二た面

泉鏡太郎




おくねこ


 はなしべつにある……色仕掛いろじかけで、あはれなむすめかはいだ元二げんじやつあはせに一まいづゝおびへて質入しちいれにして、にぎつた金子きんすとしてある。
 の一のかはをがれたために可惜をしや、おはるむすめ繼母まゝはゝのために手酷てひど折檻せつかんけて、身投みなげをしたが、それのちことくだん元二げんじはあとをもないで、むらふた松並木まつなみき一帳場ひとちやうば瓜井戸うりゐどはらかゝつたのがかれこれよるすぎであつた。
 若草わかくさながら廣野ひろの一面いちめん渺茫べうばうとしてはてしなく、かすみけてしろ/″\と天中そらつきはさしのぼつたが、葉末はずゑかるゝわればかり、きつね提灯ちやうちんえないで、時々とき/″\むらくものはら/\とかゝるやうに處々ところ/″\くさうへめるのはこゝに野飼のがひこまかげ
 元二げんじ前途ゆくて見渡みわたして、これから突張つゝぱつてして瓜井戸うりゐど宿やどはひるか、こゝのつをしたとつては、旅籠屋はたごやおこしてもめてはくれない、たしない路銀ろぎん江戸えどまでくのに、女郎屋ぢよらうやふわけにはかず、まゝよとこんなことはさてれたもので、根笹ねざさけて、くさまくらにころりとたが、如何いかにもつき
 はるながらえるまで、かげ草葉くさばうらく。ひかりすのでかさつて引被ひつかぶつて、あし踏伸ふみのばして、ねむりかけるとニヤゴー、きそれが耳許みゝもとで、小笹こざさくのがきこえた。
「や、念入ねんいりなところまでつててやあがつた。野猫のねこことのない原場はらつぱだが。」
 ニヤゴとまたく。みゝについてうるさいから、しツ/\などとつて、ながら兩手りやうてでばた/\とつたが、矢張やはりきこえる、ニヤゴ、ニヤゴーとつゞくやうで。
「いけ可煩うるせ畜生ちくしやうぢやねえか、畜生ちくしやう!」と、怒鳴どなつて、かさはらつてむつくりと半身はんしん起上おきあがつて、かしてるとなにらぬ。くせ四邊あたりにかくれるほどな、びたくさかげもなかつた。つき皎々かう/\として眞晝まひるかとうたがふばかり、はら一面いちめん蒼海あをうみぎたる景色けしき
 トいかり一具いちぐすわつたやうに、あひけんばかりへだてて、薄黒うすぐろかげおとして、くさなかでくる/\と※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはくるまがある。はて、何時いつに、あんなところ水車すゐしやけたらう、とぢつかすと、うやらいとくるまらしい。
 白鷺しらさぎがすらりとくびばしたやうに、くるまのまはるにしたがうて眞白まつしろいとつもるのが、まざ/\としろい。
 何處どこかでかすかに、ヒイとさけぶ、うらわかをんなこゑ
 晝間ひるまあのおはる納戸なんどいとつて姿すがた猛然まうぜん思出おもひだすと、矢張やつぱ啼留なきやまぬねここゑが、かねての馴染なじみでよくつた、おはる撫擦なでさすつて可愛かはいがつたくろねここゑ寸分すんぶんちがはぬ。
ゆめだ。」
 とおもひながら瓜井戸うりゐど眞中まんなかに、一人ひとりあたまから悚然ぞつとすると、する/\とかすみびるやうに、かたちえないが、自分じぶんまはりにからまつてねこはうへ、まねいて手繰たぐられたやうに絲卷いとまきからいといたが、はゞたけさつ一條ひとすぢ伸擴のびひろがつて、かた一捲ひとまきどうからんで。
「わツ。」
 と掻拂かきはらをぐる/\きに、二捲ふたまきいてぎり/\と咽喉のどめる、しめらるゝくるしさに、うむ、とうめいて、あしそらざまに仰反そりかへる、と、膏汗あぶらあせ身體からだしぼつて、さつかぜめた。
 くさまくらのまゝで、やしら/″\としらむ。こまびんがさら/\とあさのづらにゆらいでえる。
 おそろしいより、ゆめれて、うれしさがさきつた。暫時しばし茫然ばうぜんとしてたが、膚脱はだぬぎにつて大汗おほあせをしつとりいた、手拭てぬぐひむか顱卷はちまきをうんとめて、確乎しつか持直もちなほして、すた/\と歩行出あるきだす。
 野路のみち朝風あさかぜあしかるく、さつ/\とぎて、瓜井戸うりゐど宿やどはひつたのが、まだしら/″\あけで。
