話は
別にある……
色仕掛で、あはれな
娘の
身の
皮を
剥いだ
元二と
云ふ
奴、
其の
袷に一
枚づゝ
帶を
添へて
質入れにして、
手に
握つた
金子一
歩としてある。
此の一
歩に
身のかはを
剥がれたために
可惜や、お
春と
云ふ
其の
娘は
繼母のために
手酷き
折檻を
受けて、
身投げをしたが、
其も
後の
事。
件の
元二はあとをも
見ないで、
村二つ
松並木を
一帳場で
瓜井戸の
原へ
掛つたのが
彼これ
夜の
八ツ
過であつた。
若草ながら
廣野一面渺茫として
果しなく、
霞を
分けてしろ/″\と
天中の
月はさし
上つたが、
葉末に
吹かるゝ
我ばかり、
狐の
提灯も
見えないで、
時々むら
雲のはら/\と
掛るやうに
處々草の
上を
染めるのはこゝに
野飼の
駒の
影。
元二は
前途を
見渡して、
此から
突張つて
野を
越して
瓜井戸の
宿へ
入るか、
九つを
越したと
成つては、
旅籠屋を
起しても
泊めてはくれない、たしない
路銀で
江戸まで
行くのに、
女郎屋と
云ふわけには
行かず、まゝよとこんな
事はさて
馴れたもので、
根笹を
分けて、
草を
枕にころりと
寢たが、
如何にも
良い
月。
春の
夜ながら
冴えるまで、
影は
草葉の
裏を
透く。
其の
光が
目へ
射すので
笠を
取つて
引被つて、
足を
踏伸ばして、
眠りかけるとニヤゴー、
直きそれが
耳許で、
小笹の
根で
鳴くのが
聞えた。
「や、
念入りな
處まで
持つて
來て
棄てやあがつた。
野猫は
居た
事のない
原場だが。」
ニヤゴと
又啼く。
耳についてうるさいから、しツ/\などと
遣つて、
寢ながら
兩手でばた/\と
追つたが、
矢張聞える、ニヤゴ、ニヤゴーと
續くやうで。
「いけ
可煩え
畜生ぢやねえか、
畜生!」と、
怒鳴つて、
笠を
拂つてむつくりと
半身起上つて、
透かして
見ると
何も
居らぬ。
其の
癖四邊にかくれるほどな、
葉の
伸びた
草の
影もなかつた。
月は
皎々として
眞晝かと
疑ふばかり、
原は
一面蒼海で
凪ぎたる
景色。
ト
錨が
一具据つたやうに、
間十
間ばかり
隔てて、
薄黒い
影を
落して、
草の
中でくる/\と

る
車がある。はて、
何時の
間に、あんな
處に
水車を
掛けたらう、と
熟と
透かすと、
何うやら
絲を
繰る
車らしい。
白鷺がすらりと
首を
伸ばしたやうに、
車のまはるに
從うて
眞白な
絲の
積るのが、まざ/\と
白い。
何處かで
幽に、ヒイと
泣き
叫ぶ、うら
少い
女の
聲。
晝間あのお
春が
納戸に
絲を
繰つて
居る
姿を
猛然と
思出すと、
矢張り
啼留まぬ
猫の
其の
聲が、
豫ての
馴染でよく
知つた、お
春が
撫擦つて
可愛がつた
黒と
云ふ
猫の
聲に
寸分違はぬ。
「
夢だ。」
と
思ひながら
瓜井戸の
野の
眞中に、
一人で
頭から
悚然すると、する/\と
霞が
伸びるやうに、
形は
見えないが、
自分の
居まはりに
絡つて
啼く
猫の
居る
方へ、
招いて
手繰られたやうに
絲卷から
絲を
曳いたが、
幅も
丈も
颯と
一條伸擴がつて、
肩を
一捲、
胴で
搦んで。
「わツ。」
と
掻拂ふ
手をぐる/\
捲きに、
二捲卷いてぎり/\と
咽喉を
絞める、
其の
絞らるゝ
苦しさに、うむ、と
呻いて、
脚を
空ざまに
仰反る、と、
膏汗は
身體を
絞つて、
颯と
吹く
風に
目が
覺めた。
草を
枕が
其のまゝで、
早やしら/″\と
夜が
白む。
駒の
鬢がさら/\と
朝のづらに
搖いで
見える。
恐ろしいより、
夢と
知れて、
嬉しさが
前に
立つた。
暫時茫然として
