今は
然る
憂慮なし。
大塚より
氷川へ
下りる、たら/\
坂は、
恰も
芳野世經氏宅の
門について
曲る、
昔は
辻斬ありたり。こゝに
幽靈坂、
猫又坂、くらがり
坂など
謂ふあり、
好事の
士は
尋ぬべし。
田圃には
赤蜻蛉、
案山子、
鳴子などいづれも
風情なり。
天麗かにして
其幽靈坂の
樹立の
中に
鳥の
聲す。
句になるね、と
知つた
振をして
聲を
懸くれば、
何か
心得たる
樣子にて
同行の
北八は
腕組をして
少時默る。
氷川神社を
石段の
下にて
拜み、
此宮と
植物園の
竹藪との
間の
坂を
上りて
原町へ
懸れり。
路の
彼方に
名代の
護謨製造所のあるあり。
職人眞黒になつて
働く。
護謨の
匂面を
打つ。
通り
拔ければ
木犀の
薫高き
横町なり。これより
白山の
裏に
出でて、
天外君の
竹垣の
前に
至るまでは
我々之を
間道と
稱へて、
夜は
犬の
吠ゆる
難處なり。
件の
垣根を
差覗きて、をぢさん
居るか、と
聲を
懸ける。
黄菊を
活けたる
床の
間の
見透さるゝ
書齋に
聲あり、
居る/\と。
やがて
着流し
懷手にて、
冷さうな
縁側に
立顯れ、
莞爾として
曰く、
何處へ。あゝ
北八の
野郎とそこいらまで。まあ、お
入り。いづれ、と
言つて
分れ、
大乘寺の
坂を
上り、
駒込に
出づ。
料理屋萬金の
前を
左へ
折れて
眞直に、
追分を
右に
見て、むかうへ
千駄木に
至る。
路に
門あり、
門内兩側に
小松をならべ
植ゑて、
奧深く
住へる
家なり。
主人は、
巣鴨邊の
學校の
教授にて
知つた
人。
北八を
顧みて、
日曜でないから
留守だけれども、
氣の
利いた
小間使が
居るぜ、
一寸寄つて
茶を
呑まうかと
笑ふ。およしよ、と
苦い
顏をする。
即ちよして、
團子坂に
赴く。
坂の
上の
煙草屋にて
北八嗜む
處のパイレートを
購ふ。
勿論身錢なり。
此の
舶來煙草此邊には
未だ
之れあり。
但し
濕つて
味可ならず。
坂の
下は、
左右の
植木屋、
屋外に
足場を
設け、
半纏着の
若衆蛛手に
搦んで、
造菊の
支度最中なりけり。
行く/\フと
古道具屋の
前に
立つ。
彌次見て
曰く、
茶棚はあんなのが
可いな。
入らつしやいまし、と
四十恰好の、
人柄なる
女房奧より
出で、
坐して
慇懃に
挨拶する。
南無三聞えたかとぎよつとする。
爰に
於てか
北八大膽に、おかみさん
彼の
茶棚はいくら。
皆寒竹でございます、はい、お
品が
宜しうございます、
五圓六十錢に
願ひたう
存じます。
兩人顏を
見合せて
思入あり。
北八心得たる
顏はすれども、さすがにどぎまぎして
言はむと
欲する
處を
知らず、おかみさん
歸にするよ。
唯々。お
邪魔でしたと
兄さんは
旨いものなり。
虎口を
免れたる
顏色の、
何うだ、
北八恐入つたか。
餘計な
口を
利くもんぢやないよ。
思ひ
懸けず
又露地の
口に、
抱餘る
松の
大木を
筒切にせしよと
思ふ、
張子の
恐しき
腕一本、
荷車に
積置いたり。
追て、
大江山はこれでござい、
入らはい/\と
言ふなるべし。
笠森稻荷のあたりを
通る。
路傍のとある
