琵琶伝

泉鏡花




       一

 新婦が、床杯とこさかずきをなさんとて、座敷より休息のに開きける時、介添の婦人おんなはふとその顔を見て驚きぬ。
 面貌めんぼうほとんど生色なく、今にもたおれんずばかりなるが、ものに激したるさまなるにぞ、介添は心許こころもとなげに、つい居て着換を捧げながら、
「もし、御気分でもお悪いのじゃございませんか。」
 と声をひそめてそと問いぬ。
 新婦は凄冷せいれいなる瞳を転じて、介添を顧みつ。
「何。」
 とばかり簡単に言捨てたるまま、身さえ眼をさえ動かさで、一心ただ思うことあるその一方を見詰めつつ、衣を換うるも、帯をむるも、衣紋えもんを直すも、つまを揃うるも、皆ひとの手に打任せつ。
 尋常ただならぬ新婦の気色をあやぶみたる介添の、何かは知らずおどおどしながら、
「こちらへ。」
 とうに任せ、かれは少しも躊躇ためらわで、静々と歩を廊下に運びて、やがて寝室に伴われぬ。
 床にはハヤ良人おっとありて、新婦のきたるを待ちおれり。渠は名を近藤重隆と謂う陸軍の尉官いかんなり。式は別に謂わざるべし、媒妁なこうどの妻退き、介添の婦人おんな罷出まかんでつ。
 ただ二人、ねやの上に相対し、新婦はきっ身体からだを固めて、端然として坐したるまま、まおもてに良人のおもてみまもりて、打解けたるさますこしもなく、はた恥らえる風情も無かりき。
 尉官は腕をこまぬきて、こもまたやわらぎたるていあらず、ほとんど五分時ばかりの間、互に眼と眼を見合せしが、遂に良人まずびたる声にて、
「お通。」
 とばかり呼懸けつ。
 新婦の名はお通ならむ。
 呼ばるるにこたえて、
「はい。」
 とのみ。渠は判然きっぱりとものいえり。
 尉官はいた苛立いらだつ胸を、強いて落着けたらんごとき、沈める、力ある音調もて、
おまえ、よくたな。」
 お通は少しも口籠くちごもらで、
「どうも仕方がございません。」
 尉官はしばらく黙しけるが、ややその声を高うせり。
「おい、謙三郎はどうした。」
「息災でります。」
「よく、おまえ、別れることが出来たな。」
詮方しかたがないからです。」
「なぜ、詮方がない。うむ。」
 お通はこれが答をせで、懐中ふところに手を差入れて一通の書を取出し、良人の前に繰広げて、両手を膝に正してき。尉官は右手めて差伸さしのばし、身近に行燈あんどんを引寄せつつ、まなこを定めて読みおろしぬ。
 文字もんじけだのごときものにてありし。
お通に申残し参らせ候、御身おんみと近藤重隆殿とは許婚いいなずけ有之これあり
しかるに御身は殊の外の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、むすめながらも其由そのよしのいい聞け難くて、臨終いまわの際まで黙し候
さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし重隆殿の先人に対し面目なく、今さら変替へんがえ相成らず候あわれ犠牲いけにえとなりて拙者の名のために彼の人に身を任せ申さるべく、の遺言をしたため候時の拙者が心中の苦痛を以て、御身に謝罪いたし候
      月 日
清川通知みちとも
     お通殿
 二度三度繰返して、尉官はかたちあらためたり。
「通、おれは良人だぞ。」
 お通は聞きて両手をつかえぬ。
「はい、貴下あなたの妻でございます。」
 その時尉官は傲然ごうぜんとして俯向うつむけるお通を瞰下みおろしつつ、
「吾のいうことには、おまえ、きっと従うであろうな。」
 此方こなたこうべれたるまま、
「いえ、お従わせなさらなければ不可いけません。」
 尉官は眉を動かしぬ。
「ふむ。しかし通、吾を良人とした以上は、汝、妻たる節操は守ろうな。」
 お通はきっと面を上げつ、
「いいえ、出来さえすれば破ります。」
 尉官は怒気心頭をきて烈火のごとく、
「何だ!」
 とその言を再びせしめつ。お通はめず、おくする色なく、
「はい。私に、私に、節操を守らねばなりませんという、そんな、義理はございませんから、出来さえすれば破ります!」
 恐気おそれげもなく言放てる、片頬に微笑えみを含みたり。