居たが、
膚脱ぎに
成つて
大汗をしつとり
拭いた、
其の
手拭で
向う
顱卷をうんと
緊めて、
氣を
確乎と
持直して、すた/\と
歩行出す。
野路の
朝風、
足輕く、さつ/\と
過ぎて、
瓜井戸の
宿に
入つたのが、まだしら/″\あけで。
宿の
入口に
井戸川と
云つて
江戸川をなまつたやうな、
些かもの
欲しさうな
稱の
流があつた。
古い
木の
橋が
架つて
居た。
固より
身をやつす
色氣十分の
男であるから、
道中笠の
中ながら
目やにのついた
顏は、
茶店の
婆にも
覗かせたくない。
其處で、でこぼこと
足場の
惡い、
蒼苔と
夜露でつる/\と
辷る、
岸の
石壇を
踏んで
下りて、
笠を
脱いで、
岸の
草へ、
荷物を
其の
上。
顱卷をはづして、こゝで、
生白い
素裸になつて、
入つて
泳がないばかりに、
足の
爪先まで
綺麗に
拭いた。
衣服を
着て
帶を
〆めて、やがて
尻を
端折らうと
云ふ
頃、ふと
橋の
上を
見ると、
堅氣も
多いが、
賣女屋のある
小さな
宿、
何となく
自墮落の
風が
染まると
見えて、
宿中いづれも
朝寢らしい。
馬のすゞ
一つまだ
聞こえず、
鳥も
居ない、
其の
橋の
欄干の
上に、
黒猫が一
疋。
前後の
脚三
本でのそりと
留まつて、
筑波の
山を
朝霞に、むつくりと
構へながら、一
本の
前脚で、あの
額際から
鼻の
先をちよい/\と、
其の
毎に
口を
箕のやうに
開けて、ニタ/\
笑ひで、
下の
流を
向いて、
恁う、
顏を
洗ふ、と
云ふ
所作で
居た。
「
畜生め。」
それかあらぬか、
昨夜は
耳許でニヤゴ/\
啼いて、
其のために
可厭な
夢を
見た。
其の
憎さげな、
高慢な、
人を
馬鹿にした
形は
何うだい、
總別、
氣に
食はない
畜生だ、と
云ふ
心から、
石段の
割れた
欠を
拾つて、
俗にねこと
言ふ、
川楊の
葉がくれに、
熟と
狙つて、ひしりと
擲げる、と
人に
見せつけがましく
此方を
見い/\、
右のちよつかいを
遣つて
居たが、
畜生不意を
打たれたらしい。
額を
掠つて、
礫は
耳の
先へトンと
當つた。

と
眞黄色な
目を
光らしたが、ギヤツと
啼いて、ひたりと
欄干を
下へ
刎返る、と
橋を
傳つて
礫の
走つた
宿の
中へ
隱れたのである。
「
態ア
見やがれ。」
カアカア、アオウガアガアガア、と五六
羽、
水の
上へ
低く
濡色の
烏、
嘴を
黒く
飛ぶ。ぐわた/\、かたり/\と
橋の
上を
曳く
荷車。
「お
早う。」
「や、お
早う。」と
聲を
掛けて、
元二はすれ
違ひに
橋を
渡つた。
それから、
借りのある
賣女屋の
前は
笠を
傾けて、
狐鼠々々と
隱れるやうにして
通つたが、まだ
何處も
起きては
居ない、
春濃かに
門を
鎖して、
大根の
夢濃厚。
此の
瓜井戸の
宿はづれに、
漸つと
戸を一
枚開けた
一膳めし
屋の
軒へ
入つた。
「
何か
出來ますかね。」
嬰兒も
亭主もごみ/\と
露出の
一間に
枕を
並べて、
晨起の
爺樣一人で、
釜の
下を
焚つけて
居た
處で。
「まだ、へい、
何にもござりましねえね、いんま
蕨のお
汁がたけるだが、お
飯は
昨日の
冷飯だ、それでよくば
上げますがね。」
「
結構だ、一
膳出しておくんなさい、いや、どつこいしよ。」
と
店前の
縁側、
壁に
立掛けてあつた
奴を、
元二が
自分で
据直して、
腰を
掛ける。
其處へ
古ちよツけた
能代の
膳。
碗の
塗も
嬰兒が
嘗め
剥がしたか、と
汚らしいが、さすがに
味噌汁の
香が、
芬とすき
腹をそゝつて
香ふ。
「さあ、
