。あなたの身で、そのおからだで折檻という言葉をさえ知っていますか、本では読み話では聞いて、それは知っていらっしゃるかも知れませんが、何をいうんです。」
 ――一昨年おととしか、一昨々年さきおととし、この人の筆に、かくもの優しい、たおやかな娘に、蝦蟇がまつらの「べっかっこ。」、それも一つの折檻か、知らず、悪たれ小僧のつぶてをぶつけた――悪戯いたずらを。
 糸七はすくむよりも、恐れるよりも、ただ、悄然しょうぜんとするのであった。

       三十七

 上げた顔は、血が澄んで、色の白さも透通る……お京は片袖を膝の上に、
「何よりか、あの、何より先に、申訳がありません。あなたのお内へお許しも受けないで、お言葉も受けないで、勝手に上って来たんですもの。」
「そんな、そんな事、何、こんな内、上るにも、踏むにも、ごらんの通り、西瓜すいかの番小屋でもありゃしません、南瓜畑の物置です。」
「いいえ、いいえ、私だって、幾度も、お玄関で。」
「あやまります、恐入ります。お玄関は弱り果てます。」
「おうかがいはしたんですけれど、しんとして、誰方どなたのお声も聞えません。」
「すぐ開き一つの内に、祖母としよりが居ますが、耳が遠い。」
「あれ、お祖母様ばあさまにも失礼な、どうしたらいでしょう。……それに、御近所の方、おかみさんたちが多勢、井戸端にも、格子外にも、勝手口にも、そうしてあの、花嫁、花嫁。……」
「今も居ます。現に居ます、ごめんなさい。談じます。談判します、ぶんなぐります、花嫁だなんて失礼な。」
「あれ、あなた、そんな気ではありません。きまりが悪くて、極りが悪くて、外へ出られないもんですから、お内へ入ってかくれました。それだし、ただ、人の口の串戯じょうだんだけでも、嫁だなぞと、あなたのお耳へ入ったらどうしようと、私……私を見て、庭へ出ておしまいなさいますし、私、死にたくなりました。」
 と、片袖で顔をかくすと、姿も、消入る風情である。
「それが、それがです、それにわけがあるんです。何しろ、あなたを見てからではありません、見ない前に飛出したんです、――今申訳をします。待って下さい。どうも、何しろ、周囲まわりうるさい。」
 軸物かけものも、何もない、がらん堂の一つ道具に、机わきの柱にかけた、真田が短銃たんづつ両提ふたつさげ
 鉄の煙管きせるはいつも座右に、いまも持って、巻莨まきたばこ空缶あきかんの粉煙草をひねりながら、余りの事に、まだすきを見出さなかった、その煙管を片手に急いで立って、机の前の肱掛窓ひじかけまどの障子を開けると、植木屋の竹垣つづきで、細い処を、むぐらくぐりに人は通う。
「――夜叉こう、夜叉こう。」
 声の下に、鼻の上まで窓の外へ、二ツ目が出た。
「光邦様、何。」
 ひやりと、また汗になりながら、
媽々かかあ連を追払おっぱらってくれ、消してくれよ、妖術、魔術で。」
 黙ってまばたきでうなずいた目が消えると、たちまち井戸端へ飛んだと思う、総長屋の桝形形ますがたなりの空地へ水輪なりにキャキャと声が響いた。
「放れ馬だよ、そら前町を、放れ馬だよ、五匹だ。放れ馬だよッ。」
 跫音あしおとが、ばたばたばた、そんなにも居たかと思う。表通の出入口へ、どっと潮のようにはし退いて、居まわりがひっそりする、と、秋空が晴れて、部屋まで青い。
 畳の埃も澄んだようで、炉の灰の急な白さ。背きがち、うなだれがちに差向ったより炉の灰にうつくしい面影が立って、そのうすい桔梗の無地の半襟、お納戸縦縞たてじまあわせの薄色なのに、黒繻珍くろしゅちんに朱、あい群青ぐんじょう白群びゃくぐんで、光琳こうりん模様に錦葉もみじを織った。中にも真紅に燃ゆる葉は、火よりも鮮明あざやかに、ちらちらと、揺れつつ灰に描かるる。
 それを汚すようだから、雁首で吹溜めの吸殻を隅の方へ掻こうとすると、頑固な鉄が、脇明わきあけの板じめ縮緬ちりめん長襦袢ながじゅばんに危く触ろうとするから、吃驚びっくりして引込ひっこめる時、引っかけて灰が立った。その立つ灰にも、留南木とめぎの香がぷんと薫る。
 覚えず、恍惚うっとりする、鼻のさきへ、炎が立って、自分でった燐寸マッチにぎょっとした。が、しゃにむに一服まず吸って、はじめて、一息ほつとした。
「月村さん、あなたを見て、花嫁、いや、待って下さい。言うのもはばかりますが、その花嫁のわけなんです。――実は、今更何とも面目次第もありません、跣足はだしで庭へげましたのも、ちかって言います。あなたのお姿を見てからではないのです。……
 ……聞いたばかり、聞いたばかりで腰も抜かさないのは、まだしもの僥倖しあわせで飛出したんです。今しがた、あなたが、大方、この長屋の総木戸をお入んなすった時でしょう。その頃です、唯今のお茶っぴいが、その窓から頭を出して、「花嫁が来た。」と言ったんです。――来たらば知らしておくれよ、と不断、お茶っぴいを斥候ものみ同然だったものですから、聞くか聞かないに、何とも、不状ぶざまを演じました。……いま、そのわけを話しますが。……
 ……煙草は……それはありがたい、おきらいでも、お友だちがいに、すぱすぱ。」
 と妙に砕けて、変にきおって、しょげて、笑って、すぱすぱ。

