一
つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、
銑太郎は、
取附きに山門の
峨々と
聳えた。
巨刹の石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。
門の柱に、
毎月十五十六日当山説教と
貼紙した、
傍に、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。
透して見ると、灰色の浪を、斜めに森の
間にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、
厳穴の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ
棄てた、浴衣、
襯衣、
上衣など、ちらちらと
渚に似て、黒く深く、
背後の山まで
凹になったのは本堂であろう。輪にして段々に
点した
蝋の灯が、黄色に燃えて描いたよう。
向う側は、
袖垣、
枝折戸、夏草の茂きが中に
早咲の秋の花。いずれも
此方を背戸にして別荘だちが二三軒、
廂に
海原の緑をかけて、
簾に沖の船を縫わせた
拵え。
刎釣瓶の竹も動かず、
蚊遣の煙の
靡くもなき、夏の
盛の午後四時ごろ。浜辺は煮えて
賑かに、町は寂しい
樹蔭の細道、たらたら
坂を下りて来た、
前途は石垣から折曲る、しばらくここに
窪んだ処、ちょうどその寺の
苔蒸した青黒い段の下、
小溝があって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、
藪は自然の寺の垣。
ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、
草鞋、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は
茅ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、
幾秋の月や
映し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、
危く
掘立の、柱々、放れ
放れに傾いているのを、
渠は何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄った
[#「寄った」は底本では「寄つた」]のである。
「昔……昔、浦島は、
小児の
捉えし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、
誦むともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の
小児等の唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。
銑太郎は、ふと手にした
巻莨に心着いて、唄をやめた。
「
早附木を買いに入ったのかな。」
うっかりして立ったのが、
小店の
方に目を注いで、
「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、
頷いて
独言。
別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。
「
一日大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――」
帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、
此方の袖に隠れるので、
路を
対方へ。別荘の袖垣から、
斜に坂の方を透かして見ると、
連の浴衣は、その、ほの暗い小店に
艶なり。
「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」
と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。
「店ぐるみ総じまいにして、
一箇々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」
と
呟くうちに
真面目になった、銑太郎は我ながら、
「
串戯じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」
二
とは思ったが、
歴々彼処に、何の異状なく
彳んだのが見えるから、
憂慮にも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この
真昼間。見える処に
連を置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に
婦人ではあるし、と思う。
今にも来そうで、出向く気もせず。火のない
巻莨を手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと
其方を。
何となくぼんやりして、ああ、家も、
路も、寺も、
竹藪を漏る
蒼空ながら、
地の底の世にもなりはせずや、
連は浴衣の
染色も、浅き
紫陽花の花になって、
小溝の
暗に
俤のみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、
婦人は軒を離れて出た。
小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと
爪尖白く、濃い黒髪の
房やかな双の
鬢、
浅葱の
紐に結び果てず、海水帽を絞って
被った、
豊な
頬に
艶やかに
靡いて、色の白いが薄化粧。
水色縮緬の
蹴出の
褄、はらはら
蓮の
莟を
捌いて、素足ながら清らかに、草履ばきの
埃も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。
「叔母さん、」
と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、
燃るような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花
揺ぐよう。
黒目勝の
清しやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、
五日月に
青柳の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。
豪商
狭島の令室で、銑太郎には叔母に当る。
この路を去る十二三町、停車場
寄の海岸に、石垣高く松を
繞らし、廊下で
繋いで
三棟に分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える
身上。
裳を
厭う砂ならば路に
黄金を敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば
唐めかで、羽衣着たりと持て
囃すを、白襟で
襲衣の折から、
羅に
綾の帯の時、湯上りの
白粉に
扱帯は何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と
称えつびょう、リボンかけたる、
笄したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた
美女。
帽子の
裡の日の蔭に、長いまつげのせいならず、
甥を見た目に
冴がなく、顔の色も薄く曇って、
「銑さん。」
とばかり云った、浴衣の胸は
呼吸ぜわしい。
「どうしたんです、何を買っていらしったんです。
吃驚するほど長かった。」
打見に何の
仔細はなきが、
物怖したらしい叔母の
状を、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、
情らしく
熟と見て、
「まあ、
呑気らしい、
早附木を取って上げたんじゃありませんか。」
はじめて、ほッとした様子。
「頂戴! いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。僕もそうだろうと思ったんです。」
「そうだろうじゃありませんわ。」
「じゃ、早附木ではないんですか。」
三
「いいえ、銑さんが
煙草を出すと、
早附木がないから、
打棄っておくと、またいつものように、煙草には思い
遣りがない、監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、ちょうど、あの店で、」
と身を横に、
踵を浮かして、
恐いもののように振返って、
「見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、お
庇で大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。」
とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。
「何が、叔母さん。この
日中に何が恐いんです。大方また毛虫でしょう、大丈夫、毛虫は
追駈けては来ませんから。」
「毛虫どころじゃアありません。」
と浦子は
後見らるる
状。声も低う、
「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」
「ざッと一時間……」
半分は
懸直だったのに、夫人はかえってさもありそうに、
「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」
「なぜ、どうしたんですね、一体。」
「まあ、そろそろ
歩行きましょう。何だか
気草臥れでもしたようで、頭も脚もふらふらします。」
歩を移すのに引添うて、
身体で
庇うがごとくにしつつ、
「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」
「そうでしょう、
悚然として、
未だに寒気がしますもの。」
と肩を
窄めて
俯向いた、海水帽も前下り、
頸白く
悄れて連立つ。
少年は顔を斜めに、近々と帽の中。
「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」
これには答えず、やや石段の前を通った。
しばらくして、
「銑さん、」
「ええ、」
「
帰途に、またここを通るんですか。」
「通りますよ。」
「どうしても通らねば
不可ませんかねえ、どこぞ
他に路がないんでしょうか。」
「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、
岐路といっては
背後の山へ
行くより
他にはないんですが、」
「困りましたねえ。」
と、つくづく云う。
「何ね、時刻に因って、
汐の干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」
「船はありますか。」
「そうですね、
渡船ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」
「そうね。」
「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、
漕ぐことは僕にも漕げます。僕じゃ
危険だというでしょう。」
「
何でも
可うござんすから、銑さん、
貴郎、どうにかして下さい。私はもう
帰途にあの店の前を通りたくないんです。」
とまた
俯向いたが
恐々らしい。
「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に
微笑みながら。
四
「もう聞えやしますまいね。」
と
憚る所あるらしく、声もこの時なお低い。
「何が、どこで、叔母さん。」
「あすこまで、」
「ああ!
汚店へ、」
「大きな声をなさんなよ。」と
吃驚したように
慌しく、
瞳を据えて、
密という。
「何が聞えるもんですか。」
「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、
早附木を買いに入ると、誰も居ないのよ。」
「へい?」
「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、
取附の三段の古棚の
背のね、物置みたいな暗い中から、――
藻屑を
曳いたかと思う、汚い
服装の、小さな
婆さんがね、よぼよぼと出て来たんです。
髪の毛が
真白でね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には
皺がないの、……顔に。……
身体は
痩せて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。
天窓でものを見るてッたように、
白髪を振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらを
這うようにして店へ来るじゃありませんか。
早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を
視めてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。
お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、
熟と視めていたッけがね。
その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり
俯向くと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、
掌が大きいの。
それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、
片々の
人指ゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。
聞えないと云うのかね、そんなら
可うござんす。私は何だか一目見ると、
厭な心持がしたんですからね、買わずと
可いから、そのまま店を出ようと思うと、またそう
行かなくなりましたわ。
弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔の
傍へ横向けに差しつけたんです。
ぷんと
臭ったの。何とも言えない、きなッくさいような、
醤油の焦げるような、厭な
臭よ。」
「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も
顰んだのである。
「早附木を下さい。
(はあ?)
(早附木よ、お婆さん。)
(はあ?)
はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。
(早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。
ただもう
遁げ出したくッてね、そこいら
すけれど、
貴下の姿も見えなかったんですもの。
はあ、長い間よ。
それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして
合点々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。
そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、と出よう、とすると、しっかりこの、」
と片手を下に、
袖をかさねた
袂を
揺ったが、気味悪そうに、胸をかわして
密と払い、
「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」
「かさねがさね、成程、はあ、それから、」
五
「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。
何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを
掉るから、大方、
剰銭を
寄越そうというんでしょうと思って、留りますとね。
やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、
緡から穴のあいたのを一つ一つ。
それがまたしばらくなの。
私の手を引張るようにして、
掌へ
呉れました。
ひやりとしたけれど、そればかりなら
可かったのに。
(
御新姐様や)」
と浦子の声、異様に震えて聞えたので、
「ええ、その
婆が、」
「あれ、銑さん、聞えますよ。」と、
一歩いそがわしく、ぴったり寄添う。
「その婆が、云ったんですか。」
夫人はまた吐息をついた。
「
婆さんがね、ああ。」
(御新姐様や、
御身ア、すいたらしい人じゃでの、安く、なかまの値で進ぜるぞい。)ッて、
皺枯れた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。
そして、すいたらしいッてね、私の手首を
熟と握って、
真黄色な、
平たい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。
その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。そして目がね、
黄金目なんです。
光ったわ!
