襖を開けて、旅館の女中が、
「
旦那、」
と
上調子の
尻上りに
云って、
坐りもやらず
莞爾と笑いかける。
「用かい。」
とこの八
畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、
紺の勝った
糸織の
大名縞の
袷に、
浴衣を
襲ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと
薄ら寒し、
着換えるも
面倒なりで、
乱箱に
畳んであった着物を無造作に
引摺出して、上着だけ
引剥いで
着込んだ
証拠に、
襦袢も羽織も
床の
間を
辷って、
坐蒲団の
傍まで
散々のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、
胡坐で
火鉢に
頬杖して、当日の
東雲御覧という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。
その二の面の二段目から三段へかけて出ている、
清川謙造氏講演、とあるのがこの人物である。
たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても
朝寝のほど、
昨日のその講演会の
帰途のほども
量られる。
「お客様でございますよう。」
と女中は
思入たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で
威して
甲走る。
吃驚して、ひょいと顔を上げると、横合から
硝子窓へ
照々と当る日が、
片頬へかっと射したので、ぱちぱちと
瞬いた。
「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」
となおさら
可笑がる。
謙造は一向
真面目で、
「何という人だ。名札はあるかい。」
「いいえ、名札なんか
用りません。
誰も知らないもののない方でございます。ほほほ、」
「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」
と
眉を
顰める。
「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも
恐くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。
昨夜あんなに
晩うくお帰りなさいました
癖に、」
「いや、」
と謙造は
片頬を
撫でて、
「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」
ちと
躾めるように言うと、一層
頬辺の色を
濃くして、ますます
気勢込んで、
「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」
と
厭な目つきでまたニヤリで、
「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」
突然川柳で
折紙つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、
「旦那、まあ、あら、まあ、あら
良い
香い、何て
香水を
召したんでございます。フン、」
といい方が
仰山なのに、こっちもつい
釣込まれて、
「どこにも香水なんぞありはしないよ。」
「じゃ、あの床の間の花かしら、」
と
一際首を
突込みながら、
「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」
「
串戯じゃない。何という人だというに、」
「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お
逢いなされば分るんですもの。」
「どんな人だよ、じれったい。」
「
先方もじれったがっておりましょうよ。」
「
婦人か。」
と
唐突に
尋ねた。
「ほら、ほら、」
と
袂をその、ほらほらと
煽ってかかって、
「ご存じの癖に、」
「どんな婦人だ。」
と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を
窓へ
翳したのである。
「お気の毒様。」
「何だ、もう帰ったのか。」
「ええ、」
「だってお気の毒様だと
云うじゃないか。」
「ほんとに
性急でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、286-4]さんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。
ところが、どうして、
跛で、めっかちで、
出尻で、おまけに、」
といいかけて、またフンと
嗅いで、
「ほんとにどうしたら、こんな
良い
匂が、」
とひょいと横を向いて顔を
廊下へ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、
斜ッかけに、
「あら、まあ!」
「お
伺い下すって?」
と
内端ながら
判然とした
清い声が、
壁に
附いて廊下で聞える。
女中はぼッとした
顔色で、
「まあ!」
「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」
と
優容な
物腰。
大概、
莟から
咲きかかったまで、花の
香を伝えたから、跛も、めっかちも聞いたであろうに、
仂なく笑いもせなんだ、つつましやかな
人柄である。
「お目にかかられますでしょうか。」
「ご勝手になさいまし。」
くるりと入口へ仕切られた背中になると、襖の
桟が
外れたように、その
縦縞が消えるが
疾いか、廊下を、ばた、ばた、ばた、どたんなり。
「お入ンなさい、」
