化銀杏

泉鏡花





 貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円のきわめなり。家主やぬしは下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住居すまいて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商売家あきないやにあらざれば、昼も一枚しとみをおろして、ここは使わずに打捨てあり。
 往来より突抜けて物置のうしろ園生そのうまで、土間の通庭とおりにわになりおりて、その半ばに飲井戸あり。井戸に推並おしならびて勝手あり、横に二個ふたつかまどを並べつ。背後うしろに三段ばかり棚を釣りて、ここになべかま擂鉢すりばちなど、勝手道具をせ置けり。かわやは井戸に列してそのあわい遠からず、しかもいたく濁りたれば、して飲用に供しおれり。建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手綺麗てぎれいに行届きおれども、そこらすすぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿地しけちなり。
 園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明地あきちに接し、すももの木、ぐみの木、柿の木など、五六本の樹立こだちあり。沓脱くつぬぎは大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口はき込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶のと呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、うしろに竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子きゅうすなど、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二個ふたつ湯呑ゆのみは、夫婦めおと別々の好みにて、対にあらず。
 細君は名をおていう、年紀としは二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむこうにすわれり。細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際はえぎわ少しあがりて、髪はややうすけれども、色白くして口許くちもとしまり、上気性のぼせしょうと見えて唇あれたり。ほの赤きまぶたの重げに見ゆるが、なきはらしたるとは風情異り、たとえば炬燵こたつに居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼のうち曇を帯びて、見るにおもかげ晴やかならず、暗雲一帯眉宇びうをかすめて、かれは何をか物思える。
 根上りに結いたる円髷まるまげびん頬に乱れて、下〆したじめばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮こんちぢみの浴衣をまといつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。
 教育のある婦人おんなにあらねど、ものの本など好みて読めば、ふみ書くすべつたなからで、はた裁縫のわざけたり。
 他の遊芸は知らずと謂う、三味線さみせんはその好きの道にて、時ありては爪弾つめびきの、忍ぶ恋路のを立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公にくことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹ほそざおちりを払いて、慎ましげに音〆ねじめをなすのみ。
 お貞は今思出したらむがごとく煙管きせるを取りて、覚束無おぼつかなげに一服吸いつ。
 かれ煙草たばこたしなむにあらねど、うきを忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わずせて、落すがごとく煙管をて、湯呑に煎茶をうつしけるが、余りたぎれるままそのむるを待てり。
 時に履物の音高くうち入来いりくるものあるにぞ、お貞は少しあわただしく、急に其方そなたを見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡手拭ぬれてぬぐいをぶら提げつつ、と入りたる少年あり。
 お貞は見るより、
「芳さんかえ。」
奥様おくさん、ただいま。」
 と下駄を脱ぐ。
「大層、おめかしだね。」
「ふむ。」
 と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋波ながしめもて追懸けつつ、
「芳ちゃん!」
「何?」
 と顧みたり。
「まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖母様ばあさんはいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。」
「そうかい。」
 と下りて来て、長火鉢の前に突立つったち、
「ああ、のどが渇く。」
 とつぶやきながら、湯呑にさましたりし茶を見るより、無遠慮に手に取りて、
「頂戴。」
 とばかりぐっと飲みぬ。
「あら! ひどいのね、この人は。折角冷しておいたものを。」
 わざとえんずれば少年は微笑ほほえみて、
「余ってるよ、奥様はけちだねえ。」
 と湯呑を返せり。お貞は手に取りて中をのぞき、
「何だ、けも残しゃアしない。」
 と底の方に残りたるを、薬のように仰ぎ飲みつ。
「まあ、よッさんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。」
「だって、円髷に結ってるもの、銀杏返いちょうがえしの時は姉様ねえさんだけれど、円髷の時ゃ奥様だ。」


 お貞はハッとせし風情にて、少年の顔をみまもりしが、はれぼったき眼に思いをめ、
「堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可いけないッて言うから仕様がないのよ。」
「だからやっぱり奥様おくさんじゃあないか。」
 と少年は平気なり。お貞はしおれてうらめしげに、
「だって、ほかもんならいけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼母たのもしくなくなるわ。せめて「お貞さん」とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。」
 とためいきして、力なげなるものいいなり。少年は無雑作に、
「じゃあ、お貞さんか。」
 と言懸けて、
「何だか友達のように聞えるねえ。」
「だからやっぱり、ねえさんが可いじゃあないかえ。」
「でも円髷に結ってるもの、銀杏返だとなくなった姉様ねえさんにそっくりだから、姉様だと思うけれど、円髷じゃあ僕は嫌だ。」
 と少年は素気そっけなし。
「じゃあまるであかの他人なの?」
「なにそうでもないけれど。……」
 少年は言淀いいよどみぬ。お貞は襟を掻合かきあわせ、浴衣の上前を引張ひっぱりながら、
「それだから昨日きのうも髪を結わない前に、あんなに芳さんにあやまったものを。邪慳じゃけんじゃあないかね。いいよ、旦那が何といっても、叱られても大事ないよ。私ゃすぐ引毀ひっこわして、結直して見せようわね。」
 お貞は顔の色尋常ただならざりき。少年は少し弱りて、
「それでなくッてさえ、先達こないだのようなさわぎがはじまるものを、そんなことをしようもんなら、それこそだ。僕アまた駈出かけだしてかにゃあならない。」
「ほんとうに、あの時は。ま、どうしようと思ったわ。
 芳さんは駈出してしまって二晩もお帰りでないし、おばあさんはまた大変に御心配遊ばしてどうしたらかろうとおっしゃるし、旦那は旦那でものも言わないで、黙って考え込んでばかりいるしね、私はもう、面目ないやら、恥かしいやら、申訳がないやらで、ぼうッとしてしまったよ。後で聞くと何だっさ、真蒼まっさおになって寝ていたとさ。
 芳さん跫音あしおとが聞えたので、はッと気が着いて駈出したが、それまでどうしていたんだか、まるで夢のようで[#「夢のようで」は底本では「夢のやうで」]、分らなかったよ。」
 少年はしきりにうなずき、
「僕はまたひげがさ、(水上みなかみさん)て呼ぶから、何だと思って二階からのぞくと、姉様ねえさん突伏つっぷして泣いてるし、髯は壇階子だんばしご下口おりぐち突立つったってて、憤然むっとした顔色かおつきで、(直ぐと明けてもらいたい。)と失敬ことを謂うじゃあないか。だから僕は不愉快でたまらないから、それからそのまんまで、うちを出て、どこか可い家があったらと思ったけれど、探す時は無いもんだ。それから友達のところへ泊って、ぎゅうおごってね、トランプをして遊んでいたんだ。僕あ一番強いんだぜ。滅茶々々に負かして悪体をいてやると、大変に怒ってね、とうとう喧嘩けんかをしちまったもんだから、翌晩あくるばんはそこに泊ることも出来ないので、仕方が無いから帰って来たんだ。」
 お貞は聞きつつにらむ真似して、
「憎らしいねえ。人の気も知らないで、お友達とトランプも無いもんだね。気が違やあしないかと、私ゃ自分でそう思った位だのにさ。」
「でも僕あ帰った時、(芳さん!)てって奥から出て来た、あの時の顔にゃ吃驚びっくりしたよ。暮合くれあいではあるし、なくなった姉さんの幽霊かと思った。」
「いやな! 芳さんだ。恐いことね。」
 お貞は身震いして横を向きぬ。少年は微笑ほほえみたり。
「何だ、臆病おくびょうな。昼じゃあないか。」
「でもそんなことをお言いだと、晩に手水ちょうずかれやしないや。」
「そんなに臆病な癖にして、昨夜ゆうべも髯と二人づれで、怪談を聞きに行ったじゃあないか。」
 お貞はまじめに弁解いいわけして、
「はい、ですから切前きりまえに帰りました。切前は茶番だの、落語だの、そりゃどんなにかおもしろいよ。」
「それじゃもう髯の御機嫌は直ったんだね。」