 宿やど入口いりくち井戸川ゐどがはつて江戸川えどがはをなまつたやうな、いさゝかものしさうなながれがあつた。ふるはしかゝつてた。
 もとよりをやつす色氣いろけ十分じふぶんをとこであるから、道中笠だうちうがさなかながらやにのついたかほは、茶店ちややばゞあにものぞかせたくない。其處そこで、でこぼこと足場あしばわるい、蒼苔あをごけ夜露よつゆでつる/\とすべる、きし石壇いしだんんでりて、かさいで、きしくさへ、荷物にもつうへ顱卷はちまきをはづして、こゝで、生白なましろ素裸すはだかになつて、はひつておよがないばかりに、あし爪先つまさきまで綺麗きれいいた。
 衣服きものおびめて、やがてしり端折はしをらうところ、ふとはしうへると、堅氣かたぎおほいが、賣女屋ばいぢよやのあるちひさな宿やどなんとなく自墮落じだらくふうまるとえて、宿中しゆくぢういづれも朝寢あさねらしい。
 うまのすゞひとつまだこえず、とりない、はし欄干らんかんうへに、黒猫くろねこが一ぴき
 前後ぜんごあしぼんでのそりとまつて、筑波つくばやま朝霞あさがすみに、むつくりとかまへながら、一ぽん前脚まへあしで、あの額際ひたひぎはからはなさきをちよい/\と、ごとくちのやうにけて、ニタ/\わらひで、しもながれいて、う、かほあらふ、と所作しよさた。
畜生ちくしやうめ。」
 それかあらぬか、昨夜ゆうべ耳許みゝもとでニヤゴ/\いて、のために可厭いやゆめた。にくさげな、高慢かうまんな、ひと馬鹿ばかにしたかたちうだい、總別そうべつはない畜生ちくしやうだ、とこゝろから、石段いしだんれたかけらひろつて、ぞくにねことふ、川楊かはやぎがくれに、ぢつねらつて、ひしりとげる、とひとせつけがましく此方こつちい/\、みぎのちよつかいをつてたが、畜生ちくしやう不意ふいたれたらしい。
 ひたひかすつて、つぶてみゝさきへトンとあたつた。
 ※(「火+赫」、第3水準1-87-66)かツ眞黄色まつきいろひからしたが、ギヤツといて、ひたりと欄干らんかんした刎返はねかへる、とはしつたつてつぶてはしつた宿やどなかかくれたのである。
ざまやがれ。」
 カアカア、アオウガアガアガア、と五六みづうへひく濡色ぬれいろからすくちばしくろぶ。ぐわた/\、かたり/\とはしうへ荷車にぐるま
「おはやう。」
「や、おはやう。」とこゑけて、元二げんじはすれちがひにはしわたつた。
 それから、りのある賣女屋ばいぢよやまへかさかたむけて、狐鼠々々こそ/\かくれるやうにしてとほつたが、まだ何處どこきてはない、はるこまやかにもんとざして、大根だいこんゆめ濃厚こまやか瓜井戸うりゐど宿しゆくはづれに、つとを一まいけた一膳いちぜんめしのきはひつた。
なに出來できますかね。」
 嬰兒あかんぼ亭主ていしゆもごみ/\と露出むきだし一間ひとままくらならべて、晨起あさおき爺樣ぢいさま一人ひとりで、かましたたきつけてところで。
「まだ、へい、にもござりましねえね、いんまわらびのおしるがたけるだが、おめし昨日きのふ冷飯ひやめしだ、それでよくばげますがね。」
結構けつこうだ、一ぜんしておくんなさい、いや、どつこいしよ。」
 と店前みせさき縁側えんがはかべ立掛たてかけてあつたやつを、元二げんじ自分じぶん据直すゑなほして、こしける。
 其處そこふるちよツけた能代のしろぜんわんぬり嬰兒あかんぼがしたか、ときたならしいが、さすがに味噌汁みそしるが、ぷんとすきはらをそゝつてにほふ。
「さあ、らつせえまし、わらび自慢じまんだよ。これでもへいうちふではねえ。お客樣きやくさまるだで、澤山どつさり沙魚はぜあたまをだしにれてくだアからね。」
「あゝ、あゝ、そりやとん御馳走ごちそうだ。」
 とはしさきつゝいてて、
たまらねえ、去年きよねん沙魚はぜからびたあたまばかり、こゝにも妄念まうねんがあるとえて、きたいてそろつてくちけてら。わらびどうにつけてうよ/\と這出はひだしさうだ、ぺつ/\。」
 と、あたまだけぜんすみへはさみすと、味噌みそかすに青膨あをぶくれで、ぶよ/\とかさなつて、芥溜ごみため首塚くびづかるやう、てられぬ。
