神鑿
泉鏡太郎
濡色を
含んだ
曙の
霞の
中から、
姿も
振もしつとりとした
婦を
肩に、
片手を
引担ぐやうにして、
一人の
青年がとぼ/\と
顕はれた。
色が
真蒼で、
目も
血走り、
伸びた
髪が
額に
被つて、
冠物なしに、
埃塗れの
薄汚れた、
処々釦の
断れた
背広を
被て、
靴足袋もない
素跣足で、
歩行くのに
蹌踉々々する。
其が
婦を
扶け
曳いた
処は、
夜一夜辿々しく、
山路野道、
茨の
中を


つた
落人に、
夜が
白んだやうでもあるし、
生命懸の
喧嘩から
慌しく
抜出したのが、
勢が
尽きて
疲果てたものらしくもある。が、
道行にしろ、
喧嘩にしろ、
其の
出て
来た
処が、
遁げるにも
忍んで
出るにも、
背後に、
村、
里、
松並木、
畷も
家も
有るのではない。
山を
崩して、
其の
峯を
余した
状に、
昔の
城趾の
天守だけ
残つたのが、
翼を
拡げて、
鷲が
中空に
翔るか、と
雲を
破つて
胸毛が
白い。と
同じ
高さに
頂を
並べて、
遠近の
峯が、
東雲を
動きはじめる
霞の
上に
漾つて、
水紅色と
薄紫と
相累り、
浅黄と
紺青と
対向ふ、
幽に
中に
雪を
被いで、
明星の
余波の
如く
晃々と
輝くのがある。……
此の
山中を、
誰と
喧嘩して、
何処から
駆落して
来やう? ……
婦は、と
云ふと、
引担がれた
手は
袖にくるまつて、
有りや、
無しや、
片手もふら/\と
下つて、
何を
便るとも
見えず。
臘に
白粉した、
殆ど
血の
色のない
顔を
真向に、ぱつちりとした
二重瞼の
黒目勝なのを
一杯に

いて、
瞬もしないまで。
而して
男の
耳と、
其の
鬢と、すれ/\に
顔を
並べた、
一方が
小造な
方ではないから、
婦の
背が
随分高い。
然うかと
思へば、
帯から
下は、げつそりと
風が
薄く、
裙は
緊つたが、ふうわりとして
力が
入らぬ。
踵が
浮いて、
恁う、
上へ
担ぎ
上げられて
居さうな
様子。
二人とも、それで、やがて
膝の
上あたりまで、
乱れかゝつた
枯蘆で
蔽はれた
上を、
又其の
下を
這ふ
霞が
隠す。
最も
路のない
処を
辿るのではなかつた。
背後に、
尚ほ
覚果てぬ
暁の
夢が
幻に
残つたやうに、
衝と
聳へた
天守の
真表。
差懸つたのは
大手道で、
垂々下りの
右左は、
半ば
埋れた
濠である。
空濠と
云ふではない、が、
天守に
向つた
大手の
跡の、
左右に
連なる
石垣こそまだ
高いが、
岸が
浅く、
段々に
埋れて、
土堤を
掛けて
道を
包むまで
蘆が
森をなして
生茂る。
然も、
鎌は
長に
入れぬ
処、
折から
枯葉の
中を
透いて、どんよりと
霞の
溶けた
水の
色は、
日の
出を
待つて、さま/″\の
姿と
成つて、
其から
其へ、ふわ/\と
遊びに
出る、
到る
処の、あの
陽炎が、こゝに
屯したやうである。
其の
蘆がくれの
大手を、
婦は
分けて、
微吹く
朝風にも
揺らるゝ
風情で、
男の
振つくとゝもに
振ついて
下りて
来た。……
若しこれで
声がないと、
男女は
陽炎が
顕はす、
其の
最初の
姿であらうも
知れぬ。
が、
青年が
息切れのする
声で、
言ふのを
聞け。
「
寐るなんて、……
寐るなんて、
何うしたんだらう。
真個、
気が
着いて
自分でも
驚いた。
白んで
来たもの。
何時の
間に
夜が
明けたか
些とも
知らん。お
前も
又何だ、
打つてゞも
揺つてゞも
起せば
可いのに――しかし
疲れた、
私は
非常に
疲れて
居る。お
前に
分れてから
以来、まるで
一目も
寐ないんだから。……」
とせい/\、
肩を
揺ると、
其の
響きか、
震へながら、
婦は
真黒な
髪の
中に、
大理石のやうな
白い
顔を
押据えて、
前途を
唯熟と
瞻る。
「
考へると、
能くあんな
中で
寐られたものだ。」
と
男は
尚ほ
半ば
呟くやうに、
「
言つて
見れば
敵の
中だ。
敵の
中で、
夜の
明けるのを
知らなかつたのは
実に
自分ながら
度胸が
可い。……いや、
然うではない、
一時死んだかも
分らん。
然うだ、
死んだと
言へば、
生死の
分らなかつた、お
前の
無事な
顔を
見た
嬉しさに、
張詰めた
気が
弛んで
落胆して、
其つ
切に
成つたんだ。
嘸お
前は、
待ちに
待つた
私と
云ふものが、
目の
前に
見えるか
見えないに、だらしなく、ぐつたりと
成つて
了つて、どんなにか、
頼みがひがないと
怨んだらう。
真個、
安心の
余り
気絶したんだと
断念めて、
許してくれ。
寐たんぢやない。
又、
何うして
寐られる……
実は
一刻も
疾く、
此の
娑婆へ
連出すために、お
前の
顔を
見たらば
其の
時!
壇を
下りるなぞは
間弛ツこい。
天守の
五階から
城趾へ
飛下りて
帰らう!
其の
意気込みで
出懸けたんだ、
実際だよ。
が、
彼の
頂上から
飛だ
日には、
二人とも
五躰は
微塵だ。
五躰が
微塵ぢや、
顔も
視られん、
何にも
成らない。
然うすりや、
何を
救ふんだか、
救はれるんだか、……
何を
言ふんだか、はゝはゝ。」
と
取留めもなく
笑つた
拍子に、
草を
踏んだ
爪先下りの
足許に
力が
抜けたか、
婦を
肩に、
恋の
重荷の
懸つた
方の
片膝をはたと
支く、トはつと
手を
離すと
同時に、
婦の
黒髪は
頬摺れにづるりと
落ちて、
前伏に、
男の
膝へ
背が
偃つて、
弱腰を
折重ねた。
「あつ!」と
慌しく、
青年は
其の
帯の
上へ
手を
掛けて、
「
危い。あゝ、
何て
事だ。――お
浦、」
と
言つたは
婦の
名で。
「
怪我はしないか、
何処も
痛めはしなかつたか。
可、
何ともない。」
婦が、あ、とも
言はず、
声の
無いのを、
過失はせぬ
事、と
頷いて、さあ、
起たうとすると
些とも
動かぬ。
「
起たないか、こんな
処に
長居は
無益だ。
何うした。」
と
密と
揺ぶる、
手に
従つて
揺ぶれるのが、
死んだ
魚の
鰭を
摘んで、
水を
動かすと
同じ
工合で、
此方が
留めれば
静と
成つて、
浮きも
沈みもしない
風。
はじめて
驚いた
色して、
「
何うかしたか、お
浦。はてな、
今転んだつて、
下へは
落さん、
怪我も
過失も
為さうぢやない。
何だか
正体がないやうだ。
矢張り
一時に
疲労が
出たのか。あゝ、
然う
言へば
前刻から
人にばかりものを
言はせる。
確乎してくれ、お
浦、
何うしたんだ。」
と
今は
慌しく
成つた。
青年は
矢庭に
頸を
抱き、
膝なりに
背を
向ふへ
捻廻はすやうにして、
我が
胸を
前へ
捻つて、
押仰向けた
婦の
顔。
今も
目は
塞がず、
例の
眸つて、
些の
顰むべき
悩みも
無げに、
額に
毛ばかりの
筋も
刻まず、
美しう
優い
眉の
展びたまゝ、
瞬もしないで、
其のまゝ
見据えた。
其の
顔と、
此の
時、
引返した
身動ぎに、
飜つた
褄の
乱れに、
雪のやうに
顕はれた
円い
膝頭……を
一目見るや、
「うむ、」と
一声、

と
枯蘆に
腰を
落して、
殆んど
痙攣を
起した
如く、
足を
投出してぶる/\と
震へて、
「
違つた/\。
造りものだ、
拵へものだ、
彫像だ。
昨夜持つて
行つた
形代だ、こりや、……おゝ。」
戦く
手に、
婦の
胸を
確乎と
圧せば、
膨らかな
襟のあたりも、
掌に
堅く
且つ
冷たいのであつた。
「
何だ、
又これを
持つて
帰るほどなら、
誰が
命がけに
成つて、
這麼ものを
拵へやう。……
誑しやあがつたな!
山猫め、
狐め、
野狸め。」
と
邪慳に、
胸先を
取つて
片手で
引立てざまに、
渠は
棒立ちにぬつくり
立つ。
可憐や
艶麗な
女の
姿は、
背筋を
弓形、
裳を
宙に、
縊られた
如くぶらりと
成る。
青年は
半狂乱の
躰で、
地韜を
踏んで
歯噛をした。
「おのれえ、
魔でも、
鬼でも、
約束を
違へる、と
言ふ
不都合があるか、
何と
言つた、
何と
言つた。」
と
詰るが
如くに
掠れ
声して、
手を
握つて、
空を
打つて、
天守の
屋根を
睨んで
喚いた。
大手筋を
下切つた
濠端に――まだ
明果てない、
海のやうな、
山中の
原を
背後にして――
朝虹に
鱗したやうに
一方の
谷から
湧上る
向ふ
岸なる
石垣越に、
其の
天守に
向つて
喚く……
喚くが、しかし、
一騎朝蒐で、
敵を
詈る
勇ましい
様子はなく、
横歩行に、ふら/\して、
前へ
出たり、
退つたり、
且つ
蹌踉めき、
且つ
独言するのである。
「
畜生、
人の
女房を
奪つた
畜生、
魔物に
義理はあるまいが、
約束を
違へて
済むか、……
何と
言つて
約束した――
婦の
彫像を
拵へろ、
其の
形代を
持つて
来い。お
浦を
返すと
言つたのを
忘れたか、
忘れたのか。」
と
其の
握拳で、
己が
膝を
礑と
打つたが、
力余つて
背後へ
蹌踉ける、と
石垣も
天守も
霞に
揺れる。
「
待てよ。
雖然、
自分の
製作へた
此の
像だ、これが、もし
価値に
積つて、あの、お
浦より、
遥に
劣つて
居たら
何うする。まるで
取替へる
価がないと
言へば
其までだ、――あゝ、
其がために、
旧通りお
浦を
隠して、
此の
木像を
突返したのか。
己は
夢中で、
此を
恋しい
婦だ、と
思つて、うか/\
抱いて
返つたのか、
然うかも
知れん。
其では、
劣作だと
言ふのだな、
駄物だ、と
言ふのだな、
劣作か、
駄物か、
此奴。」
と
首を
引向け
胸に
抱いて、
血走つた
目で
屹と
其の
顔を。
「
己が、
此の
心も
知らずに、けろりとして
済ました
面よ。おのれ
石でも、
己が
此の
心を
汲んで、
睫毛に
露も
宿さないか。
霞にも
曇らぬ
瞳は、
蒟蒻玉同然だ。――
其も
道理よ、
血も
通はない、
脉もない、
魂のない、たかゞ
木屑の
木像だ。」
と
興覚顔して、
天守を
仰いで、
又俯向き、
「
何だ、これは、
魔物が
言ひさうな
事を
己が
言ふ、
自分が
言ふ、
我と
我が
口で
詈るな。おゝ、
自然と
敵の
意を
体して、
自から、
罵倒するやうな
木像では、
前方が
約束を
遂げんのも
無理はない……
駄物、
駄物、
駄物、」
と
三舎を
避ける
足取で、たぢ/\と
後退りして、
「さあ、
恁うなれば、お
浦の
紀念の
方が
大事だ。よくも、おのれ、ぬく/\と
衣服を
着た。」と
言ふ/\

るが
如く
衣紋を
開いて
帯をかなぐり、
袖を
外すと、
柔かな
肩が
下つて、
二の
腕がふらりと
垂れる。
双の
玉の
乳房にも、
糸一条の
綾も
残さず、
小脇に
抱くや、
此の
彫刻家の
半身は、
霞のまゝに
山椿の
炎が
※[#「火+發」、U+243CB、75-4]と
搦んだ
風情。
其の
下襲ねの
緋鹿子に、
足手の
雪が
照映えて、
女の
膚は
朝桜、
白雲の
裏越す
日の
影、
血も
通ふ、と
見る
内に、
男の
顔は
蒼く
成つた。――
女の
像の
片腕が、
肱の
処から、
切れ
目赤う、さゝら
立つて
折られて
居た。
「わツ、」と
叫んで、
其の
咽喉を
掴んだまゝ、
投げ
附けやうとして
振挙げた
手の、
筋が
釣つて
棒の
如くに
衝と
挙げると、
女の
像は
鶴のやうに、ちら/\と
髪黒く、
青年の
肩越に
翼を
乱して
飜つた。
が、
其のまゝには
振飛ばさず。
濠を
越して
遥かな
石垣の
只中へも
叩きつけさうだつた
勢も
失せて――
猶予ふ
状して……ト
下を
見る
足許を、
然まで
下らず、
此方は
低い
濠の
岸の、すぐ
灰色の
水に
成る、
角組んだ
蘆の
上へ、
引上げたか、
浮べたか、
水のじと/\とある
縁にかけて、
小船が
一艘、
底つた
形は、
処がら
名も
知れぬ
大なる
魚の、がくり、と
歯を
噛んだ
白髑髏のやうなのがある。
処が
其の
小船は、
何の
時か、
向ふ
岸から
此岸へ
漕寄せたものゝ
如く、
艫を
彼方に、
舳を
蘆の
根に
乗据えた
形に
見える、……
何処の
捨小船にも、
恁う
逆に
攬つたと
言ふのは
無からう。まだ
変つた
事には、
舷を
霞が
包んで、ふつくり
浮上つたやうな
艫に
留まつて、
五位鷺が
一羽、
頬冠でも
為さうな
風で、のつと
翼を
休めて
向ふむきにチヨンと
居た。
城趾の
此の
辺は、
人里に
遠いから、
鶏の
声、
鴉の
声より、
先づ
五位鷺の
色に
夜が
明けやう。
其に
不思議は
無いが、
如何に
人を
恐れねばとて、
直ぐ
其の
鶏冠の
上で、
人一人立騒ぐ
先刻から、
造着けた
躰にきよとんとして、
爪立てた
片脚を
下ろさうともしなかつた。
此の
船の
中へ、どさりと
落した。
女の
像は
胴の
間へ
仰向けに、
肩が
舷にかゝつて、
黒髪は
蘆に
挟まり、
乳の
下から
裾へ
掛けて、
薄衣の
如く
霞が
靡けば、
風もなしに
柔かな
葉摺れの
音がそよら/\。で、
船が
一揺れ
揺れると
思ふと、
有繋に
物駭きを
為たらしい、
艫に
居た
五位鷺は、はらりと
其の
紫がゝつた
薄黒い
翼を
開いた。
開いたが、
飛びはしない、で、ばさりと
諸翼搏つと
斉しく、
俯向けに
頸を
伸ばして、あの
長い
嘴が、
水の
面へ
衝と
届くや
否や、
小船がすら/\と
動きはじめて、
音もなく
漕いで
出る。
見るものは
呆れ
果てゝ、どかと
濠端に
腰を
掛けた。
五位鷺の
働くこと。
船一艘漕ぐなれば、
蘆の
穂の
風に
散る
風情、
目にも
留まらず、ひら/\と
上下に
翼を
煽る。と
船の
方は、
落着済まして
夢の
空を
辷るやう、……やがて
汀を
漕ぎ
離す。
蘆の
枯葉をぬら/\と
蒼ぬめりの
水が
越して、
浮草の
樺色まじりに、
船脚が
輪に
成る
頃の、
五位鷺の
搏ちやう。
又一しきり
烈しく
急に、
滑かな
重い
水に
響いて、
鳴渡るばかりと
成つたが。
余りの
労働、
羽の
間に
垂々と、
汗か、
※[#「さんずい+散」、U+6F75、76-16]か、
羽先を
伝つて、
水へぽた/\と
落ちるのが、
血の
如く
色づいて
真赤に
溢れる。……
「
火の
粉だ、
火の
粉だ。」と
濠端で、
青年が
驚き
叫んだ。
果して
血の
汗を
絞る、と
見えたは、
翼を
落ちる
火であつた。
「
飛ばつせえ
船の
人、
船の
人、
飛ばつせえ、
飛込むのだえ!」
と
野良調子の
高声を
上げて、
広野の
霞に
影を
煙らせ、
一目散に
駆附けるものがある。
驚駭のあまり
青年は、
殆ど
無意識に、
小脇に
抱いた、
其の
一襲ねの
色衣を、
船の
火に
向つて
颯と
投げる、と
水へは
落ちたが、
其処には
届かず、
朱を
流したやうに
火の
影を
宿す
萍に
漂ふて、
袖を
煽り、
裳を
開いて、
悶へ
苦しむが
如くに
見えつゝ、
本尊たる
女の
像は、
此の
時早く
黒煙に
包まれて、
大な
朱鷺の
形した
一団の
燃え
立つ
火が、
一羽倒に
映つて、
水底に
斉しく
宿る。
舷にも
炎が
搦んだ。
「えゝ!
飛込めい、
水は
浅い。」
と
此の
時濠端へ
駆つけたは、もつぺと
称へる
裁着やうの
股引を
穿いた
六十余りの
背高い
老爺で、
腰から
下は、
身躰が
二つあるかと
思ふ、
大な
麻袋を
提げたのを、
脚と
一所に
飛ばして
来て、
「あゝ、
埒あかぬ。」と
呟いて
落胆する。
艫の
鷺の
炎は
消えて、
船の
板は、ばらりと
開いた。
一つ
一つ、
幅広い
煙を
立てゝ、
地獄の
空に
消えて
行く、
黒い
帆のやう、――
女の
像は
影も
失せた。
「やれ、
後れた。
水は
浅いで、
飛込めば
助かつたに。――
何と
申さうやうもない、
旦那がお
連の
方でがすかの。」
青年は
肩を
揺つて、
唯大息を
吐くのであつた。
「
飛んだ
事ぢや、こんな
怪しげな
処へござつて、
素性の
知れぬ
船に
乗ると
云ふ
法があるかい。お
剰にお
前様、
五位鷺の
船頭ぢや……
狸の
拵へた
泥船より、まだ/\
危いのは
知れた
事を。」
目が
覚めた、と
言ふでもなしに、
少時すると、
青年の
瞳は
稍定まつた。
「
何、
心配には
及ばん、
船に
居たのは
活きた
人間では
無いのだから。」
木樵躰の
件の
老爺は、
没怪な
顔して、
「や、
活きた
人間で
無うて
何でがす……
死骸かね、お
前様。」
「
死骸は
酷い。……
勿論、
魔物に
突返されて、
火葬に
成つた
奴だから、
死骸も
同然なものだらう。ものだらうが、
私の
気ぢや
死骸ではなかつた。
生命のある、
価値のある、
活きたものゝ
積りだつた。
老爺さん、
今のは、
彼は、
木像だ、
製作つた
木彫の
婦なんだ。」
「
木彫の? はて、」
と
腕を
組んで、
「えい、
其は
又、
変つたもんだね。
船と
一所に
焼けたものは、
活きた
人で
無うて、
私先づ
安堵をしたでがすが、
木彫だ、と
聞けば
尚魂消る……
豪え
見事な、
宛然生身のやうだつけの。
背後の
野原さ
出て
見た
処で、
肝玉の
宿替した。――あれ
一面の
霞の
中、
火と
煙に
包まれて、
白い
手足さびいく/\
為ながら、
濠の
石垣へ
掛けて
釣し
上がるやうに
見えたゞもの。
地獄の
釜の
蓋を
取つて、
娑婆へ
吹上げた
幻燈か
思ふたよ。
尋常な、
婦の
人ほどに
見えつけ。
等身のお
祖師様もござれば
丈六の
弥陀仏も
居さつしやる。――これ
人形は、はい、
玩具箱ウ
引転返した
中からばかり
出るもんではねえで、
其の、
見事なに
不思議は
無いだが、
心配するな
木彫だ、と
言はつしやる、……お
前様が
持つて
来て、
船の
中へ
置かしつたかな。」
「
何、
打棄つたんだ。」と
青年は
口惜しさうに
言つた。
「
打棄らしつたえ、
持重りが
為たゞかね。」
とけろりとして、
目を
離れた
白い
眉をふつさり
揺る。
青年はじり/\と
寄つた。
「で、
老爺さん、
何か、
君は
活きた
人間で
無いから
安堵したと
言つたね、
今の
船には
係合でもある
人か。」
「
係合にも
何にも、
私船の
持主でがすよ。」
「
此の、
魔物。」
と
青年は、
然知つた
見得に、
後退りしながら
身構へして、
「
嬲るな。
人が
生死の
間に
彷徨ふ
処を、
玩弄にするのは
残酷だ。
貴様たちにも
釘の
折ほど
情が
有るなら、
一思ひに
殺して
了へ。さあ、
引裂け、
片手を

げ……」とはたと
睨む。
「
旦那々々、」
「
何が
旦那だ。
捕虜と
言へ、
奴隷と
呼べ、
弱者と
嘲れ。
夢か、
現か、
分らん、
俺は
迚も
貴様達に
抵抗する
力はない。
残念だが、
貴様に
向ふと
手足も
痺れる、
腰も
立たん。
が、
助け
出す
筈だつた
女房を
負つてなら……
麓の
温泉までは
愚な
事、
百里、
二百里、
故郷までも、
東京までも、
貴様の
手から
救ふためには、
飛んでも
帰るつもりで
居た。
彫像一個抱いて
歩行くに
持重りがして
成るものか! ……
何故、
様を
見ろ、
可気味だ、と
高笑ひをして
嘲弄しない。
俺が
手で
棄てたは
棄てたが、
船へ
彫像を
投げたのは、
貴様が
蹴込んだも
同然だい。」と
握つた
拳をぶる/\
震はす、
唇は
白く
戦く。
老爺は
遣瀬無い
瞬して、
「
芸もねえ、
譫けた
事を
言はつしやるな。
成程、
船を
焼いたは
悪いけんど、
蹴込んだとは、
何たる
事だの。」
「おゝ、
船を
焼いたは
貴様だな。それ
見ろ、それ
見ろ。
汝、
魔物。
山猫か、
狒々か、
狐か、
何だ!