「別に直ったというでもないけれど、まああんなものさ。あれでもね、おばあさんには大変気の毒がってね、(お年寄がようよう落着おちつきなされたものを、またお転宅ひっこしは大抵じゃアあるまいから、その内可い処があったら、御都合次第お引越しなさるが可し、また一月でも、二月でも、うちにおいでになっても差支えはございませんから)ッて、それッきりになってるのよ。そのかわりね、私にゃ、(芳さんと談話はなしをすることは決してならない)ッて、固くいいつけたわ。やっぱり疑ぐっているらしいよ。」
 少年は火箸ひばしを手にして、ぐいぐい灰に突立てながら、不平なる顔色かおつきにて、
「一体疑ぐるッて何だろう。僕のおばあさんにもね、姉様ねえさんひげが、(お孫さんも出世前の身体からだだから、云々うんぬんが着いてはなりますまい。私は、私で、内の貞に気を着けますから、あなたもそこの処おぬかりなく。)ッさ。内証で言ったそうだ。変じゃないか、え、姉様、何を疑ぐッているんだろう。何か僕と、姉様と、不道徳な関係があるとでもいうことなんかね、それだと失敬極まるじゃあないか、え、姉様。」
 となじり問うに、お貞は、
「ああ。」
 と生返事、胸に手を置き、差俯向さしうつむく。
 少年は安からぬ思いやしけむ。
「じゃあ何だね、こないだあの騒ぎのあった前に、二人で奥に談話はなしをしていた時、髯が戸外おもてから帰って来たので、姉様は、あわアくって駈出かけだしたが、そのせいなの? 一体気が小さいから不可いけないよ。いつに限らずだ。人が、がらりと戸を開けると、何だか大変なことでも見付かったように、どぎまぎして、ものをいうにも呼吸いきをはずまして、可訝おかしいだろうじゃないか。先刻さっき僕の帰った時も、戸をあけると、吃驚びっくりして、何だかおどおどしておいでだったぜ。こないだの時だってもそうだ。髯に向って、(いらっしゃいまし)自分の亭主を迎えるとって、(いらっしゃいまし)なんて、言う奴があるものか。何だってそう気が小さくッて、物驚きをするんだなあ。それだから疑ぐられるんだ。不可いけないねえ。」
 お貞は淋しげなる微笑えみを含み、
「そういってながら芳さんもあの時はやっぱりそそッかしく、二階へけ上ったじゃあないかね。」
 少年は別に考うるていもなく、
「そりゃ何だ、僕は何もこわいことはないけれど、あの髯が嫌だからだ。何だか虫が好かなくッて、見るとしゃくに障るっちゃあない、僕あもう大嫌だいきらいだ。」
 と臆面おくめんもなく言うて退けつ。かれは少年の血気にまかせて、後前あとさき見ずにいいたるが、さすがにその妻の前なるに心着きけむ、お貞の色をうかがいたり。
 お貞は気に懸けたるさまもなく、かえって同意を表するごとく、いきおいなげに歎息して、
「誰が見てもちがいはないねえ。私だってやっぱり嫌だわ。だがね、芳ちゃんは、なぜ好かないの。」
 少年はお貞のことばの吾が意を得たるに元気づきて、声の調子を高めたり。
ほかにね、こうといって、まだ此家ここへ来て、そんなに間もないこったから、どこにどうという取留めたこともないけれど、ただね、髯の様子がね、亡なった姉様の亭主にているからね、そのせいだろうと思うんだ。」
「そうして、不可いけないお方だったの。」
 少年はそぞろに往時を追懐すらむ、慨然がいぜんとしたりけるが、
「不可いどころのさわぎじゃない、姉様を殺した奴だもの。」
 お貞はいたく感ぜしさまにて、
「まあ。」
 とそのうるみたる眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりぬ。
ひどい人ね、何だッてまた姉様を殺したんだろうね。芳さんのお姉様あねえさんなら、どんなにか優しい、い人だったろうにさ。」
「そりゃ、真実ほんとうに僕を可愛がってくれたッちゃあないよ。今着ている衣服きものなんか、台なしになってるけれど、姉様がわざと縫って寄来よこしたもんだから、大事にして着ているんだ。」
「そのせいで似合うのかねえ。」
 とお貞は今更のごとく少年の可憐なるさまみまもられける。水上芳之助は年紀とし十六、そのいう処、行う処、無邪気なれどもあどけなからず。辛苦のうちにおいたちて浮世を知れる状見えつ。もののいいぶりはきはきして、よわいのわりには大人びたり。


 要なければここには省く。少年はおれんといえりしかれの姉が、わかき時配偶を誤りたるため、放蕩ほうとうにして軽薄なる、その夫判事なにがしのために虐遇され、精神的に殺されて入水して果てたりし、一条の惨話を物語りつ。ことばは簡に、意は深く、最もものに同情を表して、動かされ易きお貞をして、悲痛の涙にむせばしめたり。
 語を継ぎて少年言う。
姉様ねえさんもやっぱりひどいめにあわされるから、それでひげが嫌なんだろう。」
 折からぶつぶつと湯の沸返にえかえりて、ぱっと立ちたる湯気に驚き、少年はあわただしく鉄瓶のふたを外し、お貞は身をななめになりて、茶棚よりあかがねの水差を取下して急がわしく水をしつ。
「いいえ、違うよ。私のはまた全く芳さんの姉さんとは反対あちこちで、あんまり深切にされるから、もう嫌で、嫌で、ならないんだわ。」
 少年はいたあやしみ、
「そんな事っちゃアあるもんでない。何だって優しくされて、それで嫌だというがあるものか。」
「まあさ、お聞きなね。深切だといえば深切だが、どちらかといえば執着しつこいのだわ。かいつまんで話すがね、ちょいと聞賃をあげるから。」
 と菓子皿を取出とりいだして、盛りたる羊羹ようかん楊枝ようじを添え、
「一ツおあがり、いまお茶を入替えよう。」
 と吸子の茶殻を、こぼしにあけ、
「芳ちゃんだから話すんだよ。誰にも言っちゃ不可いけないよ。実は私の父親おとっさんは、中年から少し気が違ったようになって、とうとうそれでおなくなりなすったがね、親のことをいうようだけれど、母様おっかさんは少し了簡違りょうけんちがいをして、父親おとっさんが病気のあいだに、私には叔父さんだ、弟ごと関着くッついたの。
 するとお祖父じいさんのお計らいで、私が放れをするとすぐに二人とも追出して、御自分で私を育てて、十三の時までお達者だったが、ああ、十四の春だった。中風ちゅうぶでお悩みなすってから、動くことも出来なくおなりで、うちは広し、四方は明地あきちで、穴のような処に住んでたもんだから、火事なんぞの心配はないのだけれど、盗賊どろぼうにでも入られたら、それこそどうすることもならないのよ。お金子かねも少々あったそうだし。
 雇いの婆さんは居たけれど、耳は遠いし、そんなことの助けにゃならず、祖父おじいさんの看病も私一人では覚束おぼつかなし、たしかな後見をといった処で、また後見なんていうものは、あとでよく間違が出来るものだから、それよりか、いっそ私に……というので、親類中で相談をめて、とうとうあてがったのが今の旦那なの。
 その頃ちょうど高等中学校を卒業したので、ま、うちへ来てから、東京へ出て、大学へ入ろうという相談でね、もともと内のしまりにもなってもらわなきゃあならないというんでさ、わざッと年の違ったのを貰ったもんだから、旦那は二十九で、私は十四。」
 お貞は今吸子に湯をばささんとして、鉄瓶に手を懸けたる、片手を指折りて数えみつ。
「十五のちがいだね。もっとも晩学だとかいうので、大抵なら二十五六で、学士になるのが多いってね。」
「無論さ。」
 と少年は傾聴しながらくちれたり。
 お貞は煎茶を汲出くみいだして、まず少年に与えつつ、
「何だか知らないけれど、御婚礼をした時分は、嬉しくもなく、こわくもなく、まるで夢中で、何とも思やしなかったが、実はおじいさんと二人ばかりで、他所よその人の居ない方が、御膳ごぜんを頂く時やなんか、私ゃ気が置けなくてかったわ。
 変に気が詰まって、他人ひとの内へとまりにでも行ったようで、窮屈で、つまらなくッて、思ってみればその時分から旦那が嫌いだったかも知れないよ。でも大方甘やかされた癖で、我儘わがままの方が勝ってたのであろうと思う。
 そのうちお祖父さんも安心をなすったせいか、大層気分もくなるし、いよいよ旦那が東京へたつというので、祝ってたたしたお酒の座で、ちっとのみようが多かったのがもとになってね、旦那が出発をしたそのおひるすぎに、お祖父さん果敢はかなくおなりなすったのよ。私ゃもうその時は……」
 とお貞は声をうるましたり。


