昔男と聞く時は、今も
床しき道中姿。その物語に題は通えど、これは
東の銭なしが、
一年思いたつよしして、参宮を志し、
霞とともに立出でて、いそじあまりを
三河国、そのから衣、ささおりの、安弁当の
鰯の名に、紫はありながら、
杜若には似もつかぬ、三等の赤切符。さればお紺の
婀娜も見ず、
弥次郎兵衛が
洒落もなき、
初詣の思い出草。宿屋の
硯を仮寝の床に、
路の記の端に書き入れて、
一寸御見に入れたりしを、
正綴にした今度の新版、さあさあかわりました
双六と、だませば
小児衆も合点せず。伊勢は
七度よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも
三度目じゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。
明治三十八乙巳年十月吉日
鏡花
[#改ページ]
一
「はい、
貴客もしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞお
食りなされて下さりまし。」
伊勢国
古市から
内宮へ、ここぞ
相の山の
此方に、
灯の淋しい茶店。名物
赤福餅の旗、
如月のはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒を
揺り、じりじりと油が減って、早や十二時に
垂とするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その
年紀頃といい、
容子といい、今時の品の
可い学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても
話対手にはなるまい、またしないであろうと、
断念めていた
婆々が、
堪り兼ねてまず物優しく言葉をかけた。
宵から、灯も人声も、
往来の脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟と
前垂の美しい、
姐さんが
袂を連ねて、
式のごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、お
飯上りまし、お
饂飩もござりますと、
媚めかしく呼ぶ中を、
頬冠やら、高帽やら、
菅笠を
被ったのもあり、
脚絆がけに
借下駄で、
革鞄を提げたものもあり、五人づれやら、手を
曳いたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきに
交って、トンカチリと
楊弓聞え、
諸白を
燗する
家ごとの煙、両側の
廂を
籠めて、
処柄とて
春霞、神風に
靉靆く風情、
灯の影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、
地に
溢れて
真赤な夜道を、人脚
繁き
賑かさ。
花の中なる
枯木と観じて、独り
寂寞として茶を煮る
媼、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の
後胤か、
北畠殿の落武者か、お杉お玉の親類の
筈を、思いもかけぬ
上客一
人、
引手夥多の
彼処を抜けて、目の寄る
前途へ
行き抜けもせず、立寄ってくれたので、
国主に
見出されたほど、はじめ大喜びであったのが、
灯が消え、犬が
吠え、こうまた寒い風を、
欠伸で吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。
「いかがでございます、お
酌をいたしましょうか。」
「いや、構わんでも
可い、大層お邪魔をするね。」
ともの優しい、客は年の頃二十八九、
眉目秀麗、
瀟洒な
風采、
鼠の背広に、
同一色の濃い
外套をひしと
絡うて、茶の
中折を真深う、顔を
粛ましげに、脱がずにいた。もしこの
冠物が黒かったら、余り
頬が白くって、病人らしく見えたであろう。
こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色が
好くないのである。
銚子は二本ばかり、早くから並んでいるのに。
赤福の
餅の盆、
煮染の皿も差置いたが、
猪口も数を
累ねず、食べるものも、かの
神路山の
杉箸を割ったばかり。
客は
丁字形に二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、
掌で
項を
圧えて、
俯向いたり、腕を
拱いて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる
方に、その
挙動も
朦朧として、
身動をするのが、
余所目にはまるで
寝返をするようであった。
また寝られてなろうか!
「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」
と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を
傍へ
除けようとして心付く、まだずッしりと手に
応えて重い。
「お燗を直しましょうでござりますか。」
顔を
覗き込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその
白髪頭を差出したので、
面を背けるようにして、客は
外の
方を
視めると、
店頭の
釜に突込んで諸白の燗をする、大きな
白丁の、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、
蛸の脚、夜の色
濃かに、寒さに
凍てたか、いぼが
蒼い。
二
涼しい
瞳を動かしたが、
中折の帽の
庇の下から
透して見た趣で、
「あれをちっとばかりくれないか。」と言ってまた
面を背けた。
深切な
婆々は、
膝のあたりに手を組んで、客の前に
屈めていた腰を
伸して、
指された
章魚を見上げ、
「
旦那様、召上りますのでござりますか。」
「ああ、そして、もう酒は沢山だから、お
飯にしよう。」
「はいはい、……」
身を起して
背向になったが、
庖丁を取出すでもなく、縁台の
彼方の三畳ばかりの
住居へ戻って、薄い
座蒲団の
傍に、
散ばったように差置いた、
煙草の箱と
長煙管。
片手でちょっと
衣紋を直して、さて立ちながら一服吸いつけ、