悪魔、
女房を
奪つた
奴。せめて、
俺に、
正体を
見せてくれ。
一生の
思出だ。さあ、のつぺらぱうか、
目一つか、
汝其の
真目/\とした
与一平面は。
眉なんぞ
真白に
生しやがつて、
分別らしく
天窓の
禿げたは
何事だ。
其の
顱巻を
取れ、
恍気るな。」と
目が
逆立つて、
又じり

と
詰寄る。
老爺は
己が
面を、ぺろりと
一つ
撫下げた。
いや、
様子が
如何にも、
我が
顔ながら
不気味さうに
見えた。――
眉を
顰めて、
「ま、ま、
少え
旦那、
落着かつせえ、
気を
静めさつせえまし。……
魔物だ、
鬼だ
喚いて、
血相を
変へてござる……
何うも
見た
処、――
未だ
此の
上に
逆上らつしやるなよ――
何うやら
取逆せて
居さつしやるが、はて、」
と
上下、
天守を
七分、
青年を
三分に
見較べ、
「もの、
此処さ
城趾の、お
天守へ
上らつしやりは
為ねえかの。」
「
為ねえかぢや
無からう。
昨夜貴様に
何処で
逢つた?」
「
先づ、むゝ、
其で
分つた。」
「
分つたか。いや
昨夜は
失礼したよ、
魔物の
隊長。」
「はて、
迷惑な、
私う
魔物だと
思はつしやる。」
「
魔物で
無くて、
魔物で
無くて、
汝、
五位鷺が
漕出して、
濠の
中で
自然に
焼ける……
不思議な
船の
持主が
有るものか。」
「
成程、
何も
仔細を
知らつしやらぬお
前様は、
様子を
見ても、
此処等の
人ではござらつしやらぬ。」
「
那様な
事を
言つて
何うする、
貴様は
奪つて
行つた
俺の
女房の、
町処まで
知つてるでは
無いか。」
「
急かつしやるな。
此の
山裾の、
双六温泉へ、
湯治に
来さつせえた
人だんべいの。」
「
知れた
事を、
貴様がお
浦を
掴出した、……あの
旅籠屋に
逗留して
居る。」
「そんなら、はい、
無理はねえだ。」
と
莞爾して、
草鞋の
尖で
向直つた。
早や
煙の
余波も
消えて、
浮脂に
紅蓮の
絵も
描かぬ、
水の
其方を
眺めながら、
「あの……
木葉船はの、
丁と
自然に
動くでがすよ……
土地のものは
知つとります。で、
鷺の
船頭と
渾名するだ。それ、
見さしつた
通り、
五位鷺が
漕ぐべいがね。」
「
漕ぐのは
鷺でも
鳶でも
構はん。
漕がせるのは
人間ぢや
無いのだらう。」
余計なことを、と
投げ
調子。
「いんや、お
前様、お
天守の、」
と
声を
密めて、
「……
魔の
人が
為業なら、
同一鷺が
漕ぐにして、
其の
船は
光を
放つて、ふわ/\
雲の
中を
飛行するだ。
……たか/″\
人間の
仕事だけに、
羽の
有る
船頭を
使ふても、
水の
上を
浮いて
行くだよ。
何も
希有がらつしやるには
当らぬ。あの
船は、
私が
慰楽に
造るでがす。」
「えゝ、
拵へる、
而して
魔物では
無いと
言ふのか。」
「
随意にさつしやりませ。すつとこ
被りをした
天狗様があつて
成ろかい。
気を
静めさつしやるが
可い。
嘘だ
思ふなら、
退屈せずに
四日五日、
私が
小屋へ
来て
対向ひに
座つてござれ、ごし/\こつ/\と
打敲いて、
同一船を、
主が
目の
前で
拵へて
見せるだ。」
「ふん、」と
返事を
呑込んだが、まだ
其の
息は
発喘むのであつた。
「
何うして
作る。」
「
何うして
作る? ……つひ
一寸くら
手真似で
話されるもんではねえ。
此の
胸に、
機関を
知つとります。」
「
機関か。」
「
危険な
機関だで、
小さく
拵へて、
小児の
玩弄にも
成りましねえ。が、
親譲りの
秘伝ものだ、はツはツはツ、」
と
浮世を
忘れた
笑ひを
行る。
「お
待ち、
親譲りの
秘伝と
言ふと……」
と
言ひ
方は
迫つたが、
声の
調子は
大分静まる。
「
何も、
家伝の
秘法の
言ふて、
勿体を
附けるでねえがね……
祖父の
代から
為た
事を、
見やう
見真似に
遣るでがすよ。」
「
其ぢや、
三代船大工か。」
と
些少落着いて
青年が
聞いた。
「
何の、お
前様、
見さる
通り
二十八方仏子柑の
山間ぢや。
木を
伐出いて
谿河へ
流せば
流す……
駕籠の
渡しの
藤蔓は
編むにせい、
船大工は
要りましねえ。――
私等が
家は、
村里町の
祭礼の
花車人形。
木偶之坊も
拵へれば、
内職にお
玉杓子も
売つたでがす。
獅子頭、
閻魔様、
姉様の
首の、
天狗の
面、
座頭の
顔、
白粉も
塗れば
紅もなする、
青絵具もべつたりぢや。
そんなものさ、
甘干の
柿見たやうに、
軒へぶら
下げて
売りましつけ、……
水損、
山抜け、
御維新以来、
城趾へ
草が
生へる、
濠が
埋まる、
村も
里も
無くなりました
処へ、
路が
変つて、
旅人も
通らぬけえに、
根つから
家業に
成らんでの、
私ら、
木挽木樵も
遣る。
温泉場に
普請でも
有る
時には、
下手な
大工の
真似もする。
閑な
日には
鰌を
掬つて
暮すだが、
祖父殿は、
繁昌での、
藩主様さ
奥御殿の、お
雛様も
拵へさしたと……
其の
祖父殿はの、
山伏の
姿した
旅の
修業者が、
道陸神の
傍に
病倒れたのを
世話して、
死水を
取らしつけ……
其の
修業者に
習つた
言ひます。
轆轤首さ、
引窓から
刎ねて
出る、
見越入道がくわつと
目を
開く、
姉様の
顔は
莞爾笑ふだ、――
切支丹宗門で、
魔法を
使ふと
言ふて、お
城の
中で
殺されたとも
言へば、
行方知れずに
成つたとも
言ふ。
はじめは、
不思議な
機関を
藩主様御前で
見せい
言ふて、お
城へ
召されさしけえの、
其時拵へたのが、
五位鷺の
船頭ぢや。
それ、
船を
浮べたのは、
矢張此の
濠。」
と
言ひかけて、
水には
臨まず、
却つて
空を
指した
老爺の
指は、
一の
峰と
相対つて、
霞の
高い、
天守の
棟に
並んで
見えた。
「これは、
其の
三重濠で、
二の
丸の
奥でがす。お
殿様は、
継上下の
侍方、
振袖の
腰元衆づらりと
連れて
出て
御見物ぢや。
『
町人、
此の
船を
何うするな。』
『
御意にござります。
舳に
据えました
其の
五位鷺が
翼を
帆に
張り、
嘴を
舵に
仕りまして、
人手を
藉りませず
水の
上を
渡りまする。』
と
申上げたて。……なれども
唯差置いたばかりでは
鷺が
翼を
開かぬで、
人が
一人乗る
重量で、
自然から
漕いで
出る。……
一体が、
天上界の
遊山船に
擬らへて、
丹精籠めました
細工にござるで、
御斉眉の
中から
天人のやうな
上
御一方、と
望んだげな。
当時飛鳥も
落ちると
言ふ、お
妾が
一人乗つて
出たが、
船の
焼出したのは、
主が
見さしつた
通りでがす。――
其の
妾と
言ふのが、
祖父殿の
許嫁で
有つたとも
言へば、
馴染だとも
風説したゞね。
処で、
綾錦へ
燃えつく
時、
祖父殿が
手を
挙げて、
『
飛込め、
助かる。』
と
我鳴らしつけが、お
妾は
慌てもせず、
珠の
簪を
抜くと、
舷から
水中へ
投込んで、
颯と
髪の
毛を
捌いたと
思へ。……
胴の
間へ
突伏して
動かぬだ。
裸で
飛込んだ、
侍方、
船に
寄りは
寄つたれども、
燃え
立つ
炎で
手が
出せぬ。
漸との
思ひで
船を
引くら
返した
時分には、
緋鯉のやうに
沈んだげな。――これだもの、お
前様、
祖父殿は
家へ
帰りごと
有るめえがね。
お
剰に
家中、
無事なものは
一人も
無かつた。が
不思議に
私だけが
助りました。
御時世が
変つてから、
古葛籠の
底で
見つけました。
祖父殿が
工夫の
絵図面、
暇にあかして
遣つて
見て、
私が
先づ
乗つて
出たが、
案の
定燃出したで、やれ、
人殺し、と……はツはツはツ、
水へ
入つて
泳いで
遁げた。
困つた
事には、
私が
腹からの
工夫でねえでの、
焼くまいやうに
手を
抜くと、
五位鷺が
動かぬ。
濠の
真中で
燃え
出すを
合点の
向には、
幾度も
拵へて
乗せて
進ぜる。
其処で、へい、
麓のものは
承知して、
私がことを
鷺の
船頭、
埒もない
芸当だあ。」
と
蹲んで、
腰の
煙草入を
捻り
出す。
聞くものは、
目を
閉ぢて
恍惚とした。
「
処が、
聞かつせえまし。」
と、すぱ/\と
煙を
吹かす。
近い
煙草に
遠霞で、
天守を
包んだ
鬱蒼たる
樹立の
蔭が
透いて
来る。
「
段々村が
遠退いて、お
天守が
寂しく
成ると、
可怪可恐い
事が
間々有るで、あの
船も
魔ものが
漕いで
焼くと、
今お
前様が
疑はつせえた
通り……
私が
拵へものと
思ひながら、
不気味がつて、
何か
魔の
人が
仕掛けて
置く、
囮のやうに
間違へての。
谿河を
流す
筏の
端へ
鴉が
留まつても
気に
為るだよ。
誰も
来て
乗らぬので、
久い
間雨曝しぢや。
船頭も
船も
退屈をした
処、
又これが
張合で、
私も
手遊が
拵へられます。
旦那、
嘸お
前様吃驚さつせえたらうが、
前刻船と
一所に、
白い
裸骸の
人さ
焼けるのを
見た
時は、やれ、
五十年百年目には、
世の
中に
同じ
事が
又有るか、と
魂消ましけえ。
其で
無うてさへ、
御時節の
有難さに、
切支丹と
間違へられぬが
見つけものゝ
処ぢや。あれが
生身の
婦で
無うて、
私もチヨン
斬られずに
済んだでがす……
が、お
前様は
又、
一躰どうさつせえた
訳でがすの。」
と、ちよこなんとした
割膝の、
真中どころへ
頤を
据えて、
啣煙管で
熟と
眺める。……
老爺の
前を
六尺ばかり
草を
隔てゝ、
青年はばつたり
膝を
支いて、
手を
下げた。……
此の
姿を、
天守から
見たら、
虫のやうな
形であらう。
「
失礼しました。
御老人、
貴下は
大先生です。
何うか、
御高名をお
名告り
下さい。
私は
香村雪枝と
言つて、
出過ぎましたやうですが、
矢張木を
刻んで、ものゝ
形を
拵へます
家業のものです。」とはツと
額着く。
「
是は、」
と
同じく
草につけた
双の
掌を
上げたり
下げたり、
臀を
揉んでもじついて、
「
旦那、はて、お
前様、
何言はつしやる。
何うさつしやる……
気を
静めてくらつせえよ。」
「
否、
何うぞ、
失礼ながらお
名告り
下さい。
御覧の
通り、
私は
何うかして
居る。……
夢なんだか、
現なんだか、
自分だか
他人だか、
宛然弁別が
無いほどです――
前刻からお
話し
被為つた
事も、
其方では
唯あはあは
笑つて
居らつしやるのが、
種々な
言に
成つて、
私の
耳に
聞こえるのかも
分りません。が、
其に
為てもお
聞かせ
下さい。お
名が
此の
耳へ
入れば、
私は
私だけで、
承つたことゝ
了見します。
香村雪枝つて
言ふんです。
先生、
真個は
靱負と
言つて、
昔の
侍のやうな
名なんですが、
其を
其のまゝ
雪の
枝と
書いて、
号にして
居る
若輩ものです。」
「えゝ/\、
困つたな、これは。
名を
言へなら、
言ふだけれど、
改つては
面目ねえ。」
と
天窓を
撫でざまに、するりと
顱巻を
抜いて
取り、
「へい、
些と
爺には
似合ひましねえ、
村の
衆も
笑ふでがすが、
八才ぐれえな
小児だね、へい、
菊松つて
言ふでがすよ。」
「
菊松先生、
貴下は
凡人では
居らつしやらない。」
「
勘弁して
下らつせえ。うゝとも、すうとも
返答打つ
術もねえだ…
私、
先生と
言はれるは、
臍の
緒切つては
最初だでね。」
「
何とも
御謙遜で、
申上げやうもありません。
大先生、
貴下で
無くつて、
何うして、
彼の
五位鷺が
刻めます。あの
船が
動かせます。
而して、
其の
秘密を
人に
知らせまいために、
天の
火で
焚くと
見せて、
船をお
秘しなさるんでせう。」
「お
前様もの、
祖父殿の
真似をするだ、で、
私が
自由には
成んねえだ。
間違へて
先生だ、
師匠だ
言はつしやるなら、
祖父殿を
然う
呼ばらつせえ。」
「
同じ
事です、
大名の
子孫が
華族なら、
名家の
御子孫も
先生です。
特に
私は
然う
申さなければ
成りません。
私が
今の
此の
仕事を
為るやうに
成りましたのは、
貴下か、
或は
其の
祖父様の
御薫陶に
預つたと
言つて
宜しい。」……
「
父は
或県の
書記官でした。」
と
雪枝は
衣兜に
手を
挟んだ。
「
一年、
此の
地を
巡廻した
事が
有ります。
私が
七才の
時です。
未だ
其の
頃は、
今の
温泉は
無かつたやうですね。」
「
温泉の
開けたのは
近い
頃の
事でがすよ。
然うでがすとも。
前から
寂れては
居ましつけえ、お
城の
居まはりに、
未だ、
町の
形の
残つた
頃は、
温泉は
無かつけの。
地震が
豪く
押ぱだかつて、しやつきり
残つたのはお
天守ばかりぢや。
人間も
家も
押転ばして、
濠も
半分がた
埋りましけ。
冬の
事での、
其の
前兆べい、
八尺余も
積つた
雪が
一晩に
融けて、びしや/\と
消えた。あれ
松が
蒼いわ、と
言ふ
内に、
天も
地も
赤黒く
成つて、
活きものと
言ふ
活ものは、
泥の
上を
泳いだての。
其の
響きで、
今の
処へ、
熱湯が
湧出いた。ぢやがさ、
天道人を
殺さずかい。
生命だけは
助つても、
食はう
飲まうの
分別も
出なんだ
処温泉が
昌つて
来たで、
何うやら
娑婆の
形に
成つた。
其のかはり、
旧から
噂の
高かつたお
天守の
此の
辺は、
人の
寄附かぬ
凄い
処に
成りましたよ。
見さつせえ、いまに
太陽様が
出さつせえても、
濠端かけて
城跡には、お
前様と
私等が
他には、
人間らしい
影もねえだ。
偶々突立つて
歩行くものは、
性の
善くねえ、
野良狐か、
山猫だよ。
こんな
処へ、
主は
何として
又姉様の
人形連れて
来さつせえた。」
「
其を
順にお
話しませう、」
と
雪枝は
一度塞いだ
目を、
茫乎と
開けて、
「
父が
此の
処を
巡廻した
節、
何処か
山蔭の
小さな
堂に、
美い
二十ばかりの
婦の、
珍しい
彫像が
有つたのを、
私の
玩弄にさせうと、
堂守に
金子を
遣つて、
供のものに
持たせて
帰つたのを、
他に
姉妹もなし、
姉さんが
一人出来たやうに、
負つたり
抱いたり
為ました。
大な
像で、
飯の
時なんぞ、
並んで
坐る、と
七才の
年の
私の
芥子坊主より、づゝと
上に、
髪の
垂つた
島田の
髷が
見えたんです。
衣服は
白無垢に、
水浅黄の
襟を
重ねて、
袖口と
褄はづれは、
矢張白に
常夏の
花を
散らした
長襦袢らしく
出来て
居て……
其が
上から
着せたのではない。
木彫に
彩色を
為たんです。が、
不思議なのは、
其の
白無垢、
何うして
置いても
些とでも
塵埃が
溜らず、
虫も
蠅も、
遂ぞ
集つたことが
無い。
花畑へでも
抱いて
出ると、
綺麗な
蝶々は、
帯に
来て、
留つたんです、
最う
一つ
不思議なのは、
立像に
刻んだのが、
膝柔かにすつと
坐る。
袖は
両方から
振が
合つて、
乳のあたりで、
上下に
両手を
重ねたのが、ふつくりして、
中に
何か
入つて
居さうで、……
駆けて
行つて、
『
姉さん、』と
捉まつた
時なぞ、
肩が
揺れると、ころりん、ころりんと
其は
実に……
何とも
微妙な
音が
為て
幽に
鳴る、……
父母をはじめ、
見るほどのものは、
何だらう
何だらう、と
言ひ/\したが、
指を
折らなくては
分らないから、
無論開けては
見ず
仕舞。
とう/\
其の
彫像を――
何です――
父が
暖炉に
燻べて
焼いたまでも
分らなかつたんです。
ちら/\
雪の
降る
晩方でした。……
私は、
小児の
群食で、
欲くない。
両親が
卓子に
対向ひで
晩飯を
食べて
居た。
其処へ、
彫像を
負つて
入つたんですが、
西洋室の
扉を
開けやうとして、
『
姉さん、』と
仰向くと
上から
俯向いて
見たやうに
思ふ、……
廊下の
長い、
黄昏時の
扉の
際で、むら/\と
鬢の
毛が、
其時は
戦いだやうに
思ひました。ぱつちりした
目が、
眉の
下で、
睫毛を
黒く
瞬いたやうで。……」
見ながら、
其のまゝ、
扉を
開ける、と
小児の
背に、
裾を
後抱にして
居た
彫像の
丈が
反つて、
髷が、
天井裏の
高い
処に
見えた。
ト
半靴の
先を
反らした、
母親の
白い
足が
卓子掛と
絨氈の
間で
動いた。
窓の
外は
雪が
其の
光を
撫でゝ、さら/\
音が
為さうに、
月が
有つて、
植込の
梢がちら/\
黒い。
烈々と
燃える
暖炉のほてりで、
赤い
顔の、
小刀を
持つたまゝ
頤杖をついて、
仰向いて、ひよいと
此方を
向いた
父の
顔が
真蒼に
成つた。
「
東京駿河台に
家があつた、
其の
二階でした。」
と
言ひかけて、
左右を
見る、と
野と
濠と
草ばかりでは
無く、
黙つて
打傾いて
老爺が
居た。
其を、……
雪枝は
確め
得た
面色であつた。
「
父が
矗乎と
立つと……
『おのれ!』と
言つて、つか/\と
来ましたが。
私の
身躰が
一つ、
胴廻りを
為ると、
肩から
倒に
婦が
落ちた。
裙が
未だ
此の
肱に
懸つて、
橋に
成つて
床に
着く、
仰向けの
白い
咽喉を、
小刀でざつくりと、さあ、
斬りましたか、
突いたんですか。
『きやつ、』と
言つて、
私は
鉄砲玉のやうに
飛出したが、
廊下の
壁に
額を
打つて、ばつたり
倒れた。……
気の
弱い
母もひきつけて
了つたさうです。
母は、
父が、
其の
木像の
胴を
挫折つた――
其が
又脆く
折れた――のを
突然頭から
暖炉へ
突込んだのを
見たが、
折口に
偶と
目が
着くと、
内臓がすつかり
刻込んであつた。まるで
生のものを
見るやうに
腸も
長く、
青い
火が
其に
搦んだので、
余の
事に
気絶したんだ、と
後に
言ひます。
父は
年経つて
亡くなるまで、
其時の
事に
就いては
一言も
何にも
言はない。
最も
当坐二月ばかりは、
何うかすると
一室に
籠つて、
誰にも
口を
利かないで、
考事をして
居たさうですが、
別に
仔細は
無かつたんです。
但其時から、
両親は
私を
男にしました。
其まで、
三人も
出来た
児が
皆育たなかつたので、
私を
女にして
置いたんです。
名も
雪枝と
言ふ
女のやうな。
其の
名を
直ぐに
号にして、
今、こんな
家業を
為るやうに
成つたのも、
小児の
時から、
其の
像の
事が、
目にも
心にも
身躰にも
離れなかつた
為なんです。
こんな
辺鄙な
温泉へ
参つたのも、
実は
忘れられない
可懐しい
気が
為たゝめです。
何処か
知らんが、
其の
木像は、
父が
此の
土地から
持つて
帰つたと
言ふぢやありませんか。
山も
谷も
野も
水も、
其処には
私の
師匠がある、と
信じ
居た。
果して
貴下にお
目にかゝつた。――あの、
白無垢に
常夏の
長襦袢、
浅黄の
襟して
島田に
結つた、
両の
手に
秘密を
蔵した、
絶世の
美人の
像を
刻んだ
方は、
貴下の
其の
祖父様では
無いでせうか。」
雪枝は
熟と
対手を
視めた。
「え、
貴下かも
分らん、
貴下かも
知れません。
先生、
仰有つて
下さい、
一生のお
願ひです。」
「
若え
旦那、
祖父殿が
事は
私も
知らんで、
何か
言はつしやりますやうな
悪戯を
為たかも
分らねえ。
私は
早や、
獅子鼻や
団栗目、
御神酒徳利の
口なら
真似も
遣るが、
弁天様は
手に
負えねえ……まあ、そんな
事は
措かつしやい。ぢやが、お
前様は
山が
先生、
水が
師匠と
言ふわけ
合で、
私等が
気にや
天上界のやうな
東京から、
遥々と……
飛騨の
山家までござつたかね。」
と
掻蹲ひ、
両腕を
膝に
預けたまゝ
啣煙管で
摺出す
躰は、
嘴長い
鷺の
船頭化けたやうな
態である。
雪枝は、しばらく
猶予つた。
「
仮にも
先生と
呼んだ
貴下に
向つて、
嘘は
言へません。……
一度来やう、
是非見たい。
生れない
以前から
雪枝の
身躰とは、
許嫁の
約束があるやうな
此の
土地です。
信者が
善光寺、
身延へ
順礼を
為るほどな
願だつたのが、――いざ、
今度、と
言ふ
時、
信仰が
鈍つて、
遊山に
成つた。
其が
悪かつたんです……
家内と
二人連で
来たんです、
然も
婚礼を
為たばかりでせう。」
盃を
納るなり
汽車に
乗つて
家を
出た
夫婦の
身体は、
人間だか
蝶だか
区別が
附かない。
遥々来た、と
言はれては
何とも
以て
極が
悪い。
気も
魂もふら/\で、
六十余州、
菜の
花の
上を
舞ひ
歩行いても
疲れぬ
元気。
其も
突かけに
夜昼かけて
此処まで
来たなら、まだ/\
仕事の
手前、
山にも
水にも
言訳があるのに……
彼方へ
二晩此方へ
三晩、
泊り
泊りの
道草で、――
花には
紅、
月には
白く、
処々の
温泉を、
嫁の
姿で
彩色しては、
前後左右、
額縁のやうな
形で、
附添つて、
木を
刻んで
拵へたものが、
恁う
行くものか、と
自から
彫刻家であるのを
嘲ける
了見。
斧も
鑿も
忘れたものが、
木曾、
碓氷、
寐覚の
床も、
旅だか
家だか
差別は
無い
気で、
何の
此の
山や
谷を、
神聖な
技芸の
天、
芸術の
地と
思はう。
来て
見ぬ
内こそ、
峯は
雲に、
谷は
霞に、
長に
封ぜられて、
自分等、
芸術の
神に
渇仰するものが、
精進の
鷲の
翼に
乗らないでは、
杣山伏も
分入る
事は
出来ぬであらう。
流には
斧の
響、
木の
葉には
鑿の
音、
白い
蝙蝠、
赤い
雀が、
麓の
里を
彩つて、
辻堂の
中などは
霞が
掛つて、
花の
彫物をして
居やうとまで、
信じて
居たのが、
恋しい
婦と
一所に
来たゝめ、
峯が
雲に
日を
刻み、
水が
谷に
月を
鑿つた、
大彫刻を
眺めても、
婦が
挿た
笄ほども
目に
着かないで、
温泉宿へ
泊つた
翌日、
以前ならば
何よりも
前に、しか/″\の
堂はないか、
其らしい
堂守は
居まいか、と
父が
以前持帰つた、
其の
神秘な
木像の
跡の、
心当りを
捜す
処、――
気にも
掛けないまで
忘れて
了つて、
温泉宿の
亭主を
呼んで、
先づ
尋ねたのが、
世に
伝へた
双六谷の
事だつた。
「
老爺さん。」
と
雪枝は
嗟歎して
言つた。
温泉の
町の、
谿流について
溯ると、
双六谷と
言ふのがある――
其処に
一坐の
大盤石、
天然に
双六の
目の
装られたのが
有ると
言ふが、
事実か、と
聞いたのであつた。
亭主が
答へて、
如何にも、
此の
辺で
噂するには、
春の
曙のやうに、
蒼々と
霞んだ、
滑かな
盤石で、
藤色がゝつた
紫の
筋が、
寸分違はず、
双六の
目に
成つて
居る。
『
丁ど、
先づ
其の
工合と
思はれまする。』と
掌を
畳に
着けて
指して
見せた。
其時坐つて
居た
蒲団が、
蒼味の
甲斐絹で、
成程濃い
紫の
縞があつたので、
恰も
既に
盤石の
其の
双六に
対向ひに
成つた
気がして、
夫婦は
顔を
見合はせて、
思はず
微笑んだ。
……と
雪枝は
言ふ。
けれども、
其は
神の
斧の、
微妙き
製作を
会得した
嬉しさではなかつた。
其の
実、
矢叫の
如き
流の
音も、
春雨の
密語ぞ、と
聞く、
温泉の
煙りの
暖い、
山国ながら
紫の
霞の
立籠る
閨を、
菫に
満ちた
池と見る、
鴛鴦の
衾の
寝物語りに――
主従は
三世、
親子は
一世、
夫婦は
二世の
契と
聞く……
『
全く
未来でも
添へるのでせうか。』と
他愛のない
言を
新婦が
言つた。
二世は
愚か
三世までもと
思ふ
雪枝も、
言葉あらそひを
興がつて、
『
何二世なぞがあるものか、
魂は
滅びないでも、
死ねば
夫婦はわかれわかれだ。』