「それからというものは[#「いうものは」は底本では「いふものは」]、私はまるで気ぬけがしたようで、内の中でも一番薄暗い、三畳のへ入っちゃあ、どういうものだかね、隅の方へちゃんと坐って、壁の方を向いて、しくしく泣くのが癖になってね、長い間治らなかったの。そうこうするうちが出来たわ。
 可笑おかしいじゃないかねえ。」
 お貞は苦々しげに打笑みたり。
「妙なものがころがり出してしまってさ、翌年あくるとしの十月のことなのよ。」
 と言懸けてお貞はもの案じ顔に見えたりしが、
「そうそう、芳ちゃん、まだそのさきにね、旦那がさ、東京へ行って三月めから、毎月々々一枚ずつ、月の朔日ついたちにはきっと写真を写してね、欠かさず私に送って寄来よこすんだよ。まあ、御深切様じゃないかね。そのたんびに手紙がついてて、(いや今月は少しせた)の、(今度は少し眼が悪い)の、(どうだ先月と合わしてみい、ちっとあふとって見えよう)なんて、言書ことばがきが着いてたわ。
 私ゃお祖父さんのことばかり考えて、別に何にも良人さきの事は思わないもんだから、ちょいと見たばかりで、ずんずん葛籠つづらなかへしまいこんで打棄うっちゃっといたわ。すると、いつのことだッけか、何かの拍子、お友達にめっかってね、
(まあ! お貞さん、旦那様は飛んだ御深切なお方だねえ。)サひどくすぐったもんだろうじゃあないかえ。
 それもそのはずだね。写真の裏に一葉ひとつ々々、お墨附があってよ。年、月、日、西岡時彦写之これをうつす、お貞殿へさ。
 私もつい口惜くやし紛れに、(写真の儀はお見合せ下されたく、あまりあまり人につけても)ッさ。何があまりあまりだろう、可笑おかしいね。そういってやると、それッきりおやめになったが、十四五枚もあった写真を、また見られちゃあ困ると思ったがね、人にもられず、焼くことも出来ずさ、仕方がないから、一まとめにして、お持仏様の奥ン処へれておいてよ。毎日拝んだから可いではないかね。」
 先刻さきに干したる湯呑の中へ、吸子の茶の濃くなれるを、細く長くうつしこみて、ぐっと一口飲みたるが、あまり苦かりしにや湯をさしたり。
 少年はただ黙して聞きぬ。
 お貞は口をうるおして、
が出来る、もうそのしくしく泣いてばかりいる癖はなくなッて、小児こどもにばかり気を取られて、ほかに何にも考えることも、思うこともなくッて、ま、五歳いつつ六歳むッつの時は知らず、そのしばらくの間ほど、苦労のなかった時はないよ。
 すると、その夏のはじめの頃、戸外おもてにがらがらと腕車くるまとまって、入って来た男があったの。沓脱くつぬぎ突立つったってて、案内もしないから、寝かし着けていた坊やを置いて、私が上り口に出て行って、
誰方どなた、)といって、ふいと見ると驚いたが、よくよく見ると旦那なのよ。旦那は旦那だが、見違えるほどせていて、ま、それも可いが妙な恰好かっこうさ。
 大きな眼鏡のね、黒磨くろずりでもって、眉毛から眼へかけて、頬ッペたが半分隠れようという黒眼鏡を懸けて、希代さね、何のためだろう。それにあのそれ呼吸器とかいうものを口へ押着おッつけてさ、おまけにひげを生やしてるじゃあないか。それで高帽子たかじゃっぽで、羽織がというと、しま透綾すきやを黒に染返したのに、五三の何か縫着紋ぬいつけもんで、少し丈不足たけたらずというのを着て、お召が、阿波縮あわちぢみで、浅葱あさぎ唐縮緬とうちりめん兵児帯へこおびめてたわ。
 どうだい、芳さん、私も思わず知らず莞爾にっこりしたよ、これは帰って[#「帰って」は底本では「帰つて」]来たのが嬉しいのより、いっそその恰好が可笑おかしかったせいなのよ。
 病気で帰ったというこッたから、私も心配をして、看病をしたがね、胃病だというので、ちょいとはくならない。一月も二月も、そうさ[#「そうさ」は底本では「さうさ」]、かれこれ三月ばかりもぶらぶらして、段々瘠せるもんだから、坊やは居るし、私もつい心細くなッて、そっと夜出掛けちゃあお百度を踏んだのよ。するとね、その事が分ったかして、
(お貞、そんなにおれを治したいか)ッて、私の顔をみつめるからね。何の気なしで、(はい、あなたがよくなって下さいませねば、どうしましょう、私どもは路頭に立たなければなりません。)と真実ほんとうの処をいったのよ。
 さあ怒ったの、怒らないのじゃあない。(それでは手前、活計くらしのために夫婦になったか。そんな水臭い奴とは知らなんだ。)と顔の色まで変えるから、私は弱ったの、何のじゃない、どうしようかと思ったわ。」


「(なぜ一所に死ぬとは言ってくれない。愛情というものは、そんな淡々あわあわしいものではない。)ッていうのさ。向うからそう出られちゃあ、こっちで何とも言いようが無いわ。
 女郎や芸妓げいしゃじゃあるまいしさ、そんな殺文句がわれるものかね。でも、旦那の怒りようがひどいので、まあ、さんざあやまってさ。坊やがかすがいで、まずそれッきりで治まったがね、私ゃその時、ああ、執念深い人だと思って、ぞッとして、それからというものは、何だか重荷を背負しょったようで、今でも肩身が狭いようなの。
 あとでね、あのそら先刻さっきいった黒眼鏡ね、(烏蜻蛉からすとんぼ見たように、おかしいじゃアありませんか。)と、病気が治ってから聞いたことがあったよ。そうするとね、東京はからッ風で塵埃ほこりひどいから、眼を悪くせまいための砂除すなよけだっていうの、勉強ざかりなら洋燈ランプをカッカと、ともして寝ない人さえあるんだのに、そう身体からだばかりかばってちゃあ、何にも出来やしないと思ったけれど、まさかそんなことをいえたものでもなし、呼吸器も肺病の薬というので懸けるんだッて。それからね、そのひげがまた妙なのさ。」
 とお貞は少年のかおを見て、
「衛生髯だとさ、おほほ。分るかえ? 芳さん。」
「何のこッた、衛生髯ッたって分らないよ。」
「それはね。」
 となお微笑ほほえみながら、
「こうなのよ。何でも人間の身体からだに附属したものは、つめであろうが、あかであろうが、要らないものは一つもないとね、その中でも往来の塵埃ほこりなんぞに、肺病の虫がまざって、鼻ンなかへ飛込むのを、髯がね、つまり玄関番見たようなもので、喰留めて入れないンだッさ。見得でも何でもないけれど、身体からだのためにはやしたと、そういったよ。だから衛生髯だわね。おほほほほ。」
 お貞は片手を口にあてつ。少年も噴出ふきいだしぬ。
「いくら衛生のためだって、あの髯だけは廃止よせば可いなあ。まるで(ちょいとこさ)にてるものを、髯があるからなおそっくりだ。」
 お貞は眉を打顰うちひそめて、
「嫌だよ、芳さんは。(ちょいとこさ)はあんまりだわ。でも(ちょいとこさ)と言えばこないだ、小橋の上で、あの(ちょいとこさ)の飴屋あめやに逢ったの。ちょうどその時だ。桜にちゅうの字の徽章きしょうの着いた学校の生徒が三人づれで、向うからき違って、一件を見ると声を揃えて、(やあ、西岡先生。)と大笑おおわらいをして行き過ぎたが、何のこった知らんと、当座は気が着かずに居たっけがね。何だとさ、学校じゃあ、みんながもう良人うちのに、(ちょいとこさ)と謂う渾名あだなを附けて、蔭じゃあ、そうとほか言わないそうだよ。」
 少年はこうべれり。
「何の、蔭でいうくらいなら優しいけれど、髯がね、あの学校のやといになって、はじめて教場へ出た時に、誰だっけか、(先生、先生の御姓名は?)と聞いたんだって。するとね、ちょうど、おくれてたまりから入って来た、遠藤ッて、そら知ってるだろう。僕のとこへもよく遊びに来る、肩のあがった、武者修行のような男。」
「ああ、ああ、鉄扇でものをいう人かえ。」
「うむ、彼奴あいつさ、彼奴がさ。髯のそばへずいと出て、席から名を尋ねた学生に向って、(おい、君、この先生か。この先生ならそうだ、名は※(始め二重括弧、1-2-54)チョイトコサ※(終わり二重括弧、1-2-55)だ。)と謂ったので、クラス一統がわッといって笑ッたって、里見がいつか話したっけ。」
 お貞はためいきをもらしたり。
「嫌になっちまう! じゃ、まるでのっけから安く踏まれて、馬鹿にされ切っていたんだね。」
「でもなかにゃああ見えても、なかなか学問が出来るんだって、そういってる者もあるんだ。なんしろ、教場へ出て来ると、礼式もないで、突然いきなり、ボウルドに問題を書出して、
(何番、これを。)
 といったきり椅子にかかッて、こう、少しうつむいて、ひじをついて、黙っているッて。呼ばれた番号の奴は災難だ。大きに下稽古したげいこなんかして行かなかろうものなら、面くらって、(先生私には出来ません。)といってみても返事をしない。そのままうっちゃっておくもんだから、しまいにゃあ泣声で、(私には出来ません、先生々々。)と呼ぶと、顔もうごかさなけりゃ、見向きもしないで、(遣ってみるです。)というッきりで、取附とりつく島も何にもないと。それでも遣ってみても出来そうもない奴は、立ったり、居たり、ボウルドの前へ出ようとして中戻ちゅうもどりをしたり、愚図ぐず々々まごついてる間に、たくが鳴って、時間が済むと、先生はそのまんまでフイと行ってしまうんだッて。そんな時あ問題を一つ見たばかりで、一時間まる遊び。」