 尉官は直ちにうなずきぬ。胸中あらかじめこの算ありけむ、熱の極は冷となりて、ものいいもいとしずかに、
「うむ、きっと節操を守らせるぞ。」
 渠は唇頭しんとう嘲笑ちょうしょうしたりき。

       二

 相本謙三郎はただ一人清川の書斎に在り。当所あてどもなくへやの一方を見詰めたるまま、黙然もくねんとして物思えり。かれが書斎の椽前えんさきには、一個数寄すきを尽したる鳥籠とりかごを懸けたる中に、一羽の純白なる鸚鵡おうむあり、ついばむにも飽きたりけむ、もの淋しげに謙三郎の後姿を見りつつ、かしらを左右に傾けおれり。一室じゃくたることしばしなりし、謙三郎はその清秀なるおもてに鸚鵡を見向きて、いたく物案ずるさまなりしが、憂うるごとく、あやぶむごとく、はた人にはばかることあるもののごとく、「琵琶びわ。」と一声、鸚鵡を呼べり。琵琶とはけだし鸚鵡の名ならむ。低く口笛をならすとひとしく、
「ツウチャン、ツウチャン。」
 と叫べる声、奥深きこの書斎をとおして、一種の音調打響くに、謙三郎は愁然しゅうぜんとして、思わず涙を催しぬ。
 琵琶は年久しく清川の家に養われつ。お通と渠が従兄なる謙三郎との間に処して、巧みにその情交を暖めたりき。他なし、お通がこの愛娘まなむすめとして、へやを隔てながら家を整したりし頃、いまだ近藤に嫁がざりし以前には、謙三郎の用ありて、お通にまみえんと欲することあるごとに、今しも渠がなしたるごとく、籠の中なる琵琶を呼びて、しかく口笛を鳴すとともに、琵琶が玲瓏れいろうたる声をもて、「ツウチャン、ツウチャン。」と伝令すべく、よくらされてありしかば、この時のごとく声を揚げて二たび三たび呼ぶとともに、帳内深き処しゅくとして物を縫う女、物差を棄て、針をきて、ただちに謙三郎にきたりつつ、笑顔を合すが例なりしなり。
 今やなし。あらぬを知りつつ謙三郎は、日に幾回、に幾回、果敢はかなきこの児戯を繰返すことを禁じ得ざりき。
 さてその頃は、征清せいしん出師すいしありし頃、折はあたかも予備後備に対する召集令の発表されし折なりし。
 謙三郎もまた我国わがくに徴兵の令に因りて、予備兵の籍にありしかば、一週日以前既に一度ひとたび聯隊に入営せしが、その月その日の翌日あくるひは、旅団戦地に発するとて、親戚しんせき父兄の心を察し、一日の出営を許されたるにぞ、渠は父母無き孤児みなしごの、他に繋累けいるいとてはあらざれども、として幼少より養育されて、母とも思う叔母に会して、永き離別わかれおしまんため、朝来ここにきたりおり、聞くこともはたうことも、永き夏の日に尽きざるに、帰営の時刻迫りたれば、謙三郎は、ひしひしと、戎衣じゅういを装い、まさに辞し去らんとして躊躇ちゅうちょしつ。
 書斎にものあり、衣兜かくしるるを忘れたりとて既に玄関まででたる身の、一人書斎に引返しつ。
 叔母とその奴婢どひやからは、皆玄関に立併たちならびて、いずれも面に愁色しゅうしょくあり。弾丸の中にく人の、今にもきたると待ちけるが、五分を過ぎ、十分を経て、なお書斎より来らざるにぞ、謙三郎はいかにせしと、心々に思える折から、寂として広き家の、はるか奥のかたよりおとずれきて、
「ツウチャン、ツウチャン。」
 と鸚鵡の声、聞き馴れたる叔母のこの時のみ何思いけん色をかえて、急がわしく書斎に到れり。
 謙三郎は琵琶に命じて、お通の名をば呼ばしめしが、きたるべき人のあらざるに、いつもの事とはいいながら、あすは戦地に赴く身の、再び見、再び聞き得べき声にあらねば、意を決したる首途かどでにも、渠はそぞろに涙ぐみぬ。
 時に椽側に跫音あしおとあり。女々しき風情を見られまじと、謙三郎の立ちたる時、叔母は早くも此方こなたに来りて、突然いきなり鳥籠のふたを開けつ。
 驚き見る間に羽ばたき高く、琵琶は籠中ろうちゅうを逸し去れり。
「おや! 何をなさいます。」
 と謙三郎はせわしく問いたり。叔母は此方こなたを見も返らで、琵琶の行方をみまもりつつ、椽側に立ちたるが、あわれ消残る樹間このまの雪か、緑翠りょくすい暗きあたり白き鸚鵡の見え隠れに、ひぐらし一声鳴きける時、手をもって涙をぬぐいつつしずかに謙三郎を顧みたり。