 それでも、げつそりいたはらしるかけめしで五ぜんふもの厚切あつぎり澤庵たくあんでばり/\と掻込かつこんだ。生温なまぬるちやをがぶ/″\とつて、ぢいがはさみしてくれる焚落たきおとしで、つゞけに煙草たばこんで、おほい人心地ひとごこちいた元二げんじ
「あい、おだいいたよ。」
「ゆつくらしてござらつせえ。」
「さて、出掛でかけよう。」
 といまはたいたまゝで、元二げんじが、財布さいふ出入だしいれをするうち縁側えんがははしいた煙管きせるつて、兩提りやうさげつゝ突込つゝこまうとするとき縁臺えんだいしたから、のそ/\と前脚まへあしくろした一ぴき黒猫くろねこがある。
 ト向直むきなほつて、元二げんじかほをじろりとるやうにしてまねき、とかたちしやがんだが、何故なぜ無法むはふにくかつた。で、風呂敷包ふろしきづつみとかさつてちながら、煙管きせるのまゝ片手かたてつて、づいと縁臺えんだいはなれてつてた。
 元二げんじが、一膳いちぜんめしまへはなれて、振返ふりかへる、とくだん黒猫くろねこが、あとを、のそ/\と歩行あるいてる。
 此處こゝまでこらへたのは、飯屋めしや飼猫かひねこだ、とおもつたからで。う、ぢいさまのとゞかないのを見澄みすまして、
畜生ちくしやう。」
 と、雁首がんくびで、ねこひたひをぴしりとつた、ぎやつ、とさけぶと、ねこはすかひにんで、や、其處そこ用水ようすゐべりの田圃たんぼんだ。
「おさらばだい。」
 と、煙管きせるく。とじり/\と吸込すひこんで吹殼ふきがらのこそげいてけないやつ、よこなぐりに、並木なみきまつへトンとはらつて、はなかすみ江戸えどそら筑波つくばよこいそぐ。
 トあれよ、かうべしたつて、並木なみきまつえだからえだへ、土蜘蛛つちぐもごと黒猫くろねこがぐる/\とひながら。

よこしぶき


 さても、のち江戸えど元二げんじいたところは、本所南割下水ほんじよみなみわりげすゐんで祿千石ろくせんごくりやうした大御番役おほごばんやく服部式部邸はつとりしきぶていで、傳手つてもとめておな本所林町ほんじよはやしちやう家主いへぬし惣兵衞店そうべゑたな傳平でんべいふもの請人うけにんひとし仲間ちうげん住込すみこんでたのであつた。
 小利口こりこうにきび/\と※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)たちまはつて、あさまへからきて、氣輕きがる身輕みがる足輕あしがる相應さうおう、くる/\とよくはたらうへはや江戸えどみづみて、早速さつそく情婦いろひとつと了簡れうけんから、ちつたか鼻柱はなばしらから手足てあしさきまでみがくことあらふこと、一日いちにち十度とたびおよぶ。心状しんじやうのほどはらず、仲問ちうげん風情ふぜいには可惜をしい男振をとこぶりわかいものが、鼻綺麗はなぎれいで、勞力ほねをしまずはたらくから、これはもありさうなこと上下かみしもこぞつてとほりがよく、元二げんじ元二げんじたいした評判ひやうばん
 けて最初さいしよのめがねで召抱めしかゝへた、服部家はつとりけ用人ようにん關戸團右衞門せきどだんゑもん贔屓ひいきけやうは一通ひとゝほりでなかつた。
 頼母たのもしいのと當人たうにん自慢じまんだけの生白なまじろところへ、足駄あしだをひつくりかへしたのは、門内もんない團右衞門だんゑもんとは隣合となりあはせの當家たうけ家老からう山田宇兵衞やまだうへゑ召仕めしつかへの、まはり葛西かさい飯炊めしたき
 つゞいて引掛ひつかゝつたのがおないへ子守兒こもりつこ二人ふたり、三人目にんめ部屋頭へやがしらなんとかおやぢ女房にようばうであつた。
 いや、いさんだのさふらふの、瓜井戸うりゐどあねべたりだが、江戸えどものはコロリとるわ、で、葛西かさいに、栗橋北千住くりはしきたせんぢゆどぢやうなまづを、白魚しらをつて、あごでた。當人たうにんをんなにかけてはのつもりで下開山したかいざん木下藤吉きのしたとうきち一番槍いちばんやり一番乘いちばんのり一番首いちばんくび功名こうみやうをしてつた了簡れうけん
