一
「自分も実は白状をしやうと思つたです。」
と汚れ
垢着きたる制服を
絡へる一名の赤十字社の看護員は静に左右を
顧みたり。
渠は
清国の富豪
柳氏の家なる、奥まりたる一室に
夥多の
人数に取囲まれつつ、
椅子に懸りて
卓に向へり。
渠を囲みたるは皆
軍夫なり。
その十数名の軍夫の中に一人
逞ましき
漢あり、
屹と
彼の看護員に向ひをれり。これ百人長なり。
海野といふ。海野は
年配三十八、九、
骨太なる手足あくまで肥へて、身の
丈もまた群を抜けり。
今看護員のいひ
出だせる、その
言を聴くと
斉しく、
「何! 白状をしやうと思つたか。いや、実際味方の内情を、あの、敵に打明けやうとしたんか。君。」
いふ
言ややあらかりき。
看護員は
何気なく、
「
左様です。
撲つな、
蹴るな、
貴下酷いことをするぢやあありませんか。三日も
飯を喰はさないで眼も
眩むでゐるものを、
赤條々にして木の枝へ
釣し上げてな、銃の
台尻で以て
撲るです。ま、どうでしやう。余り
拷問が
厳しいので、自分もつひ苦しくつて
堪りませんから、すつかり白状をして、早くその苦痛を助りたいと思ひました。けれども、軍隊のことについては、何にも知つちやあゐないので、赤十字の方ならば
悉しいから、病院のことなんぞ、悉しくいつて聞かして
遣つたです。が、
其様なことは役に立たない。軍隊の様子を白状しろつて、益々酷く
苛むです。実は苦しくつて堪らなかつたですけれども、知らないのが
真実だからいへません。で、とうとう聞かさないでしまひましたが、いや、実に弱つたです。困りましたな、どうも支那人の野蛮なのにやあ。何しろ、まるでもつて赤十字なるものの組織を解さないで、自分らを何がなし、戦闘員と
同一に心得てるです。仕方がありませんな。」
とあだかも親友に対して
身の
上談話をなすが如く、
渠は平気に物語れり。
しかるに海野はこれを聞きて、
不心服なる色ありき。
「ぢやあ何だな、知つてれば味方の内情を、残らず
饒舌ツちまう
処だつたな。」
看護員は
軽く答へたり。
「いかにも。拷問が酷かつたです。」
百人長は
憤然として、
「何だ、それでも
生命があるでないか、
譬ひ肉が
爛れやうが、さ、皮が裂けやうがだ、
呼吸があつたくらゐの拷問なら
大抵知れたもんでないか。それに、
苟も神州男児で、
殊に戦地にある
御互だ。どんなことがあらうとも、いふまじきことを、何、
撲られた位で痛いといふて、味方の内情を白状しやうとする腰抜が
何処にあるか。勿論、白状はしなかつたさ。白状はしなかつたに
違ないが、自分で、知つてればいはうといふのが、既に我が
同胞の心でない、敵に内通も
同一だ。」
といひつつ海野は一歩を進めて、更に看護員を
一睨せり。
看護員は落着
済まして、
「いや、自分は何も敵に捕へられた時、軍隊の事情をいつては
不可ぬ、
拷問を堅忍して、秘密を守れといふ、訓令を
請けた事もなく、それを誓つた
覚もないです。また全く
左様でしやう、
袖に赤十字の着いたものを、戦闘員と
同一取扱をしやうとは、自分はじめ、恐らく
貴下方にしても
思懸はしないでせう。」
「戦地だい、べらぼうめ。何を!