「だから、西岡は何でも一方に超然として、考えていることがあるんだろう。えらい! という者もあるよ。」
 お貞は「何の。」という顔色かおつき
「考えてるッて、大方内のことばかり考えてて、何をしても手が附かないでいるんだろう。聞いて御覧、芳さんが来てからは、また考えようがいっそきびしいに相違ちがいないから。何だって、またあの位、嫉妬しっと深い人もないもんだね。
 前にもはなした通り、旦那はね、病気で帰省をしてから、それなり大学へはかないで、ただぶらぶらしていたもんだから、沢山たんとないお金子かね坐食いぐいていでなくなるし、とうとうせんに居たうちを売って、去々年おととしここの家へ引越したの。
 それでもまあ方々から口があって、みんな相当で、悪くもなくって、中でも新潟県だった、師範学校のね芳さん、校長にされたのよ。校長はいけれど、私は何だか一所に居るのが嫌だから、金沢に残ることにして、旦那ばかり、任地あっちへ行くようにという相談をしたが不可いけなくって、とうとう新潟くんだりまで、引張ひっぱり出されたがね。どういうものか、嫌で、嫌で、片時も居たたまらなくッてよ。金沢へ帰りたい帰りたいで、例の持病で、気が滅入めいっちゃあ泣いてばかり。
 旦那が学校から帰って来ても、出迎でむかえもせず俯向うつむいちゃあ泣いてるもんだから、
(ああ、またか。)となさけなそうに言っちゃあ、しおれて書斎へ入って行ったの。別につらあてというンじゃあ決してなかったんだけれど、ほんとうに帰りたかったんだもの。
 旦那もとうとうを折って(それじゃあ帰るが可い、)というお許しが出ると、直ぐに元気づいて、はきはきして、五日ばかり御膳も頂かれなかったものが、急に下婢げじょを呼んで、(直ぐ腕車夫くるまやを見ておいで。)さ、それが夜の十時すぎだから恐しいじゃあないかえ。何だか狂人きちがいじみてるねえ。
 旦那を残し、坊やはその時分五歳いつつでね、それを連れて金沢こっちへ帰ると、さっぱりしてその居心のかったっちゃあない。坊もまた大変に喜んだのさ。
 それがというと、坊やも乳児ちのみの時から父親おとっさんにゃあちっとも馴染なじまないで、少しものごころが着いて来ると、顔を見ちゃ泣出してね。草履を穿いて、ちょこちょこ戸外おもてへ遊びに出るようになると、なさけないじゃあないかえ。うちへ入ろうとしちゃあ、いつでもさ。外戸おもてどの隙からそッと透見すきみをして、小さな口で、(母様かあちゃん父様おとっちゃん家に居るの?)と聞くんだよ。
(ああ。)と返事をすると、そのまま家へ入らないで、もののほしくなった時分でも、また遊びに行ってしまって、父様居ない、というと、いそいそ入って来ちゃあ、私が針仕事をしている肩へつかまって。」
 と声に力をめたりけるが、追愛の情の堪え難かりけむ、ぶるぶると身を震わし、見る見る面の色激して、突然長火鉢の上におおわれかかり、真白き雪のかいなもて、少年のうなじ掻抱かいいだき、
「こんな風に。」
 とものぐるわしく、真面目まじめになりたる少年を、惚々ほれぼれうちまもり、
「私の顔をのぞき込んじゃあ、(母様おっかさん)ッて、(母様)ッて呼んでよ。」
 お貞はいたく激しおれり。
「そうしてね、(父様おとっちゃんが居ないといねえ。)ッて、いつでも、そう言ったわ。」
 言懸けてうつむく時、ゆるき前髪の垂れけるにぞ、うるさげに掻上かきあぐるとて、ようやく少年にからみたる、そのかいなほどきけるが、なおかれが手を握りつつ、
「そんな時ばかりじゃあないの。私が何かくさくさすると、可哀相にこどもにあたって、叱咤ひッちかッて、押入へ入れておく。あとで旦那が留守になると、自分でそッと押入から出て来てね、そッと抜足かなんかで、私のそばへ寄って来ちゃあ、肩越に顔をのぞいて、(母様おっかちゃん、父様が居ないと可いねえ)ッさ。五歳いつつ六歳むッつで死んで行くは、ほんとうに賢いのね。女のはまた格別情愛があるものだよ。だからもう世の中がつまらなくッて、つまらなくッて、仕様がなかったのを、こどものせいで紛れていたがね、去年(じふてりや)で亡くなってからは、私ゃもう死んでしまいたくッてたまらなかったけれど、旦那が馬鹿におとなしくッて、かッと喧嘩することがないものだから、身投げに駈出かけだおりがなくッて、ついぐずぐずできてたが、芳ちゃん、お前に逢ってから、私ゃ死にたくなくなったよ。」
 と、じっとその手をしめたるトタンに靴音高く戸を開けたり。


 お貞はいかに驚きしぞ、戸のあくともろともに器械のごとくね上りて、夢中に上り口に出迎いでむかえつ。あおくなりて瞳を据えたる、沓脱くつぬぎの処に立ちたるは、洋服扮装でたちの紳士なり。おとがい細く、顔まろく、大きさ過ぎたる鼻の下に、いやしげなる八字髭はちじひげの上唇をおおわんばかり、濃く茂れるを貯えたるが、かおとの配合をあやまれり。まなこはいと小さく、まなじり垂れて、あるかなきかをあやしむばかり、殊に眉毛の形乱れて、墨をなすりたるごとくなるに、額には幾条の深く刻めるしわあれば、実際よりは老けて見ゆべき、年紀としは五十の前後ならむ、その顔に眼鏡を懸け、黒の高帽子をかぶりたるは、これぞ(ちょいとこさ)という動物にて、うわさせし人の影なりける。
 良夫おっとと誤り、良夫と見て、胸は早鐘をくごとき、お貞はその良人ならざるに腹立ちけむ、おもてを赤め、瞳を据えて、とその面をみまもりたる、来客は帽を脱して、うやうやしく一礼し、左手ゆんでひさげたる革鞄かばんうちより、ちいさき旗を取出とりいだして、臆面もなくお貞の前に差出しつ。
「日本大勝利、万歳。」
 と謂いたるのみ、顔の筋をも動かさで、(ちょいとこさ)は反身そりみになり、澄し返りて控えたり。
 渠がかくのごとくなす時は、二厘三厘思い思いに、そのたなそこに投げ遣るべき金沢市中の通者とおりものとなりおれる僥倖ぎょうこうなるおのこなりき。
「ちょいとこ、ちょいとこ、ちょいとこさ。」
 と渠は、もと異様なる節を附し両手をりて躍りながら、数年来金沢市内三百余町に飴を売りつつ往来して、十万の人一般に、よくその面をみしられたるが、征清せいしんのことありしより、渠は活計たつきの趣向を変えつ。すなわち先のごとくにして軒ごとを見舞いあるき、怜悧れいり米塩べいえんの料を稼ぐなりけり。
 渠は常にものいわず、極めて生真面目きまじめにして、人のその笑えるをだに見しものもあらざれども、かたのごとき白痴者なれば、侮慢ぶまんは常に嘲笑ちょうしょうとなる、世に最もいやしまるる者は時としては滑稽こっけいの材となりて、金沢の人士ひとは一分時のわらいしろにとて、渠に二三厘を払うなり。
 お貞はようやく胸をでて、ひややかにもとの座に直りつ。代価は見てのお戻りなる、この滑稽劇を見物しながら、いまだ木戸銭を払わざるにぞ、(ちょいとこさ)は身動きだもせで、そのままそこに突立つったちおれり。
 ややありてお貞は心着きけむ、長火鉢の引出ひきだしを明けて、渠に与うべき小銭を探すに、少年はかたわらより、
「姉さん、湯銭のつりがあるよ、おい。」
 と板敷に投出せば、(ちょいとこさ)は手に取りて、高帽子をかぶるとひとしく、威儀を正して出行いでゆきたり。