「いいえね、未練が出ちゃあ悪いから、もうあの声を聞くまいと思って。……」
 叔母は涙の声を飲みぬ。
 謙三郎はじたる色あり。これが答はなさずして、胸の間の釦鈕ボタンを懸けつ。
「さようなら参ります。」
 とつかつかと書斎をでぬ。叔母は引添うごとくにして、その左側に従いつつ、歩みながら口早に、
いかい、先刻さっき謂ったことは違えやしまいね。」
「何ですか。お通さんに逢ってけとおっしゃった、あのことですか。」
 謙三郎は立留たちどまりぬ。
「ああ、そのこととも、お前、いくさに行くという人にほかねがいがあるものかね。」
「それは困りましたな。あすこまでは五里あります。今朝だと腕車くるまけて行ったんですが、とても逢わせないといいますから行こうという気もありませんでした。今ッからじゃ、もう時間がございません。三十分間、兵営までさえ大急おおいそぎでございます。飛んだ長座をいたしました。」
 謂うことを聞きも果てず、叔母は少しくき込みて、
「そのことは聞いたけれど、むすめの身にもなって御覧、あんな田舎へ推込おしこまれて、一年ごし外出そとでも出来ず、折があったらお前に逢いたい一心で、細々命をつないでいるもの、顔も見せないで行かれちゃあ、それこそ彼女あのこは死んでしまうよ。お前もあんまり察しがない。」
 と戎衣じゅういとらえて放たざるに、謙三郎はこうじつつ、
「そうおっしゃるも無理ではございませんが、もう今から逢いますには、脱営しなければなりません。」
「は、脱営でも何でもおし。通が私ゃ可哀そうだから、よう、後生だから。」
 と片手に戎衣の袖を捉えて、片手に拝むに身もよもあらず、謙三郎はあおくなりて、
「何、私の身はどうなろうと、名誉も何も構いませんが、それでは、それではどうも国民たる義務が欠けますから。」
 と誠心まごころめたる強き声音こわねも、いかでか叔母の耳にるべき。ひたすらこうべ打掉うちふりて、
「何が欠けようとも構わないよ。何が何でも可いんだから、これたった一目、後生だ。頼む。逢って行ってやっておくれ。」
「でもそれだけは。」
 謙三郎のなお辞するに、はていかりて血相かえ、
「ええ、どういってもかないのか。私一人だから可いと思って、伯父さんがおいでの時なら、そんなこと、いわれやしまいが。え、お前、いつも口癖のように何とおいいだ。きっと養育された恩を返しますッて、立派な口をきく癖に。私がこれほど頼むものを、それじゃあ義理が済むまいが。あんまりだ、あんまりだ。」
 謙三郎はいかんとも弁疏いいわけなすべきことばを知らず、しばし沈思してこうべれしが、叔母のせなをば掻無かいなでつつ、
うございます。何とでもいたしてきっと逢って参りましょう。」
 謂われて叔母は振仰向ふりあおむき、さも嬉しげに見えたるが、謙三郎の顔の色の尋常ただならざるをあやぶみて、
「お前、可いのかい。何ともありゃしないかね。」
「いや、お憂慮きづかいには及びません。」
 といと淋しげに微笑ほほえみぬ。

       三

奥様これ、どこへござらっしゃる。」
 と不意に背後うしろより呼留められ、人は知らずと忍び出でて、今しもようやく戸口にいたれる、お通はハッと吐胸とむねをつきぬ。
 されどもかれは聞かざる真似して、手早くじょうを外さんとなしける時、手燭てしょく片手に駈出かけいでて、むずと帯際を引捉ひっとらえ、掴戻つかみもどせる老人あり。
 頭髪あたかも銀のごとく、額げて、ひげまだらに、いといかめしき面構つらがまえの一癖あるべく見えけるが、のぶとき声にてお通をしかり、「夜夜中よなかあてこともねえ駄目なこッた、断念あきらめさっせい。三原伝内が眼張がんばってれば、びくともさせるこっちゃあねえ。眼をくらまそうとってそりゃ駄目だ。何の戸外おもてへ出すものか。こっちへござれ。ええ、こっちござれとうに。」
 お通はきっと振返り、
「お放し、私がちょっと戸外おもてへ出ようとするのを、何のお前がお構いでない、お放しよ、ええ! お放してば。」
「なりましねえ。麻畑の中へ行って逢おうたッて、そうはかねえ。素直にこっちへござれッていに。」
 お通は肩を動かしぬ。
「お前、主人をどうするんだえ。ちっと出過ぎやしないかね。」