呑気なことをいやがんでい。」
軍夫の一人つかつかと
立懸りぬ。百人長は
応揚に
左手を広げて
遮りつつ、
「待て、ええ、
屁でもない
喧嘩と違うぞ。裁判だ。罪が
極つてから罰することだ。騒ぐない。
噪々しい。」
軍夫は黙して
退きぬ。ぶつぶつ
口小言いひつつありし、他の多くの軍夫らも、
鳴を留めて静まりぬ。されど尽く不穏の色あり。眼光鋭く、意気激しく、いづれも
拳に力を
籠めつつ、知らず知らず
肱を張りて、強ひて沈静を装ひたる、一室にこの人数を
容れて、燈火の光
冷かに、殺気を
籠めて風寒く、満州の天地
初夜過ぎたり。
二
時に海野は
面を正し、
警むるが如き
口気以て、
「おい、それでは済むまい。よしむば、われわれ同胞が、君に白状をしろといつたからツて、日本人だ。むざむざ
饒舌るといふ法はあるまいぢやないか、骨が砂利にならうとままよ。それをさうやすやすと、知つてれば白状したものをなんのツて、面と向つてわれわれにいはれた
道理か。え? どうだ。いはれた
義理ではなからうでないか。」
看護員は身を
斜めにして、椅子に片手を投懸けつつ、手にせる鉛筆を
弄びて、
「いや。しかし大きに
左様かも知れません。」
と
片頬を見せて横を向きぬ。
海野は
りたる
眼を以て、避けし看護員の
面を追ひたり。
「何だ、左様かも知れません? これ、無責任の言語を吐いちやあ
不可ぞ。」
またじりりと詰寄りぬ。看護員はやや
俯向きつ。手なる鉛筆の
尖を
嘗めて、
筒服の
膝に
落書しながら、
「無責任? 左様ですか。」
渠は少しも逆らはず、はた意に介せる
状もなし。
百人長は大に
急きて、
「
唯(左様ですか)では済まん。様子に寄つてはこれ、きつとわれわれに心得がある。しつかり
性根を
据へて返答せないか。」
「
何様な心得があるのです。」
看護員は顔を上げて、
屹と海野に眼を合せぬ。
「一体、自分が通行をしてをる処を、何か
待伏でもなすつたやうでしたな。
貴下方大勢で、自分を
担ぐやうにして、
此家へ
引込むだはどういふわけです。」
海野は今この反問に張合を得たりけむ、肩を
揺りて
気兢ひ懸れり。
「うむ、聞きたいことがあるからだ。心得はある。心得はあるが、
先づ聞くことを聞いてからのこととしやう。」
「は、それでは何か誰ぞの
吩附ででもあるのですか。」
海野は
傲然として、
「誰が人に頼まれるもんか。
吾の了簡で吾が聞くんだ。」
看護員はそとその耳を傾けたり。
「ぢやあ貴下方に、
他を尋問する権利があるので?」
百人長は
面を赤うし、
「
囀るない!」
と一声高く、頭がちに
一呵しつ。
驚破といはば
飛蒐らむず、
気勢激しき軍夫らを一わたりずらりと見渡し、その眼を看護員に
睨返して、
「権利はないが、腕力じゃ!」
「え、腕力?」
看護員は
犇々とその身を
擁せる
浅黄の
半被股引の、雨風に
色褪せたる、
譬へば囚徒の幽霊の如き、
数個の物体を
はして、
秀でたる
眉を
顰めつ。
「解りました。で、そのお聞きにならうといふのは?」
「知れてる!
先刻からいふ通りだ。
何故、君には国家といふ観念がないのか。痛いめを見るがつらいから、敵に白状をしやうと思ふ。その精神が解らない。(いや、左様かも知れません)なんざ、無責任極まるでないか。そんなぬらくらじや了見せんぞ、しつかりと返答しろ。」
咄々迫る百人長は太き
仕込杖を手にしたり。
「それでどういへば無責任にならないです?」
「自分でその罪を償ふのだ。」
「それではどうして償ひましやう。」
「敵状をいへ! 敵状を。」
と海野は少し
色解てどかと
身重げに椅子に
凭れり。
「聞けば、君が、不思議に敵陣から帰つて来て、係りの将校が、君の捕虜になつてゐた間の経歴について、尋問があつた時、特に敵情を語れといふ、命令があつたそうだが、どういふものか君は、知らない、存じませんの一点張で
押通して、つまりそれなりで
済むだといふが。え、君、
二月も敵陣にゐて、敵兵の看護をしたといふでないか。それで、
懇篤で、親切で、大層奴らのために尽力をしたさうで、敵将が君を帰す時、感謝状を送つたさうだ。その位信任をされてをれば、
種々内幕も聞いたらう、また、ただ見たばかりでも大概は知れさうなもんだ。知つてていはないのはどういふ訳だ。
余り愛国心がないではないか。」
「いえ、全く、聞いたのは
呻吟声ばかりで、見たのは
繃帯ばかりです。」
三
「何、繃帯と呻吟声、その他は見も聞きもしないんだ?
