悪獣篇

泉鏡花




       一

 つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑太郎せんたろうは、取附とッつきに山門の峨々ががそびえた。巨刹おおでらの石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。
 門の柱に、毎月まいげつ十五十六日当山説教と貼紙はりがみした、かたわらに、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。すかして見ると、灰色の浪を、斜めに森のなかにかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳穴いわあなの趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎてた、浴衣、襯衣しゃつ上衣うわぎなど、ちらちらとなぎさに似て、黒く深く、背後うしろの山までなかくぼになったのは本堂であろう。輪にして段々にともしたろうの灯が、黄色に燃えて描いたよう。
 向う側は、袖垣そでがき枝折戸しおりど、夏草の茂きが中に早咲はやざきの秋の花。いずれも此方こなたを背戸にして別荘だちが二三軒、ひさし海原うなばらの緑をかけて、すだれに沖の船を縫わせたこしらえ。刎釣瓶はねつるべの竹も動かず、蚊遣かやりの煙のなびくもなき、夏のさかりの午後四時ごろ。浜辺は煮えてにぎやかに、町は寂しい樹蔭こかげの細道、たらたらざかを下りて来た、前途ゆくては石垣から折曲る、しばらくここにくぼんだ処、ちょうどその寺の苔蒸こけむした青黒い段の下、小溝こみぞがあって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、やぶは自然の寺の垣。
 ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋わらじ、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根はかやぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾秋いくあきの月やし、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、あやう掘立ほったての、柱々、放ればなれに傾いているのを、かれは何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄った[#「寄った」は底本では「寄つた」]のである。
「昔……昔、浦島は、小児こどもとらえし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、すさむともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小児等こどもらの唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。
 銑太郎は、ふと手にした巻莨まきたばこに心着いて、唄をやめた。
早附木マッチを買いに入ったのかな。」
 うっかりして立ったのが、小店こみせかたに目を注いで、
「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、うなずいて独言ひとりごと
 別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。
一日あるひ大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――」
 帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方こなたの袖に隠れるので、みち対方むこうへ。別荘の袖垣から、ななめに坂の方を透かして見ると、つれの浴衣は、その、ほの暗い小店にえんなり。
「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」
 と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。
「店ぐるみ総じまいにして、一箇ひとつ々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」
 とつぶやくうちに真面目まじめになった、銑太郎は我ながら、
串戯じょうだんじゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」

       二

 とは思ったが、歴々ありあり彼処かしこに、何の異状なくたたずんだのが見えるから、憂慮きづかうにも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間まっぴるま。見える処につれを置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦人おんなではあるし、と思う。
 今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨まきたばこを手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方そなたを。
 なんとなくぼんやりして、ああ、家も、みちも、寺も、竹藪たけやぶを漏る蒼空あおぞらながら、つちの底の世にもなりはせずや、つれは浴衣の染色そめいろも、浅き紫陽花あじさいの花になって、小溝こみぞやみおもかげのみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦人おんなは軒を離れて出た。
 小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖つまさき白く、濃い黒髪のふさやかな双のびんづら浅葱あさぎひもに結び果てず、海水帽を絞ってかぶった、ゆたかほおつややかになびいて、色の白いが薄化粧。水色縮緬みずいろちりめん蹴出けだしつま、はらはらはちすつぼみさばいて、素足ながら清らかに、草履ばきのほこりも立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。
「叔母さん、」
 と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、もゆるような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花ゆらぐよう。黒目勝くろめがちすずしやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月いつかづき青柳あおやぎの影やや深き趣あり。浦子というは二十七。
 豪商狭島さじまの令室で、銑太郎には叔母に当る。
 この路を去る十二三町、停車場よりの海岸に、石垣高く松をめぐらし、廊下でつないで三棟みむねに分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身上しんしょう
 もすそいとう砂ならば路に黄金こがねを敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえばからめかで、羽衣着たりと持てはやすを、白襟で襲衣かさねの折から、うすものあやの帯の時、湯上りの白粉おしろい扱帯しごきは何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦ととなえつびょう、リボンかけたる、こうがいしたる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女たおやめ
 帽子のうちの日の蔭に、長いまつげのせいならず、おいを見た目にさえがなく、顔の色も薄く曇って、
「銑さん。」
 とばかり云った、浴衣の胸は呼吸いきぜわしい。
「どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃驚びっくりするほど長かった。」
 打見うちみに何の仔細しさいはなきが、物怖ものおじしたらしい叔母のさまを、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、なさけらしくじっと見て、
「まあ、呑気のんきらしい、早附木マッチを取って上げたんじゃありませんか。」
 はじめて、ほッとした様子。
「頂戴! いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。僕もそうだろうと思ったんです。」
「そうだろうじゃありませんわ。」
「じゃ、早附木ではないんですか。」

       三

「いいえ、銑さんが煙草たばこを出すと、早附木マッチがないから、打棄うっちゃっておくと、またいつものように、煙草には思いりがない、監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、ちょうど、あの店で、」
 と身を横に、かかとを浮かして、こわいもののように振返って、
「見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、おかげで大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。」
 とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。
「何が、叔母さん。この日中ひなかに何が恐いんです。大方また毛虫でしょう、大丈夫、毛虫は追駈おっかけては来ませんから。」
「毛虫どころじゃアありません。」
 と浦子はうしろ見らるるさま。声も低う、
「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」
「ざッと一時間……」
 半分は懸直かけねだったのに、夫人はかえってさもありそうに、
「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」
「なぜ、どうしたんですね、一体。」
「まあ、そろそろ歩行あるきましょう。何だか気草臥きくたびれでもしたようで、頭も脚もふらふらします。」
 歩を移すのに引添うて、身体からだかばうがごとくにしつつ、
「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」
「そうでしょう、悚然ぞっとして、いまだに寒気がしますもの。」
 と肩をすぼめて俯向うつむいた、海水帽も前下り、うなじ白くしおれて連立つ。
 少年は顔を斜めに、近々と帽の中。
「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」
 これには答えず、やや石段の前を通った。
 しばらくして、
「銑さん、」
「ええ、」
帰途かえりに、またここを通るんですか。」
「通りますよ。」
「どうしても通らねば不可いけませんかねえ、どこぞほかに路がないんでしょうか。」
「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、岐路わかれみちといっては背後うしろの山へくよりほかにはないんですが、」
「困りましたねえ。」
 と、つくづく云う。
「何ね、時刻に因って、しおの干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」
「船はありますか。」
「そうですね、渡船わたしぶねッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」
「そうね。」
「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、ぐことは僕にも漕げます。僕じゃ危険けんのんだというでしょう。」
なんでもうござんすから、銑さん、貴郎あなた、どうにかして下さい。私はもう帰途かえりにあの店の前を通りたくないんです。」
 とまた俯向うつむいたが恐々こわごわらしい。
「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑ほほえみながら。

       四

「もう聞えやしますまいね。」
 とはばかる所あるらしく、声もこの時なお低い。
「何が、どこで、叔母さん。」
「あすこまで、」
「ああ! 汚店きたなみせへ、」
「大きな声をなさんなよ。」と吃驚びっくりしたようにあわただしく、ひとみを据えて、そっという。
「何が聞えるもんですか。」
「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木マッチを買いに入ると、誰も居ないのよ。」
「へい?」
「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、取附とッつきの三段の古棚のうしろのね、物置みたいな暗い中から、――藻屑もくずいたかと思う、汚い服装なりの、小さなばあさんがね、よぼよぼと出て来たんです。
 髪の毛が真白まっしろでね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割にはしわがないの、……顔に。……身体からだせて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。
 天窓あたまでものを見るてッたように、白髪しらがを振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらをうようにして店へ来るじゃありませんか。
 早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔をながめてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。
 お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、じっと視めていたッけがね。
 その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向うつむくと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、てのひらが大きいの。
 それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々かたかた人指ひとさしゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。
 聞えないと云うのかね、そんならうござんす。私は何だか一目見ると、いやな心持がしたんですからね、買わずといから、そのまま店を出ようと思うと、またそうかなくなりましたわ。
 弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔のそばへ横向けに差しつけたんです。
 ぷんとにおったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油おしたじの焦げるような、厭なにおいよ。」
「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年もひそんだのである。
「早附木を下さい。
(はあ?)
(早附木よ、お婆さん。)
(はあ?)
 はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。
(早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。
 ただもうげ出したくッてね、そこいら※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすけれど、貴下あなたの姿も見えなかったんですもの。
 はあ、長い間よ。
 それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして合点がってん々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。
 そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、と出よう、とすると、しっかりこの、」
 と片手を下に、そでをかさねたたもとゆすったが、気味悪そうに、胸をかわしてそっと払い、
「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」
「かさねがさね、成程、はあ、それから、」

       五

「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。
 何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりをるから、大方、剰銭つり寄越よこそうというんでしょうと思って、留りますとね。
 やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、さしから穴のあいたのを一つ一つ。
 それがまたしばらくなの。
 私の手を引張るようにして、てのひられました。
 ひやりとしたけれど、そればかりならかったのに。
御新姐様ごしんぞさまや)」
 と浦子の声、異様に震えて聞えたので、
「ええ、そのばばが、」
「あれ、銑さん、聞えますよ。」と、一歩ひとあしいそがわしく、ぴったり寄添う。
「その婆が、云ったんですか。」
 夫人はまた吐息をついた。
ばあさんがね、ああ。」
(御新姐様や、御身おみア、すいたらしい人じゃでの、安く、なかまの値で進ぜるぞい。)ッて、皺枯しわがれた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。
 そして、すいたらしいッてね、私の手首をじっと握って、真黄色まっきいろな、ひらったい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。
 その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。そして目がね、黄金目きんめなんです。
 光ったわ! 貴郎あなた
 キラキラと、そのすごかった事。」
 とばかりで重そうなつむりを上げて、にわかに黒雲や起ると思う、憂慮きづかわしげに仰いでながめた。空ざまに目も恍惚うっとりひもゆわえたおとがいの震うが見えたり。
「心持でしょう。」
「いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと思うくらいでしたよ。あかりに近いと、赤くほてるような気がするのと同一おんなじに。
 もう私、二条ふたすじ針を刺されたように、背中の両方から悚然ぞっとして、足もふらふらになりました。
 夢中で二三げんけ出すとね、ちゃらんと音がしたので、またハッと思いましたよ。おあしを落したのが先方さきへ聞えやしまいかと思って。
 何でも一大事のように返した剰銭つりなんですもの、落したのを知っては追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、どうした婆さんでしょうねえ。」
 されば叔母上ののたまうごとし。年紀とし七十ななそじあまりの、髪の真白まっしろな、顔のひらたい、年紀の割にしわの少い、色の黄な、耳の遠い、身体からだにおう、骨の軟かそうな、挙動ふるまいのくなくなした、なおそのことばに従えば、金色こんじきに目の光るおうなとより、銑太郎は他に答うるすべを知らなかった。
 ただその、早附木マッチ一つ買い取るのに、半時ばかりった仔細しさいが知れて、うたがいはさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど一向な暢気のんき
「早附木は? 叔母さん。」と魅せられたものの背中を一つ、トンと打つようなのを唐突だしぬけに言った。
「ああ、そうでした。」
 と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左のたもとの下に包んだままで、撫肩なでがたゆきをなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、ひたひたとしおれて、片袖しるく、悚然ぞっとしたのがそのままである。大事なことを見るがごとく、そっとはずすと、銑太郎ものぞくように目を注いだ。
「おや!」
「…………」