「且那え。」
「何だ。」
「もう、お無駄でござりまするからお
止しなさりまし、第一あれは余り新しゅうないのでござります。それにお見受け申しました処、そうやって
御酒もお
食りなさりませず、滅多に
箸をお着けなさりません。何ぞ御都合がおありなさりまして、
私どもにお休み遊ばします。
時刻が
経ちまするので、ただ居てはと
思召して、婆々に
御馳走にあなた様、いろいろなものをお取り下さりますように存じます、ほほほほほ。」
笑とともに煙を吹き、
「いいえ、お一人のお客様には
難有過ぎましたほど
儲かりましてございまする。大抵のお宿銭ぐらい頂戴をいたします勘定でござりますから、
私どもにもう
一室、別座敷でもござりますなら、お宿を差上げたい位に、はい、もし、存じまするが、旦那様。」
婆々は
框に腰を下して、
前垂に煙草の箱、煙管を長く膝にしながら、今こう
謂われて、急に思い出したように、箸の
尖を動かして、赤福の赤きを顧みず、
煮染の皿の黒い
蒲鉾を挟んだ、客と差向いに、
背屈みして、
「旦那様、決してあなた、
勿体ない、お
急立て申しますわけではないのでござりますが、もし、お宿はお
極り遊ばしていらっしゃいますかい。」
客はものいわず。
「
一旦どこぞにお宿をお取りの上に、お遊びにお出掛けなさりましたのでござりますか。」
「何、山田の
停車場から、直ぐに、右
内宮道とある方へ入って来たんだ。」
「それでは、当伊勢はお
馴れ遊ばしたもので、この辺には御親類でもおありなさりますという。――」と、婆々は客の
言尻について見たが、その実、土地馴れぬことは一目見ても分るのであった。
「どうして、親類どころか、
定宿もない、やはり田舎ものの参宮さ。」
「おや!」
と大きく、
「それでもよく乗越しておいでなさりましたよ。この辺までいらっしゃいます前には、あの、まあ、伊勢へおいで遊ばすお方に、山田が玄関なら、それをお通り遊ばして、どうぞこちらへと、お待受けの
別嬪が、お
袖を取るばかりにして、御案内申します、お客座敷と申しますような、お
褥を敷いて、花を
活けました、古市があるではござりませぬか。」
客は薄ら寒そうに、これでもと思う
状、
燗の
出来立のを
注いで、
猪口を唇に
齎らしたが、
匂を
嗅いだばかりでしばらくそのまま、持つ内に
冷くなるのを、飲む
真似して、重そうにとんと置き、
「そりゃ何だろう、山田からずッと入ると、遠くに二階家を見たり、目の前に
茅葺が
顕れたり、そうかと思うと、
足許に田の水が光ったりする、その
田圃も何となく、
大な庭の中にわざと
拵えた景色のような、なだらかな道を通り越すと、坂があって、急に両側が
真赤になる。あすこだろう、
店頭の
雪洞やら、
軒提灯やら、そこは通った。」
三
「はい、あの軒ごと、
家ごと、
向三軒両隣と申しました
工合に、
玉転し、射的だの、あなた、
賭的がござりまして、山のように積んだ景物の数ほど、
灯が沢山
点きまして、いつも花盛りのような、
賑な処でござります。」
客は火鉢に手を
翳し、
「どの店にも大きな人形を飾ってあるじゃないか、赤い
裲襠を着た
姐様もあれば、向う
顱巻をした道化もあるし、牛若もあれば、
弥次郎兵衛もある。屋根へ手をかけそうな
大蛸が居るかと思うと、
腰蓑で
村雨が隣の店に立っているか、下駄屋にまで飾ったな。
皆極彩色だね。中にあの三
間間口一杯の
布袋が小山のような腹を据えて、仕掛けだろう、福相な柔和な目も、人形が大きいからこの皿ぐらいあるのを、ぱくりと
遣っちゃ、手に持った
団扇をばさりばさり、往来を
煽いで招くが、道幅の狭い処へ、
道中双六で見覚えの旅の人の姿が小さいから、吹飛ばされそうです。それに、墨の
法衣の絵具が破れて、肌の
斑兀の様子なんざ、余程
凄い。」
「
招も
善悪でござりまして、姫方や
小児衆は
恐いとおっしゃって、
旅籠屋で
魘されるお方もござりますそうでござりまする。それではお気味が悪くって、さっさと通り抜けておしまいなされましたか。」
「
詰らないことを。」
客は
引緊った
口許に微笑した。
「しかし、土地にも因るだろうが、奥州の原か、
飛騨の山で見た日には、気絶をしないじゃ済むまいけれど、伊勢というだけに、何しろ、電信柱に
附着けた、ペンキ
塗の広告まで、土佐絵を見るような心持のする国だから、赤い
唐縮緬を着た姐さんでも、京人形ぐらいには美しく見える。こっちへ来るというので道中も
余所とは違って、あの、長良川、
揖斐川、木曾川の、どんよりと
三条並んだ上を、晩方通ったが、水が油のようだから、汽車の音もしないまでに、
鵲の橋を
辷って
銀河を渡ったと思った、それからというものは、夜に
入ってこの伊勢路へかかるのが、何か、雲の上の国へでも入るようだったもの、どうして、あの人形に、心持を悪くしてなるものか。」
「これは、
旦那様お世辞の
可い、土地を
賞められまして何より嬉しゅうござります。で何でござりまするか、一刻も早く
御参詣を遊ばそう
思召で、ここらまで乗切っていらっしゃいました?」
「そういうわけでもないが、伊勢音頭を見物するつもりもなく、古市より相の山、第一名が
好いではないか、あいの山。」
客は何思いけん手を
頬にあてて、片手で弱々と胸を
抱いたが、
「お
婆さん、昔から
聞馴染の、お杉お玉というのは今でもあるのか。」
「それはござりますよ。ついこの
前途をたらたらと上りました、道で申せばまず峠のような処に
観世物の小屋がけになって、やっぱり
紅白粉をつけましたのが、
三味線でお
鳥目を受けるのでござります、それよりは旦那様、
前方に行って御覧じゃりまし、川原に立っておりますが、三十人、五十人、橋を
通行のお方から、お
銭の
礫を投げて頂いて、手ン手に
長棹の
尖へ網を張りましたので、宙で受け留めまするが、秋口
蜻蛉の飛びますようでござります。橋の
袂には、女房達が、ずらりと大地に並びまして、一文二文に
両換をいたします。さあ、この橋が宇治橋と申しまして、
内宮様へ入口でござりまする。川は御存じの
五十鈴川、山は
神路山。その姿の優しいこと、気高いこと、尊いこと、清いこと、この水に向うて立ちますと、
人膚が
背後から皮を
透して透いて見えます位、急にも流れず、
淀みもしませず、
浪の立つ、瀬というものもござりませぬから、色も、
