沼夫人

泉鏡花





「ああ、奥さん、」
 と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室内まのうち真暗まっくら黒白あやめが分らぬ。寝てから大分の時がったらしくもあるし、つい今しがた現々うとうとしたかとも思われる。
 その現々たるや、意味のごとく曖昧あいまいで、虚気うっかりとしていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚束おぼつかないが、
「ああ、奥さん、」
 と返事をした声は、たしかに耳にって、判然はっきり聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身体からだのどっかが、がっくりとくぼんだ気がする。
 そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。――呼んだのは、室のひらきの外からだった――すなわち、ねやの戸を音訪おとずれられたのである。
 但し閨の戸では、この室には相応そぐわぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋……と云うが、この部落における、ある国手いしゃの診察室で。
 小松原は、旅行中、夏の一夜ひとよを、知己ちかづきの医学士の家に宿ったのであった。
 隙間漏る夜半よわの風に、ひたひたとすそなびく、薄黒い、ものある影を、臆病おくびょうのために嫌うでもなく、さればとて、むらがたかる蚊のくちばしを忍んでまでいとうほどこじれたのでもないが、鬱陶うっとうしさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。
 ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟をかぶっても、成るべくは、蛍、萱草かやくさ、行抜けに見たい了簡りょうけん。それには持って来いの診察室。装飾かざりの整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋跣足はだし歩行あるかれる絨氈じゅうたんが敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のややせた、緑の窓帷カアテンが絞ってある。これさえ引いておけば、田圃たんぼは近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を仰臥あおむかせて、内の国手せんせいが聴診器を当てようという、寝台ねだいの上。ますます妙なのはのみうれい更になし。
 地方いなかと言っても、さまで辺鄙へんぴな処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、瓦斯がすが窓越の森に映って、薄らあおくぱっといていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと突立つッたって、ねじって、ふっと消した。
「何、この方が勝手です、燧火マッチを一つ置いといて頂けば沢山で。」
 このの細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しいあか扱帯しごき、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、洋燈ランプをそこへ、……
「いいえ、おれなさらないと、とお目覚めの時、不可いけないもんですよ。やどでもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくっていてって、此室ここふせりましてね、夜中に戸迷とまどいをして、それは貴下あなた、方々へ打附ぶつかりなんかして、飛んだ可笑おかしかったことがござんすの。
 可笑おかしいより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたからよろしかったようなものの、わたくしどもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じようなきれを掛けておおいにしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、何しろ、どこか一つ窓へ顔を出して方角をめようとしましてね、窓掛だ、と思って引揚げましたのが、その蔽だったんでしょう。箱の中に飾っておきます骸骨がいこつに、ぴったり打撞ぶつかったんでございますとさ、いやではござんせんかねえ。」
 ……と寝台の横手、窓際に卓子テエブルがあるのに、その洋燈ランプせながら話したが、中頃に腰を掛けた、その椅子は、患者が医師せんせい対向さしむかいになる一脚で、
「何ぼ、男でもヒヤリとしましたそうですよ。」
 と愛嬌あいきょうよく莞爾にっこりした。
「や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。」
「ですから、お気をけなさいまし。やどとは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……おんなのだって、言いますから。」


 主人あるじの医学士は、実は健康を損ねたため、保養かたがた暢気のんきを専一に、ここに業を開いているのであるが、久しぶりのこの都の客と、対談はなし発奮はずんで、晩酌の量を過したので、もう奥座敷で、ごろりと横の、そのまま夢になりそうな様子だった折から、細君もただそれだけにして、
「どうぞ御緩ごゆっくり。」
 と洋燈ランプを差置き、ちらちらと――足袋じゃない、爪先つまさきが白く、絨氈じゅうたんの上を斜めに切って、ひらきを出た。
 しばらくして、女中が入って来て、
「ここへ、冷水おひやをお置き申します。」
 声を聞いたばかり。昼間歩行あるき廻った疲労つかれと、四五杯の麦酒ビイルの酔に、小松原はもう現々うとうとで、どこへ水差を置いたやら、それは見ず。いつまた女中が出てったか、それさえ知らず。ただ洋燈の心を細めた事は、一緊ひとしめ胸をめたほど、顔の上へ暗さが乗懸のしかかったので心着くと、やがて、すうすうしお退塩梅あんばいに、あかりが小さく遠くなり、はるかに見え、何だか自分が寝た診察台の、枕の下へ滅入込めいりこんで、ずっと谷底の古御堂ふるみどう狐格子きつねごうしの奥深くともれたもののごとく、思われた……か思ったのか、それとも夢路を辿たどる峠からのぞく景色か、つい他愛たわいがなくなる。
 処を、前に言った、(奥さん)――で目が覚めたが、真暗まっくら、洋燈はその時消えていた。
 枕をもたげて、
唯今ただいま!」
 威勢よく、(開けます)とやろうとする、そのひらきの見当が附かぬから、臥床ねどこに片手いたなり、じっの内を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしながら、耳を傾けると、それ切り物の気勢けはいがせぬ。
「はてな、」
 自分で、奥さん、と言ったのに、驚いて覚めたには覚めたが、誰に呼ばれたのか、よくは分らぬ。もっとも、小松原とも立二りゅうじとも、我が姓、我がめいを呼ばれたのでもなければ、聞馴ききなれた声で、貴郎あなた、と言われた次第でもない。
 とは言え、呼んだのはたしかおんなで……しかも目のぱっちりした――
「待て、待て、」
 当人寝惚ねぼけている癖に、ひと目色めつき穿鑿せんさくどころか。けれども、その……ぱっちりと瞳のすずしい、色の白い、髪の濃い、で、何に結ったか前髪のふっくりとある、俯向うつむき加減の、就中なかんずく歴然ありありと目に残るのは、すっと鼻筋の通った……
 ここまで来ると、このの細君の顔ではない。それはもっと愛嬌あいきょうがあって、これはそれよりも品が優る。
 勿論、女中などに似ようはないと、夢か、うつつか、朦朧もうろうと認めた顔のかたちが、どうやらこう、目前めさきに、やっぱりその俯向うつむき加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
 それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性にょしょうが、
「開けて下さい。」
 と言ったのに応じて、唯今、と直ぐに答えたのであるが、ひらきの事だろう? その外廊下に、何の沙汰さたも聞えないは、待て、そこではなさそう。
ほかに開ける処と言っては、窓だが、」
 さてはまさしくうなされた? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗込のぞきこんで、窓を開けて、と言うおんなはあるまい。
 いや、無いとも限らん――有れば急病人のとこから駈着かけつけて、門をたたいても、内で寝入込んで、車夫をはじめ、玄関でも起さない処から、等閑なおざりな田舎のかまえ、どこか垣の隙間から自由に入って来て、直ぐに脊伸せいのびのぞいたやつ
 かとも思ったが、どちらをながめても、何もらず、どこに窓らしい薄明りもさなければ、一間開放したはずの、カアテンそよぎも見えぬ。
 カタリとも言わず……あまつさえ西洋の、ひしとあり、しんとして、ぷんと、ここる、強い、湿っぽい、重くるしい薬のにおいが、形あるはくのようにさっと来て、時にヒイヤリと寝台を包む。


 かれは、今更ながら、しとど冷汗になったのを知った。
 窓を開けたままで寝ると、夜気に襲われ、胸苦しいは間々あるならいで。どうかすると、青い顔が幾つもかさなって、隙間から差覗さしのぞいて、ベソをいたり、ニタニタと笑ったり、キキと鳴声を立てたり、その中には鼠も居る。――希代なのは、その隙間形すきまなりに、怪しい顔が、細くもなれば、長くもなり、菱形ひしがたにも円くもなる。夕顔に目鼻が着いたり、摺木すりこぎに足が生えたり、やぶれ障子が口を開けたり、時ならぬ月がでなどするが、例えば雪の一片ひとひらごとに不思議の形があるようなもので、いずれも睡眠に世を隔つ、夜の形の断片かけららしい。
 すると、今見た女の顔は……何にいてあらわれたろう。
「何だか美しかった。」
 と思出して、今度は悚然ぞっとした。
「そして、奥さんだ?……奥さんとはどこの奥さんだ。」
 たしか此家ここの細君の顔ではない、あれでなし、それでもなし、目がぱっちりして、色が白く、前髪がふっくりと、鼻筋通り……
 と胸のうちで繰返して、その目と、髪と、色艶いろつやと、一つ一つまとまり掛けると……おぼえがある!
 トンと寝台ねだいに音を立てて、小松原は真暗まっくらな中に、むっくと起きた。
「馬鹿な。」
 と思わずつぶやいた。
「何、そんなやつがあるものか。」
 いや、いや、もしその人だとすれば――三年以前に別れてから、片時も想わずにはおらぬ、寝た間も忘れはしないのであるから、幻も、そのおもかげ当然あたりまえで、かえって不審いぶかしくもすごくもないはず
「開けて下さい、」
 と云った……それそれ、ひらきを開けるつもりで、目をさましたに違いはない。
 且つうつつから我に返った、咄嗟とっさには、内の細君で……返事をしたが、かくの通り、続いてちっとも音沙汰のないのを思え。対手さきは何でも、小松原自分の目には、みんな胸にある、その人のおもかげに見えるのかも知れぬ。
「どこを、何を開けて、と云ったんだろう。」
 一体――と渠はまたじっと考えた。
 既に夢だと承知しながら、なお何か現在に、事を連絡させようとしている内が、その実、うつつだったものらしいが。
 窓は開いているし、ひらきの外は音信おとずれは絶えたり、外に開けるものは、卓子テエブル抽斗ひきだしか、水差のふた……
 いや、有るぞ、有るぞ、棚の上に瓶がある。瓶も……四つ五つ並んでいたろう。内の医師せんせいが手にかけたという、嬰児あかんぼ酒精アルコオルけたのが、茶色に紫がかって、黄色いはだ褐斑かばまだら汚点しみが着いて、ぐたりとなって、いぬか鼠の児かちょいとは分らぬ、天窓あたまのひしゃげた、鼻と口と一所に突き出た不状ぶざまなのが、前のめりにぶくりと浮いて、膝を抱いて、! と一つ声を掛けると、でんぐりかえしを打ちそうな、彼これ大小もあったけれども、どれが七月児ななつきごか、六月児むつきごか、昼間見た時、医師せんせいの説明をよくは心にも留めて聞かなかったが、海鼠なまこのような、またその岩のふやけたような、いや膚合はだあい、ぷつりと切った胞衣えなのあとの大きないぼに似たのさえ、今見るごとく目に残る、しかも三個みッつ
 と考え出すと、南無三宝なむさんぽう、も一つの瓶にはまむしが居たぞ、ぐるぐると蜷局とぐろを巻いた、胴腹が白くよじれて、ぶるッと力を入れたような横筋の青隈あおぐまくぼんで、逆鱗さかうろこの立ったるが、瓶の口へ、トとどく処に、鎌首をもたげた一件、封じ目を突出るいきおい
「一口どうかね。」
 と串戯じょうだんに瓶の底を傾けて、一つ医師せんせいが振った時、底の沈澱よどみがむらむらと立って、けむのように蛇身をいたわ。
 場所が場所で、扱う人が扱う人だけ、その時は今思うほどでもなかったが、さてこう枕許まくらもとにずらりと並べて、穏かな夢の結ばれそうな連中は、御一方もおいでなさらぬ。
 ああ、悪い処へ寝たぞ。
 中にもくだん長物ながものなどは、かかる夜更よふけに、ともすると、人のねむりを驚かして、
「開けて下さい。」
 をりかねまい、と独りでこしらえて、独りで苦笑した。