       六

 黒の唐繻子とうじゅすと、薄鼠うすねずみに納戸がかった絹ちぢみに宝づくしのしぼりの入った、腹合せの帯を漏れた、水紅色ときいろ扱帯しごきにのせて、美しき手は芙蓉ふよう花片はなびら、風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた指環ゆびわほかに、早附木マッチらしいものの形も無い。
 視詰みつめて、夫人は、
「…………」ものもいわぬのである。
「ああ、剰銭つりと一所に遺失おとしたんだ。叔母さんどの辺?」
 と気早きばやに向き返ってこうとする。
「お待ちなさいよ。」
 と遮って上げた手の、仔細しさいなく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、見直して呼吸いきをついて、
「銑さん、おしなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、お止しなさい。」
 とさも一生懸命。おさえぬばかりに引留めて、
「あんなものは、今頃何にっているか分りませんよ、よう、ですから、銑さん。」
「じゃ止します、止しますがね。」
 少年は余りの事に、
「ははははは、何だか妖物ばけものででもあるようだ。」と半ばつぶやいて、また笑った。
「私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思われないけれど。」
「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天窓あたま歩行あるきそうにする処から、黄色くうね[#「亠/(田+久)」、200-7]った処なんぞ、何の事はないばばの毛虫だ。毛虫のばあさんです。」
いやですことねえ。」と身ぶるいする。
「何もそんなに、気味を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に手を握られたのと、もしか樹の上から、」
 と上を見る。やぶは尽きて高い石垣、えのきが空にかぶさって、浴衣に薄き日の光、二人は月夜をく姿。
「ぽたりと落ちて、毛虫が頸筋くびすじへ入ったとすると、叔母さん、どっちが厭な心持だと思います。」
「沢山よ、銑さん、私はもう、」
「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」
「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」
「そら御覧なさい。」
 説き得てしと思えるさまして、
「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎをるけれど、気味の悪い、厭な感じ。」
 感じ、と声に力を入れて、
「感じというと、何だか先生の仮声こわいろのようですね。」
「気楽なことをおっしゃいよ!」
「だって、そうじゃありませんか、その気味の悪い、厭な感じ、」
「でも先生は、工合ぐあいいとか、妙なとか、おもしろい感じッて事は、お言いなさるけれど、気味の悪いだの、厭な感じだのッて、そんな事は、めったにお言いなさることはありません。」
「しかしですね、つまらない婆を見て、震えるほどこわがった、叔母さんのふうッたら……工合のい、妙な、おもしろい感じがする、と言ったら、叔母さんは怒るでしょう。」
当然あたりまえですわ、貴郎あなた。」
「だからこの場合ですもの。やっぱり厭な感じだ。その気味の悪い感じというのが、毛虫とおなじぐらいだと思ったらどうです。別に不思議なことは無いじゃありませんか。毛虫は気味が悪い、けれどもあやしいものでも何でもない。」
「そう言えばそうですけれど、だって婆さんの、その目が、ねえ。」
「毛虫にだって、にらまれて御覧なさい。」
「もじゃもじゃと白髪しらがが、貴郎。」
「毛虫というくらいです、もじゃもじゃどころなもんですか、沢山毛がある。」
「まあ、貴下あなたの言うことは、蝸牛でんでんむしの狂言のようだよ。」と寂しく笑ったが、
「あれ、」
 寺でカンカンとかねを鳴らした。
「ああ、この路の長かったこと。」

       七

 釣棹つりざおを、ト肩にかけた、処士あり。年紀としのころ三十四五。五分刈ごぶがりのなだらかなるが、小鬢こびんさきへ少しげた、額の広い、目のやさしい、眉の太い、引緊ひきしまった口の、やや大きいのも凜々りりしいが、頬肉ほおじしが厚く、小鼻にましげなしわ深く、下頤したあごから耳の根へ、べたりとひげのあとの黒いのも柔和である。白地にあい縦縞たてじまの、ちぢみ襯衣しゃつを着て、襟のこはぜも見えそうに、衣紋えもんゆる紺絣こんがすり、二三度水へ入ったろう、色は薄くも透いたが、糊沢山のりだくさんの折目高。
 薩摩下駄さつまげた小倉こくら、太いしっかりしたおやゆびで、まむしこしらえねばならぬほど、ゆるいばかりか、ゆがんだのは、水に対して石の上に、これを台にしていたのであった。
 時に、釣れましたか、獲物を入れて、片手にひっさぐべきびくは、十八九の少年の、洋服を着たのが、代りに持って、連立って、海からそよそよと吹く風に、山へ、さらさらと、あしの葉の青く揃って、二尺ばかりなびく方へ、岸づたいに夕日をせな。峰を離れて、一刷ひとはけの薄雲をいでて玉のごとき、月に向って帰途かえりみち、ぶらりぶらりということは、この人よりぞはじまりける。
「賢君、君の山越えの企ては、大層帰りが早かったですな。」
 少年は莞爾にこやかに、
「それでも一抱えほど山百合を折って来ました。帰って御覧なさい、そりゃ綺麗きれいです。母の部屋へも、先生の床の間へも、ちゃんとけるように言って来ました。」
「はあ、それは難有ありがたい。朝なんざがけく雲の中にちらちら燃えるようなのが見えて、もみじに朝霧がかかったという工合でいて、何となく高峰たかねの花という感じがしたのに、賢君の丹精で、机の上に活かったのは感謝する。
 早く行って拝見しよう、……が、また誰か、台所の方で、私の帰るのを待っているものはなかったですか。」
 と小鼻の左右の線を深く、微笑を含んで少年を。
 顔を見合わせて此方こなたも笑い、
「はははは、松が大層待っていました。先生のおさかなを頂こうと思って、お午飯ひるも控えたって言っていましたっけ。」
「それだ。なかなか人が悪い。」広い額に手を加える。
「それに、母も、先生。お土産を楽しみにして、お腹をすかして帰るからって、言づけをしたそうです。」
益々ますます恐縮。はあ、で、奥さんはどこかへお出かけで。」
「銑さんが一所だそうです。」
「そうすると、そのつれの人も、同じく土産を待つ方なんだ。」
「勿論です。今日ばかりは途中で叔母さんに何にも強請ねだらない。犬川で帰って来て、先生の御馳走ごちそうになるんですって。」
 とまた顔を見る。
 この時、先生愕然がくぜんとしてうなじをすくめた。
「あかぬ! 包囲攻撃じゃ、恐るべきだね。就中なかんずく、銑太郎などは、自分釣棹をねだって、貴郎あなたが何です、と一言のもと叔母御おばごに拒絶されたうらみがあるから、そのたたり容易ならずと可知矣しるべし。」
 と蘆の葉ずれに棹を垂れて、思わず観念のまなこふさげば、少年は気の毒そうに、
「先生、買っていらっしゃい。」
「買う?」
「だって一ぴきも居ないんですもの。」
 と今更ながらびくのぞくと、つめたいそにおいがして、ざらざらと隅に固まるものあり、方丈記にいわく、ごうなは小さき貝を好む。

       八

 先生は見ざる真似まねして、少年が手に傾けたくだんびくを横目に、
生憎あいにく沙魚はぜ海津かいづ小鮒こぶななどを商う魚屋がなくって困る。奥さんは何も知らず、銑太郎なお欺くべしじゃが、あの、お松というのが、また悪く下情かじょうに通じておって、ごうなや川蝦かわえびで、あじやおぼこの釣れないことは心得ておるから。これで魚屋へ寄るのは、落語の権助が川狩の土産に、過って蒲鉾かまぼこと目刺を買ったより一層の愚じゃ。
 特にえさの中でも、御馳走の川蝦は、あの松がしんせつに、そこらですくって来てくれたんで、それをちぎって釣る時分は、浮木うきが水面に届くか届かぬに、ちょろり、かいずさらってしまう。
 大切な蝦五つ、瞬く間にしてやられて、ごうなになると、糸も動かさないなどは、誠に恥入るです。
 私は賢君が知っとる通り、ただ釣という事におもしろい感じを持ってるのじゃで、釣れようが釣れまいが、トンとそんな事に頓着とんちゃくはない。
 次第に因ったら、針もつけず、餌なしに試みていのじゃけれど、それでは余り賢人めかすようで、気咎きとがめがするから、成るべく餌も附着くッつけて釣る。獲物の有無ありなしでおもしろ味にかわりはないで、またこの空畚からびくをぶらさげて、あしの中を釣棹つりざおを担いだ処も、工合のい感じがするのじゃがね。
 その様子では、諸君に対して、とてもこのまま、棹をっては[#「っては」は底本では「つては」]帰られん。
 釣を試みたいと云うと、奥様が過分な道具を調えて下すった。この七本竹の継棹つぎざおなんぞ、私には勿体もったいないと思うたが、こういう時は役に立つ。
 一つ畳み込んで懐中ふところへ入れるとしよう、賢君、ちょっとそこへ休もうではないか。」
 と月を見て立停たちどまった、山のすそに小川を控えて、蘆が吐き出した茶店が一軒。薄い煙に包まれて、茶は沸いていそうだけれど、葦簀張よしずばりがぼんやりして、かかる天気に、何事ぞ、雨露に朽ちたりな。
いじゃありませんか、先生、畚は僕が持っていますから、松なんぞ愚図々々ぐずぐず言ったら、ぶッつけてやります。」
 無二の味方で頼母たのもしく慰めた。
「いやまた、こう辟易へきえきして、棹を畳んで、懐中ふところしまい込んで、煙管筒きせるづつを忘れた、という顔で帰る処もおもしろい感じがするで。
 それに咽喉のども乾いた、茶を一つ飲みましょう。まず休んで、」
 と三足みあしばかり、路を横へ、茶店の前の、一間ばかり蘆が左右へ分れていた、根が白く濡地ぬれちが透いて見えて、ぶくぶくとかにの穴、うたかたのあわれを吹いて、あかねがさして、日はいまだ高いが虫の声、ぐように、ギイ、ギッチョッ、チョ。
「さあ、お掛け。」
 と少年を、自分の床几しょうぎわきらせて、先生は乾くと言った、その唇をでながら、
「茶を一つ下さらんか。」
 暗い中から白い服装なり、麻の葉いろの巻つけ帯で、草履の音、ひた――ひた、と客を見て早や用意をしたか、蟋蟀きりぎりすかじった塗盆ぬりぼんに、朝顔茶碗の亀裂ひびだらけ、茶渋でびたのを二つのせて、
「あがりまし、」
 と据えて出し、腰をかがめたおうなを見よ。一筋ごとに美しくくしの歯を入れたように、毛筋がとおって、生際はえぎわの揃った、柔かな、茶にややかばを帯びた髪の色。黒き毛、白髪しらがちりばかりをもまじえぬを、切髪きりかみにプツリと下げた、色の白い、つやのある、細面ほそおもておとがいとがって、鼻筋のと通った、どこかに気高い処のある、年紀としが目も同一おなじ……である。