蒼くも見えず、白くも見えず、緑の
淵にもなりませず、一様に、
真の水色というのでござりましょ。
渡りますと、それから三千年の杉の森、
神代から昼も薄暗い中を、ちらちらと流れまする五十鈴川を
真中に、神路山が
裹みまして、いつも
静に、神風がここから吹きます、ここに
白木造の尊いお宮がござりまする。」
四
「
内宮でいらっしゃいます。」
婆々は
掌を挙げて白髪の額に頂き、
「何事のおわしますかは知らねども、
忝さに涙こぼるる、
自然に
頭が下りまする。お帰りには
二見ヶ浦、これは申上げるまでもござりませぬ、五十鈴川の末、向うの岸、こっちの岸、枝の垂れた根上り松に
纜いまして、そこへ参る船もござります。船頭たちがなぜ
素袍を着て、
立烏帽子を
被っていないと思うような、尊い川もござりまする、女の
曳きます
俥もござります、ちょうど明日は旧の元日。初日の出、」
いいかけて急に
膝を。
「おお、そういえば
旦那様、お宿はどうなさります
思召。
成程、おっしゃりました名の
通、あなた相の山までいらっしゃいましたが、この
前方へおいでなさりましても、
佳い宿はござりません。
後方の
古市でござりませんと、旦那様方がお泊りになりまする旅籠はござりませんが、何にいたしました処で、もし、ここのことでござりまする、必ず必ずお
急き立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、お
泊が難しゅうござりますので。
はい、いつもまあこうやって、大神宮様のお
庇で、
繁昌をいたしまするが、旧の
大晦日と申しますと、諸国の
講中、
道者、
行者の
衆、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でお
籠をいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、
貴客、五十鈴川で
嗽手水、神路山を右に見て、杉の
樹立の中を出て、
御廟の前でほのぼのと
白みますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。
旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋の
門などは
軒並戸が
開いておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。
どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」
婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、
「しかし
貴客、三人、五人こぼれますのは、
旅籠でも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれの
囲だの、
数寄な
四阿だの、
主人の
住居などで受けるでござりますよ。」
と
搦手を明けて落ちよというなり。
けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって
聞棄てにもせず、
何の
機会もないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に
突込んで、
「お婆さん、勘定だ。」
「はい、あなた、もし
御飯はいかがでござります。」
客は
仰向いて、
新に婆々の顔を見て
莞爾とした。
「いや、実は余り欲しくない。」
「まあ、ソレ
御覧じまし、それだのに、いかなこッても、
酢蛸を
食りたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の
一膳飯がお口に合いますものでござります。ほほほほ。」
「時に、
三由屋という旅籠はあるね。」
「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なお
客でござりましょ。あれこれとおっしゃっても、まず古市では三由屋で、その上に
講元のことでござりまするから、お客は上中下とも一杯でござります。」
「それは構わん。」といって客は細く組違えていた膝を割って、二ツばかり靴の
爪尖を踏んで居直った。
「まあ、何ということでござります、それでは気を
揉むではなかったに、先へ
誰方ぞお美しいのがいらしって、三由屋でお待受けなのでござりますね。わざと
迷児になんぞおなり遊ばして、
可うござります、
翌日は暗い内から婆々が
店頭に張番をして、
芸妓さんとでも
腕車で通って御覧じゃい、お
望の蛸の足を放りつけて上げますに。」と
煙草を下へ、手で
掬って、土間から
戸外へ、……や……ちょっと投げた。トタンに相の山から
戻腕車、店さきを通りかかって、軒にはたはたと鳴る旗に、フト
楫を持ったまま仰いで
留る。
「
車夫。」
「はい。」と
媚しい声、
婦人が、看板をつけたのであった、古市組合。
五
「はッ。」
古市に
名代の旅店、
三由屋の老番頭、次の
室の敷居際にぴたりと手をつき、
「はッ申上げまするでございまする。」
上段の十畳、一点の
汚もない、月夜のような青畳、
紫縮緬ふッくりとある
蒲団に、あたかもその雲に乗ったるがごとく、
菫の中から抜けたような、
装を
凝した貴夫人一人。さも
旅疲の
状見えて、
鼠地の縮緬に、麻の葉
鹿の子の下着の端、
媚かしきまで
膝を
斜に、
三枚襲で
着痩せのした、
撫肩の右を落して、前なる
桐火桶の縁に、
引つけた
火箸に手をかけ、片手を
細りと懐にした姿。
衣紋の正しく、顔の気高きに似ず、
見好げに過ぎて
婀娜めくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある
女性とこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、
生際の
颯と
霞んだばかりであったら、
画ける幻と誤るであろう。
袖口、
八口、
裳を
溢れて、ちらちらと燃ゆる
友染の花の
紅にも、絶えず、
一叢の薄雲がかかって、
淑ましげに、その美を擁護するかのごとくである。
岐阜県××町、――
里見稲子、二十七、と宿帳に控えたが、あえて
誌すまでもない、岐阜の病院の里見といえば、