 いきほひじようじて、立處たちどころ一國一城いつこくいちじやうあるじこゝろざしてねらひをつけたのは、あらうことか、用人ようにん團右衞門だんゑもん御新造ごしんぞ、おきみ、とふ、としやうや二十はたちく、如何いかにも一國一城いつこくいちじやうにたとへつべきいたつてうつくしいのであつた。
 が、これはさすがに、井戸端ゐどばたで、のりけるわけにはかない、さりとて用人ようにん若御新造わかごしんぞ、さして深窓しんさうのとふではないから、隨分ずゐぶん臺所だいどころに、庭前ていぜんではあさに、ゆふに、したがひのつまなまめかしいのさへ、ちら/\られる。
元二げんじや。」
 とやさしいこゑ時々とき/″\く。から直接ちよくせつに、つかひのようのうけわたしもするほどなので、御馳走ごちそうまへに、たゞあづけだ、と肝膽かんたんしぼりつつもだえた。
 ト團右衞門方だんゑもんかた飼猫かひねこをすが一ぴき、これははじめからたのであるが、元二げんじ邸内ていない奉公ほうこうをしてから以來いらい何處どこからたか、むく/\とふとつた黒毛くろげつや天鵝絨びろうどのやうなめすひとつ、何時いつにか、住居すまひはひつて縁側えんがは座敷ざしき臺所だいどころ、とまゝにふたつがくるあそぶ。
 ところが、わか御新造ごしんぞより、としとつた旦那だんな團右衞門だんゑもんはうが、いさゝ煩惱ぼんなうふくらゐ至極しごく猫好ねこずきで、ちつともかまはないで、おなじやうにくろよ、くろよ、と可愛かはいがるので何時いつともなしに飼猫かひねこ同樣どうやうつたとふ。くろが、またしきりに元二げんじむつんで、ニヤゴー、とひる附添つきそひあるいて、啼聲なくこゑあいくるしくいて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはる。
 ト元二げんじまたでつさすりつ可愛かはいがる。ごろには、それとなくかぜのたよりに、故郷こきやう音信いんしんいて自殺じさつしたあによめのおはるなりゆきも、みな心得違こゝろえちがひからおこつたこといてつてたので、自分じぶん落目おちめなら自棄やけにもらうが、一番首いちばんくび一番乘いちばんのり、ソレ大得意だいとくいときであるからなんとなく了簡れうけんやはらかに、首筋くびすぢもぐにや/\としてをりから、自然しぜんあめさびしくなどはお念佛ねんぶつひとつもとなへるところかつまたおな一國一城いつこくいちじやうあるじるにも猛者もさ夜撃朝懸ようちあさがけとはたちちがふ。色男いろをとここなしは、じやうふくんで、しめやかに、ものやさしく、にしみ/″\としたふう天晴武者振あつぱれむしやぶりであるのである。と分別ふんべつをするから、つぶてつたり、煙管きせる雁首がんくび引拂ひつぱらふなど、いまやうな陣笠ぢんがさ勢子せこわざ振舞ふるまはぬ、大將たいしやうもつぱ寛仁大度くわんにんたいどことと、すなは黒猫くろねこを、ト御新造ごしんぞこゑ内證ないしよう眞似まねて、
くろや、くろや。」
 と身振みぶりをして、時々とき/″\頬摺ほゝずり、はてさて氣障きざ下郎げらうであつた。
 とし寛政くわんせいねん押詰おしつまつて師走しはす幾日いくにちかは當邸たうてい御前ごぜん服部式部はつとりしきぶどの誕生日たんじやうびとあつて、邸中やしきぢうが、とり/″\支度したくいそがしくなんとなくまつりちかづいたやうにさゞめきつ。
 の一日前にちまへ暮方くれがたに、元二げんじ團右衞門方だんゑもんかた切戸口きりどぐちから庭前にはさき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはつた、座敷ざしき御新造ごしんぞことあらかじつてのうへで。
 落葉おちば樣子やうすをしてはうきつて、枝折戸しをりどからはひつた。一寸ちよつと言添いひそへることがある、ごろから元二げんじやはらかな下帶したおびなどを心掛こゝろがけ、淺黄あさぎ襦袢じゆばんをたしなんで薄化粧うすげしやうなどをする、もつといまでこそあれ、時分じぶん仲間ちうげんかほ仙女香せんぢよかうらうとはたれおもひがけないから、うとつたものはなかつたらう、うへ、ぞつこんおもひこがれる御新造ごしんぞのおきみやさしい風情ふぜいのあるのをうかゞつて、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ゐまはりの夜店よみせなどで、表紙へうしやぶれた御存ごぞんじのうたほんあさつてて、なんとなくひとせるやうにひねくつてたのであつたが。