「は、」
と
幽かに聞いて、火鉢に手をかけ、入口をぐっと
仰いで、
優い顔で、
「ご
遠慮なく……私は清川謙造です。」
と念のために一ツ名乗る。
「ご
免下さいまし、」
はらりと
沈んだ
衣の音で、
早入口へちゃんと両手を。肩がしなやかに袂の
尖、
揺れつつ
畳に敷いたのは、
藤の
房の
丈長く
末濃に
靡いた
装である。
文金の
高髷ふっくりした
前髪で、
白茶地に秋の野を織出した
繻珍の丸帯、薄手にしめた帯腰
柔に、
膝を入口に
支いて
会釈した。
背負上げの
緋縮緬こそ
脇あけを
漏る雪の
膚に
稲妻のごとく
閃いたれ、
愛嬌の
露もしっとりと、ものあわれに
俯向いたその姿、片手に
文箱を
捧げぬばかり、
天晴、
風采、池田の
宿より
朝顔が参って
候。
謙造は、一目見て、
紛うべくもあらず、それと知った。
この
芸妓は、
昨夜の
宴会の
余興にとて、
催しのあった
熊野の
踊に、朝顔に
扮した美人である。
女主人公の熊野を
勤めた婦人は、このお腰元に
較べていたく
品形が
劣っていたので、なぜあの
瓢箪のようなのがシテをする。
根占の花に
蹴落されて色の無さよ、と
怪んで聞くと、芸も
容色も
立優った朝顔だけれど、――名はお君という――その
妓は熊野を
踊ると、後できっと
煩らうとの事。
仔細を聞くと、させる
境遇であるために、親の死目に合わなかったからであろう、と云った。
不幸で沈んだと名乗る
淵はないけれども、孝心なと聞けば
懐しい流れの花の、旅の
衣の
俤に立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。
謙造はいそいそと、
「どうして。さあ、こちらへ。」
と
行儀わるく、火鉢を
斜めに
押出しながら、
「ずっとお入んなさい、構やしません。」
「はい。」
「まあ、どうしてね、お前さん、
驚いた。」と思わず云って、心着くと、お君はげっそりとまた姿が
痩せて、
極りの悪そうに小さくなって、
「済みませんこと。」
「いやいや、驚いたって、何に、その驚いたんじゃない。はははは、
吃驚したんじゃないよ。まあ、よく来たねえ。」
「その事で。ああ、なるほど言いましたよ。」
と火鉢の
縁に軽く
肱を
凭たせて、謙造は
微笑みながら、
「本来なら、こりゃお前さんがたが、客へお
世辞に云う事だったね。誰かに
肖ていらっしゃるなぞと思わせぶりを……ちと
反対だったね。言いました。ああ、肖ている、肖ているッて。
そうです、
確にそう云った事を覚えているよ。」
お君は
敷けと云って差出された
座蒲団より
膝薄う、その
傍へ片手をついたなりでいたのである。が、
薄化粧に、
口紅濃く、目のぱっちりした顔を上げて、
「よその方が、誰かに肖ているとお尋ねなさいましたから、あなたがどうお返事を遊ばすかと存じまして、私は
極が悪うございましたけれども、そっと気をつけましたんですが、こういう処で話をする事ではない。まあまあ、とおっしゃって、それ切りになりましたのでございます。」
謙造は親しげに
打頷き、
「そうそうそう云いました。それが耳に入って気になったかね、そうかい。」
「いいえ、」とまた俯向いて、清らかな
手巾を、袂の中で
引靡けて、
「気にいたしますの、なんのって、そういうわけではございません。あの……
伺いました上で、それにつきまして少々お
尋ねしたいと存じまして。」と
俯目になった、
睫毛が濃い。
「聞きましょうとも。その肖たという事の
次第を話すがね、まあ、もっとお寄んなさい。
大分眩しそうだ。どうも、まともに日が射すからね。さあ、遠慮をしないで、お敷きなさい。こうして尋ねて来なすった時はお客様じゃないか。
威張って、威張って。」
「いいえ、どういたしまして、それでは……」
しかし
眩ゆかったろう、
下掻を引いて
座をずらした、
壁の
中央に柱が
許、肩に
浴びた日を
避けて、朝顔はらりと咲きかわりぬ。
「実はもうちっと
間があると、お前さんが望みとあれば、今夜にもまた
昨夜の家へ出向いて行って、陽気に一つ話をするんだがね、もう東京へ
発程んだからそうしてはいられない。」
「はい、あの、私もそれを承りましたので、お帰りになりません
前と存じまして、お宿へ、
飛だお
邪魔をいたしましてございますの。」
「宿へお
出は構わんが、こんな処で話してはちと真面目になるから、事が面倒になりはしないかと思うんだが。
そうかと云って
昨夜のような、
杯盤狼藉という場所も困るんだよ。
実は
墓参詣の事だから、」
と云いかけて、だんだん火鉢を
手許へ引いたのに心着いて、一膝下って向うへ
圧して、
「お前さん、
煙草は?」
黙って
莞爾する。
「
喫むだろう。」
「
生意気でございますわ。」
「遠慮なしにお
喫り、お喫り。上げようか、巻いたんでよけりゃ。」
「いいえ、持っておりますよ。」
と帯の処へ手を当てる。
「そこでと、湯も
沸いてるから、茶を飲みたければ飲むと……
羊羹がある。一本五銭ぐらいなんだが、よければお
撮みと……今に何ぞご
馳走しようが、まあ、お
尋の件を済ましてからの事にしよう、それがいい。」
独りで云って、独りで
極めて、
「さて、その事だが、」
「はあ、」
とまた片手をついた。胸へ気が
籠ったか、乳のあたりがふっくりとなる。
「余り気を入れると
他愛がないよ。ちっとこう
更っては取留めのない事なんだから。いいかい、」
ともの優しく念を入れて、
「私は
小児の時だったから、
唾をつけて、こう引返すと、台なしに
汚すと云って
厭がったっけ。死んだ
阿母が大事にしていた、絵も、歌の文字も、
対の
歌留多が別にあってね、
極彩色の口絵の八九枚入った、
綺麗な本の
小倉百人一首というのが一冊あった。
その中のね、女用文章の処を開けると……」と畳の上で、謙造は何にもないのを折返した。