家族雇人一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の
主人が、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢の
津に設立した、銀行の株主であるから。
晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の
主人から、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、
一室を明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、
滞りなく既に
夕餉を進めた。
されば夫人が座の
傍、肩掛、
頭巾などを
引掛けた、
衣桁の
際には、
萌黄の
緞子の
夏衾、高く、柔かに敷設けて、
総附の
塗枕、
枕頭には
蒔絵ものの
煙草盆、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、
呼鈴まで
行届き、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢には
釜の声、
遥に神路山の松に通い、五十鈴川の
流に応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの
行燈とかしこのランプと、ただもう
取交えるばかりの処。
「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」
優しい声で、
「私に、」と品よく応じた。
「はッ、あなた様にお
客来にござりまする。」
夫人はしとやかに、
「
誰方だね、お
名札は。」
「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、
生憎所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様お
着が
晩うござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつなお客様、またどのような手落になりましても相成らぬ儀と、お伺いに
罷出ましてござりまする。」
番頭は一大事のごとく、固くなって、御意を得ると、夫人は何事もない風情、
「まあ、何とおっしゃる方。」
「はッ立花様。」
「立花。」
「ええ、お
少いお人柄な
綺麗な方でおあんなさいまする。」
「そう。」と
軽くいって、
莞爾して、ちょっと膝を動かして、少し火桶を前へ押して、
「ずんずんいらっしゃれば
可いのに、あの、お前さん、どうぞお通し下さい。」
「へい、
宜しゅうござりますか。」
頤の長い顔をぼんやりと上げた、余り夫人の無雑作なのに、ちと気抜けの
体で、
立揚る膝が、がッくり、ひょろりと手をつき、
苦笑をして、再び、
「はッ。」
六
やがて
入交って女中が
一人、今夜の忙しさに親類の娘が臨時手伝という、
娘柄の
好い、
爪はずれの尋常なのが、
「御免遊ばしまし、あの、御支度はいかがでございます。」
夫人この時は、
後毛のはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のような
項を
此方に、
背向に
火桶に
凭掛っていたが、
軽く振向き、
「ああ、もう出来てるよ。」
「へい。」と、その意を得ない様子で、
三指のまま
頭を上げた。
事もなげに、
「床なんだろう。」
「いいえ、お支度でございますが。」
「御飯かい。」
「はい。」
「そりゃお
前疾に済んだよ。」と
此方も案外な風情、
余の
取込にもの忘れした、
旅籠屋の混雑が、おかしそうに、
莞爾する。
女中はまた遊ばれると思ったか、同じく笑い、
「奥様、あの
唯今のお客様のでございます。」
「お客だい、誰も来やしないよ、お
前。」と斜めに肩ごしに
見遣たまま
打棄ったようにもののすッきり。かえす
言もなく、
「おや、おや。」と口の
中、女中は
極の悪そうに顔を赤らめながら、変な顔をして座中を
すと、誰も居ないで
寂として、
釜の湯がチンチン、途切れてはチンという。
手持不沙汰に、
後退にヒョイと立って、ぼんやりとして
襖がくれ、
「御免なさいまし。」と女中、立消えの
体になる。
見送りもせず、夫人はちょいと根の高い
円髷の
鬢に手を
障って、
金蒔絵の
鼈甲の
櫛を抜くと、
指環の宝玉きらりと動いて、後毛を
掻撫でた。
廊下をばたばた、しとしとと畳ざわり。襖に半身を隠して老番頭、呆れ顔の長いのを、
擡げるがごとく差出したが、
急込んだ調子で、
「はッ。」
夫人は
蒲団に居直り、薄い膝に両手をちゃんと、
媚しいが威儀正しく、
「寝ますから、もうお構いでない、お取込の処を御厄介ねえ。」
「はッはッ。」
遠くから長廊下を
駈けて来た
呼吸づかい、番頭は口に手を当てて
打咳き、
「ええ、
混雑いたしまして、どうも、その実に
行届きません、
平に御勘弁下さいまして。」
「いいえ。」
「もし、あなた様、
希有でござります。確かたった今、
私が、こちらへお客人をお取次申しましてござりましてござりまするな。」
「そう、立花さんという方が見えたってお
謂いだったよ。どうかしたの。」
「へい、そこで女どもをもちまして、お支度の儀を伺わせました処、
誰方もお見えなさりませんそうでござりまして。」
「ああ、そう、誰もいらっしゃりやしませんよ。」
「はてな、もし。」
「何なの、お支度ッて、それじゃ、今着いた人なんですか、内に泊ってでもいて、宿帳で、私のいることを知ったというような訳ではなくッて?」
「何、もう御覧の
通、こちらは中庭を一ツ、
橋懸で隔てました、
一室別段のお座敷でござりますから、さのみ騒々しゅうもございませんが、二百余りの客でござりますで、宵の内はまるで
戦争、帳場の
傍にも
囲炉裡の
際にも
我勝で、なかなか足腰も伸びません位、
野陣見るようでござりまする。とてもどうもこの上お客の出来る次第ではござりませんので、早く大戸を閉めました。帳場はどうせ
徹夜でござりますが、十二時という時、
腕車が留まって、
門をお叩きなさいまする。」
七
「お気の毒ながらと申して、お宿を断らせました処、