「主人も糸瓜へちまもあるものか、おれは、何でも重隆様のいいつけ通りにきっと勤めりゃそれでいのだ。お前様めえさまが何と謂ったって耳にも入れるものじゃねえ。」
邪険じゃけんも大抵にするものだよ。お前あんまりじゃないかね。」
 とお通は黒くつややかな瞳をもって老夫の顔をじろりと見たり。伝内はビクともせず、
「邪険でも因業いんごうでも、吾、何にも構わねえだ。旦那様のおっしゃる通りきっと勤めりゃそれで可いのだ。」
 威をもって制することならずと見たる、お通は少しく気色を和らげ、
「しかしねえ、お前、そこには人情というものがあるわね。まあ、考えてみておくれ。一昨日おとといの晩はじめて門をおたたきなすってから、今夜でちょうど三晩の間、むこうの麻畑の中に隠れておいでなすって、めしあがるものといっちゃ、一粒の御飯もなし、内に居てさえひどいものを、ま、ぶよでどんなだろうねえ。脱営をなすったッて。もう、お前も知ってる通り、今朝ッからどの位、おしらべが来たか知れないもの、おつかまりなさりゃそれッきりじゃあないか。何の、ちょっとぐらい顔を見せたからって、見たからって、お前、この夜中だもの、ね、お前この夜中だもの、旦那に知れッこはありゃしないよ。でもそれでも料簡りょうけんがならなけりゃお前でも可い、お前でも可いからね、実はあの隠れ忍んで、ようようこしらえたこの召食事あがるものをそっと届けて来ておくれ、よ、後生だよ。私に一目逢おうとってその位に辛抱遊ばす、それを私の身になっちゃあ、ま、どんなだろうとお思いだ。え、後生だからさ、もう、私ゃ居ても、っても、居られやしないよ。後生だからさ、ちょっと届けて来ておくれなね。」
 伝内はただこうべるのみ。
「何を謂わッしても駄目なこんだ。そりゃ、は、とても駄目でござる。こんなことがあろうと思わっしゃればこそ、旦那様が扶持ふちい着けて、お前様めえさまの番をさして置かっしゃるだ。」
 お通はいとも切なき声にて、
「さ、さ、そのことは聞えたけれど……ああ、何といって頼みようもない。一層お前、わ、私の眼をつぶしておくれ、そうしたら顔を見る憂慮きづかいもあるまいから。」
「そりゃ不可いけねえだ。何でも、は、お前様めえさまに気を着けて、のみにもささせるなという、おっしゃりつけだアもの。眼を潰すなんてあてごともない。飛んだことをいわっしゃる。それにしてもお前様眼が見えねえでも、口が利くだ。何でも、はあ、一切、男と逢わせることと、話談はなしをさせることがならねえという、旦那様のおっしゃりつけだ。断念あきらめてしまわっしゃい。何といっても駄目でござる。」
 お通は胸も張裂くばかり、「ええ。」と叫びて、身を震わし、肩をゆりて、
「イ、一層、殺しておしまいよう。」
 伝内は自若として、
「これ、またあんな無理を謂うだ。蚤にも喰わすことのならねえものを、何として、は、殺せるこんだ。さ駄々をねねえでこちらへござれ。ひどい蚊だがのう。お前様アくわねえか。」
「ええ、蚊がくうどころのことじゃないわね。お前もあんまり因業いんごうだ、因業だ、因業だ。」
「なにその、いわっしゃるほど因業でもねえ。このをめざしてからに、何遍も探偵がって来るだ。はい、麻畑と謂ってやりゃ、即座に捕まえられて、おれも、はあ、の目も合わさねえで、お前様を見張るにも及ばずかい、御褒美ももらえるだ。けンどもが、何も旦那様あ、訴人をしろという、いいつけはしなさらねえだから、おら知らねえで、押通おっとおしやさ。そンかわりにゃあまた、いいつけられたことはハイ一寸もずらさねえだ。何でも戸外おもてへ出すことはなりましねえ。腕ずくでも逢わせねえから、そう思ってくれさっしゃい。」
 お通はわっと泣出なきいだしぬ。
 伝内は眉をひそめて、