貴郎。
キラキラと、その
凄かった事。」
とばかりで重そうな
頭を上げて、
俄かに黒雲や起ると思う、
憂慮わしげに仰いで
視めた。空ざまに目も
恍惚、
紐を
結えた
頤の震うが見えたり。
「心持でしょう。」
「いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと思うくらいでしたよ。
灯に近いと、赤くほてるような気がするのと
同一に。
もう私、
二条針を刺されたように、背中の両方から
悚然として、足もふらふらになりました。
夢中で二三
間駈け出すとね、ちゃらんと音がしたので、またハッと思いましたよ。お
銭を落したのが
先方へ聞えやしまいかと思って。
何でも一大事のように返した
剰銭なんですもの、落したのを知っては追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、どうした婆さんでしょうねえ。」
されば叔母上の
宣うごとし。
年紀七十あまりの、髪の
真白な、顔の
扁い、年紀の割に
皺の少い、色の黄な、耳の遠い、
身体の
臭う、骨の軟かそうな、
挙動のくなくなした、なおその
言に従えば、
金色に目の光る
嫗とより、銑太郎は他に答うる
術を知らなかった。
ただその、
早附木一つ買い取るのに、半時ばかり
経った
仔細が知れて、
疑はさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど一向な
暢気。
「早附木は? 叔母さん。」と魅せられたものの背中を一つ、トンと打つようなのを
唐突に言った。
「ああ、そうでした。」
と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左の
袂の下に包んだままで、
撫肩の
裄をなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、ひたひたとしおれて、片袖しるく、
悚然としたのがそのままである。大事なことを見るがごとく、
密とはずすと、銑太郎も
覗くように目を注いだ。
「おや!」
「…………」
六
黒の
唐繻子と、
薄鼠に納戸がかった絹ちぢみに宝づくしの
絞の入った、腹合せの帯を漏れた、
水紅色の
扱帯にのせて、美しき手は
芙蓉の
花片、風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた
指環の
他に、
早附木らしいものの形も無い。
視詰めて、夫人は、
「…………」ものも
得いわぬのである。
「ああ、
剰銭と一所に
遺失したんだ。叔母さんどの辺?」
と
気早に向き返って
行こうとする。
「お待ちなさいよ。」
と遮って上げた手の、
仔細なく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、見直して
呼吸をついて、
「銑さん、お
止しなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、お止しなさい。」
とさも一生懸命。
圧えぬばかりに引留めて、
「あんなものは、今頃何に
化っているか分りませんよ、よう、ですから、銑さん。」
「じゃ止します、止しますがね。」
少年は余りの事に、
「ははははは、何だか
妖物ででもあるようだ。」と半ば
呟いて、また笑った。
「私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思われないけれど。」
「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、
天窓で
歩行きそうにする処から、黄色く
※[#「亠/(田+久)」、200-7]った処なんぞ、何の事はない
婆の毛虫だ。毛虫の
婆さんです。」
「
厭ですことねえ。」と身ぶるいする。
「何もそんなに、気味を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に手を握られたのと、もしか樹の上から、」
と上を見る。
藪は尽きて高い石垣、
榎が空にかぶさって、浴衣に薄き日の光、二人は月夜を
行く姿。
「ぽたりと落ちて、毛虫が
頸筋へ入ったとすると、叔母さん、どっちが厭な心持だと思います。」
「沢山よ、銑さん、私はもう、」
「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」
「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」
「そら御覧なさい。」
説き得て
可しと思える
状して、
「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを
遣るけれど、気味の悪い、厭な感じ。」
感じ、と声に力を入れて、
「感じというと、何だか先生の
仮声のようですね。」
「気楽なことをおっしゃいよ!」
「だって、そうじゃありませんか、その気味の悪い、厭な感じ、」
「でも先生は、
工合の
可いとか、妙なとか、おもしろい感じッて事は、お言いなさるけれど、気味の悪いだの、厭な感じだのッて、そんな事は、めったにお言いなさることはありません。」
「しかしですね、
詰らない婆を見て、震えるほど
恐がった、叔母さんの
風ッたら……工合の
可い、妙な、おもしろい感じがする、と言ったら、叔母さんは怒るでしょう。」
「
当然ですわ、
貴郎。」
「だからこの場合ですもの。やっぱり厭な感じだ。その気味の悪い感じというのが、毛虫とおなじぐらいだと思ったらどうです。別に不思議なことは無いじゃありませんか。毛虫は気味が悪い、けれども
怪いものでも何でもない。」
「そう言えばそうですけれど、だって婆さんの、その目が、ねえ。」
「毛虫にだって、
睨まれて御覧なさい。」
「もじゃもじゃと
白髪が、貴郎。」
「毛虫というくらいです、もじゃもじゃどころなもんですか、沢山毛がある。」
「まあ、
貴下の言うことは、
蝸牛の狂言のようだよ。」と寂しく笑ったが、
「あれ、」
寺でカンカンと
鉦を鳴らした。
「ああ、この路の長かったこと。」
七
釣棹を、ト肩にかけた、処士あり。
年紀のころ三十四五。
五分刈のなだらかなるが、
小鬢さきへ少し
兀げた、額の広い、目のやさしい、眉の太い、
引緊った口の、やや大きいのも
凜々しいが、
頬肉が厚く、小鼻に
笑ましげな
皺深く、
下頤から耳の根へ、べたりと
髯のあとの黒いのも柔和である。白地に
藍の
縦縞の、
縮の
襯衣を着て、襟のこはぜも見えそうに、
衣紋を
寛く
紺絣、二三度水へ入ったろう、色は薄く
地も透いたが、
糊沢山の折目高。
薩摩下駄の
小倉の
緒、太いしっかりしたおやゆびで、
蝮を
拵えねばならぬほど、
弛いばかりか、
歪んだのは、水に対して石の上に、これを台にしていたのであった。
時に、釣れましたか、獲物を入れて、片手に
提ぐべき
畚は、十八九の少年の、洋服を着たのが、代りに持って、連立って、海からそよそよと吹く風に、山へ、さらさらと、
蘆の葉の青く揃って、二尺ばかり
靡く方へ、岸づたいに夕日を
背。峰を離れて、
一刷の薄雲を
出て玉のごとき、月に向って
帰途、ぶらりぶらりということは、この人よりぞはじまりける。
「賢君、君の山越えの企ては、大層帰りが早かったですな。」
少年は
莞爾やかに、
「それでも一抱えほど山百合を折って来ました。帰って御覧なさい、そりゃ
綺麗です。母の部屋へも、先生の床の間へも、ちゃんと
活けるように言って来ました。」
「はあ、それは
難有い。朝なんざ
崖に
湧く雲の中にちらちら燃えるようなのが見えて、もみじに朝霧がかかったという工合でいて、何となく
高峰の花という感じがしたのに、賢君の丹精で、机の上に活かったのは感謝する。
早く行って拝見しよう、……が、また誰か、台所の方で、私の帰るのを待っているものはなかったですか。」
と小鼻の左右の線を深く、微笑を含んで少年を。
顔を見合わせて
此方も笑い、
「はははは、松が大層待っていました。先生のお
肴を頂こうと思って、お
午飯も控えたって言っていましたっけ。」
「それだ。なかなか人が悪い。」広い額に手を加える。
「それに、母も、先生。お土産を楽しみにして、お腹をすかして帰るからって、言づけをしたそうです。」
「
益々恐縮。はあ、で、奥さんはどこかへお出かけで。」
「銑さんが一所だそうです。」
「そうすると、その
連の人も、同じく土産を待つ方なんだ。」
「勿論です。今日ばかりは途中で叔母さんに何にも
強請らない。犬川で帰って来て、先生の
御馳走になるんですって。」
とまた顔を見る。
この時、先生
愕然として
頸をすくめた。
「あかぬ! 包囲攻撃じゃ、恐るべきだね。
就中、銑太郎などは、自分釣棹をねだって、
貴郎が何です、と一言の
下に
叔母御に拒絶された
怨があるから、その
祟り容易ならずと
可知矣。」
と蘆の葉ずれに棹を垂れて、思わず観念の
眼を
塞げば、少年は気の毒そうに、
「先生、買っていらっしゃい。」
「買う?」
「だって一
尾も居ないんですもの。」
と今更ながら
畚を
覗くと、
冷い
磯の
香がして、ざらざらと隅に固まるものあり、方丈記に
曰く、ごうなは小さき貝を好む。
八
先生は見ざる
真似して、少年が手に傾けた
件の
畚を横目に、
「
生憎、
沙魚、
海津、
小鮒などを商う魚屋がなくって困る。奥さんは何も知らず、銑太郎なお欺くべしじゃが、あの、お松というのが、また悪く
下情に通じておって、ごうなや
川蝦で、
鰺やおぼこの釣れないことは心得ておるから。これで魚屋へ寄るのは、落語の権助が川狩の土産に、過って
蒲鉾と目刺を買ったより一層の愚じゃ。
特に
餌の中でも、御馳走の川蝦は、あの松がしんせつに、そこらで
掬って来てくれたんで、それをちぎって釣る時分は、
浮木が水面に届くか届かぬに、ちょろり、かいず
奴が
攫ってしまう。
大切な蝦五つ、瞬く間にしてやられて、ごうなになると、糸も動かさないなどは、誠に恥入るです。
私は賢君が知っとる通り、ただ釣という事におもしろい感じを持って
行るのじゃで、釣れようが釣れまいが、トンとそんな事に
頓着はない。
次第に因ったら、針もつけず、餌なしに試みて
可いのじゃけれど、それでは余り賢人めかすようで、
気咎がするから、成るべく餌も
附着けて釣る。獲物の
有無でおもしろ味に
変はないで、またこの
空畚をぶらさげて、
蘆の中を
釣棹を担いだ処も、工合の
可い感じがするのじゃがね。
その様子では、諸君に対して、とてもこのまま、棹を
掉っては
[#「掉っては」は底本では「掉つては」]帰られん。
釣を試みたいと云うと、奥様が過分な道具を調えて下すった。この七本竹の
継棹なんぞ、私には
勿体ないと思うたが、こういう時は役に立つ。
一つ畳み込んで
懐中へ入れるとしよう、賢君、ちょっとそこへ休もうではないか。」
と月を見て
立停った、山の
裾に小川を控えて、蘆が吐き出した茶店が一軒。薄い煙に包まれて、茶は沸いていそうだけれど、
葦簀張がぼんやりして、かかる天気に、何事ぞ、雨露に朽ちたりな。
「
可いじゃありませんか、先生、畚は僕が持っていますから、松なんぞ
愚図々々言ったら、ぶッつけてやります。」
無二の味方で
頼母しく慰めた。
「いやまた、こう
辟易して、棹を畳んで、
懐中へ
了い込んで、
煙管筒を忘れた、という顔で帰る処もおもしろい感じがするで。
それに
咽喉も乾いた、茶を一つ飲みましょう。まず休んで、」
と
三足ばかり、路を横へ、茶店の前の、一間ばかり蘆が左右へ分れていた、根が白く
濡地が透いて見えて、ぶくぶくと
蟹の穴、うたかたのあわれを吹いて、
茜がさして、日は
未だ高いが虫の声、
艪を
漕ぐように、ギイ、ギッチョッ、チョ。
「さあ、お掛け。」
と少年を、自分の
床几の
傍に
居らせて、先生は乾くと言った、その唇を
撫でながら、
「茶を一つ下さらんか。」
暗い中から白い
服装、麻の葉いろの巻つけ帯で、草履の音、ひた――ひた、と客を見て早や用意をしたか、
蟋蟀の
噛った
塗盆に、朝顔茶碗の
亀裂だらけ、茶渋で
錆びたのを二つのせて、
「あがりまし、」
と据えて出し、腰を
屈めた
嫗を見よ。一筋ごとに美しく
櫛の歯を入れたように、毛筋が
透って、
生際の揃った、柔かな、茶にやや
褐を帯びた髪の色。黒き毛、
白髪の
塵ばかりをも
交えぬを、
切髪にプツリと下げた、色の白い、
艶のある、
細面の
頤尖って、鼻筋の
衝と通った、どこかに気高い処のある、
年紀は
誰が目も
同一……である。
九
「
渺々乎として、
蘆じゃ。お婆さん、
好景色だね。二三度来て見た処ぢゃけれど、この店の工合が
可いせいか、今日は格別に広く感じる。
この海の
他に、またこんな海があろうとは思えんくらいじゃ。」
と
頷くように茶を一口。茶碗にかかるほど、
襯衣の袖の
膨らかなので、
掻抱く
体に茶碗を持って。
少年はうしろ
向に、山を
視めて、おつきあいという
顔色。先生の影二尺を隔てず、窮屈そうにただもじもじ。
嫗は威儀正しく、
膝のあたりまで手を垂れて、
「はい、申されまする通り、世がまだ開けませぬ泥沼の時のような
蘆原でござるわや。
この
川沿は、どこもかしこも、蘆が生えてあるなれど、
私が
小家のまわりには、また
多う茂ってござる。
秋にもなって見やしゃりませ。丈が高う、穂が伸びて、小屋は屋根に包まれる、山の懐も隠れるけに、月も葉の中から
出さされて、
蟹が茎へ
上っての、
岡沙魚というものが根の処で跳ねるわや、
漕いで入る船の
艪櫂の音も、水の底に陰気に聞えて、寂しくなるがの。その時稲が実るでござって、お
日和じゃ、今年は、作も豊年そうにござります。
もう、このように老い朽ちて、あとを頂く
御菩薩の粒も、五つ七つと、
