「ああ、奥さん、」
と言った自分の声に、ふと目が覚めると……
室内は
真暗で
黒白が分らぬ。寝てから大分の時が
経ったらしくもあるし、つい今しがた
現々したかとも思われる。
その現々たるや、意味のごとく
曖昧で、
虚気としていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら
覚束ないが、
「ああ、奥さん、」
と返事をした声は、
確に耳に
入って、
判然聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、
身体のどっかが、がっくりと
窪んだ気がする。
そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。――呼んだのは、室の
扉の外からだった――すなわち、
閨の戸を
音訪れられたのである。
但し閨の戸では、この室には
相応わぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋
室……と云うが、この部落における、ある
国手の診察室で。
小松原は、旅行中、夏の
一夜を、
知己の医学士の家に宿ったのであった。
隙間漏る
夜半の風に、ひたひたと
裙の
靡く、薄黒い、ものある影を、
臆病のために嫌うでもなく、さればとて、
群り
集る蚊の
嘴を忍んでまで
厭うほどこじれたのでもないが、
鬱陶しさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。
ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟を
被っても、成るべくは、蛍、
萱草、行抜けに見たい
了簡。それには持って来いの診察室。
装飾の整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋
跣足で
歩行かれる
絨氈が敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のやや
褪せた、緑の
窓帷が絞ってある。これさえ引いておけば、
田圃は近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を
仰臥かせて、内の
国手が聴診器を当てようという、
寝台の上。ますます妙なのは
蚤の
憂更になし。
地方と言っても、さまで
辺鄙な処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、
瓦斯が窓越の森に映って、薄ら
蒼くぱっと
点いていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと
突立って、
捻って、ふっと消した。
「何、この方が勝手です、
燧火を一つ置いといて頂けば沢山で。」
この
家の細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しい
紅い
扱帯、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、
洋燈をそこへ、……
「いいえ、お
馴れなさらないと、
偶とお目覚めの時、
不可いもんですよ。
夫でもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくって
可いてって、
此室へ
臥りましてね、夜中に
戸迷いをして、それは
貴下、方々へ
打附りなんかして、飛んだ
可笑しかったことがござんすの。
可笑いより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたから
宜しかったようなものの、
私どもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じような
切を掛けて
蔽にしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、何しろ、どこか一つ窓へ顔を出して方角を
極めようとしましてね、窓掛だ、と思って引揚げましたのが、その蔽だったんでしょう。箱の中に飾っておきます
骸骨に、ぴったり
打撞ったんでございますとさ、
厭ではござんせんかねえ。」
……と寝台の横手、窓際に
卓子があるのに、その
洋燈を
載せながら話したが、中頃に腰を掛けた、その椅子は、患者が
医師と
対向いになる一脚で、
「何ぼ、男でもヒヤリとしましたそうですよ。」
と
愛嬌よく
莞爾した。
「や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。」
「ですから、お気を
注けなさいまし。
夫とは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……
婦のだって、言いますから。」
主人の医学士は、実は健康を損ねたため、保養かたがた
暢気を専一に、ここに業を開いているのであるが、久しぶりのこの都の客と、
対談が
発奮んで、晩酌の量を過したので、もう奥座敷で、ごろりと横の、そのまま夢になりそうな様子だった折から、細君もただそれだけにして、
「どうぞ
御緩り。」
と
洋燈を差置き、ちらちらと――足袋じゃない、
爪先が白く、
絨氈の上を斜めに切って、
扉を出た。
しばらくして、女中が入って来て、
「ここへ、
冷水をお置き申します。」
声を聞いたばかり。昼間
歩行き廻った
疲労と、四五杯の
麦酒の酔に、小松原はもう
現々で、どこへ水差を置いたやら、それは見ず。いつまた女中が出て
去ったか、それさえ知らず。ただ洋燈の心を細めた事は、
一緊胸を
緊めたほど、顔の上へ暗さが
乗懸ったので心着くと、やがて、すうすう
汐が
退く
塩梅に、
灯が小さく遠くなり、
遥に見え、何だか自分が寝た診察台の、枕の下へ
滅入込んで、ずっと谷底の
古御堂の
狐格子の奥深く
点れたもののごとく、思われた……か思ったのか、それとも夢路を
辿る峠から
覗く景色か、つい
他愛がなくなる。
処を、前に言った、(奥さん)――で目が覚めたが、
真暗、洋燈はその時消えていた。
枕を
擡げて、
「
唯今!」
威勢よく、(開けます)とやろうとする、その
扉の見当が附かぬから、
臥床に片手
支いたなり、
熟と
室の内を

しながら、耳を傾けると、それ切り物の
気勢がせぬ。
「はてな、」
自分で、奥さん、と言ったのに、驚いて覚めたには覚めたが、誰に呼ばれたのか、よくは分らぬ。もっとも、小松原とも
立二とも、我が姓、我が
名を呼ばれたのでもなければ、
聞馴れた声で、
貴郎、と言われた次第でもない。
とは言え、呼んだのは
確に
婦で……しかも目のぱっちりした――
「待て、待て、」
当人
寝惚けている癖に、
他の
目色の
穿鑿どころか。けれども、その……ぱっちりと瞳の
清しい、色の白い、髪の濃い、で、何に結ったか前髪のふっくりとある、
俯向き加減の、
就中、
歴然と目に残るのは、すっと鼻筋の通った……
ここまで来ると、この
家の細君の顔ではない。それはもっと
愛嬌があって、これはそれよりも品が優る。
勿論、女中などに似ようはないと、夢か、
現か、
朦朧と認めた顔の
容が、どうやらこう、
目前に、やっぱりその
俯向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その
女性が、
「開けて下さい。」
と言ったのに応じて、唯今、と直ぐに答えたのであるが、
扉の事だろう? その外廊下に、何の
沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。
「
他に開ける処と言っては、窓だが、」
さてはまさしく
魘された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から
覗込んで、窓を開けて、と言う
婦はあるまい。
いや、無いとも限らん――有れば急病人の
許から
駈着けて、門を
敲いても、内で寝入込んで、車夫をはじめ、玄関でも起さない処から、
等閑な田舎の
構、どこか垣の隙間から自由に入って来て、直ぐに
脊伸で
覗いた
奴。
かとも思ったが、どちらを
視めても、何も
居らず、どこに窓らしい薄明りも
射さなければ、一間開放した
筈の、
帷の
戦ぎも見えぬ。
カタリとも言わず……あまつさえ西洋
室の、ひしとあり、
寂として、
芬と、
脳へ
染る、強い、湿っぽい、重くるしい薬の
匂が、形ある
箔のように
颯と来て、時にヒイヤリと寝台を包む。
渠は、今更ながら、しとど冷汗になったのを知った。
窓を開けたままで寝ると、夜気に襲われ、胸苦しいは間々ある
習で。どうかすると、青い顔が幾つも
重って、隙間から
差覗いて、ベソを
掻いたり、ニタニタと笑ったり、キキと鳴声を立てたり、その中には鼠も居る。――希代なのは、その
隙間形に、怪しい顔が、細くもなれば、長くもなり、
菱形にも円くもなる。夕顔に目鼻が着いたり、
摺木に足が生えたり、
破障子が口を開けたり、時ならぬ月が
出でなどするが、例えば雪の
一片ごとに不思議の形があるようなもので、いずれも睡眠に世を隔つ、夜の形の
断片らしい。
すると、今見た女の顔は……何に
憑いて
露れたろう。
「何だか美しかった。」
と思出して、今度は
悚然とした。
「そして、奥さんだ?……奥さんとはどこの奥さんだ。」
確に
此家の細君の顔ではない、あれでなし、それでもなし、目がぱっちりして、色が白く、前髪がふっくりと、鼻筋通り……
と胸の
裡で繰返して、その目と、髪と、
色艶と、一つ一つ
絡まり掛けると……
覚がある!