駄菓子屋の
奧より、
中形の
浴衣に
繻子の
帶だらしなく、
島田、
襟白粉、
襷がけなるが、
緋褌を
蹴返し、ばた/\と
駈けて
出で、
一寸、
煮豆屋さん/\。
手には
小皿を
持ちたり。
四五軒行過ぎたる
威勢の
善き
煮豆屋、
振返りて、よう!と
言ふ。
そら
又化性のものだと、
急足に
谷中に
着く。いつも
變らぬ
景色ながら、
腕と
島田におびえし
擧句の、
心細さいはむ
方なし。
森の
下の
徑を
行けば、
土濡れ、
落葉濕れり。
白張の
提灯に、
薄き
日影さすも
物淋し。
苔蒸し、
樒枯れたる
墓に、
門のみいかめしきもはかなしや。
印の
石も
青きあり、
白きあり、
質滑にして
斑のあるあり。あるが
中に
神婢と
書いたるなにがしの
女が
耶蘇教徒の
十字形の
塚は、
法の
路に
迷ひやせむ、
異國の
人の、
友なきかと
哀深し。
竹の
埒結ひたる
中に、
三四人土をほり
居るあたりにて、
路も
分らずなりしが、
洋服着たる
坊ちやん
二人、
學校の
戻と
見ゆるがつか/\と
通るに
頼母しくなりて、
後をつけ、やがて
木の
間に
立つ
湯氣を
見れば
掛茶屋なりけり。
休ましておくれ、と
腰をかけて
一息つく。
大分お
暖でございますと、
婆は
銅の
大藥罐の
茶をくれる。
床几の
下に
俵を
敷けるに、
犬の
子一匹、
其日の
朝より
目の
見ゆるものの
由、
漸と
食づきましたとて、
老年の
餘念もなげなり。
折から
子を
背に、
御新造一人、
片手に
蝙蝠傘をさして、
片手に
風車をまはして
見せながら、
此の
前を
通り
行きぬ。あすこが
踏切だ、
徐々出懸けようと、
茶店を
辭す。
何うだ
北八、
線路の
傍の
彼の
森が
鶯花園だよ、
畫に
描いた
天女は
賣藥の
廣告だ、そんなものに、
見愡れるな。おつと、また
其古道具屋は
高さうだぜ、お
辭儀をされると
六ヶしいぞ。いや、
何か
申す
内に、ハヤこれは
笹の
雪に
着いて
候が、
三時すぎにて
店はしまひ、
交番の
角について
曲る。この
流に
人集ひ
葱を
洗へり。
葱の
香の
小川に
流れ、とばかりにて
句にはならざりしが、あゝ、もうちつとで
思ふこといはぬは
腹ふくるゝ
業よといへば、いま
一足早かりせば、
笹の
雪が
賣切にて
腹ふくれぬ
事よといふ。さあ、じぶくらずに、
歩行いた/\。
一寸伺ひます。
此路を
眞直に
參りますと、
左樣三河島と、
路を
行く
人に
教へられて、おや/\と、
引返し、
白壁の
見ゆる
土藏をあてに
他の
畦を
突切るに、ちよろ/\
水のある
中に
紫の
花の
咲いたる
草あり。
綺麗といひて
見返勝、のんきにうしろ
歩行をすれば、
得ならぬ
臭、
細き
道を、
肥料室の
挾撃なり。
目を
眠つて
吶喊す。
既にして
三島神社の
角なり。
亡なつた
一葉女史が、たけくらべといふ
本に、
狂氣街道といつたのは
是から
前ださうだ、うつかりするな、
恐しいよ、と
固く
北八を
警戒す。
やあ
汚え
溝だ。
恐しい
石灰だ。
酷い
道だ。
三階があるぜ、
浴衣ばかしの
土用干か、
夜具の
裏が
眞赤な、
何だ
棧橋が
突立つてら。
叱!