算えるようになったれども、
生あるものは
浅間しゅうての、蘆の茂るを見るにつけても、稲の太るが嬉しゅうてなりませぬ、はい、はい。」
と細いが聞くものの耳に響く、
透る声で言いながら、どこをどうしたら笑えよう、辛き浮世の
汐風に、
冷く大理石になったような、その仏造った顔に、寂しげに
莞爾笑った。
鉄漿を含んだ歯が揃って、貝のように美しい。それとなお目についたは、顔の色の白いのに、その眠ったような
繊い目の、
紅の糸、と見るばかり、赤く線を引いていたのである。
「成程、はあ、いかにも、」
と言ったばかり、嫗の
言は、この景に対するものをして、約半時の間、未来の秋を想像せしむるに余りあって、先生は手なる茶碗を下にも
措かず、しばらく蘆を見て、やがてその穂の人の丈よりも高かるべきを思い、白泡のずぶずぶと、
濡土に
呟く蟹の、やがてさらさらと穂に
攀じて、
鋏に月を招くやなど、
茫然として
視めたのであった。
蘆の中に路があって、さらさらと葉ずれの音、
葦簀の外へまた一人、黒い
衣の嫗が出て来た。
茶色の帯を前結び、肩の幅広く、身もやや肥えて、髪はまだ黒かったが、薄さは
条を揃えたばかり。
生際が抜け上って
頭の半ばから
引詰めた、ぼんのくどにて小さなおばこに、
櫂の形の
笄さした、
片頬痩せて、
片頬肥く、目も鼻も口も
頤も、いびつ
形に
曲んだが、肩も横に、胸も横に、腰骨のあたりも横に、だるそうに手を組んだ、これで釣合いを取るのであろう。ただそのままでは根から崩れて、海の方へ横倒れにならねばならぬ。
肩と首とで、うそうそと、斜めに小屋を
差覗いて、
「ござるかいの、お婆さん。」
と、片頬夕日に
眩しそう、ふくれた片頬は色の悪さ、
蒼ざめて
藍のよう、銀色のどろりとした目、
瞬をしながら呼んだ。
駄菓子の箱を並べた台の、陰に入って
踞んで居た、
此方の
嫗が顔を出して、
「
主か。やれもやれも、お達者でござるわや。」
と、ぬいと
起つと、その
紅糸の目が動く。
十
来たのが口もあけず、
咽喉でものを云うように、顔も
静と傾いたるまま、
「
主もそくさいでめでたいぞいの。」
「お天気模様でござるわや。暑さには
喘ぎ、寒さには悩み、のう、時候よければ
蛙のように、くらしの蛇に追われるに、この年になるまでも、甘露の
日和と聞くけれども、甘い露は飲まぬわよ、ほほほ、」
と薄笑いした、また歯が黒い。
「おいの、さればいの、お
互に
砂の数ほど苦しみのたねは尽きぬ事いの。やれもやれも、」と言いながら、斜めに立った
[#「立った」は底本では「立つた」]廂の下、何を
覗くか
爪立つがごとくにして、しかも肩腰は造りつけたもののよう、動かざること
如朽木。
「若い
衆の
愚痴より年よりの愚痴じゃ、聞く人も
煩さかろ、
措かっしゃれ、ほほほ。のう、お婆さん。主はさてどこへ何を志して出てござった、山かいの、川かいの。」
「いんにゃの、恐しゅう歯がうずいて、きりきり
鑿で
抉るようじゃ、と苦しむ者があるによって、
私がまじのうて進じょうと、浜へ
の針掘りに出たらばよ、猟師どもの
風説を聞かっしゃれ。志す人があって、この川ぞいの
三股へ、石地蔵が建つというわいの。」
それを聞いて、フト振向いた少年の顔を、ぎろりと、その銀色の目で
流眄にかけたが、取って十八の学生は、何事も考えなかった。
「や、
風説きかぬでもなかったが、それはまことでござるかいの。」
「おいのおいの、こんな
難有い奇特なことを、うっかり聞いてござる
年紀ではあるまいがや、ややお婆さん。
主は気が長いで、大方何じゃろうぞいの、地蔵様
開眼が済んでから、
杖を
突張って参らしゃます心じゃろが、お互に年紀じゃぞや。今の
時世に、またとない
結縁じゃに因って、半日も早うのう、その
難有い人のお姿拝もうと思うての、やらやっと重たい腰を
引立てて出て来たことよ。」
紅糸の目はまた揺れて、
「奇特にござるわや。さて、その
難有い人は誰でござる。」
「はて、それを知らしゃらぬ。主としたものは何ということぞいの。
このさきの浜際に、さるの、
大長者どのの、お別荘がござるてよ。その長者の奥様じゃわいの。」
「それが御建立なされるかよ。」
「おいの、いんにゃいの、建てさっしゃるはその奥様に違いないが、
発願した
篤志の方はまた別にあるといの。
聞かっしゃれ。
その奥様は、世にも珍らしい、三十二相そろわしった美しい方じゃとの、
膚があたたかじゃに因って人間よ、冷たければ天女じゃ、と皆いうのじゃがの、その長者どのの
後妻じゃ、うわなりでいさっしゃる。
よってその長者どのとは、三十の上も年紀が違うて、男の
児が一人ござって、それが今年十八じゃ。
奥様は、それ、
継母いの。
気立のやさしい、膚も心も美しい人じゃによって、継母
継児というようなものではなけれども、なさぬなかの事なれば、万に一つも
過失のないように、とその十四の春ごろから、
行の正しい、学のある先生様を、内へ頼みきりにして
傍へつけておかしゃった。」
二人は正にそれなのである。
十一
「よいかの、十四の年からこの年まで、四五六七八と五年の間、寝るにも
起るにも附添うて、しんせつにお教えなすった、その先生様のたんせいというものは、
一通の事ではなかったとの。
その
効があってこの夏はの、そのお子がさる立派な学校へ入らっしゃるようになったに就いて、先生様は
邸を出て、自分の
身体になりたいといわっしゃる。
それまで受けた恩があれば、お客分にして一生置き申そうということなれど、宗旨々々のお祖師様でも、
行きたい処へ行かっしゃる。無理やりに留めますことも出来んでのう。」
「ほんにの、お婆さん。」
「今度いよいよ長者どのの邸を出さっしゃるに就いて、長い間御恩になった、そのお礼心というのじゃよ。何ぞ早や、しるしに残るものを、と言うて、
黄金か、
珠玉か、と尋ねさっしゃるとの。
その先生様、地蔵尊の一体建立して欲しいと言わされたとよ。
そう云えば何となく、
顔容も柔和での、石の地蔵尊に似てござるお人じゃそうなげな。」
先生は
面を背けて、
笑を含んで、思わずその口のあたりを
擦ったのである。
「それは奇特じゃ、
小児衆の世話を願うに、地蔵様に似さしった人は、結構にござることよ。」
「さればその事よ。まだ四十にもならっしゃらぬが、
慾も徳も悟ったお方じゃ。何事があっても
莞爾々々とさっせえて、ついぞ、腹立たしったり、悲しがらしった事はないけに、何としてそのように
難有い気になられたぞ、と尋ねるものがあるわいの。
先生様が言わっしゃるには、伝もない、
教もない。
私はどうした
結縁か、その
顔色から
容子から、野中にぼんやり立たしましたお姿なり、心から地蔵様が気に入って、
明暮、地蔵、地蔵と念ずる。
痛い時、辛い時、
口惜い時、
怨めしい時、
情ない時と、事どもが、まああってもよ。待てな、待てな、さてこうした時に、
地蔵菩薩なら何となさる、と考えれば胸も開いて、気が安らかになることじゃ、と申されたげな。お婆さん、何と奇特な事ではないかの。」
「御奇特でござるのう。」
「じゃでの、何の心願というでもないが、何かしるしをといわるるで思いついた、お地蔵一体建立をといわっしゃる。
折から夏休みにの、お
邸中が浜の別荘へ来てじゃに就いて、その先生様も見えられたが、この
川添の小橋の
際のの、
蘆の中へ立てさっしゃる事になって、今日はや奥さまがの、この切通しの
崖を越えて、二つ目の浜の石屋が
方へ
行かれたげじゃ。
のう、先生様は先生様、また
難有いお方として、
浄財を喜捨なされます、その奥様の事いの。
少い身そらに、御奇特な、たとえ御自分の心からではないとして、その先生様の
思召に嬉し喜んで従わせえましたのが、はや菩薩の
御弟子でましますぞいの。
七歳の竜女とやらじゃ。
結縁しょう。年をとると
気忙しゅうて、片時もこうしてはおられぬわいの、はやくその美しいお姿を拝もうと思うての。それで、はい、お婆さん、えッちらえッちら出て来たのじゃ。」
「おう、されば、これから二つ目へおざるかや。」
「さればいの、行くわいの。」
「ござれござれ。
私も店をかたづけたら、路ばたへ出て、その奥様の、帰らしゃますお顔を拝もうぞいの。」
赤目の
嫗は自から深く
打頷いた。
十二
時に色の青い銀の目の
嫗は、
対手の
頤につれて、片がりながら、さそわれたように
頷いたが、肩を曲げたなり手を腰に組んだまま、足をやや横ざまに左へ向けた。
「
帰途のほどは
宵月じゃ、ちらりとしたらお姿を見はずすまいぞや。かぶりものの中、気をつけさっしゃれ。お方くらい、美しい、
紅のついた唇は少ないとの。薄化粧に変りはのうても、
膚の白いがその人じゃ、浜方じゃで
紛れはないぞの、
可いか、お婆さん、そんなら
私は行くわいの。」
「茶一つ参らぬか、まあ
可いで。」
「預けましょ。」
「これは
麁末なや。」
「お雑作でござりました。」
と
斉しく前へ傾きながら、腰に手を据えて、てくてくと片足ずつ、右を左へ、左を右へ、一ツずつ
蹈んで
五足六足。
「ああ、これな、これな。」
と
廂の夕日に手を上げて、たそがれかかる姿を呼べば、
蘆を
裾なる
背影。
「おい、」とのみ、見も返らず、ハタと留まって、打傾いた、耳をそのまま
言を待つ。
「
主、今のことをの、坂下の
姉さまにも知らしてやらしゃれ、さだめし、あの
児も拝みたかろ。」
聞きつけて、
件の嫗、ぶるぶると
頭を
掉った。
「むんにゃよ、
年紀が上だけに、
姉さまは
御生のことは抜からぬぞの。八丈ヶ島に鐘が鳴っても、うとい耳に聞く人じゃ。それに二つ目へ行かっしゃるに、奥様は通り路。もう
先刻に拝んだじゃろうが、念のためじゃ立寄りましょ。ああ、それよりかお婆さん、」
と
片頬を青く
捻じ向けた、鼻筋に一つの目が、じろりと
此方を見て光った。
「
主、
数珠を忘れまいぞ。」
「おう、
可いともの、お婆さん、主、その
の針を落さっしゃるな。」
「御念には及ばぬわいの。はい、」
と言って、それなり
前途へ、蘆を分ければ、
廂を離れて、一人は店を
引込んだ。
磯の風
一時、
行くものを送って吹いて、
颯と返って、小屋をめぐって、ざわざわと鳴って、
寂然した。
吻々吻と花やかな、笑い声、浜のあたりに
遥に聞ゆ。
時に一碗の茶を
未だ飲干さなかった、先生はツト心着いて、いぶかしげな目で、まず、
傍なる少年の並んで坐った
背を見て、また
四辺を
したが、月夜の、夕日に返ったような思いがした。
嫗の
言が
渠を魅したか、その蘆の葉が伸びて、山の腰を
蔽う時、
水底を船が
漕いで、
岡沙魚というもの土に跳ね、
豆蟹の
穂末に月を見る
状を、
目のあたりに目に浮べて、秋の夜の月の趣に、いつか心の取られた耳へ、蘆の根の泡立つ音、葉末を風の
戦ぐ声、あたかも
天地の
呟き
囁くがごとく、我が身の上を語るのを、ただ夢のように聞きながら、顔の地蔵に似たなどは、おかしと
現にも思ったが、いつごろ、どの時分、もう一人の
嫗が来て、いつその姿が見えなくなったか、定かには覚えなかった。たとえば、そよそよと吹く風の、いつ来て、いつ
歇んだかを覚えぬがごとく、夕日の色の、何の
機に我が
袖を、山陰へ外れたかを語らぬごとく。
さればその間、およそ、時のいかばかりを過ぎたかを
弁えず、月夜とばかり思ったのも、明るく晴れた今日である。いつの程にか、
継棹も少年の手に畳まれて、袋に入って、紐までちゃんと
結えてあった。
声をかけて見ようと思う、嫗は小屋で暗いから、
他の一人はそこへと見
遣るに、
誰も無し、月を肩なる、山の裾、蘆を
の寝姿のみ。
「賢、」
と呼んだ、我ながら
雉子のように聞えたので、
呟して、もう一度、
「賢君、」
「は、」
と快活に返事する。
「今の婆さんは
幾歳ぐらいに見えました。」
「この茶店のですか。」
「いや、もう一人、……ここへ来た年寄が居たでしょう。」
「いいえ。」
十三
「あれえ! ああ、あ、ああ……」
恐かった、胸が躍って、
圧えた乳房重いよう、
忌わしい夢から覚めた。――浦子は、独り
蚊帳の
裡。身の
戦くのがまだ
留まねば、腕を組違えにしっかと両の肩を抱いた、
腋の下から脈を打って、
垂々と
冷い汗。
さてもその
夜は暑かりしや、夢の
恐怖に
悶えしや、
紅裏の絹の
掻巻、
鳩尾を
辷り
退いて、
寝衣の
衣紋崩れたる、雪の
膚に蚊帳の色、
残燈の灯に青く染まって、
枕に乱れた
鬢の毛も、寝汗にしとど濡れたれば、
襟白粉も水の
薫、身はただ、今しも
藻屑の中を浮び出でたかの
思がする。
まだ
身体がふらふらして、床の途中にあるような。これは寝た時に今も変らぬ、別に怪しい事ではない。二つ目の浜の石屋が
方へ、暮方仏像をあつらえに
往った帰りを、
厭な、不気味な、忌わしい、
婆のあらもの屋の前が通りたくなさに、ちょうど
満潮を
漕げたから、
海松布の流れる岩の上を、船で帰って来たせいであろう。
艪を漕いだのは銑さんであった、夢を漕いだのもやっぱり銑さん。
その時は
折悪く、釣船も
遊山船も出払って、船頭たちも、漁、
地曳で急がしいから、と石屋の親方が浜へ出て、小船を一
艘借りてくれて、岸を漕いでおいでなさい、山から風が吹けば、畳を
歩行くより
確なもの、船をひっくりかえそうたって、海が
合点するものではねえと、大丈夫に
承合うし、銑太郎もなかなか素人離れがしている由、人の
風説も聞いているから、安心して乗って出た。
岩の間をすらすらと縫って、銑さんが船を持って来てくれる間、……私は銀の粉を裏ごしにかけたような美しい砂地に立って、
足許まで
藍の絵具を溶いたように、ひたひた軽く寄せて来る、浪に心は置かなかったが、またそうでもない。
先刻の荒物屋が
背後へ来て、あの、また変な声で、
御新姐様や、といいはしまいかと、大抵気を
揉んだ事ではない。……
婆さんは幾らも居る、本宅のお針も婆さんなら、自分に伯母が一人、それもお婆さん。第一近い処が、今内に居る、松やの