       九

渺々乎びょうびょうことして、あしじゃ。お婆さん、いい景色だね。二三度来て見た処ぢゃけれど、この店の工合がいせいか、今日は格別に広く感じる。
 この海のほかに、またこんな海があろうとは思えんくらいじゃ。」
 とうなずくように茶を一口。茶碗にかかるほど、襯衣しゃつの袖のふくらかなので、掻抱かいいだていに茶碗を持って。
 少年はうしろむきに、山をながめて、おつきあいという顔色かおつき。先生の影二尺を隔てず、窮屈そうにただもじもじ。
 おうなは威儀正しく、ひざのあたりまで手を垂れて、
「はい、申されまする通り、世がまだ開けませぬ泥沼の時のような蘆原あしはらでござるわや。
 この川沿かわぞいは、どこもかしこも、蘆が生えてあるなれど、わし小家こいえのまわりには、またいこう茂ってござる。
 秋にもなって見やしゃりませ。丈が高う、穂が伸びて、小屋は屋根に包まれる、山の懐も隠れるけに、月も葉の中からさされて、かにが茎へあがっての、岡沙魚おかはぜというものが根の処で跳ねるわや、いで入る船の艪櫂ろかいの音も、水の底に陰気に聞えて、寂しくなるがの。その時稲が実るでござって、お日和ひよりじゃ、今年は、作も豊年そうにござります。
 もう、このように老い朽ちて、あとを頂く御菩薩ごぼさつの粒も、五つ七つと、かぞえるようになったれども、しょうあるものは浅間あさましゅうての、蘆の茂るを見るにつけても、稲の太るが嬉しゅうてなりませぬ、はい、はい。」
 と細いが聞くものの耳に響く、とおる声で言いながら、どこをどうしたら笑えよう、辛き浮世の汐風しおかぜに、つめたく大理石になったような、その仏造った顔に、寂しげに莞爾にっこり笑った。鉄漿かねを含んだ歯が揃って、貝のように美しい。それとなお目についたは、顔の色の白いのに、その眠ったようなほそい目の、くれないの糸、と見るばかり、赤く線を引いていたのである。
「成程、はあ、いかにも、」
 と言ったばかり、嫗のことばは、この景に対するものをして、約半時の間、未来の秋を想像せしむるに余りあって、先生は手なる茶碗を下にもかず、しばらく蘆を見て、やがてその穂の人の丈よりも高かるべきを思い、白泡のずぶずぶと、濡土ぬれつちつぶやく蟹の、やがてさらさらと穂にじて、はさみに月を招くやなど、茫然ぼうぜんとしてながめたのであった。
 蘆の中に路があって、さらさらと葉ずれの音、葦簀よしずの外へまた一人、黒いきものの嫗が出て来た。
 茶色の帯を前結び、肩の幅広く、身もやや肥えて、髪はまだ黒かったが、薄さはすじを揃えたばかり。生際はえぎわが抜け上ってつむりの半ばから引詰ひッつめた、ぼんのくどにて小さなおばこに、かいの形のこうがいさした、片頬かたほせて、片頬かたほふとく、目も鼻も口もあごも、いびつなりゆがんだが、肩も横に、胸も横に、腰骨のあたりも横に、だるそうに手を組んだ、これで釣合いを取るのであろう。ただそのままでは根から崩れて、海の方へ横倒れにならねばならぬ。
 肩と首とで、うそうそと、斜めに小屋を差覗さしのぞいて、
「ござるかいの、お婆さん。」
 と、片頬夕日にまぶしそう、ふくれた片頬は色の悪さ、あおざめてあいのよう、銀色のどろりとした目、またたきをしながら呼んだ。
 駄菓子の箱を並べた台の、陰に入ってしゃがんで居た、此方こなたおうなが顔を出して、
ぬしか。やれもやれも、お達者でござるわや。」
 と、ぬいとつと、その紅糸べにいとの目が動く。

       十

 来たのが口もあけず、咽喉のどでものを云うように、顔もじっと傾いたるまま、
ぬしもそくさいでめでたいぞいの。」
「お天気模様でござるわや。暑さにはあえぎ、寒さには悩み、のう、時候よければかわずのように、くらしの蛇に追われるに、この年になるまでも、甘露の日和ひよりと聞くけれども、甘い露は飲まぬわよ、ほほほ、」
 と薄笑いした、また歯が黒い。
「おいの、さればいの、おたがいいさごの数ほど苦しみのたねは尽きぬ事いの。やれもやれも、」と言いながら、斜めに立った[#「立った」は底本では「立つた」]ひさしの下、何をのぞくか爪立つまだつがごとくにして、しかも肩腰は造りつけたもののよう、動かざること如朽木くちきのごとし
「若いしゅ愚痴ぐちより年よりの愚痴じゃ、聞く人もうるさかろ、かっしゃれ、ほほほ。のう、お婆さん。主はさてどこへ何を志して出てござった、山かいの、川かいの。」
「いんにゃの、恐しゅう歯がうずいて、きりきりのみえぐるようじゃ、と苦しむ者があるによって、わしがまじのうて進じょうと、浜へ※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)えいの針掘りに出たらばよ、猟師どもの風説うわさを聞かっしゃれ。志す人があって、この川ぞいの三股みつまたへ、石地蔵が建つというわいの。」
 それを聞いて、フト振向いた少年の顔を、ぎろりと、その銀色の目で流眄しりめにかけたが、取って十八の学生は、何事も考えなかった。
「や、風説うわさきかぬでもなかったが、それはまことでござるかいの。」
「おいのおいの、こんな難有ありがたい奇特なことを、うっかり聞いてござる年紀としではあるまいがや、ややお婆さん。
 主は気が長いで、大方何じゃろうぞいの、地蔵様開眼かいげんが済んでから、つえ突張つッぱって参らしゃます心じゃろが、お互に年紀じゃぞや。今の時世ときよに、またとない結縁けちえんじゃに因って、半日も早うのう、その難有ありがたい人のお姿拝もうと思うての、やらやっと重たい腰を引立ひったてて出て来たことよ。」
 紅糸べにいとの目はまた揺れて、
「奇特にござるわや。さて、その難有ありがたい人は誰でござる。」
「はて、それを知らしゃらぬ。主としたものは何ということぞいの。
 このさきの浜際に、さるの、大長者おおちょうじゃどのの、お別荘がござるてよ。その長者の奥様じゃわいの。」
「それが御建立なされるかよ。」
「おいの、いんにゃいの、建てさっしゃるはその奥様に違いないが、発願ほつがんした篤志こころざしの方はまた別にあるといの。
 聞かっしゃれ。
 その奥様は、世にも珍らしい、三十二相そろわしった美しい方じゃとの、はだがあたたかじゃに因って人間よ、冷たければ天女じゃ、と皆いうのじゃがの、その長者どのの後妻うわなりじゃ、うわなりでいさっしゃる。
 よってその長者どのとは、三十の上も年紀が違うて、男のが一人ござって、それが今年十八じゃ。
 奥様は、それ、継母ままははいの。
 気立きだてのやさしい、膚も心も美しい人じゃによって、継母継児ままこというようなものではなけれども、なさぬなかの事なれば、万に一つも過失あやまちのないように、とその十四の春ごろから、おこないの正しい、学のある先生様を、内へ頼みきりにしてそばへつけておかしゃった。」
 二人は正にそれなのである。

       十一

「よいかの、十四の年からこの年まで、四五六七八と五年の間、寝るにもおきるにも附添うて、しんせつにお教えなすった、その先生様のたんせいというものは、一通ひととおりの事ではなかったとの。
 そのかいがあってこの夏はの、そのお子がさる立派な学校へ入らっしゃるようになったに就いて、先生様はやしきを出て、自分の身体からだになりたいといわっしゃる。
 それまで受けた恩があれば、お客分にして一生置き申そうということなれど、宗旨々々のお祖師様でも、きたい処へ行かっしゃる。無理やりに留めますことも出来んでのう。」
「ほんにの、お婆さん。」
「今度いよいよ長者どのの邸を出さっしゃるに就いて、長い間御恩になった、そのお礼心というのじゃよ。何ぞ早や、しるしに残るものを、と言うて、黄金こがねか、珠玉たまか、と尋ねさっしゃるとの。
 その先生様、地蔵尊の一体建立して欲しいと言わされたとよ。
 そう云えば何となく、顔容かおかたちも柔和での、石の地蔵尊に似てござるお人じゃそうなげな。」
 先生はおもてを背けて、えみを含んで、思わずその口のあたりをこすったのである。
「それは奇特じゃ、小児衆こどもしゅの世話を願うに、地蔵様に似さしった人は、結構にござることよ。」
「さればその事よ。まだ四十にもならっしゃらぬが、よくも徳も悟ったお方じゃ。何事があっても莞爾々々にこにことさっせえて、ついぞ、腹立たしったり、悲しがらしった事はないけに、何としてそのように難有ありがたい気になられたぞ、と尋ねるものがあるわいの。
 先生様が言わっしゃるには、伝もない、おしえもない。わしはどうした結縁けちえんか、その顔色かおつきから容子ようすから、野中にぼんやり立たしましたお姿なり、心から地蔵様が気に入って、明暮あけくれ、地蔵、地蔵と念ずる。
 痛い時、辛い時、口惜くちおしい時、うらめしい時、なさけない時と、事どもが、まああってもよ。待てな、待てな、さてこうした時に、地蔵菩薩じぞうぼさつなら何となさる、と考えれば胸も開いて、気が安らかになることじゃ、と申されたげな。お婆さん、何と奇特な事ではないかの。」
「御奇特でござるのう。」
「じゃでの、何の心願というでもないが、何かしるしをといわるるで思いついた、お地蔵一体建立をといわっしゃる。
 折から夏休みにの、お邸中やしきじゅうが浜の別荘へ来てじゃに就いて、その先生様も見えられたが、この川添かわぞいの小橋のきわのの、あしの中へ立てさっしゃる事になって、今日はや奥さまがの、この切通しのがけを越えて、二つ目の浜の石屋がかたかれたげじゃ。
 のう、先生様は先生様、また難有ありがたいお方として、浄財おたからを喜捨なされます、その奥様の事いの。
 わかい身そらに、御奇特な、たとえ御自分の心からではないとして、その先生様の思召おぼしめしに嬉し喜んで従わせえましたのが、はや菩薩の御弟子みでしでましますぞいの。
 七歳の竜女とやらじゃ。
 結縁けちえんしょう。年をとると気忙きぜわしゅうて、片時もこうしてはおられぬわいの、はやくその美しいお姿を拝もうと思うての。それで、はい、お婆さん、えッちらえッちら出て来たのじゃ。」
「おう、されば、これから二つ目へおざるかや。」
「さればいの、行くわいの。」
「ござれござれ。わしも店をかたづけたら、路ばたへ出て、その奥様の、帰らしゃますお顔を拝もうぞいの。」
 赤目のおうなは自から深く打頷うちうなずいた。