連が来て泊っている。ともかくも明けい、とおっしゃりますについて、あの、入口の、たいてい原ほどはござります、板の間が、あなた様、
道者衆で
充満で、
足踏も出来ません処から、
框へかけさせ申して、帳場の火鉢を差上げましたような次第で、それから
貴女様がお泊りの
筈、立花が来たと伝えくれい、という事でござりまして。
早速お通し申しましょうかと存じましたなれども、こちら様はお
一方、御婦人でいらっしゃいます事ゆえ念のために、
私お伺いに出ました儀で、直ぐにという御意にござりましたで、
引返して、御案内。ええ、
唯今の女が、廊下をお連れ申したでござります。
女が、貴女様このお部屋へ、その立花様というのがお入り遊ばしたのを見て、取って返しましたで、折返して、お支度の程を伺わせに唯今差出しました処、何か、さような者は一向お見えがないと、こうおっしゃいます。またお座敷には、奥方様の
他に
誰方もおいでがないと、目を丸くして申しますので、何を
寝惚けおるぞ、
汝が薄眠い顔をしておるで、お遊びなされたであろ、なぞと
叱言を申しましたが、女いいまするには、なかなか、
洒落を遊ばす御様子ではないと、真顔でござりますについて、ええ、何より証拠、土間を見ましてございます。」
いいかけて番頭、片手敷居越に乗出して、
「トその時、お
上りになったばかりのお
穿物が見えませぬ、洋服でおあんなさいましたで、靴にござりますな。
さあ、居合せましたもの
総立になって、床下まで
覗きましたが、どれも札をつけて預りました穿物ばかり、それらしいのもござりませぬで、
希有じゃと申出しますと、いや案内に立った唯今の女は、見す見す廊下をさきへ立って参ったというて、
蒼くなって震えまするわ。
太う
恐がりましてこちらへよう伺えぬと申しますので、手前
駈出して参じましたが、いえ、もし全くこちら様へは誰方もおいでなさりませぬか。」と、
穏ならぬ気色である。
夫人、するりと膝をずらして、後へ身を引き、座蒲団の外へ手の指を
反して
支くと、膝を
辷った桃色の絹のはんけちが、
褄の
折端へはらりと
溢れた。
「
厭だよ、
串戯ではないよ、穿物がないんだって。」
「御意にござりまする。」
「おかしいねえ。」と眉をひそめた。夫人の顔は、コオトをかけた
衣裄の中に眉暗く、
洋燈の光の
隈あるあたりへ、魔のかげがさしたよう、
円髷の高いのも
艶々として、そこに人が居そうな
気勢である。
畳から、手をもぎ放すがごとくにして、身を開いて番頭、固くなって
一呼吸つき、
「で、ござりまするなあ。」
「お前、そういえば
先刻、ああいって来たもんだから、今にその人が見えるだろうと、火鉢の火なんぞ、
突ついていると、何なの、しばらくすると、今の
姐さんが、ばたばた来たの。次の
室のそこへちらりと姿を見せたっけ、私はお客が来たと思って、
言をかけようとする内に、直ぐ
忙しそうに出て行って、今度来た時には、
突然、お支度はって、お聞きだから、変だと思って、誰も来やしないものを。」とさも
訝しげに、番頭の顔を
熟と見ていう。
いよいよ、きょとつき、
「はてさて、いやどうも何でござりまして、ええ、廊下を
急足にすたすたお通んなすったと申して、成程、
跫音がしなかったなぞと、女は申しますが、それは早や、気のせいでござりましょう。なにしろ早足で廊下を通りなすったには相違ござりませぬ、さきへ立って参りました女が、せいせい
呼吸を切って駈けまして、それでどうかすると、
背後から、そのお客の
身体が、ぴったり
附着きそうになりまする。」
番頭は気がさしたか、
密と振返って
背後を見た、
釜の湯は
沸っているが、
塵一つ見当らず、こういう折には、余りに広く、且つ余りに
綺麗であった。
「それがために二三度、足が留まりましたそうにござりまして。」
八
「中にはその立花様とおっしゃるのが、
剽軽な方で、
一番三由屋をお担ぎなさるのではないかと、申すものもござりまするが、この寒いに、
戸外からお入りなさったきり、
洒落にかくれんぼを遊ばす陽気ではござりません。殊に靴までお隠しなさりますなぞは、ちと
手重過ぎまするで、どうも変でござりまするが、お
年紀頃、
御容子は、
先刻申上げましたので、その方に相違ござりませぬか、お綺麗な、品の
可い、
面長な。」
「全く、そう。」
「では、その方は、さような
御串戯をなさる
御人体でござりますか、立花様とおっしゃるのは。」
「いいえ、
大人い、
沢山口もきかない人、そして病人なの。」
そりゃこそと番頭。
「ええ。」
「もう、大したことはないんだけれど、
一時は大病でね、内の病院に入っていたんです。東京で私が
姉妹のようにした、さるお嬢さんの
従兄子でね、あの美術、何、
彫刻師なの。国々を修行に
歩行いている内、養老の滝を見た帰りがけに煩って、宅で養生をしたんです。二月ばかり前から、大層、よくなったには、よくなったんだけれど、まだ十分でないッていうのに、
肯かないでまた旅へ出掛けたの。
私が今日こちらへ泊って、
翌朝お
参をするッてことは、かねがね話をしていたから、大方
旅行先から落合って来たことと思ったのに、まあ、お前、どうしたというのだろうね。」
「はッ。」
というと肩をすぼめて
首を垂れ、
「これは、もし、旅で御病気かも知れませぬ。いえ、別に、
貴女様お
身体に
仔細はござりませぬが、よくそうしたことがあるものにござります。はい、何、もうお見上げ申しましたばかりでも、奥方様、お身のまわりへは、寒い風だとて寄ることではござりませぬが、御帰宅の後はおこころにかけられて、さきざきお尋ね遊ばしてお上げなされまし、これはその立花様とおっしゃる方が、親御、御兄弟より貴女様を便りに遊ばしていらっしゃるに相違ござりませぬ。」
夫人はこれを聞くうちに、
差俯向いて、両方引合せた
袖口の、
襦袢の花に
見惚れるがごとく、打傾いて
伏目でいた。しばらくして
[#「しばらくして」は底本では「しばらしくて」]、さも身に染みたように、肩を震わすと、
後毛がまたはらはら。
「寒くなった、私、もう寝るわ。」
「
御寝なります、へい、
唯今女中を寄越しまして、お
枕頭もまた、」
「いいえ、
煙草は飲まない、お火なんか沢山。」
「でも、その、」
「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」