とはぐらかすと、
褄を
引合はせながら、
起直つて、
『
私は
此の
世ばかりでは
厭です。』
とツンとした。
『それでは
二人で、
一世か、
二世か
賭をしやう。』
苟くも
未来の
有無を
賭博にするのである。
相撲取草の
首つ
引なぞでは
其の
神聖を
損ふこと
夥しい。
聞けば
此の
山奥に
天然の
双六盤がある。
其の
仙境で
局を
囲まう。
で、
其の
勝敗を
紀念として、
一先づ、
今度の
蜜月の
旅を
切上げやう。けれども
双六盤は、
唯土地の
伝説であらうも
知れぬ。
実際なら
奇蹟であるから、
念のためと、こゝで、
其の
翌日旅店の
主人に
聞いたのが、……
件の
青石に
薄紫の
筋の
入つた、
恰も
二人が
敷いた
座蒲団に
肖て
居ると
言ふ
其であつた。
『
案内者でも
雇へやうか。』
亭主が
飛でもない
顔色で、
二人を
視めたも
道理。
双六は
確にあり。
天工の
奇蹟の
故に、
四五六また
双六谷と
其処を
称へ、
温泉も
世の
聞こえに、
双六の
名を
負はするが、
谷を
究めて、
盤石を
見たものは
昔から
誰も
無い。――
土地の
名所とは
言ひながら、なか/\
以て、
案内者を
連れて
踏込むやうな
遊山場ならず。
双六盤の
事は
疑無けれど、
其の
是あるは、
月の
中に
玉兎のある、と
同じ
事、と
亭主は
語つた。
土地のものが、
其方の
空ぞと
視め
遣る、
谷の
上には、
白雲行交ひ、
紫緑の
日影が
添ひ、
月明には、
黄なる、
又桃色なる、
霧の
騰るを
時々望む。
珠か、
黄金か、
世にも
貴い
宝什が
潜んで、
気の
群立つよ、と
憧憬れながら、
風に
木の
葉の
音信もなければ、もみぢを
分入る
道も
知らず……
恰も
燦爛として
五彩に
煌めく、
天上の
星を
指しても、
手に
取られぬ、と
異りはない。
唯山深く
木を
樵る
賤が、
兎もすれば、
我が
伐木の
谺にあらぬ、
怪しく、
床しく
且つ
幽に、ころりん、から/\、と
妙なる
楽器を
奏づるが
如きを
聞く――
其時は、
森の
枝が、
一つ
一つ
黄金白銀の
線に
成つて、
其の
音を
伝ふるが
如くに
感ずる……
思ふに
魔神が
対向つて、
采を
投げる
響であらう……
何につけても、
飛騨谷第一の
隠れ
場所、
近づき
難い
魔所である、と
猶ほ
亭主が
語つたのである。
二人は、
聞くが
如き
他界であるのを
信ずると
共に、
双六の
賭が
弥が
上にも、
意味の
深いものに
成つた
事を
喜んだ……
勿論、
谷へ
分入るに
就いて
躊躇を
為たり、
恐怖を
抱いたりするやうな
念は
聊も
無かつた。
と
雪枝は
続いて
言つた。
「
其の
上好奇心にも
駆られたでせう。
直ぐにも
草鞋を
買はして、と
思つたけれども、
彼是晩方に
成つたから、
宿の
主人を
強ゐて、
途中まで
案内者を
着けさせることにして、
其の
日の
晩飯は
済せました。」
双六谷へは、
翌早朝と
言ふ
意気組、
今夜も
二世かけた
勝敗は
無しに、
唯睦まじいのであらうと
思ふ。
宵寐をするにも
余り
早い、
一風呂浴びた
後……を、ぶらりと
二人連で
山路へ
出て
見たのが、
丁ど……
狐の
穴には
灯は
点かぬが、
猿の
店には
燈の
点く
時分、
何となく
薄ら
寒い、
其処等の
霞も、
遠山の
雪の
影が
射すやうで、
夕餉の
煙が
物寂しう
谷へ
落る。
五六軒の
藁屋ならび、
中にも
浅間な
掛小屋のやうな
小店を
開けて、
穴から
商売をするやうに
婆さんが
一人戸の
外を
透かして
居た。
其の
店で
獣の
皮だの、
獅子頭、
狐猿の
面、
般若の
面、
二升樽ぐらゐな
座頭の
首、――いや
其が
白い
目をぐるりと
剥いて、
亀裂の
入つた
壁に
仰向いた
形なんぞ
余り
気味の
可いものではなかつた。
誰か
拵へるものが
居て、
直ぐ
其を
売るらしい。
破莚の
上は、
藍の
絵具や、
紅殻だらけ――
婆さんの
前垂にも、ちら/\
霜のやうに
胡粉がかゝつた。
其の
他角細工も
種々ある。……
「はツはツ、
婆様が
家ぢや。」と
老爺は
不意に
笑ひ
懸けて、
「
茶でも
飲つてござつたかの。」
雪枝は
不図心着いたらしく
調子を
変へて、
「あゝ、お
知己の
店なんですか。」
「
昔の
恋でがす。
彼でもの、お
前様、
新造盛りの
事も
有つけ。
人形を
欲しがる
時分ぢや。なんぼ
山鳥のおろのかゞみで、
頤髯さ
撫でた
処で、
木の
枝で、
鋸を
使ひ/\、
猿の
脚と
並んだ
尻を、
下から
見せては
落つこちねえ。
其処で、
人形やら、おかめの
面やら、
御機嫌取に
拵へて
持つて行つては、
莞爾させて
他愛なく
見惚れて
居たものでがす。はゝゝ、はじめの
内は
納戸の
押入へ
飾つての、
見るな
見るな、と
云ふ。
恐ろしい、
男を
食つて
骨を
秘す、と
村のものが
嬲つたつけの……
真個の
孤屋の
鬼に
成つて、
狸婆が、
旧の
色仕掛けで
私に
強請つて、
今では
銭にするでがすが、
旦那、
何か
買はしつたか、
沢山直切らつしやれば
可かつけな。」
「おゝ、
老爺さんが、あの、
種々なものを。」
と
雪枝は
目の
覚めた
顔色して、
「
面も
頭も、お
製作へに
成つたんですか。……あゝ、いや、
鷺のお
手際を
見たので
分る。
軒に
振ら
下つた
獅子頭や、
狐の
面など、どんな
立派なものだつたか
分らない。が、
其に
気が
着く
了見なら、こんな
虚気な、――
対手が
鬼にしろ、
魔にしろ、
自分の
女房を
奪はれる
馬鹿は
見ない。
失礼ながら、そんなものは
目も
留めないで、
『
采は
無いか。』
『お
媼さん、あの、
采はありませんか。』
と
同伴の
婦も
聞いたんです。」……
双六巌で
振らうと
云ふ、よく
考へれば
夢のやうなことだつた。
『
一六、
三五の
采粒かの、はい、ござります。』と
隅の
壁へ
押着けた、
薬箪笥の
古びたやうな
抽斗を
開けると、
鼠の
屎が、ぱら/\
溢れる。
其の
中から、
畳紙を
出して、ころ/\と
手で
揺りながら
軒の
明前へ
持つて
出た。
『
猪の
牙で
拵へました、ほんに
佳い
采でござります、
御覧じまし。』と
莞爾々々しながら、
掌を
反らして
載せた
処を、
二人で
一個づゝ
取つた。
采は
珠のやうに
見えた。
綺麗に
磨いたのが
透通るばかりに
出来て、
点々打つた
目の
黒いのが、
雪の
中に
影の
顕はれた、
連る
山々、
秀でた
峯、
深い
谷のやうに
不図見えた。
『
可愛ぢやありませんか。』
と
同伴の
女は
一寸摘んだが、
掌へ
据え
直して、
『お
媼さん、
思ふ
目が
出ませうか。』と
右の
手を
蓋で
胸へつけて、ころ/\と
振つて
試る。
と
背中から
抱き
締めて、づる/\と
遠くへ
持つて
行かれたやうに
成つて、
雪枝は
其時の
事を
思出した。
「
其の
時の
事と
言ふのは、
父が
此の
土地の
祠から
持つて
帰つた、あの、
掌に
秘密を
蔵した
木像です。」
「おゝ、」と
頷く、
老爺は
腕組を
為た
肩を
動かす。
「あゝ、それぢや、
木彫の
美人が、
父のナイフに
突刺されて、
暖炉の
中に
焼かれた
時まで、
些とも
其の
秘密を
明かさなかつた、
微妙な
音のしたものは、
同一、
此の
采であつたかも
知れない。
時に、
傍に
立つた
家内の
姿が、
其に
髣髴だ、と
思ふと、
想像が
遠く
昔へ
返つて、
不思議なもので、
袖を
並べたお
浦の
姿が、づゝと
離れて
遥かな
向ふへ……」
と
雪枝は
語つて、
押遣るやうに
手を
振つた。
「
其時の
事を
思ふと、
老爺さん、
恁う
言ふ
内にも
貴方の
身体も
遠くへ
行く……ふら/\と
間が
離れる。」……
而して、
婆さんの
店なりに、お
浦の
身体が
向ふへ
歩行いて、
見る
間に
其が、
谷を
隔てた
山の
絶頂へ――
湧出る
雲と
裏表に、
動かぬ
霞の
懸つた
中へ、
裙袂がはら/\と
夕風に
靡きながら
薄くなる。
あの
辺へ、
夕暮の
鐘が
響いたら、
姿が
近く
戻るのだらう、――と
誰が
言ふともなく
自分で
安心して、
益々以前の
考に
耽つて
居ると、
榾を
焚くか、
炭を
焼くか、
谷間に、
彼方此方、ひら/\、ひら/\と
蒼白い
炎が
揚つた。
思はず
彫像を
焼いた
暖炉の
火に
心着いて、
何故か、
急に
女の
身が
危ぶまれて
来た。
『お
浦。』
と
呼んだが
返事をしない。
『お
浦、お
浦。』と
言つたが、
返事を
為ない。
雪枝最うきよろ/\し
出した、
其で
二足三足づゝ、
前後左右を、ばた/\と
行つたり、
来たり……
慌しく
成つて
来た。
第一、お
浦ばかりぢやない、
其処に
居た
婆さんも
見えなければ、
其らしい
店もない。
いや、これは
可怪いぞ。
一人ばかり
居ないのなら、
女が
何うかしたのだらうが、
店も
婆さんもなくなつた、とすると……
前方が
攫はれたのぢやなくつて、
自分が
魅まれたものらしい。
『おゝい、おゝい。』
と
智恵のない
声をしながら、
無暗に
人を
呼んで、
雪枝は
山路を
駆づり
廻つた。
「
段々暗くなる、
最う
目は
眩む、
風が
吹出す。
此の
風は……
昼間蒼く
澄んだ
山の
峡から
起つて、
障つて
来る
樹の
枝、
岩角、
谷間に、
白い
雲のちぎれて
鳥の
留るやうに
見えたのは
未だ
雪が
残つたのか、……と
思ふほど
横面を
削つて
冷たかつた。
『ま……、
何処へござらつしやる、
旦那。』
とすた/\
小走りに
駆けて
来て、
背後から
袂を
引留めた、
山稼ぎの
若い
男があつた。
『お
城趾へ
行かしつては
成りましねえだよ。
日も
暮れたに、
当事もねえ。』と
少し
叱つて
言ふ。
煙が
立つて、づん/\とあがる
坂一筋、やがて、
其の
煙の
裙が
下伏せに、ぱつと
拡がつたやうな
野末の
処へ
掛つて
居ました。」
雪枝は
胸を
伸上げて、
岬が
突出た
湾の
外を
臨むが
如く
背後状に
広野を
視めた。……
東雲の
雲は
其の
野末を
離れて、
細く
長く
縦に
蒼空の
糸を
引いて、
上つて
行く、……
人も
馬も、
其処を
通つたら、ほつほつと
描かれやう、
鳥も
飛ばゞ
見えやう、――けれども
天守の
屋根は
森が
包んで、
霞がくれに
尚暗い。
其の
上、
野の
果を
引上る
雲も
此方をさして
畳まつて
来るやうで、
老爺と
差向つた
中空は
厚さが
増す。
其の
濃く
暗い
奥から、
黄金色に
赤味の
注した
雲が、むく/\と
湧出す、
太陽は
其処まで
上つた――
汀の
蘆の
枯れた
葉にも、さすがに
薄い
光がかゝつて、
角ぐむ
芽生もやゝ
煙りかけた。
此の
煙は
月夜のやうに
水の
上にも
這ひ
懸る。
船の
焼けた
余波は
分解ず……
唯陽炎が
頻に
形づくりするのが
分解る。――やがて、
此が、
野の
一面の
草を
伝つて、
次第にひら/\と、
麓に
下りて
遊行しやう。……さて、
日も
当れば、
北国の
山中ながら、
人里の
背戸垣根に、
神が
咲かせた
桃桜が、
何処とも
無く
空に
映らう。まだ、
朝早き、
天守の
上から
野をかけて
箕の
形に
雲が
簇つて、
処々物凄じく
渦を
巻て、
霰も
迸つて
出さうなのは、
風が
動かすのではない。
四辺は
寂寞して
居る……
峰に
当り、
頂に
障つて、
山々のために
揺れるのである。
雲の
動く
時、
二人の
形は
大きく
成つた。
静とする
時、
渠等の
姿は
小さく
成つた。――
飛騨の
山の
此のあたりは、
土地が
呼吸をするのかも
分らぬ。
雪枝は
伸上つた
時、
膝を
草に
支いて
居た。
「
其の
時来懸つたのは、
何うも、
此の
原の、
向ふの
取着であつたらしい。
『お
城趾の
方さ
行つては
成んねえだ。』と
云つて
其の
男が
引取めました……
私は
家内の
姿を
高い
山の
端で
見失つたが、
何うも、
向ふが
空へ
上つたのではなく、
自分が
谷底へ
落ちてたらしい。
其処で
疵だらけに
成つて
漸々出て
来た
処が、
此の
取着きで、
以前夫婦づれで
散歩に
出た
場所とは、
全然方角が
違う、――
御存じの
通り、
温泉は
左右へ
見上げるやうな
山を
控へた、ドン
底から
湧きます。
で、
婆さんの
店の
有つたのは
南の
坂で、
此の
城趾は
北の
山路から
来るのでせう。
土地の
男に
様子を
聞いて、
『あゝ、
魅まれた……
魅まれたんだ。いや、
薄髯の
生へた
面で、
何とも
面目次第もない。』
と
頻に
面目ながる
癖に、あは/\
得意らしい
高笑ひを
行つた。
家内の
無事を
祝福する
心では、
自分の
魅せられたのを、
却つて
幸福だと
思つて
喜んだんです。
『
豪い、
東京の
客を
魅すのは
豪儀だ。ひよい、と
抱いて
温泉宿の
屋根越に
山を
一つ、まるで
方角の
違つた
処へ、
私を
持つて
来た
手際と
云ふのは
無い。
何か、
此の
辺に、
有名な
狐でも
居るか。』
と
酔つぱらひのやうな
言を
云つて、ひよろ/\
為ながら、
其の
男に
導かれて
引返す。
『
狐や
狸ではござりましねえ、お
天守にござる
天狗様だのエ、
時々悪戯をさつしやります。』
『
何天狗。』
と
云ふと
慌しく
袂を
曳いて、
『えゝ、
大な
声をさつしやりますな、
聞こえるがのエ』と、
蒼い
顔して、
其の
男は、
足許を
樹の
梢から
透いて
見える、
燈の
影を
指したんです。」
で、
其処が
温泉宿だ、と
教へて、
山間の
崖を
樹の
茂つた
細い
路へ、……
背負つて
居た、
丈の
伸びた
雑木の
薪を、
身躰ごと
横にして、ざつと
入つて
行く。
しばらく、ざわ/\と
鳴つて
居た。
急に
何だか
寂しく
成つて、
酔ざめのやうな
身震ひが
出た。
急いで、
燈火を
当に
駆下りる、と
思ひがけず、
往には
覚えもない
石壇があつて、
其を
下切つた
処が
宿の
横を
流れる
矢を
射るやうな
谿河だつた。――
驚いたのは、
山が
二わかれの
真中を、
温泉宿を
貫いて
流れる、
其の
川を、
何時の
間に
越へて、
此の
城趾の
方へ
来たか
少しも
覚えが
無い。
岸づたひに、
岩を
踏んで
後戻りを
為て、
橋の
取着の
宿へ
帰つた、――
此は
前刻渡つて、
向ふ
越で、
山路の
方へ、あの
婆さんの
店へ
出た
橋だつた。
『お
帰りなさいまし。』
と
向ふ
廊下から
早足で、すた/\
来懸つた
女中が
一人、
雪枝を
見て
立停まつた。
『
御緩り
様で、』と
左側の、
畳五十畳計りの、だゞつ
広い
帳場、……
真中に
大な
炉を
切つた、
其の
自在留の、ト
尾鰭を
刎ねた
鯉の
蔭から、でつぷり
肥つた
赤ら
顔を
出して
亭主が
言ふ。
『
同伴は
帰つたらうね。』と
聞いた
時、
雪枝は
其の
間違の
無い
事を
信じながら、
何だか
胸がドキ/\した。
『
奥方様で、はゝ、
何や、
一寸お
見申せ。』と
頤を
向けると、
其処に
居た
女中が、
『
御一所では
無かつたのでございますか。』
で、ばた/\と
廊下を、
直ぐに
二階へ
駆上つた。
何故か
雪枝は
他人を
訪問に
来たやうな
心持に
成つて、うつかり
框際の
広土間に
突立つて
居た。
山路から、
後を
跟けて
来たらしい
嵐が、
袂をひら/\と
煽つて、
颯と
炉傍へ
吹込むと、
燈が
下伏に
暗く
成つて、
炉の
中が
明く
燃える。これが
赫と、
壁に
並んだ
提灯の
箱に
映る、と
温泉の
薫が
芬とした。
五六段階子を
残して、
女中が
廊下の
高い
処へ
顔を
出して、
『まだ、お
帰り
遊ばしません。』
『
下りて
来て、ちやんと
申さぬかい、
何ぢや、
不作法な。』と
亭主が
炉端から
上睨みを
行る。
雪枝は
一文字に
其の
前を
突切つて、
階子段を
駆上り
状に、
女中と
摺違つて、
『そんな
筈は
無い。そんな、お
前、』と
躾めるやうに
言ひ/\
飛上つたのであつた。
『それともお
湯へお
出でなさいましてですか、お
座敷には
居らつしやいませんですよ。』と
小走りに
跟いて
来る。
固より
女中が
串戯を
言ふわけは
無い。
居ないものは
居ないので、
座敷を
見ると、あとを
片附けて
掃出したらしく、きちんと
成つて、
点けたての
真を
細めた
台洋燈が、
影を
大きく
床の
間へ
這はして、
片隅へ
二間に
畳んだ
六枚折の
屏風が
如何にも
寂しい。
而して
誰も
居ない
八畳の
真中に、
其の
双六巌に
似たと
言ふ
紫縞の
座蒲団が
二枚、
対坐に
据えて
有つたのを
一目見ると、
天窓から
水を
浴びたやうに
慄然とした。
此処へも
颯と
一嵐、
廊下から
追つて
来て
座敷を
吹抜けて
雨戸をカタリと
鳴らす。
恁うして、お
浦に
別かれるのが
極つた
運命では
無からうかと
思つた……
「
浴室だ、
浴室だ。
見ておいで。と
女中を
追遣つて、
倒れ
込むやうに
部屋に
入つて、
廊下を
背後向きに、
火鉢に
掴つて、ぶる/\と
震へたんです。……
老爺さん。」
と
雪枝は
片手で
胸を
抱いた。
「
亭主が
上つて
来ました。
『えゝ、
一寸お
引合はせ
申しまする。
此男が
其の、
明日双六谷の
途中まで
御案内しまするで。さあ、
主、お
知己に
成つて
置けや。』と
障子の
蔭に
蹲んで
居た
山男に
顔を
出させる、と
此が、
今しがたつひ
其処まで
私を
送つてくれた
若いもの、……
此方は
其処どころぢや
無い。」
「
恁う
成ると、
最う
外聞なんぞ
構つては
居られない。
魅まれたか
誑されたか、
山路を
夢中で
歩行いた
事を
言出すと、
皆まで
恥を
言はぬ
内に……
其の
若い
男が
半分で
合点したんです。」
さあ、
亭主も
飛でも
無い
顔をする。
捜すのに、
湯殿や
小用場では
追着かなく
成つた。
『
権七や、
主は
先づ、
婆様が
店へ
走れ、
旦那様、
早速人を
出しますで、お
案じなさりませんやうに。
主も
働いてくれ、さあ、
来い、』
と
若いものを
連れて、どたばた
引上げる
時分には、
部屋の
前から
階子段の
上へ
掛けて、
女中まじりに、
人立ちがするくらゐ、
二階も
下も
何となく
騒ぎ
立つ。
雨戸を
開けて
欄干から
外を
見ると、
山気が
冷かな
暗を
縫つて、
橋の
上を
提灯が
二つ
三つ、どや/\と
人影が、
道を
右左へ
分れて
吹立てる
風に
飛んで
行く。
真先に
案内者権七の
帰つて
来たのが、ものゝ
半時と
間は
無かつた。けれども、
足を
爪立つて
待つて
居る
身には、
夜中までかゝつたやうに
思ふ。
婆さんに
聞けば、
夫婦づれの
衆は、
内で
采粒を
買はつしやると、
両方で
顔を
見合ひながら
後退りをして、
向ふ
崖の
暗い
方へ
入つたまで。それからは
覚えて
居らぬ。
目は
踈し、
暮方ではあり、やがて
暗くなつて
了つた、と
権七が
言ふ。
のみ、
手懸りは
何にも
無い。
『
矢張何か
私のやうに、
魅まれて
路を
迷つたらうか。』
『
然うでもござりやすめえ、
奥様は、
其のお
前様を
捜し
歩行いて、
其で
未だ、お
帰りが
無いのでござりやせうで、
天狗様も
二人一所に
攫はつしやることは
滅多にねえ
事でござります。
今にお
帰りに
成るでござりやしやう。
宿でも
心配をして
居りますで、
夜一夜寐ねえで
捜しますで、お
前様は、まあ、
休まつしやりましたが
可うござります。』
気が
気では
無い。
一所に
捜しに
出かけやうと
言ふと、いや/\
山坂不案内な
客人が、
暗の
夜路ぢや、
崖だ、
谷だで、
却つて
足手絡ひに
成る。……
案内者に
雇はれるものが、
何も
知らない
前に
道案内を
為たと
言ふも
何かの
縁と
思ふ。
人一倍精出して
捜さうから
静かに
休め、と
頼母しく
言つて、すぐに
又下階へ
下りた。
一時騒々しかつたのが、
寂寞ばつたりして
平時より
余計に
寂しく
夜が
更ける……さあ、
一分、
一秒、
血が
冷え、
骨が
刻まれる
思ひ。
時が
経てば
経つだけ、それだけお
浦の
帰る
望みが
無くなると
言つた
勘定。
九時が
十時、
十一時を
過ぎても
音沙汰が
無い。
時々、
廊下を
往通ふ
女中が、
通りすがりに、
『
何う
遊ばしたのでございませう、』
『うむ、』
『
御心配でございます。』
『あゝ、』
――
返答が
出来ないで、
溜息を
吐く
顔を
見て、
遁げるやうに
二三人摺り
抜けた。
やがて
十二時を
打つた。
女中が
床を
取りに
来て、
一つ
伸べて、
二つ
並べやうと
為たので、
『そりや
可からう、』と
言つた
時は
我ながら
変な
声だと
思つた。……
勿論寐もせず、
枕元へ
例の
紫縞のを
摺らして、
落着かない
立膝で
何を
聞くとも
無く
耳を
澄ますと、
谿河の
流がざつと
響くのが、
落ちた、
流れた、
打当てた、
岩に
砕けた、
死だ――と
聞こえる。
『あゝつ、』と
忌はしさに
手で
払つて、
坐り
直して
其処等を

す、と
密と
座敷を
覗いた
女中が、
黙つて、スーツと
障子を
閉めた。――
夜が
更けて
寒からうと、
深切に
為たに
違ないが、
未練らしい
諦めろ、と
愛想尽しを
為れたやうで、
赫と
顔が
熱くなる。
背中がぞつと
寒く
成る……
背後を
見る、と
床の
間に
袖畳みをした
女の
羽織、わがねた
扱帯、
何となく
色が
冷く
成つて
紀念のやうに
見えて
来た、――
持主が
亡くなると、
却つてそんなものが、
手ん
手に
活きて
来たやうに
思はれて、
一寸触るのも
憚かられる。
何処か、しゆつ/\と
風が
通る……
「うら
悲しい、
心細い、
可厭な
声で、
『お
客様あゝ、』
『
奥様、』と
呼ぶのが、
山颪の
風に
響いて、
耳へカーンと
谺を
返してズヽンと
脳を
抉る。
『お
客様、』
『
奥方様。』……は
情ない。
少し
裏山へ
近く
成つたと
思ふと、
女の
声が
交つて、
『
奥様やあ、』と
呼んだ。ヒイと
之が
悲鳴を
上げるやうで、
家内が
絞殺される
叫びに
聞こえる、
最う
堪りません。
廊下を
跣足で
出て、
階子段の
上から
倒に
帳場を
覗いて、
『
御主人、
御主人、』
と、
海が
凪いだ
後を、ぶる/\
震へる
波のやうな
畳の
上に、
男だか
女だか、
二人ばかり
打上げられた
躰で、
黒く
成つて
突伏した
真中に、
手酌でチビリ/\
飲つて
居た
亭主が、むつくり
頭を
上げて、
『まだ
御寐りませんかな。』と
言ひ/\
四五段上つた、
中途の
上下で
欄干越に
顔を
合はせた。
『
又入れ
替つて
出てくれたのかね、あゝ
言つて
呼んでるのは、』
『へい、
否、
山深く
参つたのが、
近廻りへ
引上げて
来たでござります。』
『まだ、
知れんのだね、あゝして
呼立てゝ
居るのを
見ると。』
『へい、
何しろ、
早や、
山も
谷も
数が
知れん
処でござりますけにな。……』
と
歎息を
為たが、
面を
振つて、
嚏をした。
『しかし、あれでござりましよ。
何分夜が
更けましたで、
道を
教へますものも
明方まで
待ちませうし、
又……
奥方様も、
何の
道お
草臥れでござりませうで、いづれにも
夜が
明けましたら、
分るに
相違ござりません。』
『
分るつて?
死骸か、』
『えゝ?』
『
死んだら
其までだ。』と
自棄を
言つて
寐床へ
帰つて
打倒れた。……
『お
客様、』
『
奥様、』と
呼ぶのが
十声ばかりして、やがて、ガラ/\と
門の
戸が
大きく
鳴つて
開く。
私は
襟を
被つて
耳を
塞いだ!