「トそこに高髷に結った、
瓜核顔で品のいい、何とも云えないほど
口許の
優い、目の
清い、眉の美しい、十八九の
振袖が、
裾を
曳いて、
嫋娜と中腰に立って、左の手を膝の処へ置いて、右の手で、筆を持った
小児の手を持添えて、その
小児の顔を、上から
俯目に
覗込むようにして、
莞爾していると、
小児は行儀よく
机に向って、草紙に手習のところなんだがね。
今でも、その絵が目に着いている。
衣服の
縞柄も
真にしなやかに、よくその
膚合に
叶ったという工合で。
小児の背中に、その膝についた手の仕切がなかったら、膚へさぞ
移香もするだろうと思うように、ふっくりとなだらかに
褄を
捌いて、こう
引廻した裾が、
小児を
庇ったように、しんせつに
情が
籠っていたんだよ。
大袈裟に聞えようけれども。
私は、その絵が大好きで、開けちゃ、見い見いしたもんだから、百人一首を持出して、さっと
開ると、またいつでもそこが出る。
この
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、295-4]さんは誰だい?と聞くと
阿母が、それはお向うの
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、295-4]さんだよ、と言い言いしたんだ。
そのお向うの
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、295-6]さんというのに、……お前さんが
肖ているんだがね――まあ、お聞きよ。」
「はあ、」
と
った目がうつくしく、その
俤が映りそう。
「お向うというのは、前に
土蔵が
二戸前。
格子戸に
並んでいた
大家でね。私の家なんぞとは、すっかり暮向きが
違う上に、金貸だそうだったよ。何となく近所との
隔てがあったし、余り人づきあいをしないといった風で。出入も余計なし、なおさら奥行が深くって、裏はどこの国まで続いているんだか、
小児心には知れないほどだったから、ついぞ遊びに行った事もなければ、時々、門口じゃ、その
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、295-14]さんというのの母親に口を利かれる事があっても、こっちは
含羞で
遁げ出したように覚えている。
だから、そのお
嬢さんなんざ、
年紀も違うし、一所に遊んだ事はもちろんなし、また内気な人だったとみえて、余り
戸外へなんか出た事のない人でね、
堅く言えば
深閨に何とかだ。
秘蔵娘さね。
そこで、軽々しく顔が見られないだけに、二度なり、三度なり見た事のあるのが、余計に心に残っているんで。その女用文章の中の
挿画が
真物だか、真物が絵なんだか分らないくらいだった。
しかしどっちにしろ、
顔容は
判然今も覚えている。
一日、その母親の手から、
娘が、お前さんに、と云って、
縮緬の
寄切で
拵えた、
迷子札につける
腰巾着を
一個くれたんです。そのとき格子戸の
傍の、出窓の
簾の中に、ほの白いものが見えたよ。
紅の色も。
蝙蝠を
引払いていた
棹を
抛り出して、
内へ飛込んだ、その
嬉しさッたらなかった。夜も抱いて寝て、あけるとその百人一首の絵の机の上へのっけたり、立っている娘の胸の処へ置いたり、胸へのせると裾までかくれたよ。
惜い事をした。その巾着は、私が東京へ行っていた時分に、
故郷の家が
近火に焼けた時、その百人一首も一所に焼けたよ。」
「まあ……」
とはかなそうに、お君の顔色が
寂しかった。
「迷子札は、
金だから残ったがね、その火事で、向うの
家も焼けたんだ。今度通ってみたが、町はもう昔の俤もない。
煉瓦造りなんぞ建って開けたようだけれど、大きな樹がなくなって、山がすぐ
露出しに見えるから、かえって
田舎になった気がする、富士の
裾野に
煙突があるように。
向うの家も、どこへ行きなすったかね、」
と調子が沈んで、少し、しめやかになって、
「もちろんその娘さんは、私がまだ
十ウにならない内に
亡くなったんだ。――
産後だと言います……」
「お産をなすって?」
と俯目でいた目を
いたが、それがどうやらうるんでいたので。
謙造はじっと見て、
傾きながら、
「
一人娘で養子をしたんだね、いや、その時は
賑かだッけ。」
と陽気な声。
「土蔵がずッしりとあるだけに、いつも火の気のないような、しんとした、大きな音じゃ
釜も洗わないといった家が、夜になると、何となく
灯がさして、
三味線太鼓の音がする。時々どっと
山颪に誘われて、
物凄いような
多人数の
笑声がするね。
何ッて、
母親の
懐で寝ながら聞くと、これは笑っているばかり。
父親が店から声をかけて、魔物が騒ぐんだ、
恐いぞ、と云うから、乳へ顔を
押着けて息を殺して寝たっけが。
三晩ばかり続いたよ。
田地田畠持込で養子が来たんです。
その養子というのは、日にやけた色の赤黒い、
巌乗づくりの
小造な男だっけ。何だか目の光る、ちときょときょとする、
性急な人さ。
性急なことをよく覚えている訳は、
桃を上げるから一所においで。
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、299-2]さんが、そう云った、
坊を連れて行けというからと、私を誘ってくれたんだ。
例の巾着をつけて、いそいそ手を
曳かれて連れられたんだが、髪を
綺麗に分けて、
帽子を
冠らないで、確かその頃
流行ったらしい。
手甲見たような、腕へだけ
嵌まる毛糸で編んだ、
萌黄の手袋を嵌めて、赤い
襯衣を着て、例の目を光らしていたのさ。私はその娘さんが、あとから来るのだろう、来るのだろうと、見返り見返りしながら手を曳かれて行ったが、なかなか
路は遠かった。
途中で
負ってくれたりなんぞして、何でも
町尽へ出て、