默つて/\と、
目くばせして、
衣紋坂より
土手に
出でしが、
幸ひ
神田の
伯父に
逢はず、
客待の
車と、
烈しい
人通の
眞晝間、
露店の
白い
西瓜、
埃だらけの
金鍔燒、おでんの
屋臺の
中を
拔けて
柳の
下をさつ/\と
行く。
實は
土手の
道哲に
結縁して
艷福を
祈らばやと
存ぜしが、まともに
西日を
受けたれば、
顏がほてつて
我慢ならず、
土手を
行くこと
纔にして、
日蔭の
田町へ
遁げて
下りて、さあ、よし。
北八大丈夫だ、と
立直つて
悠然となる。
此邊小ぢんまりとしたる
商賣の
軒ならび、しもたやと
見るは、
産婆、
人相見、お
手紙したゝめ
處なり。
一軒、
煮染屋の
前に
立ちて、
買物をして
居た
中年増の
大丸髷、
紙あまた
積んだる
腕車を
推して、
小僧三人向うより
來懸りしが、
私語して
曰く、
見ねえ、
年明だと。
路に
太郎稻荷あり、
奉納の
手拭堂を
蔽ふ、
小き
鳥居夥多し。
此處彼處露地の
日あたりに
手習草紙を
干したるが
到る
處に
見ゆ、
最もしをらし。それより
待乳山の
聖天に
詣づ。
本堂に
額き
果てて、
衝と
立ちて
階の
方に
歩み
出でたるは、
年紀はやう/\
二十ばかりと
覺しき
美人、
眉を
拂ひ、
鐵漿をつけたり。
前垂がけの
半纏着、
跣足に
駒下駄を
穿かむとして、
階下につい
居る
下足番の
親仁の
伸をする
手に、
一寸握らせ
行く。
親仁は
高々と
押戴き、
毎度何うも、といふ。
境内の
敷石の
上を
行きつ
戻りつ、
別にお
百度を
踏み
居るは
男女二人なり。
女は
年紀四十ばかり。
黒縮緬の
一ツ
紋の
羽織を
着て
足袋跣足、
男は
盲縞の
腹掛、
股引、
彩ある
七福神の
模樣を
織りたる
丈長き
刺子を
着たり。これは
素跣足、
入交ひになり、
引違ひ、
立交りて
二人とも
傍目も
觸らず。おい
邪魔になると
惡いよと
北八を
促し、
道を
開いて、
見晴に
上る。
名にし
負ふ
今戸あたり、
船は
水の
上を
音もせず、
人の
家の
瓦屋根の
間を
行交ふ
樣手に
取るばかり。
水も
青く
天も
青し。
白帆あちこち、
處々煙突の
煙たなびけり、
振さけ
見れば
雲もなきに、
傍には
大樹蒼空を
蔽ひて
物ぐらく、
呪の
釘もあるべき
幹なり。おなじ
臺に
向顱卷したる
子守女三人あり。
身體を
搖り、
下駄にて
板敷を
踏鳴らす
音おどろ/\し。
其まゝ
渡場を
志す、
石段の
中途にて
行逢ひしは、
日傘さしたる、十二ばかりの
友禪縮緬、
踊子か。
振返れば
聖天の
森、
待乳沈んで
梢乘込む
三谷堀は、
此處だ、
此處だ、と
今戸の
渡に
至る。
出ますよ、さあ
早く/\。
彌次舷端にしがみついてしやがむ。
北八悠然とパイレートをくゆらす。
乘合十四五人、
最後に
腕車を
乘せる。
船少し
右へ
傾く、はツと
思ふと
少し
蒼くなる。
丁と
棹をつく、ゆらりと
漕出す。
船頭さん、
渡場で
一番川幅の
廣いのは
何處だい。
先づ
此處だね。
何町位あるねといふ。
唾乾きて
齒の
根も
合はず、
煙管は
出したが
手が
震へる。
北八は、にやり/\、
中流に
至る
頃ひ
一錢蒸汽の
餘波來る、ぴツたり
突伏して
了ふ。
危えといふは
船頭の
聲、ヒヤアと
肝を
冷す。
圖らざりき、
急かずに/\と
二の
句を
續けるのを
聞いて、
目を
開けば
向島なり。それより
百花園に
遊ぶ。
黄昏たり。
萩暮れて薄まばゆき夕日かな
言ひつくすべくもあらず、
秋草の
種々數ふべくもあらじかし。
北八が
此作の
如きは、
園内に
散ばつたる
石碑短册の
句と
一般、
難澁千萬に
存ずるなり。
床几に
休ひ
打眺むれば、
客幾組、
高帽の
天窓、
羽織の
肩、
紫の
袖、
紅の
裙、
薄に
見え、
萩に
隱れ、
刈萱に
搦み、
葛に
絡ひ、
芙蓉にそよぎ、
靡き
亂れ、
花を
出づる
人、
花に
入る
人、
花をめぐる
人、
皆此花より
生れ
出でて、
立去りあへず、
舞ひありく、
人の
蝶とも
謂ひつべう。
などと
落雁を
噛つて
居る。
處へ!