 寝覚ねざめの思いの取留め無さも、酒精浸アルコオルづけまむしが、瓶の口をば開けてべ、と夢枕に立った、とまでになる、と結句可笑おかしく、幻に見たおんなの顔が、寝た間も忘れぬその人を、いつもの通りうつつに見た、と合点がくと、いずれ一まず安心が出来たので、そのまま仰向あおむけに、どたりと寝た。
 急に起上ったのであるけれども、さまであわただしくもなかったらしく、枕は思った処にちゃんとある。ここで、枕の位置がまると、寝台ねだいむきも、工合ぐあいも、方角も定まったので、どの道暗がりの中を、盲目覗めくらのぞきではあるが、ひらき、窓、卓子テエブル、戸棚の在所ありどころなどがしっかり知れる。
 上に、その六月目、七月目の腹籠はらごもり、蝮が据置かれた硝子がらす戸棚は、蒼筋あおすじの勝ったのと、赤い線の多いのと、二枚解剖かいぼうの図を提げて、隙間一面、晃々きらきらと医療器械の入れてあるのがちょうど掻巻かいまきすその所、二間の壁に押着おッつけて、直ぐひらきの横手に当る。そこにはあかり取りも何にもないから、ほのか星明ほしあかり辿たどれないが、昼の見覚みおぼえは違うまい。同じ戸棚が左右に二個ふたつ、別に真中まんなかにずっと高いのを挟んで、それには真白まっしろきれかかっていた、と寝乱れた浴衣の、胸越に伺う……と白い。ぼうと天井から一幅ひとはば落ちたが、四辺あたりが暗くて、その何にも分らぬ……両方の棚に、ひしひしと並べた明晃々こうこうたる器械のありとも見えず、しんとなって隠れた処は、雪に埋もれた関らしく、霜夜の刑場しおきばとも思われる。
 旅行のたもとに携えた、誰かの句集の中にでもありそうなのを、偶然ふと目に浮べたはかったが、たちまち、小松原は胸を打った。
 本尊! 本尊! 夢を驚かした本尊は、やあやあその中に鎮座まします――しかもおんな骸骨がいこつで、その真白まっしろおおいの中に、襟脚を釣るようにして、ぶら下げた、足をすっと垂れて、がっくりと俯向うつむいたのが、腰、肩、蒼白あおじろつながって、こればかり冷たそうに、夕陽を受けた庭の紫陽花あじさいの影を浴びて、怪しい色を染めたのを見た。
 もうこの上には、あだなさけ貴下あなた、私も無さそうな形ながら、おんなというだけ、骨の細りと、胸のあたりも慎ましやかに、おとがい掻込かいこんだ姿を、仔細しさいらしくながめたが、さして心した、というでもなかったに、余程目に染みたものらしく、晩飯の折から、どうかした拍子だった、一風ひとかぜさっと――田舎はこれが馳走ちそうという、青田の風がすだれを吹いて、水のかおりぷんとした時、――ぜんの上の冷奴豆腐ひややっこの鉢の中へ、その骨のどのあたりかが、うっすりと浮いて出た。
 それからさきは、……寝しなに細君が串戯じょうだんに、
「夜中に出掛けますかも知れません、おんなだって言いますから。」
 と笑ったが、話が陽気で、別に気にもならずに寝た。処を、今のそのおんなが来て……
「ほい、まむしより、この方が開けてくれに縁がある。」
 いや、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、縁なんぞないのがい、と枕を横に目をらすと、このきれがまた白い。襟許えりもとの浴衣が白い。同一おなじ色なのが、何となく、戸棚のおおいに、ふわりと中だるみがしつつも続いて、峠の雪路ゆきみちのように、天井裏まで見上げさせる。
 小松原はまた肩のあたりに、冷い汗を垂々たらたらと流したが、大分夜も更けた様子で、冷々ひやひやと、声もない、音もせぬ風が、そよりと来ては咽喉のどかすめる。
 ごほんと、乾咳からぜきいて、掻巻かいまきの襟を引張ひっぱると、暗がりの中に、その袖が一波ひとなみ打ってあおるに連れて、白いおおいに、※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)ひだが入って、何だか、呼吸いきをするように、ぶるぶると動き出す。
 目をふさいでも、こんな時はせんがないから、一層また起直って、しかと、その実は蔽が見えるのでもなく、勿論揺れるのでもない、臆病眼おくびょうまなこが震えるのを、見定めようと思ったが、頭が重いのに、まぶたがだるく、耳が鳴る。手足もぐったりで、その元気が出ぬ。
 ままよ、寝っちまえ! ぐッと引被ひっかぶると、開いたのか、塞いだのか、分別が着かぬほど、見えるものはやっぱり見えて、おまけに、その白いものが、段々拡がって、前へ出て、押立おったって、まざまざと屏風びょうぶを立てたように寄って来る。


 さあ、その、ふわふわと縦に動く白いものが、次第びくに、耐力たわいなく根を抜いて、すっと掻巻かいまきの上へ倒れたらしい心地がすると、ひしひしと重量おもみかかって、うむ、とされた同然に、息苦しくなったので、急いで、刎退はねのけにかかると、胸に抱合わせている手が直ぐに解けず、緊着しめつけられているような。
 腕を引っこ抜くいきおいで、※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)もがいて、掻巻をぱっとぐ、と戸棚のおおいは、もとの処にぼうとさがって、何事も別条はない。が、風がまたどこからか吹いて来て、湿っぽい、蒼臭あおくさい、汗蒸いきれたにおいが、薬の香に交って、むらむらとそこらへ泳ぎ出す。
 疲れ切った脳の中に、その臭気ばかりが一つ一つ別々に描かれて、ああ、湿っぽいのは腹籠はらごもりで、蒼臭いのはまむしむくろ、汗蒸れたのは自分であろう。
 そのにおいを見附けたそうに、投出している我が手をはじめ、きょろきょろと※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわす内に、何となくほんのりと、誰だか、おんなの、冷い黒髪の香がしはじめる。
 香のする方を、じっと見ると、ただやっぱり白い……が、思いなしか、その中に、どうやら薄墨で影がさして、乱しもやらず、ふっくりびんまとまって、濃い前髪の形らしく見分みわけがつく、と下からまき上がるごとく、白いきれが、くるくると小さくなり、左右から、きりりとしまって、細くなって、その前髪を富士形に分けるほど、鼻筋がすっと通る。
「奥さん!」
 と思わず言って、小松原はまた目を覚した。
 トもまだ心着かないで、
「今、開けます。」
 と言って、愕然がくぜんとして我に返った。
「また、夢か。」
 今度は目が覚めつつも、まだ、そのおもかげうち朦朧もうろうとして残ったが、呼吸いきにでも吹遣ふきやられるように、棚の隅へ、すっと引いて、はっと留まって、くなる。
 後がたちまち真暗まっくらになるのが、白の一重芥子ひとえげしがぱらりと散って、一片ひとひら葉の上にとまりながら、ほろほろと落ちる風情。
「こりゃ、どうかしているな。」
 うつつと幻との見境みさかいさえ附きかねた。その上、寒気はする、かしらは重し、いや、たまらぬほど体がだるい。夜が明けたら、主人の一診を煩わそうまでは心着いたが、先刻さっきより、今は起直る力がない。
 特に我慢のならぬのは、呼吸苦いきぐるしいので、はあはあ耳に響いて、気のけるほど心臓の鼓動がはげしくなった。
 手を伸ばすか、どうにかすれば、水差に水はあるはず、と思いながら、枕を乗出すさえ億劫おっくうで、我ながら随意ままにならぬ。
 ちょうど、この折だったが、びしょびしょ、と水の滴るような音がし出した。遠くで蚊の鳴くのかとも聞えるし、鼠がこぼしたかとも疑われて、渇いた時でも飲みたいと思うような、快い水の音信おとずれではない。
 陰気な、鈍い、濁った――厭果あきはてた五月雨の、宵の内に星が見えて、寝覚にまた糠雨ぬかあめの、その点滴したたりびた畳に浸込しみこむ時の――心細い、陰気でうんざりとなる気勢けはいである。
「水差が漏るのかな……」
 亀裂ひびでもっていたろう。
洋燈ランプから滲出しみだすのか……」
 可厭いやな音だ。がそれにしては、石油のにおいがするでもなし……こう精神がもうとしては、ものの香は分るまい。
 断念あきらめるつもりにしたけれども、その癖やっぱり、しきりに臭う。湿っぽい、あおくさい、汗蒸いきれたのが跳廻はねまわる。
「ソレまた……」
 気にすると、直ぐに、得ならず、時めく、黒髪のかおりさっと来た。
「また夢か。」
 いつまで続く、ともうげんなりして、思慮かんがえが、ドドドとの底へ滅入めいり込む、と今度は、戸棚のおおいまとまって、白い顔にはならない替りに、窓の外か、それとも内か、ひらきの方角ではなしに、何だか一つ、変な物音……沈んだ跫音あしおと


 その音は――今しがた聞え出した、何かを漏れて、しずくの落ちる不快なひびきが、次第に量を増して、それの大きくなったもののようでもあるし、新たに横合から加わったもののようでもある。
 何しろ、同一おなじ方角に違いない。……開けて寝た窓から掛けて、洋燈ランプがそこで消えた卓子テエブルの脚をつたわって床に浸出す見当で、段々判然はっきりして、ほたりと、耳許みみもとで響くかとするとまたかすかになる。幽になっておもての葉を、夜露が伝うように遠ざかる。――が、絶えたり続いたりと云うよりは、出つりつ、見えつ隠れつするかに聞えて、浸出にじみだすか、こぼれるか、水か、油か、濡れたものが身繕いをするらしい。
 しばらくつと、重さに半ば枕にうずんで、がっくりとした我が頭髪かみのけが、そのしぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、282-16]……ともつかぬ水分を受けるにや、じとりと濡れて、粘々ねんばりとするように思われた。もう、手で払う元気が無いので、ぶるぶると振ると、これは! 男の天窓あたまにあるべくもないが、カランと、くしの落ちた音……
 例のほたほた零れる水と、やがてまた縁が離れて、直ぐにあたらしい音がはじまり、寝台ねだいの脚から掻巻かいまきすそへかけて、こう、一つ持上げては、踏落す……それも、爪先つまさきこするでなしに、宙を伝うすそから出て、かかとれ摺れに床へ触るらしく、小股こまた歩行あるくほどのあわいいて、しと、しと、しと。
 まさかこれぎりに殺されもしまい、と小松原はなげに出て、身動きもしないでいれば、次第に寝台の周囲まわりを廻って、ぐるりと一周りして枕許まくらもとを通る、と思うと、ぐらぐらと頭を取って仰向あおむけに引落される――はっとすると、もう横手へ退く。
 その内に、窓下の点滴したたりが、ますます床へ浸出しみだすそうで、初手は、くだん跫音あしおととは、彼これあわいを隔てたのが、いつの間にか、一所になって、一条ひとすじ濡れた路がつながったらしくなると、歩行あるく方が、びしょびしょ陰気に、湿っぽくなって来た。
 これでは目が覚めて見ると、血の足跡が、飛々とびとびに残っていようも知れぬ。
 飛々どころか、何として、一面の血か、水であろう、と思われたのは、間も無くであった。
 しとしという尋常らしい跫音あしおとが、今はびちゃびちゃと聞えて来た。水ならかかとまでかかろう深さ、そうして小刻こきざみはやくなったが、水田みずた蹈込ふみこんで渡るのをあぜから聞く位の響き。
 と卓子テエブルの上で、ざざっと鳴出す。窓から、どんどと流込む。――さてもさても夥多おびただしい水らしいが、滝のいきおいもなく、瀬の力があるでもない。落ちても逆捲さかまかず、走ってもほとばしらぬ。たとえば用水が畔へ開き、田が一面の湖となる、雨上あまあがりの広田圃ひろたんぼを見るような、ふなどじょうの洪水めいたが、そのじめじめとして、陰気な、湿っぽい、ぬるぬるした、不気味さは、大河おおかわ出水でみずすごいにまさる。
 そんな水がどこへ出た、と言われたら、この部屋一面、と答えようと思いながら、小松原は但し身動きも出来ないのである。
 やがて短夜みじかよが……嬉しや、もう明けそうに、窓から白濁りの色がして、どんよりと光って、卓子テエブルの上へ飜った、と見ると、跫音あしおとが、激しくなって、ばたばたばた、とそこいらをけたが、風か、水か、ざっと鳴る時、おんなの悲鳴が、
「あッ」
 と云う……
「奥さん。」
 と刎起はねおきる、と、起きた正面に、白い姿が、ふつとある!
「ああ、夢か。」
 と気が着いたが、まざまざ垂れたそのきれが、ふっくりした乳にも見えるし、すっとした手にも見える。そのあたりが、と思うと、円い肩になり、なぞえに白く胸になって、くびって腰になって、すらりと裾のようになる。
 あの、雪に、糸一条ひとすじかからぬか、と疑えば、非ず、ひたひたと身に着いた霞のようなきぬをぞまとう。
 と見ると、あたり、胸へ掛けて、無慚むざんや、さっと赤くなって、垂々たらたらと血に染まった。


 枕に響いた点滴したたりの音も、今さらこの胸からか、と悚然ぞっとするまで、その血が、ほたほたと落ちて、しおが引くばかりに、見る間に、びしゃびしゃと肉がしぼむ、と手と足に蒼味あおみして、腰、肩、胸の隅々くまぐまに、まだその白いはだ消々きえぎえに、うっすらと雪をかついで残りながら、細々と枝を組んで、肋骨あばらぼねが透いて見えた。
「ああ、これだな。」
 と合点がく。
 途端に、がたがたと戸棚が鳴った。
 自分で正気づいたと、心がたしかになった時だけ、うつつおんな跫音あしおとより、このがたがたにもうたまらず、やにわに寝台ねだいからずるずると落ちた。
 小松原は暗がりを手探りながら、鋭くなった神経に、先刻さっきから電燈でんきで照らしたほど、室内の見当はよく着けていたので、猶予ためらいもせず、ズシンと身体からだごとひらきの引手に持ってくと、もとより錠を下ろしたのではない。
 ドンとく。
 扉に身体からだ附着くッついて、発奮はずんで出たが、またいだ足が、そう苦なしには大穴から離りょうとはせぬので、地獄から娑婆しゃばへ踏掛けたていで、ひとり※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいて、どたんばたん、扉のおもてと、や、組んだりける。
 この物音に、驚破すわやと奥で起直って、早や身構みがまえをしたと見える――あわただしい耳にも、なおがったりと戸棚の前の怪しげなひびきがまた聞えたのに、たまりかねて主人あるじを呼ぶと――向うへ、突当りの縁が折曲った処に、ぼうとしていたあかりが動いて、直ぐに台附の洋燈ランプを手にした、浴衣の胸のはだかった、扱帯しごきのずるずるとある医師せんせいが、右を曲って、正面へ。
 開放した障子をれて、だらりとすそを引いた萌黄もえぎの蚊帳を横にして、廊下の八分目ぐらいな処で、
「便所か。」
 と云う、ひげ口許くちもと明々あかあかとして、洋燈ランプかざす。
 このあかりで、小松原は水浸しになったほど、汗びっしょりの、我ながら萎垂しょぼたれた、腰のすわらぬ、へとへとになった形を認めたが、医学士はかつて一年志願兵でもあったから、武備も且つある、こんな時の頼母たのもしさ。顔を見ると、蘇生よみがえった心地で、
「やあ。」と掛けた声がいきおいなく中途でかすれて、
「夜更けに恐縮、」
 とやっと根こそぎにへやを離れた。……ひらきうしろざまに突放せば、ここが当やかたの関門、来診者の出入口で、建附に気をけてあるそうで、刎返はねかえって、ズーンと閉る。
 と突出されたていにしょんぼり立って、
「どうも、何だ、夜夜中よるよなか、」
 医師せんせいは亭主関白といった足取、深更に及んでも、夜中でも、その段は一切頓着とんじゃくなく、どしどしと廊下を踏んで、やがて対向さしむかいになる時、かたわらの玄関の壁越にすさまじいいびきを聞いて、
さかんだ、壮だ。」
 と莞爾にっこりする。
 顔色かおつきが、ぐっすり寝込んだ処を、今ので呼覚よびさまされて、眠いに迷惑らしい様子もないので、
「どうも気の毒です。ひどい目に逢ってね。」
 といささか落着く。
 医師せんせいたちはだかりつつ、
「どうした、蚊軍ぶんぐんの襲来かい。」
 なかなか、こんな事を解釈する余裕はなくって、
「ええ、」
 といかにも気が利かない。
「蚊に城を破られたかよ。」
「そこどころか。」
 対手あいての余り暢気のんきなのが、この際うらめしく思われた。
「この中は大変だ。」
「大変だ?」
「何か来たんだ。」
「何、入って来たか、」
 と洋燈ランプを上げて、ひらきの上を、ぐいと仰ぐ。
「がたがたってる。」
 小松原は、ずうっと医師せんせいに身を寄せる、と目を返して、今度はそのていをじろじろながめて、
「震えてるね、君は。」