遣らつせえまし、
蕨は
自慢だよ。これでもへい
家で
食ふではねえ。お
客樣に
賣るだで、
澤山沙魚の
頭をだしに
入れて
炊くだアからね。」
「あゝ、あゝ、そりや
飛だ
御馳走だ。」
と
箸の
先で
突いて
見て、
「
堪らねえ、
去年の
沙魚の
乾からびた
頭ばかり、
此にも
妄念があると
見えて、
北を
向いて
揃つて
口を
開けて
居ら。
蕨を
胴につけてうよ/\と
這出しさうだ、ぺつ/\。」
と、
頭だけ
膳の
隅へはさみ
出すと、
味噌かすに
青膨れで、ぶよ/\とかさなつて、
芥溜の
首塚を
見るやう、
目も
當てられぬ。
其でも、げつそり
空いた
腹、
汁かけ
飯で五
膳と
云ふもの
厚切の
澤庵でばり/\と
掻込んだ。
生温い
茶をがぶ/″\と
遣つて、
爺がはさみ
出してくれる
焚落しで、
立て
續けに
煙草を
飮んで、
大に
人心地も
着いた
元二。
「あい、お
代は
置いたよ。」
「ゆつくらしてござらつせえ。」
「さて、
出掛けよう。」
と
今はたいたまゝで、
元二が、
財布の
出入れをする
内、
縁側の
端に
置いた
煙管を
取つて、
兩提の
筒へ
突込まうとする
時、
縁臺の
下から、のそ/\と
前脚を
黒く
這ひ
出した一
疋の
黒猫がある。
ト
向直つて、
元二の
顏をじろりと
見るやうにして
招き、と
云ふ
形で
蹲んだが、
何故か
無法に
憎かつた。で、
風呂敷包みと
笠を
持つて
立ちながら、
煙管を
其のまゝ
片手に
持つて、づいと
縁臺を
離れて
立つて
出た。
元二が、
一膳めし
屋の
前を
離れて、
振返る、と
件の
黒猫が、あとを、のそ/\と
歩行いて
居る。
此處まで
堪へたのは、
飯屋の
飼猫だ、と
思つたからで。
最う、
爺さまの
目の
屆かないのを
見澄まして、
「
畜生。」
と、
雁首で、
猫の
額をぴしりと
打つた、ぎやつ、と
叫ぶと、
猫は
斜かひに
飛んで、
早や、
其處が
用水べりの
田圃に
飛んだ。
「おさらばだい。」
と、
煙管を
吹く。とじり/\と
吸込んで
吹殼のこそげ
附いて
拔けない
奴、よこなぐりに、
並木の
松へトンと
拂つて、
花の
霞の
江戸の
空、
筑波を
横に
急ぐ。
トあれ
見よ、
其の
頭を
慕つて、
並木の
松の
枝から
枝へ、
土蜘蛛の
如き
黒猫がぐる/\と
舞ひながら。
さても、
其の
後、
江戸で
元二が
身を
置いた
處は、
本所南割下水に
住んで
祿千石を
領した
大御番役服部式部邸で、
傳手を
求めて
同じ
本所林町、
家主惣兵衞店、
傳平と
云ふもの
請人で
齊く
仲間に
住込んで
居たのであつた。
小利口にきび/\と
立
はつて、
朝は
六つ
前から
起きて、
氣輕身輕は
足輕相應、くる/\とよく
働く
上、
早く
江戸の
水に
染みて、
早速情婦を
一つと
云ふ
了簡から、
些と
高い
鼻柱から
手足の
先まで
磨くこと
洗ふこと、
一日十度に
及ぶ。
心状のほどは
知らず、
仲問風情には
可惜男振の
少いものが、
鼻綺麗で、
勞力を
惜まず
働くから、これは
然もありさうな
事、
上下擧つて
通りがよく、
元二元二と
大した
評判。
分けて
最初、
其のめがねで
召抱へた、
服部家の
用人關戸團右衞門の
贔屓と
目の
掛けやうは
一通りでなかつた。
其の
頼母しいのと
當人自慢だけの
生白い
處へ、
先づ
足駄をひつくりかへしたのは、
門内、
團右衞門とは
隣合はせの
當家の
家老、
山田宇兵衞召仕への、
居まはり
葛西の
飯炊。
續いて
引掛つたのが
同じ
家の
子守兒で
二人、三
人目は
部屋頭何とか
云ふ
爺の
女房であつた。
いや、