誰が
無事だ、と
知らせて
来ても、
最う
聞くまい、と
拗ねたやうに……
勿論、
何とも
言つては
来ません。
其癖、ガラ/\と
又……
今度は
大戸の
閉つた
時は、これで、
最う、
家内と
私は、
幽明処を
隔てたと
思つて、
思はず
知らず
涙が
落ちた。…
ト
前刻、
止せ、と
云つて
留めたけれども、
其でも
女中が
伸べて
行つた、
隣の
寐床の、
掻巻の
袖が
動いて、
煽るやうにして
揺起す。
『おゝ、』と
飛附くやうな
返事を
為て
顔を
出したが、
固より
誰も
居やう
筈は
無い。
枕ばかり
寂しく
丁とあり、
木賃で
無いのが
尚ほうら
悲しい。
熟と
視詰めて、
茫乎すると、
並べた
寐床の、
家内の
枕の
両傍へ、する/\と
草が
生へて、
短いのが
見る/\
伸びると、
蔽ひかゝつて、
萱とも
薄とも
蘆とも
分らず……
其の
中へ
掻巻がスーと
消える、と
大な
蛇がのたりと
寐て、
私の
方へ
鎌首を
擡げた。ぐつたりして
手足を
働かす
元気もない。
首を
締めて
殺さば
殺せで、
這出すやうに
頭を
突附けると、
真黒に
成つて
小山のやうな
機関車が、づゝづと
天窓の
上を
曳いて
通ると、
柔いものが
乗つたやうな
気持で、
胸がふわ/\と
浮上つて、
反身に
手足をだらりと
下げて、
自分の
身躰が
天井へ
附着く、と
思ふとはつと
目が
覚める、……
夜は
未だ
明けないのです。
同じやうな
切ない
夢を、
幾度となく
続けて
見て、
半死半生の
躰で
漸つと
我に
返つた
時、
亭主が、
『
御国許へ
電報をお
掛け
被成りましては
如何でござりませう。』と
枕許に
坐つて
居ました。
『
馬鹿な。』
と
一言のもとに
卻けたんです。」
「
怪我、
過失、
病気なら
格別、……
如何に
虚気なればと
言つて、」
雪枝は
老爺に
此を
語る
時、
濠端の
草に
胡座した
片膝に、
握拳をぐい、と
支いて
腹に
波立つまで
気兢つて
言つた。
「
女房が
紛失した、と
親類知己へ
電報は
掛けられない。
『
何しろ、
最う
些と
手懸りの
出来るまで
其は
見合はせやう。』
『で、ござりまするが、
念のために、お
国許へお
知らせに
成りましては
如何なもので、』
『
可から、
死骸でも
何でも
見着かつた
時にせう。』
『
其の、へい……
死骸が
何うも、』
『
何だ、
死骸が
分らん。』
私は
胸が
裂けるほど
亭主の
言葉が
気に
障つた。
最う
死骸に
成つてる、と
言つたやうな、
奴の
言種が
何とも
以て
可忌しい。
『
己が
見着けて
持つて
帰る、
死骸の
来るのを
待つて
居れ。』と
睨みつけて
廊下を
蹴立てゝ
出た――
帳場に
多人数寄合つて、
草鞋穿の
巡査が
一人、
框に
腰を
掛けて
居たが、
矢張此の
事に
就いてらしい。
痘痕のある
柔和な
顔で、
気の
毒さうに
私を
見た。が
口も
利かないでフイと
門を、
人から
振もぎる
身躰のやうにづん/\
出掛けた。」
雲は
白く
山は
蒼く、
風のやうに、
水のやうに、
颯と
青く、
颯と
白く
見えるばかりで、
黒髪濃い
緑、
山椿の
一輪紅色をした
褄に
擬ふやうな
色さへ、
手がゝりは
全然ない。
目が
眩むほど
腹が
空けば、よた/\と
宿へ
帰つて、
『おい、
飯を
食はせろ。』
で、
又飛出す、
崖も
谷もほつゝき
歩行く、――と
雲が
白く、
山が
青い。……
外に
見えるものは
何にもない。
目が
青く
脳が
青く
成つて
了つたかと
思ふばかり。
時々黒いものがスツスツと
通るが、
犬だか
人間だか
差別がつかぬ……
客人は
変に
成つた、
気が
違つた、と
云ふ
声が
嘲ける
如く、
憐む
如く、
呟く
如く、また
咒咀ふ
如く
耳に
入る……
『お
客様、』
『
奥様』と
呼ぶのが
峯から
伝はる。
谺を
返して
谷へカーンと
響く、――
雲が
白く、
山が
青く、
風が
吹いて
水が
流れる。
『
客人は
気が
違つた、』と
言ふのが
分る。
「
可、
何とでも言へ、
昨日今日二世かけて
契を
結んだ
恋女房がフト
掻消すやうに
行衛が
知れない。
其を
捜すのが
狂人なら、
飯を
食ふものは
皆狂気、
火が
熱いと
言ふのも
変で、
水が
冷いと
思ふも
可笑しい。
温泉の
湧出すなどは、
沙汰の
限りの
狂気山だ、はゝゝはゝ、」
と
雪枝は
額髪を
揺るまで、
膝を
抱へて、
高笑を
遣つた。
雲が
動いて、
薄日が
射して、
反らした
胸と、
仰いだ
其の
額を
微かに
照らすと、ほつと
酔つたやうな
色をしたが、
唇は
白く、
目は
血走るのである。
老爺は
小首を
傾けた。
急に
又雪枝は、
宛然稚子の
為るやうに、
両掌を
双の
目に
確と
当てゝ、がつくり
俯向く、
背中に
雲の
影が
暗く
映した。
「
其の
中に
四辺が
真暗に
成つた。
暗く
成つたのは
夜だらう、
夜の
暗さの
広いのは、
田か
畠か
平地らしい、
原かも
知れない……
一目其の
際限の
無い
夜の
中に、
墨が
染んだやうに
見えたのは
水らしかつた……が、
水でも
構はん、
女房の
行衛を
捜すのに、
火の
中だつて
厭ひは
為ない。づか/\
踏込まうとすると、
『あゝ、
深いぞ、
誰ぢや、
水へ……』
と
其時、
暗がりから、しやがれた
声を
掛けて、
私を
呼留めたものがあります。
暗に
透かすと、
背の
高い
大な
坊主が
居て、
地から
三尺ばかり
高い
処、
宙で
胡座掻いたも
道理、
汀へ
足代を
組んで
板を
渡した
上に
構込んで、
有らう
事か、
出家の
癖に、……
水の
中へは
広い
四手網が
沈めてある。」
老爺は
眉毛をひくつかせた。
「はての。」
「
其の
入道の、のそ/\と
身動きするのが、
暗夜の
中に、
雲の
裾が
低く
舞下つて、
水にびつしより
浸染んだやうに、ぼうと
水気が
立つので、
朦朧として
見えた。
『
沼ぢや、
気を
着けやれ』と
打切つたやうに
言ひます。
『
沼でも
海でも、
女房が
居れば
入らずに
置けない。』
苛々するから、
此方はふてくされで
突掛る。
と
入道が
耳を
貫いて、
骨髄に
徹る
事を、
一言。
『はゝあ、
此処なは、
御身が
内儀か、』
と
言ふ。
『
此処なは……
私の……
女房だと? ……』
『おゝ、
私が
今出逢ふた、
水底から
仰向けに
顔を
出いた
婦人の
事ぢや。』
『や、
溺れて
死んだか。』
とばつたり
膝を
支く、と
入道は
足代の
上から、
蔽被さるやうに
覗いて、
『
待て、
待て、
死骸を
見たでは
無い。ぢやが、
正のものでもなかつた……
謂はゞ
影ぢやな。
声の
有る
色の
有る
影法師ぢや……
其のものから、
御身に
逢ふて
話してくれい、と
私が
托言をされたよ。……
何かな、
御身は
遠方から、
近頃此の
双六の
温泉へ、
夫婦づれで
湯治に
来て、
不図山道で
其の
内儀の
行衛を
失ひ、
半狂乱に
捜してござる
御仁かな。』とつけ/\
訊ねる。
女房が
失せて
半狂乱、」
と
雪枝は、
思出すのも、
口惜しさうに
歯噛みをした。
「
察して
下さい、……
唯其の
音信の
聞きたさに、
『えゝ、
其ものです』と
返事を
為ました。
『やれ/\、
気の
毒。』
とさら/\と
法衣の
袖を
掻合はせる
音がして、
『
私は
旅のものぢやが、
此の
沼は、
城ヶ
沼と
言ふげぢやよ。』
老爺さん、
其処は
城ヶ
沼と
言ふ
処だつた。」
雪枝は
息せはしく
成つて
一息吐く。ト
老爺は
煙草を
払いた。
吸殻の
落た
小草の
根の
露が、
油のやうにじり/\と
鳴つて、
煙が
立つと、ほか/\
薄日に
包まれた。
雲は
稍薄く
成つたが、
天守の
棟は、
聳え
立つ
峯よりも
空に
重い。
「えゝ、
城ヶ
沼の。はあ、
夢中で
其処ら
駆廻らしつたものと
見える……それは
山の
上では
無い。お
前様が
温泉へ
来さつしやつた
街道端の、
田畝に
近い
樹林の
中にある
大い
沼よ。――
何が、
其の
水は
谿河の
流を
堰いて
溜めたでは
無うて、
昔から
此の……
此処な
濠の
水が
地の
底を
通ふと
言ふだね。……
お
天守の
下へも
穴が
徹つて、お
城の
抜道ぢや
言ふ
不思議な
沼での、……
私が
祖父殿が
手細工の
船で、
殿様の
妾を
焼いたと
言つけ。
其ん
時はい、
其の
影が、
城ヶ
沼へ
歴然と
映つて、
空が
真黒に
成つたと
言ふだ。……
其さ
真個か
何うか
分らねども、お
天守の
棟は、
今以つて
明かに
映るだね。
水の
静な
時は
大い
角の
龍が
底に
沈んだやうで、
風がさら/\と
吹く
時は、
胴中に
成つて
水の
面を
鱗が
走るで、お
城の
様子が
覗けるだから、
以前は
沼の
周囲に
御番所が
有つた。
最もはあ、
殺生禁制の
場所でがしたよ。
其の
上、
主が
居て
住む、と
云ふて、
今以て
誰一人釣をするものはねえで、
鯉鮒の
多い
事。……
お
前様が
温泉の
宿で
見さしつけな、
囲炉裡の
自在留のやうな
奴さ、
山蟻が
這ふやうに、ぞろ/\
歩行く。
あの、
沼へ、
待たつせえ、」
と
又眉をびく/\
遣つた。
「
四手場を
拵えて
網を
張るものは
近郷近在、
私の
他に
無いのぢやが、……お
前様が
見さしつた、
城ヶ
沼の
四手場の
足代の
上の
黒坊主と……はてな……
其の
坊様は
大い
割に、
色が
蒼ざめては
居らんかの。」
「あゝ、
蒼ざめた、」
と
雪枝は
起直つて
言つた。
「
鼻の
円い、
額の
広い、
口の
大い、……
其の
顔を、
然も
厭な
色の
火が
燃えたので、
暗夜に
見ました。……
坊主は
狐火だ、と
言つたんです。」
「それ/\、
其の
坊様なら、
宵の
口に
私が
頼んで
四手場に
居て
貰ふたのぢや……、はあ、
其処へお
前様が
行逢はしつたの。はて、どうも、
妙智力、
旦那様と
私は
縁が
有るだね。」
「
確に
師弟の
縁が
有ると
思ひます、」
と
雪枝は
慇懃に
言ふ。
「まあ、
串戯は
措かつせえ。……
時に
其の
坊様は
何と
云ふでがすね。」
「えゝ、……
『
私は
旅から
旅をふら/\と
経廻るものぢやが、』と
坊様が
言ふんです。
『
日が
暮れて
此処を
通りかゝると、
今、
私が
御身に
申したやうに、
沼の
水は
深いぞ、と
気を
注けたものがある。
此の
四手場に
片膝で、
暗の
水を
視詰めて
居た
老人ぞや。さて
漁はあるか、と
問へば、
漁は
有るが、
魚は
一向に
獲れぬと
言ふ。
希有な
事を
聞くものぢや、
其の
理由は、と
尋ねると、
老人の
返事には、』
と
其の
坊主が
話したんです。……ぢや、
老爺さん――
老人が
貴下なら、
貴下が
坊主に
話された、と
云ふ、
城ヶ
沼の
鯉鮒は、
網で
掬へば
漁はあるが、
畚に
入れると
直ぐに
消えて、
一尾も
底に
留らぬ。
鰌一尾獲物は
無い。
無いのを
承知で、
此処に
四ツ
手を
組むと
言ふのは、
夜が
更けると
水に
沈めた
網の
中へ、
何とも
言へない、
美しい
女が
映る。
其を
見たい
為に、
独り
恁うやつて
構へて
居る、……とお
話があつたやうに、
其の
時坊主から
聞いたんです……それは
真個の
事ですか?
老爺さん。」
一切、
事実だ、と
老爺は
答へたのである。
はじめの
内、……
獲た
魚は
畚の
中を
途中で
消えた。
荻尾花道、
木の
下路、
茄子畠の
畝、
籔畳、
丸木橋、……
城ヶ
沼に
漁つて、
老爺が
小家に
帰る
途中には、
穴もあり、
祠もあり、
塚もある。
月夜の
陰、
銀河の
絶間、
暗夜にも
隈ある
要害で、
途々、
狐狸の
輩に
奪ひ
取られる、と
心着き、
煙草入の
根附が
軋んで
腰の
骨の
痛いまで、
下つ
腹に
力を
籠め、
気を
八方に
配つても、
瞬をすれば、
一つ
失せ、
鼻をかめば
二つ
失せ、
嚏をすればフイに
成る。……で、
未だも
途中まで
畚の
重い
内は
張合もあつた。けれども、
次第に
畜生、
横領の
威を
奮つて、
宵の
内からちよろりと
攫ふ、
漁る
後から
嘗めて
行く……
見る/\
四つ
手網の
網代の
上で、
腰の
周囲から
引奪る。
最も
其の
時は、
何となく
身近に
物の
襲ひ
来る
気勢がする。
左の
手がびくりとする
時、
左から
丁手掻で、
右の
腕がぶるつと
為る
時、
右の
方から
狙ふらしい。
頸首脊筋の
冷りと
為るは、
後に
構まへてござる
奴。
天窓から
悚然とするのは、
惟ふに
親方が
御出張かな。いや
早や、
其と
知りつゝ、さつ/\と
持つて
行かれる。
最も
身体を
蓋に
為て
畚の
魚を
抱いてゞも
居れば、
如何に
畜生に
業通が
有つても、まさかに
骨を
徹しては
抜くまい、と
一心に
守つて
居れば、
沼の
真中へひら/\と
火を
燃す、はあ、
変だわ、と
気が
散ると、
立処に
鯉が
失せる。
其の
術で
行かねば、
業を
変へて、
何処とも
知らず、
真夜中にアハヽアハヽ
笑ひをる、
吃驚すると
鮒が
消える、――
此方も
自棄腹の
胴を
極めて、
少々脇の
下を
擽られても、
堪へて
静として
畚を
守れば、さすが
目に
見せて、
尖つた
面、
長い
尻尾は
出さぬけれど、さて
然うして
見た
日には、
足代を
組んで
四手を
沈めて、
身体を
張つて、
体よく
賃無しで
雇はれた
城ヶ
沼の
番人同然、
寐酒にも
成らず、
一向に
市が
栄えぬ。
魚が
寄ると
見れば、
網を
揚げる、
網を
両手で、ぐい、と
引いて、
目も
心も
水に
取られる
時の
惨憺さ。ガサリなどゝ
音をさして、
畚を
俯向けに
引繰返す、と
這奴にして
遣らるゝはまだしもの
事、
捕つた
魚が
飜然と
刎ねて、ざぶんと
水に
入つてスイと
泳ぐ。
余の
他愛なさに、
効無い
殺生は
留にしやう、と
発心をした
晩、これが
思切りの
網を
引くと、
一面城ヶ
沼の
水を
飜して、
大四手が
張裂けるばかり
縦に
成つて、ざつと
両隅から
高く
星の
空へ
影が
映して、
沼の
上を
離れる
時、
網の
目を
灌いで
落ちる
水の
光り、
霞の
懸つた
大な
姿見の
中へ、
薄りと
女の
姿が
映つた。
「よく、はい、
噂に
聞くお
客様が
懸つたやうだね。
恁う、
其の
網を
引張つて、」
老爺は
手で
掴んで
腰を
反らして
言ふのである。
「
引き
懸けた
処でがんしよ……
鮒一尾入つた
手応もねえで、
水はざんざと
引覆るだもの。
人間の
突入つた
重さはねえだ。で、
持つたまま
大揺りに
身躰ごと
網を
揺れば、
矢張揺れて、
衣服だか
鰭だか、
尾毛だか、
網の
中の
婦の
姿がふら/\
動くだ。はて、
変だと
手を
離すと、ざぶりと
沈むだ。
其の
網の
底の
方……
水ン
中に、ちら/\と
顔が
見える……
其のお
前様、
白い
顔が
正的に
熟と
此方を
見るだよ。
や、
早や
其時は
畚が
足代を
落こちて、
泥の
上に
俯向けだね。
其奴が、へい、
足を
生やして
沼へ
駆込まぬが
見つけものだで、
畜生め、
此の
術で
今夜は
占めをつた。
何のつけ、
最う
二度と
来る
事ではない、とふつ/\
我を
折つて
帰りましけえ。
怪※[#「りっしんべん+牙」、U+3909、119-16]な
事には、
眉が
何う、
目が
何う、と
云ふ
覚はねえだが、
何とも
言はれねえ、
其の
女の
容色だで……
色も
恋も
無けれども、
絵を
見るやうで、
何とも
其の、
美しさが
忘れられぬ。
化けたなら
化けたで
可、
今夜は
蛇に
成らうも
知んねえが、
最う
一晩出懸けて
見べい。」……
で、
又てく/\と
沼へ
出向く、と
一刷け
刷いた
霞の
上へ、
遠山の
峰より
高く
引揚げた、
四手を
解いて
沈めたが、
何の
道持つては
帰られぬ
獲物なれば、
断念めて、
鯉が
黄金で
鮒が
銀でも、
一向に
気に
留めず、
水に
任せて
夜を
更す。
風が
吹き、
風が
凪ぎ、
水が
動き、
水が
静まる。
大沼の
刻限も、
村里と
変り
無う、やがて
丑満と
思ふ、
昨夜の
頃、ソレ
此処で、と
網を
取つたが、
其の
晩は
上へ
引揚げる
迄もなく、
足代の
上から
水を
覗くと
歴然と
又顔が
映つた。
と
老爺が
話す。
「
聞かつせえまし、
肩から
胸の
辺まで、
薄らと
見えるだね、
試して
見ろで、やつと
引き
揚げると、
矢張り
網に
懸つて
水を
離れる……
今度は、ヤケにゆつさゆさ
引振ふと、
揉消すやうにすツと
消えるだ――
其処でざぶんと
沈める、と
又水の
中へ
露はれる。……
三夜四夜と
続いたが、
何時も
其の
時刻に
屹と
映るだ。
追々馴染が
度重ると、へい、
朝顔の
花打沈めたやうに、
襟も
咽喉も
色が
分つて、
口で
言ひやうは
知らぬけれど、
目附なり
額つきなり、
押魂消た
別嬪が、
過般中から、
同じ
時分に、
私と
顔を
合はせると、
水の
中で
莞爾笑ふ。……
や、
其の
笑顔を
思ふては、
地韜踏んで
堪へても
小家へは
寐られぬ。
雨が
降れば
簑を
着て、
月の
良い
夜は
頬被り。つひ
一晩も
欠かさねえで、
四手場も
此の
爺も、
岸に
居着きの
巌のやうだ――
扨気が
着けばひよんな
事、
沼の
主に
魅入られた、
何か
前世の
約束で、
城ヶ
沼の
番人に
成つたゞかな。
何処で
死ぬ
身と
考える、と
心細い
身の
上ぢやが、
何と
為ても
思切れぬ……
いけ
年を
為た
爺が、
女色に
迷ふと
思はつしやるな。
持たぬ
孫の
可愛さも、
見ぬ
極楽の
恋しいも、これ、
同じ
事と
考えたゞね。……
さて
困つたは、
寒ければ、へい、
寒し、
暑ければ
暑い
身躰ぢや、
飯も
食へば、
酒も
飲むで、
昼間寐て
夜出懸けて、
沼の
姫様見るは
可えが、そればかりでは
活きて
居られぬ。」
譬へば
幻の
女の
姿に
憧がるゝのは、
老の
身に
取り、
極楽を
望むと
同じと
為る。けれども
其の
姿を
見やうには、……
沼へ
出掛けて、
四つ
手場に
蹲つて、
或刻限まで
待たねばならぬ。で、
屋根から
月が
射すやうな
訳には
行かない。
其処で、
稼ぎも
為ず
活計も
立てず、
夜毎に
沼の
番の
難行は、
極楽へ
参りたさに、
身投げを
為るも
同じ
事、と
老爺は
苦笑ひをしながら
言つた。
そんなら、
四つ
手場を
留めにして、
小家で
草鞋でも
造れば
可が、
因果と
然うは
断念められず、
日が
暮れると、そゝ
髪立つまで、
早や
魂は
引窓から
出て、
城ヶ
沼を
差してふわ/\と
白い
蝙蝠のやうに


ひ
行く。
待てよ、
恁うまで、
心を
曳かるゝのは、よも
尋常ごとでは
有るまい。
伝へ
聞く
沼の
中へは
古城の
天守が
倒に
宿る……
我が
祖先の
術の
為に、
怪しき
最後を
遂げた
婦が、
子孫に
絡る
因縁事か。
其とも
弔らはれず
浮かばぬ
霊が、
無言の
中に
供養を
望むのであらうも
知れぬ。
独りでは
何しろ
荷が
重い。
村の
誰にかも
見せて、
怪しさを
唯※[#「さんずい+散」、U+6F75、122-3]の
如く
散らさう、と
人に
告げぬのでは
無いけれども、
昼間さへ、
分けて
夜に
成つて、
城ヶ
沼の
三町四方へ
寄附かうと
言ふ
兄哥は
居らぬ。
殆んど
我身を
持て
余した
頃の、
其の
夜……
「お
前様が
逢はしつた
坊主が
来て、のつそり
立つた。や、これも
怪しい。
顔色の
蒼ざめた
墨の
法衣の、がんばり
入道、
影の
薄さも
不気味な
和尚、
鯰でも
化けたか、と
思ふたが、――
恁く/\の
次第ぢや、
御出家、……
大方は
亡霊が
廻向を
頼むであらうと
思ふで、
功徳の
為め、
丑満まで
此処にござつて
引導を
頼むでがす。――
旅の
疲労も
有らつしやらうか、
何なら、
今夜は
私が
小家へ
休んで、
明日の
晩にも、と
言ふたが、
其には
及ばぬ……
若しや、
其が
真実なら、
片時も
早く
苦艱を
救ふて
進ぜたい。
南無南無と
口の
裡で
唱うるで、
饗応振に、
藁など
敷いて
坐らせて、
足代の
上を
黒坊主と
入替つた。
さあ、
身代りは
出来たぞ!