「あれ、泣かあ。いつもねえことにどうしただ。お前様婚礼の晩床入もしねえでその場ッからこっちへ追出おんだされて、今じゃ月日も一年越、男猫も抱かないで内にばかり。敷居もまたがすなといういいつけで、吾に眼張がんばっとれというこんだから、おりゃ、お前様の、心が思いやらるるで、見ているが辛いでの、どんなに断ろうと思ったか知ンねえけんど、今の旦那様三代めで、代々養なわれた老夫じじいだで、横のものをば縦様たてにしろと謂われた処で従わなけりゃなんねえので、かしこまったことは畏ったが、さてお前様がさぞ泣続けるこんだろうと、生命いのちが縮まるように思っただ。すると案じるよりうむが安いで、長い間こうやって一所に居るが、お前様の断念あきらめの可いには魂消たまげたね。思いなしか、気のせいか、段々やつれるようには見えるけんど、ついぞ膝も崩した事なし、整然ちゃんとして威勢がよくって、吾、はあ、ひとりでに天窓あたまが下るだ、はてここいらは、田舎も田舎だ。どこに居た処で何のたのしみもねえ老夫じじいでせえ、つまらねえこったと思って、気が滅入めいるに、お前様は、えらいひとだ。面壁イ九年とやら、悟ったものだとあ折っていたんだがさ、薬袋やくたいもないことがいて来て、お前様ついぞ見たこともねえ泣かっしゃるね。御心中のウ察しねえでもねえけんどが、旦那様にゃあ、代えられましねえ。はて、お前様のようでもねえ。断念あきらめてしまわっしゃい。どのみちこう謂い出したからにゃいくら泣いたってそりゃ駄目さ。」
 しかり親仁おやじのいいたるごとく、お通は今に一年間、幽閉されたるこの孤屋ひとつやに処して、涙に、口に、はた容儀、心中のその痛苦を語りしこと絶えてあらず。修容正粛ほとんど端倪たんげいすべからざるものありしなり。されど一たび大磐石の根の覆るや、小石の転ぶがごときものにあらず。三昼夜麻畑の中に蟄伏ちっぷくして、一たびその身に会せんため、一りゅういいをだに口にせで、かえりて湿虫のえばとなれる、意中の人の窮苦には、泰山といえども動かでむべき、お通は転倒てんどうしたるなり。
「そんなに解っているのなら、ちょっとの間、大眼おおめに見ておくれ。」
 と前後も忘れて身をあせるを、伝内いささかも手をゆるめず、
「はて、肯分ききわけのねえ、どういうものだね。」
 お通は涙にむせいりながら、
「ええ、肯分がなくッても可いよ、お放し、放しなってば、放しなよう。」
「是非とも肯かなけりゃ、うぬ、ふン縛って、動かさねえぞ。」
 と伝内は一呵いっかせり。
 うべしこそ、近藤は、執着しゅうじゃくの極、婦人おんなをして我に節操を尽さしめんか、終生空閨くうけいを護らしめ、おのれ一分時もそのそばにあらずして、なおよく節操を保たしむるにあらざるよりは、我に貞なりとはいうことを得ずとなし、はじめよりお通の我を嫌うこと、蛇蝎だかつもただならざるを知りながら、あたかもかれ魅入みいりたらんごとく、進退すきなく附絡つきまといて、遂にお通と謙三郎とが既に成立せる恋を破りて、おのれ犠牲いけにえを得たりしにもかかわらず、従兄妹いとこ同士が恋愛のいかに強きかを知れるより、嫉妬しっとのあまり、奸淫かんいんの念を節し、当初婚姻のよりして、ふすまをともにせざるのみならず、一たびも来りてその妻を見しことあらざる、孤屋ひとつやに幽閉の番人として、この老夫おやじをばえらびたれ。お通はむなく死力を出して、瞬時伝内とすまいしが、風にも堪えざるかよわき婦人おんなの、うきにやせたる身をもって、いかで健腕に敵し得べき。
 手もなく奥に引立てられて、そのままそこに押据えられつ。
 たといいかなる手段にても到底この老夫おやじをして我に忠ならしむることのあたわざるをお通は断じつ。激昂げっこうの反動はいたく渠をして落胆せしめて、お通ははりもなく崩折くずおれつつ、といきをつきて、悲しげに、
老夫じいや、世話を焼かすねえ。堪忍しておくれ、よう、老夫や。」
 と身を持余せるかのごとく、ひじを枕に寝僵ねたおれたる、身体からだは綿とぞ思われける。
 伝内はこの一言ひとことを聞くとひとしく、窪める両眼に涙を浮べ、一座退すさりて手をこまぬき、こぶしを握りてものいわず。鐘声遠く夜は更けたり。万籟ばんらい天地声なき時、かどの戸をかすかに叩きて、
「通ちゃん、通ちゃん。」
 と二声呼ぶ。
 お通はその声を聞くや否や、弾械はじきのごとく飛起きて、きっと片膝を立てたりしが、伝内の眼に遮られて、答うることをせざりき。
 戸外おもてにてはことば途絶え、内をうかが気勢けはいなりしが、
「通ちゃん、これだけにしても、逢わせないから、所詮あかないとあきらめるが……」