阿母だといって、この間隣村から尋ねて来た、それも年より。なぜあんなに恐ろしかったか、自分にも分らぬくらい。
毛虫は怪しいものではないが、一目見ても総毛立つ。おなじ事で、たとえ不気味だからといって、ちっとも怪しいものではないと、銑さんはいうけれど、あの、
黄金色の目、
黄な顔、
這うように
歩行いた工合。ああ、思い出しても
悚然とする。
夫人は掻巻の
裾に
障って、
爪尖からまた悚然とした。
けれどもその時、浜辺に一人立っていて、なんだか怪しいものなぞは世にあるものとは思えないような、気丈夫な考えのしたのは、自分が
彳んでいた七八間さきの、
切立てに二丈ばかり、沖から燃ゆるような
紅の日影もさせば、一面には山の緑が月に映って、
練絹を裂くような、
柔な
白浪が、根を一まわり結んじゃ解けて拡がる、大きな高い
巌の上に、水色のと、
白衣のと、
水紅色のと、西洋の婦人が三人。――
白衣のが一番上に、水色のその肩が、水紅色のより少し高く、一段下に二人並んで、指を組んだり、
裳を投げたり、胸を軽くそらしたり、時々楽しそうに笑ったり、話声は聞えなかったが、さものんきらしく、おもしろそうに遊んでいる。
それをまたその人々の飼犬らしい、毛色のいい、
猟虎のような茶色の
洋犬の、口の長い、耳の大きなのが、浪際を放れて、
巌の根に控えて見ていた。
まあ、こんな人たちもあるに、あの婆さんを
妖物か何ぞのように、こうまで
恐がるのも、と恥かしくもあれば、またそんな人たちが居る世の中に、と
頼母しく。……
と、浦子は蚊帳に震えながら思い続けた。
十四
ざんぶと浪に黒く飛んで、
螺線を描く白い
水脚、泳ぎ出したのはその
洋犬で。
来るのは何ものだか、見届けるつもりであったろう。
長い犬の鼻づらが、水を出て浮いたむこうへ、銑さんが
艪をおしておいでだった。
うしろの小松原の中から、のそのそと人が来たのに、ぎょっとしたが、それは石屋の親方で。
草履ばきでも濡れさせまいと、船がそこった間だけ、
負ってくれて、乗ると
漕ぎ出すのを、水にまだ、足を浸したまま、
鷭のような姿で立って、腰のふたつ
提げの
煙草入を抜いて、
煙管と一所に手に持って、火皿をうつむけにして吹きながら、確かなもんだ確かなもんだと、銑さんの
艪を
誉めていた。
もう船が岩の間を出たと思うと、尖った
舳がするりと
辷って、波の上へ乗ったから、ひやりとして、胴の
間へ手を
支いた。
その時緑青色のその
切立ての
巌の、
渚で見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早
薄靄が
掛った上から、
白衣のが桃色の、水色のが白の
手巾を、二人で、小さく振ったのを、自分は胴の間に、半ば
袖をついて、倒れたようになりながら、帽子の
裡から仰いで見た。
二つ目の浜で、
地曳を引く人の数は、水を切った網の
尖に、二筋黒くなって砂山かけて
遥かに見えた。
船は緑の岩の上に、浅き
浅葱の浪を分け、おどろおどろ海草の乱るるあたりは、黒き瀬を抜けても過ぎたが、首きり沈んだり、またぶくりと浮いたり、
井桁に組んだ棒の中に、
生簀があちこち、三々五々。
鴎がちらちらと白く飛んで、浜の二階家のまわり縁を、
行きかいする女も見え、
簾を上げる
団扇も見え、坂道の切通しを、
俥が並んで飛ぶのさえ、手に取るように見えたもの。
陸近なれば
憂慮いもなく、ただ景色の
好さに、ああまで恐ろしかった
婆の家、
巨刹の
藪がそこと思う
灘を、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の
厭な年寄。……
――それが夢か。――
「ま、待って、」
はてな、と夫人は、白き
頸を
枕に着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと
打かたむいたが、身の
戦くことなお
留まず。
それとも渚の砂に立って、巌の上に、
春秋の美しい雲を見るような、三人の婦人の
衣を見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、
薄靄の風情も
妙に余る。
けれども、犬が泳いでいた、月の中なら
兎であろうに。
それにしても、また石屋の親方が、水に
彳んだ姿が怪しい。
そういえば用が用、仏像を頼みに
行くのだから、と
巡礼染みたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の
背で浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。
いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの
老婆。通りがかりに、ちょいとほんの
燐枝を買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、
忌わしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。
船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を
背負って、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。
――「ああ、恐しい夢を見た。」――
と肩がすくんで、
裳わなわな、
瞳を据えて
恐々仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、
凄くて
すことさえならぬ、
蚊帳に寂しき寝乱れ姿。
十五
果して夢ならば、海も同じ潮入りの
蘆間の水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう
一浪で、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、
草臥れた足でまた砂を
蹈もうより、
小川尻へ
漕ぎ
上って、薦の葉を一またぎ、
邸の背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は――
確に今も覚えている。
艪よりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も
点燈ごろ。
帆柱が二本並んで、船が二
艘かかっていた。
舷を横に通って、急に寒くなった橋の下、
橋杭に水がひたひたする、
隧道らしいも一思い。
石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、
裾も近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、
他所の別荘の
刎橋が、
流の
半、岸近な
洲へ掛けたのが、
満潮で板も
除けてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。
三角形の砂地が向うに、蘆の葉が
一靡き、鶴の
片翼見るがごとく、小松も
斑に似て
十本ほど。
暮れ果てず
灯は見えぬが、その枝の中を透く
青田越しに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた
地蔵菩薩を――
仏様でも大事ない、氏神にして
祭礼を、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆が
渺として。
船がその時ぐるりと廻った。
岸へ岸へと
支うるよう。しまった、潮が
留ったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。
瓜の種、
茄子の皮、
藁の中へ木の葉が
交って、船も出なければ
芥も流れず。真水がここまで落ちて来て、潮に
逆って
揉むせいで。
あせって銑さんのおした船が、がッきと当って
杭に
支えた。
泡沫が飛んで、傾いた
舷へ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、
一束の女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。
ああ、芥の
臭でもすることか、
海松布の香でもすることか、船へ
搦んで散ったのは、自分と
同一鬢水の……
――浦子は寝ながら
呼吸を引いた。――
――今も蚊帳に染む梅花の
薫。――
あ、と一声
退こうとする、
袖が風に取られたよう、向うへ引かれて、
靡いたので、
此方へ
曳いて
圧えたその袖に、と見ると怪しい針があった。
蘆の中に、色の白い
痩せた
嫗、
高家の後室ともあろう、品の
可い、目の赤いのが、
朦朧と
踞んだ手から、
蜘蛛の
囲かと見る糸
一条。
身悶えして
引切ると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。
その黒髪の船に垂れたのが、
逆に上へ、ひょろひょろと
頬を
掠めると思うと――(今もおくれ毛が枕に乱れて)――
身体が宙に浮くのであった。
「ああ!」
船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、
溺れていたのが自分であろうか。
また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な
室も穴めいて、
膚の色も水の底、おされて
呼吸の苦しげなるは、早や
墳墓の中にこそ。
呵呀、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。
枕を前に、飜った
掻巻を
背の力に、堅いもののごとく
腕を解いて、
密とその
鬢を
掻上げた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、
褄に乱れた
縮緬の、
浅葱も色の
凄きまで。
十六
疲れてそのまま、
掻巻に
頬をつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の
動悸に髪が揺れて、
頭を上へ引かれるのである。
「ああ、」
とばかり声も出ず、
吃驚したようにまた起直った。
扱帯は
一層しゃらどけして、
褄もいとどしく崩れるのを、
懶げに持て扱いつつ、
忙しく肩で
呼吸をしたが、
「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」
と重たい
髷をうしろへ振って、そのまま
仰ざまに倒れそうな、身を
揉んで
膝で支えて、ハッとまた
呼吸を
吐くと、トントンと岩に当って、時々
崖を洗う浪。松風が
寂として、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。
「松か、」
夫人は
残燈に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。
けれども、直ぐに
寐入ったものの
呼覚される時刻でない。
第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも
現である。
「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、
心許ない。
まあ、口も利けなくなったのか、と
情なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を
揺って、
「松や、」と、
急き調子でもう一度。
(松や、)と細いのが、
咽喉を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく
此方へ聞えて、
遥か
間を隔てた
襖の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、
溜息になってしまう。蚊帳が
煽るか、
衾が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み
緊めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた
褄もはらはらと
靡く。
引掴んでまで、
撫でつけた、
鬢の毛が、
煩くも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に
烈しくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、
汀の
嫗。
今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に
蘆が生えて、台所の
煙出しが、水面へあらわれると、
芥溜のごみが
淀んで、泡立つ中へ、この黒髪が
倒に、
髻から
搦まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる
響。
恍惚と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。
船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……
今、
舷へ髪の毛が。
「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を
支くと、胸を反らして、抜け出る
状に、
裳を外。
蚊帳が顔へ搦んだのが、
芬と鼻をついた水の
香。引き息で、がぶりと一口、
溺るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。