       三十八

「……また何も、ここへ友達を引張ひっぱり出して、それにかずけるのは卑怯ひきょうですが、二月ばかり前でした。あなたなぞの前では、お話もいかがわしい悪場所の、それも獣の巣のような処へ引掛ひっかかったんです。泥々に酔って二階へ押上って、つい蹌踉よろけなりに梯子段はしごだんの欄干へつかまると、ぐらぐらします。屋台根こそぎ波を打って、下土間へ真逆まっさかに落ちようとしました……と云ったうちで。……障子の小間こまは残らず穴ばかり。――その一つ一つから化ものが覗いて、蛞蝓なめくじの舌を出しそうな様子ですが、ふるえるほど寒くはありませんから、まずいとして、その隅っ子の柱に凭掛よりかかって、遣手やりてという三途河さんずがわの婆さんが、蒼黒あおぐろい、せた脚を突出してましてね。」
 ……ふんどしというのを……控えたらしい。
めちゃ取り、舐めちゃ取り、のみだか、しらみだかひねっています。――あなたも、こんな、私のようなものの処へおいで下すった因果に、何事も忘れてお聞き下さい。
 その蚤だか虱だかを捻る片手間に、部屋から下ったという蕎麦の残り、伸びて、蚯蚓みみずのようにのたくるのをつまんじゃ食い、撮んじゃ食う。そこをまた、牙と舌を剥出むきだして、犬ですね、ちんつらの長い洋犬などならまだしも、尻尾を捲上まきあげて、耳の押立おったった、痩せて赤剥あかはげだらけなのがあえぎながら掻食かっくらう、と云っただけでも浅ましさが――ああ、そうだ。」
 糸七は煙管を落した。
「あなたの吉原の随筆は、たしか、題は『あさましきもの。』でしたね。私が飛んだ『べッかッこ』をした。」
「もう、どうぞ。」
 お京は膝に袖を千鳥に掛けたまま、雌浪めなみやわらかに肩に打たせた。
「大目玉を頂きましたよ、先生に。」
「もうどうぞ、ご堪忍。」
「いや、お詫びは私こそ、いわばやっぱりあなたの罰です。その「浅ましい」一つの穴で……部屋は真暗まっくら、がたがた廊下の曲角に、洋鉄ブリキ洋燈ランプ一つ。余りなさけない、「あかりがほしい。」……「蝋燭代を別に出せ。」で、奈落に落ちて一夜あける、と勘定は一度済ましたんですが、茶を一杯にも附足しの再勘定、その勘定書を、その勘定を催促しても、わざと待たして持って来ません。これが、ぼると言います。阿漕あこぎやつです。はめられたんです。といううちに、朝直し……遊蕩あそびが二度ぶりになって、また、前勘定、このつけを出されると、金が足りない、足りないどころですか、まるで始末が出来ないのです。
 ――「あさましきもの」が引受けてくれました、暑いのに、破屏風やぶれびょうぶにすくんで、かびた蒲団に縮まったありさまは、人間に、そのまま草が生えそうです。無面目むめんぼくで廊下へ顔も出せません。おけらの兄さん、ちと、ご運動とか云って、「あさましきもの」に廊下へ連出されると、トトトン、トトトンと太鼓の音。それを、欄干てすりからのぞきますとね、漬物おけ、炭俵と並んで、小さな堂があって、子供が四五人――うまの日でした。お稲荷講、万年講、お稲荷さんのお初穂はつ。「お初穂よ、」といって、女がおひねりを下へ投げると、揃って上を向いた。青いんだの、黄色いんだの、子供の狐の面を五つ見た時は、欄干越てすりごしひさしへ下った女の扱帯しごきが、真赤まっかな尻尾に見えたんです。
 その女が、これも化けた一つので、くるままでこしらえて、無事に帰してくれたんです。が、こちらが身震みぶるいをするにつけて、立替たてかえの催促がはげしく来ます。金子かね為替かわせで無理算段で返しましたが、はじめての客に帰りの俥まで達引たてひいた以上、情夫まぶ――情夫(苦い顔して)が一度きりいたちの道では、帳場はじめ、朋輩へ顔が立たぬ、今日来い、明日来い、それこそ日ぶみ、矢ぶみで。――もうこの頃では、押掛ける、引摺りに行く、連れて帰る、と決闘状はたしじょう。それが可恐おそろしさに、「女が来たら、俥が見えたら、」と、お滝といいます……あのお茶っぴいに、見張を頼んで、まさか、女郎、とはいえませんから、そこは附景気に、「嫁が来るんだ。遠くからでも見えたら頼むよ。」合点ものです。そいつが、今です、前刻さっきですよ。そこから覗いて、「来たよ、花嫁。」……
 一言で面くらって、あなたのお顔も、姿も見ないで、跣足はだしで庭へ逃出した始末です。断じて、決して、あなたと知って逃げたのではありません。」
 しまった! 大家が家賃の催促でも済んだものを、馬鹿の智慧は後からで、お京のとりなしの純真さに、つい、事実をあからさまに、達引だの、いや矢ぶみだの、あさましく聞きはしないか、と、舌がたちまち縮んで咽喉のどへ声の詰る処へ。
「光邦様。」
 日ぶみ矢ぶみの色男の汗を流した顔を見よ。いまうわさしたその窓から、お滝の蝶々髷が、こん度は羽目板の壊れを踏んで上ったらしい。口まで出た。
「お客様の、ご馳走は。……つかいに行って上げるわよ。」
 また、冷汗だ、銭がない。