一目彼の
女を
見され、
即座に
法衣を
着た
巌と
成つて、
一寸も
動けまい、と
暗の
夜道を
馴れた
道ぢや、すた/\と
小家へ
帰つてのけた……
翌朝疾く
握飯を
拵へ、
竹の
皮包みに
為て、
坊様を
見舞に
行きつけ…
靄の
中に
影もねえだよ。
はあ、よもや、とは
思ふたが、
矢張り
鯰めが
来せたげな。えゝ、
埒もない、と
気が
抜けて、
又番人ぢや、と
落胆したゞが、
其の
晩もう
一度行く、と
待つとも
無う
夜が
更けても、
何時の
影は
映らなんだ。
四手を
上げても
星も
懸らず、
鬢の
香のする
雫も
落ちぬ。あゝ、
引導を
渡したな。
勿躰ない、
名僧智識で
有つたもの、と
足代の
藁を
頂いたゞがの、……
其では、お
前様が
私の
後へござつて、
其の
坊主に
逢しつたものだんべい。
……までは、はあ、
分つたが、
私が
城ヶ
沼の
水の
映る
女を
見はじめたは
久い
以前ぢや。お
前様湯治にござつて、
奥様の
行方が
知れなく
成つたは、つひ
此の
頃の
事ではねえだか、
坊様は
何処で
聞いて、
奥様の
言づけを
為たゞがの。」
「
其を
坊様が
言つたんです。
其の
出家の
言ふには、
『……
人は
知らぬが、
此処に
居た
老人に、
水の
中へ
姿を
顕はす
幻の
婦に
廻向を、と
頼まれて、
出家の
役ぢや、……
宵から
念仏を
唱へて
待つ、と
時刻が
来た。
大沼の
水は
唯、
風にも
成らず
雨にも
成らぬ、
灰色の
雲の
倒れた
広い
亡体のやうに
見えたのが、
汀からはじめて、ひた/\と
呼吸をし
出した。ひた/\と
言ひ
出した。
幽にひた/\と
鳴出した。
町方、
里近の
川は、
真夜中に
成ると
流の
音が
留むと
言ふが
反対ぢやな。
此の
沼は、
其時分から
動き
出す……
呼吸が
全躰に
通ふたら、
真中から、むつくと
起きて、どつと
洪水に
成りはせぬかと
思ふ
物凄さぢや。
と
其の
中に
何やら
声がする。』……と
坊主が
言ひます。」
其の
声が、
五位鷺の、げつく、げつくとも
聞こえれば、
狐の
叫ぶやうでもあるし、
鼬がキチ/\と
歯ぎしりする、
勘走つたのも
交つた。
然うかと
思ふと、
遠い
国から
鐘の
音が
響いて
来るか、とも
聞取られて、
何となく
其処等ががや/\し
出す……
雑多な
声を
袋に
入れて、
虚空から
沼の
上へ、
口を
弛めて、わや/\と
打撒けたやうに
思ふと、
『
血を
洗へ、』
『
洗へ』
『
人間の
血を
洗へ。』
『
笘で
破つた。』
『
鞭で
切つた。』
『
爪で
裂いた。』
『
膚を
浄めろ、』
『
浄めろ。』
と
高く
低く、
声々に
大沼のひた/\と
鳴るのが
交つて、
暗夜を
刻んで
響いたが、
雲から
下りたか、
水から
湧いたか、
沼の
真中あたりへ
薄い
煙が
朦朧と
靡いて
立つ……
『
煮殺すではないぞ。』
『うでるでない。』と
言ふ。
『
湯加減、
湯加減、』
『
水加減。』と
喚いた……
『
沼の
湯は
熱いか。』とぼやけた
音で
聞くのがある……
『
熱湯。』と
簡単に
答へた。
『
人間は
知るまいな。』
『
知るものか。』と
傲然とした
調子で
言つた。
『
沼から
何で
沸湯が
出る。』
『
此の
湯が
沸いて
殺さぬと、
魚が
殖へて
水が
無くなる、
沼が
乾くわ。』
と
言つた。
『
※舌[#「口+堯」、U+5635、125-7]るな、
働け。』
『
血を
洗へ、』
『
傷を
洗へ』
『
小袖を
剥がせ』
『
此の
紫は?』
『
菖蒲よ、
藤よ。』
『
帯が
長いぞ。』
『
蔦、
桂、
山鳥の
尾よ。』
『
下着も
奪へ、』
『
此の
紅は、』
『もみぢ、
花。』
『やあ、
此の
膚は、』
『
山陰の
雪だ。』
ひいツ、と
魂消つて
悲鳴を
上げた、
糸のやうな
女の
声が
谺を
返して
沼に
響いた。
坊主が
此処まで
言つた
時、
聞いてた
私は
熱鉄のやうな
汗が
流れた。」
と
雪枝は
老爺に
語りながら
唇を
戦かせて、
「
尚ほ
坊主が
続けて、
話す。
さあ
何ものかゞ
寄つて
集つて、
誰かを
白裸にした、と
思へば、
『
犬よ、
犬よ。』と
呼んだのがある。
びやう、びやう、うおゝ、うおゝ、うゝ、と
遥かに
犬が
長吠して、
可忌しく
夜陰を
貫いたが、
瞬く
間に、
里の
方から、
風のやうに
颯と
来て、
背後から、
足代場の
上に
蹲つた――
法衣の
袖を
掠めて
飛んだ、トタンに
腥い
獣の
香がした。
水の
上で、わん、わん、と
啼く……
『
男は
知るまい。』
『うゝ、』と
犬の
声。
『
不便な
奴だ。』
『びやう、』と
又啼いた。
此の
間、ざぶり/\と
水を
懸ける
音が
頻にした。
『やがて
可いか、』
『
血は
留まつた。』
『
又鞭打つて、』
『
又洗はう。』
『やあ、
己が
手、』
『
我が
足、』
『
此の
面に
絡はるは。』
『
水に
拡がる
黒髪ぢや、』
『
山の
婆々の
白髪のやうに、すく/\と
痛うは
刺さぬ。』
『
蛇よりは
心地よやな。』と
次第に
声が
風に
乗り
行く……
びやう/\と
凄い
声で、
形は
見えず、
沼の
上で
空ざまに
犬が
啼く。
『
犬よ、
犬よ。』
『おう。』と
吠えた。
『
人間の
目には
見えぬ……
城山の
天守の
上に、
女は
梁から
釣して
置く、と
男に
言へ!』
『
何が、
彼の
耳へ
入らう。』
『わん、と
啼いたら、
犬だと
思はう、
彼の
痴漢が。』
と
嘲る
声。
傍から
老けた
声して、
『……
其の
言附は、
犬では
不可ぬ。
時鳥に
一声啼かせろ。』
『まだ/\、まだ/\、
山の
中の
約束は、
人間のやうに
間違はぬ。
今は
未だ
時鳥の
啼く
時節で
無い。』
『
唯姿だけ
見せれば
可い。
温泉宿の
二階は
高し。あの
欄干から
飛込ませろ、……
女房は
帰らぬぞ、
女房は
帰らぬぞ、と
羽で
天井をばさばさ
遣らせろ。』
『
男は、
女の
魂が
時鳥に
成つた
夢を
見て、
白い
毛布で
包んで
取らうと
血眼で
追駆け
回さう……
寐惚面見るやうだ。』
どつと
笑つて、
天守の
方へ
消えた
後は、
颯々と
風に
成つた。
が、
田畠野の
空を、
山の
端差して、
何となく
暗ながら
雲がむくむくと
通つて
行く。
其の
気勢が、やがて
昼間見た
天守の
棟の
上に
着いた
程に、ドヽンと
凄い
音がして、
足代に
乗つた
目の
下、
老人が
沈めて
去つた
四つ
手網の
真中あたりへ、したゝかな
物の
落ちた
音。
水が
環に
成つて、
颯と
網を
乗出して
展げた
中へ、
天守の
影が、
壁も
仄白く
見えるまで、
三重あたりを
樹の
梢に
囲まれながら、
歴然と
映つて
出た。
不思議や、
其の
天守の
壁を
透いて、
中に
灯を
点けたやうに、
魚の
形した
黄色い
明のひら/\するのが、
矢間の
間から、
深い
処に
横開けで、
網の
目が
映るのか
凡そ
五十畳ばかりの
広間が、
水底から
水面へ、
斜に
立懸けたやうに
成つて、ふわ/\と
動いて
見える。
他に
何も
無く
誰も
居らぬ。
灯唯一つ
有る。
其の
灯が、
背中から
淡く
射して、
真白な
乳の
下を
透す、……
帯のあたりが、
薄青く
水に
成つて、ゆら/\と
流れるやうな、
下が
裙に
成つて、
一寸灯の
影で
胴から
切れた
形で、
胸を
反らした、
顔を
仰向けに、
悚然とするやうな
美い
婦。
処で、
水へ
映る
影と
言へば、
我が
面影を
覗くやうに、
沼に
向つて、
顔を
合はせるやうに
見えるのであらう、と
思ふたが
違う。――
黒髪が
岸へ、
足が
彼方へ、たとへば
向ふの
汀から
影が
映すのを、
倒に
視める
形。つく/″\と
見れば
無残や、
形のない
声が
言交はした
如く、
頭が
畳の
上へ
離れ、
裙が
梁にも
留まらずに
上から
倒に
釣して
有る……
と
身を
悶くか
水が
揺れるか、わな/\と
姿が
戦く――
天守の
影の
天井から
真黒な
雫が
落ちて、
其の
手足に
懸つて、
其のまゝ
髪の
毛を
伝ふやうに、
長く
成つて、
下へぽた/\と
落ちて、ずらりと
伸びて、
廻りつ
畝りつするのを、
魚の
泳ぐのか、と
思ふと
幾条かの
蛇で、
梁にでも
巣をくつて
居るらしい。
然うかと
思ふと、
膝のあたりを、のそ/\と
山猫が
這つて
通る。
階子の
下から
上つて
来るらしく、
海豚が
躍るやうな
影法師は
狐で。ひよいと
飛上るのもあれば、ぐる/\と
歩行き
廻るのもあるし、
胴を
伸ばして
矢間から
衝と
出て、
天守の
棟で
鯱立ちに
成るのも
見える。
時々ひら/\と
烏が
出て、
翼で、
女の
胸を
払く……
中に
見る
目も
恐しかつたは、――
茶と
白大斑の
獣が
一頭、
天守の
階子を、のし/\と、
蹄で
蹈んで
上つて、
畳を
抱いて
人のやうに
立上つた
影法師が、
女の
上を
横に
通ると、
姿は
隠れて、
颯と
蒼く
成つた
面影と、ちらりと
白い
爪尖ばかりの
残つた
時で――
獣が
頓て
消えたと
思ふと、
胸を
映した
影が
波立ち、
髪を
宿した
水が
動いた……
『
御身が
女房の
光景ぢや。』と
坊主が
私の
顔の
前へ、
何故か
大な
掌を
開けて
出した。」
「
私は
息を
引いて
退つたんです。」と
雪枝は
尚ほ
語り
続けた。
「……
水の
中からともなく、
空からともなく、
幽に
細々とした
消えるやうな、
少い
女の
声で、
出家を
呼んだ、と
言ひます。
而して、
百年以来、
天守に
棲む
或怪いものゝ
手を
攫はれて、
今見らるゝ
通りの
苦艱を
受ける……
何とぞ
此の
趣を、
温泉に
今も
逗留する
夫に
伝へて、
寸時も
早く
人間界に
助けられたい。
救ふには、
天守の
主人が
満足する、
自分の
身代りに
成るほどな、
木彫の
像を、
夫の
手で
刻んで
償ふ
事で。
其の
他に
助かる
術はない……とあつた。
『
都の
人、
唯私が
口から
言ふたでは、
余の
事に
真とされまい。……あはれな
犠牲の
婦人も、
唯恁う
申したばかりでは、
夫も
心に
疑ひませう……
今其の
印を、と
言ふてな、
色は
褪せたが、
可愛い
唇を
動かすと、
白歯に
啣えたものがある。
白魚の
目のやうな
黒い
点々が
一つ
見えた……
口からは
不躾ながら、
見らるゝ
通り
縛めの
後手なれば、
指さへ
随意には
動かされず……あゝ、
苦しい。と
総身を
震はして、
小さな
口を
切なさうに
曲めて
開けると、
煽つ
水に
掻乱されて
影が
消えた。
戞然と
音して
足代の
上へ、
大空からハタと
落ちて
来たものがある……
手に
取ると
霰のやうに
冷たかつたが、
消えも
解けもしないで、
破れ
法衣の
袖に
残つた。
『
印はこれぢや。』
と
私の
掌を
開けさせて、ころりと
振つて
乗せたのは、
忘れもしない、
双六谷で、
夫婦が
未来の
有無を
賭為やうと
思つて
買つた
采だつたんです。
『
都の
人、』
と
坊主は
又更めて、
『
御身は
木彫を
行るかな。』
『
行ります!』
と
答へた
時、
私は
蘇生つたやうに
思つた。
水も
白く
夜も
明く
成つた……お
浦の
行方も
知れ、
其の
在所も
分り、
草鞋や
松明で
探つた
処で、
所詮無駄だと
断念も
着く……
其に、
魔物の
手から
女房を
取返す
手段も
出来た。
我が
手に
身代の
像を
作れと
云ふ。
敢て
黄金を
積め、
山を
崩せ、と
命ずるのでは
無いから、
前途に
光明が
輝いて、
心は
早や
明かに
渠を
救ふ
途の
第一歩を
辿り
得た。
草を
開いて、
天守に
昇る
路も
一筋、
城ヶ
沼の
水を
灌いで、
野山をかけて
流すやうに
足許から
動いて
見える。
我が
妻、
聞くが
如くんば、
御身は
肉を
裂かれ、
我は
腸を
断つ。
相較べて
劣りはせじ。
堪へよ、
暫時、
製作に
骨を
削り、
血を
灌いで、…
其の
苦痛を
償はう、と
城ヶ
沼に
対して、
瞑目し、
振返つて、
天守の
空に
高く
両手を
翳して
誓つた。
其の
時、お
浦が
唇を
開いて、
僧の
手に
落したと
云ふ、
猪の
牙の
采を
自分の
口に
含んで
居た。が、
同じ
舌の
尖に
触れた、と
思ふと
血を
絞つて
湧き
出づる
火のやうな
涙とゝもに、ほろり、と
采が
手に
落ちた。
其の
掌を
忘るゝばかり
心を
詰めて
握占めた
時、
花の
輪が
渦くやうに
製作の
興が
湧いた。――
閉づる、
又開く、
扇の
要を
思着いた、
骨あれば
筋あれば、
手も
動かう、
足も
伸びやう……
風ある
如く
言はう…と
早や
我が
作る
木彫の
像は、
活きて
動いて、
我が
身ながらも
頼母しい。さて
其の
要は、……
手に
握つた
采であつた。
天が
命じて、
我をして
為さしむる、
我が
作す
美女の
立像は、
其の
掌に
采を
包んで、
作の
神秘を
胸に
籠めやう。
言ふまでも
無く、
其の
面影、
其の
姿は、
古城の
天守の
囚と
成つた、
最惜い
妻を
其のまゝ、と
豁然として
悟ると
同時に、
腕には
斧を
取る
力が
籠つて、
指と
指とは
鑿を
持たうとして
自然で
動く――
時なる
哉、
作の
頭に
飾るが
如く、
雲を
破つて、
晃々と
星が
映つた。
星の
下を
飛んで
帰つて、
温泉の
宿で、
早や
準備を、と
足が
浮く、と
最う
遠く
離れた
谿河の
流が、
砥石を
洗ふ
響を
伝へる。
然うすると、
心に
刻んで、
想像に
製り
上げた……
城の
俘虜を
模型と
為た
彫像が、
一団の
雪の
如く、
沼縁にすらりと
立つ。
手を
伸べよ、と
思へば
伸べ、
乳を
蔽へと
思へば
蔽ひ、
髪を
乱せと
思へば
乱れ、
結べよ、と
思へば
結ばる――さて、
衣を
着せやうと
思へば
着る。
作の
出来栄を
予想して、
放つ
薫、
閃めく
光の
如く
眼前に
露はれた
此の
彫像の
幻影は、
悪魔が
手に、
帯を
奪はうとして、
成らず、
衣を
解かうとして、
得ず、
縛められても
悩まず、
鞭つても
痛まず、
恐らく
火にも
焼けず、
水にも
溺れまい。
見よ/\、
同じ
幻ながら、
此の
影は
出家の
口より
伝へられたやうな、
倒に
梁に
釣される、
繊弱い
可哀なものでは
無い。
真直に、
正しく、
美しく
立つ。あゝ、
玉の
如き
肩に、
柳の
如き
黒髪よ、
白百合の
如き
胸よ、と
恍惚と
我を
忘れて、
偉大なる
力は、
我が
手に
作らるべき
此の
佳作を
得むが
為め、
良匠の
精力をして
短き
時間に
尽さしむべく、
然も
其の
労力に
仕払ふべき、
報酬の
量の
莫大なるに
苦んで、
生命にも
代へて
最惜む
恋人を
仮に
奪ふて、
交換すべき
条件に
充つる
人質と
為たに
相違ない。
卑怯なる
哉、
土地祇、……
実に
雪枝が
製作の
美人を
求めば、
礼を
厚くして
来り
請はずや。もし
其の
代価に
苦むとならば、
玉を
捧げよ、
能はずんば
鉱石を
捧げよ、
能はずんば
巌を
欠いて
来り
捧げよ。
一枝の
桂を
折れ、
一輪の
花を
摘め。
奚ぞみだりに
妻に
仇して、
我をして
避くるに
処なく、
辞するに
其の
術なからしむる。……
汝等、
此処に、
立処に
作品の
影の
顕はれたる
此の
幻の
姿に
対して、
其の
礼無きを
恥ぢざるや……
と
背後から
視めて
意気昂つて、
腕を
拱いて、
虚空を
睨んだ。
腰には、
暗夜を
切つて、
直ちに
木像の
美女とすべき、
一口の
宝刀を
佩びたる
如く、
其の
威力に
脚を
踏んで、
胸を
反らした。
「
本気の
沙汰ではない、
世にあるまじき
呵責の
苦痛を
受けて
居る、
女房の
音信を
聞いて、
赫と
成つて
気が
違つたんです。」
我と
我が
想像に
酔つて、
見惚れた
玉の
膚の
背を
透して、
坊主の
黒い
法衣が
映る、と
水の
中に
天守の
梁に
釣下げられた、
其の
姿を
獣の
襲ふ、
其の
俤を
歴然と
見た。
無惨の
状に、ふつと
掻消した
如く
美しいものは
消えた。
『
呼ぶわ、
呼ぶわ。』
と
云つた
坊主の
声。
『おゝい/\、』
『お
客様、お
客様。』
と
叫ぶのが、
遥に、
弱い
稲妻のやうに
夜中を
走つて、
提灯の
灯が
点々畷に


ふ。
『お
客様。』
『
旦那、』
『
奥方様。』
あゝ、
又奥方様をくはせる……
剰へ、
今心着いて、
耳を
澄ませて
聞けば、
我自からも、
此の
頃では
鉦太鼓こそ
鳴らさぬけれども、
土俗に
今も
遣る……
天狗に
攫はれたものを
探す
方法で、あの
通り
呼立て
居る――
成程然う
思へば、
何時温泉の
宿を
出て、
何処を
通つて、
城ヶ
沼に
来たか
覚えて
居らぬ。
『
御身を
呼ぶぢやろ、
去なつしやい。』と
坊主が、はつと
又其の
掌を
拡げた。
此の
煽動に
横顔を
払はれたやうに
思つて、
蹌踉としたが、
惟ふに
幻覚から
覚めた
疲労であらう、
坊主が
故意に
然うしたものでは
無いらしい。
『
御身が
内儀の
言づけを
忘れまいな。』
『
忘れない。』
と
奮然として
答へた。
既に
鬼神に
感応ある、
芸術家に
対して、
坊主の
言語と
挙動は、
何となく
嘗め
過ぎたやうに
思はれたから……
其のまゝ
肩を
聳やかして、
三つ
四つ
輝く
星を
取つて、
直ちに
額を
飾る
意気組。
背を
高く、
足を
踏んで、
沼の
岸を
離れると、
足代に
突立つて
見送つた
坊主の
影は、
背後から
蔽覆さる
如く、
大なる
形に
成つて
見えた。
温泉の
宿を
差して、
城ヶ
沼から
引返す
途中は、
気も
漫に、
直ぐにも
初むべき――
否、
手は
既に
何等か
其に
向つて
働く……
新な
事業に
対する
感興の
雲に
乗るやう、
腕が
翼に
成つて、
星の
下を
飛ぶが
如き
心地した。
恁うまで
情の
昂ぶつた
処へ、はたと
宿から
捜しに
出た
一行七八人の
同勢に
出逢つたのである……
定紋の
着いた
提灯が
一群の
中に
三ツばかり、
念仏講の
崩れとも
見えれば、
尋常遠出の
宿引とも
見えるが、
旅籠屋に
取つては
実際容易な
事では
無からう、――
仮初に
宿つた
夫婦が、
婦は
生死も
行衛も
知れず、
男は
其が
為に、
殆んど
狂乱の
形で、
夜昼とも
無しに
迷ひ
歩行く……
不面目ゆゑ、
国許へ
通知は
無用、と
当人は
堅く
留めたものゝ、
唯、
然やうで、とばかりで
旅籠屋では
済まして
居られぬ。
で、
宿の
了見ばかりで
電報を
打つた、と
見えて
其処で
出逢つた
一群の
内には、お
浦の
親類が
二人も
交つた、……
此の
中に
居ない
巡査などは、
同じ
目的で、
別の
方面に
向つて
居るらしい。
畝路で
出合がしらに、
一同は
騒ぎ
立てた。
就中、わざ/\
東京から
出張つて
来た
親類のものは、
或は
慰め、
或は
励まし、
又戒めなどする
種々の
言葉を、
立続けに
※舌[#「口+堯」、U+5635、135-15]つたが、
頭から
耳にも
入れず……
暗闇の
路次へ
入つて、ハタと
板塀に
突当つたやうに、
棒立ちに
成つて
居たが、
唐突に、
片手の
掌を
開けて、ぬい、と
渠等の
前へ
突出した。
坊主が
自分に
向つて
同じ
事を
為たのを、フト
思出したのが、
殆んど
無意識に
挙動に
出た。ト
尠からず
一同を
驚かして、
皆だぢ/\と
成つて
退る。
ト
此の
鑿を
持ち、
鏨を
持つべき
腕は、
一度掌を
返して、
多勢を
圧して
将棊倒しにもする、
大なる
権威の
備はるが
如くに
思つて、
会心自得の
意を、
高声に
漏らして、
呵々と
笑つた。
『
御苦労御苦労、
真に
御骨折を
懸けて
誰方にも
相済まん。が、
最う
御心配には
及ばんのだ。――お
聞きなさい、
行衛の
知れなかつた
家内は、
唯今其の
所在が
分つた。……ナニ、
無事か?
無事かではない。
考えて
見たつて
知れます。
繊弱い
婦だ、
然も
蒲柳の
質です。
一寸躓いても
怪我をするのに、
方角の
知れない
山の
中で、
掻消すやうに
隠れたものが
無事で
居やう
筈はないではないか。
決して
安泰ではない。
正に
其の
爪を
剥ぎ、
血を
絞り、
肉を

り
骨を
削るやうな
大苦艱を
受けて
居る、
倒に
釣られて
居る。…………………』
と
戦いたが、すぐ
肩を
聳かした。
『
何処に
居る?
何、お
浦の
所在は
何処だ、と
言ふのか。いや、
君方に、
其は
話しても
分るまい。
水の
底のやうな、
樹の
梢のやうな、
雲の
中のやうな、……それぢや
分らん、
分らない、と
言ふのかね、
勿論分りませんとも!
吾輩には
丁と
分つて
居る。
位置も
方角も
残らず
知つてる、――
指して
言へば、
土地のものは
残らず
知つてる。けれども
其を
話すとなると、それ
行け、
救へで、
松明を
振り、
鯨波の
声を
揚げて
騒ぐ、
騒いだ
処で
所詮駄目です。
誰が
行つても
何者が
騒いでも、
迚も
彼は
救ひ
出せない。
おゝ!
君達にも
粗想像出来るか、お
浦は
魔に
攫はれた、
天狗が
掴んだ、……
恐らく
然うだらう。……が、
私は
此を
地祇神の
所業と
惟ふ。たゞし、
鬼にしろ、
神にしろ、
天狗にしろ、
何のためにお
浦を
攫つたか、
其の
意味が
分るまい、
諸君には
知れなからう。
独りこれを
知るものは
吾輩だよ。
而して
此を
救ふものも
又吾輩でなければ
不可い。
然も
彼を
連れ
返る
道は、
丁と
最う
着いて
居るんだ。
唯少時の
辛抱です。いや/\、
決して
貴下方が
御辛抱なさるには
及ばん。
辛抱をするのはお
浦だ、
可哀想な
婦だ。
我慢をしてくれ、お
浦、
腕は
確だ。』
と、
掌を
開いて、ぱつ、と
出す。と
一同はどさ/\と
又退つた。
吃驚して
泥田へ
片脚落したのもある、……ばちやりと
音して。……
『
気が
違つた。』
『
変だ。』
『
真物だ。』……と
囁き
合ふ。
狂気した、
変だ、と
云ふのは
言葉の
切目毎に
耳に
入つた。が、これほど
確な
事を、
渠等は
雲を
掴むやうに
聞くのであらう。
我は
手に
握つて、
双の
眼で
明かに
見る
采の
目を、
多勢が
暗中に
摸索して、
丁か、
半か、
生か、
死か、と
喧々騒ぎ
立てるほど
可笑な
事は
無い。
『はゝゝ、
大丈夫、
心配は
無いと
云ふに、――お
浦の
所在も、
救ふ
路も、すべて
掌の
中に
在る。
吾輩が
掴んで
居る。
要は
唯掴んだ
此の
手を
開く
時間を
待つ
事だ。――
今開け、と
云つても
然うは
不可ん。
唯、
開くのではない、
開いてお
浦の
掌へ
返すんだ、いや/\
彫像の
拳に
納めるんだ。』
と、
益々こんがらかつて、
自分にも
分らなく
成る。
先方のきよとつくだけ
此方は
苛立つ。
言へば
言ふほど
枝葉が
茂つて、
路が
岐れて
谷が
深く、
野が
広く、
山が
高く
成つて、
雲が
湧き
出す、
霞がかゝる、
果は
焦込んで、
空を
打つて、
『
皆、これだ。』
と
高い
処から
揮下ろした
拳の
中に、……
采を
掴んで
居た
事は
云ふまでも
無い。
『……
狂人でも
何でも
構はん。
自分が
生命がけの
女房を
自分が
救ふに
間違は
有るまい。
凡て
任して
貰はう。
何でも
私のするまゝに
為して
下さい。……
処で、
私が、お
浦を
救ふ
道として、
進むべき
第一歩は、
何処でも
可い、
小家を
一軒探す
事だ。
小家でも
可、
辻堂、
祠でも
構はん、
何でも
人の
居ない
空屋が
望みだ。
何、そんな
処にお
浦が
居るか、と……
詰らん
事を――お
浦の
居処は
居処で
話が
違う。
空家を
探すのは
私が
探して
私が
其処へ
入るんだ。――
所帯を
持つのぢやない。……えゝ、
落着いて、
聞かなければ
不可ん。
宜いかね、
此を
要するに、
少くとも
空屋に
限る……
有りますか、
人の
居ない
小家はあるか。
有れば、
其処へ
行く。これから
此の
足で
直ぐに
行きます。――
宿へ
帰つて
一先づ
落着け? ……
呑気な
事を。
落着いて
相談と? ……
此の
上何の
相談を
為るんです。お
浦を
救ふのには
一刻を
争ふ、
寸秒を
惜む。
早速さあ、
人の
居ない
小家、
辻堂、
祠、
何でも
構はん、
其処へ
行かう。
行つて
直ぐに
仕事にかゝる。が、
誰も
来ては
不可い、
屹と
来ては
不可い、いづれ、やがて
其の
仕事が
出来ると、お
浦と
一所に、
諸共にお
目に
懸つて
更めて
御挨拶をする。
しかし、
恁う
言ふのを
信じないで、
私に
任かせることを
不安心と
思ふなら、
提灯の
上に
松明の
数を
殖して、
鉄砲持参で、
隊を
造つて、
喇叭を
吹いてお
捜しなさい、
其は
御勝手です。』
と
嘲けるやうに
又アハアハ
笑ふ。いや、
気味の
悪い……
『あれ、
天狗様が
憑移らしやつた。』
『
魔道に
墜ちさしたものだんべい。』
と
密いて
言ふのが
聞えた。
が、
最う、そんな
事に
頓着しない。
人間などには
目も
懸けないで、
暗い
中を
矢鱈に、
其処等の
樹を
眺めた。
刻むに
佳い
枝や、
幹や、と
目を
光らす……これも
眼前、
魔に
心を
通はす
挙動の
如くに
見えたであらう。
けれども
言出した
事は、
其の
勢だけに
誰一人深切づくにも
敢て
留めやうとするものは
無く、……
其の
同勢で、ぞろ/\と
温泉宿へ
帰る
途中、
畷を
片傍に
引込んだ、
森の
中の、とある
祠へ、
送込んだ……と
言ふよりは、づか/\
踏込んだ。
後に
踵いて
来て、
渠等は
狐格子の
外で
留まつたのである。
提灯を
一個引奪つて、
三段ばかりある
階の
正面へ
突立つて、
一揆を
制するが
如く、
大手を
拡げて、
『さあ、
皆帰れ。
而して
誰か
宿屋へ
行つて、
私の
大鞄を
脊負つて
来て
貰はう。――
中にすべて
仕事に
必要な
道具がある。……
私は
最う、あの
座敷へ
入つて、
脱いである
衣服、
解いてある
紅い
扱帯を
見るに
忍びん。……
彼が
魔物の
手に
懸つて、
身悶へしながら、
帯からはじめて
解き
去らるゝのを
目の
前に
見るやうだから。』
親類の
一人、インバネスを
着た
男が
真前に
立つて、
皆ぞろ/\と
帰つた。……
其の
影が
潜つて
出る、
祠の
前の、
倒れかゝつた
木の
鳥居に
張つた、
何時の
時のか、
注連縄の
残つたのが、
二ツ
三ツのたくつて、づらりと
懸つた
蛇に
見えた……
はて、
面白い。あれが
天井を
伝ふ
朽縄なら、
其の
下に、しよんぼりと
立つた
柱は、
直ぐにお
浦の
姿に
成る……
取つて
像を
刻む
材料に
遣うと
為やう。
鋸で
挽いて、
女の
立像だけ
抜いて
取る、と
鳥居は、
片仮名のヰの
字に
成つて、
祠の
前に、
森の
出口から、
田甫、
畷、
山を
覗いて
立つであらう。
と
凝と
視める、と
最う
其の
鳥居の
柱の
中へ、
婦の
姿が
透いて
映る……
木目が
水のやうに
膚に
絡ふて。
『
旦那様、お
荷物な
持つて
参りやした、まあ、
暗え
処に
何を
為てござらつしやる。』
成程、
狐格子に
釣つて
置いた
提灯は
何時までも
蝋燭が
消たずには
居らぬ。……
気が
着くと
板椽に
腰を
落し、
段に
脚を
投げてぐつたりして
居た。
鞄を
脊負つて
来たのは
木樵の
権七で、
此の
男は、お
浦を
見失つた
当時、うか/\
城趾へ


つたのを
宿へ
連られてから、
一寸々々出て
来ては
記憶の
裡へ
影を
露はす。
此と、
城ヶ
沼の
黒坊主の
蒼ざめた
面影を
除いては、
誰の
顔も
判然覚えて
居なかつた。
『
燈明を
点けさつしやりませ。
洋燈では
旦那様の
身躰危いと
言ふで、
種油提げて、
燈心土器を
用意して
参りやしたよ。
追附け、
寝道具も
運ぶでがすで。
気を
静めて
休まつしやりませ。……
私等も
又、
油断なく
奥様の
行衛な
捜しますだで、えら、
心を
狂はさつしやりますな。』
と
言ふ/\
燈心を
点して、
板敷の
上へ
薄縁を
伸べたり、
毛布を
敷く……
『
私が
頼まれましたけに、ちよく/\
見廻りに
参りますだ。
用があるなら、
言着けてくらつせえましよ。』
と
背後むきに
踵で
探つて、
草履を
穿いて、
壇を
下りて、てく/\
出て
行く。
『
待て、
待て。』と
追つて
出て、
鳥居をする/\と
撫でゝ
見せた。
『
村一同へ
言づけを
頼まう。
此の
柱を
一本頂く……
此の
鳥居のな。……
後で
幾らでも
建立するから、と
然う
言つてな。』
『はい、……えゝ、
東京からござつた
旦那方も
其のつもりで
相談打たしつた。
奥様の
居さつしやる
処の
知れるまでは、
何でもお
前様する
事に
逆らはねえやうにと
言ふだで、
随分好き
次第にさつしやるが
可うがんす。だが、もの、
鳥居の
木柱な
何うするだね。』
『
此を
刻んで
像を
造る、
婦のな、それは
美しい、
先づ
弁天様と
言つたもんだ、お
前にも
見せて
遣らう、
吃驚するなよ。』
と
其の
呆れ
顔を
掌でべたりと
撫でる。と
此処へ
一人で
遣つて
来るほど
性根の
据つた
奴、
突然早腰も
抜かさなんだが、
目を
蔽ふて、
面を
背けて、
『いとしぼげな、
御道理でござります。』
とのそ/\
帰る……
矢張りお
浦を
攫はれた
為に、
気が
違つたと
思ふらしい。いや、
是だから
人間の
来るのは
煩い!