目もようよう
判然と、蚊帳の緑は水ながら、
紅の絹のへり、かくて
珊瑚の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の
浅葱も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、
歴然と見たのである。
十七
しばらくして、浦子は
玉ぼやの
洋燈の心を
挑げて、
明くなった
燈に、宝石輝く指の
尖を、ちょっと
髯に触ったが、あらためてまた
掻上げる。その手で襟を繕って、
扱帯の下で
褄を引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ
身体の世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。
且つその身体を
棄てもせず、
老実やかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、
床しく、優しく、嬉しいように感じたくらい。
一つくぐって
鳩尾から
膝のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、
燈を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、
小用に、と思い切った。
時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、
冥途の
路か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が
駈け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た
蚊帳の内を
窺って見ることで。
蹴出しも雪の
爪尖へ、とかくしてずり下り、ずり下る
寝衣の
褄を
圧えながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を
覗こうとして、
爪立って、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を
悶えた、
閨の内の、
情ない
状を見るのも
忌わしし、また、何となく
掻巻が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を
覗うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと
退って、
引くるまる
裳危く、はらりと
捌いて廊下へ出た。
次の
室は
真暗で、そこにはもとより誰も居ない。
閨と並んで、庭を前に三間続きの、その
一室を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている
筈。
その
方にも
厠はあるが、運ぶのに、ちと遠い。
件の次の
明室を越すと、
取着が板戸になって、その台所を越した処に、松という
仲働、お三と、もう一人女中が三人。
婦人ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく
旦那が留守の折からには、あけ方まで格子戸から
灯がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの
響がするのを、保養の場所と大目に見ても、
好いこととは思わなかったが、時にこそよれ
頼母しい。さらばと、やがて廊下づたい、
踵の音して、するすると、
裳の
気勢の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、
明室の前を急いで越すと、次なる
小室の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
中から風も吹くようなり、
傍正面の姿見に、
勿、映りそ夢の姿とて、
首垂るるまで顔を
背けた。
新しい
檜の雨戸、それにも顔が描かれそう。
真直に向き直って、
衝と
燈を差出しながら、
突あたりへ
辿々しゅう。
十八
ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
壁は白いが、
真暗な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと
留んだを、気の毒らしく思うまで、
今夜はそれが嬉しかった。
浦子の姿は、無事に
厠を
背後にして、さし置いたその
洋燈の前、廊下のはずれに、
媚かしく
露われた。
いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、
廂をこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、
朝の色は何々ぞ。紺に、
瑠璃に、
紅絞り、白に、
水紅色、
水浅葱、
莟の数は分らねども、
朝顔形の
手水鉢を、
朦朧と映したのである。
夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の
梢に寄る浪の、沖の景色にも目は
遣らず、瞳を
恍惚見据えるまで、一心に車夫部屋の
灯を、
遥に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……
柄杓に
障らぬ。
気にもせず、なお
上の空で、冷たく瀬戸ものの縁を
撫でて、手をのばして、向うまで
辷らしたが、指にかかる
木の葉もなかった。
目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。
直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、
反対まえに、山の方へ柄がひとりで廻った。
夫人は手のものを落したように、
俯向いて
熟と見る。
手水鉢と垣の間の、月の
隈暗き中に、ほのぼのと白く
蠢くものあり。
その時、
切髪の
白髪になって、犬のごとく
踞ったが、柄杓の柄に、
痩せがれた手をしかとかけていた。
夕顔の実に朱の筋の入った
状の、夢の
俤をそのままに、ぼやりと
仰向け、
「水を召されますかいの。」
というと、
艶やかな歯でニヤリと笑む。
息とともに身を
退いて、
蹌踉々々と、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって
面を背けた。
斜ッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。
真黒な影法師のちぎれちぎれな
襤褸を
被て、茶色の毛のすくすくと
蔽われかかる額のあたりに、
皺手を合わせて、
真俯向けに
此方を拝んだ
這身の
婆は、坂下の
藪の
姉様であった。
もう筋も抜け、骨崩れて、
裳はこぼれて手水鉢、砂地に足を
蹈み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。
胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の
眼をむいた。
のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、
真赤な口を横ざまに開けて、
「ふァはははは、」
「う、うふふ、うふふ、」と
傾がって、戸を
揺って笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の
嫗は、
「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。
廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった
鬢の毛を
弄びながら、
「
洲の
股の
御前も、山の
峡の婆さまも早かったな。」というと、
「坂下の
姉さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。
銀の目をじろじろと、
「さあ、手を貸され、連れて
行にましょ。」
十九
「これの、
吐く
呼吸も、引く呼吸も、もうないかいの、」と
洲の
股の
御前がいえば、
「水くらわしや、」
と
峡の
婆が
邪慳である。
ここで坂下の
姉様は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で
撫でて、
「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」
「手を掛けて肩を上げされ、
私が腰を抱こうわいの。」
と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。
洲の股の御前、
傍より、
「お婆さん、ちょっとその
の針で口の
端縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」
「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で
圧えた。
峡の婆、
僅に手を解き、
頤[#ルビの「おとがい」は底本では「おとがひ」]で襟を探って、
無性らしく
撮み出した、指の
爪の長く
生伸びたかと見えるのを、一つぶるぶると
掉って近づき、お
伽話の絵に描いた外科医者という
体で、
震く唇に
幽に見える、夫人の
白歯の上を縫うよ。
浦子の姿は
烈しく揺れたが、声は始めから
得立てなかった。目は
いていたのである
「もう
可いわいの、」
と峡の婆、
傍に身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方の
傍を抱いて起した。
浦子の身は、柔かに半ば起きて
凭れかかると、そのまま庭へずり下りて、
「ござれ、洲の股の御前、」
といって、坂下の姉様、夫人の片手を。
洲の股の御前も、おなじく
傍から夫人の片手を。
ぐい、と取って、
引立てる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、
扱帯の端が縁を離れた。髪の根は
髷ながら、
笄ながら、がッくりと肩に崩れて、早や
五足ばかり、釣られ工合に、
手水鉢を、裏の垣根へ誘われ
行く。
背後に残って、砂地に独り峡の婆、
件の手を腰に
極めて、
傾がりながら、片手を前へ、斜めに
一煽り、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて
閉った。
二人の婆に
挟まれ、
一人に導かれて、薄墨の絵のように、
潜門を連れ出さるる時、夫人の姿は
後ざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。
時しも一面の
薄霞に、処々
艶あるよう、月の影に、雨戸は
寂と
連って、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、
蓮歩のあとのここかしこ、夫人をしとうて
散々なり。
* * * * *
あと
白浪の寄せては返す、
渚長く、身はただ、黄なる雲を
蹈むかと、
裳も空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ
轟々と聞ゆるあたり。
「ここじゃ、ここじゃ。」
どしりと夫人の
横倒。
「来たぞや、来たぞや、」
「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」
何処の
果か、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。
ぐるりと三人、
三つ
鼎に夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、
紅糸の目の六つを、
凶き星のごとくキラキラと
砂の上に輝かしたが、
「
地蔵菩薩祭れ、ふァふァ、」と
嘲笑って、山の
峡がハタと手拍子。
「山の峡は
繁昌じゃ、あはは、」と
洲の
股の
御前、足を挙げる。
「洲の股もめでたいな、うふふ、」
と
北叟笑みつつ、坂下の
嫗は腰を
捻った。
諸声に、
「ふァふァふァ、」
「うふふ、」
「あはははは。」
「坂の下祝いましょ。」
今度は洲の股の御前が手を
拍つ。
「地蔵菩薩祭れ。」
と山の峡が一足出る、そのあとへ
臀を捻って、
「山の峡は繁昌じゃ。」
「洲の股もめでたいな、」とすらりと出る。
拍子を取って、手を拍って、
「坂の下祝いましょ。」
据え腰で、ぐいと伸び、
「地蔵菩薩祭れ。」
「山の峡は繁昌じゃ、」
「洲の股もめでたいな、」
「坂の下祝いましょ、」
「地蔵菩薩祭れ。」
さす手ひく手の調子を合わせた、浪の
調、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただ
靄となる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。
二十
ここに、一つ目と二つ目の
浜境、浪間の
巌を
裾に浸して、
路傍に
衝と高い、一座
螺のごとき丘がある。
その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を
吐いて
彳んだのは、
狭島に宿れる鳥山廉平。
例の
縞の
襯衣に、その
綛の
単衣を着て、紺の
小倉の帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん
端折りの
空脛に、草履ばきで帽は