 とき御新造ごしんぞみじか時分じぶんことえん端近はしぢかて、御前ごぜん誕生日たんじやうびには着換きかへてようとふ、紋服もんぷくを、またうでもない、しつけのいと一筋ひとすぢ間違まちがひのないやうに、箪笥たんすからして、とほして、あらためてたゝなほしてところ
「えゝ、御新造樣ごしんぞさまつゞきまして結構けつこうなお天氣てんきにござります。」
「おや、元二げんじかい、おせいます。今度こんどまた格別かくべついそがしからう。御苦勞ごくらうだね。」
つかまつりまして、かずなりませぬものもかげながらおよろこまをしてります。」
「あゝ、おめでたいね、おきやくさまがむと、毎年まいねんね、おまへがたもあかしであそぶんだよ。まあ、それたのしみにしておはたらきよ。」
 とものやさしい、やはらかなことば附入つけいつて、
「もう、それにつきまして。」
 と沓脱くつぬぎかたはらうづくまつて揉手もみでをしながら、※々づう/\[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、447-13]しいをとこで、づツとかほ突出つきだした。
なんとも恐多おそれおほことではござりますが、御新造樣ごしんぞさまひとつおねがひがあつて罷出まかりでましてござります、へい。ほかことでもござりませんが、手前てまへ當年たうねんはじめての御奉公ごほうこうにござりますが、うけたまはりますれば、大殿樣おほとのさま御誕生ごたんじやう御祝儀ごしうぎばん、お客樣きやくさまがお立歸たちかへりにりますると、手前てまへども一統いつとうにも部屋へや御酒ごしゆくださりまするとか。」
「あゝ、無禮講ぶれいかうまをすのだよ、たんとおあそび、そしておまへきつなにかおありだらう、隱藝かくしげいでもおしだといね。」
 とつて莞爾につこりした。元二げんじ頸許えりもとからぞく/\、
滅相めつさうな、隱藝かくしげいなど、へゝゝ、それきましてでござります。無禮講ぶれいかうまをことで、從前じうぜんにも向後かうごにもほかありませんのおやしきけつしてやうなことはござりますまいが、羽目はめをはづしてたべひますると、間違まちがひおこりやすいものでござります、其處そこちまして、手前てまへ了簡れうけんで、なんと、今年ことしひとおもむきをかへておさけ頂戴ちやうだいしながら、各々めい/\國々くに/″\はなし土地とちところ物語ものがたりふのを、しめやかにしようではあるまいかと申出まをしでましたところ部屋頭へやがしらだいばん、いづれも當御邸たうおやしき御家風ごかふうで、おとなしい、實體じつていなものばかり、一人ひとり異存いぞんはござりません。
 ところ發頭人ほつとうにん手前てまへ出來できませぬまでも皮切かはきりをいたしませぬと相成あひなりません。
 國許くにもとにござりますはなしにつきまして、それ饒舌しやべりますのにじつにこまりますことには、事柄ことがらつゞきうちうたひとつござりますので。
 部屋へやがしらは風流人ふうりうじんで、かむりづけ、ものはづくしなどとふのをります。川柳せんりうに、うたひとつあつてはなしにけつまづき、とふのがあると何時いつかもわらつてりましたが、成程なるほどとほりと感心かんしんしましたのが、今度こんどうへで、うたがあつてつまづきまして、部屋へやがしらにわらはれますのが、手前てまへ口惜くちをしいとぞんじまして。」
 と若氣わかげ思込おもひこんだやうな顏色かほつきをしてつた。川柳せんりう口吟くちずさんでかむりづけをたのしむ、結構けつこう部屋へやがしらの女房にようばうを、ものして、るからしからぬ。
すこしばかり小遣こづかひうちからやうなものを、」