可加減なことをいへ。」
海野は
苛立つ胸を押へて、務めて平和を保つに似たり。
看護員は実際その
衷情を語るなるべし、
聊も
飾気なく、
「全く、知らないです。いつて利益になることなら、何
秘すものですか。また
些少も秘さねばならない必要も見出さないです。」
百人長は
訝かし
気に、
「して見ると、何か、
全然無神経で、敵の事情を探らうとはしなかつたな。」
「別に聞いて見やうとも思はないでした。」
と看護員は手をその
額に加へたり。
海野は仕込杖以て
床をつつき、
足蹈して
口惜げに、
「無神経極まるじやあないか。敵情を探るためには
斥候や、
探偵が苦心に苦心を重ねてからに、命がけで目的を達しやうとして、十に八、九は
失敗るのだ。それに最も安全な、最も便利な地位にあつて、まるでうつちやツて、や、聞かうとも思はない。無、無神経極まるなあ。」
と吐息して慨然たり。看護員は
頸を
撫でて
打傾き、
「なるほど、左様でした。
閑だとそんな処まで気が着いたんでしやうけれども、何しろ病傷兵の方にばかり気を取られたので、ぬかつたです。
些少も準備が整はないで、手当が行届かないもんですから随分繁忙を極めたです。五分と休む
間もない位で、夜の目も合はさないで尽力したです。けれども、器具も、薬品も不完全なので、満足に看護も出来ず、見殺にしたのが多いのですもの、敵情を探るなんて、なかなかどうして
其処々まで、手が廻るものですか。」
といまだいひも
果ざるに、
「何だ、何だ、何だ。」
海野は
獅子吼をなして、
突立ちぬ。
「そりや、何の話だ、誰に対する
何奴の
言だ。」
と
噛着かむずる語勢なりき。
看護員は現在おのが身の
如何に危険なる
断崖の
端に臨みつつあるかを、心着かざるものの如く、無心――
否むしろ無邪気――の
体にて、
「すべてこれが事実であるのです。」
「何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳も
吝むで、問はず、聞かず、敵のためには
粉骨碎身をして、夜の目も合はさない、
呼吸もつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入つた。その位でなければ敵から感状を
頂戴する訳にはゆかんな。
道理だ。」
といい懸けて、夢見る如き
対手の顔を、海野はじつと
瞻りつつ、
嘲み笑ひて、声太く、
「うむ、得がたい豪傑だ。日本の名誉であらう。敵から感謝状を送られたのは、恐らく君を
措いて外にはあるまい。君も名誉と思ふであらうな。えらい! 実にえらい! 国の光だ。日本の花だ。われわれもあやかりたい。君、その大事の、いや、御秘蔵のものではあらうが、どうぞ
一番、その感謝状を拝ましてもらいたいな。」
と口は
和らかにものいへども、胸に
満たる不快の念は、包むにあまりて
音に
出でぬ。
看護員は異議もなく、
「確かありましたツけ、お待ちなさい。」
手にせる鉛筆を
納るとともに、
衣兜の
裡をさぐりつつ、
「あ、ありました。」
と一通の書を取出して、
「なかなか字体がうまいです。」
無雑作に
差出して、海野の手に渡しながら、
「裂いちやあ
不可ません。」
「いや、
謹むで、拝見する。」
海野はことさらに感謝状を
押戴き、書面を見る事久しかりしが、やがてさらさらと繰広げて、両手に高く
差翳しつ。声を殺し、
鳴を静め、
片唾を飲みて
群りたる、多数の軍夫に掲げ示して、
「こいつを見い。貴様たちは何と思ふ、礼手紙だ。
可か、
支那人から礼をいつて寄越した
文だぞ。人間は正直だ。わけもなく
天窓を下げて、お辞儀をする者はない。
殊に敵だ、われわれの敵たる
支那人だ。支那人が礼をいつて
捕虜を帰して寄越したのは、よくよくのことだと思へ!」
いふことば半ばにして海野はまた感謝状を取直し、ぐるりと押廻して
後背なる一団の軍夫に示せし時、戸口に
丈長き人物あり。
頭巾黒く、
外套黒く、
面を
蔽ひ、
身躰を包みて、長靴を
穿ちたるが、
纔に
頭を動かして、
屹とその感謝状に眼を注ぎつ。
濃かなる
一脈の煙は
渠の
唇辺を