「それはもう、きっと、まだ、方々見させてさえござりまする。」
「そうかい、
此家は広いから、また
迷児にでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだから。」とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの
金金具が、指の中でパチリと鳴る。
先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、
「ええ、さようならばお
静に。」
「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめがゆるんだか、絹足袋の先へ長襦袢、右の
褄がぞろりと落ちた。
「お
手水。」
「いいえ、寝るの。」
「はッ。」と、いうと、腰を上げざまに
襖を一枚、直ぐに縁側へ
辷って出ると、
呼吸を
凝して二人ばかり居た、
恐いもの見たさの
徒、ばたり、ソッと
退く
気勢。
「や。」という番頭の声に連れて、足も
裾も
巴に入乱るるかのごとく、廊下を
彼方へ、隔ってまた
跫音、次第に跫音。この
汐に、そこら中の人声を
浚えて
退いて、
果は
遥な
戸外二階の
突外れの角あたりと覚しかった、
三味線の
音がハタと
留んだ。
聞澄して、里見夫人、
裳を前へ
捌こうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、
衣裄に手をかけ、
四辺を
し、向うの押入をじっと見る、
瞼に
颯と薄紅梅。
九
煙草盆、
枕、火鉢、
座蒲団も五六枚。
(これは物置だ。)と立花は心付いた。
はじめは押入と、しかしそれにしては
居周囲が広く、破れてはいるが、
筵か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない
囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に
遣っているのであろう、身を忍ぶのは
誂えたようであるが。
(待て。)
案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが
疾いか、ものをいうよりはまず唇の
戦くまで、不義ではあるが思う同士。目を
見交したばかりで、かねて算した通り、
一先ず姿を隠したが、心の
闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が
馴れたせいであろう。
立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、
待飽倦んでいるのであった。
(まず、
可し。)
と
襖に
密と身を寄せたが、うかつに出らるる
数でなし、
言をかけらるる分でないから、そのまま
呼吸を殺して
彳むと、ややあって、はらはらと
衣の
音信。
目前へ
路がついたように、座敷をよぎる
留南奇の
薫、ほの
床しく身に染むと、
彼方も思う男の
人香に寄る
蝶、処を
違えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、
「立花さん。」
「…………」
「立花さん。」
襖の裏へ口をつけるばかりにして、
「
可いんですか。」
「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」
表に夫人の
打微笑む、目も眉も
鮮麗に、
人丈に
暗の中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く
円髷を
劃って
明い。
立花も
莞爾して、
「どうせ、
騙すくらいならと思って、
外套の下へ隠して来ました。」
「
旨く行ったのね。」
「旨く
行きましたね。」
「後で私を殺しても
可いから、もうちと辛抱なさいよ。」
「お
稲さん。」
「ええ。」となつかしい
低声である。
「僕は大空腹。」
「どこかで食べて来た
筈じゃないの。」
「どうして
貴方に
逢うまで、お
飯が
咽喉へ入るもんですか。」
「まあ……」
黙ってしばらくして、
「さあ。」
手を中へ差入れた、紙包を
密と取って、その指が
搦む、手と手を二人。
隔の襖は裏表、両方の肩で
圧されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、
淋しく顔を見合せた、トタンに
跫音、続いて跫音、夫人は
衝と
退いて小さな
咳。
さそくに後を
犇と閉め、立花は
掌に据えて、
瞳を寄せると、軽く
捻った
懐紙、
二隅へはたりと解けて、三ツ
美く包んだのは、菓子である。
と見ると、白と
紅なり。
「はてな。」
立花は思わず、
膝をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、
定でないが、何となく
暗夜の天まで、布
一重隔つるものがないように思われたので、やや
急心になって引寄せて、
袖を見ると、着たままで隠れている、
外套の色が
仄に鼠。
菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う
明もなく、その上、座敷から、
射し入るような、
透間は
些しもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の
賜物を落して、その手でじっと
眼を
蔽うた。
立花は目よりもまず気を
判然と持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばと
眼を開いた。
なぜなら、今そうやって
跪いた
体は、神に対し、仏に対して、ものを
打念ずる時の姿勢であると思ったから。
あわれ、覚悟の前ながら、
最早や神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。
さて心がら鬼のごとき目を
くと、余り強く
面を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、
遥に且つ
幽に、しかも細く、耳の
端について、震えるよう。
それも心細く、その言う処を確めよう、