寂い処を通って、しばらくすると、大きな
榎の下に、
清水が
湧いていて、そこで冷い水を飲んだ気がする。清水には
柵が
結ってあってね、昼間だったから、
点けちゃなかったが、
床几の上に、何とか書いた
行燈の出ていたのを覚えている。
そこでひとしきり、人通りがあって、もうちと行くと、またひっそりして、やがて大きな
桑畠へ入って、あの
熟した桑の実を取って食べながら通ると、二三人葉を
摘んでいた、
田舎の婦人があって、養子を見ると、
慌てて
襷をはずして、お
辞儀をしたがね、そこが養子の実家だった。
地続きの
桃畠へ入ると、さあ、たくさん取れ、今じゃ、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、300-2]さんのものになったんだから、いつでも来るがいい。まだ、
瓜もある、
西瓜も出来る、と嬉しがらせて、どうだ。坊は家の
児にならんか、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、300-4]さんがいい児にするぜ。
厭か、
爺婆が
居るから。……そうだろう。あんな奴は、今におれがたたき殺してやろう、と恐ろしく意気込んで、飛上って、高い
枝の桃の実を
引もぎって
一個くれたんだ。
帰途は、その清水の処あたりで、もう日が
暮れた。
婆がやかましいから急ごう、と云うと、髪をばらりと
振って、私の手をむずと取って
駆出したんだが、
引立てた
腕が
げるように痛む、足も
宙で息が
詰った。養子は、と見ると、目が血走っていようじゃないか。
泣出したもんだから、
横抱にして飛んで帰ったがね。私は何だか顔はあかし、
天狗にさらわれて行ったような気がした。袂に入れた桃の実は途中で
振落して一つもない。
そりゃいいが、半年
経たない内にその男は
離縁になった。
だんだん気が
荒くなって、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、301-1]さんのたぶさを
掴んで打った、とかで、
田地は取上げ、という
評判でね、風の便りに聞くと、その養子は気が違ってしまったそうだよ。
その
後、
晩方の事だった。私はまた例の百人一首を持出して、おなじ処を開けて
腹這いで見ていた。その絵を見る時は、きっと、この
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、301-5]さんは誰? と云って聞くのがお
極りのようだったがね。また
尋ねようと思って、
阿母は、と見ると、秋の
暮方の事だっけ。ずっと病気で寝ていたのが、ちと心持がよかったか、
床を出て、二階の
臂かけ
窓に
袖をかけて、じっと
戸外を見てうっとり
見惚れたような様子だから、
遠慮をして、黙って見ていると、どうしたか、ぐッと肩を落して、はらはらと
涙を落した。
どうしたの? と飛ついて、
鬢の毛のほつれた処へ、私の
頬がくっついた時、と見ると向うの
軒下に、薄く青い袖をかさねて、しょんぼりと立って、暗くなった山の方を見ていたのがその人で、」
と謙造は
面を
背けて、
硝子窓。そのおなじ山が
透かして見える。日は
傾いたのである。
「その時は、
艶々した
丸髷に、
浅葱絞りの
手柄をかけていなすった。ト私が
覗いた時、くるりと向うむきになって、格子戸へ顔をつけて、両袖でその白い顔を包んで、消えそうな後姿で、ふるえながら
泣きなすったっけ。
桑の実の
小母さん
許へ、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、302-6]さんを連れて行ってお上げ、
坊やは知ってるね、と云って、
阿母は横抱に、しっかり私を胸へ抱いて、
こんな、お腹をして、
可哀相に……と云うと、熱い
珠が、はらはらと私の
頸へ落ちた。」
と見ると
手巾の
尖を
引啣えて、お
君の肩はぶるぶると動いた。
白歯の色も涙の
露、音するばかり
戦いて。
言を折られて、謙造は
溜息した。
「あなた、もし、」
と涙声で、つと、
腰を
浮かして寄って、火鉢にかけた指の尖が、真白に
震えながら、
「その百人一首も焼けてなくなったんでございますか。
私、
私は、お墓もどこだか存じません。」
と引出して目に当てた
襦袢の袖の燃ゆる色も、
紅寒き血に見える。
謙造は
太息ついて、
「ああ、そうですか、じゃあ里に
遣られなすったお
娘なんですね。
音信不通という風説だったが、そうですか。――いや、」
と
言を改めて、
「二十年前の事が、今目の前に見えるようだ。お察し申します。
私も、その頃
阿母に別れました。今じゃ
父親も
居らんのですが、しかしまあ、
墓所を知っているだけでも、あなたより
増かも知れん。
そうですか。」
また歎息して、
「お墓所もご存じない。」
「はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……」
と
言も乱れて、
「
墓の所をご存じではござんすまいか。」
「……困ったねえ。
門徒宗でおあんなすったっけが、トばかりじゃ……」
と云い
淀むと、
堪りかねたか、
蒲団の上へ、はっと
突俯して泣くのであった。
謙造は目を
瞑って腕組したが、おお、と小さく
膝を
叩いて、
「余りの事のお気の毒さ。
肝心の事を忘れました。あなた、あなた、」
と
二声に、引起された涙の顔。
「こっちへ来てご覧なさい。」
謙造は座を譲って、
「こっちへ来て、ここへ、」
と指さされた窓の
許へ、お君は、
夢中のように、つかつか出て、硝子窓の
敷居に
縋る。
謙造はひしと
背後に
附添い、
「
松葉越に見えましょう。あの山は、それ
茸狩だ、
彼岸だ、二十六
夜待だ、月見だ、と云って土地の人が