       十二

 時に色の青い銀の目のおうなは、対手あいておとがいにつれて、片がりながら、さそわれたようにうなずいたが、肩を曲げたなり手を腰に組んだまま、足をやや横ざまに左へ向けた。
帰途かえりのほどは宵月よいづきじゃ、ちらりとしたらお姿を見はずすまいぞや。かぶりものの中、気をつけさっしゃれ。お方くらい、美しい、べにのついた唇は少ないとの。薄化粧に変りはのうても、はだの白いがその人じゃ、浜方じゃでまぎれはないぞの、いか、お婆さん、そんならわしは行くわいの。」
「茶一つ参らぬか、まあいで。」
「預けましょ。」
「これは麁末そまつなや。」
「お雑作でござりました。」
 とひとしく前へ傾きながら、腰に手を据えて、てくてくと片足ずつ、右を左へ、左を右へ、一ツずつんで五足いつあし六足むあし
「ああ、これな、これな。」
 とひさしの夕日に手を上げて、たそがれかかる姿を呼べば、あしすそなる背影うしろかげ
「おい、」とのみ、見も返らず、ハタと留まって、打傾いた、耳をそのままことばを待つ。
ぬし、今のことをの、坂下のあねさまにも知らしてやらしゃれ、さだめし、あのも拝みたかろ。」
 聞きつけて、くだんの嫗、ぶるぶるとかぶりった。
「むんにゃよ、年紀としが上だけに、あねさまは御生ごしょうのことは抜からぬぞの。八丈ヶ島に鐘が鳴っても、うとい耳に聞く人じゃ。それに二つ目へ行かっしゃるに、奥様は通り路。もう先刻さっきに拝んだじゃろうが、念のためじゃ立寄りましょ。ああ、それよりかお婆さん、」
 と片頬かたほを青くじ向けた、鼻筋に一つの目が、じろりと此方こなたを見て光った。
ぬし数珠じゅずを忘れまいぞ。」
「おう、いともの、お婆さん、主、その※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)えいの針を落さっしゃるな。」
「御念には及ばぬわいの。はい、」
 と言って、それなり前途むこうへ、蘆を分ければ、ひさしを離れて、一人は店を引込ひっこんだ。いその風一時ひとしきりくものを送って吹いて、さっと返って、小屋をめぐって、ざわざわと鳴って、寂然ひっそりした。
 吻々吻ほほほと花やかな、笑い声、浜のあたりにはるかに聞ゆ。
 時に一碗の茶をいまだ飲干さなかった、先生はツト心着いて、いぶかしげな目で、まず、かたわらなる少年の並んで坐ったせなを見て、また四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしたが、月夜の、夕日に返ったような思いがした。
 おうなことばかれを魅したか、その蘆の葉が伸びて、山の腰をおおう時、水底みなそこを船がいで、岡沙魚おかはぜというもの土に跳ね、豆蟹まめがに穂末ほずえに月を見るさまを、のあたりに目に浮べて、秋の夜の月の趣に、いつか心の取られた耳へ、蘆の根の泡立つ音、葉末を風のそよぐ声、あたかも天地あめつちつぶやささやくがごとく、我が身の上を語るのを、ただ夢のように聞きながら、顔の地蔵に似たなどは、おかしとうつつにも思ったが、いつごろ、どの時分、もう一人のおうなが来て、いつその姿が見えなくなったか、定かには覚えなかった。たとえば、そよそよと吹く風の、いつ来て、いつんだかを覚えぬがごとく、夕日の色の、何のときに我がそでを、山陰へ外れたかを語らぬごとく。
 さればその間、およそ、時のいかばかりを過ぎたかをわきまえず、月夜とばかり思ったのも、明るく晴れた今日である。いつの程にか、継棹つぎざおも少年の手に畳まれて、袋に入って、紐までちゃんとゆわえてあった。
 声をかけて見ようと思う、嫗は小屋で暗いから、ほかの一人はそこへと見るに、たれも無し、月を肩なる、山の裾、蘆を※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)しとねの寝姿のみ。
「賢、」
 と呼んだ、我ながら雉子きじのように聞えたので、せきばらいして、もう一度、
「賢君、」
「は、」
 と快活に返事する。
「今の婆さんは幾歳いくつぐらいに見えました。」
「この茶店のですか。」
「いや、もう一人、……ここへ来た年寄が居たでしょう。」
「いいえ。」

       十三

「あれえ! ああ、あ、ああ……」
 こわかった、胸が躍って、おさえた乳房重いよう、いまわしい夢から覚めた。――浦子は、独り蚊帳かやうち。身のわななくのがまだまねば、腕を組違えにしっかと両の肩を抱いた、わきの下から脈を打って、垂々たらたらつめたい汗。
 さてもそのは暑かりしや、夢の恐怖おそれもだえしや、紅裏もみうらの絹の掻巻かいまき鳩尾みずおちすべ退いて、寝衣ねまき衣紋えもん崩れたる、雪のはだえに蚊帳の色、残燈ありあけの灯に青く染まって、まくらに乱れたびんの毛も、寝汗にしとど濡れたれば、襟白粉えりおしろいも水のかおり、身はただ、今しも藻屑もくずの中を浮び出でたかのおもいがする。
 まだ身体からだがふらふらして、床の途中にあるような。これは寝た時に今も変らぬ、別に怪しい事ではない。二つ目の浜の石屋がかたへ、暮方仏像をあつらえにった帰りを、いやな、不気味な、忌わしい、ばばのあらもの屋の前が通りたくなさに、ちょうど満潮みちしおげたから、海松布みるめの流れる岩の上を、船で帰って来たせいであろう。を漕いだのは銑さんであった、夢を漕いだのもやっぱり銑さん。
 その時は折悪おりあしく、釣船も遊山船ゆさんぶねも出払って、船頭たちも、漁、地曳じびきで急がしいから、と石屋の親方が浜へ出て、小船を一そう借りてくれて、岸を漕いでおいでなさい、山から風が吹けば、畳を歩行あるくよりたしかなもの、船をひっくりかえそうたって、海が合点がってんするものではねえと、大丈夫に承合うけあうし、銑太郎もなかなか素人離れがしている由、人の風説うわさも聞いているから、安心して乗って出た。
 岩の間をすらすらと縫って、銑さんが船を持って来てくれる間、……私は銀の粉を裏ごしにかけたような美しい砂地に立って、足許あしもとまであいの絵具を溶いたように、ひたひた軽く寄せて来る、浪に心は置かなかったが、またそうでもない。先刻さっきの荒物屋が背後うしろへ来て、あの、また変な声で、御新姐様ごしんぞさまや、といいはしまいかと、大抵気をんだ事ではない。……
 婆さんは幾らも居る、本宅のお針も婆さんなら、自分に伯母が一人、それもお婆さん。第一近い処が、今内に居る、松やの阿母おふくろだといって、この間隣村から尋ねて来た、それも年より。なぜあんなに恐ろしかったか、自分にも分らぬくらい。
 毛虫は怪しいものではないが、一目見ても総毛立つ。おなじ事で、たとえ不気味だからといって、ちっとも怪しいものではないと、銑さんはいうけれど、あの、黄金色こがねいろの目、きいろな顔、うように歩行あるいた工合。ああ、思い出しても悚然ぞっとする。
 夫人は掻巻のすそさわって、爪尖つまさきからまた悚然とした。
 けれどもその時、浜辺に一人立っていて、なんだか怪しいものなぞは世にあるものとは思えないような、気丈夫な考えのしたのは、自分がたたずんでいた七八間さきの、切立きったてに二丈ばかり、沖から燃ゆるようなくれないの日影もさせば、一面には山の緑が月に映って、練絹ねりぎぬを裂くような、やわらか白浪しらなみが、根を一まわり結んじゃ解けて拡がる、大きな高いいわの上に、水色のと、白衣びゃくえのと、水紅色ときいろのと、西洋の婦人が三人。――
 白衣のが一番上に、水色のその肩が、水紅色のより少し高く、一段下に二人並んで、指を組んだり、もすそを投げたり、胸を軽くそらしたり、時々楽しそうに笑ったり、話声は聞えなかったが、さものんきらしく、おもしろそうに遊んでいる。
 それをまたその人々の飼犬らしい、毛色のいい、猟虎らっこのような茶色の洋犬かめの、口の長い、耳の大きなのが、浪際を放れて、いわの根に控えて見ていた。
 まあ、こんな人たちもあるに、あの婆さんを妖物ばけものか何ぞのように、こうまでこわがるのも、と恥かしくもあれば、またそんな人たちが居る世の中に、と頼母たのもしく。……
 と、浦子は蚊帳に震えながら思い続けた。

       十四

 ざんぶと浪に黒く飛んで、螺線らせんを描く白い水脚みずあし、泳ぎ出したのはその洋犬かめで。
 来るのは何ものだか、見届けるつもりであったろう。
 長い犬の鼻づらが、水を出て浮いたむこうへ、銑さんがをおしておいでだった。
 うしろの小松原の中から、のそのそと人が来たのに、ぎょっとしたが、それは石屋の親方で。
 草履ばきでも濡れさせまいと、船がそこった間だけ、おぶってくれて、乗るとぎ出すのを、水にまだ、足を浸したまま、ばんのような姿で立って、腰のふたつげの煙草入たばこいれを抜いて、煙管きせると一所に手に持って、火皿をうつむけにして吹きながら、確かなもんだ確かなもんだと、銑さんのめていた。
 もう船が岩の間を出たと思うと、尖ったへさきがするりとすべって、波の上へ乗ったから、ひやりとして、胴のへ手をいた。
 その時緑青色のその切立きったてのいわの、なぎさで見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早薄靄うすもやかかった上から、白衣びゃくえのが桃色の、水色のが白の手巾ハンケチを、二人で、小さく振ったのを、自分は胴の間に、半ばそでをついて、倒れたようになりながら、帽子のうちから仰いで見た。
 二つ目の浜で、地曳じびきを引く人の数は、水を切った網のさきに、二筋黒くなって砂山かけてはるかに見えた。
 船は緑の岩の上に、浅き浅葱あさぎの浪を分け、おどろおどろ海草の乱るるあたりは、黒き瀬を抜けても過ぎたが、首きり沈んだり、またぶくりと浮いたり、井桁いげたに組んだ棒の中に、生簀いけすがあちこち、三々五々。かもめがちらちらと白く飛んで、浜の二階家のまわり縁を、きかいする女も見え、すだれを上げる団扇うちわも見え、坂道の切通しを、くるまが並んで飛ぶのさえ、手に取るように見えたもの。
 陸近くがぢかなれば憂慮きづかいもなく、ただ景色のさに、ああまで恐ろしかったばばの家、巨刹おおでらやぶがそこと思うなだを、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今のいなな年寄。……
 ――それが夢か。――
「ま、待って、」
 はてな、と夫人は、白きうなじまくらに着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりとうちかたむいたが、身のわななくことなおまず。
 それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋はるあきの美しい雲を見るような、三人の婦人のきぬを見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄うすもやの風情もたえに余る。
 けれども、犬が泳いでいた、月の中ならうさぎであろうに。
 それにしても、また石屋の親方が、水にたたずんだ姿が怪しい。
 そういえば用が用、仏像を頼みにくのだから、と巡礼染じゅんれいじみたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人のせなかで浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。
 いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老婆としより。通りがかりに、ちょいとほんの燐枝マッチを買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、いまわしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。
 船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を背負おぶって、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。
 ――「ああ、恐しい夢を見た。」――
 と肩がすくんで、もすそわなわな、ひとみを据えて恐々こわごわ仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、すごくて※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすことさえならぬ、蚊帳かやに寂しき寝乱れ姿。