       三十九

「これは、これは、おうようこそや。……今の、あがばなを覗いたら、見事な駒下駄かっこがあったでの。」
 ちと以前より、ごそごそと、台所で、土瓶、炭、火箸、七輪。もの音がしていたが、すぐその一枚のひらきから、七十八の祖母が、茶盆に何か載せて出た。
 これにお京のお諸礼式は、長屋に過ぎて、瞠目どうもく価値あたいした。
「あの、お祖母様ばあさま……お祖母様。」
 二声目に、やっと聞えて、
「はい、はい。」
「辻町さんに……」
「…………」
「糸七さんに……」
 肩身を狭く、ちょっと留めて、
「そんな事いったって、分りませんよ。」
「……お孫さんに。……」
「はい。」
「いろいろとお世話になります。」
「……孫めは幸福しあわせ、お綺麗なお客様で、ばばが目にも枯樹に花じゃ。ほんにこのの母親、わしには嫁ごじゃ。江戸から持ってござっての、大事にさしゃった錦絵にそのままじゃ。後の節句にも、お雛様ひなさまに進ぜさした、振出しの、有平あるへい、金米糖でさえ、その可愛らしいお口よごしじゃろうに、山家やまが在所のしいの実一つ、こんなもの。」
 と、へぎ盆も有合さず、菜漬づかいの、小皿をそこへ、二人分。糸七は俯向うつむいた。一雪きみよ、聞け。山果庭ニ落チテ、朝三チョウサンノ食秋風シュウフウ※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)クとは申せども、この椎の実とやがて栗は、その椎の木も、栗の木も、背戸の奥深く真暗まっくら大藪おおやぶの多数のくちなわと、南瓜畑の夥多おびただしい蝦蟇がまと、相戦うしょうに当る、地境の悪所にあって、お滝の夜叉さえ辟易へきえきする。……小雀こがら頬白ほおじろも手にとまる、仏づくった、祖母でなくては拾われぬ。
「それからの、青紫蘇あおじそを粉にしたのじゃがの、毒にはならぬで、まいれ。」
 と湯気の立つ茶椀。――南無三宝、茶が切れた。
「ほんにの、これが春で、餅草があると、私が手に、すぐに団子なと拵えて進じょうもの。孫が、ほっておきで、南瓜の葉ばかり何にもないがの。」
 と寂しい笑いの、口には歯がない。
 お京がいとしげに打傾き、
「お祖母様、いまに可愛い嫁菜が咲きます。」
「嫁菜がの、嬉しやの、あなたのような、のう。」
 糸七は仰天した、人参のごとくしんまでそまって、
「お祖母さん、お祖母さん、お祖母さん、そんな事より、仏間へ行って、この、きれいな、珍らしいお客様の見えた事を、父、母に話して下さい。」
「おいの、そうじゃの。」
 何と思ったか、お京が急いで、さも、遠慮のないように椎の実を取った。
「お祖母様。」
「……おお、食べてくださるかの。」
「おいしい……」
 と、長いまつ毛をふるわせて、
「三度、三度、ここに居まして、ご飯のかわりに頂いたら、どんなにか嬉しいでしょう……」
 と、息をふくんだ頬を削って、ツとく涙に袖を当てると、いう事も、する事も、訳は知らず誘われて、糸七も身を絞ってほろほろと出る涙を、引振ひっぷるうように炉に目をらした。
「喧嘩せまい、喧嘩せまい。何じゃ、この、孫めがまた……」
「――お祖母さん、芝居の話をしていたんです、それが悲しいもんですから。」
「それは、それは……嫁ごもの、芝居が何より好きでござったよ。たんと、ゆっくり話さっしゃい。……ほんにの、お蒲団もない。道中にも、寝床にもかぶるのなれど、よう払うてなと進ぜましょう。」
 祖母の立ったのを見るとひとしく、糸七はぴったり手をついた。
祖母としよりの失言をあやまります。」
「勿体ない。私は嬉しゅう存じました。」
 と膝を退しさって、礼を返して、
「辻町さん、では、失礼をいたします。」
 何しに来たこの女、何を泣いたこの女、なぜ泣かせたこの女、椎と青紫蘇の葉に懲りて、破毛布やぶれげっと辟易へきえきしたろう。
 黙って、糸七が挨拶すると、悄然しょんぼりと立った、がきっと胸をめた。その姿に似ず、ゆるく、色めかしく、柔かな、背負しょいあげの紗綾形絞さやがたしぼりの淡紅色ときいろが、ものの打解けたようで可懐なつかしい。
 かまちの障子を、膝をついて開けると、板に置いた、つつみものを手に引きつけて、居直る時、心いたさまに前褄が浅く揺れて、帯の模様の緋葉もみじが散った。
「お恥しいもんです。小さな盃は、内に久しくありました。それに、お酒をお一口。」