遊山に行く。あなたも朝夕見ていましょう。あすこにね、私の親たちの墓があるんだが、その
居まわりの
回向堂に、あなたの
阿母さんの
記念がある。」
「ええ。」
「
確にあります、
一昨日も私が行って見て来たんだ。そこへこれからお
伴をしよう、連れて行って上げましょう、すぐに、」
と云って
勇んだ声で、
「お
身体の
都合は、」
その花やかな、
寂しい姿をふと見つけた。
「しかし、それはどうとも
都合が出来よう。」
「まあ、ほんとうでございますか。」
といそいそ
裳を
靡かしながら、なおその窓を見入ったまま、敷居の手を離さなかったが、謙造が、
脱ぎ
棄てた
衣服にハヤ手をかけた時であった。
「あれえ」と云うと畳にばったり、膝を乱して
真蒼になった。
窓を切った松の樹の横枝へ、お君の顔と正面に、山を
背負って、むずと
掴まった、大きな鳥の
翼があった。
狸のごとき
眼の光、灰色の胸毛の
逆立ったのさえ数えられる。
「
梟だ。」
とからからと笑って、帯をぐるぐると巻きながら、
「山へ行くのに、そんなものに驚いちゃいかんよ。そう
極ったら、急がないとまた客が来る。あなた
支度をして。山の下まで車だ。」と口でも云えば、手も叩く、謙造の
忙がしさ。その
足許にも鳥が立とう。
「さっきの、さっきの、」
と
微笑みながら、謙造は
四辺を
し、
「さっきのが……声だよ。お前さん、そう
恐がっちゃいかん。
一生懸命のところじゃないか。」
「あの、梟が鳴くんですかねえ。私はまた何でしょうと
吃驚しましたわ。」
と、
寄添いながら、お君も
莞爾。
二人は
麓から坂を一ツ、曲ってもう一ツ、それからここの天神の宮を、
梢に
仰ぐ、石段を三段、次第に上って来て、これから
隧道のように薄暗い、山の
狭間の森の中なる、
額堂を抜けて、見晴しへ出て、もう一坂越して、草原を通ると頂上の広場になる。かしこの回向堂を志して、ここまで来ると、あんなに日当りで、車は
母衣さえおろすほどだったのが、
梅雨期のならい、石段の下の、
太鼓橋が
掛った、
乾いた池の、葉ばかりの
菖蒲がざっと鳴ると、上の森へ、雲がかかったと見るや、こらえずさっと降出したのに、ざっと
一濡れ。石段を
駆けて
上って、
境内にちらほらとある、
青梅の中を、
裳はらはらでお君が
潜って。
さてこの額堂へ入って、一息ついたのである。
「暮れるには
間があるだろうが、暗くなったもんだから、ここを一番と
威すんだ。悪い梟さ。この森にゃ昔からたくさん居る。
良い月夜なんぞに来ると、
身体が
蒼い後光がさすように薄ぼんやりした
態で、樹の間にむらむら居る。
それをまた、
腕白の強がりが、よく
賭博なんぞして、わざとここまで来たもんだからね。梟は
仔細ないが、弱るのはこの額堂にゃ、
古から評判の、
鬼、」
「ええ、」
とまた
擦寄った。謙造は
昔懐しさと、お
伽話でもする気とで、うっかり言ったが、なるほどこれは、と心着いて、急いで言い続けて、
「鬼の額だよ、額が
上っているんだよ。」
「どこにでございます。」
と
何にか
押向けられたように顔を向ける。
「何、何でもない、ただ絵なんだけれど、
小児の時は恐かったよ、見ない方がよかろう。はははは、そうか、見ないとなお
恐しい、気が済まない、とあとへ残るか、それその額さ。」
と
指したのは、
蜘蛛の
囲の間にかかって、一面
漆を塗ったように古い額の、
胡粉が白くくっきりと残った、
目隈の蒼ずんだ中に、
一双虎のごとき
眼の光、
凸に
爛々たる、一体の
般若、
被の外へ
躍出でて、
虚空へさっと
撞木を
楫、
渦いた風に乗って、
緋の
袴の
狂いが
火焔のように
飜ったのを、よくも見ないで、
「ああ。」と云うと、ひしと謙造の胸につけた、
遠慮の眉は
間をおいたが、前髪は
衣紋について、
襟の雪がほんのり
薫ると、袖に縋った手にばかり、言い知らず力が
籠った。
謙造は、その時はまださまでにも思わずに、
「
母様の
記念を見に行くんじゃないか、そんなに弱くっては仕方がない。」
と半ば
励ます気で云った。
「いいえ、
母様が
活きていて下されば、なおこんな時は
甘えますわ。」
と
取縋っているだけに、思い切って、おさないものいい。
何となく身に染みて、
「私が
居るから恐くはないよ。」
「ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。」
思わず
背に手をかけながら、謙造は仰いで額を見た。
雨の
滴々しとしとと屋根を打って、森の暗さが
廂を通し、
翠が黒く
染込む絵の、
鬼女が投げたる
被を
背にかけ、わずかに
烏帽子の
頭を
払って、
太刀に手をかけ、腹巻したる
体を
斜めに、ハタと
睨んだ勇士の
面。
と顔を合わせて、フトその
腕を解いた時。
小松に
触る雨の音、ざらざらと騒がしく、
番傘を低く
翳し、
高下駄に、
濡地をしゃきしゃきと
蹈んで、からずね二本、痩せたのを
裾端折で、
大股に
歩行いて来て額堂へ、
頂の方の入口から、のさりと入ったものがある。
「やあ、これからまたお
出かい。」
と腹の底から出るような、奥底のない声をかけて、番傘を横に開いて、出した顔は
見知越。
一昨日もちょっと顔を合わせた、
峰の回向堂の堂守で、耳には
数珠をかけていた。
仁右衛門といって、いつもおんなじ年の
爺である。
その回向堂は、また
庚申堂とも呼ぶが、別に庚申を祭ったのではない。さんぬる
天保庚申年に、山を開いて、共同墓地にした時に、居まわりに寺がないから、この
御堂を
建立して、家々の
位牌を預ける事にした、そこで回向堂とも
称うるので、この堂守ばかり、別に
住職の
居室もなければ、
山法師も宿らぬのである。
「また、東京へ行きますから、もう一度と思って来ました。」
と早、離れてはいたが、謙造は
傍なる、
手向にあらぬ花の姿に、心置かるる
