一
「…………」
山には
木樵唄、
水には
船唄、
驛路には
馬子の
唄、
渠等はこれを
以て
心を
慰め、
勞を
休め、
我が
身を
忘れて
屈託なく
其業に
服するので、
恰も
時計が
動く
毎にセコンドが
鳴るやうなものであらう。また
其がために
勢を
増し、
力を
得ることは、
戰に
鯨波を
擧げるに
齊しい、
曳々!と
一齊に
聲を
合はせるトタンに、
故郷も、
妻子も、
死も、
時間も、
慾も、
未練も
忘れるのである。
同じ
道理で、
坂は
照る/\
鈴鹿は
曇る=といひ、
袷遣りたや
足袋添へて=と
唱へる
場合には、いづれも
疲を
休めるのである、
無益なものおもひを
消すのである、
寧ろ
苦勞を
紛らさうとするのである、
憂を
散じよう、
戀を
忘れよう、
泣音を
忍ばうとするのである。
それだから
追分が
何時でもあはれに
感じらるゝ。つまる
處、
卑怯な、
臆病な
老人が
念佛を
唱へるのと
大差はないので、
語を
換へて
言へば、
不殘、
節をつけた
不平の
獨言である。
船頭、
馬方、
木樵、
機業場の
女工など、あるが
中に、
此の
木挽は
唄を
謠はなかつた。
其の
木挽の
與吉は、
朝から
晩まで、
同じことをして
木を
挽いて
居る、
默つて
大鋸を
以て
巨材の
許に
跪いて、そして
仰いで
禮拜する
如く、
上から
挽きおろし、
挽きおろす。
此度のは、
一昨日の
朝から
懸つた
仕事で、ハヤ
其半を
挽いた。
丈四
間半、
小口三
尺まはり
四角な
樟を
眞二つに
割らうとするので、
與吉は十七の
小腕だけれども、
此業には
長けて
居た。
目鼻立の
愛くるしい、
罪の
無い
丸顏、
五分刈に
向顱卷、
三尺帶を
前で
結んで、
南の
字を
大く
染拔いた
半被を
着て
居る、これは
此處の
大家の
仕着で、
挽いてる
樟も
其の
持分。
未だ
暑いから
股引は
穿かず、
跣足で
木屑の
中についた
膝、
股、
胸のあたりは
色が
白い。
大柄だけれども
肥つては
居らぬ、ならば
袴でも
穿かして
見たい。
與吉が
身體を
入れようといふ
家は、
直間近で、一
町ばかり
行くと、
袂に一
本暴風雨で
根返して
横樣になつたまゝ、
半ば
枯れて、
半ば
青々とした、あはれな
銀杏の
矮樹がある、
橋が
一個。
其の
澁色の
橋を
渡ると、
岸から
板を
渡した
船がある、
板を
渡つて、
苫の
中へ
出入をするので、
此船が
與吉の
住居。で
干潮の
時は
見るも
哀で、
宛然洪水のあとの
如く、
何時棄てた
世帶道具やら、
缺擂鉢が
黒く
沈むで、
蓬のやうな
水草は
波の
隨意靡いて
居る。この
水草はまた
年久しく、
船の
底、
舷に
搦み
附いて、
恰も
巖に
苔蒸したかのやう、
與吉の
家をしつかりと
結へて
放しさうにもしないが、
大川から
汐がさして
來れば、
岸に
茂つた
柳の
枝が
水に
潛り、
泥だらけな
笹の
葉がぴた/\と
洗はれて、
底が
見えなくなり、
水草の
隱れるに
從うて、
船が
浮上ると、
堤防の
遠方にすく/\
立つて
白い
煙を
吐く
此處彼處の
富家の
煙突が
低くなつて、
水底の
其の
缺擂鉢、
塵芥、
襤褸切、
釘の
折などは
不殘形を
消して、
蒼い
潮を
滿々と
湛へた
溜池の
小波の
上なる
家は、
掃除をするでもなしに
美しい。
爾時は
船から
陸へ
渡した
板が
眞直になる。これを
渡つて、
今朝は
殆ど
滿潮だつたから、
與吉は
柳の
中で
※[#「火+發」、692-5]と
旭がさす、
黄金のやうな
光線に、
其罪のない
顏を
照らされて
仕事に
出た。
二
其から
日一
日おなじことをして
働いて、
黄昏かゝると
日が
舂き、
柳の
葉が
力なく
低れて
水が
暗うなると
汐が
退く、
船が
沈むで、
板が