勇んだの
候の、
瓜井戸の
姉は
べたりだが、
江戸ものはコロリと
來るわ、で、
葛西に、
栗橋北千住の
鰌に
鯰を、
白魚の
氣に
成つて、
腮を
撫でた。
當人、
女にかけては
其のつもりで
居る
日の
下開山、
木下藤吉、
一番槍、
一番乘、
一番首の
功名をして
遣つた
了簡。
此の
勢に
乘じて、
立處に
一國一城の
主と
志して
狙をつけたのは、あらう
事か、
用人團右衞門の
御新造、おきみ、と
云ふ、
年は
漸く
二十と
聞く、
如何にも
一國一城にたとへつべき
至つて
美しいのであつた。
が、
此はさすがに、
井戸端で、
名のり
懸けるわけには
行かない、さりとて
用人の
若御新造、さして
深窓のと
云ふではないから、
隨分臺所に、
庭前では
朝に、
夕に、
其の
下がひの
褄の
媚かしいのさへ、ちら/\
見られる。
「
元二や。」
と
優しい
聲も
時々聞く。
手から
手へ
直接に、つかひの
用のうけ
渡もするほどなので、
御馳走は
目の
前に、
唯お
預けだ、と
肝膽を
絞りつつ
悶えた。
ト
此の
團右衞門方に
飼猫の
牡が一
疋、これははじめから
居たのであるが、
元二が
邸内へ
奉公をしてから
以來、
何處から
來たか、むく/\と
肥つた
黒毛で
艶の
好い
天鵝絨のやうな
牝が
一つ、
何時の
間にか、
住居へ
入つて
縁側、
座敷、
臺所、と
氣まゝに
二つが
狂ひ
遊ぶ。
處が、
少い
御新造より、
年とつた
旦那團右衞門の
方が、
聊か
煩惱と
云ふくらゐ
至極の
猫好で、
些とも
構はないで、
同じやうに
黒よ、
黒よ、と
可愛がるので
何時ともなしに
飼猫と
同樣に
成つたと
言ふ。
此の
黒が、
又頻りに
元二に
馴れ
睦んで、ニヤゴー、と
夜も
晝も
附添ひあるいて、
啼聲も
愛くるしく
附いて

る。
ト
元二が
又、
撫でつ
擦りつ
可愛がる。
最う
此の
頃には、それとなく
風のたよりに、
故郷の
音信を
聞いて
自殺した
嫂のお
春の
成ゆきも、
皆其の
心得違ひから
起つた
事と
聞いて
知つて
居たので、
自分、
落目なら
自棄にも
成らうが、
一番首一番乘、ソレ
大得意の
時であるから
何となく
了簡も
柔かに、
首筋もぐにや/\として
居る
折から、
自然雨の
寂しく
降る
夜などはお
念佛の
一つも
唱へる
處。
且又同じ
一國一城の
主と
成るにも
猛者が
夜撃朝懸とは
質が
違ふ。
色男の
仕こなしは、
情を
含んで、しめやかに、もの
柔しく、
身にしみ/″\とした
風が
天晴武者振であるのである。と
分別をするから、
礫を
打つたり、
煙管の
雁首で
引拂ふなど、
今然やうな
陣笠の
勢子の
業は
振舞はぬ、
大將は
專ら
寛仁大度の
事と、
即ち
黒猫を、ト
御新造の
聲を
内證で
眞似て、
「
黒や、
黒や。」
と
身振をして、
時々頬摺、はてさて
氣障な
下郎であつた。
其の
年寛政十
年、
押詰つて
師走の
幾日かは
當邸の
御前服部式部どの
誕生日とあつて、
邸中が、とり/″\
其の
支度に
急がしく
何となく
祭が
近いたやうにさゞめき
立つ。
其の一
日前の
暮方に、
元二は
團右衞門方の
切戸口から
庭前へ

つた、
座敷に
御新造が
居る
事を
豫め
知つての
上で。
落葉を
掃く
樣子をして
箒を
持つて、
枝折戸から
入つた。
一寸言添へる
事がある、
此の
頃から
元二は
柔かな
下帶などを
心掛け、
淺黄の
襦袢をたしなんで
薄化粧などをする、
尤も
今でこそあれ、
其の
時分仲間が
顏に
仙女香を
塗らうとは
誰も
思ひがけないから、
然うと