「……しかし、
其の
後とも
三度の
食事、
火なり、
水なり、
祠へ
来て
用を
達してくれたのは
其の
男で。
時とすると、
二時三時も
傍に
居て
熟と
私の
仕事を
見て
居る。
口も
出さず
邪魔には
成らん。
で、
下仕事の
手伝ぐらゐは
間に
合つたんです。」
と
雪枝は
更めて
言つた。
「
処で、
一刻も
疾く
仕上げにしやうと
思ふから、
飯も
手掴みで、
水で
嚥下す
勢、
目を
据えて
働くので、
日も
時間も、
殆んど
昼夜の
見境はない。……
女の
像の
第一作が、まだ
手足までは
出来なかつたが、
略顔の
容が
備はつて、
胸から
鳩尾へかけて
膨りと
成つた、
木材に
乳が
双んで、
目鼻口元の
刻まれた、フトした
時……
『どうだ、
大分ものに
成つたらう、』と
聊か
得意で。
丁ど
居合はせた
権七の
顔を
目を
挙げて
恁う
見ると……
日に
焼けた
色の
黒いのが
又恐ろしく
真黒で、
額が
出て、
唇が
長く
反つて、
目ががつくりと
窪んだ、
其の
目がピカ/\と
光つて、ふツふツ、はツはツ、と
喘ぐやうな
息をする。……
いや、
其の
息の
臭い
事……
剰へ、
立つでもなく
坐るでもなく、
中腰に
蹲んだ
山男の
膝が
折れかゝつた
朽木同然、
節くれ
立つてギクリと
曲り、
腕組をした
肱ばかりが
胸に
附着き、
布子の
袖の
元へ
窄つて
両方へ
刎ねた
処が、
宛然の
翼。
『
権七ぢやない!
小天狗が、
天守から
見張りに
来たな。』
思はず
突立つと、
出来かゝつた
像を
覗いて、
角を
扁平くしたやうな
小鼻を、ひいくひいく、……ふツふツはツはツと
息を
吹いて
居たのが、
尖つた
口を
仰様に
一つぶるツと
振ふと、
面を
倒にしたと
思へ。
彫像の
眼球をグサリと
刺した。
はつと
思へば、
烏ほどの
真黒な
鳥が
一羽虫蝕だらけの
格天井を
颯と
掠めて
狐格子をばさりと
飛出す……
目一つ
抉られては
半身をけづり
去られたも
同じ
事、
是がために、
第一の
作は
不用に
帰した。
……
余りの
仕儀に
唯茫然として、
果は
涙を
流したが、いや/\、
爰に
形づくられた
未製品は、
其の
容半ばにして、
早くも
何処にか
破綻を
生じて、
我が
作を
欲するものゝ、
不満足を
来たしたのであらう――いかさまにも
一つ
残つた
瞳を
見れば、お
浦の
其より
情を
宿さぬ、
露も
帯びぬ、……
手足既に
完うして
斧を
以て
砕かれても、
対手が
鬼神では
文句はない
筈。
力を
傾け
尽さぬうち、
予め
其の
欠点を
指示して
一思ひに
未練を
棄てさせたは、
寧ろ
尠からぬ
慈悲である……
で、
直ちに
木材を
伐更めて、
第二の
像を
刻みはじめた。が、
又此の
作に
対する
迫害は
一通りではないのであつた。
猫が
来て
踏んで
行抜ける、
鼠が
噛る。とろ/\と
睡つて
覚めれば、
犬が
来てぺろ/\と
嘗めて
居る……
胴中を
蛇が
巻く、
今穴を
出たらしい
家守が
来て
鼻の
上を
縦にのたくる……やがては
作者の
身躰を
襲ふて、
手をゆすぶる、
襟頸を
取つて
引倒す、
何者か
知れずキチ/\と
啼いて
脇の
下をこそぐり
掛ける。
無残や、
其の
中にも
命を
懸けて、
漸と
五躰を
調へたのが、
指が
折れる、
乳首が
欠ける、
耳が

げる、――これは
我が
手に
打砕いた、
其の
斧を
揮つた
時、さく/\さゝらに
成り
行く
像は、
骨を
裂く
音がして、
物凄く
飛騨山の
谺に
響いた。
其の
夜更けから、しばらく
正躰を
失つたが、
時も
知らず
我に
返ると、
忽ち
第三番目を
作りはじめた、……
時に
祠の
前の
鳥居は
倒れて、
朽ちたる
縄は、ほろ/\と
断れて
跡もなく
成る。……
と
今度のは
完成した。
而して
本堂の
正面に、
支も
置かず、
内端に
組んだ、
肉づきのしまつた、
膝脛の
釣合よく、すつくりと
立つた
時、
木の
膚は
小刀の
冴に、
恰も
霜の
如く
白く
見えた。……が
扉を
開いて、
伝説なき
縁起なき
由緒なき、
一躰風流なる
女神のまざ/\として
露はれたか、と
疑はれて、
傍の
棚に
残つた
古幣の
斜めに
立つたのに
対して、
敢て
憚るべき
色は
無かつた。
折から
来合はせた
権七に
見せると、
色を
変へ、
口を
尖らせ、
目を
光らせて
視めたが、
其の
面は
烏にも
成らず、……
脚は
朽木にも
成らず、
袖は
羽にも
成らぬ。
其処で、
自分で
引背負ふなり、
抱くなりして、
其の
彫像を
城趾の
天守に
運ぶ。……
途中の
塵を
避けるため
蔽がはりに、お
浦の
着換を、と
思つて、
権七を
温泉宿まで
取りに
遣つた。
あとで、
此の
祠に
籠つてから、
幾日の
間か
鳥居より
外へは
出ない、
身躰を
伸々として
大手を
振つて
畝路から
畷へ
出た――
然まで
遠くもない
城ヶ
沼の
方へ、
何となく
足が
向いて、ぶらり/\と
歩行いたが、
我が
住居を
出て
其処等散歩をする、……
祠の
家にはお
浦が
居て
留主をして、
我がために
燈火のもとで
針仕事でも
為て
居るやうな、つひした
楽しい
心地がする。……
細い
杖を
持たないのが
物足りないくらゐなもので。
風もふわ/\と
樹の
枝を
擽つて、はら/\
笑はせて
花にしやうとするらしい、
壺の
中のやうではあるが、
山国の
夜は
朧。
譬へば
城ヶ
沼を
裏返して、
空へ
漲らした
夜の
色――
寝をびれて
戸惑ひをしたやうな
肥つた
月が、
田の
水にも
映らず、
山の
姿も
照らさず……
然うかと
言つて
並木の
松に
隠れもせず、
谷の
底にも
落ちないで、ふわりと
便のない
処に、
土器色して、
畷も
畝も
茫と
明いのに、
粘つた、
生暖い
小糠雨が、
月の
上からともなく、
下からともなく、しつとりと
来て、むら/\と
途中で
消える……と
髪も
衣も
濡れもしないで、
湿ぽい。が、
手で
撫でゝ
見ても
雫は
分らぬ。――
雨が
降るのではない、
月が
欠伸する
息がかゝるのであらう……そんな
晩には
獺が
化けると
言ふが、
山国に
其は
相応はぬ。イワナが
化けて
坊主になつて、
殺生禁断の
説教に
念仏唱へて
辿りさうな。……
処を、
歩行く
途中、
人一人にも
逢はなんだ、が
逢へば
婦でも
山猫でも、
皆坊主の
姿に
見えやうと
思つた。
こん/\と
狐が
啼いた。……
犬の
声ではない。
唯ある
松の
樹の
蔭で、つひ
通りかゝつた
足許で。
こん/\こん/\と
啼くのに、フト
耳を
傾けて、
虫を
聞くが
如く
立停ると、
何かものを
言ふやうで、
『コンクワイ、クワイ、
来ぬかい、
来ぬかい。』と
恁う
啼く。
『
来ぬかい、
来ぬかい、
来ぬかい、
案山子、
来ぬかい
案山子、』と
又聞える。
聞く
中に、
畝の
蔭から、ひよいと
出て
立つた、
藁束に
竹の
脚で、
痩さらばへたものがある。……
凩に
吹かれぬ
前に、
雪国の
雪が
不意に
来て、
其のまゝ
焚附にも
成らずに
残つた、
冬の
中は、
真白な
寐床へ
潜つて、
立身でぬく/\と
過ごしたあとを、
草枕で
寐込んで
居た、これは
飛騨山の
案山子である。
此の
親仁、
破れ
簑の
毛を
垂らして、しよぼりとした
躰で、ひよこひよこと
動いて
来て、よたりと
松の
幹へ
凭かゝつて、と
其処へ
立つて
留まる。
『
来んかい、
案山子、
来んかい、
案山子………』と
例の
声が
尚ほ
続けて
呼ぶ。
些と
離れた
畝を
伝つて、
向ふから
又一つ、ひよい/\と
来て、ばさりと
頭を
寄せて
同じく
留まる。と
素直な
畷筋を、
別に
一個よたよた/\/\と、
其でも
小刻の
一本脚、
竹を
早めて
急いで
近寄る。
此の
後のなんぞは、
何処で
工面をしたか、
竹の
小笠を
横ちよに
被つて、
仔細らしく、
其の
笠を
歩行に
連れてぱく/\と
上下に
揺つたもので。
三個が、……
其から
土瓶を
釣つて
番茶でも
煮さうな
形に
集まると、
何かゞ
又啼き
出す。
『コー/\/\、
急がう
急がう。』
ばさ/\、と
左右へ
分れて、
前後に
入乱れたが、やがて
畷へ
三個で
並ぶ。
其時樹の
上から、
何やら
鳥の
声がして、
『
何処え
行、
何処え
行!』
で、がさりと
枝を
踏んだ
音がした。
何うやらものゝ、
嘴を
長く
畷を
瞰下ろす
気勢がした。
『ほこらだ。』
『ほこら、』
『ほこらへ
行くだ。』
とひよつこり、ひよこり、ひよつこりと
歩行き
出す……
案山子どもの
出向くのが、
祠の
方へ、
雪枝の
来た
路の
方角に
当る。
向ふを
指して
城ヶ
沼へ
身投げに
行くのでは
無いらしい。
待て、よくは
分らぬ、
其処等と
言ふか、
祠と
言ふか、
声を
伝へる
生暖い
夜風もサテぼやけたが、……
帰り
路なれば
引返して、うか/\と
漫歩行きの
踵を
返す。
『く、く、く、』
『ふ、ふ、』
『は、は、は、』と
形も
定めず、むや/\の
海鼠のやうな
影法師が、
案山子の
脚もとを
四ツ
五ツむら/\と
纒ふて
進む。
「それは
狐か
犬らしい、
其とも
何か
鳥が
居て、
上をふわ/\と
飛んだのかも
分りません。」
と
雪枝は
老爺に
言ふのであつた……
「
忘れもしない、
温泉へ
行きがけには、
夫婦が
腕車で
通つた
並木を、
魔物が
何うです、……
勝手次第な
其の
躰でせう。」
来る
時は
気がつかなかつたが、
時に
帰がけに
案山子の
歩行く
後から
見ると、
途中に
一里塚のやうな
小蔭があつて、
松は
其処に、
梢が
低く
枝が
垂れた。
塚の
上に
趺坐して
打傾いて
頬杖をした、
如意輪の
石像があつた。と
彼のたよりのない
土器色の
月は、ぶらりと
下つて、
仏の
頬を
片々照らして、
木蓮の
花を
手向けたやうな
影が
射した。
其の
前を、
一列びに、ふら/\と
通懸つて、
『
御許され』と
案山子の
一つが言へば、
『
御許され。』
と
又一つが
同じ
言を
繰返す。
『
御許され、
御許され。』と
声が
交つて、
喧々と
※舌[#「口+堯」、U+5635、148-6]つた、と
思はれよ。
『
大儀ぢや』
と
正しく
如意輪が
仰せあつた……
『はツ、』と
云ふと
一個、
丁ど
石高道の
石
へ
其の
一本竹を
踏掛けた
真中のが、カタリと
脚に
音を
立てると、
乗上つたやうに、ひよい、と
背が
高く
成つて、
直に、ひよこりと
又同じ
丈に
歩行き
出す。
人間が
前へ
出た
時、
如意輪の
御姿は、スツと
松蔭へ
稍遠く、
暗く
小さく
拝まれた。
雨がやゝ
頻つて
来た。
案山子の
簑は、
三つともぴしよ/\と
音するばかり、――
中にも
憎かつたは
後から
行く
奴、
笠を
着たを
得意の
容躰、もの/\しや
左右を

しながら
前途へ
蹌踉く。
果して
祠を
指したらしい。
横へ
切れて
田畝道を、
向ふへ、
一方が
山の
裙、
片傍を
一叢の
森で
仕切つた
真中が、
茫と
展けて、
草の
生が
朧月に、
雲の
簇がるやうな
奥に、
祠の
狐格子を
洩れる
灯が、
細雨に
浸むだのを
見ると――
猶予はず
其方へ
向いて、
一度斜に
成つて
折曲つて
列り
行く。
其時気に
懸つたのは、
祠の
前を
階から
廻廊の
下へ
懸けて、たゞ
三ツ
五ツではない、
七八ツ、それ/\
十ウにも
余る
物の
形が、
孰も
土器色の
法衣に、
黒い
色の
袈裟かけた、
恰も
空摸様のやうなのが、
高い
坊主と
低い
坊主と
大な
坊主と
小さな
坊主と、
胡乱々々動いて、むら/\
居る……
『やあ、お
浦を
嬲る、』
と
前へ
行く
案山子どもを、
横に
掠めて、
一息に
駆け
着けて、いきなり
階に
飛附いて、
唯見ると、
扨も、
寄つたわ、
来たわ。
僧形に
見えた
有りたけの
人数は、
其も
是も
同じやうな
案山子の
数々。――
割つて
通つた
人間の
袖の
煽りに、よた/\と
皆左右に
散つた、
中には
廻廊に
倒れかゝつて、もぞ/\と
動くのもある。
正面に
伸上つて
見れば、
向ふから、ひよこ/\
来る
三個の
案山子も、
同じやうな
坊主に
見えた。
扉を
入ると、
無事であつた。お
浦を
其のまゝの
彫像は、
灯の
影にちら/\と
瞳も
動いて、
人待顔に
立草臥れて、
横に
寝たさうにも
見えたのである。
下に
敷いた
白毛布の
上には、
所狭く
鑿も
鉋も
散かり
放題。
初手は
此の
毛布に
包んで、
夜路を
城趾へ、と
思つたが、――
時鳥は
啼かぬけれども、
然うするのは、
身を
放れたお
浦の
魂を
容れたやうで、
嘗て
城ヶ
沼の
縁で
旅僧の
口から
魔界の
暗示を
伝へられたゝめに――
太く
忌はしかつたので、……
権七に
取寄せさした
着換の
衣は、
恰も
祠の
屋根に
藤の
花が
咲きかゝつたのを、
月が
破廂から
影を
落したやうに
届いて
居た。
然も
燃え
立つばかりの
緋の
扱帯は、
今しも
其の
腰のあたりをする/\と
辷つた
如く、
足許に
差置かるゝ。
縋着けば、ころ/\と
其の
掌に
秘めた
采が
鳴つた。
『ござるか。』
『…………』
『ござるか、ござるか。』
と
蚯蚓の
這ふやうな
声が
階の
処で
聞える。
『
誰だ。』
と、うつかり、づゝと
出ると、つひ
忘れた……づらりと
其処に
案山子ども。
其の
中の
孰れが
言ふ?
中気病のやうな
老けた、
舌つ
不足で、
『おねんぎよ。』と
言ふ。
『おねんご。』
と
又訴うる。……
糠雨の
朧夜に、
小き
山廓の
祠の
前。
破れ
簑のしよぼ/\した
渠等の
風躰、……
其の
言ふ
処が、お
年貢、お
年貢、と
聞えて、
未進の
科条で
水牢で
死んだ
亡者か、
百姓一揆の
怨霊か、と
思ひ
附く。
其の
莚旗を
挙げたのが
此の
祠であらうも
知れぬ。――が、
何を
求むる?
其の
意を
得ない。
熟と
瞻れば、
右から
左から
階の
前へ、ぞろ/\と
寄つた……
簑の
摺合ふ
音して、
『うけとろ、』
『
受け
取らう。』
『おねんご
受取ろ。』と
言ふのが、
何処から
出る
声か、
一本竹で
立つた
地の
中から、ぶる/\
湧出す。
『おゝ、』
と
思はず
合点した。
『
人形か、
此の
彫像を
受け
取らうと
言ふのか?』
中にも
笠ある
案山子の
頷くのが、ぱく/\
動く。
其は
途中からの
馴染らしい。
『おゝさう、おぶおう、おぶさう。』と
野良な
音。
恰も、おゝ、
然う
負はう、
負され、と
云ふが
如し。
『
可、
可、』
で、
衣服を
被け、
彫像を
抱いたなり、
狐格子を
更めて
開いて
立出たつる、
『おい、
案山子ども、』
と
真面目に
遣つた。
今思へば、……
言ふまでも
無く
何うかして
居る。
『
御苦労、
御厚意は
受取つたが、
己の
刻んだ
此の
婦は
活きとるぞ。
貴様たちに
持運ばれては
血の
道を
起さう、
自分でおんぶだ。』
と
高笑ひをして、
其処で
肩の
上に
揺上げた。
抱いても
腕に
乗つたのに……と
肩越に
見上げた
時、
天井の
蔭に
髪も
黒く
上から
覗込むやうに
見えたので、
歴然と、
自分が
彫刻師に
成つた
幼い
時の
運命が、
形に
出て
顕はれた……
雨も
此の
朧夜を、
細く
微な
雪のやうに
白く
野山に
降懸つた。
『
出懸けるぞ、
案内するか、
続いて
来るか。』
案山子どもは
藁の
乱れた
煙の
如く、
前後にふら/\
附添ふ。……
而して
祠の
樹立を
出離れる
時分から、
希有な
一行の
間に、
二ツ
三ツ
灯が
点いたが、
光が
有りとも
見えず、ものを
映さぬでも
無い。たとへば
月の
其の
本尊が
霞んで
了つて、
田毎に
宿る
影ばかり、
縦に
雨の
中へふつと
映る、
宵に
見た
土器色の
月が
幾つにも
成つて
出たらしい。
其が
案山子どもの
行く
方へ、
進めば
進み、
移れば
移り、
路を
曲る
時なぞは、スイと
前へ
飛んで、
一寸停まつて、
土器色を
赫として
待つ。ともすれば
曇ることもあつた。
此の
灯はひく/\
呼吸を
吐く、と
見えた。
低い
藁屋が
二三軒、
煙出しの
口も
開かず、
目もなしに、
暗から
潜出した
獣のやうに
蹲つて、
寂と
寝て
居る
前を
通つた
時。
『ばツさ、ばツさ。』
簑を
鳴らしたのではない。
案山子の
一つが、
最う
耳に
馴れて
遠慮のない
口を
開けた。
『ばつさよ、ばつさよ。』
『コーコー、
来ーい、
来い。』
と
最一つ
※舌[#「口+堯」、U+5635、152-15]つた。
ばさりと
言ふのが、ばさりと
聞こえて、ばさりと
鳴つて、
其の
藁屋の
廂から、
畷へばさりと
落ちたものがある、
続いて
又一つばさりとお
出やる。
鳥か
獣か、こゝにバサリと
名づくるものが
住んで、
案山子に
呼出されたのであらう、と
思つたが、やがて
其が
二つが
並んで、
真直にひよいと
立つ、と
左右へ
倒れざまに、
又ばさりと言つた。が、
名ではない。ばさりと
称へたは
其の
音で、
正体は
二本の
番傘、ト
蛇の
目に
開いたは
可が、
古御所の
簾めいて、ばら/\に
裂けて
居る。
唯見ると、
両方から
柄を
合はせて、しつくり
組むだ。
其の
破れ
傘が
輪に
成つて、
畷をぐる/\と
廻つて
丁と
留まる。
案山子が
三ツ
四ツ、ふら/\と
取巻いて、
『
乗つされ。』
『お
人形、
乗つせえ。』と
言ふ。
『はゝあ、
載せろ、と
言ふのか、
面白い。』
案ずるに、
此の
車を
以つて、
我が
作品を
礼するのであらう。
其の
厚志、
敢て、
輿と
駕籠と
破れ
傘とを
択ばぬ。
其処で
彫像の
脇を
抱いて、
傘の
柄に
腰を
据えると、
不思議や、
裾も
開かず、
肩も
反らず……
膠で
着けたやうに
整然と
乗つた、
同時にくる/\と
傘が
廻つて、さつさと
行く……
やがて
温泉の
宿を
前途に
望んで、
傍に
谿河の、
恰も
銀河の
砕けて
山を
貫くが
如きを
見た
時、
傘の
輪は
流に
逆ひ、
疾く
水車の
如くに
廻転して、
水は
宛然其の
破れ
目を
走り
抜けて、
斜めに
黄色な
雪が
散つた。や、
何うも
案山子の
飛ぶこと、ひよろつく
事!