籠めて
渦巻きつつ
葉巻の
薫高かりけり。
四
百人長は
向直りてその
言を続けたり。
「何と思ふ。意気地もなく
捕虜になつて、
生命が惜さに降参して、味方のことはうつちやつてな、
支那人の
介抱をした。そのまた尽力といふものが、一通りならないのだ。この中にも書いてある、まるで何だ、親か、兄弟にでも対するやうに、恐ろしく親切を尽して
遣つてな、それで生命を助かつて、
阿容々々と帰つて来て、
剰へこの感状を戴いた。どうだ、えらいでないか貴様たちなら何とする?」
といまだいひもはてざるに、満堂
忽ち黙を破りて、
哄と
諸声をぞ立てたりける、
喧轟名状すべからず。国賊逆徒、売国奴、殺せ、
撲れと、衆口一斉
熱罵恫喝を極めたる、思ひ思ひの叫声は、雑音意味もなき響となりて、騒然としてかまびすしく、あはや身の上ぞと見る眼危き、唯
単身なる看護員は、冷々然として椅子に
恁りつ。あたりを見たる
眼配は、深夜時計の
輾る時、病室に患者を護りて、油断せざるに
異ならざりき。看護員に迫害を加ふべき軍夫らの意気は絶頂に達しながら、百人長の手を
掉りて
頻りに一同を
鎮むるにぞ、その命なきに
前だちて決して毒手を下さざるべく、
予て
警むる処やありけん、
地踏蹈みてたけり立つをも、
夥間同志が抑制して、
拳を押へ、腕を
扼して、
野分は無事に吹去りぬ。海野は感謝状を巻き戻し、
卓子の上に押遣りて、
「それでは返す。しかしこの感謝状のために、血のある奴らが
如彼に騒ぐ。殺せの、撲れのといふ
気組だ。うむ、やつぱり取つて置くか。
引裂いて踏むだらどうだ。さうすりや
些少あ念ばらしにもなつて、いくらか
彼奴らが
合点しやう。さうでないと、あれでも
御国のためには、
生命も惜まない
徒だから、どんなことをしやうも知れない。よく思案して請取るんだ、
可か。」
耳にしながら看護員は、事もなげに手に取りて、海野が
言の途切れざるに、敵より得たる感謝状は早くも
衣兜に納まりぬ。
「取つたな。」と叫びたる、海野の声の
普通ならざるに、看護員は怪む如く、
「
不可ないですか。」
「良心に問へ!」
「やましいことは
些少もないです。」
いと潔くいひ
放ちぬ。その面貌の無邪気なる、そのいふことの淡泊なる、要するに看護員は、他の誘惑に動かされて、胸中その是非に迷ふが如き、さる心弱きものにはあらず、何らか固き信仰ありて、
譬ひその信仰の迷へるにもせよ、断々乎一種他の力の如何ともしがたきものありて存せるならむ。
海野はその答を聞くごとに、
呆れもし、怒りもし、
苛立ちもしたりけるが、
真個天真なる
状見えて
言を飾るとは思はれざるにぞ、これ実に白痴者なるかを疑ひつつ、一応試に愛国の何たるかを教え見むとや、少しく色を和げる、重きものいひの
渋がちにも、
「やましいことがないでもあるまい。考へて見るが
可。第一敵のために
虜にされるといふがあるか。抵抗してかなはなかつたら、
何故切腹をしなかつた。いやしくも神州男児だ、
腸を
掴み出して、敵のしやツ
面へたたきつけて
遣るべき処だ。それも
可、時と場合で捕はれないにも限らんが、
撲られて痛いからつて、平気で味方の内情を白状しやうとは、
呆れ
果た腰抜だ。
其上まだ親切に
支那人の看護をしてな、高慢らしく尽力をした
吹聴もないもんだ。のみならず、一旦恥辱を
蒙つて、われわれ同胞の
面汚をしてゐながら、
洒亜つくで帰つて来て、感状を
頂きは何といふ心得だ。せめて
土産に敵情でも探つて来れば、まだ
言訳もあるんだが、
刻苦して探つても敵の用心が厳しくつて、残念ながら分らなかつたといふならまだも
恕すべきであるに、先に将校に
検べられた時も、
前刻吾が聞いた時も、いひやうもあらうものを、敵情なんざ聞かうとも、見やうとも思はなかつたは、実に驚く。しかも敵兵の介抱が急がしいので、
其様ことあ考へてる
隙もなかつたなんぞと、
憶面もなくいふ如きに至つては
言語同断といはざるを得ん。国賊だ、売国奴だ、疑つて見た日にやあ、敵に内通をして、我軍の探偵に来たのかも知れない、と言はれた処で仕方がないぞ。」
五
「さもなければ、あの野蛮な、残酷な敵がさうやすやす