斜めになるのを
渡つて
家に
歸るので。
留守には、
年寄つた
腰の
立たない
與吉の
爺々が
一人で
寢て
居るが、
老後の
病で
次第に
弱るのであるから、
急に
容體の
變るといふ
憂慮はないけれども、
與吉は
雇はれ
先で
晝飯をまかなはれては、
小休の
間に
毎日一
度づつ、
見舞に
歸るのが
例であつた。
「ぢやあ
行つて
來るぜ、
父爺。」
與平といふ
親仁は、
涅槃に
入つたやうな
形で、
胴の
間に
寢ながら、
佛造つた
額を
上げて、
汗だらけだけれども
目の
涼しい、
息子が
地藏眉の、
愛くるしい、
若い
顏を
見て、
嬉しさうに
頷いて、
「
晩にや
又柳屋の
豆腐にしてくんねえよ。」
「あい、」といつて
苫を
潛つて
這ふやうにして
船から
出た、
與吉はづツと
立つて
板を
渡つた。
向うて
筋違、
角から二
軒目に
小さな
柳の
樹が一
本、
其の
低い
枝のしなやかに
垂れた
葉隱れに、一
間口二
枚の
腰障子があつて、一
枚には
假名、一
枚には
眞名で
豆腐と
書いてある。
柳の
葉の
翠を
透かして、
障子の
紙は
新らしく
白いが、
秋が
近いから、
破れて
煤けたのを
貼替へたので、
新規に
出來た
店ではない。
柳屋は
土地で
老鋪だけれども、
手廣く
商をするのではなく、八九十
軒もあらう百
軒足らずの
此の
部落だけを
花主にして、
今代は
喜藏といふ
若い
亭主が、
自分で
賣りに

るばかりであるから、
商に
出た
留守の、
晝過は
森として、
柳の
蔭に
腰障子が
閉まつて
居る、
樹の
下、
店の
前から
入口へ
懸けて、
地の
窪むだ、
泥濘を
埋めるため、
一面に
貝殼が
敷いてある、
白いの、
半分黒いの、
薄紅、
赤いのも
交つて
堆い。
隣屋は
此邊に
棟を
並ぶる
木屋の
大家で、
軒、
廂、
屋根の
上まで、
犇と
木材を
積揃へた、
眞中を
分けて、
空高い
長方形の
透間から
凡そ三十
疊も
敷けようといふ
店の
片端が
見える、
其の
木材の
蔭になつて、
日の
光もあからさまには
射さず、
薄暗い、
冷々とした
店前に、
帳場格子を
控へて、
年配の
番頭が
唯一人帳合をしてゐる。これが
角屋敷で、
折曲ると
灰色をした
道が
一筋、
電柱の
著しく
傾いたのが、
前と
後へ、
別々に
頭を
掉つて
奧深う
立つて
居る、
鋼線が
又半だるみをして、
廂よりも
低い
處を、
弱々と、
斜めに、さも/\
衰へた
形で、
永代の
方から
長く
續いて
居るが、
圖に
描いて
線を
引くと、
文明の
程度が
段々此方へ
來るに
從うて、
屋根越に
鈍ることが
分るであらう。
單に
電柱ばかりでない、
鋼線ばかりでなく、
橋の
袂の
銀杏の
樹も、
岸の
柳も、
豆腐屋の
軒も、
角家の
塀も、それ
等に
限らず、あたりに
見ゆるものは、
門の
柱も、
石垣も、
皆傾いて
居る、
傾いて
居る、
傾いて
居るが
盡く
一樣な
向にではなく、
或ものは
南の
方へ、
或ものは
北の
方へ、また
西の
方へ、
東の
方へ、てん/″\ばら/\になつて、
此風のない、
天の
晴れた、
曇のない、
水面のそよ/\とした、
靜かな、
穩かな
日中に
處して、
猶且つ
暴風に
揉まれ、
搖らるゝ、
其の
瞬間の
趣あり。ものの
色もすべて
褪せて、
其灰色に
鼠をさした
濕地も、
草も、
樹も、一
部落を
蔽包むだ
夥多しい
材木も、
材木の
中を
見え
透く
溜池の
水の
色も、
一切、
喪服を
着けたやうで、
果敢なく
哀である。
三
界隈の
景色がそんなに
沈鬱で、
濕々として
居るに
從うて、
住む
者もまた
高聲ではものをいはない。
歩行にも
内端で、
俯向き
勝で、
豆腐屋も、
八百屋も
默つて
通る。
風俗も
派手でない、
女の
好も