 呼吸いきたゆげに途絶え途絶え、隙間をれて聞ゆるにぞ、お通は居坐いずまい直整ととのえて、畳に両手をつかえつつ、行儀正しく聞きいたる、せな打ふるえ、髪ゆらぎぬ。
「実はね、叔母さんが、謂うから、仕方がないように、いっていたけれど、逢いたくッて、実はね、私が。」
 といいかかれる時、犬二三頭高くえて、謙三郎を囲めるならんか、ッ叱ッと追うが聞えつ。
 更に低まりたる音調の、風なき夜半よわに弱々しく、
「実はね、叔母さんに無理を謂って、逢わねばならないようにしてもらいたかった。だからね、私にどんなことがあろうとも叔母さんが気にかけないように。」
 と謂う折しもすさまじく大戸にぶつかる音あり。
「あ、痛。」
 と謙三郎の叫びたるは、足やまれし、手やかけられし、犬の毒牙どくがにかかれるならずや。あとは途ぎれてことばなきに、お通はあるにもあられぬ思い、思わずって駈出かけいでしが、肩肱いかめしく構えたる、伝内を一目見て、あおくなりて立竦たちすくみぬ。
 これを見、彼を聞きたりし、伝内は何とかしけむ、つと身を起して土間に下立おりたち、ハヤ懸金かけがねに手を懸けつ。
「ええ、た、た、たまらねえたまらねえ、一か八かだ、逢わせてやれ。」
 とがたりと大戸引開けたる、トタンに犬あり、さっ退きつ。
 懸寄るお通を伝内は身をもて謙三郎にへだてつつ、謙三郎のよろめきながら内にらんとあせるを遮り、
「うんや、そう[#「そう」は底本では「さう」]やすやすとはれねえだ。旦那様のいいつけで三原伝内が番するうちは、敷居もまたがすこっちゃあねえ。たって入るならおれを殺せ。さあ、すっぱりとえぐらっしゃい。ええ、何を愚図ぐず々々、もうお前様方めえさまがたのように思いつめりゃ、これ、人一人殺されねえことあねえはずだ。吾、はあ、自分で腹あ突いちゃあ、旦那様に済まねえだ。済まねえだから、死なねえだ、死なねえうちは邪魔アするだ。この邪魔物を殺さっしゃい、七十になる老夫おやじだ。殺しおしくもねえでないか。さあ、やらっしゃい。ええ! らちのあかぬ。」
 と両手に襟を押開けて、仰様のけざま咽喉仏のどぼとけを示したるを、謙三郎はまたたきもせで、ややしばらくみつめたるが、銃剣一閃いっせんし、やみを切って、
「許せ!」
 という声もろとも、咽喉のんど白刃しらはを刺されしまま、伝内はハタとたおれぬ。
 同時に内に入らんとせし、謙三郎は敷居につまずき、土間に両手をつきざまに俯伏うつぶしになりて起きも上らず。お通はあたかも狂気のごとく、謙三郎に取縋とりすがりて、
「謙さん、謙さん、私ゃ、私ゃ、顔が見たかった。」
 と肩に手を懸け膝にいだける、折から靴音、剣摩のひびき。五六名どやどやと入来いりきたりて、正体もなき謙三郎をお通の手より奪い取りて、有無を謂わせず引立ひったつるに、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやとばかり跳起はねおきたるまま、茫然として立ちたるお通の、歯をくいしばり、瞳を据えて、よろよろとたおれかかれる、肩を支えて、腕をつかみて、
うぬ、どうするか、見ろ、太い奴だ。」
 これ婚姻の当夜以来、お通がいまだ一たびも聞かざりしうついかれる良人の声なり。

       四

 出征に際して脱営せしと、人を殺せし罪とをもて、勿論謙三郎は銃殺されたり。
 謙三郎の死したるのちも、清川の家における居馴れし八畳のかれが書斎は、依然として旧態をあらためざりき。
 秋の末にもなりたれば、籐筵とうむしろに代うるに秋野のにしき浮織うきおりにせる、花毛氈はなもうせんをもってして、いと華々しく敷詰めたり。
 床なる花瓶の花もしぼまず、西向の※(「木+靈」、第3水準1-86-29)れんじもとなりし机の上も片づきて、すずりふたちりもおかず、座蒲団ざぶとんを前に敷き、かたわらなる桐火桶きりひおけ烏金しゃくどう火箸ひばしを添えて、と見ればなかに炭火もけつ。
 たんのかくの茶盆の上には幾個の茶碗を俯伏うつぶせて、菓子をりたる皿をも置けり。