「どうだい、心持は。もう爽快さっぱりしたろう。」
 主人あるじ医師せんせいは、奥座敷の蚊帳の中に、胡坐あぐらして、枕許まくらもと煙草たばこ盆を引寄せた。
「こういう時は、医師いしゃの友達は頼母たのもしかろう。ちと処方外の療治だがね、同じ葡萄酒ぶどうしゅでも薬局で喇叭らっぱめると、何となく難有味ありがたみが違って、おのずから精神が爽快そうかいになります。しかしおびえたっけ、ははは。」
 とひげひねって、冴々さえざえしい。
 蚊がぶうんとうなって、歯切はぎしりもどこかでする。あかりの暗い、鬱陶うっとうしかるべき蚊帳の内も、主人あるじがこれであるから、あえて蒸暑くもないのであった。
 小松原は、すそを細う、横に手枕で気を休めていた。
「怯えたどころか、一時はそのままになるかと思った。起きるには起きられず、げるには遁げられず、寝返りさえ容易じゃない、実際息が留まりそうだったものね。」
 咽喉のどななめに手を入れて、せた胸をおさえながら、
「見たまえ、いまだにこの動悸どうきを、」
「色は白くっても、野郎のしゃくおさえたってはじまらない。は、はは、いや、しかし弱い男だ。」
「ふ、ふ、」
 と力抜けた声で笑って、
「奥さんは?」と俯向うつむけに額を圧える。
「御心配に及びません。君が侵入に及んだために他室へ遠慮したというんじゃない。小児こどもの奴がまた生意気に、私がちと飲過すと、酒臭い、と云って一つ蚊帳を嫌います。いや、おおきに台所の内諭ないゆなきにしもあらずだろうが。
 そこで、先刻さっき、君と飲倒れたまま遠島申附かった訳だ。――空鉄砲からでっぽう機会きっかけもなしに、五斗兵衛むっくと起きて、思入おもいいれがあったがね。それっきり目が冴えて寝られないで、いささか蚊帳の広さかなの感あった処です。
 君もちょっとは寝られまい、朝までここで話したまえ。」
 折から陽気にという積りか、医師せんせいの言は、おおい諧謔かいぎゃくの調を帯びたが、小松原はただ生真面目きまじめで、
「どうかそうしてくれたまえ。ここを追出されたればといって、二度とあすこへ行って寝る気はしない。どうも驚いた。」
「はじめから奇を好むからです。あすこへ行って寝るなんざ、どの道くない。いずれ病人でなくっては乗っからない寝台ねだいだもの。もっとも、私にゃ大切な商売道具だがね。
 しかしそれにしてもあんまりなおびえ方だ。夢を見て遁出にげだすなんざ、いやしくも男子たるべきものが……と云って罵倒ばとうするわけじゃないが、ちとしっかりしないかい。串戯じょうだんじゃない、病気になる。
 そんなのがこうじると、何ももち屋がって、ここで病名は申さんがね、起きている真昼間まっぴるまでも目に見えるようになる。それ、現在目に見えて、そこに居るから、口も利くだろう、声も懸けようではないか。はたから見ると、直ぐにもうキの字だぜ、恐るべし、恐るべし。
 何も、朦朧もうろうあらわれたって、歴々ありありと映ったって、高がおんなじゃないか。婦の姿が見えたんだって言うじゃないか。何が、そんなに恐いものか。」
「別に見えたって訳じゃない。何だか寝台の周囲まわり歩行あるいたんだが、そう、どっちにしてもおんならしく思われた――それがすぐに、息の詰るほどいや心地こころもちだったんではないけれども、こう、じとじとして、湿っぽくッて、陰気で、そこらになまずでも湧出わきだしそうな、泥水の中へ引摺込ひきずりこまれそうな気がしたんで、骨まで浸透しみとおるほど慄然々々ぞくぞくするんだ。」
 と肩を細うして、せな呼吸いきをする。
「男らしくもない、そんな事を言って梅雨期つゆどきはどうします、まさか蓑笠みのかさを着て坐ってやしまい。」
「うむ、何、それがただのじとじとならいけれど、今云う泥水の一件だ、ごうと来た洪水か何かで、一思ひとおもいに流されるならまだしもです――あかりの消えた、あの診察じょのような真暗まっくらな夜、降るともつかず、降らないでもない、糠雨ぬかあめの中に、ぐしゃりと水のついた畔道あぜみち打坐ぶっすわって、足の裏を水田みずたのじょろじょろながれくすぐられて、すそからじめじめ濡通って、それで動くことも出来ないような思いを一度して見たまえ。」
 と力強く云って、また小松原は溜息ためいきで居る。


 医師せんせいおもむろに、煙草盆を引寄せて、
「それ、そこが苦労性だと言うのです。窓を開けたまんまで寝たから、夜風が入って湿っぽかったらただ湿っぽかったでかろう。何も真暗まっくらな夜、田圃たんぼの中に、ぐしゃりと坐って、足の裏をくすぐられて、腰から冷通ひえとおるとまで、こじつけずともの事だ。その気でおぜんに向った日にゃ、おつけの湯気が濛々もうもう立騰たちのぼると、これが毒のある霧になる、そこで咽死むせじにに死にかねませんな。」
「そう一概に言ってくれる事はない。どうせ現在お目に懸けた臆病おくびょうです。それを弁解するんじゃないが、田圃だの、水浸しだの、と誇大に妄想もうぞうした訳ではありません。
 実際、そんな目に逢って、一生忘れられんおもいをした事があるからだよ。いや、考えても身の毛が弥立よだつ。」
 フイと起返って、蚊帳の中を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしたが、妙に、この男にばかり麻目があおい。
 医師せんせいは落着いて、煙を吹かして、
「どこで野宿をした時だ、今度の旅でか。」
「ううむ。」
 と深くかぶりを振って、
「いつかの時さ、あの一件の……」
 と言懸けて、頬のこけた横顔になって打背うちそむいた。――小松原の肩のあたりから片面かたおも耳朶みみたぶかけて、天井の暗さがさかさまに襲ったのを、じっと見ながら、これがある婦人と心中しようとした男だとうなずいた。
 当時その風説は、友達の間に誰も知らぬものはなかったが、医学士は、折から処を隔てていたので、その場合何事にも携わらなんだ。もう三年か四年かと、指を折るほどさきに、七十五日も通越したから、あらためて思出すほどでもなし、おいそれとことばいて、きまりの悪いおもいをさせるでもなかろう。で、一向無頓着むとんじゃくに、
「何だい、いつかの一件とは?」
「面目次第も無いことさ。三年ぜんだ、やっぱりこの土地で、鉄道往生をしそくなった、その時なんです。」
「ああ、そんな事があったってな、危いじゃないか。」
 と云う内におのずから真心がこもって、
「一思いに好男子、粉にする処だっけ。勿論、私がこうして御近所に陣取っていれば、胴切どうぎりにされたって承合うけあい助かる。洒落しゃれにちょいとかれてみるなんぞもおつだがね、一人の時は危険だよ。」
 わざと話に、一人なることばを交えて、小松原が慚愧ざんきの念を打消そうとするつもりだった。
 ところが案外! このなさけに、いたく動かされた色が見えたが、おもてを正しゅう向直った。
「何とも――感謝する。古疵ふるきずなやみを覚えさせまい、とそうやって知らん顔をしてくれるのはまことに嬉しい、難有ありがたいが……それではうらみだ。
 ねえ。
 あれほどの騒ぎだもの。ことに自惚うぬぼれらしいが、私の事を忘れないでいてくれる君が、しかもこの土地へ来ていて、知らないという法はない。承知の上で、何にも知らんふりをしてくれるのは、やっぱりあの時の事を、世間並に、私が余処よその夫人を誘って、心中を仕損しそくなった、とそう思っているからです。
 勝手な事を言うものには、言わしておいて構わんけれども、君のような人に対しては、何とももって恥入るんだ。」
 と俯向うつむいて腕をこまぬき、
「その君のなさけある心で、どうか訳を聞いて欲しい。くどい事は言わん。何しろ、少なくとも君だけには言訳をする責任があると思う。」
 医師せんせいは潔く、
「承わろう。今更その条道すじみちを話して聞かせる……惚気のろけなら受賃を出してからにしてもらおうし、愚痴ぐちなら男らしくもない、したまえ――だが、私たちが誤解をしているんなら、おおいに弁じて聞かせてくれ、今まで疑っていたから私にも責任がある。」
「そう、きっぱりとなられては、どうもまた言出しにくい。」
いじゃないか、その容体を聞かせたまえ、医師いしゃには秘密を打開うちあけていもんだ。」
「…………」
 言淀いいよどんで見えたので、ここへ来い、とかまえを崩して、すきを見せた頬杖ほおづえし、ごろりと横になって、小松原の顔を覗込のぞきこみつつ、
「で、何か、その晩、田圃たんぼに坐ったのか。」
 と軽くあしらってさそいを入れた。


「まあ、坐ったんだ。」
 小松原は苦笑して頬をでたが、寂しそうに打傾き、
土下坐どげざをしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。」
「またどうしてだい。」
 と医師せんせいくつろいだ身の動作こなしで、掻巻かいまきの上へ足を投げて、綴糸つづりいとを手で引張ひっぱる。
「それがね、」
じっと灰吹を見詰めてから、静かに巻莨まきたばこ突込つッこみながら、
「はじめは何でもない事だった。――何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。」
「あの人ッて?」
「…………」
「ははあ、対手あいての貴婦人だね。」
「そんな事を言わないで、」
 と吸口をもっと突込つッこむ。
いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。」
「何、貴婦人に違いはないが、その対手あいてが悪い。」
し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。」
「御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が媒酌人なこうどで結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが見知越みしりごしでいたのだった。
 ちょうど戦争のあった年でね。
 主人は戦地へ行って留守中。その時分、三才みッつだった健坊と云うのが、梅雨あけ頃からせきが出て、塩梅あんばいが悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地がい、場所は、と云って此地ここを、その主治医が指定したというもんです。
 小児こどもの病気とはいいながら、旅館と来ると湯治とうじらしく、時節柄人目に立つ。あらたに別荘を一軒借りるのも億劫おっくうだし、部屋がりが出ず入らず、しかるべき空座敷あきざしきがあるまいか、と私が此地こっちに居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。
 そちこち聞合せると、私が借りていた家から、田圃たんぼの方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店であきないも大きくっている、家主の人柄もし、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。
 直ぐにめて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が停車場ステエションへ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。
 五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、単衣ひとえに羽織をて、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って閉籠とじこもっていた処……その日は朝から雨があがって、昼頃には雲切くもぎれがして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、蒼空あおぞらは見えなかったが、多日しばらくぶりで、出歩行であるくに傘は要らない。
 小児こどもを歩行かせるにはみちが悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、はすっかいに私の前二階をのぞいて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、
(お出掛けなさいませんか。)
 と浜を誘いに見えるだろう。
(小松……君。)
 と原抜きにして、高慢に仇気あどけなく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。
 その内、湯に入ると、うっすりと湯槽ゆぶねの縁へ西日がさす。のぞくと、空の真白まっしろな底に、高くから蒼空が団扇うちわをどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、かこいの外を、
(水が出たぞ。)
(田圃一面。)
 と饒舌しゃべって通った。
 これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、ろく手拭てぬぐいも絞らないで、ふらんねるをひっかけたなり、帽子もかぶらずに、下駄を突掛つッかけて出たんだがね。」――