濃厚ではない、
髮の
飾も
赤いものは
少なく、
皆心するともなく、
風土の
喪に
服して
居るのであらう。
元來岸の
柳の
根は、
家々の
根太よりも
高いのであるから、
破風の
上で、
切々に、
蛙が
鳴くのも、
欄干の
壞れた、
板のはなれ/″\な、
杭の
拔けた
三角形の
橋の
上に
蘆が
茂つて、
蟲がすだくのも、
船蟲が
群がつて
往來を
驅けまはるのも、
工場の
煙突の
烟が
遙かに
見えるのも、
洲崎へ
通ふ
車の
音がかたまつて
響くのも、
二日おき
三日置きに
思出したやうに
巡査が
入るのも、けたゝましく
郵便脚夫が
走込むのも、
烏が
鳴くのも、
皆何となく
土地の
末路を
示す、
滅亡の
兆であるらしい。
けれども、
滅びるといつて、
敢て
此の
部落が
無くなるといふ
意味ではない、
衰へるといふ
意味ではない、
人と
家とは
榮えるので、
進歩するので、
繁昌するので、やがて
其電柱は
眞直になり、
鋼線は
張を
持ち、
橋がペンキ
塗になつて、
黒塀が
煉瓦に
換ると、
蛙、
船蟲、そんなものは、
不殘石灰で
殺されよう。
即ち
人と
家とは、
榮えるので、
恁る
景色の
俤がなくならうとする、
其の
末路を
示して、
滅亡の
兆を
表はすので、
詮ずるに、
蛇は
進んで
衣を
脱ぎ、
蝉は
榮えて
殼を
棄てる、
人と
家とが、
皆他の
光榮あり、
便利あり、
利益ある
方面に
向つて
脱出した
跡には、
此地のかゝる
俤が、
空蝉になり
脱殼になつて
了ふのである。
敢て
未來のことはいはず、
現在既に
其の
姿になつて
居るのではないか、
脱け
出した
或者は、
鳴き、
且つ
飛び、
或者は、
走り、
且つ
食ふ、けれども
衣を
脱いで
出た
蛇は、
殘した
殼より、
必ずしも
美しいものとはいはれない。
あゝ、まぼろしのなつかしい、
空蝉のかやうな
風土は、
却つてうつくしいものを
産するのか、
柳屋に
艶麗な
姿が
見える。
與吉は
父親に
命ぜられて、
心に
留めて
出たから、
岸に
上ると、
思ふともなしに
豆腐屋に
目を
注いだ。
柳屋は
淺間な
住居、
上框を
背後にして、
見通の
四疊半の
片端に、
隣家で
帳合をする
番頭と
同一あたりの、
柱に
凭れ、
袖をば
胸のあたりで
引き
合はせて、
浴衣の
袂を
折返して、
寢床の
上に
坐つた
膝に
掻卷を
懸けて
居る。
背には
綿の
厚い、ふつくりした、
竪縞のちやん/\を
着た、
鬱金木綿の
裏が
見えて
襟脚が
雪のやう、
艶氣のない、
赤熊のやうな、ばさ/\した、
餘るほどあるのを
天神に
結つて、
淺黄の
角絞の
手絡を
弛う
大きくかけたが、
病氣であらう、
弱々とした
後姿。
見透の
裏は
小庭もなく、すぐ
隣屋の
物置で、
此處にも
犇々と
材木が
建重ねてあるから、
薄暗い
中に、
鮮麗な
其淺黄の
手絡と
片頬の
白いのとが、
拭込むだ
柱に
映つて、ト
見ると
露草が
咲いたやうで、
果敢なくも
綺麗である。
與吉はよくも
見ず、
通りがかりに、
「
今日は、」と、
聲を
掛けたが、フト
引戻さるゝやうにして
覗いて
見た、
心着くと、
自分が
挨拶したつもりの
婦人はこの
人ではない。
四
「
居ない。」と
呟くが
如くにいつて、
其まゝ
通拔けようとする。
ト
日があたつて
暖たかさうな、
明い
腰障子の
内に、
前刻から
靜かに
水を
掻
す
氣勢がして
居たが、ばつたりといつて、
下駄の
音。
「
與吉さん、
仕事にかい。」
と
婀娜たる
聲、
障子を
開けて
顏を
出した、
水色の
唐縮緬を
引裂いたまゝの
襷、
玉のやうな
腕もあらはに、
蜘蛛の
圍を
絞つた
浴衣、
帶は
占めず、
細紐の
態で
裾を
端折つて、
布の
純白なのを、
短かく
脛に
掛けて
甲斐々々しい。