トンと
寝台に音を立てて、小松原は
真暗な中に、むっくと起きた。
「馬鹿な。」
と思わず
呟いた。
「何、そんな
奴があるものか。」
いや、いや、もしその人だとすれば――三年以前に別れてから、片時も想わずにはおらぬ、寝た間も忘れはしないのであるから、幻も、その
俤は
当然で、かえって
不審くも
凄くもない
筈。
「開けて下さい、」
と云った……それそれ、
扉を開けるつもりで、目を
覚したに違いはない。
且つ
現から我に返った、
咄嗟には、内の細君で……返事をしたが、かくの通り、続いてちっとも音沙汰のないのを思え。
対手は何でも、小松原自分の目には、
皆胸にある、その人の
俤に見えるのかも知れぬ。
「どこを、何を開けて、と云ったんだろう。」
一体――と渠はまた
熟と考えた。
既に夢だと承知しながら、なお何か現在に、事を連絡させようとしている内が、その実、
現だったものらしいが。
窓は開いているし、
扉の外は
音信は絶えたり、外に開けるものは、
卓子の
抽斗か、水差の
蓋……
いや、有るぞ、有るぞ、棚の上に瓶がある。瓶も……四つ五つ並んでいたろう。内の
医師が手にかけたという、
嬰児の
酒精に
浸けたのが、茶色に紫がかって、黄色い
膚に
褐斑の
汚点が着いて、ぐたりとなって、
狗の
児か鼠の児かちょいとは分らぬ、
天窓のひしゃげた、鼻と口と一所に突き出た
不状なのが、前のめりにぶくりと浮いて、膝を抱いて、
呀! と一つ声を掛けると、でんぐりかえしを打ちそうな、彼これ大小もあったけれども、どれが
七月児か、
六月児か、昼間見た時、
医師の説明をよくは心にも留めて聞かなかったが、
海鼠のような、またその岩のふやけたような、
厭な
膚合、ぷつりと切った
胞衣のあとの大きな
疣に似たのさえ、今見るごとく目に残る、しかも
三個。
と考え出すと、
南無三宝、も一つの瓶には
蝮が居たぞ、ぐるぐると
蜷局を巻いた、胴腹が白くよじれて、ぶるッと力を入れたような横筋の
青隈が
凹んで、
逆鱗の立ったるが、瓶の口へ、ト
達く処に、鎌首を
擡げた一件、封じ目を突出る
勢。
「一口どうかね。」
と
串戯に瓶の底を傾けて、一つ
医師が振った時、底の
沈澱がむらむらと立って、
煙のように蛇身を
捲いたわ。
場所が場所で、扱う人が扱う人だけ、その時は今思うほどでもなかったが、さてこう
枕許にずらりと並べて、穏かな夢の結ばれそうな連中は、御一方もお
在なさらぬ。
ああ、悪い処へ寝たぞ。
中にも
件の
長物などは、かかる
夜更に、ともすると、人の
眠を驚かして、
「開けて下さい。」
を
遣りかねまい、と独りで
拵えて、独りで苦笑した。
寝覚の思いの取留め無さも、
酒精浸の
蝮が、瓶の口をば開けて
給べ、と夢枕に立った、とまでになる、と結句
可笑く、幻に見た
婦の顔が、寝た間も忘れぬその人を、いつもの通り
現に見た、と合点が
行くと、いずれ一まず安心が出来たので、そのまま
仰向けに、どたりと寝た。
急に起上ったのであるけれども、さまで
慌しくもなかったらしく、枕は思った処にちゃんとある。ここで、枕の位置が
極まると、
寝台の
向も、
室の
工合も、方角も定まったので、どの道暗がりの中を、
盲目覗きではあるが、
扉、窓、
卓子、戸棚の
在所などがしっかり知れる。
上に、その六月目、七月目の
腹籠、蝮が据置かれた
硝子戸棚は、
蒼筋の勝ったのと、赤い線の多いのと、二枚
解剖の図を提げて、隙間一面、
晃々と医療器械の入れてあるのがちょうど
掻巻の
裾の所、二間の壁に
押着けて、直ぐ
扉の横手に当る。そこには
明取りも何にもないから、
仄な
星明も
辿れないが、昼の
見覚は違うまい。同じ戸棚が左右に
二個、別に
真中にずっと高いのを挟んで、それには
真白な
切が
懸っていた、と寝乱れた浴衣の、胸越に伺う……と白い。
茫と天井から
一幅落ちたが、
四辺が暗くて、その何にも分らぬ……両方の棚に、ひしひしと並べた明
晃々たる器械のありとも見えず、
寂となって隠れた処は、雪に埋もれた関らしく、霜夜の
刑場とも思われる。
旅行の
袂に携えた、誰かの句集の中にでもありそうなのを、
偶然目に浮べたは
可かったが、たちまち、小松原は胸を打った。
本尊! 本尊! 夢を驚かした本尊は、やあやあその中に鎮座まします――しかも
婦の
骸骨で、その
真白な
蔽の中に、襟脚を釣るようにして、ぶら下げた、足をすっと垂れて、がっくりと
俯向いたのが、腰、肩、
蒼白く
繋がって、こればかり冷たそうに、夕陽を受けた庭の
紫陽花の影を浴びて、怪しい色を染めたのを見た。
もうこの上には、
仇、
情、
貴下、私も無さそうな形ながら、
婦というだけ、骨の細りと、胸の
辺も慎ましやかに、
頤を
掻込んだ姿を、
仔細らしく
視めたが、さして心した、というでもなかったに、余程目に染みたものらしく、晩飯の折から、どうかした拍子だった、
一風颯と――田舎はこれが
馳走という、青田の風が
簾を吹いて、水の
薫が
芬とした時、――
膳の上の
冷奴豆腐の鉢の中へ、その骨のどの
辺かが、
薄りと浮いて出た。
それから
前は、……寝しなに細君が
串戯に、
「夜中に出掛けますかも知れません、
婦だって言いますから。」
と笑ったが、話が陽気で、別に気にもならずに寝た。処を、今のその
婦が来て……
「ほい、
蝮より、この方が開けてくれに縁がある。」
いや、
南無阿弥陀仏、縁なんぞないのが
可い、と枕を横に目を
外らすと、この
切がまた白い。
襟許の浴衣が白い。
同一色なのが、何となく、戸棚の
蔽に、ふわりと中だるみがしつつも続いて、峠の
雪路のように、天井裏まで見上げさせる。
小松原はまた肩のあたりに、冷い汗を
垂々と流したが、大分夜も更けた様子で、
冷々と、声もない、音もせぬ風が、そよりと来ては
咽喉を
掠める。
ごほんと、
乾咳を
咳いて、
掻巻の襟を
引張ると、暗がりの中に、その袖が
一波打って
煽るに連れて、白い
蔽に、
襞
が入って、何だか、
呼吸をするように、ぶるぶると動き出す。
目を
塞いでも、こんな時は
詮がないから、一層また起直って、
確と、その実は蔽が見えるのでもなく、勿論揺れるのでもない、
臆病眼が震えるのを、見定めようと思ったが、頭が重いのに、
瞼がだるく、耳が鳴る。手足もぐったりで、その元気が出ぬ。
ままよ、寝っちまえ! ぐッと
引被ると、開いたのか、塞いだのか、分別が着かぬほど、見えるものはやっぱり見えて、おまけに、その白いものが、段々拡がって、前へ出て、
押立って、まざまざと
屏風を立てたように寄って来る。
さあ、その、ふわふわと縦に動く白いものが、次第
低に、
耐力なく根を抜いて、すっと
掻巻の上へ倒れたらしい心地がすると、ひしひしと
重量が
掛って、うむ、と
圧された同然に、息苦しくなったので、急いで、
刎退けに
懸ると、胸に抱合わせている手が直ぐに解けず、
緊着けられているような。
腕を引っこ抜く
勢で、

いて、掻巻をぱっと
剥ぐ、と戸棚の
蔽は、
旧の処にぼうと
下って、何事も別条はない。が、風がまたどこからか吹いて来て、湿っぽい、
蒼臭い、
汗蒸れた
匂が、薬の香に交って、むらむらとそこらへ泳ぎ出す。
疲れ切った脳の中に、その臭気ばかりが一つ一つ別々に描かれて、ああ、湿っぽいのは
腹籠りで、蒼臭いのは
蝮の
骸、汗蒸れたのは自分であろう。
そのにおいを見附けたそうに、投出している我が手をはじめ、きょろきょろと

す内に、何となくほんのりと、誰だか、
婦の、冷い黒髪の香がしはじめる。
香のする方を、
熟と見ると、ただやっぱり白い……が、思いなしか、その中に、どうやら薄墨で影がさして、乱しもやらず、ふっくり
鬢が
纏って、濃い前髪の形らしく
見分がつく、と下から
捲上がるごとく、白い
切が、くるくると小さくなり、左右から、きりりと
緊って、細くなって、その前髪を富士形に分けるほど、鼻筋がすっと通る。
「奥さん!」
と思わず言って、小松原はまた目を覚した。
トもまだ心着かないで、
「今、開けます。」
と言って、
愕然として我に返った。
「また、夢か。」
今度は目が覚めつつも、まだ、その
俤が
室の
中に
朦朧として残ったが、
吻と
吐く
呼吸にでも
吹遣られるように、棚の隅へ、すっと引いて、はっと留まって、
衝と
失くなる。
後がたちまち
真暗になるのが、白の
一重芥子がぱらりと散って、
一片葉の上に
留りながら、ほろほろと落ちる風情。
「こりゃ、どうかしているな。」
現と幻との
見境さえ附きかねた。その上、寒気はする、
頭は重し、いや、
耐らぬほど体が
怠い。夜が明けたら、主人の一診を煩わそうまでは心着いたが、
先刻より、今は起直る力がない。
特に我慢のならぬのは、
呼吸苦しいので、はあはあ耳に響いて、気の
怯けるほど心臓の鼓動が
烈しくなった。
手を伸ばすか、どうにかすれば、水差に水はある
筈、と思いながら、枕を乗出すさえ
億劫で、我ながら
随意にならぬ。
ちょうど、この折だったが、びしょびしょ、と水の滴るような音がし出した。遠くで蚊の鳴くのかとも聞えるし、鼠が
溢したかとも疑われて、渇いた時でも飲みたいと思うような、快い水の
音信ではない。
陰気な、鈍い、濁った――
厭果てた五月雨の、宵の内に星が見えて、寝覚にまた
糠雨の、その
点滴が
黴びた畳に
浸込む時の――心細い、陰気でうんざりとなる
気勢である。
「水差が漏るのかな……」
亀裂でも
入っていたろう。
「
洋燈から
滲出すのか……」
可厭な音だ。がそれにしては、石油の
臭がするでもなし……こう精神が
濛としては、ものの香は分るまい。
断念めるつもりにしたけれども、その癖やっぱり、
頻りに臭う。湿っぽい、
蒼くさい、
汗蒸れたのが
跳廻る。
「ソレまた……」
気にすると、直ぐに、得ならず、時めく、黒髪の
薫が
颯と来た。
「また夢か。」
いつまで続く、ともうげんなりして、
思慮が、ドドドと
地の底へ
滅入り込む、と今度は、戸棚の
蔽が
纏って、白い顔にはならない替りに、窓の外か、それとも内か、
扉の方角ではなしに、何だか一つ、変な物音……沈んだ
跫音。
その音は――今しがた聞え出した、何かを漏れて、
雫の落ちる不快な
響が、次第に量を増して、それの大きくなったもののようでもあるし、新たに横合から加わったもののようでもある。
何しろ、
同一方角に違いない。……開けて寝た窓から掛けて、
洋燈がそこで消えた
卓子の脚を
伝って床に浸出す見当で、段々
判然して、ほたりと、
耳許で響くかとするとまた
幽になる。幽になって
外の
木の葉を、夜露が伝うように遠ざかる。――が、絶えたり続いたりと云うよりは、出つ
入りつ、見えつ隠れつするかに聞えて、
浸出すか、
零れるか、水か、油か、濡れたものが身繕いをするらしい。
しばらく
経つと、重さに半ば枕に
埋んで、がっくりとした我が
頭髪が、その
※[#「さんずい+散」、U+6F75、282-16]……ともつかぬ水分を受けるにや、じとりと濡れて、
粘々とするように思われた。もう、手で払う元気が無いので、ぶるぶると振ると、これは! 男の
天窓にあるべくもないが、カランと、
櫛の落ちた音……
例のほたほた零れる水と、やがてまた縁が離れて、直ぐに
新い音がはじまり、
寝台の脚から
掻巻の
裾へかけて、こう、一つ持上げては、踏落す……それも、
爪先で
擦るでなしに、宙を伝う
裙から出て、
踵が
摺れ摺れに床へ触るらしく、
小股に
歩行くほどの
間を
措いて、しと、しと、しと。
まさかこれぎりに殺されもしまい、と小松原は
投に出て、身動きもしないでいれば、次第に寝台の
周囲を廻って、ぐるりと一周りして
枕許を通る、と思うと、ぐらぐらと頭を取って
仰向けに引落される――はっとすると、もう横手へ
退く。
その内に、窓下の
点滴が、ますます床へ
浸出すそうで、初手は、
件の
跫音とは、彼これ
間を隔てたのが、いつの間にか、一所になって、
一条濡れた路が
繋ったらしくなると、
歩行く方が、びしょびしょ陰気に、湿っぽくなって来た。
これでは目が覚めて見ると、血の足跡が、
飛々に残っていようも知れぬ。
飛々どころか、何として、一面の血か、水であろう、と思われたのは、間も無くであった。
しとしという尋常らしい
跫音が、今はびちゃびちゃと聞えて来た。水なら
踵まで
浴ろう深さ、そうして
小刻に
疾くなったが、
水田へ
蹈込んで渡るのを
畔から聞く位の響き。
と
卓子の上で、ざざっと鳴出す。窓から、どんどと流込む。――さてもさても
夥多しい水らしいが、滝の
勢もなく、瀬の力があるでもない。落ちても
逆捲かず、走っても
迸らぬ。たとえば用水が畔へ開き、田が一面の湖となる、
雨上りの
広田圃を見るような、
鮒と
鰌の洪水めいたが、そのじめじめとして、陰気な、湿っぽい、ぬるぬるした、不気味さは、
大河の
出水の
凄いに
増る。
そんな水がどこへ出た、と言われたら、この部屋一面、と答えようと思いながら、小松原は但し身動きも出来ないのである。
やがて
短夜が……嬉しや、もう明けそうに、窓から白濁りの色が
注して、どんよりと光って、
卓子の上へ飜った、と見ると、
跫音が、激しくなって、ばたばたばた、とそこいらを
駈けたが、風か、水か、ざっと鳴る時、
婦の悲鳴が、
「あッ」
と云う……
「奥さん。」
と
刎起きる、と、起きた正面に、白い姿が、
髴とある!