十一


汎水でみずだ、と云ったって、この通り、川らしい川のない処だから、駈出かけだして見物に行くほどの事もなさそうなもんだけれど、私は何だ。……
 すみれ茅花つばなの時分から、苗代、青田、豆の花、蜻蛉とんぼ、蛍、何でも田圃がすきで、殊に二百十日前後は、稲穂の波に、案山子かかしの船頭。芋※ずいき[#「くさかんむり/哽のつくり」、U+8384、298-6]なびく様子から、枝豆の実る処、ちと稗蒔ひえまき染みた考えで、深山大沢しんざんだいたくでない処は卑怯ひきょうだけれど、くじらより小鮒こぶなです、白鷺しらさぎうずらばん鶺鴒せきれいみんな我々と知己ちかづきのようで、閑古鳥よりは可懐なつかしい。
 山、海、湖などがもし天然の庭だったら、田圃はその小座敷だろう。が、何しろ好きでね、……そのせいか、私には妙な事がある。
 いつ頃からかはよく分らんが、床に入って、いい心持に、すっと足をのばす、せなかが浮いて、他愛たわいなくこう、その華胥かしょの国とか云う、そこへだ――引入れられそうになると、何の樹か知らないが、萌黄色もえぎいろの葉の茂ったのが、上へかかって、その樺色かばいろの根をしずかに洗う。あいがかった水のながれが、緩くうねって、前後あとさきの霞んだ処が、枕からかけて、まつげの上へ、自分と何かの境目さかいめあらわれる。……
 トその樹の下に、ざるか何か手に持って、まあ、膝ぐらいな処まで、その水へ入って、そっと、目高か鮒か、すくってる小児こどもがある。其奴そいつが自分で。――ああ、面白そうだと思うと、我ながら、引き入れられて、身節みふしがなえて、嬉しくなる。その内に波立ちもしないで、水の色が濃くなって、小濁ささにごりに濁ると思うと、ずっと深さが増して、ふうわり草の生えた土手へあふれるんだがね、その土手が、城趾しろあとほりの石垣らしくも見えれば、田のあぜのようでもあるし、沼か、池の一角のようでもある。その辺は判然しないが、何でも、すっと陽炎かげろうまつわる形に、その水の増す内が、何とも言えないい心地で、自分の背中か、その小児の脚か、それに連れて雲を踏むらしく糶上せりあがると、土手の上で、――ここが可訝おかしい――足の白い、綺麗きれいつまをしっとりと、水とすれすれに内端うちわ掻込かいこんで、一人美人がたたずむ、とそれと自分が並ぶんで……ここまで来るともう恍惚うっとり……
 すやすや寝ます。
 枕に就いて、この見える時は、実際子守唄でかされるように寝られる。またまったく心持の可い時でないと見えんから、見えない時でも見るように、見るようにと心掛ける――それでも、散らかって、まとまらないで、更に目に宿らん事が多い。そういう時は、きっと寝そびれて悩むんだ。
 そこで、大好きな田圃の中でも、選分えりわけて、あの、ちょろちょろ川が嬉しい。雨上あまあがりにちっと水がえて、畔へかかった処が無類で。
 取留めのない事だが、我慢して聞きたまえ。――本人にも一向つかまえ処はない。いつも見る景色だけれども、朝だか、晩方だか、薄曇った日中ひなかだか、それさえ曖昧あいまいで、ただ見える。
 さあ、模様が誂向あつらえむきとなったろう――ところで、一番近い田圃へ出るには、是非、あの人が借りていた、その商家あきんどやの前を通るんだったよ。
 店をはずれて、ひょろひょろとした柳で仕切った、そのかどを見ると、小児こどもが遊んでいたらしく、めんこが四五枚、ばらに靴脱ぎのたたきの上へちらかって、喇叭らっぱが一ツ、式台に横飛び。……で、投出して駈出かけだしたか、格子戸が開放あけっぱなし、かまちの障子も半分開いて、奥の長火鉢の端が見えた。
 その格子戸のくぐりの上へ手を掛けて、
(健ちゃん、)
 と呼んでみたが、黙っていた。
(居ないの。お留守、)
 とると、……そこもやっぱり開いたままの、障子の陰の、湯殿へ通う向うの廊下へ、しとしとと跫音あしおとがして、でも、黙然だんまりで、ちょいと顔だけ見せてのぞいたが、直ぐに莞爾にっこりして、縁側を奥座敷へあがった姿は……
 帯なし、掻取かいどり気味につまを合せて、胸で引抱えた手に、濡手拭ぬれてぬぐいを提げていた。二間を仕切った敷居際に来て、また莞爾にっこりすると、……」
「謹聴、」
 と医学士せんせい唐突だしぬけに云った。
「真面目だよ、真面目だよ。」

十二


「湯上りの、ぱっと白い、派手な、品のい顔を、ほんのり薄紅うすべにした美しい耳許みみもとの見えるまで、人可懐ひとなつッこく斜めにして、
(失礼、今ね、お返事の出来ない処だったの……裸体美人、)
 と云って花やかな笑顔になる。いかにも伸々のびのび寛容ゆったりして、串戯じょうだんの一つも言えそうな、何の隔てもない様子だったが、私は何だか、悪い処へ来合せでもしたように、急込せきこんで、
(田圃へ行って見ませんか、)
 と何のあしらいもなく装附もりつけた。
(は、参りましょう、)
 とうなずいて、台所の方を振返りながら、
(ちょいと、御免なさいよ。)
 支度を、と断るまでもなく、平常着ふだんぎのままで出は出たが、――その時、横向きになって、壁に向うと、手を離した。すそが落ちて、畳にさっさばけると、薄色の壁に美しく濡蔦ぬれづたからんで絵模様、水の垂りそうな濡毛ぬれげを、くっきりとひじくぎって、透通るようにくしを入れる。ちょうどそこの柱に懸けて、いかがな姿見が一面あった――勿論、東京から御持参の品じゃない。これと、床の間の怪しい山水は、家主のお愛想なんです――あの人がまた旅へ姿見を持って出るような心掛けなら、なに、こんな処で、平気でお化粧つくりをする事もなかろう。
 じっと見てもいられますまい。この際、どこへ持って行こうか、と背ける目をかすめて、月の中を雪が散った……姿見に映った胸で、……はだの白い人だっけ。
 直ぐにそれは消えたけれど、今のそのつまはずれの色合は、どうやら水際に足を白く、すらりと立った姿に見えたが……
 ああ、その晩方、幻のような形で、二人して、水の上に立つようになったんだ。
 何に誘われて出たんだか、――とうとうあんなひどい目に逢う原因もとだったがね。別に怪しいものじゃない、自分が時々見る美しい、嬉しい夢、――いや、夢じゃない、我が心に、誘出さそいだされたものかと思う。」
 小松原は、うつつのように目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、今向直って気を入れた、医師せんせいの顔をみまもりながら、
「また愚痴だ、と言うだろうが、後で考えれば、私は今までの経験に因ると、いつでも、湯の中でフイと気が立って、何だかしきりにそわついて、よくも洗わないで飛出した時に限って、余りめでたい事がない。一度も小児こどもの時だった、やっぱりそういう折に大怪我をしたのを覚えている。
 それにね、そんな風で停車場ステエションへ迎いに行って、連れて来て、うちも案内する、近所で間に合せの買物まで、一所に歩行あるいて、台所のまないた摺鉢あたりばち恰好かっこうまで心得てるような関係になっていたから、夏のうちも随分毎日のように連立って海岸へ行ったんで――また小児のために、それが何よりの目的なんでね。
 来たてには、手荷物の始末、掃除の手伝いかたがた、馬丁べっとうと、小間使と女中と、三人が附いて来たが、煮炊にたきが間に合うようになると、一度、新世帯のお手料理を御馳走ごちそうになった切り、その二人は帰った、年上の女中だけ残って。それも戦時の遠慮からです。
 一人になったが、女中には大した用があるんじゃない。どうせ旅の事で、何をきまって、きちょうめんにしなければならんというでもなし、一向気取らない女主人で、夜も坊ちゃんを真中まんなかへ、一ツ蚊帳に寝るほどだから、お茶漬をさらさらで、じゃかじゃかと洗ってしまえばらちは明く。女中も物珍らしく遊びたいから、手廻しよく、留守は板戸の開閉あけたて一つで往来ゆききの出来る、家主の店へ頼んで、一足おくせにでも、
(坊ちゃん)……か何かで、直ぐに追着おッつく。
 だから、いつでも女中が一所で、その健坊と四人連れ立たないのは珍らしい、まあ、ほとんど無かったろう。
 浜に人影がなくなって、海松みるばかり打上げられる、寂しい秋の晩方なんざ、誰の発議だったか、小児が、あの手遊おもちゃのバケツを振提ぶらさげると、近所の八百屋へ交渉して、豌豆豆えんどうまめを二三合……お三どんが風呂敷で提げたもんです。いそへ出ると、砂を穿って小さく囲って、そこいらの燃料もえくさ焚附たきつける。バケツへ汐汲しおくみという振事があって、一件ものをうでるんだが、波の上へうっすりと煙がなびくと、富士を真正面まっしょうめんに、奥方もちっと参る。が、落日に対してまことに気高い、蓬莱ほうらいの島にでも居るような心持のする時も、いつも女中がいていたのに。」

十三


「それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、
(健ちゃんは?)ッて聞いたんだ。
(そこいらに居ましょう。)
 と藤色の緒の表附おもてつき駒下駄こまげたを、べにした爪先つまさき引掛ひっかけながら、私が退いた後へ手を掛けて、格子から外をのぞいた、かどを出てからでさそうなものを、やっぱり雨に閉籠とじこもった処を、四五日振りの湯上りで晴々せいせいして、戸外おもてへ出るのが嬉しくって、気がいたものらしかった。
 帯もざっとした引掛ひっかけ結びで、
(おや、居ませんか?)
 ッて蓮葉はすはに出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を覗込のぞきこんで、
(健ちゃん、健ちゃんや。)
 と呼ぶと、急に、わやわやと四五人小児こどもの声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に棒千切ぼうちぎれを持って健坊が顔を出した。田圃たんぼへおで、と云うと、
いやだべい。)
 で突掛つッかかるように刎附はねつける、同じ腕白夥間なかまに大勢馴染なじみが出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も真黒まっくろになった。母様かあさんがまたこれを大層喜んでいたもんです。
(じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。)
(うん、)
 と云うと、わっと吶喊ときを上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、鶏小屋とりごやの前で、健ちゃんは素飛すっとぶ。
(お庇様かげさまで、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。)
 と嬉しそうに見えて、
(どちらへ?)と聞く。
(踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。)
 百姓家二三軒でもうなわてだが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。片方かたっぽに田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を畦伝あぜづたいに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう――もっとも汎水でみずと云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら歩行あるきを通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。
 路は悪かった。所々の水溜みずたまりでは、夫人おくさんの足がちらちら映る。真中まんなか泥濘ぬかるみひどいので、すその濡れるのは我慢しても、路傍みちばたの草をかねばならない。
 停車場ステエションは、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に白光しろびかりに光って、夜になるとあおく燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を水田みずたの方へ、むらむらとまだらに飛ぶ。が海をいだいた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一ぬぐぬぐいを掛けたいように底が澄まず、ちょうど海のはてと思う処に、あるかなし墨を引いたくもりわたって、驚破すわと云うとずんずん押出して、山の雲と一まとめにまた空を暗闇くらやみにしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠いともしびの影も見られなそうな夕暮だった。
(もう、お天気になりましょうね。)
(さあ、)
 とは云ったがどうも請合いかねる。……明白あからさまに云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞき厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。
 風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、あふれた水が田へかぶるそれらしかった。
 踏切を渡ると、からすが一羽……その飛んだ事ったら――吃驚びっくりしたほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山のか、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。雨気あまけが深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。
 もう少し隧道トンネルの方へくと、あすこに、路の真中まんなかに、縦に掛けたちょっとした橋がある。棒杭ぼうぐいのように欄干がついて、――あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、瓦色かわらいろに濁ったのが、どうどうとただ一幅ひとはばだけれどもうねりを立てて、橋の底へすれすれにすさまじいほど流れている。いつもは俯向うつむいて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、かさ増して、すすきの葉が瀬を造って、もうこれで充満いっぱいと云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶってた。」