齒を
染めた、
面長の、
目鼻立はつきりとした、
眉は
落さぬ、
束ね
髮の
中年増、
喜藏の
女房で、お
品といふ。
濡れた
手を
間近な
柳の
幹にかけて
半身を
出した、お
品は
與吉を
見て
微笑むだ。
土間は
一面の
日あたりで、
盤臺、
桶、
布巾など、ありつたけのもの
皆濡れたのに、
薄く
陽炎のやうなのが
立籠めて、
豆腐がどんよりとして
沈んだ、
新木の
大桶の
水の
色は、
薄ら
蒼く、
柳の
影が
映つて
居る。
「
晩方又來るんだ。」
お
品は
莞爾しながら、
「
難有う
存じます、」
故と
慇懃にいつた。
つか/\と
行懸けた
與吉は、これを
聞くと、あまり
自分の
素氣なかつたのに
氣がついたか、
小戻りして
眞顏で、
眼を
一ツ
瞬いて、
「えゝ、
毎度難有う
存じます。」と、
罪のない
口の
利きやうである。
「ほゝゝ、
何をいつてるのさ。」
「
何がよ。」
「だつてお
前樣はお
客樣ぢやあないかね、お
客樣なら
私ン
處の
旦那だね、ですから、あの、
毎度難有う
存じます。」と
柳に
手を
縋つて
半身を
伸出たまゝ、
胸と
顏を
斜めにして、
與吉の
顏を
差覗く。
與吉は
極の
惡さうな
趣で、
「お
客樣だつて、あの、
私は
木挽の
小僧だもの。」
と
手眞似で
見せた、
與吉は
兩手を
突出してぐつと
引いた。
「かうやつて、かう
挽いてるんだぜ、
木挽の
小僧だぜ。お
前樣はおかみさんだらう、
柳屋のおかみさんぢやねえか、それ
見ねえ、
此方でお
辭儀をしなけりやならないんだ。ねえ、」
「あれだ、」とお
品は
目を

つて、
「まあ、
勿體ないわねえ、
私達に
何のお
前さん……」といひかけて、つく/″\
瞻りながら、お
品はづツと
立つて、
與吉に
向ひ
合ひ、
其の
襷懸けの
綺麗な
腕を、
兩方大袈裟に
振つて
見せた。
「かうやつて
威張つてお
在よ。」
「
威張らなくツたつて、
何も、
威張らなくツたつて
構はないから、
父爺が
魚を
食つてくれると
可いけれど、」と
何と
思つたか
與吉はうつむいて
悄れたのである。
「
何うしたんだね、
又餘計に
惡くなつたの。」と
親切にも
優しく
眉を
顰めて
聞いた。
「
餘計に
惡くなつて
堪るもんか、
此節あ
心持が
快方だつていふけれど、え、
魚氣を
食はねえぢやあ、
身體が
弱るつていふのに、
父爺はね、
腥いものにや
箸もつけねえで、
豆腐でなくつちやあならねえツていふんだ。え、おかみさん、
骨のある
豆腐は
出來まいか。」と
思出したやうに
唐突にいつた。
五
「おや、」
お
品は
與吉がいふことの
餘り
突拍子なのを、
笑ふよりも
先づ
驚いたのである。
「ねえ、
親方に
聞いて
見てくんねえ、
出來さうなもんだなあ。
雁もどきツて、ほら、
種々なものが
入つた
油揚があらあ、
銀杏だの、
椎茸だの、あれだ、あの
中へ、え、
肴を
入れて
交ぜツこにするてえことあ
不可ねえのかなあ。」
「そりや、お
前さん。まあ、
可いやね、
聞いて
見て
置きませうよ。」
「あゝ、
聞いて
見てくんねえ、
眞個に
肴ツ
氣が
無くツちやあ、
臺なし
身體が
弱るツていふんだもの。」
「
何故父上は
腥をお
食りぢやあないのだね。」
與吉の
眞面目なのに
釣込まれて、
笑ふことの
出來なかつたお
品は、
到頭骨のある
豆腐の
注文を
笑はずに
聞き
濟ました、そして
眞顏で
尋ねた。
「えゝ、
其何だつて、
物をこそ
言はねえけれど、
目もあれば、
口もある、それで
生白い
色をして、
蒼いものもあるがね、
煮られて
皿の
中に
横になつた
姿てえものは、
魚々と
一口にやあいふけれど、
考へて
見りやあ
生身をぐつ/\
煮着けたのだ、
尾頭のあるものの
死骸だと
思ふと、
氣味が
惡くツて
食べられねえツて、