       十五

 果して夢ならば、海も同じ潮入りの蘆間あしまの水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう一浪ひとなみで、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、草臥くたびれた足でまた砂をもうより、小川尻おがわじりあがって、薦の葉を一またぎ、やしきの背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は――たしかに今も覚えている。
 よりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も点燈ひともしごろ。
 帆柱が二本並んで、船が二そうかかっていた。ふなばたを横に通って、急に寒くなった橋の下、橋杭はしぐいに水がひたひたする、隧道トンネルらしいも一思い。
 石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、すそも近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、他所よその別荘の刎橋はねばしが、ながれなかば、岸近なへ掛けたのが、満潮みちしおで板もけてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。三角形さんかくなりの砂地が向うに、蘆の葉が一靡ひとなびき、鶴の片翼かたつばさ見るがごとく、小松もに似て十本ともとほど。
 暮れ果てずともしは見えぬが、その枝の中を透く青田越あおたごしに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた地蔵菩薩じぞうぼさつを――
 仏様でも大事ない、氏神にして祭礼おまつりを、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆がびょうとして。
 船がその時ぐるりと廻った。
 岸へ岸へとつかうるよう。しまった、潮がとまったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。うりの種、茄子なすの皮、わらの中へ木の葉がまじって、船も出なければあくたも流れず。真水がここまで落ちて来て、潮にさからってむせいで。
 あせって銑さんのおした船が、がッきと当ってくいつかえた。泡沫しぶきが飛んで、傾いたふなばたへ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、一束ひとたばねの女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。
 ああ、芥のにおいでもすることか、海松布みるの香でもすることか、船へからんで散ったのは、自分と同一おなじ鬢水びんみずの……
 ――浦子は寝ながら呼吸いきを引いた。――
 ――今も蚊帳に染む梅花のかおり。――
 あ、と一声退こうとする、そでが風に取られたよう、向うへ引かれて、なびいたので、此方こなたいておさえたその袖に、と見ると怪しい針があった。
 蘆の中に、色の白いせたおうな高家こうけの後室ともあろう、品のい、目の赤いのが、朦朧もうろうしゃがんだ手から、蜘蛛くもかと見る糸一条ひとすじ
 身悶みもだえして引切ひっきると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。
 その黒髪の船に垂れたのが、さかさに上へ、ひょろひょろとほおかすめると思うと――(今もおくれ毛が枕に乱れて)――身体からだが宙に浮くのであった。
「ああ!」
 船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、おぼれていたのが自分であろうか。
 また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角なへやも穴めいて、はだえの色も水の底、おされて呼吸いきの苦しげなるは、早や墳墓おくつきの中にこそ。呵呀あなや、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。
 枕を前に、飜った掻巻かいまきせなの力に、堅いもののごとくかいなを解いて、とそのびん掻上かきあげた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、つまに乱れた縮緬ちりめんの、浅葱あさぎも色のすごきまで。

       十六

 疲れてそのまま、掻巻かいまきほおをつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動悸どうきに髪が揺れて、かしらを上へ引かれるのである。
「ああ、」
 とばかり声も出ず、吃驚びっくりしたようにまた起直った。
 扱帯しごき一層ひとしおしゃらどけして、つまもいとどしく崩れるのを、ものうげに持て扱いつつ、せわしく肩で呼吸いきをしたが、
「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」
 と重たいまげをうしろへ振って、そのままのけざまに倒れそうな、身をんでひざで支えて、ハッとまた呼吸いきくと、トントンと岩に当って、時々がけを洗う浪。松風がしんとして、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。
「松か、」
 夫人は残燈ありあけに消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。
 けれども、直ぐに寐入ねいったものの呼覚よびさまされる時刻でない。
 第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえもうつつである。
「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許こころもとない。
 まあ、口も利けなくなったのか、となさけなく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸をゆすって、
「松や、」と、き調子でもう一度。
(松や、)と細いのが、咽喉のどを放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方こなたへ聞えて、はるを隔てたふすまの隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息ためいきになってしまう。蚊帳があおるか、ふすまが揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組みめて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れたつまもはらはらとなびく。
 引掴ひッつかんでまで、でつけた、びんの毛が、うるさくも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第にはげしくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、みぎわおうな
 今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上にあしが生えて、台所の煙出けむだしが、水面へあらわれると、芥溜ごみためのごみがよどんで、泡立つ中へ、この黒髪がさかさに、たぶさからからまっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るるひびき
 恍惚うっとりと気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。
 船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……
 今、ふなべりへ髪の毛が。
「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝をくと、胸を反らして、抜け出るさまに、もすそを外。
 蚊帳が顔へ搦んだのが、ぷんと鼻をついた水のにおい。引き息で、がぶりと一口、おぼるるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。
 目もようよう判然はっきりと、蚊帳の緑は水ながら、くれないの絹のへり、かくて珊瑚さんごの枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅葱あさぎも黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴然ありありと見たのである。

       十七

 しばらくして、浦子はぎょくぼやの洋燈ランプの心をげて、あかるくなったともしに、宝石輝く指のさきを、ちょっとびんに触ったが、あらためてまた掻上かきあげる。その手で襟を繕って、扱帯しごきの下でつまを引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身体からだの世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。
 且つその身体をてもせず、老実まめやかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、ゆかしく、優しく、嬉しいように感じたくらい。
 一つくぐって鳩尾みずおちからひざのあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、ともしを手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小用こように、と思い切った。
 時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥途めいどみちか。船虫が飛ぼうも、大きな油虫がけ出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳かやの内をうかがって見ることで。
 蹴出けだしも雪の爪尖つまさきへ、とかくしてずり下り、ずり下る寝衣ねまきつまおさえながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳をのぞこうとして、爪立つまだって、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身をもだえた、ねやの内の、なさけないさまを見るのもいまわしし、また、何となく掻巻かいまきが、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳をうかがうこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退すさって、ひっくるまるもすそあやうく、はらりとさばいて廊下へ出た。
 次のへや真暗まっくらで、そこにはもとより誰も居ない。
 ねやと並んで、庭を前に三間続きの、その一室ひとまを隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
 そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ているはず
 そのほうにもかわやはあるが、運ぶのに、ちと遠い。
 くだんの次の明室あきまを越すと、取着とッつきが板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働なかばたらき、お三と、もう一人女中が三人。
 婦人おんなばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
 それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那だんなが留守の折からには、あけ方まで格子戸からあかりがさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだのひびきがするのを、保養の場所と大目に見ても、いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母たのもしい。さらばと、やがて廊下づたい、かかとの音して、するすると、もすそ気勢けはいの聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室あきまの前を急いで越すと、次なる小室こべやの三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
 うちから風も吹くようなり、傍正面わきしょうめんの姿見に、、映りそ夢の姿とて、首垂うなだるるまで顔をそむけた。
 新しいひのきの雨戸、それにも顔が描かれそう。真直まっすぐに向き直って、ともしびを差出しながら、つきあたりへ辿々たどたどしゅう。

       十八

 ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
 壁は白いが、真暗まっくらな中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタとんだを、気の毒らしく思うまで、今夜こよいはそれが嬉しかった。
 浦子の姿は、無事にかわや背後うしろにして、さし置いたその洋燈ランプの前、廊下のはずれに、なまめかしくあらわれた。
 いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、ひさしをこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、あしたの色は何々ぞ。紺に、瑠璃るりに、紅絞べにしぼり、白に、水紅色ときいろ水浅葱みずあさぎつぼみの数は分らねども、朝顔形あさがおなり手水鉢ちょうずばちを、朦朧もうろうと映したのである。
 夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松のこずえに寄る浪の、沖の景色にも目はらず、瞳を恍惚うっとり見据えるまで、一心に車夫部屋のともしを、はるかに、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄杓ひしゃくさわらぬ。
 気にもせず、なおうわの空で、冷たく瀬戸ものの縁をでて、手をのばして、向うまですべらしたが、指にかかるの葉もなかった。
 目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。
 直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対むこうまえに、山の方へ柄がひとりで廻った。
 夫人は手のものを落したように、俯向うつむいてじっと見る。
 手水鉢と垣の間の、月のくま暗き中に、ほのぼのと白くうごめくものあり。
 その時、切髪きりかみ白髪しらがになって、犬のごとくつくばったが、柄杓の柄に、せがれた手をしかとかけていた。
 夕顔の実に朱の筋の入ったさまの、夢のおもかげをそのままに、ぼやりと仰向あおむけ、
「水を召されますかいの。」
 というと、つややかな歯でニヤリと笑む。
 息とともに身を退いて、蹌踉々々よろよろと、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになっておもてを背けた。はすッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真黒まっくろな影法師のちぎれちぎれな襤褸ぼろて、茶色の毛のすくすくとおおわれかかる額のあたりに、皺手しわでを合わせて、真俯向まうつむけに此方こなたを拝んだ這身はいみばばは、坂下のやぶ姉様あねさまであった。
 もう筋も抜け、骨崩れて、もすそはこぼれて手水鉢、砂地に足をみ乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。
 胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色のまなこをむいた。
 のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真赤まっかな口を横ざまに開けて、
「ふァはははは、」
「う、うふふ、うふふ、」とかたがって、戸をゆすって笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目のおうなは、
「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。
 廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかったびんの毛をもてあそびながら、
また御前ごぜんも、山のかいの婆さまも早かったな。」というと、
「坂下のあねさま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。
 銀の目をじろじろと、
「さあ、手を貸され、連れてにましょ。」