十四


「この水が、路端みちばたの芋大根の畑を隔てた、線路の下を抜ける処は、物凄ものすごい渦を巻いて、下田圃へ落ちかかる……線路の上には、ばらばらと人立ひとだちがして、あかるい雲の下に、海の方へ後向うしろむきに、一筆画ひとふでがきの墨絵で突立つッたつ。みのを脱いで手に提げてくわいた百姓だの、小児こどもおぶった古女房だの、いかにも水見物をしているらしい。
 見ると、たまらなく嬉しくなった。
(さあ、こうしておいでなさい。)
 とあぜを踏分けて跡をつけては、先へ立って、はたけを切れて、夜は虫が鳴く土手をあがったが、ここらはまだつまを取るほどのしずくじゃなかった。
 線路へ出て、ずっと見ると、一面の浜田がどことなく、ゆさゆさ動いて、稲穂いなぼの分れ伏した処は幾ヶ所ともなしに細流せせらぎ蜘蛛手くもでに走る。二三枚空が映って、田の白いのはかぶったらしい。松があって雑樹が一叢ひとむら、一里塚の跡かとも思われるのは、妙に低くなって、沈んで島のように見えた、そこいらも水があふれていよう。
(もうこれだけかね、)
 甚だしからん次第だったけれども、稲の上をいかだででもいでくれたら、と思って、そばに居た親仁おやじに聞くと、
しおあがったら、まっとかかるべい。)
 と、腕組をしてじっながめる。
 成程、漁師町をめぐったり、別荘の松原を廻ったり、七八ななや筋に分れて、また一ツになって海へそそぐが、そこくとこれでも幅が二十間ぐらい、山も賦になれば、船も歌える、この様子では汐がそう。
 と二人で見ているうち、夕日のなごりが、出崎のはなからぱっ[#「火+發」、U+243CB、308-10]と雲を射たが、親仁の額もかっとなれば、線路もさっと赤く染まる。稲をくぐって隠れた水も、一面に俤立おもかげだって紫雲英げんげが咲満ちたように明るむ、と心持、天の端を、ちらちら白帆しらほきそうだった。
 またこれに浮かれ立って、線路を田圃へ下りたんだが、やがて、稲の葉が黒くなって、田が溝染どぶぞめに暮れかかると、次第にせて茜色あかねいろを、さながらぎたての牛の皮を拡げた上を、爪立つまだって歩行あるくようないやな心持がするようになっちまった。
 ちょうど、田圃道を、八分目ほどで、一本橋がある。それをあぶなっかしく、一度渡って、二度目にまた引返してからだった……もう一跨ひとまたぎで、漁師町の裏へあがろうとする処で、思いがけなくきついたろうではないか。」
「ふん、どうしてだい。」
 と医師せんせいは枕を抱く。
 小松原は一息ついて、
「どうして?ッて、見たまえ、いつもは、手拭てぬぐいを当てても堰留せきとめられそうな、田の切目きれめが、薬研形やげんなりに崩込んで、二ツ三ツぐるぐると濁水にごりみずの渦を巻く。ここでは稲が藻屑もくずになって、どうどう流れる。もっとも線路から段々さがりに低いからね。山のすそで取囲んだ浜田ありたけのあふれ水は、瀬になって落ちて来るんだ。但し大した幅じゃない、一間には足りないんだけれども、深さは、と云う日になると、何とどうです、崩れ口のあぜの処に、漁師の子が三人ばかり、素裸すっぱだかで浸っていたろう。
(どうだ深いか。)
 と一ツ当って見ると、おれ達は裸で泳がい……聞くだけ野暮だ、と突懸つッかかり気味に、
(深え。)
二丈ふたたけの上あるぜ。)
 と口をとんがらかしたも道理こそ。此方このほうづれのていは、と見ると、私が尻端折しりぱしょりで、下駄を持った。あの人もまた遣附やりつけないつまを取って、同じく駒下駄をぶら提げて、跣足はだしで、びしょびしょと立った所は、煤払すすはきの台所へ、手桶ておけ打覆ぶっかえった塩梅あんばいだろう。」
 この時一所に笑い出したが。
「ね、小児こどもだって、本場の苦労人くろうとが裸で出張ってる処へ、膝までも出さないんだ、馬鹿にするないで、もって、一本参ったもんです。
 が、まだおどかしではないか、と思う未練があった。――処へ、ひょっこりしばらく潜っていたのが、鼻のさきへ、ぶっくり浮いた河童小僧かっぱこぞう
 おやと思うと、ぶるぶると顔をやって、ふっと一条ひとすじ仰向あおむけに水をいた……深いんです。
 どうもこれにゃ逡巡たじろいで、二人で顔を見合せたんだ。」

十五


「そこさえ越せば、漁師町を一廻りして帰れるんで、ちょうどいくらいな散歩のつもりだったんだが、それだもの、どうして、渡るどころの騒ぎじゃない。
 さあ、引返すとなると、線路からここまでの難儀さが思出される。難儀だって程度問題、覚悟をしての草鞋掛わらじがけででもあれば格別、何しろ湯あがりのぶらぶら歩き。
 それ、今言った通り跣足はだしです。なるだけ水の上の高い処を、と拾ってあぜを伝えば、雨続きで、がばがば崩れる、路を踏めば泥濘ぬかるみすべる、乾いた処ちっともなし。……
(お危のうございますよ。)
(は、大丈夫、)
 と声を掛けて、やっと辿たどったのだった。また厄介なのは、縦横に幾ヶ処ともなく、畦の切目があって、ちょいとまきを倒したほどの足掛あしかけかかっているが、たださえ落す時分が、今日の出水でみずで、ざあざあ瀬になり、どっとあふれる、根を洗って稲の下から湧立わきたいきおい、飛べる事は飛べるから、先へ飛越えては、おもしろ半分、
(お手をお取り申しましょうかね。)
 と一畦離れていて云うと、
(是非、どうぞ。)
 なんて笑いながら、ま、どうにか通ったんだっけ。浅いと思った水溜みずたまりへ片足踏込んで、私がさきへ下駄を脱いだんで、あの人も、それから跣足はだし、湯上りの足は泥だらけで――ああ、気の毒だと思う内に、どこかの流れで、歩行あるいてる内に綺麗に落ちる、その位みんな水です。
 で三町ぐらい、また引返さなけりゃならないんでね、それに段々暗くはなる、足許あしもとも悪かろう、うんざりしたが、自分は、まあ、どうなり、さぞ困った顔をして、と振返る……
 とこの時……
 うっすり路へかかった水を踏んで、その濡色ぬれいろ真白まっしろに映って、蹴出けだづまからんだのが、私と並んで立った姿――そっくりいつも見る、座敷の額のに覚えのあるような有様だった――はてな、夢か知らん……と恍惚うっとりとなった。
 ざあざあ、の底を吹き荒れる風のような水の音。
 我に返って、そっと顔を見ると、なに大して困ったらしくもなかった。
(ここは通れません。)
(引返しましょう。)
(飛んだ御案内をしてお気の毒です。)
(いいえ、おもしろうござんすよ。こんなうまなりをして。)
 と美しく微笑ほほえみながら、
(いっそたもとを担ぎましょうか。)
 この元気だから。どうやら水嵩みずかさ[#ルビの「みずかさ」は底本では「みづかさ」]も大分増して、橋の中ほどを、蝦蟇がまのぞくように水が越すが、両岸のくいに結えつけてあるだけが便りで、渡ると、ぐらぐらした、が、まあ、あの人も無事に越した。でも、私の帯へ背後うしろから片手をかけて。
 それから――前を見ると、こっちが低いせいか、ぐるぐる廻りにうねって流れる、小川の両方に生被おいかぶさった、雑樹のぞうぞう揺れるのが、かさなり累り、所々あおって、高い所を泥水が走りかかって、田もはたも山も一色ひといろの、もう四辺あたり朦朧もうろうとして来た、稲なんぞは、手で触るぐらいの処しか、早や見えない。
 人は一人もらず、……今渡った橋は、うおの腹のように仄白ほのじろく水の上へ出ているが、その先の小児こどもなどは、いつの間にか影も消えていた。
(小松原さん。)
 とあの人が、摺寄すりよって、
(もう一つの路はどうでしょうかしら。)
 と云った、様子には出さんでも、以前の難渋は、同然に困ったらしい。
 もう一つと云うのは、小川が分れて松原の裏をく、その川縁かわべりあしの根を伝い伝い、廻りにはなるが、踏切の処へ出る……支流で、川は細いが、しおはこの方が余計にすから、どうかとは思ったものの、見す見す厭な路を繰返すよりは、
(行って見ましょう。)
 と歩行あるき出して、むきを代えて、もう構わず、落水おちみずの口を二三ヶ所、ざぶざぶ渡って、一段踏んであがると、片側が蘆の茂りで。」

十六


「透かした前途ゆくてに、蘆の葉にからんで、一条ひとすじ白い物がすっとかかった。――穂か、いやいや、変に仇光あだびかりのする様子が水らしい、水だと無駄です。
(ここにいらっしゃい。)
 と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越はねこえ、跳越え、倒れかかるあし薙立なぎたてて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆がっかりした。線路から眺めて水浸みずびたしの田は、ここだろう。……
 が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それにしおが上げているんだから流れはせん。薄い水溜みずたまりだ、と試みにってみると、ほんのかかとまで、で、下は草です。結句、泥濘ぬかるみすべるより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いやおびただしい、あぜが十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。
 早や暗くなって、この田圃たんぼにただ一人のはずの、あの人の影が見えない。
 浜で手鍋てなべの時なんかは、調子に乗って、
(お房さん。)
 と呼んだりしたが、もうしんになって、
夫人おくさん!)
 と慌てて呼んだ。
(はーい。)と云う、いやに寂しい。
 声を便りに駈戻かけもどって、蘆がくれなのを勇んで誘い、
(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)
 誰も落着いてはいないのを、うぬ周章あわてて捲立まくしたてて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。
 路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の真中まんなかへ立った姿で、何だか幻の中をく、天の川でも渡るようで、その時ふとまたうつくしい色が、薄濁った水に映った――」
 小松原は歯をんで言渋ったが、
先方さきでも、手を出した……それをこうと思った時……
 私はぎょっとした。
 つい目の前を、足にからんだ水よりは色の濃い、重っくるしい底力そこぢからのあるのが、一筋、褐色かばいろうろこを立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形があらわれたんだ。
 ここに、ちょいとした橋があるんだが、そのいきおいだからもう不可いけない。水の上で持上って、だぶりだぶりとあおりを打つと、蘆がまた根から穂を振って、光来々々おいでおいでめてるなんざ、なさけなかろうではないか。
 しかも幅一間とは無いんだよ。
不可いけないのねえ。)
(駄目です、)
 と言ったきり。だって口惜くやしかろう。その川一条ひとすじ前途さきは、麗々と土が出て、うっすりと霧がって、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらくにらみ詰めて立っていた。」
 医師せんせいはむくむくと起きて、平胡坐ひらあぐらで、枕をおとがい突支つッかって、
「いや、散々、散々、お察し申すな。」
「ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその橋向はしむこうへ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。える、吠える! うう、とうなる、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまですごかった。
(あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。)
 と低声こごえで、あの人が言う。
(なぜ。)
 と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと歩行あるき出した。
 現在犬にあやしまれているんです……漁師村をおもてに、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。
 が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、
(一奮発遣附やッつけましょう。)
 といさみが出た。」

十七


「その努力で、蘆の中だけはくぐり抜けて、もとの方へ引返したが、もう、暗くなって、足許は分らないで、踏むほどの場所がざぶざぶする、じょろじょろ聞える、ざんざという。田だかあぜだか覚束おぼつかなく、目印ともなろうという、雑木や、川柳の生えた処は、川筋だからごうと鳴る、心細さといったら。
 川筋さえ[#「さえ」は底本では「さへ」]けて通れば、用水に落込む事はなかったのだが、そうこうする内、ただその飛々とびとびの黒い影も見えなくなって、後は水田みずた暗夜やみになった。
 時に……あせったせいか、私の方が真先まっさきに二度すべった、ドンと手を突いてね、はっと起上る、と一のめりに見事にった。
(あれ、お危い。)
 と云う人を、こっちが、
(お気をけなさらないと、)
 この通り、ト仕方で見せて、だらしなくつ拍子に、あの人もずるりと足を取られた音で、あとは黙然だんまり、そらどけがしたと見える、ぐい、ぐい帯を上げてるが陰気に聞えた。
 気が付いて、
穿物はきものを持って上げましょう、)
 と注意すると、
(はい、いいえ、うござんす。)
 と云ったが、しばらくして、
(流れてしまったようですよ。)
 成程、あぜ切口きれぐちらしい、どっと落ちるんだ。
(飛んだ事をなさいました。)
(いいえ、どうせ荷厄介なんですもの。さあ、参りましょう。)
 愚図々々ぐずぐずしていたので、
いんですよ、構やしない。)
 とそれでも笑った。この方が私よりまだ元気がい。が、私が猶予ためらったのは、駒下駄に、未練なものか。自分のなんざいつの昔くなしている。――実はどちらへ踏出して可いか、方角が分らんのです。もっとも線路の見当は大概おはずに着いてたけれども、踏処ふみどころが悪いと水田へはまる。
 果して遣った! 意地にも立ったきりじゃ居られなくなって、ままよ、とたんを据えて、つかつかと出ようとすると、見事に膝まで突込つッこんだ。
(あっ、)と抜こうとして、畦へ腰を突いたっけ、木曾殿落馬です。
 お察し下さい、今でこそ話すが、こりゃ冥土めいどへ来たのかと思った。あの広場ひろっぱを手探りでどうするもんかね。……
 背後うしろ足弱あしよわが段々呼吸いきづかいが荒くなってね、とうとう、
(ちっと休みましょう。)
 と言い出した[#「言い出した」は底本では「言ひ出した」]。雪路以上、随分へとへとに揉抜もみぬいたから。
 私は凭懸よっかかるものもなく、ぼんやりやみの中に立ったがね、あの人は、と思うと、目の下に、黒髪が俤立おもかげだつ。
(腰を掛けたんですか。)
(ええ、)と云う。
(濡れていましょう。)
(ええ、何ですか、瀬戸物のかけがざくざくして、)
 私は肚胸とむねを突いたんだ。
不可いけない! 貴女あなた、そりゃ塵塚はきだめだ。)
 と云う内にも、襤褸切ぼろぎれや、うりの皮、ボオル箱の壊れたのはまだしもで、いやどうも、言おうようのないあくたが目に浮ぶ。
(でも水の上よりはましですわ。)
 と断念あきらめたように、何の不足もないらしくさっぱりと言われたので、死なばもろともだ、と私もどっかり腰を落した。むっくり持上って、跡は冷たい。犬の死骸じゃなかろうかと、摺抜すりぬけようとしたけれども、頬擦ほおずるばかりのびんかおりに。……
 ここで、まことに相済まない、余計な処へ誘ったばかりで、何とも飛んだ目にお逢わせ申す、さぞ身体からだに触りましょう、汚させ、濡れさせ、跣足はだしにさせ、夜露に打たせて……羅綾らりょうにも堪えない身体からだを、と言おうとして、言いようがないから、
(荒い風にもお当りなさらない。)
 とヘマを言って、ああ厭味いやみだと思って、冷汗をいた処を、
(お人が悪いよ、子持だと思って、)
 これにまたヒヤリとしたように覚えている。」