左樣いふんだ。
詰らねえことを
父爺いふもんぢやあねえ、
山ン
中の
爺婆でも
鹽したのを
食べるツてよ。
煮たのが、
心持が
惡けりや、
刺身にして
食べないかツていふとね、
身震をするんだぜ。
刺身ツていやあ
一寸試だ、
鱠にすりやぶつ/\
切か、あの
又目口のついた
天窓へ
骨が
繋つて
肉が
絡ひついて
殘る
圖なんてものは、と
厭な
顏をするからね。あゝ、」といつて
與吉は
頷いた。これは
力を
入れて
對手に
其意を
得させようとしたのである。
「
左樣なんかねえ、
年紀の
故もあらう、
一ツは
氣分だね、お
前さん、そんなに
厭がるものを
無理に
食べさせない
方が
可いよ、
心持を
惡くすりや
身體のたしにもなんにもならないわねえ。」
「でも
痩せるやうだから
心配だもの。
氣が
着かないやうにして
食べさせりや、
胸を
惡くすることもなからうからなあ、いまの
豆腐の
何よ。ソレ、」
「
骨のあるがんもどきかい、ほゝゝゝほゝ、」と
笑つた、
垢拔けのした
顏に
鐵漿を
含んで
美しい。
片頬に
觸れた
柳の
葉先を、お
品は
其艶やかに
黒い
前齒で
銜へて、
扱くやうにして
引斷つた。
青い
葉を、カチ/\と
二ツばかり
噛むで
手に
取つて、
掌に
載せて
見た。トタンに
框の
取着の
柱に
凭れた
淺黄の
手絡が
此方を
見向く、うら
少のと
面を
合はせた。
其時までは、
殆ど
自分で
何をするかに
心着いて
居ないやう、
無意識の
間にして
居たらしいが、フト
目を
留めて、
俯向いて、じつと
見て、
又梢を
仰いで、
「
與吉さんのいふやうぢやあ、まあ、
嘸此の
葉も
痛むこツたらうねえ。」
と
微笑んで
見せて、
少いのが
其清い
目に
留めると、くるりと

つて、
空ざまに
手を
上げた、お
品はすつと
立つて、しなやかに
柳の
幹を
叩いたので、
蜘蛛の
巣の
亂れた
薄い
色の
浴衣の
袂は、ひらひらと
動いた。
與吉は
半被の
袖を
掻合はせて、
立つて
見て
居たが、
急に
振返つて、
「さうだ。ぢやあ
親方に
聞いて
見ておくんな。
可いかい、」
「あゝ、
可いとも、」といつて
向直つて、お
品は
掻潛つて
襷を
脱した。
斜めに
袈裟になつて
結目がすらりと
下る。
「お
邪魔申しました。」
「あれだよ。
又、」と、
莞爾していふ。
「さうだつけな、うむ、
此方あお
客だぜ。」
與吉は
獨で
頷いたが、
背向になつて、
肱を
張つて、
南の
字の
印が
動く、
半被の
袖をぐツと
引いて、
手を
掉つて、
「おかみさん、
大威張だ。」
「あばよ。」
六
「あい、」といひすてに、
急足で、
與吉は
見る
内に
間近な
澁色の
橋の
上を、
黒い
半被で
渡つた。
眞中頃で、
向岸から
駈けて
來た
郵便脚夫と
行合つて、
遣違ひに
一緒になつたが、
分れて
橋の
兩端へ、
脚夫はつか/\と
間近に
來て、
與吉は
彼の、
倒れながらに
半ば
黄ばんだ
銀杏の
影に
小さくなつた。
七
「
郵便!」
「はい、」と
柳の
下で、
洗髮のお
品は、
手足の
眞黒な
配達夫が、
突當るやうに
目の
前に
踏留まつて
棒立になつて
喚いたのに、
驚いた
顏をした。
「
更科お
柳さん、」
「
手前どもでございます。」
お
品は
受取つて、
青い
状袋の
上書をじつと
見ながら、
片手を
垂れて
前垂のさきを
抓むで
上げつゝ、
素足に
穿いた
黒緒の
下駄を
揃へて
立つてたが、
一寸飜して、
裏の
名を
讀むと、
顏の
色が
動いて、
横目に
框をすかして、
片頬に
笑を
含むで、
堪らないといつたやうな
聲で、
「
柳ちやん、
來たよ!」といふが
疾いか、
横ざまに
驅けて
入る、
柳腰、
下駄が
脱げて、
足の
裏が
美しい。
八
與吉が
仕事場の
小屋に
入ると、
例の