       四十

「…………」
「私……しばらくお別れに来たんです。」
「……旅行――遠方へ。」
「いいえ。」
 糸七は釈然として、胸で解けた。
「ああ、極りましたか、矢野とお約束。」
 眉が一文字に、きって、
「あの方、お断りしてしまいました、他所よそへ嫁に参ります。」
「他所へ。……おきき申すのも変ですが。」
 お京は引結んだ口元をやっと解いたように見えて、
「野土青麟のとこへです。」
 糸七は聞くより思わずわなないた。あの青大将が、横笛を、いきを浴びても頬が腐る、黒い舌に――この帯を、背負揚しょいあげを、襟を、島田を、張襦袢ながじゅばんを、肌を。
「あなたが、あなたが、私を――矢野さんにお媒妁なこうどなすった事を聞きました口惜くやしさに――女は、何をするか私にも分りません――あなたが世の中で一番お嫌いだという青麟に、結納を済ませたんです。」
「…………」
「辻町さん、よく存じております、知っていたんです。お嫌いなさいますのも、お憎しみも分っています。いますけれど、思う方、慕う方が、その女を余所よそへ媒妁なさると聞いた時の、その女の心は、気が違うよりほかありません。」
 とあおい顔で、またじっと視て、はっと泣きつつ、背けた背を、そのまま、土間へ早や片褄。その褄をおさえても、帯をひしとつかんでも、からまる緋が炎でも、その中の雪の手首をと取っても、世にげに一度は許されよう、引戻そうと、我を忘れて衝と進んだ。
「危え、危え、ええ危えというに、やい、小阿魔女こあまっちょめ。」
「何を小癪こしゃくな……チンツン」
 と、目をぱっちり、ちょっと、一見得。
 黒鴨くろがも俥夫しゃふが、うしろから、横から、飛廻って、わめくを構わず、
「チンツン、さすがの勇者もたじたじたじ、チチレ、トツツル、ツンツ、ツンツ、こずえ木の葉のさらさらさら、チャン、チャン、チャンチャンラン、チャンラン、魔風とともに光邦が、襟がみつかんで……おほほ、ははは、ちゃっちゃっ、ちゃっ。」
 お京の姿を、框に覗くと、帰る、と見た、おしゃまの、お先走りのお茶っぴいが、木戸わきで待った俥の楫棒かじぼうを自分で上げて右左へ振りながら駆込んで来たのである。
「わかれに、……その気でいたかも知れない。」
 小杯は朱塗のちょっと受口で、香炉形とも言いそうな、内側に銀の梅の蒔絵まきえが薫る。……薫るのなんぞ何のその、酒のひやの気を浴びて、正宗を、びんの口の切味きれあじや、にえも匂も金色こんじきに、梅を、おぼろたたえつつ、ぐいと飲み、ぐいとあおった――立続けた。
 ほっと吹く酒の香を、横ざまらしたのは、目前めさき歴々ありありとするお京の向合むきあった面影に、心遣いをしたのである。
 杯を持直して、
「別れだといいました。糸七も潔く受けました。あなたも、一つ。」
 弱い酒を、一時に、頭上のぼった酔に、何をいうやら。しかもひたりと坐直いなおって、杯を、目ざすお京の姿にそうとして置くのが、畳もへりも、炉縁も外れて、ずか、と灰の中へ突込もうとして、と手を引いて、ぎょっとしたように四辺あたりを視た。
「どうかしている。」
 第一に南瓜畠が暗かった。数千の葉が庭ぐるみ皆そよいだ。颶風はやて落来おちくと目がくらみ、頭髪ずはつが乱れた。
 その時、遣場やりばに失した杯は思わず頭の真中まんなかへ載せたそうである。
 一よろけ、ひょろりとして、
「――一段と烏帽子が似合いて候――」
 とすっくり立った。
 が、これは雪の朝、吉原を落武者の困惑を繰返したものではない。一人の友達の、かつて、深山越みやまごしの峠の茶屋で、すさまじき迅雷じんらい猛雨に逢って、げも、引きも、ほとんど詮術せんすべのなさに、飲みかけていた硝子盃コップを電力遮断の悲哀なる焦慮で、天窓あたまかぶったというのを、改めて思出すともなく、無意識か、はた、意識してか、知らず、しかくあらしめたものである。
 青麟に一言ひとことや、直ちに霹靂へきれきであった。あたかもこの時の糸七に、屋の内八方、耳も目も、さながら大雷大風であった。