十八


「それと同時に小児こどもの事が気になって……言い出すと、女中ともう寝たろう。で、大して心配もしない様子、成程寝る時刻、九時ちと過ぎたかも知れない。汽車が二三度上下のぼりくだりした。
 この汽車だが……はてしの知れない暗闇くらやみ広野ひろの――とてもその時の心持が、隅々まで人間の手の行届いた田圃とは思われない、野原か、底知れぬ穴の中途――その頼りなさも、汽車の通るのが、人里に近くって嬉しかった。それが――後には可悪おそろし偉大おおきけものが、ほのおを吹いてうなって来るか、と身震みぶるいをするまでに、なってしまった。
 第一、足の出しようがない。それに……
 もうこうも遅くなっては、何事もなく無事に家に帰るとして、ただ二人で今までなんだから、女中はじめ変に思おう。特に出征中の軍人の夫人だ。そうでもない、世間じゃ余計な風説うわさをしている折からだから憂慮きづかわしい。
(どうでしょう。)
 と甚だ言兼ねた事ではあったが、既に――人が見ては悪いわ――と言ってくれた人だから、こう聞いた。が、その実、いいえ、人は何とも思うまい、とこの人だけに、心配をせずに居ようと期したんだ。するとちと案外で、
(さあ、私もそれが気になります。)
 返事がこれで。何とも言いようがなくって溜息ためいきが出た。あの人もほっと言う。話だけは色めかしい中に、何ともお話にならん事は、腹が、ぐうと鳴る、ああ、なさけない何事だろう、と気にするほど、ぐうぐういう。
 あの人にも聞えたか。
(お腹が空いたでしょうね。)
 と来たのにゃ、かっとしたよ、但しそういう方も晩飯前です。……
 詮方しかたがない、大声を揚げて見ようかとも言い出したが、こりゃ直ぐに差留められた。勿論、お怒鳴どなんなさいと命令をされたって、こいつばかりは、死んでもあやまる。早い話が、何と云ってすくいを呼びます、助船でもないだろう、人殺し……串戯じょうだんじゃない。」
 医師せんせいは聞くうちにも笑出した。
 言うものも釣込まれたが、
「今こそ苦笑いも出るけれど、……実際だ、腹のぐうぐう鳴った時は、我ながら人間が求める糧は、なぜこう浅間しい物だろうと熟々つくづく思った。
 ところで……
 じゃ、何を便りに塵塚に腰を抜いていたか、と言うに、ここも娑婆しゃばだから、その内には、月が出ようと空頼み、あの人も恐らくそうででもあったろう、もっとも何かの拍子に、
(戦争に行っている方の事を思えば、こうやって一晩ぐらい、)
 とは言ったがね。まさかの明けるまでそうして居られるものとは思うまい。
 糠雨ぬかあめが降って来たもの。その天窓あたまから顔へかかるのが、塵塚から何か出て、冷い舌の先でめるようです。
 水の音は次第々々に、あるいはあざけり、あるいはののしり、中にゃ独言ひとりごとを云うのも交って、人を憤り世を呪詛のろった声で、見ろ、見ろ、なんじ等、水源みなもとの秘密を解せず、灌漑かんがいの恩を謝せず、名を知らず、水らしい水とも思わぬこの細流せせらぎ威力ちからを見よと、流れ廻り、めぐって、黒白あやめわかぬ真の闇夜やみよほしいまま蹂躪ふみにじる。と時々どどどと勝誇って、躍上おどりあが気勢けはいがする。
 その流れるに従うて、我が血を絞り出されるようで、堪え難い。
 次第に雨がたまるのか、水がえたか、投出してる足許あしもとへ、縮めて見てもながれが出来て、ちょろちょろとからみつくと、袖が板のように重くなって、塵塚に、ばしゃばしゃとしぶきかかる、しずくが落ちる。
 地鳴じなりごうとして、ぱっと一条ひとすじほのおを吐くと、峰の松が、さっとその中に映って、三丈ばかりの真黒まっくろつらが出た、真正面まっしょうめんへ、はた、と留まったように見えて、ふっと尾が消える。
 下りのしまい汽車らしい、と思った時、
(あいつ。)
 はっと擦寄ると、あの人がぶるぶる震えて、
(胸が。)と云う、歯の根が合わない。
(冷えたんです。)
 と言いながら、私もわなわなし出した。」

十九


「一生懸命の声をして、
(さ、おつかまんなさい。)
 とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝をつかんだが、苦痛を堪えるおそろしい力が入って、しびれるばかり。
(しっかり……しっかりして下さいよ。)
 背中をさすろうとした手がすべって、ひやひやと後毛おくれげくぐって、柔かな襟脚にさわったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。
 その時ふっとまた、つまの水に映るのが、薄彩色うすさいしきして目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!
 膝に倒れたのは、あの人だ。
 私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。
(我慢なさい。こんな事をしていちゃ、生命いのちにも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず駈出かけだして行って支度してむかえに来ます。)
 と声も震えながら云うと、
(一人で、どうして居られましょう、一所に。)
 ッて、ぐいとたもとつかまったが、絞ると見えて水が垂った。
(田もあぜも構わない、一文字に駈け抜けるんです、怪我けががあると不可いけません。)
いの、貴下あなたおんなは最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!)
 とすがった手を、しっかりと取合った。
(じゃ、悪魔にさらわれたと、断念あきらめて、目をねむって、覚悟をして……)
(は、瞑りました。)
 と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。」
 と、小松原はこぶしを握った手首をかえして、目をおさえて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。
「考えて見れば怪しい。
 はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦にしゃがんでるにも当らず。不断見ればてのひらほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものにもてあそばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に恍惚うっとりとなると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。
 畢竟ひっきょうずるに、言訳沢山の恋かも知れん。
 その罰です。
 後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を曳合ひきあって駈出かけだした処を、あっと云う間もなく、しまい汽車で刎飛はねとばされた。
 気が付いた時は、真蒼まっさおな何かのあかりで、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、きものを脱がしてあった。ただ一束ひとつかねのなめらかな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳のあたりに血がにじんだ、――この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。
 君も知ってる、生命いのちは、あの人も助かったんだが、そののち影を隠してしまって、いまだにようとして消息がない。
 これが風説うわさの心中仕損しそこない。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても自然おのずから明りは立つ。面と向ってきさまが、と云うものがないのは、君が何にも言わないと同一おんなじなんだ。
 お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄ましてきているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。――ただもう一度逢いたいよ。」
 と団扇うちわを膝につくと、額を暗うした。
 医師せんせいは黙っている。
「しかし、」
 と、小松原が額を上げた。

二十


「未練だね。世間じゃ、誰もあの人がきているとは思わない。私だって、実際生存ながらえていようとは考えないが、随分その当時、表向きに騒いで、捜索さがしもしたもんだけれども、それらしい死骸も見附からないで、今まで過去すぎさったんだ。だから、もしやが頼まれる……
 それかって、今ここに、君の内にその人が居るから逢え、と云われたって逢われるわけでもないんだが。」
「しかし逢いたいんだ?」
 と医師せんせいは笑いながら口を入れた。
「…………」
「成程、そこでうなされたんだ。その令夫人に魘されたのは、かえって望む処かも知れんが、あとの泥水はいやだったろう、全く気の精だな。遁出にげだしたも道理もっともだ。よく、あの板廊下が鉄道の線路に化けなかった。」
「時に、」
 小松原は、気が着いたらしくあらたまって、
「あの、白骨だがね、」
 と皆まで言わせず、手をって、
「大丈夫、その令夫人の骨じゃない。」
「骨じゃない、」
 と鸚鵡返おうむがえしで、
「けれども、おんなのだと言うじゃないか。何年ったんだか、幾十年過ぎたんだか、知れないが、婦には変りはなかろう。骨になっても小町は小町だ。
 婦が、あの姿を人目にさらされたら、どんな心持だと思います――君にこんな事を云うのは、解剖室で命乞いのちごいをするようなものだが、たとい骨でも、一室ひとまに泊り合わせたのは、免れない縁だと思う。見えん処へ隠してくれんか。――私はもう、あの人が田圃で濡れた時の事を思っても、悚然ぞっとする。どうだね、可哀想かわいそうだとは思わないかね。」
「そうさな。まさか私だって、縁日の売薬みたいに、あれを看板に懸けちゃ置かん、骨を拾った気なんだから、何も品物をおしみはせんが、打棄うっちゃっておきたまえ。そんな事を気にするのはくないからしたがかろう。」
貴郎あなた、」
 と優しい声がしたので、小松原は身を縮めて、次のの暗い中を透かした。暑いのでふすまは無いが、蚊帳が重ねて釣ってある。そのうちに、浴衣の模様が、蝶々のようにかすれて見えたは細君で、しかも坐って、紅麻こうあさもすそを寄せ、端近う坐っていた。
「何だ、起きていたのか。」
「はい、つい、あのお話しに聞惚ききとれまして、」
 と云うのに、しんみりと涙がこもる。
「どうも、」
 とばかりで、小松原は額をおさえた。医師せんせいは事も無げに、
「聞いたのは構わんよ、沢山泣いて上げろ。だが、そこらへこぼしちゃ不可いかんぜ、水が出ると大変だ。」
「あれ、可厭いやな。」
「馬鹿だな、臆病。」
「だって、」
 と蚊帳の裾を引被ひっかつぐ、かいなが白く、扱帯しごきくれないが透いた時、わっと小児こどもが泣いたので、
「おお。」
 と云って添臥そいぶしたが、二人も黙る内、すやすやとまた寝入った。
「ねえ、貴郎あなた、そうして、小松原さんのおっしゃる通りになさいよ。何だか可恐こわいんですもの。」
 とからかうごとく、団扇を膝でくるりとる。
「いいえ、ですがね、あの御骨おこつ……」
「ちょっと待て、御骨は気になる。はははは。」
「御免なさいましよ。」
 と客に云って、細君は、小児こども添乳そいぢの胸白く、掻巻かいまき長う、半ば起きて、
串戯じょうだんではなくってよ。貴郎あなたが持って来て、あそこへ据えてから、玄関のかたなんぞも、この間中種々いろんな事を言ってるんですよ。
 話声がするの、跫音あしおとが聞えるのって――大方女中なんかをいたずらおどすんだろうと思って、気にもしないでいましたけれども、今のお話の様子だと、何だか、どうとも言えませんわ。」

二十一


「ねえ、小松原さん、」
 とぼかしたような顔が、蚊帳の中でおぼろに動いて、
「あの御骨おこつだって、水に縁があるんですもの。」
「婦女子の言です。」
 と医師せんせいは横を向く。小松原は、片手を敷布の上、隣室となり摺寄すりよる身構えで、
「水に縁と……仰有おっしゃると?」
「あれは貴下あなた、何ですわ、つい近い頃、やどが拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、もとあった処は沼なんですって。」
「沼!」
「おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。なまずに網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、掬上すくいあげるもんか。」
「だって、そりゃ沼からじゃありますまいけれど、梅雨あけに水がえたので、底から流出ながれだしたんだろうッて、貴郎あなたがそう言っていらしったではありませんか。――小松原さん、この梅雨あけにも田圃へ水が出ましてね、先刻さっきおっしゃいました、踏切の前の橋も落ちたんですよ。蒼沼あおぬまあふれたんですって、田圃の用水は、みんなそこから来るんだって申します……
 その近処の病家へきました時に、其家そこの作男が、沼を通りがかりに見て来たって、話したもんですから、やど貴下あなた好事ものずきにその男を連れて帰りがけに、廻道まわりみちをして、内の車夫わかいしゅに手伝わして、拾って来たんですわ。
 御骨は、沼の縁にやわらかな泥の中にありましたって、どこも不足しないで、手足も頭もつながって、膝をかがめるようにしていたんだそうです。」
妄誕臆説ぼうたんおくせつ!」
 ととなえて、肩を一つ団扇でたたく。
「臆説って、貴下あなたがお話しなすった癖に。そうしてこう骨になってから、全体そなわっているのは、何でも非常な別嬪べっぴんに違いない。何骨とか言って、仏家では菩薩ぼさつの化身とさえしてある。……第一膝を折った身躾みだしなみい処を見ろッて、さんざん効能を言ったではありませんか。」
 と、もう小児こどもも寝たので、掻巻からするりと出て褄を合わせる。
 医師せんせい喟然きぜんとして、
よろしく頼む。あとは君にまかせるから、二人して、あの骨をその人だとでも何とでも御意ぎょいなさい、こちらへ来て講中にならんか。」
 と笑いながら、むずと蚊帳を出て、廊下へ寝衣ねまき突立つッたった。
 が横向に隣を見て、
「何だ、お前も手水ちょうずか。馬鹿な、今の話しで不気味だからって。お客様の居る処を、連立って便所へ行く奴があるかい。」
 と言う。
 小松原が、トすかすと、二重ふたえ遮ってほのかではあるが、細君は蚊帳の中を動かずにいたのである。
貴郎あなた、」
 とこの時、細君の声は、果せるかないたく震えて、
「貴郎……」
「うむ、」
 小松原も蚊帳の中に悚然ぞっとして、
「酒田。」
 と変な声をする。
「誰か居ますか。」
「おお……」
 と医師せんせいは、蹌踉よろけたように、雨戸をうしろに、此方こなたを向き替え、斜めに隣室となりの蚊帳をのぞいた。
「私はここに居ますんですよ。」
「誰だ、今のは?」
 うっかり医師せんせいが言うや否や……
いや……」
 と立って、ふらふらと、浅黄に白地で蚊帳をくぐると、すそと裙とにばっと挟まる、と蜘蛛くもの巣にかかったように見えたが、一つあおって、すッとせたようになって、此方こなたの蚊帳へ――廊下に事はあるものを、夫を力にそこへは出られぬ――腰を細く、乗るばかり、胸にすがった手が白く、小松原の膝にしがみついた。
 ――このさまを……後に、医学士が人に語る。――
蒼沼あおぬまの水は可恐おそろしい、人をして不倫の恋をなさしむるかと、私はねたもうとした。」