 出行く(ちょいとこさ)を見送りて、二人は思わず眼を合しつ。
「なるほどているねえ。」
 とお貞は推出おしだすがごとくに言う。少年はそれには関せず。
「まあ、それからどうしたの?」
 渠は聞くことに実のりけむ、語る人をうながせり。
「さあその新潟から帰った当座は、坊やも――名はたまきといったよ――環も元気づいて、いそいそして、嬉しそうだし、私も日本晴にっぽんばれがしたような心持で、病気も何にもあったもんじゃあないわ。野へく、山へ行くで、方々外出そとでをしてね、大層気が浮いて可い心持。
 出来るもんならいつまでも旦那が居ないで、環と二人ッきり暮したかったわ。
 だがねえ、芳さん、浮世はままにならないものとは詮じ詰めたことを言ったんだね。二三度旦那から手紙を寄越よこして、(奉公人ばかりじゃ、しまりが出来ない、病気がくなったら直ぐ来てくれ。)と頼むようにいって来ても、なんの、のッて、行かないもんだから、お聞きよ、まあ、どうだろうね。行ってから三月もたない内に、辞職をして帰って来て、(なるほどお前なんざ、とても住めない、新潟は水が悪い)ッさ。まあ!
 するとまた環がね、どういうものか、はきはきしない、嫌にいじけッちまって、悪く人の顔色を見て、私の十四五の時見たように、隅の方へ引込ひっこんじゃあ、うじうじするから、私もつい気が滅入めいって、癇癪かんしゃくが起るたんびに、罪もないものを……」
 と涙をうかめ、お貞はがッくり俯向うつむきたり。
「その癖、旦那は、環々ッて、まあ、どんなに可愛がったろう。頭へ手なんざ思いも寄らない、にらめる真似をしたこともなかったのに、かえって私の方が癇癪を起しちゃ、(母様おっかちゃん)とそばへ来るのを、
(ええ、も、うるさいねえ、)といって突飛ばしてやると、旦那が、(とがもないものをなぜそんなことをする)てッて、私を叱るとね、(母様を叱っては嫌よ、御免なさい御免なさい)とかばってくれるの。そうして、(あんな母様おっかさん不可いけないのう、ここへ来い)と旦那が手でも引こうもんなら、それこそ大変、わッといって泣出したの。
(あ、あ、)と旦那が大息をして、ふいと戸外おもてへ出てしまうと、後で、そっと私の顔を見ちゃあ、さもさもどうも懐しそうに、莞爾にっこりと笑う。そのまた愛くるしさッちゃあない。私も思わず莞爾して、引ッたくるように膝へのせて、しっかりだきしめて頬をおッつけると、嬉しそうに笑ッちゃあ、(父様おとっちゃんが居ないと可い)と、それまたお株を言うじゃあないかえ。
 だもんだから、つい私もね、何だか旦那が嫌になったわ。でも或時いつか
(お貞、おれも環にゃ血を分けたもんだがなあ。)とさもなさけなそうに言ったのには、私もたまらなく気の毒だったよ。
 前世のかたき同士ででもあったものか、芳さん、環がじふてりやでなくなる時も、私がやる水は、かぶりつくようにして飲みながら、旦那が薬を飲ませようとすると、ついと横を向いて、かぶりって、私にしがみついて、懐へ顔をかくして、いやいやをしたもんだから、ついぞ荒いことをいったこともない旦那が、何と思ったか血相を変えて、
(不孝者!)といって、握拳にぎりこぶし突然いきなり環をぶとうとしたから、私もきっとなって、片膝立てて、
(何をするんです!)と摺寄すりよったわ。その時の形相のすさまじさは、ま、どの位であったろうと、自分でも思い遣られるよ。言憎いいにくいことだけれど、真実ほんとうにもう旦那を喰殺してやりたかったわね。今でも旦那を環のかたきだと思うもの。あの父親さえ居なけりゃ、何だって環が死ぬものかね、死にゃあしないわ、私ばかりのだったら。」
 お貞はしばらく黙したりき。ややあり思出したらんかのごとく、
「旦那はそのまま崩折くずおれて、男泣きに泣いたわね。
 私ゃもう泣くことも忘れたようだった。ええ、芳さん、環がなくなってから、また二三度も方々へいい役に着いたけれども、金沢なら可いが、みんな遠所とおくなので、私はどういうものか遠所へ行くとしきりに金沢が恋しくなッて、帰りたい帰りたい一心でね、済まないことだとは思ってみても、我慢がし切れないのを、無理にこたえると、持病が起って、わけもないことに泣きたくなったり、飛んだことに腹が立ったりして、まるで夢中になるもんだから、仕方なしに帰って来ると、旦那も後からまた帰る、何でも私をば一人で手放しておく訳にゃゆかないと見えて、始終一所に居たがるわ。
 だもんだからどこもい処には行かれないで、金沢じゃ、あんなつまらない学校へ、腰弁当というしがない役よ。」
 と一人冷かに笑うたり。


「何もそんなに気をまなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気にかかるために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。
 そんなに私を思ってくれるもんだから、夜遊よあそびはせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以来このかた、一晩もうちを明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶったなんしろ、(ちょいとこさ)というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛嬌あいきょうがあるよ。荒い口をきいたことなし、すりゃ私だって、嫌だ、嫌だとはいうものの、どこがといっちゃあ返事が出来ない。けれども嫌だから仕様がないわ。
 それだから私も、なに言うことに逆らわず、良人はやっぱり良人だから、嫌だっても良人だから、良人のように謹んでつかえているもの。そう疑ぐるには及ばないじゃあないかね。芳さん、芳さんの姉様ねえさんがひどくされたようでも困るけれど、男はちったあ男らしく、たまには出歩行であるきでもしないとね、男に意気地いくじがないようで、女房の方でも頼母たのもしくなくなるのよ。
 それを旦那と来た日にゃあ、ちょいとの間でもうちに居て、私の番をしていたがるんだわ。それも私が行届かないせいだろうと、気を着けちゃあいるし、それにもう私は旦那の犠牲いけにえだとあきらめてる。分らないながらも女の道なんてことも聞いてるから、浮気らしい真似もしないけれど、芳さん、あの人の弱点よわみだね。それがために出世も出来ないなんといった日にゃ、私ゃいっそ可哀相だよ。あわれだよ。
 何の密夫まおとこの七人ぐらい、とっくに出来ないじゃあなかったが……」
 といいかけしがお貞はみずからその言過しを恥じたる色あり。
「これは話さ。」
 と口軽に言消して、
「何も見張っていたからって、しようのあるもんじゃあないわね。」
 お貞はおもて晴々しく、しおれし姿きりりとなりて、その音調も気競きおいたり。
「しかしね、芳さん、世の中は何という無理なものだろう。ただ式三献おさかずきをしたばかりで、夫だの、妻だのッて、妙なものが出来上ってさ。女の身体からだはまるで男のものになって、何をいわれてもはいはいッて、従わないと、イヤ、不貞腐ふてくされだの、女の道を知らないのと、世間でいろんなことをいうよ。
 折角お祖父さんが御丹精で、人並に育ったものを、ただで我ものにしてしまって、誰も難有ありがたがりもしないじゃないか。
 それでいて婦人おんなはいつも下手したでに就いて、無理も御道理ごもっともにして通さねばならないという、そんな勘定に合わないことッちゃあ、あるもんじゃない。どこかへ行こうといったって、良人がならないといえば、はい、てといえば、はい、寝ろといわれりゃそれも、はい、だわ。
 人間一にんを縦にしようが、横にしようが、自分のすきなままにしておきながら、まだ不足で、たとえば芳さんと談話はなしをすることはならぬといわれりゃ、やっぱり快く落着いて談話も出来ないだろうじゃないかね。
 一体操を守れだの、良人に従えだのという、おきてかなんか知らないが、そういったようなことをめたのは、誰だと、まあ、お思いだえ。
 一遍婚礼をすりゃ疵者きずものだの、離縁さられるのは女の恥だのッて、人の身体からだを自由にさせないで、死ぬよりつらい思いをしても、一生嫌な者のそばについてなくッちゃあならないというのは、どういう理窟だろう、わからないじゃないかね。
 まさか神様や、仏様のおつげがあったという訳でもあるまいがね。もともと人間がそういうことをこしらえたのなら、誰だって同一おんなじ人間だもの、何密夫まおとこをしても可い、駈落かけおちをしても可いと、言出した処で、それが通って、世間がみんなそうなれば、かえって貞女だの、節婦だの、というものが、つまはじきをされようも知れないわ。
 旦那は、また、何の徳があって、私を自由にするんだろう。すっかり自分のものにしてしまって、私の身体からだを縛ったろうね。食べさしておくせいだといえば、私ゃ一人で針仕事をしても、くらしかねることもないわ。ねえ、芳さん、芳さんてばさ。」
 少年はいたくこの答に窮して、一言もなく聞きたりけり。