「ああ、夢か。」
と気が着いたが、まざまざ垂れたその
切が、ふっくりした乳にも見えるし、すっとした手にも見える。その
辺が、と思うと、円い肩になり、なぞえに白く胸になって、くびって腰になって、すらりと裾のようになる。
あの、雪に、糸
一条も
懸らぬか、と疑えば、非ず、ひたひたと身に着いた霞のような
衣をぞ
絡う。
と見ると、
乳の
辺、胸へ掛けて、
無慚や、
颯と赤くなって、
垂々と血に染まった。
枕に響いた
点滴の音も、今さらこの胸からか、と
悚然とするまで、その血が、ほたほたと落ちて、
汐が引くばかりに、見る間に、びしゃびしゃと肉が
萎む、と手と足に
蒼味が
注して、腰、肩、胸の
隅々に、まだその白い
膚が
消々に、
薄らと雪を
被いで残りながら、細々と枝を組んで、
肋骨が透いて見えた。
「ああ、これだな。」
と合点が
行く。
途端に、がたがたと戸棚が鳴った。
自分で正気づいたと、心が
確になった時だけ、
現の
婦の
跫音より、このがたがたにもう
堪らず、やにわに
寝台からずるずると落ちた。
小松原は暗がりを手探りながら、鋭くなった神経に、
先刻から
電燈で照らしたほど、室内の見当はよく着けていたので、
猶予いもせず、ズシンと
身体ごと
扉の引手に持って
行くと、もとより錠を下ろしたのではない。
ドンと
開く。
扉に
身体が
附着いて、
発奮んで出たが、
跨いだ足が、そう苦なしには大穴から離りょうとはせぬので、地獄から
娑婆へ踏掛けた
体で、
独で

いて、どたんばたん、扉の
面と、や、組んだりける。
この物音に、
驚破と奥で起直って、早や
身構をしたと見える――
慌しい耳にも、なおがったりと戸棚の前の怪しげな
響がまた聞えたのに、
堪りかねて
主人を呼ぶと――向うへ、突当りの縁が折曲った処に、ぼうと
射していた
灯が動いて、直ぐに台附の
洋燈を手にした、浴衣の胸のはだかった、
扱帯のずるずるとある
医師が、右を曲って、正面へ。
開放した障子を
洩れて、だらりと
裾を引いた
萌黄の蚊帳を横にして、廊下の八分目ぐらいな処で、
「便所か。」
と云う、
髯、
口許が
明々として、
洋燈を
翳す。
この
明で、小松原は水浸しになったほど、汗びっしょりの、我ながら
萎垂れた、腰の
据らぬ、へとへとになった形を認めたが、医学士はかつて一年志願兵でもあったから、武備も且つある、こんな時の
頼母しさ。顔を見ると、
蘇生った心地で、
「やあ。」と掛けた声が
勢なく中途で
掠れて、
「夜更けに恐縮、」
とやっと根こそぎに
室を離れた。……
扉を
後ざまに突放せば、ここが当
館の関門、来診者の出入口で、建附に気を
注けてあるそうで、
刎返って、ズーンと閉る。
と突出された
体にしょんぼり立って、
「どうも、何だ、
夜夜中、」
医師は亭主関白といった足取、深更に及んでも、夜中でも、その段は一切
頓着なく、どしどしと廊下を踏んで、やがて
対向になる時、
傍の玄関の壁越に
凄じい
鼾を聞いて、
「
壮だ、壮だ。」
と
莞爾する。
顔色が、ぐっすり寝込んだ処を、今ので
呼覚されて、眠いに迷惑らしい様子もないので、
「どうも気の毒です。
酷い目に逢ってね。」
といささか落着く。
医師は
立はだかりつつ、
「どうした、
蚊軍の襲来かい。」
なかなか、こんな事を解釈する余裕はなくって、
「ええ、」
といかにも気が利かない。
「蚊に城を破られたかよ。」
「そこどころか。」
対手の余り
暢気なのが、この際
怨めしく思われた。
「この中は大変だ。」
「大変だ?」
「何か来たんだ。」
「何、入って来たか、」
と
洋燈を上げて、
扉の上を、ぐいと仰ぐ。
「がたがた
遣ってる。」
小松原は、ずうっと
医師に身を寄せる、と目を返して、今度はその
体をじろじろ
視めて、
「震えてるね、君は。」
「どうだい、心持は。もう
爽快したろう。」
主人の
医師は、奥座敷の蚊帳の中に、
胡坐して、
枕許の
煙草盆を引寄せた。
「こういう時は、
医師の友達は
頼母しかろう。ちと処方外の療治だがね、同じ
葡萄酒でも薬局で
喇叭を
極めると、何となく
難有味が違って、
自ら精神が
爽快になります。しかし
怯えたっけ、ははは。」
と
髯を
捻って、
冴々しい。
蚊がぶうんと
唸って、
歯切もどこかでする。
灯の暗い、
鬱陶しかるべき蚊帳の内も、
主人がこれであるから、あえて蒸暑くもないのであった。
小松原は、
裾を細う、横に手枕で気を休めていた。
「怯えたどころか、一時はそのままになるかと思った。起きるには起きられず、
遁げるには遁げられず、寝返りさえ容易じゃない、実際息が留まりそうだったものね。」
咽喉を
斜に手を入れて、
痩せた胸を
圧えながら、
「見たまえ、いまだにこの
動悸を、」
「色は白くっても、野郎の
癪を
圧えたってはじまらない。は、はは、いや、しかし弱い男だ。」
「ふ、ふ、」
と力抜けた声で笑って、
「奥さんは?」と
俯向けに額を圧える。
「御心配に及びません。君が侵入に及んだために他室へ遠慮したというんじゃない。
小児の奴がまた生意気に、私がちと飲過すと、酒臭い、と云って一つ蚊帳を嫌います。いや、
大に台所の
内諭なきにしもあらずだろうが。
そこで、
先刻、君と飲倒れたまま遠島申附かった訳だ。――
空鉄砲の
機会もなしに、五斗兵衛むっくと起きて、
思入があったがね。それっきり目が冴えて寝られないで、いささか蚊帳の広さかなの感あった処です。
君もちょっとは寝られまい、朝までここで話したまえ。」
折から陽気にという積りか、
医師の言は、
大に
諧謔の調を帯びたが、小松原はただ
生真面目で、
「どうかそうしてくれたまえ。ここを追出されたればといって、二度とあすこへ行って寝る気はしない。どうも驚いた。」
「はじめから奇を好むからです。あすこへ行って寝るなんざ、どの道
好くない。いずれ病人でなくっては乗っからない
寝台だもの。もっとも、私にゃ大切な商売道具だがね。
しかしそれにしてもあんまりな
怯え方だ。夢を見て
遁出すなんざ、いやしくも男子たるべきものが……と云って
罵倒するわけじゃないが、ちとしっかりしないかい。
串戯じゃない、病気になる。
そんなのが
嵩じると、何も
餅屋がって、ここで病名は申さんがね、起きている
真昼間でも目に見えるようになる。それ、現在目に見えて、そこに居るから、口も利くだろう、声も懸けようではないか。
傍から見ると、直ぐにもうキの字だぜ、恐るべし、恐るべし。
何も、
朦朧と
露れたって、
歴々と映ったって、高が
婦じゃないか。婦の姿が見えたんだって言うじゃないか。何が、そんなに恐いものか。」
「別に見えたって訳じゃない。何だか寝台の
周囲を
歩行いたんだが、そう、どっちにしても
婦らしく思われた――それがすぐに、息の詰るほど
厭な
心地だったんではないけれども、こう、じとじとして、湿っぽくッて、陰気で、そこらに
鯰でも
湧出しそうな、泥水の中へ
引摺込まれそうな気がしたんで、骨まで
浸透るほど
慄然々々するんだ。」
と肩を細うして、
背で
呼吸をする。
「男らしくもない、そんな事を言って
梅雨期はどうします、まさか
蓑笠を着て坐ってやしまい。」
「うむ、何、それがただのじとじとなら
可いけれど、今云う泥水の一件だ、
轟と来た洪水か何かで、
一思に流されるならまだしもです――
灯の消えた、あの診察
処のような
真暗な夜、降るともつかず、降らないでもない、
糠雨の中に、ぐしゃりと水のついた
畔道に
打坐って、足の裏を
水田のじょろじょろ
流に
擽ぐられて、
裙からじめじめ濡通って、それで動くことも出来ないような思いを一度して見たまえ。」
と力強く云って、また小松原は
溜息で居る。
医師は
徐に、煙草盆を引寄せて、
「それ、そこが苦労性だと言うのです。窓を開けたまんまで寝たから、夜風が入って湿っぽかったらただ湿っぽかったで
可かろう。何も
真暗な夜、
田圃の中に、ぐしゃりと坐って、足の裏を
擽られて、腰から
冷通るとまで、こじつけずともの事だ。その気でお
膳に向った日にゃ、お
汁の湯気が
濛々と
立騰ると、これが毒のある霧になる、そこで
咽死に死にかねませんな。」
「そう一概に言ってくれる事はない。どうせ現在お目に懸けた
臆病です。それを弁解するんじゃないが、田圃だの、水浸しだの、と誇大に
妄想した訳ではありません。
実際、そんな目に逢って、一生忘れられん
思をした事があるからだよ。いや、考えても身の毛が
弥立つ。」
フイと起返って、蚊帳の中を

したが、妙に、この男にばかり麻目が
蒼い。
医師は落着いて、煙を吹かして、
「どこで野宿をした時だ、今度の旅でか。」
「ううむ。」
と深く
頭を振って、
「いつかの時さ、あの一件の……」
と言懸けて、頬のこけた横顔になって
打背いた。――小松原の肩のあたりから
片面の
耳朶かけて、天井の暗さが
倒に襲ったのを、
熟と見ながら、これがある婦人と心中しようとした男だと
頷いた。
当時その風説は、友達の間に誰も知らぬものはなかったが、医学士は、折から処を隔てていたので、その場合何事にも携わらなんだ。もう三年か四年かと、指を折るほど
前に、七十五日も通越したから、
更めて思出すほどでもなし、おいそれと
言に
従いて、
極りの悪い
思をさせるでもなかろう。で、一向
無頓着に、
「何だい、いつかの一件とは?」
「面目次第も無い
件さ。三年
前だ、やっぱりこの土地で、鉄道往生をし
損なった、その時なんです。」
「ああ、そんな事があったってな、危いじゃないか。」
と云う内に
自から真心が
籠って、
「一思いに好男子、粉にする処だっけ。勿論、私がこうして御近所に陣取っていれば、
胴切にされたって
承合助かる。
洒落にちょいと
轢かれてみるなんぞも
異だがね、一人の時は危険だよ。」
わざと話に、一人なる
語を交えて、小松原が
慚愧の念を打消そうとするつもりだった。
ところが案外! この
情に、
太く動かされた色が見えたが、
面を正しゅう向直った。
「何とも――感謝する。
古疵の
悩を覚えさせまい、とそうやって知らん顔をしてくれるのは
真に嬉しい、
難有いが……それでは
怨だ。
ねえ。
あれほどの騒ぎだもの。ことに
自惚らしいが、私の事を忘れないでいてくれる君が、しかもこの土地へ来ていて、知らないという法はない。承知の上で、何にも知らん
振をしてくれるのは、やっぱりあの時の事を、世間並に、私が
余処の夫人を誘って、心中を
仕損った、とそう思っているからです。
勝手な事を言うものには、言わしておいて構わんけれども、君のような人に対しては、何とももって恥入るんだ。」
と
俯向いて腕を
拱き、
「その君の
情ある心で、どうか訳を聞いて欲しい。くどい事は言わん。何しろ、少なくとも君だけには言訳をする責任があると思う。」
医師は潔く、
「承わろう。今更その
条道を話して聞かせる……
惚気なら受賃を出してからにしてもらおうし、
愚痴なら男らしくもない、
止したまえ――だが、私たちが誤解をしているんなら、
大に弁じて聞かせてくれ、今まで疑っていたから私にも責任がある。」
「そう、きっぱりとなられては、どうもまた言出しにくい。」
「
可いじゃないか、その容体を聞かせたまえ、
医師には秘密を
打開けて
可いもんだ。」
「…………」
言淀んで見えたので、ここへ来い、と
構を崩して、
透を見せた
頬杖し、ごろりと横になって、小松原の顔を
覗込みつつ、
「で、何か、その晩、
田圃に坐ったのか。」
と軽く
扱って
誘を入れた。
「まあ、坐ったんだ。」
小松原は苦笑して頬を
撫でたが、寂しそうに打傾き、
「
土下坐をしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。」
「またどうしてだい。」
と
医師は
寛いだ身の
動作で、
掻巻の上へ足を投げて、
綴糸を手で
引張る。
「それがね、」
と
熟と灰吹を見詰めてから、静かに
巻莨を
突込みながら、
「はじめは何でもない事だった。――何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。」
「あの人ッて?」
「…………」
「ははあ、
対手の貴婦人だね。」
「そんな事を言わないで、」
と吸口をもっと
突込む。
「
可いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。」
「何、貴婦人に違いはないが、その
対手が悪い。」
「
可し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。」
「御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が
媒酌人で結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが
見知越でいたのだった。
ちょうど戦争のあった年でね。
主人は戦地へ行って留守中。その時分、
三才だった健坊と云うのが、梅雨あけ頃から
咳が出て、
塩梅が悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地が
可い、場所は、と云って
此地を、その主治医が指定したというもんです。
小児の病気とはいいながら、旅館と来ると
湯治らしく、時節柄人目に立つ。
新に別荘を一軒借りるのも
億劫だし、部屋
借が出ず入らず、しかるべき
空座敷があるまいか、と私が
此地に居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。
そちこち聞合せると、私が借りていた家から、
田圃の方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店で
商も大きく
遣っている、家主の人柄も
可し、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。
直ぐに
極めて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が
停車場へ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。
五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、
単衣に羽織を
被て、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って
閉籠っていた処……その日は朝から雨が
上って、昼頃には
雲切がして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、
蒼空は見えなかったが、
多日ぶりで、
出歩行くに傘は要らない。
小児を歩行かせるには
路が悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、
斜っかいに私の前二階を
覗いて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、
(お出掛けなさいませんか。)
と浜を誘いに見えるだろう。
(小松……君。)
と原抜きにして、高慢に
仇気なく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。
その内、湯に入ると、
薄りと
湯槽の縁へ西日がさす。
覗くと、空の
真白な底に、高くから蒼空が
団扇をどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、
囲の外を、
(水が出たぞ。)
(田圃一面。)
と
饒舌って通った。
これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、
碌に
手拭も絞らないで、ふらんねるを
引かけたなり、帽子も
被らずに、下駄を
突掛けて出たんだがね。」――
「
汎水だ、と云ったって、この通り、川らしい川のない処だから、
駈出して見物に行くほどの事もなさそうなもんだけれど、私は何だ。……
董、
茅花の時分から、苗代、青田、豆の花、
蜻蛉、蛍、何でも田圃が
好で、殊に二百十日前後は、稲穂の波に、
案山子の船頭。
芋※[#「くさかんむり/哽のつくり」、U+8384、298-6]の
靡く様子から、枝豆の実る処、ちと
稗蒔染みた考えで、
深山大沢でない処は
卑怯だけれど、
鯨より
小鮒です、
白鷺、
鶉、
鷭、
鶺鴒、
皆な我々と
知己のようで、閑古鳥よりは
可懐い。
山、海、湖などがもし天然の庭だったら、田圃はその小座敷だろう。が、何しろ好きでね、……そのせいか、私には妙な事がある。
いつ頃からかはよく分らんが、床に入って、
可心持に、すっと足を
伸す、
背が浮いて、
他愛なくこう、その
華胥の国とか云う、そこへだ――引入れられそうになると、何の樹か知らないが、
萌黄色の葉の茂ったのが、上へかかって、その
樺色の根を
静に洗う。
藍がかった水の
流が、緩く
畝って、
前後の霞んだ処が、枕からかけて、
睫の上へ、自分と何かの
境目へ
露れる。……
トその樹の下に、
笊か何か手に持って、まあ、膝ぐらいな処まで、その水へ入って、そっと、目高か鮒か、
掬ってる
小児がある。
其奴が自分で。――ああ、面白そうだと思うと、我ながら、引き入れられて、
身節がなえて、嬉しくなる。その内に波立ちもしないで、水の色が濃くなって、
小濁りに濁ると思うと、ずっと深さが増して、ふうわり草の生えた土手へ
溢るんだがね、その土手が、
城趾の
濠の石垣らしくも見えれば、田の
畔のようでもあるし、沼か、池の一角のようでもある。その辺は判然しないが、何でも、すっと
陽炎が
絡る形に、その水の増す内が、何とも言えない
可い心地で、自分の背中か、その小児の脚か、それに連れて雲を踏むらしく
糶上ると、土手の上で、――ここが
可訝しい――足の白い、
綺麗な
褄をしっとりと、水とすれすれに
内端に
掻込んで、一人美人が
彳む、とそれと自分が並ぶんで……ここまで来るともう
恍惚……
すやすや寝ます。
枕に就いて、この見える時は、実際子守唄で
賺かされるように寝られる。またまったく心持の可い時でないと見えんから、見えない時でも見るように、見るようにと心掛ける――それでも、散らかって、
絡まらないで、更に目に宿らん事が多い。そういう時は、きっと寝そびれて悩むんだ。
そこで、大好きな田圃の中でも、
選分けて、あの、ちょろちょろ川が嬉しい。
雨上りにちっと水が
殖えて、畔へかかった処が無類で。
取留めのない事だが、我慢して聞きたまえ。――本人にも一向
掴え処はない。いつも見る景色だけれども、朝だか、晩方だか、薄曇った
日中だか、それさえ
曖昧で、ただ見える。
さあ、模様が
誂向きとなったろう――ところで、一番近い田圃へ出るには、是非、あの人が借りていた、その
商家の前を通るんだったよ。
店をはずれて、ひょろひょろとした柳で仕切った、その
門を見ると、
小児が遊んでいたらしく、めんこが四五枚、
散に靴脱ぎのたたきの上へ
散って、
喇叭が一ツ、式台に横飛び。……で、投出して
駈出したか、格子戸が
開放し、
框の障子も半分開いて、奥の長火鉢の端が見えた。
その格子戸の
潜の上へ手を掛けて、
(健ちゃん、)
と呼んでみたが、黙っていた。
(居ないの。お留守、)
と
遣ると、……そこもやっぱり開いたままの、障子の陰の、湯殿へ通う向うの廊下へ、しとしとと
跫音がして、でも、
黙然で、ちょいと顔だけ見せて
覗いたが、直ぐに
莞爾して、縁側を奥座敷へ
上った姿は……
帯なし、
掻取り気味に
褄を合せて、胸で引抱えた手に、
濡手拭を提げていた。二間を仕切った敷居際に来て、また
莞爾すると、……」
「謹聴、」
と
医学士が
唐突に云った。
「真面目だよ、真面目だよ。」
「湯上りの、ぱっと白い、派手な、品の
可い顔を、ほんのり
薄紅の
注した美しい
耳許の見えるまで、
人可懐く斜めにして、
(失礼、今ね、お返事の出来ない処だったの……裸体美人、)
と云って花やかな笑顔になる。いかにも
伸々と
寛容して、
串戯の一つも言えそうな、何の隔てもない様子だったが、私は何だか、悪い処へ来合せでもしたように、
急込んで、
(田圃へ行って見ませんか、)
と何のあしらいもなく
装附けた。
(は、参りましょう、)
と
頷いて、台所の方を振返りながら、
(ちょいと、御免なさいよ。)
支度を、と断るまでもなく、
平常着のままで出は出たが、――その時、横向きになって、壁に向うと、手を離した。
裙が落ちて、畳に
颯と
捌けると、薄色の壁に美しく
濡蔦が
搦んで絵模様、水の垂りそうな
濡毛を、くっきりと
肱で
劃って、透通るように
櫛を入れる。ちょうどそこの柱に懸けて、いかがな姿見が一面あった――勿論、東京から御持参の品じゃない。これと、床の間の怪しい山水は、家主のお愛想なんです――あの人がまた旅へ姿見を持って出るような心掛けなら、なに、こんな処で、平気でお
化粧をする事もなかろう。
熟と見てもいられますまい。この際、どこへ持って行こうか、と背ける目を
掠めて、月の中を雪が散った……姿見に映った胸で、……
膚の白い人だっけ。
直ぐにそれは消えたけれど、今のその
褄はずれの色合は、どうやら水際に足を白く、すらりと立った姿に見えたが……
ああ、その晩方、幻のような形で、二人して、水の上に立つようになったんだ。
何に誘われて出たんだか、――とうとうあんな
酷い目に逢う
原因だったがね。別に怪しいものじゃない、自分が時々見る美しい、嬉しい夢、――いや、夢じゃない、我が心に、
誘出されたものかと思う。」
小松原は、
現のように目を

って、今向直って気を入れた、
医師の顔を
瞻りながら、
「また愚痴だ、と言うだろうが、後で考えれば、私は今までの経験に因ると、いつでも、湯の中でフイと気が立って、何だか
頻りにそわついて、よくも洗わないで飛出した時に限って、余りめでたい事がない。一度も
小児の時だった、やっぱりそういう折に大怪我をしたのを覚えている。
それにね、そんな風で
停車場へ迎いに行って、連れて来て、
家も案内する、近所で間に合せの買物まで、一所に
歩行いて、台所の
俎、
摺鉢の
恰好まで心得てるような関係になっていたから、夏の
中も随分毎日のように連立って海岸へ行ったんで――また小児のために、それが何よりの目的なんでね。
来たてには、手荷物の始末、掃除の手伝いかたがた、
馬丁と、小間使と女中と、三人が附いて来たが、
煮炊が間に合うようになると、一度、新世帯のお手料理を
御馳走になった切り、その二人は帰った、年上の女中だけ残って。それも戦時の遠慮からです。
一人になったが、女中には大した用があるんじゃない。どうせ旅の事で、何を
極って、きちょうめんにしなければならんというでもなし、一向気取らない女主人で、夜も坊ちゃんを
真中へ、一ツ蚊帳に寝るほどだから、お茶漬をさらさらで、じゃかじゃかと洗ってしまえば
埒は明く。女中も物珍らしく遊びたいから、手廻しよく、留守は板戸の
開閉一つで
往来の出来る、家主の店へ頼んで、一足
後れ
馳せにでも、
(坊ちゃん)……か何かで、直ぐに
追着く。
だから、いつでも女中が一所で、その健坊と四人連れ立たないのは珍らしい、まあ、ほとんど無かったろう。
浜に人影がなくなって、
海松ばかり打上げられる、寂しい秋の晩方なんざ、誰の発議だったか、小児が、あの
手遊のバケツを
振提げると、近所の八百屋へ交渉して、
豌豆豆を二三合……お三どんが風呂敷で提げたもんです。
磯へ出ると、砂を
穿って小さく囲って、そこいらの
燃料で
焚附ける。バケツへ
汐汲という振事があって、一件ものをうでるんだが、波の上へ
薄りと煙が
靡くと、富士を
真正面に、奥方もちっと参る。が、落日に対して
真に気高い、
蓬莱の島にでも居るような心持のする時も、いつも女中が
随いていたのに。」
「それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、
(健ちゃんは?)ッて聞いたんだ。
(そこいらに居ましょう。)
と藤色の緒の
表附の
駒下駄を、
紅の
潮した
爪先に
引掛けながら、私が
退いた後へ手を掛けて、格子から外を
覗いた、
門を出てからで
可さそうなものを、やっぱり雨に
閉籠った処を、四五日振りの湯上りで
晴々して、
戸外へ出るのが嬉しくって、気が
急いたものらしかった。
帯もざっとした
引掛結びで、
(おや、居ませんか?)