       十九

「これの、呼吸いきも、引く呼吸も、もうないかいの、」とまた御前ごぜんがいえば、
「水くらわしや、」
 とかいばば邪慳じゃけんである。
 ここで坂下の姉様あねさまは、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手ででて、
「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」
「手を掛けて肩を上げされ、わしが腰を抱こうわいの。」
 と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。
 洲の股の御前、かたわらより、
「お婆さん、ちょっとその※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)えいの針で口のはた縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」
「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手でおさえた。
 峡の婆、わずかに手を解き、おとがい[#ルビの「おとがい」は底本では「おとがひ」]で襟を探って、無性ぶしょうらしくつまみ出した、指のつめの長く生伸はえのびたかと見えるのを、一つぶるぶるとって近づき、お伽話とぎばなしの絵に描いた外科医者というていで、おののく唇にかすかに見える、夫人の白歯しらはの上を縫うよ。
 浦子の姿ははげしく揺れたが、声は始めから立てなかった。目は※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいていたのである
「もういわいの、」
 と峡の婆、かたわらに身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方のわきを抱いて起した。
 浦子の身は、柔かに半ば起きてもたれかかると、そのまま庭へずり下りて、
「ござれ、洲の股の御前、」
 といって、坂下の姉様、夫人の片手を。
 洲の股の御前も、おなじくかたわらから夫人の片手を。
 ぐい、と取って、引立ひったてる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、扱帯しごきの端が縁を離れた。髪の根はまげながら、こうがいながら、がッくりと肩に崩れて、早や五足いつあしばかり、釣られ工合に、手水鉢ちょうずばちを、裏の垣根へ誘われく。
 背後うしろに残って、砂地に独り峡の婆、くだんの手を腰にめて、かたがりながら、片手を前へ、斜めに一煽ひとあおり、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いてしまった。
 二人の婆にさしはさまれ、一人いちにんに導かれて、薄墨の絵のように、潜門くぐりもんを連れ出さるる時、夫人の姿はうしろざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。
 時しも一面の薄霞うすがすみに、処々つやあるよう、月の影に、雨戸はしんつらなって、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、蓮歩れんぽのあとのここかしこ、夫人をしとうて散々ちりぢりなり。

        *     *     *     *     *

 あと白浪しらなみの寄せては返す、なぎさ長く、身はただ、黄なる雲をむかと、もすそも空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ轟々ごうごうと聞ゆるあたり。
「ここじゃ、ここじゃ。」
 どしりと夫人の横倒よこたおし
「来たぞや、来たぞや、」
「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」
 何処いずこはてか、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。
 ぐるりと三人、がなえに夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、紅糸べにいとの目の六つを、あしき星のごとくキラキラといさごの上に輝かしたが、
地蔵菩薩じぞうぼさつ祭れ、ふァふァ、」と嘲笑あざわらって、山のかいがハタと手拍子。
「山の峡は繁昌はんじょうじゃ、あはは、」とまた御前ごぜん、足を挙げる。
「洲の股もめでたいな、うふふ、」
 と北叟笑ほくそえみつつ、坂下のおうなは腰をひねった。
 諸声もろごえに、
「ふァふァふァ、」
「うふふ、」
「あはははは。」
「坂の下祝いましょ。」
 今度は洲の股の御前が手をつ。
「地蔵菩薩祭れ。」
 と山の峡が一足出る、そのあとへいしきを捻って、
「山の峡は繁昌じゃ。」
「洲の股もめでたいな、」とすらりと出る。
 拍子を取って、手を拍って、
「坂の下祝いましょ。」
 据え腰で、ぐいと伸び、
「地蔵菩薩祭れ。」
「山の峡は繁昌じゃ、」
「洲の股もめでたいな、」
「坂の下祝いましょ、」
「地蔵菩薩祭れ。」
 さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調しらべ、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただもやとなる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。

       二十

 ここに、一つ目と二つ目の浜境はまざかい、浪間のいわすそに浸して、路傍みちばたと高い、一座のごとき丘がある。
 その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息をいてたたずんだのは、狭島さじまに宿れる鳥山廉平。
 例のしま襯衣しゃつに、そのかすり単衣ひとえを着て、紺の小倉こくらの帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん端折ばしょりの空脛からずねに、草履ばきで帽はかぶらず。
 昨日きのうは折目も正しかったが、露にしおれて甲斐性かいしょうが無さそう、高い処で投首なげくびして、いた草臥くたびれたさまが見えた。恐らく驚破すわといって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。
 それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなりかたちほかの人々は思いやられる。
 銑太郎、賢之助、女中の松、仲働なかばたらき、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた賭博仲間ぶちなかまの漁師も四五人、別荘をひっぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しにけ廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらともやともれて、松明たいまつの火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ばじ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。
 もとよりあてのない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼方かなた此方こなた、同じ処を四五たびも、およそ二三里の路はもう歩行あるいた。
 不祥な言を放つものは、いわかわやから月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、とすなわち船をいだしたのも有るほどで。
 死んだは、きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手くもでに座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬一疋いっぴきにおいの高い総菜にも、見る目、※(「鼻+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)ぐ鼻の狭い土地がら、おもかげを夢に見て、山へ百合の花折りに飄然ひょうぜんとして出かけられたかもはかられぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方ゆくえが分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自おのおの。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。
 廉平とても、夫人がうおの寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的めあてがないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲をつかむのであった。
 目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風にまれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、こずえはそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中にあいたたえて、あるいは十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂まさごの床に絶えては連なる、平らな岩の、天地あめつちしき手に、鉄槌かなづちのあとの見ゆるあり、削りかけのやすりの目の立ったるあり。のみの歯形を印したる、のこぎりくずかと欠々かけかけしたる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松みる、ところ、あわび、かきなどいうものの、夜半よわに吐いた気を収めず、まだほのぼのとゆらぐのが、なぎさめて蒸すのである。
 漁家二三。――深々と苫屋とまやを伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚おおびくが五つ六つ。

       二十一

 さてこの丘の根に引寄せて、一そうとまを掛けた船があった。海士あまみのきる時雨かな、潮のしぶき[#「さんずい+散」、240-3]は浴びながら、夜露やいとう、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女男めおの波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、みよしの口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。
 かたわらなる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結いめぐらした蘆垣あしがきも、船も、岩も、ただなだらかな面平おもたいらに、空に躍った刎釣瓶はねつるべも、もやを放れぬ黒いいとすじと凹凸なく瞰下みおろさるる、かかる一枚の絵の中に、もすその端さえ、片袖かたそでさえ、美しき夫人の姿を、何処いずこに隠すべくも見えなかった。
 廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、ふみはずしそうにがけさき、五尺の地蔵の像で立ったけれども。
 こうべを垂れて嘆息した。
 さればこの時の風采ふうさいは、悪魔の手に捕えられた、一体の善女ぜんにょを救うべく、ここに天降あまくだった菩薩ぼさつに似ず、仙家のしもべの誤ってを破って、下界に追いおろされた哀れな趣。
 廉平は腕をこまぬいて悄然しょうぜんとしたのである。時に海の上にひらめくものあり。
 翼の色の、かもめや飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。
 帆風に散るか、もや消えて、と見れば、海にあらわれた、一面おおいなる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。
 ぴたりとついて留まったが、飜然ひらり此方こなたむきをかえると、なぎさすわった丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水をたたえたさまに、路一条みちひとすじ東雲しののめのあけてく、蒼空あおぞらの透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、いわおもなびく中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまにかろくまた渚にとまった。
 帆の中より、水際立って、美しく水浅葱みずあさぎに朝露置いた大輪おおりんの花一輪、白砂の清き浜に、うてなや開くと、もすそさばいてと下り立った、洋装したる一人の婦人。
 夜干よぼしに敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色をずるよしして、四辺あたりを見ながら、その苫船とまぶねに立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥はかぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣びゃくえの婦人、水紅色ときいろなるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。
 二人は右のふなばたに、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、たがいに苫を取って分けて、船の中を差覗さしのぞいた。淡きいろいろのきぬの裳は、長く渚へ引いたのである。
 廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、渠等かれら三人の西洋婦人、おもうにあつらえの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の短艇ボオトででもあるのであろう。
 と見ると二人の脇の下を、飜然ひらりと飛び出した猫がある。
 トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いてへさきからと抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝ひとうねり畝らしたまで鮮麗あざやかに認められた。
 前のは白い毛に茶のまだらで、中のは、その全身漆のごときが、長くった尾の先は、みよしかすめてせたのである。

       二十二

 その時、前後して、とまからいずれもおもてを離し、はらはらと船を退いて、ひたと顔を合わせたが、方向むきをかえて、三人とも四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしてたたずさま、おぼろげながら判然はっきりと廉平の目に瞰下みおろされた。
 水浅葱みずあさぎのが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。
 手を挙げて、二三度つづけざまにさしまねくと、あとの二人もひらひらと、高く手巾ハンケチるのが見えた。
 要こそあれ。
 廉平は雲をいだくがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、あわただしくうなずき答えて、直ちに丘の上にくびすめぐらし、栄螺さざえの形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐるとけて下り、すそを伝うて、と高く、ト一飛ひととび低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波にさらされた岩の上。
 綱もあり、立樹もあり、大きなびくも、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫いたり。あの位高かった、丘は近くかしらに望んで、崖の青芒あおすすきも手に届くに、婦人おんなたちの姿はなかった。白帆は早やなぎさ彼方かなたに、上からはたいらであったが、胸より高くうずくまる、海の中なるいわかげを、明石の浦の朝霧に島がくれく風情にして。
 かえって別なる船一そう、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに見出みいだされたが、一つ目の浜のかたへ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、真黒まっくろな男の。一人はヤッシと艪柄ろづかを取って、丸裸の小腰を据え、すほどに突伏つッぷすよう、引くほどに仰反のけぞるよう、ただそこばかり海が動いて、へさきを揺り上げ、揺り下すを面白そうに。おさない方は、両手にふなべりつかまりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一おなじ処にもう一艘、渚にもやった親船らしい、を操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。
 いや、道草する場合でない。
 廉平は、言葉も通じず、国も違って便たよりがないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船とまぶねの中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛けずね[#ルビの「けずね」は底本では「げずね」]長く藁草履わらぞうりで立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、たしかに、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……
 ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと頤髯あごひげ一面なその柔和な口を結んで、足をやや爪立つまだったと思うと、両の肩で、吃驚おどろきの腹をんで、けたたましく飛び退いて、下なる網につまずいて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉のひそんだ下に、まなこつぶらにして四辺あたりを眺めた。
 これなる丘と相対して、むこうなる、海のおもにむらむらとはびこった、鼠色の濃き雲は、彼処かしこ一座の山を包んで、まだれやらぬ朝靄あさもやにて、ものすさまじく空にひひって、ほのおつらなってもゆるがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき赤地あかつちへ、ほのかに反映するのである。
 かくて一つ目の浜は彎入わんにゅうする、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船をめぐる長幼二人の裸児はだかごあるのみ。