捕虜を返す法はない。しかしそれには証拠がない、
強て敵に内通をしたとはいはん、が、既に国民の国民たる精神のない奴を、そのままにして
見遁がしては、我軍の元気の消長に関するから、
屹と改悟の点を認むるか、さもなくば相当の制裁を加へなければならん。勿論軍律を犯したといふでもないから、将校方は何の
沙汰をもせられなかつたのであらう。けれどもが、われわれ父母妻子をうつちやつて、
御国のために尽さうといふ愛国の志士が承知せん。この室にゐるものは、皆な君の所置ぶりに
慊焉たらざるものがあるから、将校方は黙許なされても、
其様な国賊は、
屹と談じて、懲戒を加ゆるために、おのおの決する処があるぞ。
可か。その
悪むべき感謝状を、かういつた上でも、裂いて棄てんか。やつぱり
疚ましいことはないが、
些少も良心が
咎めないか、それが聞きたい。ぬらくらの返事をしちやあ
不可ぞ。」
看護員は傾聴して、深くその
言を味ひつつ、黙然として身動きだもせず、
良猶予ひて
言はざりき。
こなたはしたり顔に
附入りぬ。
「
屹と責任のある返答を、
此室にゐる
皆に聞かしてもらはう。」
いひつつ左右を
したり。
軍夫の一人は叫び
出せり。「先生。」
渠らは親方といはざりき。海野は老壮士なればなり。
「先生、はやくしておくむなせえ。いざこざは面倒でさ。」
「
撲つちまへ!」と呼ばるるものあり。
「隊長、おい、
魂を
据へて返答しろよ。へむ、どうするか見やあがれ。」
「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」
と口々にまたひしめきつ。四、五名の足のばたばたばたと
床板を
踏鳴らす音ぞ聞こえたる。
看護員は、海野がいはゆる腕力の今ははやその身に加へらるべきを解したらむ。されども渠は
聊も心に
疚ましきことなかりけむ、
胸苦しき
気振もなく、静に海野に
打向ひて、
「
些少も良心に恥ぢないです。」
軽く答へて
自若たりき。
「何、恥ぢない。」
といひ返して海野は
眼を
りたり。
「もう一度、
屹とやましい処はないか。」
看護員は
微笑みながら、
「繰返すに及びません。」
その信仰や極めて
確乎たるものにてありしなり。海野は熱し詰めて
拳を握りつ。
容易くはものも得いはで唯、唯、
渠を
睨まへ詰めぬ。
時に看護員は
従容、
「戦闘員とは違ひます、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願ひたいです。」
いひ懸けて
片頬笑みつ。
「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵といふのがあるはずです。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、
遁げらるれば遁げるんですが、
行り損なへばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、
清国だのといふ、
左様な名称も区別もないです。
唯病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。
丁度自分が
捕虜になつて、敵陣にゐました間に、幸ひ依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の
名折になる。いや名折は構はないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさつきもいひます通り、我軍と違つて実に可哀想だと思ひます。気の毒なくらゐ万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、やうやう赤十字の看護員といふ
躰面だけは保つことが出来ました。感謝状は
先づそのしるしといつていいやうなもので、これを国への
土産にすると、全国の社員は
皆満足に思ふです。既に自分の職務さへ、