 机の上には一葉の、謙三郎の写真を祭り、あたりのふすまを閉切りたれば、さらでも秋の暮なるに、一室しんとほのあかるく四隅はようよう暗くなりて、ものの音さえ聞えざるに、火鉢に懸けたる鉄瓶の湯気のみ薄く立のぼりて、湯のたぎる音しずかなり。折から彼方かなたより襖を明けつ。一脈の風の襲入おそいいりて、立昇る湯気のなびくと同時に、陰々たるこの書斎をば真白き顔ののぞきしが、
「謙さん。」
 と呼び懸けつ。もすそすらすら入りざま、ぴたと襖を立籠たてこめて、へや中央なかばに進み寄り、愁然しゅうぜんとして四辺あたり※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまわし、坐りもやらず、おとがいを襟にうずみて悄然しょうぜんたる、お通のおもかげやつれたり。
 やがて桐火桶の前に坐して、亡き人の蒲団をけつつ、そのそば崩折くずおれぬ。
「謙さん。」
 とまた低声こごえに呼びて、もの驚きをしたらんごとく、肩をすぼめて首低うなだれつ。鉄瓶にそと手を触れて、
「おお、よく沸いてるね。」
 と茶盆に眼を着け、その蓋を取のけ、ひややかなる吸子きゅうすの中を差覗さしのぞき、打悄うちしおれたる風情にて、
貴下あなた、お茶でも入れましょうか。」
 と写真を、じっとみまもりしが、はらはらと涙をこぼして、その後はまたものいわず、深きおもいに沈みけむ、身動きだにもなさざりき。
 落葉さらりと障子を撫でて、夜はようやく迫りつつ、あるかなきかのお通の姿も黄昏たそがれの色におおわれつ。炭火のじょうの動く時、いかにしてか聞えつらむ。
「ツウチャン。」
 とお通を呼べり。
 再び、
「ツウチャン。」
 とお通を呼べり。お通は黙想の夢より覚めて、声するかたきっと仰ぎぬ。
「ツウチャン。」
 とまた繰返せり。お通はうかうかと立起たちあがりて、一歩を進め、二歩をき、椽側にで、庭に下り、開け忘れたりし裏の非常口よりふらふらと立出でて、いずこともなく歩み去りぬ。
 かくて幾分時のその間、足のままに※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまよえりし、お通はふと心着きて、
「おや、どこへ来たんだろうね。」
 とその身みずからをあやしみたる、お通は見るより色を変えぬ。
 ここぞ陸軍の所轄に属する埋葬地のあたりなりける。
 銃殺されし謙三郎もまた葬られてここにあり。
 かのよさ、お通は機会を得て、一たび謙三郎と相抱き、互に顔をも見ざりしに、意中の人は捕縛されつ。
 その時既に精神的絶え果つべかりし玉の緒を、医療の手にて取留められ、くるともなく、死すにもあらで、やや二ヶ月を過ぎつるのち、一日重隆のお通を強いて、ともに近郊に散策しつ。
 小高き丘に上りしほどに、ふと足下あしもとに平地ありて広袤こうぼう一円十町余、その一端には新しき十字架ありて建てるを見たり。
 お通は見る眼も浅ましきに、良人はあらかじめ用意やしけむ、従卒に持って来させし、床几しょうぎをそこに押並べて、あえてお通を抑留して、見る目を避くるを許さざりき。
 武歩たちまち丘下きゅうかに起りて、一中隊の兵員あり。樺色かばいろの囚徒の服着たる一個の縄附をさしはさみて眼界近くなりけるにぞ、お通は心から見るともなしに、ふとその囚徒を見るや否や、座右ざうの良人を流眄ながしめに懸けつ。かつて「どうするか見ろ」と良人がいいし、それは、すなわちこれなりしよ。お通は十字架を一目見てしだに、なお且つ震いおののける先のさまには引変えて、見る見る囚徒が面縛めんばくされ、射手の第一、第二弾、第三射撃のひびきとともに、囚徒が固く食いしぼれる唇をもれる鮮血の、細く、長くその胸間に垂れたるまで、お通はまたたきもせずみまもりながら、手も動かさずなりも崩さず、石に化したるもののごとく、一筋二筋頬にかかれる、後毛おくれげだにも動かさざりし。
 銃殺全く執行されて、硝烟しょうえんの香のせたるまで、尉官は始終お通の挙動に細かく注目したりけるが、心地げにひげひねりて、
「勝手に節操を破ってみろ。」
 と片頬に微笑を含みてき。お通はその時あおくなりて、
「もう、破ろうにも破られません。しかし死、死ぬことは何時なんどきでも。」
 尉官はこれを聞きもあえず、