風情で云った。
「よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。」
「ちょっと休まして頂くかも知れません。
爺さんは、」
「
私かい。講中にちっと
折込みがあって、これから
通夜じゃ、
南無妙、」
と口をむぐむぐさしたが、
「はははは、
私ぐらいの年の
婆さまじゃ、お目出たい事いの。位牌になって
嫁入りにござらっしゃる、南無妙。戸は閉めてきたがの、開けさっしゃりませ、
掛金も何にもない、南無妙、」
と二人を見て、
「ははあ、
傘なしじゃの、いや
生憎の雨、これを進ぜましょ。持ってござらっしゃい。」
とばッさり
窄める。
「何、構やしないよ。」
「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、312-5]さんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。」
「済みませんねえ、」
と顔を赤らめながら、
「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」
「私は濡れても
天日で干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の
神官殿別懇じゃ、
宿坊で借りて行く……南無妙、」
と
押つけるように出してくれる。
捧げるように両手で取って、
「
大助りです、ここに雨やみをしているもいいが、この人が、」
と見返って、
莞爾して、
「どうも、
嬰児のように恐がって、取って食われそうに騒ぐんで、」
と今の姿を見られたろう、と
極の悪さにいいわけする。
お君は
俯向いて、
紫の
半襟の、
縫の
梅を指でちょいと。
仁右衛門、はッはと笑い、
「おお、名物の梟かい。」
「いいえ、それよりか、そのもみじ
狩の額の鬼が、」
「ふむ、」
と振仰いで、
「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、
余吾将軍維茂ではない。見さっしゃい。
烏帽子素袍大紋じゃ。手には
小手、
脚にはすねあてをしているわ……
大森彦七じゃ。南無妙、」
と豊かに目を
瞑って、鼻の下を長くしたが、
「
山頬の細道を、
直様に通るに、年の程十七八
計なる
女房の、赤き袴に、
柳裏の
五衣着て、
鬢深く
鍛ぎたるが、南無妙。
山の
端の月に
映じて、ただ独り
彳みたり。……これからよ、南無妙。
女ちと打笑うて、
嬉しや候。さらば
御桟敷へ参り
候わんと云いて、
跡に付きてぞ歩みける。
羅綺にだも
不勝姿、
誠に
物痛しく、まだ一足も土をば
不蹈人よと覚えて、南無妙。
彦七
不怺、
余に
露も深く候えば、あれまで
負進せ候わんとて、前に
跪きたれば、女房すこしも
不辞、
便のう、いかにかと云いながら、やがて
後にぞ
靠りける、南無妙。
白玉か何ぞと問いし
古えも、かくやと
思知れつつ、
嵐のつてに
散花の、袖に
懸るよりも軽やかに、
梅花の
匂なつかしく、
蹈足もたどたどしく、心も空に
浮れつつ、
半町ばかり歩みけるが、南無妙。
月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも
厳しかりけるこの女房、南無妙。」
といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて
懐へ入れたが、
身体は平気で、石段、てく、てく。
二ノ
眼ハ
朱ヲ
解テ。鏡ノ
面ニ
洒ゲルガゴトク。
上下歯クイ
違テ。
口脇耳ノ根マデ広ク
割ケ。
眉ハ
漆ニテ
百入塗タルゴトクニシテ。額ヲ隠シ。
振分髪ノ中ヨリ。
五寸計ナル
犢ノ角。
鱗ヲカズイテ
生出でた、
長八
尺の鬼が出ようかと、
汗を流して聞いている内、月チト暗カリケル処ニテ、仁右衛門が出て行った。まず、よし。お君は
怯えずに済んだが、ひとえに梟の声に耳を澄まして、あわれに
物寂い顔である。
「さ、出かけよう。」
と謙造はもうここから
傘ばッさり。
「はい、あなた飛んだご
迷惑でございます。」
「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。
路はまだそんなでもないから、
跣足には
及ぶまいが、裾をぐいとお
上げ、構わず、」
「それでも、」
「うむ、構うもんか、いまの石段なんぞ、ちらちら
引絡まって
歩行悪そうだった。
極の悪いことも何にもない。誰も見やしないから、これから先は、人ッ子一人居やしない、よ、そうおし、」
「でも、
余り、」
片褄取って、その
紅のはしのこぼれたのに、
猶予って
恥しそう。
「だらしがないから、よ。」
と
叱るように云って、
「
母様に逢いに行くんだ。一体、私の
背に
負んぶをして、目を
塞いで飛ぶところだ。構うもんか。さ、手を
曳こう、
辷るぞ。」
と言った。暮れかかった山の色は、その
滑かな土に、お君の
白脛とかつ、
緋の
裳を映した。二人は額堂を出たのである。
「ご覧、目の下に遠く
樹立が見える、あの中の
瓦屋根が、私の居る
旅籠だよ。」
崕のふちで
危っかしそうに
伸上って、
「まあ、
直そこでございますね。」
「
一飛びだから、梟が迎いに来たんだろう。」
「あれ。」
「おっと……
番毎怯えるな、しっかりと
掴ったり……」
「あなた、
邪慳にお
引張りなさいますな。
綺麗な草を、もうちっとで
蹈もうといたしました。
可愛らしい
菖蒲ですこと。」
「
紫羅傘だよ、この山にはたくさん
吹く
[#「吹く」はママ]。それ、一面に。」
星の数ほど、はらはらと咲き乱れたが、森が暗く山が
薄鼠になって濡れたから、しきりなく梟の声につけても、その紫の
俤が、
燐火のようで
凄かった。