冠らず。
昨日は折目も正しかったが、露にしおれて
甲斐性が無さそう、高い処で
投首して、
太く
草臥れた
状が見えた。恐らく
驚破といって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。
それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり
形、
他の人々は思いやられる。
銑太郎、賢之助、女中の松、
仲働、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた
賭博仲間の漁師も四五人、別荘を
引ぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しに
駈け廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらと
靄に
点れて、
松明の火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ば
攀じ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。
もとより
当のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、
彼方此方、同じ処を四五
度も、およそ二三里の路はもう
歩行いた。
不祥な言を放つものは、
曰く
厠から月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と
即ち船を
漕ぎ
出したのも有るほどで。
死んだは、
活きたは、本宅の主人へ電報を、と
蜘蛛手に座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬
一疋、
匂の高い総菜にも、見る目、
ぐ鼻の狭い土地がら、
俤を夢に見て、山へ百合の花折りに
飄然として出かけられたかも
料られぬを、狭島の夫人、夜半より、その
行方が分らぬなどと、騒ぐまいぞ、
各自。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。
廉平とても、夫人が
魚の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という
目的がないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を
攫むのであった。
目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に
揉まれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、
梢はそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に
藍を
湛えて、
或は十畳、二十畳、五畳、三畳、
真砂の床に絶えては連なる、平らな岩の、
天地の
奇しき手に、
鉄槌のあとの見ゆるあり、削りかけの
鑪の目の立ったるあり。
鑿の歯形を印したる、
鋸の
屑かと
欠々したる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った
海松、ところ、あわび、
蠣などいうものの、
夜半に吐いた気を収めず、まだほのぼのと
揺ぐのが、
渚を
籠めて蒸すのである。
漁家二三。――深々と
苫屋を伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと
大畚が五つ六つ。
二十一
さてこの丘の根に引寄せて、一
艘苫を掛けた船があった。
海士も
簑きる時雨かな、潮の
※[#「さんずい+散」、240-3]は浴びながら、夜露や
厭う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、
女男の波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、
舳の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。
傍なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い
繞らした
蘆垣も、船も、岩も、ただなだらかな
面平に、空に躍った
刎釣瓶も、
靄を放れぬ黒い
線。
些と凹凸なく
瞰下さるる、かかる一枚の絵の中に、
裳の端さえ、
片袖さえ、美しき夫人の姿を、
何処に隠すべくも見えなかった。
廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、
踏はずしそうに
崖の
尖、五尺の地蔵の像で立ったけれども。
頭を垂れて嘆息した。
さればこの時の
風采は、悪魔の手に捕えられた、一体の
善女を救うべく、ここに
天降った
菩薩に似ず、仙家の
僕の誤って
廬を破って、下界に追い
下された哀れな趣。
廉平は腕を
拱いて
悄然としたのである。時に海の上にひらめくものあり。
翼の色の、
鴎や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。
帆風に散るか、
露消えて、と見れば、海に
露れた、一面
大なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。
ぴたりとついて留まったが、
飜然と
此方へ
向をかえると、
渚に
据った丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を
湛えた
状に、
路一条、
東雲のあけて
行く、
蒼空の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、
巌の
面に
靡く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに
軽くまた渚に
止った。
帆の中より、水際立って、美しく
水浅葱に朝露置いた
大輪の花一輪、白砂の清き浜に、
台や開くと、
裳を
捌いて
衝と下り立った、洋装したる一人の婦人。
夜干に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を
賞ずるよしして、
四辺を見ながら、その
苫船に立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は
啼かぬが友呼びつらん。帆の白きより
白衣の婦人、
水紅色なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。
二人は右の
舷に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、
互に苫を取って分けて、船の中を
差覗いた。淡きいろいろの
衣の裳は、長く渚へ引いたのである。
廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、
渠等三人の西洋婦人、
惟うに
誂えの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の
短艇ででもあるのであろう。
と見ると二人の脇の下を、
飜然と飛び出した猫がある。
トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いて
舳から
衝と抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を
一畝り畝らしたまで
鮮麗に認められた。
前のは白い毛に茶の
斑で、中のは、その全身漆のごときが、長く
掉った尾の先は、
舳を
掠めて
失せたのである。
二十二
その時、前後して、
苫からいずれも
面を離し、はらはらと船を
退いて、ひたと顔を合わせたが、
方向をかえて、三人とも
四辺を
して
彳む
状、おぼろげながら
判然と廉平の目に
瞰下された。
水浅葱のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。
手を挙げて、二三度
続ざまに
麾くと、あとの二人もひらひらと、高く
手巾を
掉るのが見えた。
要こそあれ。
廉平は雲を
抱くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、
慌しく
領き答えて、直ちに丘の上に
踵を
回らし、
栄螺の形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると
駈けて下り、
裾を伝うて、
衝と高く、ト
一飛低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波に
曝された岩の上。
綱もあり、立樹もあり、大きな
畚も、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫
葺いたり。あの位高かった、丘は近く
頭に望んで、崖の
青芒も手に届くに、
婦人たちの姿はなかった。白帆は早や
渚を
彼方に、上からは
平であったが、胸より高く
踞まる、海の中なる
巌かげを、明石の浦の朝霧に島がくれ
行く風情にして。
かえって別なる船一
艘、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに
見出されたが、一つ目の浜の
方へ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、
真黒な男の
児。一人はヤッシと
艪柄を取って、丸裸の小腰を据え、
圧すほどに
突伏すよう、引くほどに
仰反るよう、ただそこばかり海が動いて、
舳を揺り上げ、揺り下すを面白そうに。
穉い方は、両手に
舷に
掴まりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと
同一処にもう一艘、渚に
纜った親船らしい、
艪を操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。
いや、道草する場合でない。
廉平は、言葉も通じず、国も違って
便がないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その
苫船の中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと
毛脛[#ルビの「けずね」は底本では「げずね」]長く
藁草履で立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、
確に、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……
ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと
頤髯一面なその柔和な口を結んで、足をやや
爪立ったと思うと、両の肩で、
吃驚の腹を
揉んで、けたたましく飛び
退いて、下なる網に
躓いて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉の
顰んだ下に、
眼を
円にして
四辺を眺めた。
これなる丘と相対して、
対うなる、海の
面にむらむらと
蔓った、鼠色の濃き雲は、
彼処一座の山を包んで、まだ
霽れやらぬ
朝靄にて、もの
凄じく空に
冲って、
焔の
連って
燃るがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき
赤地へ、
仄に反映するのである。
かくて一つ目の浜は
彎入する、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船を
漕ぎ
繞る長幼二人の
裸児あるのみ。
二十三
得も言われぬ顔して、しばらく棒のごとく立っていた、廉平は何思いけん、足を
此方に返して、ずッと身を大きく
巌の上へ。
それを下りて、
渚づたい、船を
弄ぶ
小児の前へ。
近づいて見れば、
渠等が
漕ぎ廻る親船は、その
舳を波打際。
朝凪の海、
穏かに、
真砂を拾うばかりなれば、
纜も結ばず
漾わせたのに、
呑気にごろりと大の字
形、
楫を枕の
邯鄲子、太い眉の秀でたのと、鼻筋の通ったのが、
真向けざまの寝顔である。
傍の船も、
穉いものも、
惟うにこの親の子なのであろう。
廉平は、ものも言わずに
駈け
歩行いた声をまず調えようと、
打咳いたが、えへん! と大きく、調子はずれに響いたので、
襯衣の袖口の
弛んだ手で、その口許を
蔽いながら、
「おい、おい。」
寝た人には内証らしく、低調にして
小児を呼んだ。
「おい、その兄さん、そっちの
児。むむ、そうだ、お前達だ。上手に漕ぐな、
甘いものだ、感心なもんじゃな。」
声を掛けられると、
跳上って、船を
揺ること
木の葉のごとし。
「あぶない、これこれ、話がある、まあ、ちょっと静まれ。
おお、
怜悧々々、よく言うことを
肯くな。
何じゃ、外じゃないがな、どうだ余り感心したについて、もうちッと上手な処が見せてもらいたいな。
どうじゃ、ずッと漕げるか。そら、あの、そら巌のもっとさきへ、海の
真中まで漕いで
行けるか、どうじゃろうな。」
寄居虫で釣る
小鰒ほどには、こんな伯父さんに
馴染のない、人馴れぬ里の児は、目を光らすのみ、返事はしないが、
年紀上なのが、
艪の手を止めつつ、けろりで、合点の
目色をする。
「漕げる? むむ、漕げる!