       二十三

 得も言われぬ顔して、しばらく棒のごとく立っていた、廉平は何思いけん、足を此方こなたに返して、ずッと身を大きくいわの上へ。
 それを下りて、なざさづたい、船をもてあそ小児こどもの前へ。
 近づいて見れば、渠等かれらぎ廻る親船は、そのじくを波打際。朝凪あさなぎの海、おだやかに、真砂まさごを拾うばかりなれば、もやいも結ばずただよわせたのに、呑気のんきにごろりと大の字なりかじを枕の邯鄲子かんたんし、太い眉の秀でたのと、鼻筋の通ったのが、真向まのけざまの寝顔である。
 かたわらの船も、おさないものも、おもうにこの親の子なのであろう。
 廉平は、ものも言わずに歩行あるいた声をまず調えようと、打咳うちしわぶいたが、えへん! と大きく、調子はずれに響いたので、襯衣しゃつの袖口のゆるんだ手で、その口許をおおいながら、
「おい、おい。」
 寝た人には内証らしく、低調にして小児こどもを呼んだ。
「おい、その兄さん、そっちの。むむ、そうだ、お前達だ。上手に漕ぐな、うまいものだ、感心なもんじゃな。」
 声を掛けられると、跳上はねあがって、船をゆすることの葉のごとし。
「あぶない、これこれ、話がある、まあ、ちょっと静まれ。
 おお、怜悧りこう々々、よく言うことをくな。
 なんじゃ、外じゃないがな、どうだ余り感心したについて、もうちッと上手な処が見せてもらいたいな。
 どうじゃ、ずッと漕げるか。そら、あの、そら巌のもっとさきへ、海の真中まんなかまで漕いでけるか、どうじゃろうな。」
 寄居虫やどかりで釣る小鰒こふぐほどには、こんな伯父さんに馴染なじみのない、人馴れぬ里の児は、目を光らすのみ、返事はしないが、年紀上としうえなのが、の手を止めつつ、けろりで、合点の目色めつきをする。
「漕げる? むむ、漕げる! えらいな、漕いで見せな/\。伯父さんが、また褒美をやるわ。
 いや、親仁おやじ、何よ、お前のとっさんか、父爺とっさんには黙ってよ、父爺にくと、危いとか悪戯いたずらをするなとか、何とか言って叱られら。そら、な、いか、黙って黙って。」
 というと、また合点がってん々々。よい、とした小腕ながら艪を圧す精巧な昆倫奴くろんぼの器械のよう、シッと一声飛ぶに似たり。はやい事、ただし揺れる事、中に乗った幼い方は、アハハアハハ、と笑って跳ねる。
「豪いぞ、豪いぞ。」
 というのもはばかり、たださしまねいて褒めそやした。小船は見る見る廉平の高くあげた手の指を離れて、岩がくれにやがてただ雲をこぼれた点となンぬ。
 親船は他愛がなかった。
 廉平は急ぎ足に取って返して、また丘の根の巌を越して、苫船とまぶねに立寄って、此方こなた船舷ふなばたを横に伝うて、二三度、同じ処を行ったり、来たり。
 中ごろで、しゃがんでびくの陰にかくれたと思うと、また突立つったって、端の方から苫をでたり、上からそっと叩きなどしたが、更にあちこちを※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、ぐるりとへさきの方へ廻ったと思うと、向うのふなばたの陰になった。
 苫がばらばらとあおったが、「ああ」と息の下に叫ぶ声。わらを分けたえんなる片袖、浅葱あさぎつまが船からこぼれて、その浴衣のそめ、その扱帯しごき、その黒髪も、その手足も、ちぎれちぎれになったかと、砂に倒れた婦人おんなの姿。

       二十四

「気を静めて、夫人おくさん、しっかりしなければ不可いけません。落着いて、いですか。心をたしかにお持ちなさいよ。
 判りましたか、私です。
 何も恥かしい事はありません、ちっともきまりの悪いことはありませんです。しっかりなさい。
 御覧なさい、誰も居ないです、ただ私一人です。鳥山たった一人、ほかには誰もらんですから。」
 海の方をそびらにして安からぬさまに附添った、廉平の足許に、見得もなく腰を落し、もすそを投げて崩折くずおれつつ、両袖におもておおうて、ひたと打泣くのは夫人であった。
「ほんとうに夫人おくさん、気を落着けて下さらんでは不可いけません。突然いきなり海へ飛込もうとなすったりなんぞして、串戯じょうだんではない。ええ、夫人おくさん、心がたしかになったですか。」
 声にばかり力をめて、どうしようにも先は婦人おんな、ひとえに目を見据えて言うのみであった。
 風そよそよと呼吸いきするよう、すすりなきのたもとが揺れた。浦子は涙の声の下、
「先生、」とかすかにいう。
「はあ、はあ、」
 と、わずかに便たよりを得たらしく、我を忘れて擦り寄った。
、私は、もう死んでしまいたいのでございます。」
 わッとまた忍びに、身悶みもだえして突伏すのである。
「なぜですか、夫人おくさん、まだ、どうかしておいでなさる、ちゃんとなさらなくッては不可いかんですよ。」
「でも、貴下あなた、私は、もう……」
「はあ、どうなすった、どんなお心持なんですか。」
「先生、」
「はあ、どうですな。」
「私が、あの、海へ入って死のうといたしましたのより、貴下あなたは、もっとお驚きなさいました事がございましょう。」
「……………………」
 何と言おうと、黙ってむ。
「私が、私が、こんな処に船の中に、寝て、寝て、」
 と泣いじゃくりして、
「寝かされておりましたのに、なお吃驚びっくりなさいましてしょうねえ、貴下。」
「……ですが、それは、しかし……」とばかり、廉平は言うべきすべを知らなかった
「先生、」
 これぎり、声の出ない人になろうも知れず、と手に汗を握ったのが、我を呼ばれたので、力を得て、耳を傾け、顔を寄せて、
「は、」
「ここは、どこでございます。」
「ここですか、ここは、一つ目の浜を出端ではずれた、崖下の突端とっぱずれの処ですが、」
「もう、夜があけましたのでございますか。」
「明けたですよ。明方です、もう日が当るばかりです。」
 聞くや否や、
「ええ!」とまた身を震わした。浦子はそれなり、腰を上げて立とうとして、ままならぬ身をあせって、
「恥かしい、私、恥かしいんですよ。先生、どうしましょう、人が見ます。人が来ると不可いけません、人に見られるのはいやですから、どうぞ死なして下さいまし、死なして下さいましよ。」
「と、ともかく。ですからな、夫人おくさん、人が来ない内に、帰りましょう。まだ大して人通ひとどおりもないですから。はやく、さあ、疾く帰ろうではありませんか。お内へ行って、まず、お心をお鎮めなさい、そうなさい。」
 浦子ははげしくかぶりった。

       二十五

 すべを知らず黙っても、まだかぶりをふるのであるから、廉平は茫然ぼうぜんとして、ただこぶしを握って、
「どうなさる。こうしていらしっては、それこそ、人が寄って来るか分りません。第一、捜しに出ましたのでも四人や八人ではありません。」
 言いも終らず、あしずりして、
「どうしましょう、私、どうしましょうねえ。どうぞ、どうぞ、貴下あなた、一思いに死なして下さいまし、恥かしくっても、死骸しがいになれば……」
 泣くのに半ば言消こときえて、
「よ、後生ですから、」
 も曇れる声なり。
 心弱くてかなうまじ、と廉平はややきっとしたものいいで、
「飛んだ事を! 夫人おくさん、廉平がここにるです。して、して、そんな間違まちがいはさせんですよ。」
「どうしましょうねえ、」
 はッと深く溜息ためいきつくのを、
「……………………」
 ただ咽喉のどを詰めてじっと見つつ、思わず引き入れられて歎息した。
 廉平は太い息して、
「まあ、貴女あなた夫人おくさん、一体どうなさった。」
「訳を、訳をいえば貴下あなた、黙って死なして下さいますよ。もう、もう、もう、こんなけがらわしいものは、見るのもいやにおなりなさいますよ。」
「いや、厭になるか、なりませんか、黙って見殺しにしましょうか。何しろ、訳をおっしゃって下さい。夫人おくさん、廉平です。人にいって悪い事なら、私はちかって申しませんです。」
 この人の平生はかく盟うのに適していた。
「は、申します、先生、貴下あなただけなら申します。」
「言うて下さるか、それは難有ありがたい、むむ、さあ、承りましょう。」
「どうぞ、その、そのさきに先生、どこへか、人の居ない、谷底か、山の中か、島へでも、巌穴いわあなへでも、お連れなすって下さいまし。もう、貴下あなたにばかりも精一杯、誰にも見せられます身体からだではないんです。」
 袖をわずかに濡れたる顔、夢見るように恍惚うっとりと、朝ぼらけなる酔芙蓉すいふよう、色をさました涙の雨も、露に宿ってあわれである。
「人の来ない処といって、お待ちなさい、船ででもどちらへか、」
 と心当りがないでもなかった。沖の方へ見えめて、小児こどもの船がもやから出て来た。
 夫人は時にあらためて、世に出たようなまなざししたが、苫船とまぶねを一目見ると、ぶちへ、さっと――あおざめて、悚然ぞっとしたらしく肩をすくめた、黒髪おもげに、沖のかた
「もし、」
「は、」
「参られますなら、あすこへでも。」
 いかにも人はこもらぬらしい、物凄ものすさまじき対岸むこうの崖、炎を宿して冥々めいめいたり。
「あんな、あんなその、地獄の火が燃えておりますような、あの中へ、」
「結構なんでございます、」と、また打悄うちしおれておもてを背ける。
 よくよくの事なるべし。
「参りましょうか。靄がれれば、ここと向い合った同一おなじような崖下でありますけれども、途中が海で切れとるですから、浜づたいに人の来る処ではありません。
 御覧なさい、あの小児こどもの船を。大丈夫ぐですから、あれに乗せてもらいましょう、どうです。」
 夫人は、がッくりしてうなずいた、ものを言うも切なそうにいたく疲労して見えたのである。
夫人おくさん、それでは。」
「はい、」
 と言って礼心に、寂しい笑顔して、ほっと息。

       二十六

「そんな、そんな貴女あなたつまらん、しからん事があるべき次第わけのものではないです。けがれた身体からだだの、人に顔は合わされんのとお言いなさるのはその事ですか。ははははは、いや、しかし飛んだ目においでした。ちっとも御心配はないですよ。まあ、その足をおきなさい。突然こんな処へ着けたですから、船を離れる時、ひどくお濡れなすったようだ。」
 廉平はに似てあおすじのあるなめらかな一座の岩の上に、海に面して見すぼらしくしゃがんだ、身にただ襯衣しゃつまとえるのみ。
 船の中でも人目をいとって、紺がすりのその単衣ひとえで、肩から深く包んでいる。浦子の蹴出けだしは海の色、巌端いわばな蒼澄あおずみて、白脛しらはぎも水に透くよう、倒れた風情に休らえる。
 二人はもやの薄模様。
「構わんですから、私の衣服きものでお拭きなさい。
 何、寒くはないです、寒いどころではないですが、貴女、すそが濡れましたで、気味が悪いでありましょう。」
「いえ、もう潮に濡れて気味が悪いなぞと、申されます身体からだではありません。」と、投げたように岩の上。
「まだ、おっしゃる!」
「ははは、」と廉平は笑い消したが、自分にも疑いのいまだ解けぬ、あしの中なる幻影まぼろしを、この際なればもない風で、
「夢の中を怪しいものに誘い出されて、苫船とまぶねの中で、お身体を……なんという、そんな、そんな事がありますものかな。」
「それでも私、」
 と、かかる中にも夫人は顔をあからめた。
「覚えがあるのでございますもの。貴下あなたが気をつけて下すって、あの苫船の中で漸々ようよう自分の身体になりました時も、そうでした、……まあ、お恥かしい。」
 といいかけて差俯向さしうつむく、額に乱れた前髪は、歯にもむべくうらめしそう。
「ですが、ですが、それは心の迷いです。昨日きのうあたりからどうかなさって、お身体からだの工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、」
 ことばの下に聞きとがめ、
「西洋とおっしゃれば、貴下あなたは西洋の婦人おんなの方が、私のつかまっておりました船の中をのぞいて見て、仔細しさいがありそうに招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。
 その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。
 ですから私は、」
 と早や力なげに、なよなよとするのであった。
「いや、」
 とあてなしに大きく言った、が、いやな事はちっともない。どうして発見みいだしたかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、穉児おさなごに船をがせつつ、自分が語ったは、まずそのとおり
「ですけれども、何ですな。」
「いいえ」
 今度は夫人から遮って、
「もう昨日きのう、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは貴下あなたいまわしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。
 三十という年に近いこの年になりますまで、わかい折から何一つ苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事もついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。
 腹の立った事さえござんせん、あんまり果報な身体からだですから、みつればくるとか申します通り、こんな恐しい目に逢いましたので。唯今ただいまここへ船を漕いでくれました小児こどもたちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが銑さん、小さい方が賢之助にておりましたのも、みんな私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。」
 いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は一層ひとしお慰めかねる。