ッて
蓮葉に出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を
覗込んで、
(健ちゃん、健ちゃんや。)
と呼ぶと、急に、わやわやと四五人
小児の声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に
棒千切を持って健坊が顔を出した。
田圃へお
出で、と云うと、
(
厭だべい。)
で
突掛るように
刎附ける、同じ腕白
夥間に大勢
馴染が出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も
真黒になった。
母様がまたこれを大層喜んでいたもんです。
(じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。)
(うん、)
と云うと、わっと
吶喊を上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、
鶏小屋の前で、健ちゃんは
素飛ぶ。
(お
庇様で、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。)
と嬉しそうに見えて、
(どちらへ?)と聞く。
(踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。)
百姓家二三軒でもう
畷だが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。
片方に田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を
畦伝いに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう――もっとも
汎水と云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら
歩行を通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。
路は悪かった。所々の
水溜では、
夫人の足がちらちら映る。
真中は
泥濘が
甚いので、
裙の濡れるのは我慢しても、
路傍の草を
行かねばならない。
停車場は、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に
白光に光って、夜になると
蒼く燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を
水田の方へ、むらむらと
斑に飛ぶ。が海を
抱いた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一
拭い
拭を掛けたいように底が澄まず、ちょうど海の
果と思う処に、あるかなし墨を引いた
曇が
亘って、
驚破と云うとずんずん押出して、山の雲と一
絡めにまた空を
暗闇にしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠い
灯の影も見られなそうな夕暮だった。
(もう、お天気になりましょうね。)
(さあ、)
とは云ったがどうも請合いかねる。……
明白に云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞ
厭き厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。
風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、
溢れた水が田へ
被るそれらしかった。
踏切を渡ると、
鴉が一羽……その飛んだ事ったら――
吃驚したほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山の
端か、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。
雨気が深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。
もう少し
隧道の方へ
行くと、あすこに、路の
真中に、縦に掛けたちょっとした橋がある。
棒杭のように欄干がついて、――あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、
瓦色に濁ったのが、どうどうとただ
一幅だけれども
畝を立てて、橋の底へすれすれに
凄じいほど流れている。いつもは
俯向いて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、
嵩増して、
薄の葉が瀬を造って、もうこれで
充満と云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶ
遣ってた。」
「この水が、
路端の芋大根の畑を隔てた、線路の下を抜ける処は、
物凄い渦を巻いて、下田圃へ落ちかかる……線路の上には、ばらばらと
人立がして、
明い雲の下に、海の方へ
後向に、
一筆画の墨絵で
突立つ。
蓑を脱いで手に提げて
鍬を
支いた百姓だの、
小児を
負った古女房だの、いかにも水見物をしているらしい。
見ると、
堪らなく嬉しくなった。
(さあ、こうしておいでなさい。)
と
畦を踏分けて跡をつけては、先へ立って、
畠を切れて、夜は虫が鳴く土手を
上ったが、ここらはまだ
褄を取るほどの
雫じゃなかった。
線路へ出て、ずっと見ると、一面の浜田がどことなく、ゆさゆさ動いて、
稲穂の分れ伏した処は幾ヶ所ともなしに
細流が
蜘蛛手に走る。二三枚空が映って、田の白いのは
被ったらしい。松があって雑樹が
一叢、一里塚の跡かとも思われるのは、妙に低くなって、沈んで島のように見えた、そこいらも水が
溢れていよう。
(もうこれだけかね、)
甚だ
怪しからん次第だったけれども、稲の上を
筏ででも
漕いでくれたら、と思って、
傍に居た
親仁に聞くと、
(
汐が
上ったら、まっと
溢るべい。)
と、腕組をして
熟と
視める。
成程、漁師町を
繞ったり、別荘の松原を廻ったり、
七八筋に分れて、また一ツになって海へ
灌ぐが、そこ
行くとこれでも幅が二十間ぐらい、山も賦になれば、船も歌える、この様子では汐が
注そう。
と二人で見ているうち、夕日のなごりが、出崎の
端から
※[#「火+發」、U+243CB、308-10]と雲を射たが、親仁の額も
赫となれば、線路も
颯と赤く染まる。稲を
潜って隠れた水も、一面に
俤立って
紫雲英が咲満ちたように明るむ、と心持、天の端を、ちらちら
白帆も
行きそうだった。
またこれに浮かれ立って、線路を田圃へ下りたんだが、やがて、稲の葉が黒くなって、田が
溝染めに暮れかかると、次第に
褪せて
行く
茜色を、さながら
剥ぎたての牛の皮を拡げた上を、
爪立って
歩行くような
厭な心持がするようになっちまった。
ちょうど、田圃道を、八分目ほどで、一本橋がある。それを
危っかしく、一度渡って、二度目にまた引返してからだった……もう
一跨ぎで、漁師町の裏へ
上ろうとする処で、思いがけなく
行きついたろうではないか。」
「ふん、どうしてだい。」
と
医師は枕を抱く。
小松原は一息ついて、
「どうして?ッて、見たまえ、いつもは、
手拭を当てても
堰留められそうな、田の
切目が、
薬研形に崩込んで、二ツ三ツぐるぐると
濁水の渦を巻く。ここでは稲が
藻屑になって、どうどう流れる。もっとも線路から段々
下りに低いからね。山の
裾で取囲んだ浜田ありたけの
溢れ水は、瀬になって落ちて来るんだ。但し大した幅じゃない、一間には足りないんだけれども、深さは、と云う日になると、何とどうです、崩れ口の
畦の処に、漁師の子が三人ばかり、
素裸で浸っていたろう。
(どうだ深いか。)
と一ツ当って見ると、
己達は裸で泳がい……聞くだけ野暮だ、と
突懸り気味に、
(深え。)
(
二丈の上あるぜ。)
と口を
尖がらかしたも道理こそ。
此方づれの
体は、と見ると、私が
尻端折で、下駄を持った。あの人もまた
遣附けない
褄を取って、同じく駒下駄をぶら提げて、
跣足で、びしょびしょと立った所は、
煤払の台所へ、
手桶が
打覆った
塩梅だろう。」
この時一所に笑い出したが。
「ね、
小児だって、本場の
苦労人が裸で出張ってる処へ、膝までも出さないんだ、馬鹿にするないで、もって、一本参ったもんです。
が、まだ
威かしではないか、と思う未練があった。――処へ、ひょっこりしばらく潜っていたのが、鼻の
前へ、ぶっくり浮いた
河童小僧。
おやと思うと、ぶるぶると顔をやって、ふっと
一条仰向けに水を
噴いた……深いんです。
どうもこれにゃ
逡巡いで、二人で顔を見合せたんだ。」
「そこさえ越せば、漁師町を一廻りして帰れるんで、ちょうど
可いくらいな散歩のつもりだったんだが、それだもの、どうして、渡るどころの騒ぎじゃない。
さあ、引返すとなると、線路からここまでの難儀さが思出される。難儀だって程度問題、覚悟をしての
草鞋掛ででもあれば格別、何しろ湯あがりのぶらぶら歩き。
それ、今言った通り
跣足です。なるだけ水の上の高い処を、と拾って
畦を伝えば、雨続きで、がばがば崩れる、路を踏めば
泥濘で
辷る、乾いた処ちっともなし。……
(お危のうございますよ。)
(は、大丈夫、)
と声を掛けて、やっと
辿ったのだった。また厄介なのは、縦横に幾ヶ処ともなく、畦の切目があって、ちょいと
薪を倒したほどの
足掛が
架っているが、たださえ落す時分が、今日の
出水で、ざあざあ瀬になり、どっと
溢れる、根を洗って稲の下から
湧立つ
勢、飛べる事は飛べるから、先へ飛越えては、おもしろ半分、
(お手をお取り申しましょうかね。)
と一畦離れていて云うと、
(是非、どうぞ。)
なんて笑いながら、ま、どうにか通ったんだっけ。浅いと思った
水溜へ片足踏込んで、私が
前へ下駄を脱いだんで、あの人も、それから
跣足、湯上りの足は泥だらけで――ああ、気の毒だと思う内に、どこかの流れで、
歩行いてる内に綺麗に落ちる、その位
皆水です。
で三町ぐらい、また引返さなけりゃならないんでね、それに段々暗くはなる、
足許も悪かろう、うんざりしたが、自分は、まあ、どうなり、さぞ困った顔をして、と振返る……
とこの時……
薄り路へ
被った水を踏んで、その
濡色へ
真白に映って、
蹴出し
褄の
搦んだのが、私と並んで立った姿――そっくりいつも見る、座敷の額の
画に覚えのあるような有様だった――はてな、夢か知らん……と
恍惚となった。
ざあざあ、
地の底を吹き荒れる風のような水の音。
我に返って、
密と顔を見ると、なに大して困ったらしくもなかった。
(ここは通れません。)
(引返しましょう。)
(飛んだ御案内をしてお気の毒です。)
(いいえ、おもしろうござんすよ。こんな
奇い
態をして。)
と美しく
微笑みながら、
(いっそ
袂を担ぎましょうか。)
この元気だから。どうやら
水嵩[#ルビの「みずかさ」は底本では「みづかさ」]も大分増して、橋の中ほどを、
蝦蟇が
覗くように水が越すが、両岸の
杭に結えつけてあるだけが便りで、渡ると、ぐらぐらした、が、まあ、あの人も無事に越した。でも、私の帯へ
背後から片手をかけて。
それから――前を見ると、こっちが低いせいか、ぐるぐる廻りに
畝って流れる、小川の両方に
生被さった、雑樹のぞうぞう揺れるのが、
累り累り、所々
煽って、高い所を泥水が走りかかって、田も
畑も山も
一色の、もう
四辺が
朦朧として来た、稲なんぞは、手で触るぐらいの処しか、早や見えない。
人は一人も
居らず、……今渡った橋は、
魚の腹のように
仄白く水の上へ出ているが、その先の
小児などは、いつの間にか影も消えていた。
(小松原さん。)
とあの人が、
摺寄って、
(もう一つの路はどうでしょうかしら。)
と云った、様子には出さんでも、以前の難渋は、同然に困ったらしい。
もう一つと云うのは、小川が分れて松原の裏を
行く、その
川縁を
蘆の根を伝い伝い、廻りにはなるが、踏切の処へ出る……支流で、川は細いが、
汐はこの方が余計に
注すから、どうかとは思ったものの、見す見す厭な路を繰返すよりは、
(行って見ましょう。)
と
歩行き出して、
向を代えて、もう構わず、
落水の口を二三ヶ所、ざぶざぶ渡って、一段踏んで
上ると、片側が蘆の茂りで。」
「透かした
前途に、蘆の葉に
搦んで、
一条白い物がすっと
懸った。――穂か、いやいや、変に
仇光りのする様子が水らしい、水だと無駄です。
(ここにいらっしゃい。)
と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、
跳越え、跳越え、倒れかかる
蘆を
薙立てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、
落胆した。線路から眺めて
水浸の田は、ここだろう。……
が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに
汐が上げているんだから流れはせん。薄い
水溜だ、と試みに
遣ってみると、ほんの
踵まで、で、下は草です。結句、
泥濘を
辷るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや
夥しい、
畦が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。
早や暗くなって、この
田圃にただ一人の
筈の、あの人の影が見えない。
浜で
手鍋の時なんかは、調子に乗って、
(お房さん。)
と呼んだりしたが、もう
真になって、
(
夫人!)