如く、
直ぐ
其まゝ
材木の
前に
跪いて、
鋸の
柄に
手を
懸けた
時、
配達夫は、
此處の
前を
横切つて、
身を
斜に、
波に
搖られて
流るゝやうな
足取で、
走り
去つた。
與吉は
見も
遣らず、
傍目も
觸らないで
挽きはじめる。
巨大なる
此の
樟を
濡らさないために、
板屋根を
葺いた、
小屋の
高さは十
丈もあらう、
脚の
着いた
臺に
寄せかけたのが
突立つて、
殆ど
屋根裏に
屆くばかり。この
根際に
膝をついて、
伸上つては
挽き
下ろし、
伸上つては
挽き
下ろす、
大鋸の
齒は
上下にあらはれて、
兩手をかけた
與吉の
姿は、
鋸よりも
小さいかのやう。
小屋の
中には
單こればかりでなく、
兩傍に
堆く
偉大な
材木を
積んであるが、
其の
嵩は
與吉の
丈より
高いので、
纔に
鋸屑の
降積つた
上に、
小さな
身體一ツ
入れるより
他に
餘地はない。で
恰も
材木の
穴の
底に
跪いてるに
過ぎないのである。
背後は
突拔けの
岸で、こゝにも
地と
一面な
水が
蒼く
澄むで、ひた/\と
小波の
畝が
絶えず
間近う
來る。
往來傍には
又岸に
臨むで、
果しなく
組違へた
材木が
並べてあるが、二十三十づゝ、
四ツ
目形に、
井筒形に、
規律正しく、
一定した
距離を
置いて、
何處までも
續いて
居る、
四ツ
目の
間を、
井筒の
彼方を、
見え
隱れに、ちらほら
人が
通るが、
皆默つて
歩行いて
居るので。
淋い、
森とした
中に
手拍子が
揃つて、コツ/\コツ/\と、
鐵槌の
音のするのは、この
小屋に
並んだ、
一棟、
同一材木納屋の
中で、三
個の
石屋が、
石を
鑿るのである。
板圍をして、
横に
長い、
屋根の
低い、
濕つた
暗い
中で、
働いて
居るので、三
人の
石屋も
齊しく
南屋に
雇はれて
居るのだけれども、
渠等は
與吉のやうなのではない、
大工と
一所に、
南屋の
普請に
懸つて
居るので、ちやうど
與吉の
小屋と
往來を
隔てた
眞向うに、
小さな
普請小屋が、
眞新い、
節穴だらけな、
薄板で
建つて
居る、
三方が
圍つたばかり、
編むで
繋いだ
繩も
見え、
一杯の
日當で、いきなり
土の
上へ
白木の
卓子を一
脚据ゑた、
其上には
大土瓶が一
個、
茶呑茶碗が
七個八個。
後に
置いた
腰掛臺の
上に、
一人は
匍匐になつて、
肱を
張つて
長々と
伸び、
一人は
横ざまに
手枕して
股引穿いた
脚を
屈めて、
天窓をくツつけ
合つて
大工が
寢そべつて
居る。
普請小屋と、
花崗石の
門柱を
並べて
扉が
左右に
開いて
居る、
門の
内の
横手の
格子の
前に、
萌黄に
塗つた
中に
南と
白で
拔いたポンプが
据つて、
其縁に
釣棹と
畚とがぶらりと
懸つて
居る、
眞にもの
靜かな、
大家の
店前に
人の
氣勢もない。
裏庭とおもふあたり、
遙か
奧の
方には、
葉のやゝ
枯れかゝつた
葡萄棚が、
影を
倒にうつして、
此處もおなじ
溜池で、
門のあたりから
間近な
橋へかけて、
透間もなく
亂杭を
打つて、
數限もない
材木を
水のまゝに
浸してあるが、
彼處へ五
本、
此處へ六
本、
流寄つた
形が
判で
印した
如く、
皆三方から
三ツに
固つて、
水を
三角形に
區切つた、あたりは
廣く、
一面に
早苗田のやうである。この
上を、
時々ばら/\と
雀が
低う。
九
其他に
此處で
動いてるものは
與吉が
鋸に
過ぎなかつた。
餘り
靜かだから、しばらくして、
又しばらくして、
樟を
挽く
毎にぼろ/\と
落つる
木屑が
判然聞える。
(
父親は
何故魚を
食べないのだらう、)とおもひながら
膝をついて、
伸上つて、
鋸を
手元に
引いた。
木屑は
極めて
細かく、
極めて
輕く、
材木の
一處から
湧くやうになつて、