十一


 お貞はなおも語勢強く、
「ほんとに虫のいい談話はなしじゃないかね、それとも私の方から、良人になッて下さいって、頼んで良人にしたものなら、そりゃどんなことでも我慢が出来るし、ちっとも不足のあるもんじゃあないが、私と旦那なんざ、え、芳さん、夫にした妻ではなくッて、妻にした良人だものを。何も私が小さくなッて、いうことをいて縮んでいる義理もなし、操を立てるにも及ばないじゃあないか。
 芳さんとだってそうだわ。何もなかをよくしたからとッて、不思議なことはないじゃあないかね。こないだ騒ぎが持上って、芳さんがソレ駈出かけだした、あの時でも、旦那がいろいろむずかしくいうからね、(はい、芳さんとは姉弟分きょうだいぶんになりました。どういう縁だか知らないけれど、私が銀杏返いちょうがえしに結っていますと、亡なった姉様ねえさんてるッて、あの児も大層姉おもいだと見えまして、姉様々々ッて慕ってくれますもんですから、私もつい可愛くなります。)と無理だとは言われないつもりで言ったけれど、(他人で、姉弟というがあるものか)ッて、真底から了簡りょうけんしないの。そばに居た伯父さんも、伯母さんも、やっぱりおんなじようなことを言って、(ふむ、そんなことで世の中が通るものか。言ようもあろうのに、ナニ姉弟分だ。)とこうさ。口惜くやしいじゃあないかねえ。芳さん、たとい芳さんを抱いて寝たからたッて、二人さえ潔白なら、それで可いじゃあないか、旦那が何と言ったって、私ゃちっとも構やしないわ。」
 お貞はかく謂えりしまで、血色勝れて、元気よく、いと心強く見えたりしが、急に語調の打沈みて、
「しかしこうはいうものの、芳さん世の中というものがね、それじゃあ合点がってんしないとさ。たとい芳さんと私とが、どんなに潔白であッたからっても、世間じゃそうとは思ってくれず、(へん、腹合せの姉弟だ。)と一万石にきめっちまう! 旦那が悪いというでもなく、私と芳さんが悪いのでもなく、ただ悪いのは世間だよ。
 どんなに二人が潔白で、心は雪のように清くッてもね、泥足で踏みにじって、世間で汚くしてしまうんだわ。
 雪といえば御覧な、冬になって雪が降ると、ここのうちなんざ、裏の地面がはたけだからね、木戸があかなくッて困るんだよ。理窟を言えば同一おんなじで、垣根にあるだけの雪ならば、無理に推せばくけれど、ずッとむこうの畠から一面に降りつづいて、その力が同一ひとつになって、表からおすのだもの。どうして、何といわれても、世間にゃあ口がかないのよ。
 男の腕なら知らないこと、女なんざそれを無理にこじあけようとすると、呼吸切いきぎれがしてしまうの。でも芳さんは士官になるというから、今に大将にでもおなりの時は、その力でいくらも世間を負かしてしまって、何にも言わさないように出来もしようけれど、今といっちゃあたッた二人で、どうすることもならないのよ。
 それとも神様や仏様が、私だちの手伝をして、力を添えて下さりゃ可いけれど、そんなねがいはかなわないわね。
 婆々ばばあじみるッて芳さんはお笑いだが、芳さんなぞはその思遣おもいやりがあるまいけれど、可愛かわゆい児でも亡くして御覧、そりゃおのずと後生ごしょうのことも思われるよ。
 あれは、えらい僧正だって、旦那の勧める説教を聞きはじめてから、方々へ参詣まいったり、おしえを聞いたりするんだがね。なるほどと思うことばかり、それでも世の中に逆らッて、それで、御利益があるッてことは、ちっとも聞かしちゃあくれないものを。
 戸をッつけてる雪のような、力の強い世の中に逆らってこうとすると、そりゃ弱い方が殺されッちまうわ。そうすりゃもう死ぬよりほかはないじゃないかね。
 私ももうもう死んでしまいたいと思うけれど、それがまたそうもかないものだし、このごろじゃ芳さんという可愛いものが出来たからね、私ゃ死ぬことは嫌になったわ。ほんとうさ! 自分の児が可愛いとか、芳さんとこうやって談話はなしをするのが嬉しいとか、何でもたのしみなことさえありゃ、たとい辛くッても、我慢が出来るよ。どうせ、私は意気地なしで、世間に負けているからね、そりゃ旦那は大事にもする、病気やまいが出るほど嫌な人でも、世間よのなかにゃ勝たれないから、たとい旦那が思い切って、縁を切ろうといってもね、どんな腹いせでも旦那にさせて、私ゃ、あやまって出てかない。」
 と歯をくいしめてすすり泣きつ。

十二


 お貞は幾年来独り思い、独り悩みて、鬱積うっせきせる胸中の煩悶はんもんの、その一片をだにかつてもらせしことあらざりしを、いま打明くることなれば、順序も、次第も前後して、乱れ且つ整わざるにも心着かで、再び語り続けたり。
「いっちゃ女の愚痴だがね。私はさっきいったように、世の中というものがあって、自分ばかりじゃないからと、断念あきらめて、旦那につかえてはいるけれど、一日に幾度となく、もうふツふツ嫌になることがあるわ。
 芳さんも知っておいでだ。ついこないだのことだっけ、晩方旦那の友達が来たので、私もその日は朝ッから、塩梅あんばいが悪くッて、奥のに寝ていた処へ、推懸おしかけたもんだから、外に別に部屋はなし、ここへ出て坐っていたの。
 お客がまた私の大嫌だいきらいな人で、旦那とは合口あいくちだもんだから、愉快おもしろそうに[#「愉快おもしろそうに」は底本では「愉快おもしろさうに」]話してたッけが、私は頭痛がしていた処へ、その声を聞くとなお塩梅が悪くなって、胸は痛む、横腹よこッぱらは筋張るね、おいおい薄暗くはなって来る。暑いというので燈火あかりはつけずさ。陰気になって、いろんなことを考え出して、ついたまらなくなったから、横になろうと思っても、直ぐ背後うしろに居るんだもの、立膝たてひざも出来ないから、台所へ行って板の間にでもと思ったが、あすこにゃひどいし、仕方がないから戸外おもてへ出て、軒下にしゃがんで泣いてた処へ、ちょうどお前さんが来ておくれで、二階へ来いとおいいだから、そっと上ると、まあ、おとしよりが御深切に、胸を押して下すったので、私ゃもう難有ありがたくッて、嬉しくッて、心じゃ手を合せて拝んだわ。
 おかげでやっと胸が開きそうになって、ほっと呼吸いきをついた処へ、
(貞はそこに参っておりましょうな。)と、壇階子だんばしごの下へ来て、わざわざ旦那が呼んだじゃあないかね。
 私ゃあんまりくさくさしたから、返事もしないで黙っていると、おばあさんがお聞きつけなすッて、
階下したへおいで、ね、ね、そうしないと悪い)ッて、みんなもうちゃんと推量して、やさしく言って下さるんだもの。
(ここに居とうございます!)と、おばあさんの膝にすがりついたの。
 下ではなお呼ぶもんだから、おばあさんが私のかわりに返事をなすって、
(可いから、可いから。)と、低声こごえでおっしゃってね、せなかを撫でて下さるもんだから、仕方なしに下りて行くと、お客はもう帰っていてね、嫌な眼でにらまれたよ。
 空いてるがないもんだから、そういう時には困っちまう。アレ悪く取っちゃあ困るわね。
 何も芳さんに二階を貸しておいて、こういっちゃあわるいけれど、はじめッからこのうちは嫌いなの。
 水は悪いし、流元ながしもとなんざ湿地で、いつでもじくじくして、心持が悪いっちゃあない。雪どけの時分ころになると、庭が一杯水になるわ。それから春から夏へかけてはすももの樹が、毛虫で一杯。
 それに宅中うちじゅう陰気でね、明けておくと往来から奥のまで見透みとおしだし、ここいら場末だもんだから、いや、あすこの宅はどうしたの、こうしたのと、近所中で眼を着けて、晩のお菜まで知ってるじゃあないかね。大嫌な猫がまた五六疋、野良猫が多いので、のそのそ入って、ずうずうしく上り込んで、追ってもにげるような優しいんじゃない。
 隣の小猫はまた小猫で、それ井戸は隣と二軒で使うもんだから、あすこのへだてから入って来ちゃあ、畳でも、板の間でも、ニャアニャア鳴いて歩行あるくわ。
 隣の猫のこッたから、あのまた女房おかみが大抵じゃないのだからね、(うちの猫を)なんて言われるが嫌さに、つわけにはもとよりゆかず、二三度干物でも遣ったものなら、可いことにして、まつわって、からむも可いけれど、芳さん、ありゃ猫の疱瘡ほうそうとでもいうのかしら。からだじゅう一杯のできもので、一々うみをもって、まるで、毛が抜けて、肉があらわれてね、汚なくって手もつけられないよ。それがさ、昨夜ゆうべ蚊帳かやの中へ入込んで、寝ていた足をなめたのよ。何の因果だか、もうもう猫にまで取着とッつかれる。」
 と投ぐるがごとく言いすてつ。苦笑にがわらいしてつぶやきたり。
「ほんとうになくよりわらいだねえ。」