と慌てて呼んだ。
(はーい。)と云う、
厭に寂しい。
声を便りに
駈戻って、蘆がくれなのを勇んで誘い、
(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)
誰も落着いてはいないのを、
汝が
周章てて
捲立てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。
路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の
真中へ立った姿で、何だか幻の中を
行く、天の川でも渡るようで、その時ふとまた
美い色が、薄濁った水に映った――」
小松原は歯を
噛んで言渋ったが、
(
先方でも、手を出した……それを
曳こうと思った時……
私はぎょっとした。
つい目の前を、足に
絡んだ水よりは色の濃い、重っくるしい
底力のあるのが、一筋、
褐色の
鱗を立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形が
顕れたんだ。
ここに、ちょいとした橋があるんだが、その
勢だからもう
不可い。水の上で持上って、だぶりだぶりと
煽を打つと、蘆がまた根から穂を振って、
光来々々を
極めてるなんざ、
情なかろうではないか。
しかも幅一間とは無いんだよ。
(
不可ないのねえ。)
(駄目です、)
と言ったきり。だって
口惜しかろう。その川
一条の
前途は、麗々と土が出て、
薄りと霧が
這って、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらく
睨み詰めて立っていた。」
医師はむくむくと起きて、
平胡坐で、枕を
頤に
突支って、
「いや、散々、散々、お察し申すな。」
「ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその
橋向へ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。
吠える、吠える! うう、と
唸る、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまで
凄かった。
(あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。)
と
低声で、あの人が言う。
(なぜ。)
と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと
歩行き出した。
現在犬に
怪まれているんです……漁師村を
表に、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。
が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、
(一奮発
遣附けましょう。)
と
勇が出た。」
「その努力で、蘆の中だけは
潜り抜けて、
旧の方へ引返したが、もう、暗くなって、足許は分らないで、踏むほどの場所がざぶざぶする、じょろじょろ聞える、ざんざという。田だか
畦だか
覚束なく、目印ともなろうという、雑木や、川柳の生えた処は、川筋だから
轟と鳴る、心細さといったら。
川筋さえ
[#「さえ」は底本では「さへ」]避けて通れば、用水に落込む事はなかったのだが、そうこうする内、ただその
飛々の黒い影も見えなくなって、後は
水田の
暗夜になった。
時に……
急ったせいか、私の方が
真先に二度
辷った、ドンと手を突いてね、はっと起上る、と一のめりに見事に
這った。
(あれ、お危い。)
と云う人を、こっちが、
(お気を
注けなさらないと、)
この通り、ト仕方で見せて、だらしなく
起つ拍子に、あの人もずるりと足を取られた音で、あとは
黙然、そら
解がしたと見える、ぐい、ぐい帯を上げてるが陰気に聞えた。
気が付いて、
(
穿物を持って上げましょう、)
と注意すると、
(はい、いいえ、
可うござんす。)
と云ったが、しばらくして、
(流れてしまったようですよ。)
成程、
畦の
切口らしい、どっと落ちるんだ。
(飛んだ事をなさいました。)
(いいえ、どうせ荷厄介なんですもの。さあ、参りましょう。)
愚図々々していたので、
(
可いんですよ、構やしない。)
とそれでも笑った。この方が私よりまだ元気が
可い。が、私が
猶予ったのは、駒下駄に、未練なものか。自分のなんざいつの昔
失くなしている。――実はどちらへ踏出して可いか、方角が分らんのです。もっとも線路の見当は
大概に着いてたけれども、
踏処が悪いと水田へ
陥る。
果して遣った! 意地にも立ったきりじゃ居られなくなって、ままよ、と
胆を据えて、つかつかと出ようとすると、見事に膝まで
突込んだ。
(あっ、)と抜こうとして、畦へ腰を突いたっけ、木曾殿落馬です。
お察し下さい、今でこそ話すが、こりゃ
冥土へ来たのかと思った。あの
広場を手探りでどうするもんかね。……
背後の
足弱が段々
呼吸づかいが荒くなってね、とうとう、
(ちっと休みましょう。)
と言い出した
[#「言い出した」は底本では「言ひ出した」]。雪路以上、随分へとへとに
揉抜いたから。
私は
凭懸るものもなく、ぼんやり
暗の中に立ったがね、あの人は、と思うと、目の下に、黒髪が
俤立つ。
(腰を掛けたんですか。)
(ええ、)と云う。
(濡れていましょう。)
(ええ、何ですか、瀬戸物の
欠がざくざくして、)
私は
肚胸を突いたんだ。
(
不可い!
貴女、そりゃ
塵塚だ。)
と云う内にも、
襤褸切や、
爪の皮、ボオル箱の壊れたのはまだしもで、いやどうも、言おうようのない
芥が目に浮ぶ。
(でも水の上よりは
増ですわ。)
と
断念めたように、何の不足もないらしくさっぱりと言われたので、死なば
諸ともだ、と私もどっかり腰を落した。むっくり持上って、跡は冷たい。犬の死骸じゃなかろうかと、
摺抜けようとしたけれども、
頬擦るばかりの
鬢の
薫に。……
ここで、
真に相済まない、余計な処へ誘ったばかりで、何とも飛んだ目にお逢わせ申す、さぞ
身体に触りましょう、汚させ、濡れさせ、
跣足にさせ、夜露に打たせて……
羅綾にも堪えない
身体を、と言おうとして、言いようがないから、
(荒い風にもお当りなさらない。)
とヘマを言って、ああ
厭味だと思って、冷汗を
掻いた処を、
(お人が悪いよ、子持だと思って、)
これにまたヒヤリとしたように覚えている。」
「それと同時に
小児の事が気になって……言い出すと、女中ともう寝たろう。で、大して心配もしない様子、成程寝る時刻、九時ちと過ぎたかも知れない。汽車が二三度
上下した。
この汽車だが……
果しの知れない
暗闇の
広野――とてもその時の心持が、隅々まで人間の手の行届いた田圃とは思われない、野原か、底知れぬ穴の中途――その頼りなさも、汽車の通るのが、人里に近くって嬉しかった。それが――後には
可悪い
偉大な
獣が、
焔を吹いて
唸って来るか、と
身震をするまでに、なってしまった。
第一、足の出しようがない。それに……
もうこう
夜も遅くなっては、何事もなく無事に家に帰るとして、ただ二人で今までなんだから、女中はじめ変に思おう。特に出征中の軍人の夫人だ。そうでもない、世間じゃ余計な
風説をしている折からだから
憂慮わしい。
(どうでしょう。)
と甚だ言兼ねた事ではあったが、既に――人が見ては悪いわ――と言ってくれた人だから、こう聞いた。が、その実、いいえ、人は何とも思うまい、とこの人だけに、心配をせずに居ようと期したんだ。するとちと案外で、
(さあ、私もそれが気になります。)
返事がこれで。何とも言いようがなくって
溜息が出た。あの人もほっと言う。話だけは色めかしい中に、何ともお話にならん事は、腹が、ぐうと鳴る、ああ、
情ない何事だろう、と気にするほど、ぐうぐういう。
あの人にも聞えたか。
(お腹が空いたでしょうね。)
と来たのにゃ、
赫としたよ、但しそういう方も晩飯前です。……
詮方がない、大声を揚げて見ようかとも言い出したが、こりゃ直ぐに差留められた。勿論、お
怒鳴んなさいと命令をされたって、こいつばかりは、死んでもあやまる。早い話が、何と云って
救を呼びます、助船でもないだろう、人殺し……
串戯じゃない。」
医師は聞く
中にも笑出した。
言うものも釣込まれたが、
「今こそ苦笑いも出るけれど、……実際だ、腹のぐうぐう鳴った時は、我ながら人間が求める糧は、なぜこう浅間しい物だろうと
熟々思った。
ところで……
じゃ、何を便りに塵塚に腰を抜いていたか、と言うに、ここも
娑婆だから、その内には、月が出ようと空頼み、あの人も恐らくそうででもあったろう、もっとも何かの拍子に、
(戦争に行っている方の事を思えば、こうやって一晩ぐらい、)
とは言ったがね。まさか
夜の明けるまでそうして居られるものとは思うまい。
糠雨が降って来たもの。その
天窓から顔へかかるのが、塵塚から何か出て、冷い舌の先で
嘗めるようです。
水の音は次第々々に、あるいは
嘲り、あるいは
罵り、中にゃ
独言を云うのも交って、人を憤り世を
呪詛った声で、見ろ、見ろ、
汝等、
水源の秘密を解せず、
灌漑の恩を謝せず、名を知らず、水らしい水とも思わぬこの
細流の
威力を見よと、流れ廻り、
駈け
繞って、
黒白も
分ぬ真の
闇夜を
縦に
蹂躪る。と時々どどどと勝誇って、
躍上る
気勢がする。
その流れるに従うて、我が血を絞り出されるようで、堪え難い。
次第に雨が
溜るのか、水が
殖えたか、投出してる
足許へ、縮めて見ても
流が出来て、ちょろちょろと
搦みつくと、袖が板のように重くなって、塵塚に、ばしゃばしゃと
沫が
掛る、
雫が落ちる。
地鳴が
轟として、ぱっと
一条の
焔を吐くと、峰の松が、
颯とその中に映って、三丈ばかりの
真黒な
面が出た、
真正面へ、はた、と留まったように見えて、ふっと尾が消える。
下りの
終汽車らしい、と思った時、
(あ
痛、
痛。)
はっと擦寄ると、あの人がぶるぶる震えて、
(胸が。)と云う、歯の根が合わない。
(冷えたんです。)
と言いながら、私もわなわなし出した。」
「一生懸命の声をして、
(さ、お
掴んなさい。)
とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝を
掴んだが、苦痛を堪える
恐い力が入って、
痺れるばかり。
(しっかり……しっかりして下さいよ。)
背中を
擦ろうとした手が
辷って、ひやひやと
後毛を
潜って、柔かな襟脚に
障ったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。
その時ふっとまた、
褄の水に映るのが、
薄彩色して目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!