辛うじて務めたほどのものが、何の余裕があつて、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。またよしんば兼ねることが出来るにしても、それは余計なお世話であるです。今
貴下にお
談し申すことも、お
検べになつて将校方にいつたことも、全くこれにちがひはないのでこのほかにいふことは知らないです。
毀誉褒貶は仕方がない、逆賊でも国賊でも、それは何でもかまはないです。唯看護員でさへあれば
可。しかし看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、
敵愾心がどうであるのと、
左様なことには関係しません。自分は赤十字の看護員です。」
と
淀みなく
陳べたりける。看護員のその言語には、更に抑揚と
頓挫なかりき。
六
見る見る百人長は色
激して、
碎けよとばかり仕込杖を握り詰めしが、思ふこと
乱麻胸を
衝きて、
反駁の
緒を
発見し得ず、小鼻と、
髯のみ動かして、しらけ返りて見えたりける。時に一人の軍夫あり、
「畜生、
好なことをいつてやがらあ。」
声高に叫びざま、
足疾に
進出て、看護員の
傍に接し、その
面を
覗きつつ、
「おい、隊長、色男の隊長、どうだ。へむ、しらばくれはよしてくれ。その
悪済ましが気に喰はねえんだい。赤十字社とか看護員とかツて、べらんめい、漢語なんかつかいやあがつて、何でえ、
躰よく言抜けやうとしたつて
駄目だぜ。おいらア
皆な知てるぞ、
間抜めい。へむ畜生、
支那の
捕虜になるやうぢやあとても日本で色の出来ねえ奴だ。
唐人の
阿魔なんぞに
惚れられやあがつて、この
合の
子め、
手前、何だとか、
彼だとかいふけれどな、
南京に惚れられたもんだから、それで支那の介抱をしたり、
贔負をしたりして、内幕を知つててもいはねえんぢやあねえか。かう、おいらの口は
浄玻璃だぜ。おいらあしよつちう知つてるんだ。おい
皆聞かつし、
初手はな、
支那人の金満が
流丸を
啖つて
路傍に
僵れてゐたのを、中隊長様が可愛想だつてえんで、お手当をなすつてよ、
此奴にその家まで送らしてお
遣んなすつたのがはじまりだ。するとお前その
支那人を介抱して送り届けて帰りしなに、支那人の兵隊が押込むだらう。面くらいやアがつてつかまる処をな、金満の
奴さん恩儀を思つて、
無性に
難有がつてる処だから、きわどい処を押隠して、やうやう人目を忍ばしたが、大勢押込むでゐるもんだから、
秘しきれねえでとうどう奥の奥の奥ウの処の、
女の部屋へ秘したのよ。ね、隠れて
五日ばかり
対向ひでゐるあひだに、何でもその女が
惚れたんだ。無茶におツこちたと思ひねえ。五日目に支那の兵が
退いてく時つかめえられてしよびかれた。何でもその日のこつた。おいら五、六人で宿営地へ急ぐ途中、
酷く
吹雪く日で眼も口もあかねへ雪ン中に
打倒れの、半分
埋まつて、ひきつけてゐた
婦人があつたい。いつて見りや
支那人の
片割ではあるけれど、婦人だから、ねえ、おい、構ふめえと思つて
焚火であつためて遣ると
活返つた
李花てえ
女で、
此奴がエテよ。
別離苦に
一目てえんで
唯一人駈出してさ、
吹雪僵になつたんだとよ。そりや
後で分つたが、そン時あ、おいらツちが
負つて
家まで届けて遣つた。その因縁でおいらちよいちよい
父親の何とかてえ支那の家へ出入をするから、
悉しいことを知つてるんだ。女はな、ものずきじやあねえか、この野郎が恋しいとつて、それつきり
床着いてよ、どうだい、この頃じやもう湯も、水も通らねえツさ。父親なんざ気を
揉んで
銃創もまだすつかりよくならねえのに、
此奴の
音信を聞かうとつて、旅団本部へ
日参だ。だからもう
皆がうすうす知つてるぜ。つい隊長様なんぞのお耳へ入つて、御存じだから、おい
奴さむ。お前お
検の時もそのお
談話をなすつたらう。ほんによ、お前がそんねえな腰抜たあ知らねえから、
勿体ねえ、隊長様までが、ああ、可哀想だ、その女の父親とか眼を懸けて
遣はせとおつしやらあ、恐しい
冥伽だぜ。お前そんなことも思はねえで、べんべんと
支那兵の
介抱をして、お礼をもらつて、恥かしくもなく、のんこのしやあで、唯今帰つて来はどういふ了見だ。はじめに可哀想だと思つたほど、