 と懷中ふところから半分はんぶんばかり紺土佐こんどさ表紙へうし薄汚うすよごれたのをしてせる。
「おや、うたの……おせな。」
 とひとみが、たゝみかけた良人をつと禮服れいふくもんはなれて、元二げんじ懷中ふところほんうつつたのであつた。
いゝえ、おはづかしい、御目おめけるやうなのではござりません。それに、夜店よみせひましたので、お新造樣しんぞさまれましてはきたなうござります。」
 と引込ひつこませる、とみづ出花でばなふのでもおきみはさすがに武家ぶけ女房にようばう仲間ちうげんはだいたものを無理むりようとはしなかつた。
うかい。でも、おまへやさしいお心掛こゝろがけだね。」
 とふ。宗桂そうけいのあしらひより、番太郎ばんたらう桂馬けいまはうが、えらさうにえるならひであるから、おきみ感心かんしんしたらしかつた。もさうず、と元二げんじ益々ます/\附入つけいる。
ほんつてさぐりみにさがしましてもどれがなんだかわかりません。それに、あゝ、なんとかの端本はほんか、と部屋頭へやがしらほんぞんじてりますから、なかうたこれから引出ひきだしましたのでは先刻せんこく承知しようちとやらでござりませう。それではたねあかしの手品てじな同樣どうやうなぐさみになりません、おねがひまをしましたのはこゝこと御新造樣ごしんぞさまひとうぞなんでもおをしへなさつてつかはさりまし。」
 おきみさんが、ついうつかりとせられて、
わたしにもよくはわからないけれど、あの、ことまをすのだえ、うたこゝろはえ。」
「へい、はなし次第しだいでござりまして、それこひでござります。」
 と初心うぶらしくわざ俯向うつむいてあかつた。おきみも、ほんのりといろめたが、には夕榮ゆふばえである。
こひこゝろはどんなのだえ。おもうてふとか、はないとか、しのぶ、つ、うらむ、いろ/\あるわね。」
「えゝ、申兼まをしかねましたが、それそれが、みちなりませぬ、目上めうへのおかたに、もうこゝろもくらんでまよひましたとふのは、對手あひて庄屋しやうやどのの、の。」
 と口早くちばや言足いひたした。
 で、おきみなんかない樣子やうすで、
「おち。」
 とすこ俯向うつむいてかんがへるやうに、歌袖うたそでひざいた姿すがたまたたぐひなくうつくしい。
ういたしたらうであらうね。
おもふこと關路せきぢやみのむらくも
    らしてしばしさせよ月影つきかげ
 わかつたかい。一寸ちよつといま思出おもひだせないから、うしておきな、またいたらまをさうから。」
 元二げんじつぶつて、如何いかにもかんへたらしく、
おもふこと關路せきぢやみのむちくもを、
 らしてしばしさせよ月影つきかげ
 御新造樣ごしんぞさまうへ御無理ごむりは、たすけると思召おぼしめしまして、のおうた一寸ちよつとしたゝくださいまし。お使つかひ口上こうじやうちがひまして、ついれませぬこと下根げこんのものにわすれがちにござります、よく、拜見はいけんしておぼえますやうに。」
 としをらしくつたので、何心なにごころなくことばしたがつた。おきみは、しかけたよういそがしいをりから、ふゆれかゝる、ついありあはせたしつけ紅筆べにふで懷紙ふところがみへ、と丸髷まるまげびんつややかに、もみぢをながすうるはしかりし水莖みづぐきのあと。
 さて、はなしなか物語ものがたり、わづらはしいからはぶく、……いはひ仲間ちうげんども一座いちざ酒宴しゆえん成程なるほど元二げんじ仕組しくんだとほり、いづれも持寄もちよりで、國々くに/″\はなしをはじめた。元二げんじじゆんさかづき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはつてとき自分じぶん國許くにもとことりて仔細しさいあつて、しのわかものが庄屋しやうや屋敷やしき奉公ほうこうして、つま不義ふぎをする、なかだちは、をんな寵愛ちようあいねこで、首環くびわ戀歌こひうたむすんでつまくとはこび。情婦じやうふであつたおはるいへ手飼てがひねこがあつたから、そでたもとに、ねこからところは、るやうるやうに饒舌しやべつて、
じつこれは、御用人ごようにん御新造樣ごしんぞさまに。」