「馬鹿。」
 と激しくいいすくめつ。お通のうなじるるを見て、
「従卒、うちまで送ってやれ。」
 命ぜられたる従卒は、お通がみずから促したるまで、恐れてつことをだにせざりしなり。
 かくてその日の悲劇は終りつ。
 お通は家に帰りてより言行ほとんど平時つねのごとく、あるいは泣き、あるいは怨じて、尉官近藤の夫人たる、風采ふうさいと態度とを失うことをなさざりき。
 しかりしのち、いまだかつて許されざりし里帰さとがえりを許されて、お通は実家に帰りしが、母の膝下しっかきたるとともに、張詰めし気のゆるみけむ、かれはあどけなきものとなりて、泣くも笑うも嬰児あかごのごとく、ものぐるおしきていなるより、一日のばしにいいのばしつ。母はむすめを重隆のもとに返さずして、一月あまりを過してき。
 されば世に亡き謙三郎の、今も書斎にいますがごとく、且つ掃き、且つぬぐい、机を並べ、花を活け、茶をせんじ、菓子を挟むも、みなこれお通が堪えやらず忍びがたなき追慕の念の、その一端をもらせるなる。母はむすめの心を察して、その挙動のほとんど狂者のごときにもかかわらず、制し、且つ禁ずることを得ざりしなり。

       五

 お通は琵琶ぞと思いしなる、名を呼ぶ声にさまよい出でて、思わず謙三郎の墳墓なる埋葬地の間近に来り、心着けば土饅頭どまんじゅうのいまだ新らしく見ゆるにぞ、激しく往時を追懐して、無念、愛惜あいじゃく、絶望、悲惨、そのひとつだもなおよく人を殺すに足る、いろいろの感情に胸をうたれつ。就中なかんずく重隆が執念しゅうねき復讐のくわだてにて、意中の人の銃殺さるるを、目前我身に見せしめ、当時の無念禁ずるあたわず。婦人おんなの意地と、はりとのために、勉めて忍びし鬱憤うっぷんの、幾十倍のいきおいをもって今満身の血をあぶるにぞ、おもては蒼ざめくれないの唇白歯しらはにくいしばりて、ほとんどその身を忘るる折から、見遣る彼方かなた薄原すすきはらより丈高き人物あらわれたり。
 濶歩かっぽ埋葬地の間をよぎりて、ふと立停たちどまると見えけるが、つかつかと歩をうつして、謙三郎の墓にいたり、足をあげてハタと蹴り、カッパとつばをはきかけたる、傍若無人の振舞の手に取るごとく見ゆるにぞ、意気激昂げきこうして煙りも立たんず、お通はいかで堪うべき。
 駈寄る婦人おんな跫音あしおとに、かの人物は振返りぬ。これぞ近藤重隆なりける。
 かれは旅団の留守なりし、いま山狩の帰途かえるさなり。ハタと面を合せる時、相隔ること三十歩、お通がその時の形相はいかにすさまじきものなりしぞ尉官は思わず絶叫して、
「殺す! おれを、殺す※[#感嘆符三つ、214-10]
 というよりはやく、弾装たまごめしたる猟銃を、おののきながら差向けつ。
 矢や銃弾もあたらばこそ、轟然ごうぜん一射、銃声の、雲を破りて響くと同時に、尉官はあっと叫ぶと見えし、お通がまげを両手につかみて、両々動かざるもの十分時、ひとしく地上にかさなり伏せしが、一束の黒髪はそのまま遂にたざりし、尉官が両の手に残りて、ひょろひょろと立上れる、お通の口は喰破れる良人の咽喉のんどの血に染めり。渠はその血を拭わんともせで、一足、二足、三足ばかり、謙三郎の墓に居寄りつつ、裏がれたる声いと細く、
「謙さん。」
 といえるがまま、がッくり横にたおれたり。
 月青く、山黒く、白きものあり、空を飛びて、かたえの枝に羽音をとどめつ。葉を吹く風のにつれて、
「ツウチャン、ツウチャン、ツウチャン。」
 と二たび三たび、こだまを返して、琵琶はしきりに名を呼べり。琵琶はしきりに名を呼べり。
明治二十九(一八九六)年一月





底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 別卷」岩波書店
   1976(昭和51)年3月26日発行
初出:「国民之友」
   1896(明治29)年1月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年7月3日作成
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