二十二


 その時医師せんせいは肩をげて、
「雨かな。」
 と仰向あおむけになったが、また、俯向うつむいて胸を払った。
「何だ、廊下は水だらけだ。」
 細君は何にも言わぬ。小松原も居窘いすくまって、せわしく息をするばかり。
 とりが鳴いたので、やっと細君が顔を上げたが、廊下に突立つッたった夫を見た時、聞耳を立てて、
「何です……がたがた、がたがた言って、」
 小松原が、
「あ、」
「あれか、」
 と医師せんせいもそこで聞取った。
「酒田……先刻さっきのも、」
「むむ、診察処だ。」
「あれえ。」
「開けて見ると何にも居ないのだ。が、待てよ。」
 と言って、蚊帳の周囲まわりをぐるりと半分、床の間をがたりとると、何かひっさげた、その一腰、片手に洋燈ランプかざしたので、黒塗くろぬりさやが、袖をせめて、つらりと光った。
「危い、貴郎あなた、」
「大丈夫だ。」
「いいえ、」
 細君は一声、誰かを呼んで、
「玄関の方を起して下さい、正吉――」
 もう医師せんせいの姿はなかった。
 ばたん、とひらきいた音。
 二人が揃って、蚊帳の中を廊下際で、並んで雨宿りをする姿で立った処へ、今度はしずかに悠々と取って返す。
「どうした。」
すっぽんだ。」
「え。」
「鼈が三個みッつよ。」
「どこに、ですえ。」
 と細君は歯の音も合わぬ。
 医師せんせいは真面目な顔して、
「場所はちと悪い、白いものの前だ。」
「あれ。」
「さぞまた蒼沼から、むかえに来たと言うだろうなあ。」
 と雨戸を一枚、さっと風が入って、押伏おっぷせて、そこに置いた洋燈ランプが消えた。
 が、鶏がまた鳴いて、台所で誰か起きた。
 白骨がもとの沼へと立返ることになって、この使者は、言うまでもなく小松原が望んで出た。一夜ひとよえにしのみならず、そこは、自分とあの人とがために浮名を流した、浜田の水のみなもとぞと聞くからに、顔を知らぬ許婚いいなずけに初めて逢いにく気もすれば、神仙の園へ招待されたようでもあって、いざ、立出たちいづる門口から、早や天の一方に、蒼沼の名にし負う、緑の池の水の色、峰続きの松のこずえに、髣髴ほうふつとして瑠璃るりたたえる。
 その心は色に出て、医師せんせいは小松原一人は遣らなかった。道しるべかたがた、介添かいぞえに附いたのは、正吉と云うわかい車夫。
 国手お抱えの車夫とあると、ちょいと聞きには侠勇きおいらしいが、いや、山育ちの自然生じねんじょう、大の浄土宗。
 お萩がすきの酒嫌いで、地震の歌の、六ツ八ツならば大風おおかぜから、七ツかねぞと五水りょうあれ、を心得て口癖にする。えらいのは、旅の修行者しゅぎょうじゃ直伝じきでんとあって、『姑蘇啄麻耶啄こそたくまやたく』とじゅして疣黒子いぼほくろを抜くという、使いがらもって来いの人物。
 これが、例の戸棚掛の白布しろぬのを、直ぐに使って一包み、昨夜の一刀を上にせて、も一つ白布で本包みにしたのを、薄々沙汰は知っていながら、信心堅固で、怯気びくともしないで、一件を小脇に抱える。
 この腰の物は、魔除まよけに、と云う細君の心添こころぞえで。細君は、白骨も戻すときまり、夜が明けると、ぱっと朝露に開いた風情に元気になって、洗面の世話をしながら、縁側で、向うの峰を見て顔を洗う小松原に、
「昨晩はおたのしみ……なぜって。まあ、憎らしい。奥さんが逢いにいらっしゃったではありませんか。」
 など遣ったものだが、あえてこれは冷評ひやかしたのではない。その証拠には、小松原と一足ちがいに内を出て、女子おんな扇と御経料を帯に挟んで、じりじりと蝉の鳴く路を、某寺なにがしじへ。供養のため――

二十三


「沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。」
 と正吉が言う処を、立直って見れば、村の故道ふるみちを横へ切れる細い路。次第だかの棚田にかかって、峰からなぞえに此方こなたへ低い。田の青さと、茂った樹立こだちの間を透いて、六月みなづきの空はあいよりもあおく、日は海の方へ廻って、背後うしろからかっと当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。
 三方、山の尾が迫った、一方はおおいなるかえでこずえへ、青田の波が越すばかり。それから青芒あおすすきの線をのばして、左へ離れた一方に、一叢立ひとむらだちやぶがあって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと揺出ゆりだし、揺出す。その上に、かやで包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿のたたずんだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、さっと黒髪をさばいたごとく、うらが乱れ、根が茂る。
 路はその雑木の中に出つりつ、糸を引いて枝折しおりにした形に入る……赤土の隙間すきまなく、くぼみに蔭ある、樹の下闇したやみ鰭爪ひづめの跡、馬は節々通うらしいが、処がら、たつうろこを踏むと思えば、すっぽん足痕あしあと辿たどるよとも疑われた。
 次第に山の裾を分け上ると、くだんの楓を左の方に低くながめて、右へ折曲おりまがってもう一谷戸ひとやと、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、山懐やまふところの土が崩れて、目の下の田までは落ちず、こみちの端に、抜けた岩ごと泥がうずたかかった。
「沼はこの先でがんす。」
 と正吉はさきへ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞうなずかるる。
「梅雨あけに、医師せんせいと、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。腕車くるまもはい、持立もったてるようにしてここまではいて来ただが、さきてこでも動きましねえでね。」
 と言う。
 このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。なあに、正体を見れば、閑古鳥にしろ、じきそこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を掻込かいこんだのが、けろりとした目で、ひまかして、退屈まぎれに独言ひとりごとを言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中のありまでが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、喨々りょうりょうとして調べかなでる。
 ……きょ、きょら、くらら、くららっ!
 と転がして、発奮はずみかかって、ちょいと留めて、一つめておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴がこだまに響く。
 小松原は、魂を取ってしごかれるほど、ひしひしと身にこたえ、
「……京から、今日ら……来るか、来るか!」
 と言われるようで、
「来ました、東京から今日来ましたよ。」
 と胸のうちで言った。
 その蒼沼は……
 小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、対岸むこうへ山の青簾あおすだれ、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風がおもてを打って、爪先つまさき寒うたたえたのである。
 水のおもは秋の空、みぎわに蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、二葉ふたは三葉みは折れながら葉ばかりの菖蒲あやめの伸びた蔭は、どんよりと白い。の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴菜ぬなわつるが、水筋をい廻る――空は、と見ると、おおいかかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠方おちかたは遠方なりに遮って、池の周囲まわりと同じ程より、多くはそらを余さぬから、押包おッつつんだ山の緑にあいかさねて、日なく月なく星もなく、さかさに沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となくれてすさびて、ぬしやあらん、その、主の留守の物寂しい。

二十四


 濃い緑の雑樹の中へも、枝なりにひらひらと日の光が折込おれこんで、ふちを浅黄に、の葉を照らす。この影に、人は蒼白あおじろく一息した。
 なぜか、葬礼とむらいの式につらなったようで、二人とも多く口数も利かなかったが、やがて煙草たばこまないで、小松原はつくばった正吉を顧みて、
「どこで拾ったね。」
「やあ、それだがね……先刻さっきから気い付けるだか、どうも勝手が違ったぞよ。たしか、そこだっけと勘考します、それ、その隅っこの、こんもりだかとこさ、見さっせいまし、おら押魂消おったまげただ。その節あんな芭蕉ばしょうはなかっけ。」
 と言う。
 目覚しいのは、そこに生えた、森をあざむくような水芭蕉で、沼の片隅から真蒼まっさおな柱を立てて、峰を割り空を裂いて、ばさばさと影を落す。ものの十丈もあろうと見えて、あたかもこの蒼沼にさっ萌黄もえぎ窓帷カアテンを掛けて、さかさすそを開いたような、沼の名は、あるいはこれあるがためかとも思われた。
 正吉が知らずと云う、梅雨あけの頃は、まだ丈伸びぬ時節であるから、今日見付けたのを、いぶかしむ仔細しさいは無い。
 さて、家を出る時から、拾った場所へもとの通り差置こうというではなく、ともあれ、沼の底へ葬り返そうとしたのであるが、いざ、となるとみぎわが浅い、ト白骨はあばらの数も隠されず、蝶々蜻蛉とんぼの影はよし、鳥のふんにもけがされよう。勢い諸手高く差翳さしかざして、えい! と中心へ投込まねばならぬとなった。
「そんな事が出来るものか。」
 と小松原が猶予ためらうと、
「成程、へい、手荒だね。」
 と正吉さえうなずくのである。
 ここで、小松原が心着いたのは、その芭蕉で……
「まあ、それを解け。」
 と手伝って、上包の結目むすびめを解くと、ずしりとおしにある刀を取ったが、そのまま、するりと抜きかける。――にじのごとく、葉を漏る日の光に輝くや否や、
「わッ!」
 と正吉が飛退とびしさった。途端に白布しろぬのの包は、草に乗って一つ動く。
旦那だんな、気イたしかに持たっせえ。」
 昨夜からの小松原の容子ようすは、まったく人目には変だった。これは気が違った、と慌てたらしい。
 やがて孫呉空そんごくうが雲の上を曳々声えいえいごえ引背負ひっしょったほどな芭蕉を一枚、ずるずると切出すと、ぷん真蒼まっさおにおいが樹の中にこもって、草の上を引いて来たが――全身ひっくるまって乗っかった程におおきいのである。
 小松原は莞爾々々にこにこしながら、
「さあ、これへ乗せよう。」
 まざまざと見るには堪えぬから、その布で包んだまま、ただ結目を解いただけで、そっと取って、骨を広葉の只中ただなかへ。
 葉先をみぎわへ、蘆摺あしずれに水へ離せば、ざわざわと音がして、ずるりとすべる、柄を向うへ……
南無阿弥陀なんまいだ 南無阿弥陀。」
 と殊勝に正吉が、せめ念仏で畳掛けるに連れて、裂目がひれのように水をさばいてく、と小波ささなみが立って、後を送って、やがて沼の中ばに、じっと留まる。
 そのまま葉が垂れると、すがりつくさまに、きらきらと水が乗る、と解けるともなしに柔かに、ほろほろと布がゆるんで、細長い包みの裾が、ふッくりと胸になり、おんなした姿になる。
 思出して、はっと目をふさいだが、やがて見れば、もう沈んだ。
 途端に、ざらざらと樹が鳴って、風が走る。そよ風が小波立てて、沼の上を千条ちすじ百条ももすじ網の目を絞って掛寄せ掛寄せ、沈んだ跡へゆりかけると、水鳥がたごとく、芭蕉の広葉は向うのみぎわへ、するすると小さく片寄る。