辿る姿は、松にかくれ、草にあらわれ、坂に
沈み、峰に浮んで、その峰つづきを
畝々と、漆のようなのと、
真蒼なると、
赭のごときと、中にも雪を頂いた、雲いろいろの
遠山に添うて、ここに
射返されたようなお
君の色。やがて
傘一つ、山の
端に
大な
蕈のようになった時、二人はその、さす方の、
庚申堂へ着いたのである。
と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は
後に、
御母様がそうしておいたのだ、と言ったが、知らず堂守の
思違いであったろう。
框がすぐに
縁で、
取附きがその位牌堂。これには
天井から大きな白の
戸帳が
垂れている。その色だけ
仄に明くって、
板敷は暗かった。
左に六
畳ばかりの休息所がある。向うが
破襖で、その中が、何畳か、仁右衛門堂守の
居る処。勝手口は裏にあって、台所もついて、
井戸もある。
が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。
前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸
漏る
明を見当に、がたびしと立働いて、町に向いた方の雨戸をあけた。
横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が
氷を
削ったような裾を、紅、緑、紫の山でつつまれた根まで見える、見晴の絶景ながら、窓の下がすぐ、ばらばらと墓であるから、また
怯えようと、それは閉めたままでおいたのである。
その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を
捻るようにして
懐がみで足を
拭って、
下駄を、謙造のも一所に
拭いて、それから
穿直して、外へ出て、広々とした山の上の、小さな
手水鉢で手を洗って、これは
手巾で
拭って、裾をおろして、一つ
揺直して、
下褄を
掻込んで、本堂へ立向って、ト
頭を下げたところ。
「こちらへお入り、」
と、謙造が休息所で声をかける。
お君がそっと
歩行いて行くと、六畳の真中に
腕組をして
坐っていたが、
「まあお坐んなさい。」
と
傍へ坐らせて、お君が、ちゃんと膝をついた
拍子に、何と思ったか、ずいと立ってそこらを見廻したが、
横手のその窓に
並んだ二段に
釣った
棚があって、
火鉢燭台の類、新しい
卒堵婆が二本ばかり。下へ突込んで、鼠の
噛った穴から、白い
切のはみ出した、中には白骨でもありそうな、薄気味の悪い
古葛籠が一折。その中の棚に
斜っかけに乗せてあった
経机ではない小机の、脚を
抉って満月を
透したはいいが、雲のかかったように
虫蝕のあとのある、
塗ったか、古びか、真黒な、引出しのないのに目を着けると……
「有った、有った。」
と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を
背後に、
端然と坐った、お君のふっくりした
衣紋つきの帯の処へ、中腰になって
舁据えて置直すと、正面を
避けて、お君と
互違いに肩を並べたように、どっかと坐って、
「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、
暮方にはなるし、雨は降るし、こんな山の中へ連れて来て、申訳のない次第だ。
薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の
幻だったのか、と
大抵気を
揉んだ事じゃない。
お君さん、」
と云って、無言ながら、
懐しげなその美い、そして
恍惚となっている顔を見て、
「その机だ。お君さん、あなたの
母様の
記念というのは、……
こういうわけだ。また
恐がっちゃいけないよ。
母様の事なんだから。
いいかい。
一昨日ね。私の
両親の墓は、ついこの右の方の
丘の
松蔭にあるんだが、そこへ
参詣をして、
墳墓の土に、
薫の
良い、
菫の花が咲いていたから、東京へ持って帰ろうと思って、
三本ばかり
摘んで、こぼれ松葉と一所に紙入の中へ入れて。それから、
父親の
居る時分、連立って
阿母の
墓参をすると、いつでも帰りがけには、この仁右衛門の堂へ寄って、世間話、お
祖師様の一代記、時によると、軍談講釈、太平記を拾いよみに
諳記でやるくらい話がおもしろい
爺様だから、日が暮れるまで坐り込んで、
提灯を借りて帰ることなんぞあった
馴染だから、ここへ寄った。
いいお天気で、からりと日が照っていたから、この
間中の
湿気払いだと見えて、本堂も
廊下も明っ放し……で
誰も居ない。
座敷のここにこの机が出ていた。
机の向うに薄くこう
婦人が一人、」
お君はさっと蒼くなる。
「一生懸命にお聞きよ。それが、あなたの
母様だったんだから。
高髷を
俯向けにして、雪のような
頸脚が見えた。手をこうやって、何か書ものをしていたろう。紙はあったが、筆は持っていたか、そこまでは気がつかないが、現に、そこに、あなたとちょうど向い合せの処、」
正面の
襖は暗くなった、破れた
引手に、襖紙の
裂けたのが、ばさりと動いた。お君は
堅くなって真直に、そなたを見向いて、
瞬もせぬのである。
「しっかりして、お聞き、恐くはないから、私が居るから、」と謙造は、自分もちょいと本堂の今は
煙のように見える、白き
戸帳を見かえりながら、
「私がそれを見て、ああ、
肖たようなとぞっとした時、そっと顔を上げて、
莞爾したのが、お向うのその
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、322-6]さんだ、百人一首の
挿画にそッくり。
はッと気がつくと、もう影も姿もなかった。
私は、思わず飛込んで、その襖を開けたよ。