憎くてならねえ。
支那の
探偵になるやうな奴は
大和魂を知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじやあねえぞ、日本人のなかまでなけりや
支那人も
同一だ。どてツ腹あ
蹴破つて、このわたを引ずり出して、
噛潰して吐出すんだい!」
「
其処だ!」と海野は
一喝して、はたと
卓子を
一打せり。かかりし
間他の軍夫は、しばしば同情の意を表して、
舌者の声を打消すばかり、
熱罵を極めて
威嚇しつ。
楚歌一身に
聚りて集合せる腕力の次第に迫るにもかかはらず
眉宇一点の
懸念なく、いと
晴々しき
面色にて、
渠は
春昼寂たる時、
無聊に
堪えざるものの如く、片膝を片膝にその片膝を、また片膝に、
交る交る投懸けては、その
都度靴音を立つるのみ。胸中おのづから閑ある如し。
けだし赤十字社の元素たる、博愛のいかなるものなるかを信ずること、渠の如きにあらざるよりは、到底これ保ち得がたき度量ならずや。
「
其処だ。」と今
卓子を打てる百人長は大に決する処ありけむ、
屹と看護員に立向ひて、
「無神経でも、おい、
先刻からこの軍夫のいふたことは多少耳へ入つたらうな。どうだ、衆目の見る処、貴様は国体のいかむを解さない非義、劣等、
怯奴である、国賊である、破廉恥、無気力の
人外である。
皆が貴様を以て日本人たる資格のないものと断定したが、どうだ。それでも良心に恥ぢないか。」
「恥ぢないです。」と看護員は声に応じて答へたり。百人長は
頷きぬ。
「
可、改めていへ、名を聞かう。」
「名ですか、
神崎愛三郎。」
七
「うむ、それでは神崎、現在ゐる、
此処は一体
何処だと思ふか。」
海野は
太くあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問はれて室内を
しながら、
「
左様、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。」
「うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。」
顔に
苔むしたる
髯を
撫でつつ、立ちはだかりたる
身の
丈豊かに神崎を
瞰下ろしたり。
「此処はな、
柳が家だ。貴様に
惚れてゐる
李花の家だぞ。」
今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合はして二人はニタリと
微笑めり。
神崎は夢の
裡なる
面色にてうつとりとその
眼を
りぬ。
「ぼんやりするない。
柳が住居だ。
女の家だぞ。聞くことがありや何処でも聞かれるが、
故と此処ん処へ引張つて来たのには、何かわれわれに思ふ処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだらう。家族は
皆追出してしまつて、
李花はわれわれの手の内のものだ。それだけ
予め断つて置く、
可か。
さ、断つた上でも、やつぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさへすれば
可、むしろ
他のことはしない方が
当前だ。敵情を探るのは探偵の係で、
戦にあたるものは戦闘員に限る、いふて見れば、
敵愾心を起すのは常業のない
閑人で、
進で国家に尽すのは
好事家がすることだ。人は自分のすべきことをさへすれば
可、われわれが貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、と
煎じ詰めた処さういふのだな。」
神崎は
猶予らはで、
「
左様、自分は看護員です。」
この冷かなる答を得え百人長は決意の色あり。
「しつかり聞かう、職務外のことは、何にもせんか!」
「出来ないです。余裕があれば
綿繖糸を造るです。」
応答はこれにて決せり。
百人長はいふこと尽きぬ。
海野は悲痛の声を挙げて、
「駄目だ。殺しても何にもならない。
可、いま一ツの手段を取らう。
権!
