錢湯
泉鏡太郎
それ
熱ければ
梅、ぬるければ
竹、
客を
松の
湯の
揚場に、
奧方はお
定りの
廂髮。
大島擬ひのお
羽織で、
旦那が
藻脱の
籠の
傍に、
小兒の
衣服の
紅い
裏を、
膝を
飜して
控へて
居る。
髯の
旦那は、
眉の
薄い、
頬の
脹れた、
唇の
厚い、
目色の
嚴い
猛者構。
出尻で、ぶく/\
肥つた四十ばかり。
手足をぴち/\と
撥ねる、
二歳ぐらゐの
男の
兒を、
筋鐵の
入つた
左の
腕に、
脇へ
挾んで、やんはりと
抱いた
處は、
挺身倒に
淵を
探つて
鰌を
生捉つた
體と
見える。
「おう、おう。」
などと、
猫撫聲で、
仰向けにした
小兒の
括頤へ、
動りをくれて
搖上げながら、
湯船の
前へ、ト
腰を
拔いた
體に、べつたりと
踞んだものなり。
「
熱い、
熱い、
熱いな。」
と
手拭を
濡しては、
髯に
雫で、びた/\と
小兒の
胸を
浸してござる。
「
早う
入れとくれやせな。
風邪エひきすえ。」
と
揚場から
奧方が
聲を
懸ける。
一寸斷つて
置くが、
此の
方は
裸體でない。
衣紋正しくと
云つた
風で、
朝からの
厚化粧、
威儀備はつたものである。たとひ
紋着で
袴を
穿いても、これが
反對で、
女湯の
揚場に、
待つ
方が
旦と
成ると、
時節柄、
早速其の
筋から
御沙汰があるが、
男湯へ
女の
出入は、
三馬以來大目に
見てある。
「
番頭にうめさせとるが、なか/\ぬるならん。」
と
父樣も
寒いから、
湯を
浸した
手拭で、
額を
擦つて、
其の
手を
肩へまはして、ぐしや/\と
背中を
敲きながら、
胴震に
及んで、
件の
出尻の
据らぬ
處は、
落武者が、
野武士に
剥がれた
上、
事の
難儀は、
矢玉の
音に
顛倒して、
御臺御流産の
體とも
見える。
「ちやつとおうめやせな、
貴下、
水船から
汲むが
可うすえ。」
と
奧方衣紋を
合せて、
序に
下襦袢の
白い
襟と
云ふ
處を
厭味に
出して、
咽喉元で
一つ
扱いたものなり。
「
然ぢや、
然ぢや、はあ
然ぢや。はあ
然ぢや。」と、
馬鹿囃子に
浮れたやうに、よいとこまかして、によいと
突立ち、
腕に
抱いた
小兒の
胸へ、
最一つ
頤を
壓へに
置くと、
勢必然として、
取つたりと
云ふ
仕切腰。
さて
通口に
組違へて、
角のない
千兩箱を
積重ねた
留桶を、
片手掴みで、
水船から
掬出しては、つかり
加減な
處を
狙つて
十杯ばかり
立續けにざぶ/\と
打ちまける。
猶以て
念の
爲に、
別に、
留桶に
七八杯、
凡そ
湯船の
高さまで、
凍るやうな
水道の
水を
滿々と
湛へたのを、
舷へ
積重ねた。これは
奧方が
注意以外の
智慧で、ざぶ/\と
先づ
掻
して、
「
可からう、
可からう、そりやざぶりとぢや。」と
桶を
倒にして、
小兒の
肩から
我が
背中へ
引かぶせ、
「
瀧の
水、
瀧の
水。」と
云ふ。
「
貴下、
湯瀧や。」
と
奧方も、
然も
快ささうに
浮かれて
言ふ。
「うゝ、
湯瀧、
湯瀧、それ
鯉の
瀧昇りぢや、
坊やは
豪いぞ。そりやも
一つ。」
とざぶりと
浴けるのが、
突立つたまゝで
四邊を
構はぬ。こゝは
英雄の
心事料るべからずであるが、
打まけられる
湯の
方では、
何の
斟酌もあるのでないから、
倒に
湯瀧三千丈で、
流場一面の
土砂降、
板から、ばちや/\と
溌が
飛ぶ。
「あぶ、あぶ、あツぷう。」と、
圓い
面を、べろりといたいけな
手で
撫でて、
頭から
浴びた
其の
雫を
切つたのは、
五歳ばかりの
腕白で、きよろりとした
目でひよいと
見て、
又父親を
見向いた。
此の
小僧を、
根附と
云ふ
身で、
腰の
處へ
引つけて、
留桶を
前に、
流臺へ
蚊脛をはだけて、
痩せた
仁王と
云ふ
形。
天地

に
手拭を
斜つかひに
突張つて、
背中を
洗つて
居たのは、
刺繍のしなびた四十五六の
職人であつた。
矢張御多分には
漏れぬ
方で、
頭から
今の
雫を
浴びた。これが、
江戸兒夥間だと、
氣をつけろい、ぢやんがら
仙人、
何處の
雨乞から
來やあがつた、で、
無事に
濟むべきものではないが、
三代相傳の
江戸兒は、
田舍ものだ、と
斷る
上は、
對手が
戀の
仇でも
許して
通す
習である。
「
此方へ
來ねえ。」
とばかりで、
小兒を、
其の、せめても
雫に
遠い
左の
方へ、
腕を
掴んで
居直らせた。
旦は