       四十一

 と、突立つッたったまま、にがい顔、渋い顔、切ない顔、甘い顔、酔ってけた青い顔をしていた。が、頬へたらたらと垂れかかった酒のしずくを、横舐よこなめに、舌打して、
「鳴るは滝の水、と来るか、来たと……何だ、日は照るとも絶えずとうたりか、絶えずとうたりと、絶えずとうたり、とくとく立てや手束弓たつかゆみの。」
 真似を動いて、くるくる舞ったが、打傾いて耳をそばだて、
「や、囃子はやしが聞える。ええ、横笛が。笛は止せ、笛は止せ、止せ、止さないか、畜生。」
 と、いうとともに、胆略も武勇もない、判官ほうがんならぬ足弱の下強力したごうりきの、ただその金剛杖こんごうづえの一棒をくらったごとく、ぐたりとなって、畳にのめった。
 がんがんがんと、胸は早鐘、かすかにチチと耳が鳴る。
 仏間にては、祖母が、さっきのことに受けて、りんなど打っていられはしないか。この秋の取ッつきに、雷雨おびただしかりし中に、ピシャン、と物凄く響いたのを、昼寝の目を柔かに孫を視て、「軒近に桶屋が来ているかの、竹のたがはじいたようじゃ。」と、またうとうととねむったほど、仏になってござるから、お京が今し帰った時の俥の音など、沙汰なしで、ご存じないが。
祖母おばあさん……」
 なき父、なき母。
「私は決してお京さんに。……ただただ、青大将の女房にはしたくないんです。」
 と、きちんと両手をついたかと思えば、すぐに※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ひきむしりそうな手を、そのまま宙に振って、また飛上って、河童かっぱかぶった杯をたたいた。
「でんでん虫、虫。雨も風も吹かンのんに、でんでん虫、虫……」
 と、狂言舞に、無性矢鱈やたら刎歩行はねあるく。
 のそのそ、のそのそ、一面の南瓜の蔭から這出はいだしたものは蝦蟇がまである。とにかく、地借ちがりやからだし、妻なしが、友だち附合の義理もあり、かたがた、埴生はにゅうの小屋の貧旦那ひんだんなが、今の若さに気が違ったのじゃあるまいか。狂い方も、蛞蝓なめくじだとペロリと呑みたくなって危いが、蝸牛でんでんむしなら仔細しさいあるまい、見舞おうと、おのおの鹿爪らしく憂慮気きづかわしげに、中には――時々の事――縁へ這上ったのもあって、まじまじと見てつらを並べている。
 ここに不思議な事は、結びも、留めもしない、朱塗の梅の杯が気狂舞きちがいまいに跳ねても飛んでも、すべらず、転らず、頭から落ちようとしないので。……ふと心附いて、ひきのごとくしゃがんで、手もて取って引く、女の黒髪が一筋、糸底を巻いて、耳から額へほっそりと、頬にさえかかっている。