       二十七

 夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、
小児こどもと申してもまましい中で、それでも姉弟きょうだいとも、ほんとも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、貴下あなたが御丹精下さいましたおかげで、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。
 もう私は、こんな身体からだ、見るのもいやでなりません。ぶつぶつ切って刻んでもてたいように思うんですもの、ちっとも残りおしいことはないのですが、よくには、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、きながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」
 と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、じっと見て、廉平たまりかねた面色おももちして、唇をわななかし、小鼻に柔和なしわを刻んで、深く両手をこまぬいたが、ああ、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、わが心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべきなりと、そもさんか菩薩ぼさつ
夫人おくさん、どうしても、貴女あなたあやしい獣に……という、うたがいは解けんですか。」
「はい、お恥かしゅう存じます。」と手をいて、たれにかび入る、そのいじらしさ。
 まなこを閉じたが、しばらくして、
「恐るべきです、恐るべきだ。夢現ゆめうつつ貴女あなたには、悪獣あくじゅうたいに見えましたでありましょう。私の心はけだものでした。夫人おくさん懺悔ざんげをします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四脚よつあしの獣ではない、獣のような人間じゃ。
 私です。
 鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その襯衣しゃつばかりのうなじを垂れた。
 夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右視左瞻とみこうみつつ、せなに乱れた千筋ちすじの黒髪、解くべきすべもないのであった。
「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴女あなたに接したのが因果です。賢君に対してほとんど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。
 いまだ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。
 なかなかもって、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。
 けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のおそばを離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。
 五年勤労にむくいるのに、何か記念の品をと望まれて、さとりも徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。
 今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。
 廉平は魔法づかいじゃ。」
 と石上に跣坐ふざしたその容貌ようぼう、その風采ふうさい、或はしかあるべく見えるのであった。
 夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。
貴女あなたも、昨日きのう、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものにかれたとおっしゃった。……
 すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、夢現ゆめうつつきょうに乗じて、その妄執もうしゅうを晴しました。
 けれども余りにいたわしい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお身体からだを、砕いて切ってもてたいような御容子ごようすが、余りお可哀相かわいそうで見ておられん。
 夫人おくさん、真の獣よりまだこの廉平と、おぼし召す方が、いくらかお心が済むですか。」
 夫人はせいせい息を切った。

       二十八

「どうですか、余りおしつけがましい申分もうしぶんではありますが、心はおなじ畜生でも、いくらか人間の顔に似た、口を利く、手足のある、廉平の方がいですか。」
 口へ出すとよりは声をのんで、
貴下あなた、」
「…………」
「貴下、」
「…………」
「貴下、ほんとうでございますか。」
「勿論、懺悔ざんげしたのじゃで。」
 と、眉を開いてきっぱりという。
 ひざでじりりとすり寄って、
「ええ、嬉しい。貴下、よくおっしゃって下さいました。」
 としっかと膝に手をかけて、わッとまた泣きしずむ。廉平は我ながら、あやしいまで胸がせまった。
「私と言われて、お喜びになりますほど、それほどのおもいをなさったですか。」
「いいえ、もう、何ともたとえようはござんせん。死んでも死骸しがいが残ります、その獣のつめのあと舌のあとのあります、毛だらけなはだが残るのですもの。焼きましてもきつねたぬきの悪いにおいがしましょうかと、心残りがしましたのに、貴下あなた、よく、思い切ってそうおっしゃって下さいました。快よく死なれます、死なれるんでございますよ。」
「はてさて、」
「………………」
「じゃ、やっぱり、死ぬのを思い止まっちゃ下さらん。」
 顔を見合わせ、打頷うちうなずき、
「むむ、成程、」
 と腕を解いて、廉平は従容しょうようとして居直った。
「成程、そうじゃ。貴女あなたほどのお方が、かかる恥辱をお受けなさって、夢にして、ながらえておいでなさるはずではないのじゃった。
 懺悔をいたせば、悪い夢とあきらめて、思い直して頂けることもあろうかと思ったですが、いかにも取返しのつかんお身体からだにしたのじゃった、恥入ります。
 夫人おくさん、貴女ばかりは殺しはせんのじゃ。」
「いいえ、飛んだことをおっしゃいます。殿方には何でもないのでございますもの、そして懺悔には罪が消えますと申します、おうらみには思いません。」
「許して下さるか。」
「女の口からき過ぎではございますが、」
「許して下さる。」
「はい、」
「それではどうぞ、思い直して、」
「私はもう、」
 と前褄まえづまを引寄せる。岩の下をいくぐって、下の根のうつろを打って、絶えず、丁々トントンと鼓の音の響いたのが、潮や満ち来る、どッとはげしく、ざぶり砕けた波がしら、白滝しらたきさかしまに、さっとばかり雪を崩して、浦子の肩から、つむりから。
「あ、」と不意に呼吸いきを引いた。濡れしおたれた黒髪に、玉のつらなるしずくをかくれば、南無三なむさん浪にさらわるる、とせなを抱くのに身をもたせて、観念したかんばせの、気高きまでに莞爾にっことして、
「ああ、こうやって一思いに。」
夫人おくさん、おくれはせんですよ。」と、顔につららを注いで言った。打返しがまたざっと。
しぶき[#「さんずい+散」、261-9]がかかる、※[#「さんずい+散」、261-9]がかかる、危いぞ。」
 と、空から高くとばわる声。
 もやが分れて、海面うなづらこつとしてそびえ立った、いわつづきの見上ぐる上。草蒸す頂に人ありて、目の下に声を懸けた、樵夫きこりと覚しき一個ひとり親仁おやじおもて長く髪の白きが、草色の針目衣はりめぎぬに、朽葉色くちばいろ裁着たッつけ穿いて、草鞋わらんじ爪反つまぞりや、巌端いわばなにちょこなんと平胡坐ひらあぐらかいてぞいたりける。
 その岩のおもにひたとあてて、両手でごしごし一ちょうの、きらめく刃物を悠々といでいたり。
 磨ぎつつ、のぞくように瞰下みおろして、
「上へ来さっしゃい、上へ来さっしゃい、浪に引かれると危いわ。」
 という。浪は水晶の柱のごとく、さかしまにほとばしって、今つッ立った廉平の頭上を飛んで、空ざまにずること十丈、親仁の手許の磨ぎ汁を一洗滌ひとあらい、白き牡丹ぼたんの散るごとく、巌角いわかどに飜って、海面うなづらへざっと引く。
「おじご、何を、何をしてござるのか。」と、廉平はわざと落着いて、下からまず声を送った。
石鑿いしのみを研ぐよ。二つ目の浜の石屋に頼まれての、今度建立さっしゃるという、地蔵様の石を削るわ。」
「や、親仁御おじごがな。」
「おお、此方衆こなたしゅはその註文のぬしじゃろ。そうかの。はて、道理こそ、婆々ばばどもが附きまとうぞ。」
 婆々と云うよ、生死しょうしを知らぬ夫人の耳に、鋭くその鑿をもってえぐるがごとく響いたので、
「もし、」と両膝をついて伸び上った。
ばばとお云いなさいますのは。」
「それ、銀目と、金目と、赤い目の奴等やつらよ。主達ぬしたちが功徳での、地蔵様が建ったが最後じゃ。魔物め、居処いどこがなくなるじゃで、さまざまにたたりおって、命まで取ろうとするわ。女子衆おなごしゅ、心配さっしゃんな、身体からだは清いぞ。」
 とて、のみをこつこつ。
「何様それじゃ、昨日きのうから、時々黒雲のくように、我等の身体を包みました。婆というは、何ものでござるじゃろう。」と、廉平はゆうしながら、手をかざして仰いで言った。
 皺手しわで呼吸いきをハッとかけ、斜めにちょうと鑿を押えて、目一杯に海を望み、
「三千世界じゃ、何でも居ようさ。」
「どこに、あの、どこに居ますのでございますえ。」
「それそれそこに、それ、主たちの廻りによ。」
「あれえ、」
「およそ其奴等そいつらがなす業じゃ。夜一夜踊りおって[#「踊りおって」は底本では「踊りおつて」]騒々しいわ、畜生ども、」
 とハタと見るや、うしろの山に影大きく、まなこの光爛々らんらんとして、知るこれ天宮の一将星。
「動くな!」
 とかっする下に、どぶり、どぶり、どぶり、と浪よ、浪よ、浪ようずまくよ。
 同時に、とその片手を挙げた、たなごころの宝刀、稲妻の走るがごとく、射て海にるぞと見えし。
 矢よりもはや漕寄こぎよせた、同じわらべを押して、より幼き他のちごと、親船に寝た以前さきの船頭、三体ともに船にり。
 斜めに高く底見ゆるまで、傾いたふなべりから、二にん半身を乗りいだして、うつむけに海をのぞくと思うと、くろがねかいなわらびの手、二条の柄がすっくと空、穂尖ほさきみじかに、一斉に三叉みつまたほこを構えた瞬間、畳およそ百余畳、海一面に鮮血からくれない
 見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青嵐あおあらしする波の彼方かなたに、荘厳そうごんなること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。
 怪しきものの血潮は消えて、音するばかりあさひの影。波を渡るか、宙をくか、白き鵞鳥がちょう片翼かたつばさ、朝風に傾く帆かげや、白衣びゃくえ水紅色ときいろ水浅葱みずあさぎ、ちらちらと波に漏れて、夫人と廉平がたたずめる、岩山の根のいわに近く、忘るるばかりに漕ぐ蒼空あおぞらうおあり、一尾ふなばたに飛んで、うろこの色、あたかも雪。


==篇中の妖婆ようばの言葉(がぎぐげご)はすべて、半濁音にてお読み取り下されたく候==
明治三十八(一九〇五)年十二月





底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店
   1942(昭和17)年3月30日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について