十三


 お貞のことば途絶えたる時、先刻さっきより一言ひとことも、ものいわでかれが物語を味いつつ、是非の分別にさまよえりしごとき芳之助の、何思いけん呵々からからと笑い出して、
「ははは、姉様ねえさんは陰弁慶だ。」
 お貞は意外なる顔色かおつきにて、
「芳さん、何が陰弁慶だね。」
「だってそんなに決心をしていながら、一体僕の分らないというのはね、人ががらりと戸を明けると、眼に着くほどびっくりして、どきり! する様子がたしかに見えるのは、どういうものだろう。ひげの留守に僕と談話はなしでもしている処へ唐突だしぬけ戸外おもてがあけば、いま姉様がいった世間よのなかの何とかで、吃驚びっくりしないにも限らないが、こうしてみるに、なにもその時にゃ限らないようだ。いつでもそうだから可笑おかしいじゃないか。それに姉様のは口でいうと反対で、髯の前じゃおどおどして、何だか無暗むやみに小さくなって、一言ものをいわれても、はッと呼吸いきのつまるように、おびえ切っている癖に。今僕に話すようじゃ、酸いも、甘いも、知っていて、旦那を三銭さんもんとも思ってやしない。僕が二厘の湯銭の剰銭つりで、(ちょいとこさ)を追返したよりは、なおひどく安くしてるんだ。その癖、世間じゃ、(西村の奥様は感心だ。今時の人のようでない。まるで嫁にきたてのように、旦那様を大事にする。婦人おんなはああかなければ嘘だ。貞女のかがみだ。しかし西村にはおしいものだ。)なんとそう言ってるぞ。そうすりゃ世間も恐しくはなかろうに、何だって、あんなにびくびくするのかなあ。だから姉様は陰弁慶だ。」
 と罪もなくけなしたるを、お貞は聞きつつ微笑ほほえみたりしが、ふと立ちて店にき、往来の左右をながめ、もとの座に帰りて四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわし、また板敷に伸上りて、裏庭より勝手などを、巨細こさいに見て座に就きつ。
「それはね、芳さん、こうなのよ。」
 という声もハヤふるえたり。
「芳さんだと思って話すのだから、そう思ッて聞いておくれ。
 私はね、可いかい。そのつもりで聞いておくれ。私はね、いつごろからというたしかなことは知らないけれど、いろんな事がかさなり重りしてね、旦那が、旦那が、どうにかして。
 死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい。
 とそう思うようになったんだよ。ああ、罪の深い、呪詛のろうのも同一おんなじだ。親のかたきででもあることか、人並より私を思ってくれるものを、(死んでくれりゃいい)と思うのは、どうした心得違いだろうと、自分で自分を叱ってみても、やっぱりどうしてもそう思うの。
 そのおもいが段々こうじて、朝から晩まで、寝てからも同一おんなじことを考えてて、どうしてもその了簡りょうけんがなおらないで、後暗いことはないけれど、なんに着け、に着け、ちょっとの間もそのおもいが離れやしない。始終そればかりが気にかかって、何をしても手に着かないしね、じっと考えこんでいる時なんざ、なおのこと、何にも思わないでその事ばかり。ああ、人の妻の身で、何たる恐しい了簡だろうと、心の鬼に責められちゃあ、片時も気がやすまらないで、始終胸がどきどきする。
 それがというと、私の胸にあることを、人に見付かりやしまいかと、そう思うから恐怖こわいんだよ。
 わけても、旦那に顔を見られるたびに、あの眼が、何だか腹の中まで見透みすかすようで、おどおどしずにゃいられない。(貞)ッて一声呼ばれると、直ぐその、あとの句が、(お前、おれの死ぬのが待遠いだろう。)とこう来るだろうと思うから、はッとしないじゃいられないわね。それで何ぞ外のことを言われると、ほッと気が休まって、その嬉しさっちゃないもんだから、用でも、何でも、いそいそする。
 それにこうやって、ここへ坐って、一人でものを考えてる時は、頭の中で、ぐるぐるぐるぐる、(死ねば可い)という、鬼か、じゃか、何ともいわれない可恐こわいものが、私の眼にも見えるように、眼前めさきかけまわっているもんだから、自分ながら恐しくッて、観音様を念じているの。そこへがらりと戸を開けられちゃあ、どうして慌てずにいられよう。(ああ、めッかった。)と、もう死んだ気になっちまう!
 それが心配で、心配で、どうぞして忘れたいと思うから、けもないことにわあわあ騒いだり、笑ったり、他所よそめには、さも面白そうに見えようけれど、自分じゃ泣きたいよ。あとではなおさら気がめいッて、ただしょんぼりと考え込むと、また、いつもの(死ねばいい)が見えるようなの。
 恐しくッてたまらないから、どうぞこの念がなくなりますようにと、観音様に願っても、罪が深いせいなのか、段々強くなるばかり。
 気のせいか知らないけれど、旦那は日に日に血色が悪くなって、次第に弱って行く様子、こりゃ思いが届くのかと考えると、私ゃもう居てもってもたまらない。
 だから旦那が煩いでもすると、ハッと思って、こりゃどうでも治さないと、私が呪詛のろい殺すのだと、もうもうさほどでもない病気でも、の目も寝ないで介抱するが、お医者様のお薬でも、私の手から飲ませると、かえって毒になるようで、何でも半日ばかりの間は、今にも薬の毒がまわって、血でも吐きやしないかしらと、どうしてその間の心配というものは! でもそれでもやっぱり考えることといったら、ちっともちがいはない、(死ねば可い。)で、早くなおって欲しいのは、実は(死ねば可い。)と思うからだよ。
 ねえ、芳さん分ったろう。もう胸が一杯で、口も利かれやしないから、後生だ、推量しておくれ。も、私ゃ、私はもう芳さんどうしたら可いんだねえ。」
 と身を震わしたるいじらしさ!
 お貞がこの衷情ちゅうじょうに、少年はいたく動かされつ。思わず暗涙なみだを催したり。
「ああ姉様は可哀そうだねえ。僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不可いけないよ。」
 お貞は聞きて嬉しげに少年の手をじっと取りて、
「嬉しいねえ。何の自害なんかするもんかね、世間と、旦那として私をこんなにいじめるもの。いじめ殺されて負けちゃ卑怯ひきょうよ。意気地が無いわ。可いよ、そんな心配は要らないよ。私ゃつらあてにでも、きている。たといこの上幾十倍のつらい悲しいことがあっても、きっとこらえて死にゃあしないわ。と心強くはいってみても、死なれないのが因果なのだねえ。」
 ほろりとして見る少年の眼にも涙をたたえたり。時に二階より老女の声。
「芳や、帰ったの。」
「あれ、おばあさんが。」
「はい、唯今ただいま。」

十四


 二段ばかり少年は壇階子だんばしごを昇り懸けて、と顧みて驚きぬ。時彦は帰宅して、はや上口あがりぐちの処に立てり。
 我が座を立ちしと同時ならむ。と思うも見るもまたたくま、さそくの機転、下をのぞきて、
「もう、奥様おくさん何時なんどきです。」
「は。」
 とお貞はちたるが、不意に顛倒てんどうして、起ちつ、居つ。うろうろ四辺あたりを見廻すひまに、時彦は土間に立ちたるまま、粛然として帯の間より、懐中時計を取出とりいだし、丁寧に打視うちながめて、少年を仰ぎ見んともせず、
「五十九分前六時です。」
憚様はばかりさま。」
 と少年は跫音あしおと高く二階に上れり。
 時彦は時計を納めつ。立ちも上らず、坐りも果てざる、妻にむかいて、沈める音調、
「貞、床を取ってくれ、気分が悪いじゃ。貞、床をとってくれ、気分が悪いじゃ。」
 おもては死灰のごとくなりき。