供を
二人つれて、
車夫體の
壯佼にでつぷりと
肥えた
親仁の、
唇がべろ/\として
無花果の
裂けたる
如き、
眦の
下れる、
頬の
肉掴むほどあるのを
負はして、
六十有餘の
媼、
身の
丈拔群にして、
眼鋭く
鼻の
上の
皺に
惡相を
刻み
齒の
揃へる
水々しきが、
小紋縮緬の
りうたる
着附、
金時計をさげて、
片手に
裳をつまみ
上げ、さすがに
茶澁の
出た
脛に、
淺葱縮緬を
搦ませながら、
片手に
銀の
鎖を
握り、これに
渦毛の
斑の
艷々しき
狆を
繋いで、ぐい/\と
手綱のやうに
捌いて
來しが、
太い
聲して、
何うぢや
未だ
歩行くか、と
言ふ/\
人も
無げにさつさつと
縱横に
濶歩する。
人に
負はして
連れた
親仁は、
腰の
拔けたる
夫なるべし。
驚破秋草に、あやかしのついて
候ぞ、と
身構したるほどこそあれ、
安下宿の
娘と
書生として、
出來合らしき
夫婦の
來りしが、
當歳ばかりの
嬰兒を、
男が、
小手のやうに
白シヤツを
鎧へる
手に、
高々と
抱いて、
大童。それ
鼬の
道を
切る
時押して
進めば
禍あり、
山に
櫛の
落ちたる
時、
之を
避けざれば
身を
損ふ。
兩頭の
蛇を
見たるものは
死し、
路に
小兒を
抱いた
亭主を
見れば、
壽長からずとしてある
也。ああ
情ない
目を
見せられる、
鶴龜々々と
北八と
共に
寒くなる。
人の
難儀も
構はばこそ、
瓢箪棚の
下に
陣取りて、
坊やは
何處だ、
母ちやんには、
見えないよう、あばよといへ、ほら
此處だ、ほらほらはゝはゝゝおほゝゝと
高笑。
弓矢八幡もう
堪らぬ。よい/\の、
犬の、
婆の、
金時計の、
淺葱の
褌の、
其上に、
子抱の
亭主と
來た
日には、こりや
何時までも
見せられたら、
目が
眩まうも
知れぬぞと、あたふた
百花園を
遁げて
出る。
白髯の
土手へ
上るが
疾いか、さあ
助からぬぞ。
二人乘、
小官員と
見えた
御夫婦が
合乘也。ソレを
猜みは
仕らじ。
妬きはいたさじ、
何とも
申さじ。
然りながら、
然りながら、
同一く
子持でこれが
又、
野郎が
膝にぞ
抱いたりける。
わツといつて
駈け
拔けて、
後をも
見ずに
五六町、
彌次さん、
北八、と
顏を
見合はせ、
互に
無事を
祝し
合ひ、まあ、ともかくも
橋を
越さう、
腹も
丁度北山だ、
筑波おろしも
寒うなつたと、
急足になつて
來る。
言問の
曲角で、
天道是か
非か、
又一組、
之は
又念入な、
旦那樣は
洋服の
高帽子で、
而して
若樣をお
抱き
遊ばし、
奧樣は
深張の
蝙蝠傘澄して
押並ぶ
後から、はれやれお
乳の
人がついて
手ぶらなり。えゝ!
日本といふ
國は、
男が
子を
抱いて
歩行く
處か、もう
叶はぬこりやならぬ。
殺さば
殺せ、とべツたり
尻餅。
旦那お
相乘參りませう、と
折よく
來懸つた
二人乘に
這ふやうにして
二人乘込み、
淺草まで
急いでくんな。
安い
料理屋で
縁起直しに
一杯飮む。
此處で
電燈がついて
夕飯を
認め、やゝ
人心地になる。
小庭を
隔てた
奧座敷で
男女打交りのひそ/\
話、
本所も、あの
餘り
奧の
方ぢやあ
私厭アよ、と
若い
聲の
媚めかしさ。
旦那業平橋の
邊が
可うございますよ。おほゝ、と
老けた
聲の
恐しさ。
圍者の
相談とおぼしけれど、
懲りて
詮議に
及ばず。まだ
此方が
助りさうだと
一笑しつゝ
歸途に
就く。
噫此行、
氷川の
宮を
拜するより、
谷中を
過ぎ、
根岸を
歩行き、
土手より
今戸に
出で、
向島に
至り、
淺草を
經て
歸る。
半日の
散策、
神祇あり、
釋教あり、
戀あり、
無常あり、
景あり、
人あり、
從うて
又情あり、
錢の
少きをいかにせむ。
明治三十二年十二月