知つたものはなかつたらう、
其の
上、ぞつこん
思ひこがれる
御新造のお
君が
優しい
風情のあるのを
窺つて、
居
りの
夜店などで、
表紙の
破れた
御存じの
歌の
本を
漁つて
來て、
何となく
人に
見せるやうに
捻くつて
居たのであつたが。
其の
時御新造は
日が
短い
時分の
事、
縁の
端近へ
出て、
御前が
誕生日には
着換へて
出ようと
云ふ、
紋服を、
又然うでもない、しつけの
絲一筋も
間違ひのないやうに、
箪笥から
出して、
目を
通して、
更めて
疊み
直して
居る
處。
「えゝ、
御新造樣、
續きまして
結構なお
天氣にござります。」
「おや、
元二かい、お
精が
出ます。
今度は
又格別お
忙しからう。
御苦勞だね。」
「
何う
仕りまして、
數なりませぬものも
蔭ながらお
喜び
申して
居ります。」
「あゝ、おめでたいね、お
客さまが
濟むと、
毎年ね、お
前がたも
夜あかしで
遊ぶんだよ。まあ、
其を
樂にしてお
働きよ。」
ともの
優しい、
柔かな
言に
附入つて、
「もう、
其につきまして。」
と
沓脱の
傍へ
蹲つて
揉手をしながら、
※々[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、447-13]しい
男で、づツと
顏を
突出した。
「
何とも
恐多い
事ではござりますが、
御新造樣に
一つお
願があつて
罷出ましてござります、へい。
外の
事でもござりませんが、
手前は
當年はじめての
御奉公にござりますが、
承りますれば、
大殿樣御誕生の
御祝儀の
晩、お
客樣がお
立歸りに
成りますると、
手前ども
一統にも
部屋で
御酒を
下さりまするとか。」
「あゝ、
無禮講と
申すのだよ、たんとお
遊び、そしてお
前、
屹と
何かおありだらう、
隱藝でもお
出しだと
可いね。」
と
云つて
莞爾した。
元二、
頸許からぞく/\、
「
滅相な、
隱藝など、へゝゝ、
其に
就きましてでござります。
其の
無禮講と
申す
事で、
從前にも
向後にも
他ありません
此のお
邸、
決して
然やうな
事はござりますまいが、
羽目をはづしてたべ
醉ひますると、
得て
間違の
起りやすいものでござります、
其處を
以ちまして、
手前の
了簡で、
何と、
今年は
一つ
趣をかへてお
酒を
頂戴しながら、
各々國々の
話、
土地處の
物語と
云ふのを、しめやかにしようではあるまいかと
申出ました
處部屋頭が
第一
番、いづれも
當御邸の
御家風で、おとなしい、
實體なものばかり、
一人も
異存はござりません。
處で
發頭人の
手前、
出來ませぬまでも
皮切をいたしませぬと
相成りません。
國許にござります
其の
話につきまして、
其を
饒舌りますのに
實にこまりますことには、
事柄の
續の
中に
歌が
一つござりますので。
部屋がしらは
風流人で、かむりづけ、ものはづくしなどと
云ふのを
遣ります。
川柳に、
歌一つあつて
話にけつまづき、と
云ふのがあると
何時かも
笑つて
居りましたが、
成程其の
通りと
感心しましたのが、
今度は
身の
上で、
歌があつて
躓きまして、
部屋がしらに
笑はれますのが、
手前口惜しいと
存じまして。」
と
然も
若氣に
思込んだやうな
顏色をして
云つた。
川柳を
口吟んでかむりづけを
樂む、
其の
結構な
部屋がしらの
女房を、ものして、
居るから
怪しからぬ。
「
少しばかり
小遣の
中から
恁やうなものを、」
と
懷中から
半分ばかり
紺土佐の
表紙の
薄汚れたのを
出して
見せる。
「おや、
歌の……お
見せな。」
と
云ふ
瞳が、