先刻に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の
居処を
安堵せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて
試た。
人の妻と、かかる
術して忍び合うには、
疾く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、
生命のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、
生命よりは
便にしたのであるが。
こはいかに
掌は、
徒に
空を
撫でた。
慌しく
丁と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に
暗を
掻探ったが、遮るものは何にもない。
さては、
暗の中に暗をかさねて目を
塞いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、
衝と今度は
腕を差出すようにしたが、それも手ばかり。
はッと
俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。
かっと
逆上せて、
堪らずぬっくり
突立ったが、
南無三物音が、とぎょッとした。
あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、
寂莫として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事
不省ならんとする、瞬間に異ならず。
同時に
真直に立った足許に、なめし皮の
樺色の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から
悚然とした。
靴が左から……ト一ツ
留って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。
たとえば歩行の折から、
爪尖を見た時と同じ
状で、
前途へ進行をはじめたので、
呀と見る見る、二
間三
間。
十間、十五間、一町、半、二町、三町、
彼方に隔るのが、どうして目に映るのかと、
怪む、とあらず、歩を移すのは
渠自身、すなわち立花であった。
茫然。
世に茫然という色があるなら、
四辺の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、
路もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て
冷からず、
朧夜かと思えば暗く、
東雲かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、
炬燵櫓の形など左右、
二列びに、
不揃いに、
沢庵の
樽もあり、
石臼もあり、
俎板あり、灯のない
行燈も三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。
しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず
微に
揺いで、国が洪水に滅ぶる時、
呼吸のあるは
悉く死して、かかる者のみ
漾う風情、ただソヨとの風もないのである。
十
その
中に最も人間に近く、
頼母しく、且つ奇異に感じられたのは、
唐櫃の上に、一個八角時計の、
仰向けに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を
近けて
差覗いたが、ものの影を見るごとき、
四辺は、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、
判然と時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、
鮮明にその数字さえ
算えられたのは、一点、
蛍火の薄く、そして
瞬をせぬのがあって、胸のあたりから、
斜に影を宿したためで。
手を当てると
冷かった、光が隠れて、
掌に包まれたのは
襟飾の小さな宝石、時に別に手首を伝い、雪のカウスに、ちらちらと
樹の間から
射す月の影、露の
溢れたかと輝いたのは、
蓋し
手釦の玉である。不思議と左を見詰めると、この飾もまた、光を放って、
腕を開くと胸がまた
晃きはじめた。
この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、
翠の
蝶の舞うばかり、目に遮るものは、
臼も、
桶も、皆これ
青貝摺の
器に
斉い。
一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、
颯と揺れ、
溌と散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、
白銀黄金、水晶、
珊瑚珠、
透間もなく
鎧うたるが、月に照添うに露
違わず、されば
冥土の色ならず、真珠の
流を渡ると覚えて、立花は目が覚めたようになって、姿を、
判然と自分を
視めた。
我ながら死して
栄ある身の、こは玉となって砕けたか。待て、人の妻と
逢曳を、と心付いて、
首を
低れると、再び
真暗になった時、更に、しかし、身はまだ清らかであると、気を取直して改めて、青く燃ゆる服の飾を嬉しそうに見た。そして立花は伊勢は横幅の
渾沌として広い国だと思った。宵の内通った山田から相の山、茶店で聞いた五十鈴川、宇治橋も、神路山も、縦に長く、しかも心に透通るように覚えていたので。
その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が
徒に、
黒白も分かず焦り
悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり
前途の路に、
袂を
曳いて、厚い
を
踵にかさねた、二人、
同一扮装の
女の
童。
竪矢の字の帯の色の、沈んで
紅きさえ
認められたが、
一度胸を
蔽い、手を
拱けば、たちどころに消えて見えなくなるであろうと、立花は心に信じたので、騒ぐ
状なくじっと見据えた。
「はい。」
「お
迎に参りました。」
駭然として、
「私を。」
「
内方でおっしゃいます。」