膝に倒れたのは、あの人だ。
私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。
(我慢なさい。こんな事をしていちゃ、
生命にも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず
駈出して行って支度して
迎に来ます。)
と声も震えながら云うと、
(一人で、どうして居られましょう、一所に。)
ッて、ぐいと
袂に
掴まったが、絞ると見えて水が垂った。
(田も
畦も構わない、一文字に駈け抜けるんです、
怪我があると
不可ません。)
(
可いの、
貴下、
婦は最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!)
と
縋った手を、しっかりと取合った。
(じゃ、悪魔に
攫われたと、
断念めて、目を
瞑って、覚悟をして……)
(は、瞑りました。)
と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。」
と、小松原は
拳を握った手首をかえして、目を
圧えて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。
「考えて見れば怪しい。
はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦に
踞んでるにも当らず。不断見れば
掌ほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものに
弄ばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に
恍惚となると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。
畢竟ずるに、言訳沢山の恋かも知れん。
その罰です。
後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を
曳合って
駈出した処を、あっと云う間もなく、
終汽車で
刎飛ばされた。
気が付いた時は、
真蒼な何かの
灯で、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、
衣を脱がしてあった。ただ
一束ねの
滑かな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳の
辺に血が
染んだ、――この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。
君も知ってる、
生命は、あの人も助かったんだが、その
後影を隠してしまって、いまだに
杳として消息がない。
これが
風説の心中
仕損。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても
自然から明りは立つ。面と向って
汝が、と云うものがないのは、君が何にも言わないと
同一なんだ。
お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄まして
活きているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。――ただもう一度逢いたいよ。」
と
団扇を膝につくと、額を暗うした。
医師は黙っている。
「しかし、」
と、小松原が額を上げた。
「未練だね。世間じゃ、誰もあの人が
活きているとは思わない。私だって、実際
生存えていようとは考えないが、随分その当時、表向きに騒いで、
捜索もしたもんだけれども、それらしい死骸も見附からないで、今まで
過去ったんだ。だから、もしやが頼まれる……
それかって、今ここに、君の内にその人が居るから逢え、と云われたって逢われるわけでもないんだが。」
「しかし逢いたいんだ?」
と
医師は笑いながら口を入れた。
「…………」
「成程、そこで
魘されたんだ。その令夫人に魘されたのは、かえって望む処かも知れんが、あとの泥水は
厭だったろう、全く気の精だな。
遁出したも
道理だ。よく、あの板廊下が鉄道の線路に化けなかった。」
「時に、」
小松原は、気が着いたらしく
更まって、
「あの、白骨だがね、」
と皆まで言わせず、手を
掉って、
「大丈夫、その令夫人の骨じゃない。」
「骨じゃない、」
と
鸚鵡返しで、
「けれども、
婦のだと言うじゃないか。何年
経ったんだか、幾十年過ぎたんだか、知れないが、婦には変りはなかろう。骨になっても小町は小町だ。
婦が、あの姿を人目に
曝されたら、どんな心持だと思います――君にこんな事を云うのは、解剖室で
命乞をするようなものだが、たとい骨でも、
一室に泊り合わせたのは、免れない縁だと思う。見えん処へ隠してくれんか。――私はもう、あの人が田圃で濡れた時の事を思っても、
悚然とする。どうだね、
可哀想だとは思わないかね。」
「そうさな。まさか私だって、縁日の売薬みたいに、あれを看板に懸けちゃ置かん、骨を拾った気なんだから、何も品物を
惜みはせんが、
打棄っておきたまえ。そんな事を気にするのは
宜くないから
止したが
可かろう。」
「
貴郎、」
と優しい声がしたので、小松原は身を縮めて、次の
室の暗い中を透かした。暑いので
襖は無いが、蚊帳が重ねて釣ってある。その
中に、浴衣の模様が、蝶々のように
掠れて見えたは細君で、しかも坐って、
紅麻に
裳を寄せ、端近う坐っていた。
「何だ、起きていたのか。」
「はい、つい、あのお話しに
聞惚れまして、」
と云うのに、しんみりと涙が
籠る。
「どうも、」
とばかりで、小松原は額を
圧えた。
医師は事も無げに、
「聞いたのは構わんよ、沢山泣いて上げろ。だが、そこらへ
溢しちゃ
不可んぜ、水が出ると大変だ。」
「あれ、
可厭な。」
「馬鹿だな、臆病。」
「だって、」
と蚊帳の裾を
引被ぐ、
腕が白く、
扱帯の
紅が透いた時、わっと
小児が泣いたので、
「おお。」
と云って
添臥したが、二人も黙る内、すやすやとまた寝入った。
「ねえ、
貴郎、そうして、小松原さんのおっしゃる通りになさいよ。何だか
可恐いんですもの。」
と
弄かうごとく、団扇を膝でくるりと
遣る。
「いいえ、ですがね、あの
御骨……」
「ちょっと待て、御骨は気になる。はははは。」
「御免なさいましよ。」
と客に云って、細君は、
小児に
添乳の胸白く、
掻巻長う、半ば起きて、
「
串戯ではなくってよ。
貴郎が持って来て、あそこへ据えてから、玄関の
方なんぞも、この間中
種々な事を言ってるんですよ。
話声がするの、
跫音が聞えるのって――大方女中なんかを
徒に
威すんだろうと思って、気にもしないでいましたけれども、今のお話の様子だと、何だか、どうとも言えませんわ。」
「ねえ、小松原さん、」
とぼかしたような顔が、蚊帳の中で
朧に動いて、
「あの
御骨だって、水に縁があるんですもの。」
「婦女子の言です。」
と
医師は横を向く。小松原は、片手を敷布の上、
隣室へ
摺寄る身構えで、
「水に縁と……
仰有ると?」
「あれは
貴下、何ですわ、つい近い頃、
夫が拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、
旧あった処は沼なんですって。」
「沼!」
「おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。
鯰に網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、
掬上げるもんか。」
「だって、そりゃ沼からじゃありますまいけれど、梅雨あけに水が
殖えたので、底から
流出したんだろうッて、
貴郎がそう言っていらしったではありませんか。――小松原さん、この梅雨あけにも田圃へ水が出ましてね、
先刻おっしゃいました、踏切の前の橋も落ちたんですよ。
蒼沼が
溢れたんですって、田圃の用水は、
皆そこから来るんだって申します……
その近処の病家へ
行きました時に、
其家の作男が、沼を通りがかりに見て来たって、話したもんですから、
夫が
貴下、
好事にその男を連れて帰りがけに、
廻道をして、内の
車夫に手伝わして、拾って来たんですわ。
御骨は、沼の縁に
柔な泥の中にありましたって、どこも不足しないで、手足も頭も
繋って、膝を
屈めるようにしていたんだそうです。」
「
妄誕臆説!」
と
称えて、肩を一つ団扇で
敲く。
「臆説って、
貴下がお話しなすった癖に。そうしてこう骨になってから、全体
具っているのは、何でも非常な
別嬪に違いない。何骨とか言って、仏家では
菩薩の化身とさえしてある。……第一膝を折った
身躾の
可い処を見ろッて、さんざん効能を言ったではありませんか。」
と、もう
小児も寝たので、掻巻からするりと出て褄を合わせる。
医師喟然として、
「
宜しく頼む。あとは君にまかせるから、二人して、あの骨をその人だとでも何とでも
御意なさい、こちらへ来て講中にならんか。」
と笑いながら、むずと蚊帳を出て、廊下へ
寝衣で
突立った。
が横向に隣を見て、
「何だ、お前も
手水か。馬鹿な、今の話しで不気味だからって。お客様の居る処を、連立って便所へ行く奴があるかい。」
と言う。
小松原が、ト
透すと、
二重遮って
仄ではあるが、細君は蚊帳の中を動かずにいたのである。
「
貴郎、」
とこの時、細君の声は、果せる
哉、
太く震えて、
「貴郎……」
「うむ、」
小松原も蚊帳の中に
悚然として、
「酒田。」
と変な声をする。
「誰か居ますか。」
「おお……」
と
医師は、
蹌踉けたように、雨戸を
背に、
此方を向き替え、斜めに
隣室の蚊帳を
覗いた。
「私はここに居ますんですよ。」
「誰だ、今のは?」
うっかり
医師が言うや否や……
「
厭……」
と立って、ふらふらと、浅黄に白地で蚊帳を
潜ると、
裙と裙とにばっと挟まる、と
蜘蛛の巣に
掛ったように見えたが、一つ
煽って、すッと
痩せたようになって、
此方の蚊帳へ――廊下に事はあるものを、夫を力にそこへは出られぬ――腰を細く、乗るばかり、胸に
縋った手が白く、小松原の膝にしがみついた。
――この
状を……後に、医学士が人に語る。――
「
蒼沼の水は
可恐しい、人をして不倫の恋をなさしむるかと、私は
嫉もうとした。」
その時
医師は肩を
昂げて、
「雨かな。」
と
仰向けになったが、また、
俯向いて胸を払った。
「何だ、廊下は水だらけだ。」
細君は何にも言わぬ。小松原も
居窘まって、
忙しく息をするばかり。
鶏が鳴いたので、やっと細君が顔を上げたが、廊下に
突立った夫を見た時、聞耳を立てて、
「何です……がたがた、がたがた言って、」
小松原が、
「あ、」
「あれか、」
と
医師もそこで聞取った。
「酒田……
先刻のも、」
「むむ、診察処だ。」
「あれえ。」
「開けて見ると何にも居ないのだ。が、待てよ。」
と言って、蚊帳の
周囲をぐるりと半分、床の間をがたりと
遣ると、何か
提げた、その一腰、片手に
洋燈を
翳したので、
黒塗の
鞘が、袖をせめて、つらりと光った。
「危い、
貴郎、」
「大丈夫だ。」
「いいえ、」
細君は一声、誰かを呼んで、
「玄関の方を起して下さい、正吉――」
もう