疊みかけた
良人の
禮服の
紋を
離れて、
元二が
懷中の
本に
移つたのであつた。
「
否、お
恥かしい、
御目に
掛けるやうなのではござりません。それに、
夜店で
買ひましたので、お
新造樣お
手に
觸れましては
汚うござります。」
と
引込ませる、と
水の
出花と
云ふのでもお
君はさすがに
武家の
女房、
仲間の
膚に
着いたものを
無理に
見ようとはしなかつた。
「
然うかい。でも、お
前、
優しいお
心掛だね。」
と
云ふ。
宗桂が
歩のあしらひより、
番太郎の
桂馬の
方が、
豪さうに
見える
習であるから、お
君は
感心したらしかつた。
然もさうず、と
元二が
益々附入る。
「
本を
買つてさぐり
讀みに
搜しましてもどれが
何だか
分りません。
其に、あゝ、
何とかの
端本か、と
部屋頭が
本の
名を
存じて
居りますから、
中の
歌も
此から
引出しましたのでは
先刻承知とやらでござりませう。
其では
種あかしの
手品同樣慰になりません、お
願と
申しましたのは
爰の
事、
御新造樣一つ
何うぞ
何でもお
教へなさつて
遣はさりまし。」
お
君さんが、ついうつかりと
乘せられて、
「
私にもよくは
分らないけれど、あの、
何う
云ふ
事を
申すのだえ、
歌の
心はえ。」
「へい、
話の
次第でござりまして、
其が
其の
戀でござります。」
と
初心らしく
故と
俯向いて
赤く
成つた。お
君も、ほんのりと
色を
染めたが、
庭の
木の
葉の
夕榮である。
「
戀の
心はどんなのだえ。
思うて
逢ふとか、
逢はないとか、
忍ぶ、
待つ、
怨む、いろ/\あるわね。」
「えゝ、
申兼ねましたが、
其が
其が、
些と
道なりませぬ、
目上のお
方に、もう
心もくらんで
迷ひましたと
云ふのは、
對手が
庄屋どのの、
其の。」
と
口早に
言足した。
で、お
君は
何の
氣も
着かない
樣子で、
「お
待ち。」
と
少し
俯向いて
考へるやうに、
歌袖を
膝へ
置いた
姿は
亦類なく
美しい。
「
恁ういたしたら
何うであらうね。
思ふこと關路の暗のむら雲を
晴らしてしばしさせよ月影
分つたかい。
一寸いま
思出せないから、
然うしてお
置きな、
又氣が
着いたら
申さうから。」
元二は
目を
瞑つて、
如何にも
感に
堪へたらしく、
「
思ふこと
關路の
暗のむち
雲を、
晴らしてしばしさせよ
月影。
御新造樣、
此の
上の
御無理は、
助けると
思召しまして、
其のお
歌を
一寸お
認め
下さいまし。お
使の
口上と
違ひまして、つい
馴れませぬ
事は
下根のものに
忘れがちにござります、よく、
拜見して
覺えますやうに。」
としをらしく
言つたので、
何心なく
其の
言に
從つた。お
君は、しかけた
用の
忙しい
折から、
冬の
日は
早や
暮れかゝる、ついありあはせた
躾の
紅筆で
懷紙へ、と
丸髷の
鬢艶やかに、もみぢを
流すうるはしかりし
水莖のあと。
さて、
話の
中の
物語り、
煩はしいから
略く、……
祝の
夜、
仲間ども
一座の
酒宴、
成程元二の
仕組んだ
通り、いづれも
持寄りで、
國々の
話をはじめた。
元二の
順に
杯も

つて
來た
時、
自分國許の
事に
懲りて
仔細あつて、
世を
忍ぶ
若ものが
庄屋の
屋敷に
奉公して、
其の
妻と
不義をする、なかだちは、
婦が
寵愛の
猫で、
此の
首環へ
戀歌を
結んで
褄を
引くと
云ふ
運び。
情婦であつたお
春の
家に
手飼の
猫があつたから、
袖に
袂に、
猫の
搦む
處は、
目で
見るやう
手に
取るやうに
饒舌つて、
「
實は
此は、
御用人の