がらん堂にして仁右衛門も居らず。懐しい人だけれども、そこに、と思うと、私もちと居なすった幻のあとへは、第一なまぐさを食う
身体だし、もったいなくッて
憚ったから、今、お君さん、お前が坐っているそこへ坐ってね、机に
凭れて、」
と云う時、お君はその机にひたと顔をつけて、うつぶしになった。あらぬ
俤とどめずや、机の上は
煤だらけである。
「で、何となく、あの二階と
軒とで、泣きなすった、その時の姿が、今さしむかいに見えるようで、私は自分の母親の事と一所に、しばらく人知れず泣いて、ようよう外へ出て、日を見て目を
拭いた次第だった。
翌晩、朝顔を踊った、お前さんを見たんだよ。
目前を去らない
娘さんにそっくりじゃないか。そんな話だから、酒の席では言わなかったが、私はね、さっきお前さんがお
出での時、女中が取次いで、女の方だと云った、それにさえ、ぞっとしたくらい、まざまざとここで見たんだよ。
しかしその机は、昔からここにある見覚えのある、庚申堂はじまりからの
附道具で、何もあなたの
母様の使っておいでなすったのを、堂へ納めたというんじゃない。
それがまたどうして、ここで幻を見たろうと思うと……こうなんだ。
私の母親の亡くなったのは、あなたの
母親より、二年ばかり前だったろう。
新盆に、
切籠を
提げて、
父親と連立って
墓参に来たが、その
白張の切籠は、ここへ来て、仁右衛門
爺様に、アノ
威張った
髯題目、それから、志す仏の
戒名、
進上から、供養の
主、先祖代々の
精霊と、
一個一個に書いて
貰うのが例でね。
内ばかりじゃない、今でも盆にはそうだろうが、よその
爺様婆様、切籠持参は皆そうするんだっけ。
その年はついにない、どうしたのか急病で、仁右衛門が
呻いていました。
さあ、切籠が迷った、白張でうろうろする。
ト同じ
燈籠を手に
提げて、とき色の
長襦袢の透いて見える、
羅の
涼しい
形で、
母娘連、あなたの
祖母と二人連で、ここへ来なすったのが、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、324-7]さんだ。
やあ、
占めた、と云うと、
父親が遠慮なしに、お
絹さん――あなた、
母様の名は知っているかい。」
突俯したまま、すねたように
頭を振った。
「お
願だ、お願だ。精霊大まごつきのところ、お馴染の
私が
媽々の
門札を願います、と燈籠を
振廻わしたもんです。
母様は、町内評判の手かきだったからね、それに大勢居る処だし、
祖母さんがまた、ちっと見せたい気もあったかして、書いてお上げなさいよ、と云ってくれたもんだから、
扇を
畳んで、お坐んなすったのが――その机です。
これは、
祖父の
何々院、これは婆さまの
何々信女、そこで、これへ、
媽々の戒名を、と
父親が燈籠を出した時。
(
母様のは、)と
傍に
畏った私を見て、
(謙ちゃんが書くんですよ、)
とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」
と云う時、謙造は声が曇った。
「すらりと立って、
背後から私の手を
柔かく筆を持添えて……
おっかさん、と
仮名で書かして下さる時、この
襟へ、」
と、しっかりと腕を組んで、
「はらはらと
涙を落しておくんなすった。
父親は
墨をすりながら、
伸上って、とその仮名を読んで……
おっかさん、」
いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、
幽に、おっかさんと響いた。
ヒイと、
堪えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。
突俯したお君が、胸の苦しさに
悶えたのである。
その手を取って、
「それだもの、
忘、
忘れるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。
ね、だからそれが
記念なんだ。お君さん、
母様の顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと
請合う、きっと見える。
可哀相に、名、名も知らんのか。」
と云って、ぶるぶると
震える手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと
驚き、膝を
突かけ、
背を
抱くと、答えがないので、
慌てて、引起して、横抱きに膝へ
抱いた。
慌しい声に力を
籠めつつ、
「しっかりおし、しっかりおし、」
と涙ながら、そのまま、じっと
抱しめて、
「
母様の顔は、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、326-15]さんの姿は、私の、謙造の胸にある!」
とじっと
見詰めると、
恍惚した雪のようなお君の顔の、美しく優しい
眉のあたりを、ちらちらと
蝶のように、紫の影が
行交うと思うと、
菫の
薫がはっとして、やがて
縋った手に力が入った。
お君の寂しく
莞爾した時、
寂寞とした位牌堂の中で、カタリと音。
目を上げて見ると、見渡す限り、山はその
戸帳のような色になった。が、やや
艶やかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。
遠くで梟が
啼いた。
謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で
頭をふって、
斉しく
莞爾した。
その時何となく机の向が、かわった。
襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の
居室は
閉ったままで、ただほのかに見える
散れ松葉のその模様が、
懐しい百人一首の表紙に見えた。
(明治四十年一月)