肩にも
胸にも
膝の
上にも
降りかゝる。トタンに
向うざまに
突出して
腰を
浮かした、
鋸の
音につれて、
又時雨のやうな
微な
響が、
寂寞とした
巨材の
一方から
聞えた。
柄を
握つて、
挽きおろして、
與吉は
呼吸をついた。
(
左樣だ、
魚の
死骸だ、そして
骨が
頭に
繋がつたまゝ、
皿の
中に
殘るのだ、)
と
思ひながら、
絶えず
拍子にかゝつて、
伸縮に
身體の
調子を
取つて、
手を
働かす、
鋸が
上下して、
木屑がまた
溢れて
來る。
(
何故だらう、これは
鋸で
挽く
所爲だ、)と
考へて、
柳の
葉が
痛むといつたお
品の
言が
胸に
浮ぶと、
又木屑が
胸にかゝつた。
與吉は
薄暗い
中に
居る、
材木と、
材木を
積上げた
周圍は、
杉の
香、
松の
匂に
包まれた
穴の
底で、
目を

つて、
跪いて、
鋸を
握つて、
空ざまに
仰いで
見た。
樟の
材木は
斜めに
立つて、
屋根裏を
漏れてちら/\する
日光に
映つて、
言ふべからざる
森嚴な
趣がある。この
見上ぐるばかりな、これほどの
丈のある
樹はこの
邊でつひぞ
見た
事はない、
橋の
袂の
銀杏は
固より、
岸の
柳は
皆短い、
土手の
松はいふまでもない、
遙に
見える
其梢は
殆ど
水面と
並んで
居る。
然も
猶これは
眞直に
眞四角に
切たもので、およそ
恁る
角の
材木を
得ようといふには、
杣が八
人五日あまりも
懸らねばならぬと
聞く。
那な
大木のあるのは
蓋し
深山であらう、
幽谷でなければならぬ。
殊にこれは
飛騨山から

して
來たのであることを
聞いて
居た。
枝は
蔓つて、
谷に
亙り、
葉は
茂つて
峰を
蔽ひ、
根はたゞ
一山を
絡つて
居たらう。
其時は、
其下蔭は
矢張こんなに
暗かつたが、
蒼空に
日の
照る
時も、と
然う
思つて、
根際に
居た
黒い
半被を
被た、
可愛い
顏の、
小さな
蟻のやうなものが、
偉大なる
材木を
仰いだ
時は、
手足を
縮めてぞつとしたが、
(
父親は
何うしてるだらう、)と
考へついた。
鋸は
又動いて、
(
左樣だ、
今頃は
彌六親仁がいつもの
通、
筏を
流して
來て、あの、
船の
傍を
漕いで
通りすがりに、
父上に
聲をかけてくれる
時分だ、)
と
思はず
振向いて
池の
方、うしろの
水を
見返つた。
溜池の
眞中あたりを、
頬冠した、
色のあせた
半被を
着た、
脊の
低い
親仁が、
腰を
曲げ、
足を
突張つて、
長い
棹を
繰つて、
畫の
如く
漕いで
來る、
筏は
恰も
人を
乘せて、
油の
上を
辷るやう。
する/\と
向うへ
流れて、
横ざまに
近づいた、
細い
黒い
毛脛を
掠めて、
蒼い
水の
上を
鴎が
弓形に
大きく
鮮かに
飛んだ。
十
「
與太坊、
父爺は
何事もねえよ。」と、
池の
眞中から
聲を
懸けて、おやぢは
小屋の
中を
覗かうともせず、
爪さきは
小波を
浴ぶるばかり
沈むだ
筏を
棹さして、
此時また
中空から
白い
翼を
飜して、ひら/\と
落して
來て、
水に
姿を
宿したと
思ふと、
向うへ
飛んで、
鴎の
去つた
方へ、すら/\と
流して
行く。
これは
彌六といつて、
與吉の
父翁が
年來の
友達で、
孝行な
兒が
仕事をしながら、
病人を
案じて
居るのを
知つて
居るから、
例として
毎日今時分通りがかりに
其消息を
傳へるのである。
與吉は
安堵して
又仕事にかゝつた。
(
父親は
何事もないが、
何故魚を
喰べないのだらう。
左樣だ、
刺身は一
寸だめしで、
鱠はぶつぶつ
切だ、
魚の
煮たのは、
食べると
肉がからみついたまゝ
頭に
繋つて、
骨が
殘る、
彼の
皿の
中の
死骸に
何うして
箸がつけられようといつて
身震をする、まつたくだ。そして
魚ばかりではない、