御新造樣に。」
と
如何なる
企か、
内證の
筈と
故と
打明けて
饒舌つて、
紅筆の
戀歌、
移香の
芬とする、
懷紙を
恭しく
擴げて
人々へ
思入十分で
見せびらかした。
自分で
許す
色男が、
思ひをかけて
屆かぬ
婦を、
恁うして
人に
誇る
術は
隨分數へ
切れないほどあるのである。
一座、
目を
欹てた。
けれども、
對手が
守子や
飯炊でない、
人もこそあれ
一大事だ、と
思ふから、
其の
後とても
皆口をつぐんで
何にも
言はず
無事にしばらく
日は
經つた。
元二は、
絶えず、
其の
歌を、
肌に
添へて
持つて
居て、
人の
目につくやうに、つかないやうに、ちら/\と
出しては
始終熟と
視る。
然うかと
思ふと、
一人で、
思ひに
堪へ
廉ねるか、
湯氣の
上に、
懷紙をかざして、
紅を
蒸して、
密と
二の
腕に
當てた
事などもある、ほりものにでもしよう
了簡であつた、と
見えるが、
此は
其の
效がなかつたと
言ふ。
翌年、二
月初午の
夜の
事で、
元二其の
晩は
些と
趣を
替へて、
部屋に
一人居て
火鉢を
引つけながら
例の
歌を
手本に、
美しいかなの
手習をして
居た。
其處へあの、
牝の
黒猫が、
横合から、フイと
乘りかゝつて、お
君のかいた
歌の
其の
懷紙を、
後脚で
立つてて
前脚二つで、
咽喉へ
抱へ
込むやうにした。
疾い
事、くる/\と
引込んで
手玉を
取るから、
吃驚して、
元二が
引くと
放さぬ。
慌てたの
何のではない、が、
烈しく
引張ると
裂けさうな
處から、
宥めたが、すかしたが、
其の
效さらになし、
口へ
啣へた。
堪兼ねて、
火箸を
取つて、ヤツと
頭を
打つたのが
下へ
外れて、
尖の
當つたのが、
左の
目の
下。キヤツと
啼く、と五六
尺眞黒に
躍り
上つて、
障子の
小間からドンと
出た、
尤も
歌を
啣へたまゝで、
其ののち
二日ばかり
影を
見せぬ。
三日目に、
井戸端で、
例の
身體を
洗つて
居る
處へ、ニヤーと
出て
來た。
最う
忘れたやうに、
相變らず、すれつ、
縺れつ、と
云ふ
身で
可懷い。
目の
下に、
火箸の
尖で
突いた、
疵がポツツリ
見える、ト
確に
覺えて
忘れぬ、
瓜井戸の
宿はづれで、
飯屋の
縁側の
下から
出た
畜生を、
煙管の
雁首でくらはしたのが、
丁ど
同じ
左の
目の
下。で、
又今見る
疵が
一昨日や
昨夜怪我をしたものとは
見えぬ、
綺麗に
癒えて、
生れつき
其處だけ、
毛の
色の
變つて
見えるやうなのに
悚然した。
はじめから、
形と
云ひ、
毛色と
云ひ、
剩へ
其が、
井戸川の
橋の
欄干で、
顏洗ひを
遣つて
居た
猫と
同一ことで、
續いては、お
春の
可愛がつた
黒にも
似て
居る。
とは
知つたけれども、
黒猫はざらにある、
別に
可怪とも
思はなかつたのが、
此の
疵を
見てから
堪らなく
氣になり
出した。
然も、
打たれた
男に
齒向いて、ウヽと
爪を
磨ぐのでない。それからは、
猶更以てじやれ
着いて、ろくに
團右衞門の
邸へも
行かず、
絡はりつくので、ふら/\
立ちたいほど
氣に
掛つた。
處へ、
御新造お
君さんが、
病氣と
云ふ
事、
引籠り、とあつてしばらく
弗と
姿が
見えぬ。
と
思ふと、やがて
保養とあつて、
實家方へ、
歸つたのである。が、あはれ、
此の
婦人も
自殺した。それは
昔、さりながら、
田舍ものの
※々[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、454-14]しいのは、
今も
何よりも
可恐しい。