此を
見よ、
人々。――
で、
月が
三ツ
四ツ
出て
路を
照らすのも、
案山子が
飛ぶのも、
傘の
車も、
其の
車に、と
反身で、
斜に
構へて
乗つた
像の
活けるが
如きも、
一切自分の
神通力の
如くに
感じて、
寝静まつた
宿屋の
方へ
拳を
突出して
呵々と
笑つた。
『
此を
見よ、
人々。』
其時車を
真中に、
案山子の
列は
橋にかゝつた。……
瀬の
音を
横切つて、
竹の
脚を、
蹌踉めく
癖に、
小賢しくも
案山子の
同勢橋板を、どゞろ/\とゞろと
鳴らす。
『
寝て
居るに
騒がしい。』
と
欄干が
声を
懸けた。
『あゝ、
気の
毒だ。』
とうつかり
人間の
雪枝が
答へた。おや、と
心着くと
最うざんざと
川水。
まだ
可怪かつたのは、
一行が、
其から
過般の、あの、
城山へ
上る
取着の
石段に
懸つた
時で。
是から
推上らうと
云ふのに
一呼吸つくらしく、フト
停まると、
中でも
不精らしい
簑の
裾の
長いのが、
雲のやうに
渦いた
段の
下の、
大木の
槐の
幹に
恁懸つて、ごそりと
身動きをしたと
思へ。
『わい、
擽てえ。』と
樹が
喚いた。
傘はぐる/\と
段にかゝる、と
苦もなく
攀上るに
不思議はない。
濃かな
夜の
色が
段を
包んで、
雲に
乗せたやうにすら/\と
辷らし
上げる。
気の
疾い、
身軽なのが、
案山子の
中にもあるにこそ。
二ツ
三ツ
追続いて、すいと
飛んで、
車の
上を
宙から
上つたのが、アノ
土器色の
月の
形の
灯をふわりと
乗越す。
段の
上で、
一体の
石地蔵に
逢つた。
『
坊ちやま、
坊ちやま。』と
一ツが
言ふ。
『さても
迷惑、』
と
仰有つたが、
御手の
錫杖をづいと
上げて、トンと
下ろしざまに
歩行び
出らるゝ……
成程、
御襟の
唾掛めいた
切が、ひらり/\と
揺れつゝ
来らるゝ。
「
此の
野原に
来た
時です。」
と
雪枝は
老爺に
向いて、
振返つて
左右を
視めた。
陽炎が
膝に
這つて、
太陽はほか/\と
射して
居る。
空は
晴れたが、
草の
葉の
濡色は、
次第に
霞に
吸取られやうとする
風情である。
「
其の
地蔵尊が、
前の
方から
錫杖を
支いたなりで、
後に
続いた
私と
擦違つて、
黙つて
坂の
方へ
戻つて
行かるゝ……と
案山子もぞろ/\と
引返すんです。
番傘は、と
見ると、
此もくる/\と
廻つて
返る。が、まるで
空に
成つて、
上に
載せた
彫像がありますまい。
……つひ
向ふを、
何うです、……
大牛が
一頭、
此方へ
尾を
向けてのそりと
行く。
其の
図体は
山を
圧して
此の
野原にも
幅つたいほど、
朧の
中に
影が
偉い。
其の
背中にお
浦の
像が、
紅の
扱帯を
長く、
仰向けに
成つて
柔かに
懸つて
居る。」
「
破れ
傘の
車では、
別に
侮られ
辱められるとも
思はなかつたが、
今牛の
背に
懸けられたのを
見ると、
酷らしくて
我慢が
出来ない!
木を
刻んだものではあるが、
節から
両岐に
裂かれさうに
思はれて、
生身のお
浦だか、
像の
女だか、
分別も
着かないくらゐ。
『あツ、』と
叫んで、
背後から
飛蒐つたが、
最う
一足の
処で
手が
届きさうに
成つても、
何うしても
尾に
及ばぬ……
牛は
急ぐともなく、
動かない
朧夜が
自然から
時の
移るやうに
悠々とのさばり
行く。
しばらくして、
此の
大手筋を、
去年一昨年のまゝらしい、
枯蘆の
中を
縫つた
時は、
俗に
水底を
踏んで
通ると
言ふ、どつしりしたものに
見えた。
背の
彫像の
仰向けの
胸に
采を
握つた
拳が、
苦んで
空を
掴むやうに
見えて
堪へられない。
後を
喘ぎ/\、はあ/\と
呼吸して
続く。
「
其の
牛が、
老爺さん、」
と
雪枝は
聞くものを
呼懸けた。
天守の
礎の
土を
後脚で
踏んで、
前脚を
上へ
挙げて、
高く
棟を
抱くやうに
懸けたと
思ふと、
一階目の
廻廊めいた
板敷へ、ぬい、と
上つて
其の
外周囲をぐるりと
歩行いた。……
音に
鎗ヶ
嶽と
中空に
相聳えて、
月を
懸け
太陽を
迎ふると
聞く……
此の
建物はさすがに
偉大い。――
朧の
中に
然ばかり
蔓つた
牛の
姿も、
床走る
鼠のやうに
見えた。
ぐるりと
一廻りして、
一ヶ
所、
巌を
抉つたやうな
扉へ
真黒に
成つて
入つたと
思ふと、
一つよぢれた
向ふ
状なる
階子の
中ほどを、
灰色の
背を
畝つて
上る、
牛は
斑で。
此の
一階目の
床は、
今過つた
野に、
扉を
建てまはしたと
見るばかり
広かつた。
短い
草も
処々、
矢間に
一ツ
黄色い
月で、
朧の
夜も
同じやう。
と
黒雲を
被いだ
如く、
牛の
尾が
上口を
漏れたのを
仰いで、
上の
段、
上の
段と、
両手を
先へ
掛けながら、
慌しく
駆上つた。……
月は
暗かつた、
矢間の
外は
森の
下闇で
苔の
香が
満ちて
居た。……
牛の
身躰は、
早や
又段の
上へ
半ばを
乗越す。
ぐる/\と
急いで
廻つて
取着いて
追つて
上る。と
此の
矢間の
月は
赤かつた。
魔界の
色であらうと
思ふ。が、
猶予ふ
隙もなく
直ちに
三階目を
攀ぢ
上る……
最う
仰いでも
覗いても、
大牛の
形は
目に
留まらなく
成つたゝめに、あとは
夢中で、
打附れば
退り、
床あれば
踏み、
階子あれば
上る、
其の
何階目であつたか
分らぬ。
雲か、
靄か、
綿で
包んだやうに
凡そ
三抱ばかりあらうと
思ふ
丸柱が、
白く
真中にぬつく、と
立つ、……と
一目見れば、
其の
柱の
根に
一人悄然と
立つた
婦の
姿……
『お
浦……』と
膝を
支いて、
摺寄つて
緊乎と
抱いて、
言ふだけの
事を
呼吸も
絶々に
我を
忘れて
※舌[#「口+堯」、U+5635、157-12]つた。
声が
籠つて
空へ
響くか、
天井の
上――
五階のあたりで、
多人数のわや/\もの
言ふ
声を
聞きながら、
積日の
辛労と
安心した
気抜けの
所為で、
其まゝ
前後不覚と
成つた。……
『や』
心着く、と
雲を
踏んでるやうな
危かしさ。
夫婦が
活きて
再び
天日を
仰ぐのは、
唯無事に
下まで
幾階の
段を
降りる、
其ばかり、と
思ふと、
昨夜にも
似ず、
爪先が
震ふ、
腰が、がくつく、
血が
凍つて
肉が
硬ばる。
『
気を
着けて、
気を
着けて、
危い。』と
両方の
脚の
指、
白いのと、
男のと、
十本づゝを、ちら/\と
一心不乱に
瞻めながら、
恰も
断崖を
下りるやう、
天守の
下は
地が
矢の
如く
流るゝか、と
見えた。……
雪枝は
語り
続ぐ
声も
弱つて、
「
漸との
思ひで
此処まで
来て……
先づ
一呼吸と
気が
着くと、あの
躰だ。
老爺さん、
形代の
犠牲に
代へて、
辛くもです、
我が
手に
救ひ
出したとばかり
喜んだのは、お
浦ぢやない、
家内ぢやない。
昨夜持つて
行つた
彫像を
其のまゝ
突返されて、のめ/\と
担いで
帰つたんです。
然も
片腕捩つてある、あの
采を
持たせた
手が。……あゝ、
私は
五躰が
痺れる。」と
胸を
掴んで
悶へ
倒れる。
聞き
果てつ。……
飛騨国の
作人菊松は、
其処に
仰ぎ
倒れて
今も
悪い
夢に
魘されて
居るやうな――
青年の
日向の
顔、
額に
膏汗の
湧く
悩ましげな
状を、
然も
気の
毒げに
瞻つた。
「
聞けば
聞くほど、へい、
何とも
言ひやうはねえ。けんども、お
前様、お
少えに、
其の
位の
事に、
然う
気い
落さつしやるもんでねえ。たかゞあれだ、
昨夜持つて
行かしつた
其の
形代の
像が、お
天守の…
何様か
腑に
落ちねえ
処があるで、
約束の
通り
奥様を
返さねえもんでがんしよ。だで、
最う
一ツ
拵えさつせえ。
美い
婦の
木像さ
又遣直すだね。えゝ、お
前様、
対手が
七六ヶしいだけに
張合がある……
案山子ぢや
成んねえ。
素袍でも
着た
徒が
玉の
輿持つて、へい、お
迎、と
下座するのを
作らつせえ。えゝ! と
元気を
出さつしやりまし。」
「
其処です、
老爺さん、」
と
雪枝は
草を
掴んで
起直つて、
「
現在、
其の
苦しみを
為て
居るお
浦を
救はんために
製作へたんです。
有つたけの
元気も
出した、
力も
尽した。
最う
為やうがない。しかし
此処で
貴老に
逢つたのは
天の
引合はせだらうと
思ふ。
いや、
其よりも
此の
土地へ
来て、
夢とも
現とも
分らない
種々の
事のあるのは、
別ではない、
婦のために、
仕事を
忘れた
眠を
覚して、
謹んで
貴老に
教を
受けさせやうとする、
芸の
神の
計らひであらうも
知れない。
私は
跪く、
其の
草鞋を
頂く……
何うぞ、
弟子にして
下さい、
教へて
下さい、
而してお
浦を
救つて
下さい。」
「いや、
前刻船の
中で
焚けるのを
向ふから
見た
時な、
活きた
人だと
吃驚しつけの。お
前様一廉の
利ものだ。
別に
私等に
相談打たつしやるに
及ぶめえが、
奥様のお
身の
上ぢや、
出来る
手伝なら
為ずには
居られぬで、
年の
功だけも
取処があるなら、
今度造らつしやるに
助言な
為べいさ。まあ、
待つせえよ、
私が
今、」と
狸のやうな
麻袋をふらりと、
腰を
伸して、のつそりと
立つた。
旭さす
野を
一人、
老爺は
腰骨に
手を
組んで、ものを
捜す
風して
歩行いたが、
少時して
引返した。
拾つて
来たのは
雄鹿の
角の
折、
山深ければ
千歳の
松の
根に
生ふると
聞く、
伏苓と
云ふものめいたが、
何、
別に……
尋常の
樹の
枝、
女の
腕ぐらゐの
細さで、
一尺有余也。
ト
件の
麻袋の
口を
開けて、
握飯でも
出しさうなのが、
一挺小刀を
抽取つて、
無雑作に、さくりと
当てる、ヤ
又能く
切れる、
枝はすかりと
二ツに
成つた。
「
鯉とも
思ふが、
木が
小い。
鰌では
可笑かんべい。
鮒を
一ツ
製へて
見せつせえ。
雑と
形で
可え。
鱗は
縦横に
筋を
引くだ、……
私も
同じに
遣らかすで、
較べて
見るだね。ひよつとかして、
私の
方さ
出来が
佳くば、
相談対手に
成れるだでの、
可か、さあ、ござらつせえ。」
と
小刀を
添へて
突着けた。
雪枝は
胡座を
組直した。
「
一イ
二ウ
三イ、はじめるぞ、はゝゝはゝ
駆競のやうだの。
何も
前後に
構ひごとはねえだよ。お
前様串戯ごとではあんめえが、
何でも
仕事するには
元気に
限るだで、
景気をつけるだ。――
可かの、
一イ
二ウ
三イで、
遣りかけるだ。
一イ
二ウ
三イ! はツはツはツ。」
笑ひかけて、
済まして
遣り
出す。
老爺の
手にも
小刀が
動く、と
双んで
二挺、
日の
光に
晃々と
閃きはじめた……
掌の
木の
枝は、
其の
小刀の
輝くまゝに、
恰も
鰭を
振ふと
見ゆる、
香川雪枝も
[#「香川雪枝も」はママ]、さすがに
名を
得た
青年であつた。
と
此の
老爺と
雪枝とが、
旭に
向つて
濠端に
小刀を
使ふ。
前面の
大手の
彼方に、
城址の
天守が、
雲の
晴れた
蒼空に
群山を
抽いて、すつくと
立つ……
飛騨山の
鞘を
払つた
鎗ヶ
嶽の
絶頂と、
十里の
遠近に
相対して、
二人の
頭上に
他の
連峯を
率ゐて
聳ゆる
事を
忘れてはならぬ。
件の
天守の
棟に
近い、
五階目あたりの
端近な
処へ
出て、
霞を
吸ひつゝ
大欠伸を
為た
坊主がある。
雪枝は
合掌して
跪いた。
渠の
前には、
一座滑かな
盤石の、
其の
色、
濃き
緑に
碧を
交へて、
恰も
千尋の
淵の
底に
沈んだ
平かな
巌を、
太陽の
色も
白いまで、
霞の
満ちた、
一塵の
濁りもない
蒼空に、
合せ
鏡して
見るやうな……
大さは
然れば、
畳三畳ばかりと
見ゆる、……
音に
聞く、
飛騨国吉城郡神宝の
山奥にありと
言ふ、
双六谷の
名に
負へる
双六巌は
是ならむ。
巌の
面に
浮模様、
末を
揃へて、
上下に
香の
図を
合はせたやうな
柳条があり、
虹を
削つて
画いた
上を、ほんのりと
霞が
彩る。
背後を
囲つた、
若草の
薄紫の
山懐に、
黄金の
網を
颯と
投げた、
日の
光は
赫耀として
輝くが、
人の
目を
射るほどではなく、
太陽は
時に、
幽に
遠き
連山の
雪を
被いだ
白蓮の
蕋の
如くに
見えた。……
次第に
近く
此処に
迫る
山と
山、
峯と
峯との
中を
繋いで
蒼空を
縫ふ
白い
糸の、
遠きは
雲、やがて
霞、
目前なるは
陽炎である。
陽炎は、
爾く、
村里町家に
見る、
怪しき
蜘蛛の
囲の
乱れた、
幻影のやうなものでは
無く、
恰も
練絹を
解いたやうで、
蝶のふわ/\と
吐く
呼吸が、
其羽なりに
飜々と
拡がる
風情で、
然も
皆美しい
女の
姿を
象る。
其の
或ものは
裳黄に、
或ものは
袖紫に……
紫なるは
菫の
影で、
黄なるは
鼓草の
花の
映り
添ふ
色であつた。
巌のあたりは、
此の
二種の
花、
咲き
埋むばかり
満ちて
居る……
其等色ある
陽炎の、いづれ
手にも
留まらぬ
女の
風情した
中に、
唯一人濃かに
雪を
束ねたやうな
美女があつて、
巌の
彼方に
恰も
卓に
向つて
立つ
状して
彳んだ。
雪枝は
其の
美女を
前に
盤石を
隔てゝ
蹲つたのである……
双六巌の、
其の
虹の
如き
格目は、
美女の
帯のあたりをスーツと
引いて、
其処へも
紫が
射し、
黄が
映る……
雲は、
霞は、
陽炎は、
遠近に
尽く
此の
美女を
形づくるために、
濃くも
薄くも
懸るらし。
其の
形の
厳なるは、
白銀の
鎧して
彼を
守護する
勇士の
如く、
其の
姿の
優しいのは、
姫に
斉眉く
侍女かと
見える。
美女の
背後に
当る……
其の
山懐に、
唯一本、
古歌の
風情の
桜花、
浅黄にも
黒染にも
白妙にも
咲かないで、
一重に
颯と
薄紅。
色が
美女の
瞼にさし、
影が
美女の
衣を
通す……
雪枝が
路を
分け、
巌を
伝ひ、
流を
渉り、
梢を
攀ぢ、
桂を
這つて、
此処に
辿り
着いた
山蔭に、はじめて
見たのは
此の
桜で。……
一行は、
渠と、
老爺と、
別に
一人、
背の
高い、
色の
蒼い
坊主であつた。
是より
前、
雪枝は
城趾の
濠端で、
老爺と
並んで、
殆ど
小学生の
態度を
以て、
熱心に
魚の
形を
刻みながら、
同時に
製作しはじめた
老爺の
手振を
見るべく……
密と
傍見して、フト
其の
目を
外らした
時、
天守の
矢間を
湧いて
出るやうな
黒坊主の
姿を
見たが、
烏か、
梟か、と
思つた。
が、
大牛が
居る、
妻の
囚はれた
魔の
城である……よし
其が
天狗でも、
気を
散らす
処でない。
爰に
一刀を
下ろすは、
彼を
救ふ
一歩である、と
爽かに
木削を
散らして
一思ひに
刻果てた。
『どう、
見せさつせえ。』
疾く
我が
小刀を
袋に
納めて、
頤杖して
待つて
居た
老爺は、
雪枝の
作品を
掌に
据えて
煙管を
啣えた。
『おゝ、
出来た。ぴち/\と
刎ねる……いや、
恁うあらうと
思ふた……
見事なものぢや、
乾して
置くと
押死ぬべい、それ、
勝手に
泳げ!』とひよいと、
放ると、
濠の
水へばちやりと
落ちた。が、
腹を
出して
浮脂の
上にぶくりと
浮く。
『そりや
少い
魚の
元気を
見習へ。
汝も、ばちや/\と
泳げい。』
で、
老爺は
今度は
自分の
刻んだ
魚を、これは
又、
不状に
引握つたまゝ
斉しく
投げる、と
※[#「さんずい+散」、U+6F75、163-9]が
立つたが、
浮草を
颯と
分けて、
鰭を
縦に
薄黒く、
水際に
沈んでスツと
留る。ト
雪枝の
作品と
並べた
処は、
恰も
釣糸に
繋けた
浮木が
魚を
追ふ
風情であつた。……
何をか
試むる、と
怪んで、
身を
起し
汀に
立つて、
枯蘆の
茎越に、
濠の
面を
瞻めた
雪枝は、
浮脂の
上に、
明かに
自他の
優劣の
刻み
着けられたのを
悟得て、
思はず……
『はつ、』と
歎息した。
老爺は、もつぺの
膝の
小刀屑を
払きながら、
眉をふさ/\と
揺つて
笑ひ、
『はつはつはつ
一イ
二ウ
三い!
私等が
勝ぢや。
見さつせえ、
形は
同じやうな
出来だが、の、お
前様の
鮒は
水に
入れると
腹を
出いたで、
死ちた
魚よ、……
私等が
鮒は、
泳ぎ
得いでも、
鰭を
立てたれば
活きた
奴。
何とした
処で、
俎に
乗せれば、
人間の
口に
食へいでも、
翡翠が
来て
狙ふたら、ちよつくら
潜つて
遁げべいさ。
囲炉裏の
自在竹に
引懸ける
鯉にしても、
水へ
放せば
活きねばならぬ。お
前様の
鮒のやうに、へたりと
腹を
出いては
明かねえ。
木を
削る
時の
釣合一つで、
水に
入れた
時浮き
方が
違ふでねえかの、
縦に
留まれば
生がある、
横に
寝れば、
死んだりよ。……
煩ヶ
敷い
事ではねえだ。
が、お
前様、
此の
手際では、
昨夜造り
上げて、お
天守へ
持つてござつた
木像も、
矢張同じ
型ではねえだか。……
寸法が
同じでも
脚の
筋が
釣つて
居らぬか、
其では
跛足ぢや。
右と
左と
腕の
釣合も
悪かつたんべい。
頬ぺたの
肉が、どつちか
違へば、
片がりべいと
言ふ
不具ぢや、それでは
美しい
女でねえだよ。
もし、へい、
五体が
満足な
彫刻物であつたらば、
真昼間、お
前様と
私とが、
面突合はせた
真中に
置いては
動出しもすめえけんども、
月の
黄色い
小雨の
夜中、――
主が
今話さしつた、
案山子が
歩行く
中へ
入れたら、ひとりで
褄を
取つて、しやなら、しやならと
行るべい。
何も、
破れ
傘の
化け
車に
骨を
折らせて
運ばせずと
済む
事よ。
平時なら
兎も
角ぢや、お
剰に
案山子どもが
声を
出いて、お
迎ひ、と
言ふ
世界なら、
第一お
前様が
其の
像を
担いで
出る
法はあるめえ。
何ではい、
歩行け、さあ、
木像、と
言ふ
腹に
成らしやらぬ。……
其では
魔物が
不承知ぢや。
前方に
些とも
無理はねえ、
気に
入るも
入らぬもの……
出来不出来は
最初から、お
前様の
魂にあるでねえか。
其処へ
懸けては
我等が
鮒ぢや。
案山子が
簑を
捌いて
捕らうとするなら、ぴち/\
刎ねる、
見事に
泳ぐぞ。
老爺が
広言を
吐くではねえ。
何の、
橋の
欄干が
声を
出す、
槐が
嚏をすべいなら、
鱗を
光らし、
雲を
捲いて
踊を
踊らう。
遣直さつしやい、
新にはじめろ、
最一つ
作れさ。
何うやらお
前様より
増だんべいで、
出来る
事さ
助言も
為べい、
為て
可い
処は
手伝ふべい。
腰につけて
道具も
揃ふ。』
と
箙の
如く、
麻袋を
敲いて
言つた。
『すかりと
斬れるぞ。
残らず
貸すべい。
兵粮も
運ぶだでの!
宿へも
祠へも
帰らねえで、
此処へ
確乎胡座を
掻けさ。
下腹へうむと
力を
入れるだ。
雨露を
凌ぐなら、
私等が
小屋がけをして
進ぜる。
大目玉で、
天守を
睨んで、ト
其処に
囚られてござるげな、
最惜い、
魔界の
業苦に、
長い
頭髪一筋づゝ、
一刻に
生血を
垂らすだ、
奥様の
苦脳を
忘れずに、
飽くまで
行れさ、
倒れたら
介抱すべい。』
雪枝は
満面に
紅を
濯いで、
天守に
向つて
峯より
高く
握拳を
衝と
上げた。
『
少いものを
唆かして
要らぬ
骨を
折らせるな、
娑婆ツ
気な
老爺めが、』
と
二人の
背後にぬいと
立つた……
苔かと
見ゆる
薄毛の
天窓に、
笠も
被らず、
大木の
朽ちたのが
月夜に
影の
射すやうな、ぼけやた
色の
黒染扮装で、
顔の
蒼い
大入道!
振向いた
老爺の
顔を
瞰下ろして、
『
覚えて
居るか、
暗の
晩を、』と
北叟笑みした
頬が
暗い。
『おゝ、
御坊?』
『
何日かの
晩の!』
雪枝と
老爺は
左右から
斉しく
呼ばわる。
『
御身も
其の
時の
少い
人な。』と
雪枝に
向いて、
片頬を
又暗うして
薄笑ひを
為た。
『
血気に
逸つて、うか/\と
老爺の
口に
乗らぬが
可い。……
其の
気で
城趾に
根を
生いて、
天守と
根較べを
遣らうなら、
御身は
蘆の
中の
鉋屑、
蛙の
干物と
成果てやうぞ……
此老爺はなか/\
術がある!
蝙蝠を
刻んで
飛ばせ、
魚を
彫つて
泳がせる
代には、
此の
年紀をして
怪しからず、
色気がある、……あるは
可いが、
汝が
身で
持余ました
色恋を、ぬつぺりと
鯰抜けして、
人にかづけやうとするではないか。
城ヶ
沼の
暗夜を
思へ!
何か、
自分に
此の
天守の
主人から、
手間賃の
前借をして
居つて、
其の
借を
返す
羽目を、
投遣りに
怠惰を
遣り、
格合な
折から、
少いものを
煽り
立つて、
身代りに
働かせやう
気かも
計られぬ。』
『これ、これ、
御坊、
御坊、』と
言つて
締つた
口を
尖らかす。
相対する
坊主の
口は、
三日月形に
上へ
大きい、
小鼻の
条を
深く
莞つて、
『いや、
暗の
夜を
忘れまい。
沼の
中へ
当の
無い
経読ませて、
斎非時にとて
及ばぬが、
渋茶一つ
振舞はず、
既での
事に
私は
生涯坊主の
水車に
成らうとした。』
『む、まづ
出家の
役ぢや……
断念めさつしやい。
然う
又一慨に
説法されては、
一言もねえ
事よ。……けんども、やきもきと
精出いて
人の
色恋で
気を
揉むのが、
主たち
道徳の
役だんべい、
押死んだ
魂さ
導くも
勤なら、
持余した
色恋の
捌を
着けるも
法ではねえだか、の、
御坊。』
『
然ればな……いや
口の
減らぬ
老爺、
身勝手を
言ふが、
一理ある。――
処でな、あの
晩四つ
手網の
番をしたが
悪縁ぢや、
御身が
言ふ
通り
色恋の
捌を
頼まれた
事と
思へ。
別ではない、
此の
少い
人の
内儀の
事でな、』
雪枝は
屹と
向直つた。
流盻に
掛けつゝ
尚ほ
老爺に、
『……
其の
夜、
夢幻のやうに
言托を
頼まれて、
采を
験に
受取つたは、さて
此方衆知つての
通りだ。――
頼まれた
事は
手廻しに
用済みと
成つたでな、
翌朝直にも、
此処を
出発と
思ふたが、
何か
気に
成る……
温泉宿、
村里を
托鉢して、
何となく、ふら/\と
日を
送つた。
其の
様子を
聞けば、
私が
言托を
為た
通り、
何か、
内儀の
形代を
一心に
刻むと
聞く、……
其が
成就したと
言ふ
昨夜ぢや。
少い
人が
人形を
運んで
行く
後になり
前になり、
天守へ
入つて
四階目へ
上つた、
処、
柱の
根に
其の
木像を
抱緊めて、
死んだやうに
眠つて
居る。
はてな、
内儀を
未だ
返さぬか、
一体どんな
魔物が
棲むぞ。――
其処へ
行くまでには
何も
目に
着いたものは
無かつたに
因つて――
尚ほ
此の
上か、と
最一ツ
五階へ
上つて
見た。
様子は
知れた。』
と
頷いて
言つた。
『
何が、
何者が
居るんだ。』と
雪枝は
苛立つて
犇と
詰寄る。
遮る
如く
斜に
構へて、
『いや、
何か
分らん、ものは
見えん。が、
五階へ
上り
切つて、
堅い
畳の
上に
立つた。
冷い
風が
冷りと
来ると、
左の
腕がびくりと
動く、と
引立てたやうに、ぐいと
上つて、
人指指がぶる/″\と
振ふとな、
何かゞ
口を
利くと
同じに、
其の
心が
耳に
通じた。……
天守の
主人は、
御身が
内儀の
美艶な
色に
懸想したのぢや。
理も
非もない、
業の
力で
掴取つて、
閨近く
幽閉めた。
従類眷属寄りたかつて、
上げつ
下ろしつ
為て
責め
苛む、
笞の
呵責は
魔界の
清涼剤ぢや、
静に
差置けば
人間は
気病で
死ぬとな……
言ふまでもない
肉を
屠つて
其の
血を
啜るに
仔細はないが、
夫は
香村雪枝とか。
天晴れ
一芸のある
効に、
其の
術を
以て
妻を
償へ!