洒亞々々としたもので、やつとこな、と
湯船を
跨いで、ぐづ/\/\と
溶けさうに
腰の
方から
崩れ
込みつゝ
眞直に
小兒を
抱直して、
片手を
湯船の
縁越しに、ソレ
豫て
恁くあらんと、
其處へ
遁路を
拵へ
置く、
間道の
穴兵糧、
件の
貯蓄の
留桶の
水を、
片手にざぶ/\、と
遣つては、ぶく/\、ざぶ/\と
遣つては、ぶく/\、
小兒の
爪尖、
膝から、
股、
臍から
胸、
肩から
咽喉、と
小さく
刻んで、
一つを
一度に、
十八杯ばかりを
傾け
盡して、
漸と
沈む。
此の
間約十分間。
恁うまで
大切にすると
云ふのが、
恩人の
遺兒でも
何でもない、
我が
兒なのである。
揚場の
奧方は、
最う
小兒の
方は
安心なり。
待くたびれた、と
云ふ
風で、
例の
襟を
引張りながら、
白いのを
又出して、と
姿見を
見た
目を
外らして、
傍に
貼つた、
本郷座の
辻番附。ほとゝぎすの
繪比羅を
見ながら、
熟と
見惚て
何某處の
御贔屓を、うつかり
指の
尖で
一寸つゝく。
「さあ、
飛込め、
奴。」
で、
髯旦の、どぶりと
徳利を
拔いて
出るのを
待兼ねた、
右の
職人、
大跨にひよい、と
入ると、
「わつ、」と
叫んで
跳ねて
出た。
「
堪らねえ、こりや
大變、
日南水だ。
行水盥へ
鰌が
湧かうと
云ふんだ、
後生してくんねえ、
番頭さん。」
と、わな/\
震へる。
前刻から、
通口へ
顏を
出して、
髯旦のうめ
方が、まツ
其の
通り、
小兒の
一寸に
水一升の
割を
覗いて、
一驚を
吃した
三助、
「
然も
然うず、
然もござりませうぞや。」
と
情ない
聲を
出して、
故と
遠くから
恐々らしく、
手を
突込んで、
颯と
引き、
「ほう、うめたりな、
總入齒。
親方、
直ぐに
湯を
入れます。」
と
突然どんつくの
諸膚を
脱いだ
勢で、
引込んだと
思ふと、
髯がうめ
方の
面當なり、
腕の
扱きに
機關を
掛けて、
爰を
先途と
熱湯を
注ぎ
込む、
揉込む、
三助が
意氣湯煙を
立てて、
殺氣朦々として
天を
蔽へば、
湯船は
瞬く
間に、
湯玉を
飛ばして、
揚場まで
響渡る。
「
難有え。」
職人は、
呀、
矢聲を
懸けて
飛込んだが、さて、
童を
何うする。
「
奴、
入れ、さあ、
何が
熱い、
何が
熱いんだい。べらぼうめ、
弱い
音を
吐くねえ、
此の
小僧、
何うだ。」
「うむ、
入るよ。」
と
言つたが、うつかり
手も
入れられない。で、ちよこんと
湯船の
縁へ
上つて、
蝸牛のやうに
這
る。が、
飛鳥川の
淵は
瀬と
成つても、
此の
湯はなか/\ぬるくは
成らぬ。
唯見ると、
親父は
湯玉を
拂つて、
朱塗に
成つて
飛出した、が
握太な
蒼筋を
出して、
脛を
突張つて、
髯旦の
傍に
突立つた。
「
誰だと
思ふ、
嚊が
長の
煩でなけりや、
小兒なんぞ
連れちや
來ねえ。
恁う、
奴、
思切つて
飛込め。
生命がけで
突入れ!
汝にや
熱いたつて、
父にはぬるいや。うぬ
勝手にな、
人樣に
迷惑を
懸けるもんぢやねえ。うめるな、
必ずうめるな。やい、こんな
湯へ
入れねえぢや、
父の
子とは
言はせねえ。
髯の
兒にたゝつくれるぞ、さあ、
入れ。
骨は
拾はい、
奴。」
と
喚くと、
縁を
這
り/\、
時々倒に、
一寸指の
先を
入れては、ぶる/\と
手を
震はして
居た
奴が、パチヤリと
入つて、
「うむ、」と
云ふ。
中から
縁へしがみついた、
面を
眞赤に、
小鼻をしかめて、
目を
白く
天井を
睨むのを、
熟と
視めて、
「
豪え、
豪え。
其でもぬるけりや
羽目をたゝけ、」と
言ひながら、
濡手拭を、ひとりでに、
思はず
向顱卷で、
切ない
顏して
涙をほろ/\と
溢した。
「それ、ぢやぶ/\、それ、ぢやぶ/\、」と
髯旦は
傍で、タオルから
湯をだぶり。
堪へ
兼ねて、
奴が
眞赤に
跳ねて
出る。
「やあ、
金時、
足柄山、えらいぞ
金太郎。」と
三助が、
飛んで
出て、
「それ、
熊だ、
鹿だ、
乘んなせえ。」
と、
奴の
前の
流を
這つた。
髯はタオルから
湯をだぶり。
「それ、ぢやぶ/\、それ、ぢやぶ/\。」
あらう
事か、
奧方は
渦きかゝる
湯氣の
中で、
芝居の
繪比羅に
頬をつけた。
明治四十二年十二月
●表記について
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