二十五


 ……きょ、きょら、きょきょら、くららっ!……
 と、しばらくはただ鳥の声。
 じっと沼のおもを見ていると、どこかに、その人の顔がある。が、水のしわっては消しゆすっては消す――そうかと思うと、その水紋のゆらめく綾が、ちらちらと目になって、瞳が流るるようでもある。ソレ鼻、ソレ口、と思う処が、ふらふらと浮いて来ては、仰向あおむけに沈んで消える。もうちっとで、もうちっとで……と乗出すけれども、もうちっとでまとまらない。
 あせって、※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいて、立ったり居たり、みぎわもそちこち、場所を変えてうろついて見込んだが、ふと心づいて※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわせば、早や何がそまるでもなく、緑は緑、青は青で、樹の間は薄暮合うすくれあい
「旦那もう晩方だよ。」
 と云って、正吉が帰途を促がしたのは余程のさきで、それを、無理遣りに一人帰してからさえ、早や久しい。
 ひとりになって、思うさま、胸にたたんだ空想にふけろうと、待構えたのはこれからと、まず、ゆっくり腰をおろして、衣紋えもんまで直して、それから横になって見たり、起返って見たり。
 とかくして沼の中を、身動きもしないで覗込のぞきこんだ……
 あわれ水よ、おおいなる宇宙を三分して、その一を有するなんじ、瀬となり、滝となり、ふちとなり、のあたり我が怪しき恋となりぬ。
 いで、霧となってにじを放ち、露と凝って珠ともなる。ここに白骨を包んでは、その雪のごときはだえとならずや、あの濡れたような瞳とならずや。
 と思い思う、まさしく、そこに、水底みなぞこへ、意中の夫人が、黒髪長くかかって見ゆる。
 見ようとすると、水が動く。いや、いや、我が心の動くために、人の姿が散るのであろう。
 胸を打って、襟をつかんで、咽喉のどをせめて、思いを一処ひとところに凝らそうとすれば、なおぞ、千々ちぢに乱れる、砕ける。いっそ諸共に水底へ。
 が、たしかにその人が居ようか怪しい。……いや、まさしく、そこに、いまし葬った骨がある。骨はたしかに……確に骨は、夫人がここに身を投じて、朽ちず、消えず、砕けぬ――白き珊瑚さんごの玉なす枝を、我がために残したことは、人にこそ言わね、昨夜ゆうべより我は信じて疑わぬ。
 何が不足で一所に死ねぬ――
「その肉身か。」
 とおの頭髪ずはつつかんで、宙に下がるばかり突立つッたった。
卑怯ひきょうだ、此奴こいつ! はじめからそれは求めぬちかいであった。またそれを求むる位なら、なぜ、行方も知れずとらうる影なきその人を、かくまで慕う。忘れられぬはそのこころであろう。……その霊は、そこにある、現在骨まである。何が、何が不足で飛込めない。
 肉身か、あるいはそれもある。沼の水は、すなわち骨を包むはだおぼれて水を吸うは、なおその人の唇に触れるにたがわん!」
 入れ、入れ、入れ、さあさあさあさあ、と水が引き引き、ざわざわとあしを誘って、沼の真中まんなかへ引寄せる。
 小松原は立ったまま※(「革+稻のつくり」、第4水準2-92-8)ぢだんだを踏んだが、
「ええ! 腑効ふがいない。」
 どっかり草へ。
 蘆の葉末はずえに水をせて、昼の月の浮いて映るがごとく、沼のそこに、かいなか、肩か、胸か、乳か、白々とただよい居る。
 ソレソレ手に取るばかり、その人が、と思いながら、投出して見ても足がまだ水へはとどかぬ。
 何をか疑い、何をか猶予ためらう。
 あまりの事に、ここへ来るは今日には限らないと思切って、はじめて悚然ぞっとして、帰ろうとして、骨を送った船のただよう処をながむれば、四五本打った、くいの根にとまったが、その杭から、友染ゆうぜんきれを流した風情で、黄昏たそがれ翡翠かわせみが一羽。

二十六


 それをこうながめた時、いつもとろとろと、眠りかけの、あの草の上、樹の下に、うつくしい色の水を見る、描いたるごとき夢幻ゆめうつつの境、前世か、後世か、ある処の一面の絵の景色が、彩色さいしきした影のごとくにうかんだので、ああ、このままここへ寝るかも知れない。
 それもよし、ままよ、なるようになれとなった。……
 その内に、翡翠かわせみの背らしいのが、向うで、ぼっと大きくなり、従って輪郭りんかくおぼろになったが、大きくなったのは近づくので、朧になるのは、山から沼の上を暮増くれまさるのである。その暮れるのと、来かかるのとが、あしみぎわを段々伝いに、そよそよと風に、背後うしろを、吹かれ、送られ、近づいて、何の跫音あしおとも聞えなかったが、かみからかしもからか、小松原の目に、おんなの色あるきぬすそが見えて、かたわらに来て、しっとりとまる。……
「奥さん。」
 と、我知らず叫んだが、はっと気が附いても枕はしていず、この時は、診察室の寝台ねだいでなかった。そこで、
「…………」
 誰かが何か言う。ただかっとして、初手のは分らなかった。瞳を凝らして、そのすっと通った鼻筋と、睫毛まつげが黒く下向にそこにたたずんだのを見出みいだした時、
「立二さん。」
 と胸を抱いた手が白く、よくは分らぬけれども、着たものの柄にも因るか、しばらくの間に、やや太肉ふとりじしだった人が、げっそりとせて小さくなった。
「おお!」
 とばかりで、肩で呼吸いきして、草に胡坐あぐらしたまま、おのが膝を引掴ひッつかんで、せいせい言って唇を震わす。
 上では、俯向うつむきさまに、髪が揺れたが、唇の色が燃え、得も言われぬ微笑ほほえみして、
「変った処で……あんまりだから、お化だと思うでしょう。」
 と相変らずしとやかなものの言いよう
 それどころか、お化……なら、お化で、またその人ならその人で、言いたいことが一切経、ありったけの本箱をひっくり返したのと、知っただけのことば大絡おおまとめにしたのが、一斉いちどきに胸へ込上げて、咽喉のどつかえて、ぎゅうとも言えず、口はかずに、目は動く。
「それでも、」
 とびんへちょいと手をったが、くしこうがいかんざし、リボン、一ツもそんなものは目に入らなかった。
「まさか、墓へは連れてかないから、私のとこへ御一所に。」
 ゆびさして、指の先で、男が只瞻ひたみはりに瞻った瞳を、沼の片隅に墨でいた芭蕉の蔭へ、触って瞬かせるまで、動かさせて、
「あすこを通って、岨伝そばづたいに出られる里。……立さん、そんなに吃驚びっくりなさらないでも、貴下あなたが昨日、お医師いしゃ様のとこへおいでなすった事は、私もう知っています。
 いつかの時の怪我けがでねえ、まだ時々、時候の変り目に悩みますから、梅雨時分、あのお医師様にお世話になったの、……私のね、今隠れている百姓屋へ来て貰って……
 立さんが、先刻さっき葬式おとむらいにいらしった、この沼の白骨も、その時私の許で聞いて、あの方がここへ来て拾って行ったんです。
 この頃、また、ちっと塩梅あんばいが悪いので、医師いしゃへ通っていますから、今日こちらへお出でなさる事も、貴下がお出掛けの直ぐあとへ行って聞いて来ました。
 先刻さっきから、あちこちで、様子を見ていましたけれども、そばに人が居るから、見られるのが可厭いやで来ませんでしたよ。
 さあ、いらっしゃい。」
「……参ります!」
 とだけは決然として気競きおって云ったが、膝がえて、がくついて、ついした事にはかないで、
「貴女、貴女、」
 とばかり言う。
「まあ、何にもおっしゃらないで。何事も、あの、内へ行ってから、ゆっくりお話をしましょうね。」
 と軽くうなずく、頬がつくと、襟の処が薄く曇って、きらきらと露が落ちた。

二十七


 その涙を払うさまに、四辺あたりを見つつ、
「御覧なさい、可厭いやな。どこよりさきに、沼の上が暗くなりました。これが、あの田の水のもとなんですもの。またいつかの時のような事があっては悪い。」
 と調子はおっとり聞こえたが、これを耳にするとひとしく、立二は焼火箸やけひばしんだように突立つッたった。
 ト、かおりが、すっと横を抜けて通って、そのまま後姿で前へ立って、尋常にみぎわく。……お太鼓の帯腰が、弱々と、空から釣ったように、軽く、且つ薄い。
 そこへ、はらはらとかかる白絽しろろたもとに、魂を結びつけられたか、と思うと、筋骨すじぼねのこんがらかって、さばきのつかないほど、み立てられた身体からだが、自然に歩行あるく。……足はどこを踏んだか覚えなし。
 しばらくくと、その人が、立停たちどまって、弱腰をじて、肩へ、横顔で見返って、
「気をつけて頂戴、沼の切れ目よ。」
 と案内する……処に……丸木橋が、おのの柄の朽ちたていに、ほろりと中絶えがして折込おれこんだ上を、水が糸のように浅く走って、おのれ、化ける水の癖に、ちょろちょろと可憐しおらしやか。ここには葉ばかりでなく、おくざきか、返り花が、月に咲いたる風情を見よ、と紫の霧を吐いて、杜若かきつばたが二三輪、ぱっと花弁はなびらを向けた。その山のに月が出た。
「今夜は私が、」
 すっとまたぐ、色が、紫に奪われて、杜若にすそが消えたが、花から抜けるさばいたもすそが、橋の向うでおさまると、直ぐに此方こなたへ向替えて、
「手を引いて上げましょう。」
 嫋娜なよやかに出されたので、ついその、のばせばとどく、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、可懐なつかしかおりに包まれた。
 まだ耳の底に絶えなかった、あの、きょ、きょら、くらら鳥の声が、この時急に変った。野太く、図抜けた、ぼやっとした、のろまな、しかも悪く底響きのするのに変って、
 ……おのれら! おのれら!……
 と鳴く。
 ぎょっとして、仰いで見る、月影に、森なす大芭蕉おおばしょうの葉の、沼の上へぬきんでたのが、峰から伸出のしだいてのぞくかと、かしらに高う、さながら馬のたてがみのごとく、たとえば長髪を乱したていの、ばさとある附元つけもとは、どうやらやせこけた蒼黒あおぐろい、とがったおとがいらしくもある。
 あれあれ裂けた処が、そっくり口で、
 ……おのれら!……
 とまた鳴いた。そのていは……薄汚れた青竹の太杖ふとづえを突いて、破目やぶれめの目立つ、蒼黒い道服をちゃくに及んで、せい高うのさばって、天上から瞰下みおろしながら、ひしゃげた腹から野良声を振絞って、道教うる仙人のように見えた。
 その葉が大きく上にかぶさる、下にたたずんでじっと見た、瞳がうるんで溜息ためいきして、
「立さん、立さん、」
 と手を取ったまま、励ますように呼掛けて、
「憎らしいではありませんか。あの芭蕉が伸拡がって、沼の上へ押覆おっかぶさるもんですから、御覧なさい。出汐でしおをこうして隠すんですもの。空へ上れば峰へのびる、向うへかかれば海へ落ちて、いつ見ても、この水に、月の影が宿りません。
 可哀相に。いつかの、あの時、月の影さえ見えたらばと、どんなに二人で祈ったでしょう。身につまされて涙が出る。まあ、この沼の暗いこと! 外は、あんなに月夜だのに。……」
 かざせばその手に、山も峰も映りそう。遠い樹立は花かと散り、頬に影さす緑の葉は、一枚ごとに黄金きん覆輪ふくりんをかけたる色して、草の露と相照らす。……沼は、と見れば、ここからは一面の琵琶びわを中空に据えたようで、あし葉摺はずれに、りんりんと鳴りそうながら、一条ひとすじ白銀しろがねの糸もかからず、暗々として漆して鼠が駈廻かけまわりそうである。
先刻さっき貴下あなたがなすったついでに、もうちっと切払って下さればかったのねえ。」
 ただ等閑なおざりに言い棄てたが、小松原は思わずこぶしを握った。生れて以来このかた、かよわきこの女性にょしょうに対して、男性の意気と力をいまだかつて一たびもためにあらわし得たおぼえがない。腑効ふがいなさもそのドンづまりに……
 しゃ! 要こそあれ。
 今も不思議に片手に持った、さやを棄てて、ひっさげてと出たが、きっと見上げて、
「おのれ!」
 と横薙よこなぎやいばが抜けると、そのもの、長髪をざっとさばく。驚破すわ天窓あたまから押潰おしつぶすよと、思うにず、二丈ふたたけばかりの仙人先生、ぐしゃとひしげて、ぴしゃりとのめずる。
 これにぞ、気を得て、返す刀、列位の黒道人くろどうじん切附きりつけると、がさりと葉尖はさきから崩れて来て、蚊帳を畳んだように落ちる。同時に前へ壁をいて、すっくと立つ青仙人を、腰車にって落す。拝打おがみうち輪切わぎり袈裟掛けさがけ、はて、我ながら、気がえ、手が冴え、白刃しらはとともに、抜けつくぐりつ、刎越はねこえ、飛び交い、八面に渡って、薙立なぎたて薙立て、切伏せると、ばさばさと倒れるごとに、およそ一幅ひとはばの黒い影が、山の腹へひらひらと映って、煙が分れたように消える、とそこだけ、はっと月がして、芭蕉のあとを、明るくなる。
 はては丘のごとく、葉をかさねた芭蕉の上に、全身緑の露を浴び、白刃に青きしずくを流して、逆手さかていてほっと息する。
 褄取りながら、そこへ来て、その人が肩を並べた。
 白刃を落して、その時かいなをさすって憩う、小松原の手を取って、
「ああ、嬉しい。」
 と、山のでたる月に向って、心ゆくばかり打仰いだ。せなたわみ、胸の反るまで、影を飲み光を吸うよう、二つ三つ息を引くと、見る見るきぬの上へはだえが透き、真白なが膨らむは、輝く玉が入ると見えて、肩を伝い、かいなめぐり、あまねく身内の血と一所に、月の光が行通れば、晃々きらきらもすそが揺れて、両の足の爪先つまさきに、うつくしあやが立ち、月が小波ささなみを渡るように、なめらかに※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)ひだを打った。
 ※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと思うと、自分の足は、草も土も踏んではおらず、沼の中なる水の上。
 今はこうと、まだ消え果てぬ夫人にすがると、なびくや黒髪、ぱっと薫って、つめたく、すずしく、たらたらと腕にかかる。

 …………小松原は、俯向うつむけに蒼沼に落ちた処を、帰宅かえりのほどが遅いので、医師せんせいが見せに寄越よこしした、正吉に救われた。
 車夫は沼の隅の物音に、提灯ちょうちんを差出したが、芭蕉の森に白刃が走る月影におそれをなして、しばらく様子を見ていたと言う。

 小松原が恢復かいふくして、この話をした時、医学士は盃を挙げて言った。
「昔だと、仏門にる処だが、君は哲学をっとる人だから、それにも及ぶまい。しかし、蒼沼は可怪あやしいな。」
明治四十一(一九〇八)年六月





底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年3月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「さんずい+散」、U+6F75    282-16
「くさかんむり/哽のつくり」、U+8384    298-6
「火+發」、U+243CB    308-10


●図書カード