魔神を
慰め
楽しますものゝ、
美女に
代へて
然るべきなら
立処に
返し
得さする。――
可いかな、
此の
心は
早や
御身が
内儀に、
私が
頼まれて、
御身に
伝へた。』
『
活けて
視めうと
思ふ
花を、
苞のまゝ
室に
寝かせて
置いて、
待搆へた
償ひの
彼は
何ぢや!
聾の、
唖の、
明盲人の、
鮫膚で
腰の
立たぬ、
針線のやうな
縮毛、
人膚の
留木の
薫の
代りに、
屋根板の
臭の
芬とする、いぢかり
股の、
腕脛の
節くれ
立つた
木像女が
何に
成る! ……
悪く
拳に
采を
持たせて、
不可思議めいた、
神通めいた、
何となく
天地の、
言ふに
言はれぬ
心を
籠めたらしい
所業が
可笑しい。
笑止千万な
大白痴!』
『ヌ、』とばかりで、
下唇をぴりゝと
噛んで、
思はず
掴懸らうとすると、
鷹揚に
破法衣の
袖を
開いて、
翼の
目潰、
黒く
煽つて、
『と、な、……
天守の
主人が
言はるゝのぢや……それが
何もない
天井から、
此の
指にぶる/\と
響いて
聞こえた。』
衝と、
天守の
棟を
切つて、
人指指を
空に
延ばすと、
雪枝は
蒼く
成つて、ばつたり
膝支く。
負けぬ
気の
老爺は、
前屈みに
腰を
入れて、
『
分つた、
分つたよ、
御坊。お
前様が、
仏でも
鬼でも、
魔物でも、
唯の
人間の
坊様でも
可え。
言はつしやる
事は
腑に
落ちた……
疾い
話が、
此の
人な
持つて
行つたは、
腹を
出いた
鮒だで、
美しい
奥様とは
取替へぬ。……
鰭を
立てた
魚を
持ち
来い、
返して
遣ると、
恁うだんべい。
さ、
其処ぢやい!
其処どころぢやに
因つて
私が
後見助言の
為て、
勝れた、
優つた、
新しい、……
可かの、
生命のある……
肉附もふつくりと、
脚腰もすんなりした、
膚の
佳い、
月に
立てば
玉のやう、
日に
向へば
雪のやうな、へい、
魔王殿が
一目見たら、
松脂の
涎を
流いて、
魂が
夜這星に
成つて
飛ぶ……
乳の
白い、
爪紅の
赤い
奴を
製作へると
言はぬかい!
少いものを
唆かして、
徒労力を
折らせると
何故で
言ふのぢや。
御坊、
飛騨山の
菊松が、
烏帽子を
冠つて、
向顱巻を
為て
手伝つて、
見事に
仕上げさせたら
何とする。』
『
然れば、
言ふ
通りに
仕上つて、
其処で
其の
木像が
動くかな、
目を
働かすかな、
指す
手は
伸び、
引く
手は
曲るか、
足は
何うじや、
歩行くかな。』
と
皆まで
言はせず、
老爺が
其の
眉、
白銀の
如き
光を
帯びて、
太陽に
向ふ
目を
輝かした。
手拍子拍つやう、
腰の
麻袋をはた/\と
敲いたが、
鬼に
向つて
臀を
掻く、
大胆不敵の
状が
見えた。
『
天守の
魔物は
何時から
棲むよ。
飛騨国の
住人日本の
刻彫師、
尾ヶ
瀬菊之丞孫の
菊松、
行年積つて
七十一歳。
極楽から
剰銭を
取る
年で、
城ヶ
沼の
女の
影に
憂身を
窶すお
庇には、
動く、
働く、
彫刻物は
活きて
歩行く……
独りですら/\と
天守へ
上つて、
魔物の
閨に
推参する、が、
張も
意地も
着いて
居るぞ、
其の
時嫌はれぬ
用心さつせえ、と
御坊に
言托を
頼まうかい。』
『
可い、
可い。』
ニヤ/\と
両の
頬を
暗くして、あの
三日月形の
大口を、
食反らして
結んだまゝ、
口元をひく/\と
舌の
赤う
飜るまで、
蠢めかせた
笑ひ
方で、
『
面白い!
旅のものぢやが、
其も
聞いた。
此方が
手遊びに
拵える、
五位鷺の
船頭は、
翼で
舵取り、
嘴で
漕いで、
水の
中で
火を
吐くとな………』
『
天守の
上から
御覧なされ、
太夫ほんの
前芸にござります、ヘツヘツヘツ』とチヨンと
頭を
下げて
揉手を
為て
言ふ。
『おゝ、
其の
面魂頼母しい。
満更の
嘘とは
思はん。
成程此方が
造つた
像は、
目も
瞬かう、
歩行かう、
厭なものには
拗ねもせう。……
然れば
御身は、
少いものゝ
尻圧して
石に
成るまでも
働け、と
励ますのぢや。で、
唆かすとは
思ふまい。
徒労力をさせるとは
知るまい。が、
私は、
無駄ぢや
留めい、と
勧める……
其の
理由を
言うて
聞かさう。
其処で、
老爺、』
『おい、』
『
御身が
言ふ、
其の
像には
血が
通ふか、』
『
血が
通ふだ?』と
聞返す。
『
然ればよ、
針の
尖で
突いても
生命を
絞る、
其の、あの
人間の
美しい
血が
通ふかな。』
『…………』と
老爺の
眉がはじめて
顰む。
黒坊主は
嵩に
懸つて、
『まだ
聞きたい。
御身が
作の
其の
膚は
滑かぢやらう。が、
肉はあるか、
手に
触れて
暖味があるか、
木像の
身は
冷たうないか。』
『はてね、』と
問を
怪む
中に、
些とひるんだのが、
頬に
出づる。
『
第一肝要なは
口を
利くかな、
御身の
作は
声を
出すか、ものを
言ふかな。』
『
馬鹿な
事を、
無理無躰ぢや。』
と
呆果てた
様子であつた。
『
理も
非もない。はじめから
人の
妻を
掴み
取つてものを
云ふ、
悪魔の
所業ぢや、
無理も
無躰も
法外の
沙汰と
思へ。
此所を
聞けよ、
二人の
人。……
御身達が、
言ふ
通り、
今新しく
遣直せば、
幾干か
勝れたものは
出来やう、がな、
其は
唯前のに
較べて
些と
優ると
言ふばかりぢや。
其も
可からう、
何も
持たぬ、
空しい
乏しいものに
取つたら、
御身達が
作り
更めると
云ふ
其の
木像でも、
無いよりは
増しぢや、
品に
因つて、
美しいとも、
珍らしいとも
思はうも
知れぬ。
けれどもな、
天守の
主人は、
最う
手の
内に、
活きた、
生命ある、ものを
言ふ、
血の
通ふ、
艶麗な
女を
握つて
居るのぢや。
可いか、
其に
代へやうと
言ふからには、
蛍と
星、
塵と
山、
露一滴と、
大海の
潮ほど、
抜群に
勝れた
立優つたもので
無いからには、
何を
又物好きに
美女を
木像と
取り
代へやう。
彫刻した
鮒の
泳ぐも
可い。
面白うないとは
言はぬが、
煎る、
焼く、
或は
生のまゝ
其の
肉を

はうと
思ふものに、
料理をすれば、
炭に
成る、
灰に
成る、
木の
切を
何にせい、と
言ふ
了見だ。
悪魔は
今其の
肉を
欲する、
血を
求むる……
仏が
鬼女を
降伏してさへ、
人肉のかはりにと、
柘榴を
与へたと
言ふでは
無いか。
既に
目指す
美女を
囚へて、
思ふがまゝに
勝矜つた
対手に
向ふて、
要らぬ
償ひの
詮議は
留めろ。
何うぢや、それとも、
御身達に、
煙草の
吸殻を
太陽の
炎に
変へ、
悪魔の
煩脳を
[#「煩脳を」はママ]焼亡ぼいて
美女を
助ける
工夫があるか、すりや
格別ぢや。よもあるまい。
有るか、
無からう。……
それ、
徒労力と
言ふ
事よ!
要もない
仕事三昧打棄つて、
少い
人は
妻を
思切つて
立帰れえ。
老爺も
要らぬ
尻押せず、
柔順に
妻を
捧げるやうに、
少いものを
説得せい。
勝手に
木像を
刻まば
刻め、
天晴れ
出来したと
思ふなら、
自分に
其を
女房のかはりにして、
断念めるが
分別の
為処だ。
見事だ、
美いと
敵手を
強ゆるは、
其方の
無理ぢや、
分つたか。』
と
衝と
指を
上げて
雲を
指した。
『
天守の
主人の
言托は
此の
通り。
更めて
其の
印を
見せう、……
前刻も
申した、
鮫膚の
縮毛の、
醜い
汚い、
木像を、
仔細ありげに
装ふた、
心根のほどの
苦々しさに、へし
折つて
捻切つた、
女の
片腕、
今返すわ、
受取れ。』
と
法衣の
破目を
潜らす
如く、
懐から
抜いて、ポーンと
投出す。
途端に
又指を
立てつゝ、
足を
一巾、
坊主が
退つた。
孰も
首垂れた
二人の
中へ、
草に
甲をつけて、あはれや、
其でも
媚かしい、
優しい
腕が
仰向けに
落ちた。
雪枝は
唯肩を
抱いて
身を
絞つた。
老爺は、さすがに、まだ
気丈で、
対手が
然までに、
口汚く
詈り
嘲ける、
新弟子の
作の
如何なるかを、はじめて
目前験すらしく、
横に
取つて
熟と
見て、
弱つたと
言ふ
顰み
方で、
少時ものも
言はなんだ。
薄うは
成つたが、
失せ
果てない、
底光のする
目を
細うして、
『いや、
御出家。』
と
調子を
変へて……
『
虫の
居所で
赫とも
為たがの、
考えて
見れば、お
前様は、
唯言托を
頼まれたばかりの
事よ。
何も
喰つて
懸るには
当らなんだか。……
又お
前様とても
何もこれ、
此の
少い
人に
怨も
恩も
報もあらつしやる
次第でねえ。……
処でものは
相談ぢやが、
何とかして、
其の
奥様を
助けると
言ふ
工夫はねえだか、のう、
御坊、
人助けは
此方の
勤ぢや、
一つ
折入つて
頼むだで、
勘考してくらつせえ。』とがらりと
出直る。
これを
聞くと、
然もあらむ、と
言ふ
面色した
坊主の
気色やゝ
和らいで、
『
然れば、
然う
言はれると
私も
弱る。
天守からは、よく
捌け、
最早や
婦を
思ひ
切るやう
少い
人を
悟せとある……
御身達は
生命に
代へても
取戻したいと
断つて
言ふ。
で、
其を
取戻す
唯一つの
手段と
言ふのが、
償ひの
像を
作るにある、
其の
像が、
御身たちに、』
『えゝ、えゝ、
最う、
能う
分つた。
何ぼ
私が
顱巻しても、
血の
通ふ、
暖い
彫刻物は
覚束ないで、……
何とか
別の
工夫を
頼むだ、
最う
此なものは、』と
手にした
腕を、
思切つたしるしに、
擲けやうとして
揮上げた、……
其の
拳を
漏れて、ころ/\と
采が
溢れて。
一か
六か、
草の
中に、ぽつりと
蟋蟀の
目に
留んぬ。
三人が
熟と
視めた。
坊主が
先づ、
『
老爺……』と
心ありげに
呼んだ。
『はあ、
是ぢや、』
と
采の
上で
蓋するやうに、
老爺は
眉の
下へ
手を
翳して、
『ちよつくら
気が
着いた
事がある、
待たつせえ、
御坊……』
『…………、』
『
少い
人も
何う
思ふ。お
前様が
小児の
時、
姉様にして
懐かしがらしつたと
言ふ
木像から
縁を
曳いて、
過日奥様の
行方が
分らなく
成つた
時から
廻り
繞つて、
采粒が
着き
絡ふ、
今此処に
采がある……
此の
山奥に
双六の
巌がある。
其処も
魔所ぢやと
名が
高い。
時々山が
空に
成つて
寂とすると、ころころと
采を
投げる
音が
木樵の
耳に
響くとやら
風説するで。
天守にも
主人があれば
双六巌にも
主が
棲まう……どちらも
膚合の
同じ
魔物が、
疾え
話が
親類附合で
居やうも
知れぬだ。
魔界は
又魔界同士、
話の
附け
方もあらうと
思ふ、
何うだね、
御坊。』
坊主も
二三度頷いた。で、
深く
其の
広い
額を
伏せた。
『いや、
可い
処に
気が
着いた、……
何にせい、
此の
上は
各々我を
張らずに
人頼みぢや。
頼むには、
成程其の
辺であらうかな。』
『
行つて
見べい。
方角は
北東、
槍ヶ
嶽を
見当に、
辰巳に
当つて、
綿で
包んだ、あれ/\
天守の
森の
枝下りに、
峯が
見える、
水が
見える、
又峯が
見えて
水が
曲る、
又一つ
峯が
抽出て
居る。あの
空が
紫立つてほんのり
桃色に
薄く
見えべい。――
麻袋には
昼飯の
握つた
奴、
余るほど
詰めて
置く、ちやうど
僥幸、
山の
芋を
穿つて
横噛りでも
一日二日は
凌げるだ。
遣りからかせ、さあ、ござい。
少い
人。……お
前様、
其の
采を
拾はつしやい。
御坊、』
『
乗りかゝつた
船ぢや、
私も
行く。……』
で、
連立つて、
天守の
森の
外まはり、
壕を
越えて、
少時、
石垣の
上を
歩行いた。
爾時、
十八九人の
同勢が、ぞろ/\と
野を
越えて
駆けて
来た。
中には
巡査も
交つたが、
早や
壕の
向ふの
高い
石垣の
上に、
森の
枝を
伝ふ
躰の
雪枝の
姿を、
小さな
鳥に
成つて、
雲に
入り
行く、と
視めたであらう。……
手を
挙げ、
帽を
振り、
杖を
廻はしなどして、わあわつと
声を
上げたが、
其の
内に、
一人、
草に
落た
女の
片腕を
見たものがある。それから
一溜りもなく
裏崩れして、
真昼間の
山の
野原を、
一散に、や、
雲を
霞。
森の
幕が
颯と
落ちて、
双六谷が
舞台の
如く
眼前に
開かれたやうに
雪枝は
思つた。……
悪処難路を
辿りはしたが、
然まで
時が
経つたとも
思はず、
別に
其が
為に、と
思ふ
疲労も
増さない。で、
足を
運ぶ
内に
至り
着いたので、
宛然、
城址の
場所から、
森を
土塀に、
一重隔てた
背中合はせの
隣家ぐらゐにしか
感じない。――
最も
案内をすると
云ふ
老爺より、
坊主の
方が、すた/\
先へ
立つて
歩行いたが。
時に、
真先に、
一朶の
桜が
靉靆として、
霞の
中に
朦朧たる
光を
放つて、
山懐に
靡くのが、
翌方の
明星見るやう、
巌陰を
出た
目に
颯と
映つた。
「
叱!」
と
老爺が
警蹕めいた
声を、
我と
我が
口へ
轡に
懸ける。
トなだらかな、
薄紫の
崖なりに、
桜の
影を
霞の
被衣、ふうわり
背中から
裳へ
落して、
鼓草と
菫の
敷満ちた
巌を
前に、
其の
美女が
居たのである。
少時、
一行は
呼吸を
凝らした。
見よ!
見よ!
巌の
面は
滑かに、
質の
青い
艶を
刻んで、
花の
色を
映したれば、
恰も
紫の
筋を
彫つた、
自然に
奇代の
双六磐。
磐面には
花を
摘んだ、
大輪の
菫と
鼓草とが、
陽炎の
輝く
中に、
鼓草は
濃く、
菫は
薄く、
美しく
色を
分つて、
十二輪、
十二輪、
二十四輪の
駒なるよ……
向ふ
合はせに
区劃を
隔てゝ、
二輪、
一輪、
一輪、
二輪、
空に
蒔絵した
星の
如く、
浮彫したやう
並べられた。
美女は、やゝ
俯向いて、
其の
駒を
熟と
視める
風情の、
黒髪に
唯一輪、……
白い
鼓草をさして
居た。
此の
色の
花は、
一谷に
他には
無かつた。
軽く
其の
黒髪を
戦がしに
来る
風もなしに、
空なる
桜が、はら/\と
散つたが、
鳥も
啼かぬ
静かさに、
花片の
音がする……
一片……
二片……
三片……
「
三つ」と
鶯のやうな
声、
袖のあたりが
揺れたと
思へば、
蝶が
一ツひら/\と
来て、
磐の
上をすつと
行く……
「
一つ、」
と
美女は
又算へて、
鼓草の
駒を
取つて、
格子の
中へ、……
菫の
花の
色を
分けて、
静に
置替へながら、
莞爾と
微笑む。……
気高い
中に
其の
優しさ。
「は、」と、
思はず
雪枝は、
此方に
潜みながら
押堪へた
息が
発奮んだ。
「
誰? ……」
と
美女の
声が
懸る。
老爺は
咳を
一つ
故として、
雪枝の
背中を
丁と
突出す。これに
押出されたやうに、
蹌踉いて、
鼓草菫の
花を
行く、
雲踏む
浮足、ふらふらと
成つたまゝで、
双六の
前に
渠は
両手を
支いて
跪いたのであつた。
坊主は
懐中の
輪袈裟を
取つて
懸け、
老爺は
麻袋を
探つた、
烏帽子を
丁と
冠つて、
更めてづゝと
出た。
美女は
密と
鬢を
圧へた。
声も
出せぬ
雪枝に
代つて、
老爺が
始終を
物語つた……
坊主は、
時々眼を
開いて、
聞澄す
美女の
横顔を
窺ひ
見る。
「お
姫様、」
と
語り
果てゝ
老爺が
呼んで、
「お
助けを
遣はされ、さあ、
少い
人、
願へ。」
「
姫様、」
と
雪枝は、
窶れに
窶れた
人間の
顔して
見上げた。
「
上
どの、」と
坊主も
言足す。
美女は
引合はせた
袖を
開いた。
而して、
「
天守のお
使者、
天守のお
使者。」
と
二声呼ばるゝ。
「やあ、
拙僧が
事か、」と、
間を
措いて
坊主が
答へた。
「あの、
其の
指をお
指しになれば、
天守の
方の、お
心が
通じますかえ。」
「
如何にも。」と
片手を
握つて、
片手を
其の
蒼い
頬げたに
並べて、
横に
開いて
応じたのである。
「
双六を
打つて
賭けませう。
私は
其の
他の
事は
何にも
知らねば……
而して、
私が
負けましたら、
其切仕方がありません。もし、あの、
私が
勝となれば、
此のお
方の
其の
奥様を、
恙なう、お
戻しになりますやうに……お
約束が
出来ませうか。」
と
物優しいが
力ある
声して
聞く。
坊主は
言下に
空を
指した。
「
天守に
於ては、
予て
貴女と
双六を
打つて
慰みたいが、
御承知なければ、
致やうも
無かつた
折から……
丁ど
僥倖、いや
固より、
固より
望み
申す
処……とある!」
美女は
世にも
嬉しげに……
早や
頼まれて
人を
救ふ、
善根功徳を
仕遂げた
如く
微笑みながら、
左右に、
雪枝と
老爺とを
艶麗に
見て、
清しい
瞳を
目配せした。
「そんなら、
私が
勝ちましたら、
奥様をお
返しなさいますね。」
「
御念に
及ばぬ、
城ヶ
沼の
底に
湧く……
霊泉に
浴させて、
傷もなく
疲労もなく
苦悩もなく、
健かにしてお
返し
申す。」
美女は、
十二の
数の、
黄と
紫を、
両方へ、
颯と
分けて、
「
天守のお
方。どちらの
駒を……」
「
赫耀として
日に
輝く、
黄金の
花は
勝色、
鼓草を
私が
方へ。」
と
痩せた
頬げたの
膨らむまで、
坊主は
浮色に
成つて
笑を
含んで、
駒を
二つづゝ
六行に。
同じく
二つづゝ
六行に……
紫の
格子に
並べた。
「
紫は
朱を
奪ふ、お
姫様菫の
花が、
勝負事には
勝色ぢや。」
と
老爺は
盤面を
差覗いて、
坊主を
流盻に
勇んだ
顔色。
これに
苦笑ひ
為て
口を
結んだ、
坊主は
心急く
様子が
見えて、
「ざ!
上
、」
「お
客なれば
貴僧から、」
「や、
采は、
上
。」と
高声で
言つた。
「
空を
行く
雲の
数、」
と
眉を
開いて
見上ぐる
天を、
白い
雲が
来ては
消え、
白い
雲が
来ては
消えする。
「
桜の
花の
散るのを
数へ、
舞ひ
来る
蝶の
翼を
算んで、
貴僧、
私と
順々に。」
坊主は
頷いて
袈裟を
揺つた。
「
言ふ
目。」
と
高く
美女が。
「
乞目、」
と
坊主が、
互に
一声。
鶯と
梟と、
同時に
声を
懸合はせた。
「
一つ
来て、
二つぢや。」
と
鶴の
姿の
雲を
睨んで、
鼓草は
格子を
動く。
ト
美女は
袂を
取つて、
袖を
斜めに、
瞳を
流せば、
心ある
如く
桜の
枝から、
花片がさら/\と
白く
簪の
花を
掠める
時、
紅の
色を
増して、
受け
取る
袖に
飜然と
留まつた。
「
右が
三つ、」
と
袖を
返して、
左の
袂を
静かに
引くと、また
花片がちらりと
来る。
「
一つと
二つ、」
と
菫の
花が
白い
指から
格子へ
入つた。
「
雲よ、
雲よ、
雲よ、」
と
呼んで、
気色ばんで、やゝ
坊主があせり
出した。――
争ひの
半であつた。
「
雲が
来る、
花が
降る。や、
此の
采は
気が
長いぞ。
見て
居る
内に
斧の
柄が
朽ち、
玉手箱が
破れうも
知れぬが。
少い
人、
其の
采を……
其の
采を
出さつしやい。うつかり
見惚れて
私も
忘れた。」
と
目の
覚めたやうに
老爺が
言つた。
青年は
疾くから
心着いて、
仏舎利のやうに
手に
捧げて
居たのを、
密と
美女の
前へ
出した。
「
一つ
振つたり、」
と
老爺が
傍から、
肝入れして、
采を
盤石に
投げさせた。
「お
姫様、それ/\、
星が
一つで、
梅が
五ぢや。
瞬する
間に、
十度も
目が
出る。
早く、もし、
其で
勝負を
着けさつせえまし。」
「
天下の
重宝、
私もつひ
是に
気が
着かなんだ。」
と
坊主は
手早く
拾ひ
取る。
「いえ、
急いでは
成りません、
花の
数、
蝶の
数、
雲の
数で
無くつては。」と
美女は
頭を
振つた。
「えゝ、お
姫様の!
何うやら
今までの
乞目では、
一度に
一年も
懸りさうぢや。お
庇と
私等は
飢うも、だるうも
無けれど、
肝心助け
取らうと
云ふ、
奥様の
身をお
察しやれ。
一息に
血一点、
一刻に
肉一分は
絞られる、
削られる……
天守の
梁に
倒で、
身の
鞭に
暇はないげな。」
「
其の
通り。」と
傲然として、
坊主は
身構へ
為て
袖を
掲げた。
美女の
顔の
色は
早や
是非なげに
見えた。
一が
起き、
六が
出で、
三に
変り、
二に
飜り、
五が
並ぶ。
天に
星の
輝く
如く、
采の
目の
疾く、
駒の
烈しく
動くに
連れて、
中空を
見よ、
岫を
湧き、
谷を
飛ぶ、
消えた
雲が
残り、
続く
雲が
累り、
追ふ
雲が
結着いて、
雲はやがて
厚く、
雲はやがて
濃く、
既にして
近くなり、
低く
成つた。……
忽ち
一片、
美女の
面にも
雲の
影が
映すよと
見れば、
一谷<