豪いな、漕いで見せな/\。伯父さんが、また褒美をやるわ。
いや、
親仁、何よ、お前の
父さんか、
父爺には黙ってよ、父爺に
肯くと、危いとか
悪戯をするなとか、何とか言って叱られら。そら、な、
可いか、黙って黙って。」
というと、また
合点々々。よい、と
圧した小腕ながら艪を圧す精巧な
昆倫奴の器械のよう、シッと一声飛ぶに似たり。
疾い事、
但し揺れる事、中に乗った幼い方は、アハハアハハ、と笑って跳ねる。
「豪いぞ、豪いぞ。」
というのも
憚り、たださしまねいて褒めそやした。小船は見る見る廉平の高くあげた手の指を離れて、岩がくれにやがてただ雲をこぼれた点となンぬ。
親船は他愛がなかった。
廉平は急ぎ足に取って返して、また丘の根の巌を越して、
苫船に立寄って、
此方の
船舷を横に伝うて、二三度、同じ処を行ったり、来たり。
中ごろで、
踞んで
畚の陰にかくれたと思うと、また
突立って、端の方から苫を
撫でたり、上からそっと叩きなどしたが、更にあちこちを
して、ぐるりと
舳の方へ廻ったと思うと、向うの
舷の陰になった。
苫がばらばらと
煽ったが、「ああ」と息の下に叫ぶ声。
藁を分けた
艶なる片袖、
浅葱の
褄が船からこぼれて、その浴衣の
染、その
扱帯、その黒髪も、その手足も、ちぎれちぎれになったかと、砂に倒れた
婦人の姿。
二十四
「気を静めて、
夫人、しっかりしなければ
不可ません。落着いて、
可いですか。心を
確にお持ちなさいよ。
判りましたか、私です。
何も恥かしい事はありません、ちっとも
極りの悪いことはありませんです。しっかりなさい。
御覧なさい、誰も居ないです、ただ私一人です。鳥山たった一人、
他には誰も
居らんですから。」
海の方を
背にして安からぬ
状に附添った、廉平の足許に、見得もなく腰を落し、
裳を投げて
崩折れつつ、両袖に
面を
蔽うて、ひたと打泣くのは夫人であった。
「ほんとうに
夫人、気を落着けて下さらんでは
不可ません。
突然海へ飛込もうとなすったりなんぞして、
串戯ではない。ええ、
夫人、心が
確になったですか。」
声にばかり力を
籠めて、どうしようにも先は
婦人、ひとえに目を見据えて言うのみであった。
風そよそよと
呼吸するよう、すすりなきの
袂が揺れた。浦子は涙の声の下、
「先生、」と
幽にいう。
「はあ、はあ、」
と、
纔かに
便を得たらしく、我を忘れて擦り寄った。
「
私、私は、もう死んでしまいたいのでございます。」
わッとまた忍び
音に、
身悶えして突伏すのである。
「なぜですか、
夫人、まだ、どうかしておいでなさる、ちゃんとなさらなくッては
不可んですよ。」
「でも、
貴下、私は、もう……」
「はあ、どうなすった、どんなお心持なんですか。」
「先生、」
「はあ、どうですな。」
「私が、あの、海へ入って死のうといたしましたのより、
貴下は、もっとお驚きなさいました事がございましょう。」
「……………………」
何と言おうと、黙って
唾を
呑む。
「私が、私が、こんな処に船の中に、寝て、寝て、」
と泣いじゃくりして、
「寝かされておりましたのに、なお
吃驚なさいましてしょうねえ、貴下。」
「……ですが、それは、しかし……」とばかり、廉平は言うべき
術を知らなかった
「先生、」
これぎり、声の出ない人になろうも知れず、と手に汗を握ったのが、我を呼ばれたので、力を得て、耳を傾け、顔を寄せて、
「は、」
「ここは、どこでございます。」
「ここですか、ここは、一つ目の浜を
出端れた、崖下の
突端の処ですが、」
「もう、夜があけましたのでございますか。」
「明けたですよ。明方です、もう日が当るばかりです。」
聞くや否や、
「ええ!」とまた身を震わした。浦子はそれなり、腰を上げて立とうとして、ままならぬ身をあせって、
「恥かしい、私、恥かしいんですよ。先生、どうしましょう、人が見ます。人が来ると
不可ません、人に見られるのは
厭ですから、どうぞ死なして下さいまし、死なして下さいましよ。」
「と、ともかく。ですからな、
夫人、人が来ない内に、帰りましょう。まだ大して
人通もないですから。
疾く、さあ、疾く帰ろうではありませんか。お内へ行って、まず、お心をお鎮めなさい、そうなさい。」
浦子は
烈しく
頭を
掉った。
二十五
為ん
術を知らず黙っても、まだ
頭をふるのであるから、廉平は
茫然として、ただ
拳を握って、
「どうなさる。こうしていらしっては、それこそ、人が寄って来るか分りません。第一、捜しに出ましたのでも四人や八人ではありません。」
言いも終らず、あしずりして、
「どうしましょう、私、どうしましょうねえ。どうぞ、どうぞ、
貴下、一思いに死なして下さいまし、恥かしくっても、
死骸になれば……」
泣くのに半ば
言消えて、
「よ、後生ですから、」
も曇れる声なり。
心弱くて
叶うまじ、と廉平はやや
屹としたものいいで、
「飛んだ事を!
夫人、廉平がここに
居るです。
決して、
決して、そんな
間違はさせんですよ。」
「どうしましょうねえ、」
はッと深く
溜息つくのを、
「……………………」
ただ
咽喉を詰めて
熟と見つつ、思わず引き入れられて歎息した。
廉平は太い息して、
「まあ、
貴女、
夫人、一体どうなさった。」
「訳を、訳をいえば
貴下、黙って死なして下さいますよ。もう、もう、もう、こんな
汚わしいものは、見るのも
厭におなりなさいますよ。」
「いや、厭になるか、なりませんか、黙って見殺しにしましょうか。何しろ、訳をおっしゃって下さい。
夫人、廉平です。人にいって悪い事なら、私は
盟って申しませんです。」
この人の平生はかく盟うのに適していた。
「は、申します、先生、
貴下だけなら申します。」
「言うて下さるか、それは
難有い、むむ、さあ、承りましょう。」
「どうぞ、その、その
前に先生、どこへか、人の居ない、谷底か、山の中か、島へでも、
巌穴へでも、お連れなすって下さいまし。もう、
貴下にばかりも精一杯、誰にも見せられます
身体ではないんです。」
袖を
僅に濡れたる顔、夢見るように
恍惚と、朝ぼらけなる
酔芙蓉、色をさました涙の雨も、露に宿ってあわれである。
「人の来ない処といって、お待ちなさい、船ででもどちらへか、」
と心当りがないでもなかった。沖の方へ見え
初めて、
小児の船が
靄から出て来た。
夫人は時にあらためて、世に出たような
目ざししたが、
苫船を一目見ると、
目ぶちへ、
颯と――
蒼ざめて、
悚然としたらしく肩をすくめた、黒髪おもげに、沖の
方。
「もし、」
「は、」
「参られますなら、あすこへでも。」
いかにも人は
籠らぬらしい、
物凄じき
対岸の崖、炎を宿して
冥々たり。
「あんな、あんなその、地獄の火が燃えておりますような、あの中へ、」
「結構なんでございます、」と、また
打悄れて
面を背ける。
よくよくの事なるべし。
「参りましょうか。靄が
霽れれば、ここと向い合った
同一ような崖下でありますけれども、途中が海で切れとるですから、浜づたいに人の来る処ではありません。
御覧なさい、あの
小児の船を。大丈夫
漕ぐですから、あれに乗せてもらいましょう、どうです。」
夫人は、がッくりして
頷いた、ものを言うも切なそうに
太く疲労して見えたのである。
「
夫人、それでは。」
「はい、」
と言って礼心に、寂しい笑顔して、
吻と息。
二十六
「そんな、そんな
貴女、
詰らん、
怪しからん事があるべき
次第のものではないです。
汚れた
身体だの、人に顔は合わされんのとお言いなさるのはその事ですか。ははははは、いや、しかし飛んだ目にお
逢いでした。ちっとも御心配はないですよ。まあ、その足をお
拭きなさい。突然こんな処へ着けたですから、船を離れる時、
酷くお濡れなすったようだ。」
廉平は
砥に似て
蒼き
条のある
滑かな一座の岩の上に、海に面して見すぼらしく
踞んだ、身にただ
襯衣を
纏えるのみ。
船の中でも人目を
厭って、紺がすりのその
単衣で、肩から深く包んでいる。浦子の
蹴出しは海の色、
巌端に
蒼澄みて、
白脛も水に透くよう、倒れた風情に休らえる。
二人は
靄の薄模様。
「構わんですから、私の
衣服でお拭きなさい。
何、寒くはないです、寒いどころではないですが、貴女、
裾が濡れましたで、気味が悪いでありましょう。」
「いえ、もう潮に濡れて気味が悪いなぞと、申されます
身体ではありません。」と、投げたように岩の上。
「まだ、おっしゃる!」
「ははは、」と廉平は笑い消したが、自分にも疑いの
未だ解けぬ、
蘆の中なる
幻影を、この際なれば
気もない風で、
「夢の中を怪しいものに誘い出されて、
苫船の中で、お身体を……なんという、そんな、そんな事がありますものかな。」
「それでも私、」
と、かかる中にも夫人は顔を
赧らめた。
「覚えがあるのでございますもの。
貴下が気をつけて下すって、あの苫船の中で
漸々自分の身体になりました時も、そうでした、……まあ、お恥かしい。」
といいかけて
差俯向く、額に乱れた前髪は、歯にも
噛むべく
怨めしそう。
「ですが、ですが、それは心の迷いです。
昨日あたりからどうかなさって、お
身体の工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、」
言の下に聞き
咎め、
「西洋とおっしゃれば、
貴下は西洋の
婦人の方が、私のつかまっておりました船の中を
覗いて見て、
仔細がありそうに招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。
その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。
ですから私は、」
と早や力なげに、なよなよとするのであった。
「いや、」
と
当なしに大きく言った、が、いやな事はちっともない。どうして
発見したかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、
穉児に船を
漕がせつつ、自分が語ったは、まずその
通。
「ですけれども、何ですな。」
「いいえ」
今度は夫人から遮って、
「もう
昨日、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは
貴下、
忌わしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。
三十という年に近いこの年になりますまで、
少い折から何一つ苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事もついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。
腹の立った事さえござんせん、
余り果報な
身体ですから、
盈れば
虧くるとか申します通り、こんな恐しい目に逢いましたので。
唯今ここへ船を漕いでくれました
小児たちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが銑さん、小さい方が賢之助に
肖ておりましたのも、
皆私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。」
いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は
一層慰めかねる。
二十七
夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、
「
小児と申しても
継しい中で、それでも
姉弟とも、
真の
児とも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、
貴下が御丹精下さいましたお
庇で、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。
もう私は、こんな
身体、見るのも
厭でなりません。ぶつぶつ切って刻んでも
棄てたいように思うんですもの、ちっとも残り
惜いことはないのですが、
慾には、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、
活きながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」
と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、
熟と見て、廉平
堪りかねた
面色して、唇をわななかし、小鼻に柔和な
皺を刻んで、深く両手を
拱いたが、
噫、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、
我心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき
也と、そもさんか
菩薩。
「
夫人、どうしても、
貴女、
怪い獣に……という、
疑は解けんですか。」
「はい、お恥かしゅう存じます。」と手を
支いて、
誰にか
詫び入る、そのいじらしさ。
眼を閉じたが、しばらくして、
「恐るべきです、恐るべきだ。
夢現の
貴女には、
悪獣の
体に見えましたでありましょう。私の心は
獣でした。
夫人、
懺悔をします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、
四脚の獣ではない、獣のような人間じゃ。
私です。
鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その
襯衣ばかりの
頸を垂れた。
夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに
右視左瞻つつ、
背に乱れた
千筋の黒髪、解くべき
術もないのであった。
「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、
貴女に接したのが因果です。賢君に対して
殆んど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。
未だ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。
なかなか
以て、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。
けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお
傍を離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。
五年勤労に
酬いるのに、何か記念の品をと望まれて、
悟も徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。
今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。
廉平は魔法づかいじゃ。」
と石上に
跣坐したその
容貌、その
風采、或はしかあるべく見えるのであった。
夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。
「
貴女も、
昨日、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものに
憑かれたとおっしゃった。……
すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、
夢現の
境に乗じて、その
妄執を晴しました。
けれども余りに
痛しい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお
身体を、砕いて切っても
棄てたいような
御容子が、余りお
可哀相で見ておられん。
夫人、真の獣よりまだこの廉平と、
思し召す方が、いくらかお心が済むですか。」
夫人はせいせい息を切った。
二十八
「どうですか、余り
推つけがましい
申分ではありますが、心はおなじ畜生でも、いくらか人間の顔に似た、口を利く、手足のある、廉平の方が
可いですか。」
口へ出すとよりは声をのんで、
「
貴下、」
「…………」
「貴下、」
「…………」
「貴下、ほんとうでございますか。」
「勿論、
懺悔したのじゃで。」
と、眉を開いてきっぱりという。
膝でじりりとすり寄って、
「ええ、嬉しい。貴下、よくおっしゃって下さいました。」
としっかと膝に手をかけて、わッとまた泣きしずむ。廉平は我ながら、
訝しいまで胸がせまった。
「私と言われて、お喜びになりますほど、それほどの
思をなさったですか。」
「いいえ、もう、何ともたとえようはござんせん。死んでも
死骸が残ります、その獣の
爪のあと舌のあとのあります、毛だらけな
膚が残るのですもの。焼きましても
狐狸の悪い
臭がしましょうかと、心残りがしましたのに、
貴下、よく、思い切ってそうおっしゃって下さいました。快よく死なれます、死なれるんでございますよ。」
「はてさて、」
「………………」
「じゃ、やっぱり、死ぬのを思い止まっちゃ下さらん。」
顔を見合わせ、
打頷き、
「むむ、成程、」
と腕を解いて、廉平は
従容として居直った。
「成程、そうじゃ。
貴女ほどのお方が、かかる恥辱をお受けなさって、夢にして、ながらえておいでなさる
筈ではないのじゃった。
懺悔をいたせば、悪い夢とあきらめて、思い直して頂けることもあろうかと思ったですが、いかにも取返しのつかんお
身体にしたのじゃった、恥入ります。
夫人、貴女ばかりは殺しはせんのじゃ。」
「いいえ、飛んだことをおっしゃいます。殿方には何でもないのでございますもの、そして懺悔には罪が消えますと申します、お
怨みには思いません。」
「許して下さるか。」
「女の口から
行き過ぎではございますが、」
「許して下さる。」
「はい、」
「それではどうぞ、思い直して、」
「私はもう、」
と
衝と
前褄を引寄せる。岩の下を
掻いくぐって、下の根のうつろを打って、絶えず、
丁々と鼓の音の響いたのが、潮や満ち来る、どッと
烈しく、ざぶり砕けた波がしら、
白滝を
倒に、
颯とばかり雪を崩して、浦子の肩から、
頭から。
「あ、」と不意に
呼吸を引いた。濡れしおたれた黒髪に、玉のつらなる
雫をかくれば、
南無三浪に
攫わるる、と
背を抱くのに身を
恁せて、観念した
顔の、気高きまでに
莞爾として、
「ああ、こうやって一思いに。」
「
夫人、おくれはせんですよ。」と、顔につららを注いで言った。打返しがまたざっと。
「
※[#「さんずい+散」、261-9]がかかる、※
[#「さんずい+散」、261-9]がかかる、危いぞ。」
と、空から高く
呼わる声。
靄が分れて、
海面に
兀として
聳え立った、
巌つづきの見上ぐる上。草蒸す頂に人ありて、目の下に声を懸けた、
樵夫と覚しき
一個の
親仁。
面長く髪の白きが、草色の
針目衣に、
朽葉色の
裁着穿いて、
草鞋を
爪反りや、
巌端にちょこなんと
平胡坐かいてぞいたりける。
その岩の
面にひたとあてて、両手でごしごし一
挺の、きらめく刃物を悠々と
磨いでいたり。
磨ぎつつ、
覗くように
瞰下して、
「上へ来さっしゃい、上へ来さっしゃい、浪に引かれると危いわ。」
という。浪は水晶の柱のごとく、
倒にほとばしって、今つッ立った廉平の頭上を飛んで、空ざまに
攀ずること十丈、親仁の手許の磨ぎ汁を
一洗滌、白き
牡丹の散るごとく、
巌角に飜って、
海面へざっと引く。
「おじご、何を、何をしてござるのか。」と、廉平はわざと落着いて、下からまず声を送った。
「
石鑿を研ぐよ。二つ目の浜の石屋に頼まれての、今度建立さっしゃるという、地蔵様の石を削るわ。」
「や、
親仁御がな。」
「おお、
此方衆はその註文のぬしじゃろ。そうかの。はて、道理こそ、
婆々どもが附き
纏うぞ。」
婆々と云うよ、
生死を知らぬ夫人の耳に、鋭くその鑿をもって
抉るがごとく響いたので、
「もし、」と両膝をついて伸び上った。
「
婆とお云いなさいますのは。」
「それ、銀目と、金目と、赤い目の
奴等よ。
主達が功徳での、地蔵様が建ったが最後じゃ。魔物め、
居処がなくなるじゃで、さまざまに
祟りおって、命まで取ろうとするわ。
女子衆、心配さっしゃんな、
身体は清いぞ。」
とて、
鑿をこつこつ。
「何様それじゃ、
昨日から、時々黒雲の
湧くように、我等の身体を包みました。婆というは、何ものでござるじゃろう。」と、廉平は
揖しながら、手を
翳して仰いで言った。
皺手に
呼吸をハッとかけ、斜めに
丁と鑿を押えて、目一杯に海を望み、
「三千世界じゃ、何でも居ようさ。」
「どこに、あの、どこに居ますのでございますえ。」
「それそれそこに、それ、主たちの廻りによ。」
「あれえ、」
「およそ
其奴等がなす業じゃ。夜一夜踊りおって
[#「踊りおって」は底本では「踊りおつて」]騒々しいわ、畜生ども、」
とハタと見るや、うしろの山に影大きく、
眼の光
爛々として、知るこれ天宮の一将星。
「動くな!」
と
喝する下に、どぶり、どぶり、どぶり、と浪よ、浪よ、浪よ
渦くよ。
同時に、
衝とその片手を挙げた、
掌の宝刀、稲妻の走るがごとく、射て海に
入るぞと見えし。
矢よりも
疾く
漕寄せた、同じ
童が
艪を押して、より幼き他の
児と、親船に寝た
以前の船頭、三体ともに船に
在り。
斜めに高く底見ゆるまで、傾いた
舷から、二
人半身を乗り
出して、うつむけに海を
覗くと思うと、
鉄の
腕、
蕨の手、二条の柄がすっくと空、
穂尖を
短に、一斉に
三叉の
戟を構えた瞬間、畳およそ百余畳、海一面に
鮮血。
見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。
青嵐する波の
彼方に、
荘厳なること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。
怪しきものの血潮は消えて、音するばかり
旭の影。波を渡るか、宙を
行くか、白き
鵞鳥の
片翼、朝風に傾く帆かげや、
白衣、
水紅色、
水浅葱、ちらちらと波に漏れて、夫人と廉平が
彳める、岩山の根の
巌に近く、忘るるばかりに漕ぐ
蒼空。
魚あり、一尾
舷に飛んで、
鱗の色、あたかも雪。
==篇中の妖婆の言葉(がぎぐげご)は凡て、半濁音にてお読み取り下されたく候==
明治三十八(一九〇五)年十二月