柳の
葉も
食切ると
痛むのだ、)と
思ひ/\、
又この
偉大なる
樟の
殆ど
神聖に
感じらるゝばかりな
巨材を
仰ぐ。
高い
屋根は、
森閑として
日中薄暗い
中に、ほの/″\と
見える
材木から
又ぱら/\と、ぱら/\と、
其處ともなく、
鋸の
屑が
溢れて
落ちるのを、
思はず
耳を
澄まして
聞いた。
中央の
木目から
渦いて
出るのが、
池の
小波のひた/\と
寄する
音の
中に、
隣の
納屋の
石を
切る
響に
交つて、
繁つた
葉と
葉が
擦合ふやうで、たとへば
時雨の
降るやうで、
又無數の
山蟻が
谷の
中を
歩行く
跫音のやうである。
與吉はとみかうみて、
肩のあたり、
胸のあたり、
膝の
上、
跪いてる
足の
間に
落溜つた、
堆い、
木屑の
積つたのを、
樟の
血でないかと
思つてゾツとした。
今まで
其上について
暖だつた
膝頭が
冷々とする、
身體が
濡れはせぬかと
疑つて、
彼處此處袖襟を
手で
拊いて
見た。
仕事最中、こんな
心持のしたことは
始めてである。
與吉は、
一人谷のドン
底に
居るやうで、
心細くなつたから、
見透かす
如く
日の
光を
仰いだ。
薄い
光線が
屋根板の
合目から
洩れて、
幽かに
樟に
映つたが、
巨大なるこの
材木は
唯單に
三尺角のみのものではなかつた。
與吉は
天日を
蔽ふ、
葉の
茂つた
五抱もあらうといふ
幹に
注連繩を
張つた
樟の
大樹の
根に、
恰も
山の
端と
思ふ
處に、しツきりなく
降りかゝる
翠の
葉の
中に、
落ちて
落ち
重なる
葉の
上に、あたりは
眞暗な
處に、
蟲よりも
小な
身體で、この
大木の
恰も
其の
注連繩の
下あたりに
鋸を
突さして
居るのに
心着いて、
恍惚として
目を

つたが、
氣が
遠くなるやうだから、
鋸を
拔かうとすると、
支へて、
堅く
食入つて、
微かにも
動かぬので、はツと
思ふと、
谷々、
峰々、
一陣轟!と
渡る
風の
音に
吃驚して、
數千仞の
谷底へ、
眞倒に
落ちたと
思つて、
小屋の
中から
轉がり
出した。
「
大變だ、
大變だ。」
「あれ! お
聞き、」と
涙聲で、
枕も
上らぬ
寢床の
上の
露草の、がツくりとして
仰向けの
淋い
素顏に
紅を
含んだ、
白い
頬に、
蒼みのさした、うつくしい、
妹の、ばさ/\した
天神髷の
崩れたのに、
淺黄の
手絡が
解けかゝつて、
透通るやうに
眞白で
細い
頸を、
膝の
上に
抱いて、
抱占めながら、
頬摺していつた。お
品が
片手にはしつかりと
前刻の
手紙を
握つて
居る。
「ねえ、ねえ、お
聞きよ、あれ、
柳ちやん――
柳ちやん――しつかりおし。お
手紙にも、そこらの
材木に
枝葉がさかえるやうなことがあつたら、
夫婦に
成つて
遣るツて
書いてあるぢやあないか。
親の
爲だつて、
何だつて、
一旦他の
人に
身をお
任せだもの、
道理だよ。お
前、お
前、それで
氣を
落したんだけれど、
命をかけて
願つたものを、お
前、
其までに
思ふものを、
柳ちやん、
何だつてお
見捨てなさるものかね、
解つたかい、あれ、あれをお
聞きよ。もう
可いよ。
大丈夫だよ。
願は
叶つたよ。」
「
大變だ、
大變だ、
材木が
化けたんだぜ、
小屋の
材木に
葉が
茂つた、
大變だ、
枝が
出來た。」
と
普請小屋、
材木納屋の
前で
叫び
足らず、
與吉は
狂氣の
如く
大聲で、
此家の
前をも
呼はつて
歩行いたのである。
「ね、ね、
柳ちやん――
柳ちやん――」
うつとりと、
目を
開いて、ハヤ
色の
褪せた
唇に
微笑むで
頷いた。
人に
血を
吸はれたあはれな
者の、
將に
死なんとする
耳に、
與吉は
福音を
傳へたのである、この
與吉のやうなものでなければ、
實際また
恁る
福音は
傳へられなかつたのであらう。