 と如何いかなるくはだてか、内證ないしようはずわざ打明うちあけて饒舌しやべつて、紅筆べにふで戀歌こひうた移香うつりがぷんとする、懷紙ふところがみうや/\しくひろげて人々ひと/″\思入おもひいれ十分じふぶんせびらかした。
 自分じぶんゆる色男いろをとこが、おもひをかけてとゞかぬをんなを、うしてひとほこすべ隨分ずゐぶんかぞれないほどあるのである。
 一座いちざそばだてた。
 けれども、對手あひて守子もりつこ飯炊めしたきでない、ひともこそあれ一大事いちだいじだ、とおもふから、のちとてもみなくちをつぐんでなんにもはず無事ぶじにしばらくつた。
 元二げんじは、えず、うたを、はだへてつてて、ひとにつくやうに、つかないやうに、ちら/\としては始終しじうぢつる。
 うかとおもふと、一人ひとりで、おもひにねるか、湯氣ゆげうへに、懷紙ふところがみをかざして、べにして、そつうでてたことなどもある、ほりものにでもしよう了簡れうけんであつた、とえるが、これかひがなかつたとふ。
 翌年よくねん、二ぐわつ初午はつうまことで、元二げんじばんおもむきへて、部屋へや一人ひとり火鉢ひばちひきつけながられいうた手本てほんに、うつくしいかなの手習てならひをしてた。
 其處そこへあの、めす黒猫くろねこが、横合よこあひから、フイとりかゝつて、おきみのかいたうた懷紙ふところがみを、後脚あとあしつてて前脚まへあしふたつで、咽喉のどかゝむやうにした。はやこと、くる/\と引込ひきこんで手玉てだまるから、吃驚びつくりして、元二げんじくとはなさぬ。
 あわてたのなんのではない、が、はげしく引張ひつぱるとけさうなところから、なだめたが、すかしたが、かひさらになし、くちくはへた。
 堪兼たまりかねて、火箸ひばしつて、ヤツとあたまつたのがしたれて、さきあたつたのが、ひだりした。キヤツとく、と五六しやく眞黒まつくろをどあがつて、障子しやうじ小間こまからドンとた、もつとうたくはへたまゝで、ののち二日ふつかばかりかげせぬ。
 三日目みつかめに、井戸端ゐどばたで、れい身體からだあらつてところへ、ニヤーとた。
 わすれたやうに、相變あひかはらず、すれつ、もつれつ、と可懷かはいい。
 したに、火箸ひばしさきつゝいた、きずがポツツリえる、トたしかおぼえてわすれぬ、瓜井戸うりゐど宿しゆくはづれで、飯屋めしや縁側えんがはしたから畜生ちくしやうを、煙管きせる雁首がんくびでくらはしたのが、ちやうおなひだりした。で、またいまきず一昨日をとゝひ昨夜ゆうべ怪我けがをしたものとはえぬ、綺麗きれいえて、うまれつき其處そこだけ、いろかはつてえるやうなのに悚然ぎよつとした。
 はじめから、かたちひ、毛色けいろひ、あまつさそれが、井戸川ゐどがははし欄干らんかんで、顏洗かほあらひをつてねこ同一おなじことで、つゞいては、おはる可愛かはいがつたくろにもる。
 とはつたけれども、黒猫くろねこはざらにある、べつ可怪をかしいともおもはなかつたのが、きずてからたまらなくになりした。しかも、たれたをとこ齒向はむいて、ウヽとつめぐのでない。それからは、猶更なほさらもつてじやれいて、ろくに團右衞門だんゑもんやしきへもかず、まつはりつくので、ふら/\ちたいほどかゝつた。
 ところへ、御新造ごしんぞきみさんが、病氣びやうきこと引籠ひきこもり、とあつてしばらくふつ姿すがたえぬ。
 とおもふと、やがて保養ほやうとあつて、實家方さとかたへ、かへつたのである。が、あはれ、婦人ふじん自殺じさつした。それはむかし、さりながら、田舍ゐなかものの※々づう/\[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、454-14]しいのは、いまなによりも可恐おそろしい。





底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
   1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」    447-13、454-14


●図書カード