 猛然として、藍染川、忍川、不忍の池の雪を思出すと、思わず震える指で、毛筋を引けば、手繰れば、しごけば、するすると伸び、伸びつつ、長く美しく、黒く艶やかに、ぷんと薫って、手繰り集めた杯のうちが、光るばかりに漆をく。と見ると、毛先がおのずから動いて、杯の縁をね、灰に染めじ、と思う糸七の袖にゆるかかりながら、すらすらと濡縁へなびいたのである。
 この瞬間、誰が、その藍染川、忍川、不忍の池を眺めた雪の糸桜を憶起おもいおこさずにいられよう。
 見る見る、黒髪に散る雪が、輝くはだ露呈あらわして、再び、あの淡紅色ときいろ紗綾形さやがたの、品よく和やかに、情ありげな背負揚が解け、襟が開け緋が乱れて、石鹸シャボンの香を聞いてさえ、身にみた雪をあざむく肩を、胸を、かいなを……青大将の黒い歯が、黒い唾が、黒い舌が。――
 糸七はこぶしを固めて宙を打った――「この狂人きちがい」――「悪魔がいたか、狂わすか、しまったり」……と叫びつつ、蝦蟇を驚かしつつ、敷きわがね、伸び靡いた、一条ひとすじの黒髪の上を、光琳の錦を敷いたの葉ぢらしの帯の上のごとく、転々として転げ倒れた。
「光邦様、光邦様。」
 ぎょっとすると、お滝夜叉。
「あい、お手紙。ほら、さっき来たんだけれどね、ね、花嫁がくと悪いから預っといたのよ、えらいでしょう。……女の人の手紙なんですもの。」
 ――お伽堂、時より――で、都合で帰郷する事になり、それにつけ、いつぞや、『たそがれ』など、あなたを大のご贔屓ひいきの、中坂下のお娘ごのお達引で、金子きんす珊瑚さんごかんざしの、ご心配はもうなくなりましたと申したのは、実は中洲、月村様のお厚情こころざし。京子様、その事堅くお口どめゆえ、かくしてはおりましたが、このたび帰国の上は、かれこれ、打明けます折もつい伸々のびのびと心苦しく、お京様とは幾久しきおつきあい、何かにつけ、お胸にそのお含み、なによりと存じ…………
 ――もうい。
――(完)

作者自から評して云う、この(結び)には拵えた作意がある。誰方にもよく解る。……お滝が手紙を渡すすじである。まとまりがいいようにと思ったが、見えすいた筋立らしい、こんな事はしないがい。――実は、お伽堂の女房の手紙が糸七に届いたのは、過ぐること二月ばかり、お京さんと、野土青鱗(あおだいしょうめ)画伯と、結婚式の済んだ後だったのだそうである。
昭和十四(一九三九)年三月





底本:「泉鏡花集成10」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十四卷」岩波書店
   1940(昭和15)年6月30日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2008年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について