十五


 時彦はその時よりまたたず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢復かいふくのぞみ絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。
 かれは良人の容体の危篤に陥りしより、ほとんど一月ばかりの間帯を解きて寝しことあらず、分けてこのごろに到りては、一七日いちしちにちいまだかつてまぶたを合さず、渠は茶を断ちて神に祈れり。塩を断ちて仏に請えり。しかれども時彦を嫌悪の極、その死のすみやかならんことを欲する念は、良人に薬を勧むる時も、その疼痛とうつうの局部をさすひまも、須臾しゅゆも念頭を去りやらず。甚しいかなその念の深く刻めるや、おのが幾年の寿命を縮め、身をもて神仏のにえに供えて、合掌し、瞑目めいもくして、良人の本復を祈る時も、その死を欲するの念は依然として信仰の霊を妨げたり。
 良人の衰弱は日にしるけきに、こは皆おのが一念よりぞと、深更四隣静まりて、天地沈々、病者のために洋燈ランプを廃して行燈あんどんにかえたる影暗く、隙間すきまもる風もあらざるにぞ、そよとも動かぬ灯影ほかげにすかして、そのじゃくたること死せるがごとき、病者の面をそとながめて、お貞は顔を背けつつ、おとがい深く襟にうずめば、時彦の死を欲する念、ここぞとさかんに燃立ちて、ほとんど我を制するあたわず。そがなすままにまかしおけば、奇異なる幻影眼前めさきにちらつき、ぱっ[#「火+發」、U+243CB、153-7]と火花の散るごとく、良人のはだを犯すごとに、太く絶え、細く続き、長くかすけき呻吟声うめきごえの、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自らいたみ、且つ泣き、且ついかり、且つ悔いて、ほとんどその身を忘るる時、
「お貞。」
 と一声ひとこえ、時彦は、うつし沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。
 この一声を聞くとともに、一桶ひとおけの氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、
「はい。」
 とおののきたり。
 時彦はいとものしずかに、
「お前、このごろから茶を断ッたな。」
「いえ、何も貴下あなた、そんなことを。」
 と幽かにいいて胸をおさえぬ。
 時彦はおとがいのあたりまで、夜着の襟深く、仰向あおむけに枕して、眼細まぼそく天井を仰ぎながら、
塩断しおだちもしてるようだ。一昨日おとといあたりから飯も食べないが、一体どういう了簡りょうけんじゃ。」
(貴下を直したいために)といわんは、渠の良心の許さざりけむ、差俯向さしうつむきてお貞は黙しぬ。
「あかりが暗い、掻立かきたてるが可い。お前がひどせッこけて、そうしょんぼりとしてる処は、どう見ても幽霊のようじゃ、行燈が暗いせいだろう。な。」
「はい。」
 お貞は、深夜幽霊の名を聞きて、ちりけもとより寒さを感じつ。身震いしながら、少しく居寄りて、燈心の火を掻立てたり。
「そんなに身体からだを弱らせてどうしようという了簡なんか。うむ、お貞。」
 根深く問うに包みおおせず、お貞はいとも小さき声にて、
「よく御存じでございます。」
「むむ、お前のすることは一々おりゃ知っとるぞ。」
「え。」
 とお貞はずり退さがりぬ。
茶断ちゃだち塩断しおだちまでしてくれるのに、おれはなぜ早く死なんのかな。」
 お貞は聞きて興覚顔きょうざめがおなり。
 時彦の語気は落着けり。
はやく死ねば可いと思うておって、なぜそんな真似をするんだな。」
 と声に笑いを含めてえり。お貞はほとんど狂せんとせり。
 病者はなおもやわらかに、
「何、そう驚くにゃ及ばない。昨日今日にはじまったことではないが、お貞、お前は思ったよりはるかに恐しい女だな。あれは憎い、憎い奴だから殺したいということなら、おれも了簡のしようがあるが、(死んでくれりゃ可い。)は実に残酷だ。人を殺せば自分も死なねばならぬというまず世の中に定規さだめがあるから、我身わがみを投出して、つまり自分が死んでかかって、そうしてその憎い奴を殺すのじゃ。誰一人生命いのちおしまぬものはない、活きていたいというのが人間第一の目的じゃから、その生命いのちを打棄ててかかるものは、もうのぞみを絶ったもので、こりゃ、あわれむべきものである。
 お前のはそうじゃあない。(死んでくれりゃ可い)と思うので、つまり精神的に人を殺して、何のむくいも受けないで、白日青天、嫌な者が自分の思いで死んでしまったあとは、それこそ自由自在の身じゃでの、仕たい三昧ざんまい、一人で勝手に栄耀えようをして、世を愉快おもしろく送ろうとか、すきな芳之助といことをしようとか、しからんことを思うている、つまり希望というものがお前にあるのだ。
 人の死ぬのを祈りながら、あとあとのたのしみを思うている、そんな太い奴があるもんか。
 おれはきっと許さんぞ。
 そうそうすきなまねをお前にされて、吾も男だ、指をくわえて死にはしない。
 といつも思っていたんだが、もうこの肺病には勝たれない、いや、つまり、お前に負けたのだ。
 してみれば、お貞、お前が呪詛のろい殺すんだと、吾がそう思っても、仕方があるまい。
 吾はどのみち助からないと、初手ッから断念あきらめてるが、お貞、お前の望がかのうて、後で天下ばれたのしまれるのは、吾はどうしても断念められない。
 謂うと何だか、女々しいようだが、報のない罪をし遂げて、あとでたのしみをしようという、虫の可いことは決して無い。またそうさせるような吾でもない。
 お貞、謝罪わびをしちゃあかんぞ。お前は何も謝罪をすることもなし、吾も別に謝罪を聞く必要も認めんじゃ。悪かったというて謝罪をすればそれで済む、謝罪を聞けば了簡すると、そんな気楽なことを思うと、吾のいうことが分るまいでな。何でもしたことには、それ相当の報酬むくいというものが、多くもなく、少なくもなく、ちょうど可いほどあるものだと、そう思ってろ! 可いか、お貞、……お貞。」
 と少しき込みて、絶え入るばかりにむせびつつ、しばらく苦痛を忍びしが、がらがらと血を吐きたり。
 いつもかかることのある際には、一刀ひとかたな浴びたるごとく、あおくなりてすがり寄りし、お貞は身動みうごきだもなし得ざりき。
 病者は自ら胸をいだきて、まなこねむること良久ひさしかりし、一際ひときわ声のからびつつ、
「こう謂えばな、親を蹴殺けころした罪人でも、一応は言訳をすることが出来るものをと、お前は無念に思うであろうが、法廷で論ずる罪は、囚徒が責任を負ってるのだ。
 今お前が言訳をして、今日からどんな優しい気になろうとも、とても助からない吾に取っては、何の利益も無いことで、死んでしまえば、それ、お前は日本晴で、可いことをしてたのしむんじゃ。そううまくはきっとさせない。言訳がましいことを謂うな。聞くような吾でもなし。またお前だってそうだ。人殺ひとごろしよりなおひどい、(死んでくれれば可い)と思うほどの度胸のある婦人おんなでないか。しっかりとしろ! うむ、お貞。」
 お貞はきっと顔を上げて、
「はい、決して申訳はいたしません。」
 といと潔よく言放てる、両の瞳の曇は晴れつ。旭光きょっこう一射霜を払いて、水仙たちまちりんとせり。
 病者は心地げにうなずきぬ。
し、よく聞け、お貞。人の死ぬのを一日待に待ち殺して、あとでよい眼を見ようというはずるいことだ。考えてみろ。お前は今までに人情の上から吾に数え切れない借があろう。それをな、その負債をな。今吾に返すんだ。吾はどうしても取ろうというのだ。」
 いと恐しき声にもおじず、お貞は一膝乗出のりいだして、看病疲れに繕わざる、乱れし衣紋えもんを繕いながら、胸を張りて、おもてを差向け、
「旦那、どうして返すんです。」
「離縁しよう。いまここで、この場から離縁しよう。死にかかっている吾を見棄てて、芳之助と手をいて、温泉へでも湯治にけ。だがな、お前は家附の娘だから、出てくことが出来ぬと謂えば、ナニ出て行くには及ばんから、床ずれがして寝返りも出来ない、この吾を、芳之助と二人でおぶって行って、姨捨山おばすてやまへ捨てるんだ。さ、どちらでも構わない。ただ、(人の妻たる者が、死にかかってる良人を見棄てた。)とこういうことが世間へ知れて、世の中の者がみんなその気でお前に附合えば、それで可い、それで可い。ちっとは負債が返せるのだ。
 しかし、これはお前には出来ぬこッた。お前は世間体というものを知ってるから、平生、吾が健全たっしゃな時でも、そんな事は※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも出さないほどだ。それが出来るくらいなら、もうとっくに離別わかれてしまったに違いない。うむ、お貞、どうだ、それとも見棄てて、離縁が出来るか。」
 お貞は一思案にも及ばずして、
「はい、そんなことは出来ません。」
 病者はさもこそと思えるさまなり。
「それではお貞、お前のおもいで死なないうちに、……おれを殺せ。」
 としずかにいう。
「え、貴下あなたを!」
「うむ、おれを。お貞、ずるい根性を出さないで、表向おもてむきに吾を殺して、公然、良人殺しの罪人になるのだ。お貞、良人ころしの罪人になるのだ。うむお貞。
 吾を見棄てるか、吾を殺すか、うむ、どちらにするな。何でも負債を返さないでは、あんまり冥利みょうりが悪いでないか。いや、ないかどころでない! そうしなけりゃ許さんのだ。うむ、お貞、どっちにする、殺さないと、離縁にする!」
 といとおごそかに命じける。お貞は決する色ありて、
貴下あなた、そ、そんなことを、私にいってもいいほどのことがあるんですか。」
 声ふるわしてきっと問いぬ。
「うむ、ある。」
 と確乎かっことして、謂う時病者は傲然ごうぜんたりき。
 お貞はかの女が時々神経に異変をきたして、かしらあたかもるるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面あおくなりながら、身火しんか烈々身体からだを焼きて、こうとして、ぼうとして、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気をまなこにこめて、その瞳をも動かさで、じっと人を目詰みつむれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同一おなじ容体ありさまにて、目まじろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔をみまもりしが、俄然がぜん崩折くずおれて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人にすがりて、血を吐く一声夜陰を貫き、
「殺します、旦那、私はもう……」
 とわッとばかりに泣出しざま、なげうたれたらんかのごとく、障子とともにたおれ出でて、き、勝手もとやみを探りて、かれは得物を手にしたり。
 時彦ははじめのごとく顔の半ばに夜具をかつぎ、仰向あおむけに寝て天井を眺めたるまま、此方こなたを見向かんともなさずして、いともしずかに、ひややかに、着物の袖も動かさざりき。
 諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢をよぎりたまわん時、好事こうずの方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏ばけいちょうの旅店? と問われよ。老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥しゅうじょくのちに御注意あれ。
 広き旅店の客少なく、夜半の鐘声しんとして、凄風せいふう一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然きょうぜんたる足音あり寂寞せきばくを破り近着ききたりて、黒きものとうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息をうかがうあらむ。その時声を立てられな。もししわぶきをだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返いちょうがえし背向うしろむきに、あとあし下りにり来りて、諸君の枕辺まくらべに近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然しょうぜんとしたまわんか。トタンにくだんの幽霊は行燈あんどんの火を吹消ふっけして、暗中を走る跫音あしおと、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭はずれに至りて、そのままハタとむべきなり。
 はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来をおもんばかりて、諸君は一夜を待明かさむ。
 明くるを待ちて主翁あるじに会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然しゅうぜんとしてその実を語るべきなり。
 聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室ひとまけ。密閉したる暗室内に俯向うつむき伏したる銀杏返の、その背と、もすその動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸のすきより見るをべし。これけだし狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
 されど室内に立入りて、そのおもてを見んとせらるるとも、主翁は頑としてがえんぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来じらい世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。かれ恐懼おそれて日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明そのはだえに一注せば、渠は立処たちどころに絶して万事まむ。
 光をいとうことかくのごとし。されば深更一縷いちる燈火ともしびをもお貞は恐れて吹消ふっけし去るなり。
 渠はしかくきながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請うじょせられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺いころすなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意ほいなからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや。
明治二十九(一八九六)年二月





底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
   1942(昭和17)年9月30日発行
初出:「文芸倶楽部」
   1896(明治29)年2月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年7月3日作成
2012年9月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「火+發」、U+243CB    153-7


●図書カード