「お召ものの飾から、光の
射すお方を見たら、お連れ申して参りますように、お
使でございます。」と
交る
交るいって、向合って、いたいたけに
袖をひたりと立つと、
真中に両方から
舁き据えたのは、その
面銀のごとく、四方あたかも漆のごとき、一面の将棋盤。
白き
牡丹の大輪なるに、二ツ
胡蝶の狂うよう、ちらちらと捧げて
行く。
今はたとい足許が水になって、神路山の松ながら人肌を通す
流に変じて、胸の中に舟を
纜う、
烏帽子直垂をつけた船頭なりとも、乗れとなら乗る気になった。立花は
怯めず、
臆せず、
驚破といわば、
手釦、襟飾を隠して、あらゆるものを見ないでおこうと、胸を据えて、
静に
女童に従うと、空はらはらと星になったは、雲の切れたのではない。霧の晴れたのではない、
渠が飾れる宝玉の
一叢の
樹立の中へ、
倒に
同一光を敷くのであった。
ここに
枝折戸。
戸は内へ、左右から、あらかじめ待設けた二
人の腰元の手に開かれた、垣は低く、女どもの
高髷は、一対に、地ずれの松の枝より高い。
十一
「どうぞこれへ。」
椅子を差置かれた池の
汀の
四阿は、
瑪瑙の柱、水晶の
廂であろう、ひたと席に着く、
四辺は昼よりも
明かった。
その時打向うた
卓子の上へ、
女の
童は、
密と
件の将棋盤を据えて、そのまま、
陽炎の
縺るるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、
枝折戸を開いた
侍女は、二人とも立花の
背後に、しとやかに手を
膝に垂れて差控えた。
立花は言葉をかけようと思ったけれども、我を敬うことかくのごときは、打ちつけにものをいうべき次第であるまい。
そこで、卓子に
肱をつくと、青く
鮮麗に
燦然として、異彩を放つ
手釦の宝石を
便に、ともかくも
駒を並べて見た。
王将、金銀、
桂、
香、飛車、角、九ツの
歩、数はかかる境にも
異はなかった。
やがて、自分のを並べ果てて、
対手の陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、
遥に
樹の間を
洩れ来る
気勢。
円形の池を大廻りに、
翠の水面に
小波立って、
二房三房、ゆらゆらと藤の
浪、
倒に
汀に映ると見たのが、次第に
近くと三人の婦人であった。
やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、
同一さまに深く、お太鼓の帯の腰を
扱帯も広く
屈むる中を、
静に
衝と抜けて、早や、しとやかに前なる椅子に
衣摺のしっとりする音。
と見ると、藤紫に白茶の帯して、
白綾の
衣紋を
襲ねた、黒髪の
艶かなるに、
鼈甲の
中指ばかり、ずぶりと通した気高き
簾中。立花は品位に打たれて思わず
頭が下ったのである。
ものの
情深く優しき声して、
「待遠かったでしょうね。」
一言あたかも百雷耳に
轟く心地。
「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず
性急ね、さあ、
貴下から。」
立花はあたかも死せるがごとし。
「私からはじめますか、立花さん……立花さん……」
正にこの声、
確にその人、我が
年紀十四の時から今に到るまで一日も忘れたことのない
年紀上の女に初恋の、その人やがて都の華族に嫁して以来、十数年間
一度もその顔を見なかった、
絶代の
佳人である。立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、
幾年月、寝ても
覚ても、夢に、
現に、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべき
言を
未だ知らずにいたから。
さりながら、さりながら、
「立花さん、これが
貴下の
望じゃないの、天下晴れて私とこの四阿で、あの時分九時半から毎晩のように遊びましたね。その通りにこうやって
将棊を一度さそうというのが。
そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、
皆、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、
望もかなうし、そうやってお
身体も輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんです。
こうして私と将棊をさすより、
余所の奥さんと不義をするのが
望なの?」
衝と手を
伸して、立花が握りしめた左の
拳を解くがごとくに手を添えつつ、
「もしもの事がありますと、あの方もお
可哀そうに、もう
活きてはおられません。あなたを慕って下さるなら、私も御恩がある。そういうあなたが
御料簡なら、私が身を
棄ててあげましょう。一所になってあげましょうから、
他の方に
心得違をしてはなりません。」と強くいうのが優しくなって、
果は涙になるばかり、
念被観音力観音の柳の露より身にしみじみと、里見は取られた手が震えた。
後にも前にも左右にもすくすくと人の影。
「あッ。」とばかり
戦いて、取去ろうとすると、
自若として、
「今では誰が見ても
可いんです、お心が直りましたら、さあ、将棊をはじめましょう。」
静に放すと、取られていた手がげっそり
痩せて、着た服が広くなって、胸もぶわぶわと
皺が見えるに、
屹と目を
る肩に垂れて、
渦いて、不思議や、
己が身は白髪になった、時に
燦然として身の内の宝玉は、
四辺を
照して、星のごとく輝いたのである。
驚いて
白髪を握ると、耳が暖く、
襖が明いて、里見夫人、
莞爾して
覗込んで、
「もう
可いんですよ。立花さん。」
操は二人とも守り得た。彫刻師はその夜の
中に、人知れず、
暗ながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語った
現の境の幻の道を
行くがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、
遥に美術家の前程を祝した、誰も知らない。
ただ夫人は
一夜の内に、
太く
面やつれがしたけれども、
翌日、伊勢を去る時、
揉合う
旅籠屋の客にも、陸続たる道中にも、汽車にも、かばかりの美女はなかったのである。
明治三十六(一九〇三)年五月