吉!
熊! 一件だ。」
声に応じて三名の
壮佼は群を脱して、戸口に向へり。時に出口の板戸を背にして、木像の如く突立ちたるまま両手を
衣兜にぬくめつつ、身動きもせで
煙草をのみたる
彼の真黒なる人物は、靴音高く歩を転じて、
渠らを室外に
出しやりたり。三人は走り行きぬ。走り行きたる
三人の軍夫は、二人左右より両手を取り、一人
後より
背を
推して、
端麗多く世に類なき一個清国の婦人の
年少なるを、荒けなく引立て来りて、海野の
傍に
推据へたる、
李花は病床にあれりしなる、同じ我家の内ながら、渠は深窓に養はれて、浮世の風は知らざる身の、
爾くこの室に出でたるも恐らくその日が
最初ならむ、長き
病に
俤窶れて、
寝衣の姿なよなよしく、
簪の花も
萎みたる
流罪の
天女憐むべし。
「国賊!」
と呼懸けつ。百人長は
猿臂を伸ばして美しき
犠牲の、白き
頸を
掻掴み、その
面をば
仰けざまに神崎の顔に押向けぬ。
李花は猛獣に手を取られ、
毒蛇に
膚を
絡はれて、恐怖の念もあらざるまで、
遊魂半ば天に
朝して、夢現の境にさまよひながらも、神崎を一目見るより、やせたる
頬をさとあかめつ。またたきもせで見詰めたりしが、
俄に
総の身を
震はして、
「あ。」と一声血を
絞れる、不意の叫声に驚きて、思はず軍夫が放てる手に、身を支えたる力を失して
後居にはたと
僵れたり。
看護員は我にもあらで
衝とその椅子より座を立ちぬ。
百人長は
毛脛をかかげて、
李花の腹部を
無手と
蹈まへ、ぢろりと
此方を
流眄に懸けたり。
「どうだ。これでも、これでも、職務外のことをせねばならない必要を感ぜんか。」
同時に軍夫の一団はばらばらと立懸りて、
李花の手足を
圧伏せぬ。
「国賊! これでどうだ。」
海野はみづから手を
下ろして、
李花が
寝衣の
袴の
裾をびりりとばかり
裂けり。
八
時に
彼の
黒衣長身の人物は、ハタと
煙管を取落しつ、
其方を見向ける
頭巾の
裡に一双の
眼爛々たりき。
あはれ、看護員はいかにせしぞ。
面の色は変へたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動に
露はさで、渠はなほよく
静を保ち、
徐ろにその
筒服を払ひ、頭髪のややのびて、白き
額に垂れたるを、
左手にやをら
掻上げつつ、
卓の上に差置きたる帽を片手に取ると
斉しく、
粛然と身を起して、
「諸君。」
とばかり言ひすてつ。
海野と軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫の
隙より、真白く細き手の指の、のびつ、
屈みつ、
洩れたるを、
纔に
一目見たるのみ。靴音
軽く歩を移して、そのまま
李花に辞し去りたり。かくて五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及びその腕力と、皆
疾く室を立去りて、暗澹たる孤燈の影に、
李花のなきがらぞ
蒼かりける。この時までも目を放たで直立したりし黒衣の人は、
濶歩坐中に
動ぎ
出て、燈火を仰ぎ
李花に
俯して、厳然として椅子に
凭り、
卓子に
片肱附きて、眼光
一閃鉛筆の
尖を
透し見つ。電信用紙にサラサラと、
月 日 海城発
予は目撃せり。
日本軍の中には赤十字の義務を完して、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれどもまた敵愾心のために清国の病婦を捉へて、犯し辱めたる愛国の軍夫あり。委細はあとより。
じよん、べるとん
英国ロンドン府、アワリー、テレグラフ社編輯行