医師の姿はなかった。
ばたん、と
扉の
開いた音。
二人が揃って、蚊帳の中を廊下際で、並んで雨宿りをする姿で立った処へ、今度は
静に悠々と取って返す。
「どうした。」
「
鼈だ。」
「え。」
「鼈が
三個よ。」
「どこに、ですえ。」
と細君は歯の音も合わぬ。
医師は真面目な顔して、
「場所はちと悪い、白いものの前だ。」
「あれ。」
「さぞまた蒼沼から、
迎に来たと言うだろうなあ。」
と雨戸を一枚、
颯と風が入って、
押伏せて、そこに置いた
洋燈が消えた。
が、鶏がまた鳴いて、台所で誰か起きた。
白骨が
旧の沼へと立返ることになって、この使者は、言うまでもなく小松原が望んで出た。
一夜の
縁のみならず、そこは、自分とあの人とがために浮名を流した、浜田の水の
源ぞと聞くからに、顔を知らぬ
許婚に初めて逢いに
行く気もすれば、神仙の園へ招待されたようでもあって、いざ、
立出づる門口から、早や天の一方に、蒼沼の名にし負う、緑の池の水の色、峰続きの松の
梢に、
髣髴として
瑠璃を
湛える。
その心は色に出て、
医師は小松原一人は遣らなかった。道しるべかたがた、
介添に附いたのは、正吉と云う
壮い車夫。
国手お抱えの車夫とあると、ちょいと聞きには
侠勇らしいが、いや、山育ちの
自然生、大の浄土宗。
お萩が
好の酒嫌いで、地震の歌の、六ツ八ツならば
大風から、七ツ
金ぞと五水りょうあれ、を心得て口癖にする。
豪いのは、旅の
修行者の
直伝とあって、『
姑蘇啄麻耶啄』と
呪して
疣黒子を抜くという、使いがらもって来いの人物。
これが、例の戸棚掛の
白布を、直ぐに使って一包み、昨夜の一刀を上に
載せて、も一つ白布で本包みにしたのを、薄々沙汰は知っていながら、信心堅固で、
怯気ともしないで、一件を小脇に抱える。
この腰の物は、
魔除けに、と云う細君の
心添で。細君は、白骨も戻すと
極り、夜が明けると、ぱっと朝露に開いた風情に元気になって、洗面の世話をしながら、縁側で、向うの峰を見て顔を洗う小松原に、
「昨晩はお
楽み……なぜって。まあ、憎らしい。奥さんが逢いにいらっしゃったではありませんか。」
など遣ったものだが、あえてこれは
冷評したのではない。その証拠には、小松原と一足
違に内を出て、
女子扇と御経料を帯に挟んで、じりじりと蝉の鳴く路を、
某寺へ。供養のため――
「沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。」
と正吉が言う処を、立直って見れば、村の
故道を横へ切れる細い路。次第
高の棚田に
架って、峰からなぞえに
此方へ低い。田の青さと、茂った
樹立の間を透いて、
六月の空は
藍よりも
蒼く、日は海の方へ廻って、
背後から
赫と当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。
三方、山の尾が迫った、一方は
大なる
楓の
梢へ、青田の波が越すばかり。それから
青芒の線を
延して、左へ離れた一方に、
一叢立の
藪があって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと
揺出し、揺出す。その上に、
萱で包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿の
彳んだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、
颯と黒髪を
捌いたごとく、
梢が乱れ、根が茂る。
路はその雑木の中に出つ
入りつ、糸を引いて
枝折にした形に入る……赤土の
隙間なく、
凹に蔭ある、樹の
下闇の
鰭爪の跡、馬は節々通うらしいが、処がら、
竜の
鱗を踏むと思えば、
鼈の
足痕を
辿るよとも疑われた。
次第に山の裾を分け上ると、
件の楓を左の方に低く
視めて、右へ
折曲ってもう
一谷戸、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、
山懐の土が崩れて、目の下の田までは落ちず、
径の端に、抜けた岩ごと泥が
堆かった。
「沼はこの先でがんす。」
と正吉は
前へ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞ
頷かるる。
「梅雨あけに、
医師と、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。
腕車もはい、
持立てるようにしてここまでは
曳いて来ただが、
前あ
挺でも動きましねえでね。」
と言う。
このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。
何、正体を見れば、閑古鳥にしろ、
直そこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を
掻込んだのが、けろりとした目で、
閑に
任かして、退屈まぎれに
独言を言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中の
蟻までが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、
喨々として調べ
奏でる。
……きょ、きょら、くらら、くららっ!
と転がして、
発奮みかかって、ちょいと留めて、一つ
撓めておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴が
谺に響く。
小松原は、魂を取って
扱かれるほど、ひしひしと身に
堪え、
「……京から、今日ら……来るか、来るか!」
と言われるようで、
「来ました、東京から今日来ましたよ。」
と胸の
裡で言った。
その蒼沼は……
小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、
対岸へ山の
青簾、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風が
面を打って、
爪先寒う
湛えたのである。
水の
面は秋の空、
汀に蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、
二葉三葉折れながら葉ばかりの
菖蒲の伸びた蔭は、どんよりと白い。
木の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと
蓴菜の
蔓が、水筋を
這い廻る――空は、と見ると、
覆かかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、
遠方は遠方なりに遮って、池の
周囲と同じ程より、多くは
天を余さぬから、
押包んだ山の緑に
藍を
累ねて、日なく月なく星もなく、
倒に沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となく
涸れて
荒びて、
主やあらん、その、主の留守の物寂しい。
濃い緑の雑樹の中へも、枝なりにひらひらと日の光が
折込んで、
縁を浅黄に、
木の葉を照らす。この影に、人は
蒼白く一息した。
なぜか、
葬礼の式に
列ったようで、二人とも多く口数も利かなかったが、やがて
煙草も
喫まないで、小松原は
踞った正吉を顧みて、
「どこで拾ったね。」
「やあ、それだがね……
先刻から気い付けるだか、どうも勝手が違ったぞよ。たしか、そこだっけと勘考します、それ、その隅っこの、こんもり
高な
処さ、見さっせいまし、
己あ
押魂消ただ。その節あんな
芭蕉はなかっけ。」
と言う。
目覚しいのは、そこに生えた、森を
欺くような水芭蕉で、沼の片隅から
真蒼な柱を立てて、峰を割り空を裂いて、ばさばさと影を落す。ものの十丈もあろうと見えて、あたかもこの蒼沼に
颯と
萌黄の
窓帷を掛けて、
倒に
裾を開いたような、沼の名は、あるいはこれあるがためかとも思われた。
正吉が知らずと云う、梅雨あけの頃は、まだ丈伸びぬ時節であるから、今日見付けたのを、
訝しむ
仔細は無い。
さて、家を出る時から、拾った場所へ
旧の通り差置こうというではなく、ともあれ、沼の底へ葬り返そうとしたのであるが、いざ、となると
汀が浅い、ト白骨は
肋の数も隠されず、蝶々
蜻蛉の影はよし、鳥の
糞にも
汚されよう。勢い諸手高く
差翳して、えい! と中心へ投込まねばならぬとなった。
「そんな事が出来るものか。」
と小松原が
猶予うと、
「成程、へい、手荒だね。」
と正吉さえ
頷くのである。
ここで、小松原が心着いたのは、その芭蕉で……
「まあ、それを解け。」
と手伝って、上包の
結目を解くと、ずしりと
圧にある刀を取ったが、そのまま、するりと抜きかける。――
虹のごとく、葉を漏る日の光に輝くや否や、
「わッ!」
と正吉が
飛退った。途端に
白布の包は、草に乗って一つ動く。
「
旦那、気イ
確に持たっせえ。」
昨夜からの小松原の
容子は、まったく人目には変だった。これは気が違った、と慌てたらしい。
やがて
孫呉空が雲の上を
曳々声で
引背負ったほどな芭蕉を一枚、ずるずると切出すと、
芬と
真蒼な
香が樹の中に
籠って、草の上を引いて来たが――全身
引くるまって乗っかった程に
大いのである。
小松原は
莞爾々々しながら、
「さあ、これへ乗せよう。」
まざまざと見るには堪えぬから、その布で包んだまま、ただ結目を解いただけで、
密と取って、骨を広葉の
只中へ。
葉先を
汀へ、
蘆摺れに水へ離せば、ざわざわと音がして、ずるりと
辷る、柄を向うへ……
「
南無阿弥陀 南無阿弥陀。」
と殊勝に正吉が、せめ念仏で畳掛けるに連れて、裂目が
鰭のように水を
捌いて
行く、と
小波が立って、後を送って、やがて沼の中ばに、
静と留まる。
そのまま葉が垂れると、
縋りつく
状に、きらきらと水が乗る、と解けるともなしに柔かに、ほろほろと布が
弛んで、細長い包みの裾が、ふッくりと胸になり、
婦が
臥した姿になる。
思出して、はっと目を
塞いだが、やがて見れば、もう沈んだ。
途端に、ざらざらと樹が鳴って、風が走る。そよ風が小波立てて、沼の上を
千条百条網の目を絞って掛寄せ掛寄せ、沈んだ跡へ
揺かけると、水鳥が
衝と
蹴たごとく、芭蕉の広葉は向うの
汀へ、するすると小さく片寄る。
……きょ、きょら、きょきょら、くららっ!……
と、しばらくはただ鳥の声。
熟と沼の
面を見ていると、どこかに、その人の顔がある。が、水の
皺が
揺っては消し
揺っては消す――そうかと思うと、その水紋の
揺めく綾が、ちらちらと目になって、瞳が流るるようでもある。ソレ鼻、ソレ口、と思う処が、ふらふらと浮いて来ては、
仰向けに沈んで消える。もうちっとで、もうちっとで……と乗出すけれども、もうちっとで
絡らない。
急って、

いて、立ったり居たり、
汀もそちこち、場所を変えてうろついて見込んだが、ふと心づいて

せば、早や何が
染るでもなく、緑は緑、青は青で、樹の間は
薄暮合。
「旦那もう晩方だよ。」
と云って、正吉が帰途を促がしたのは余程の
前で、それを、無理遣りに一人帰してからさえ、早や久しい。
独になって、思うさま、胸にたたんだ空想に
耽ろうと、待構えたのはこれからと、まず、ゆっくり腰を
卸して、
衣紋まで直して、それから横になって見たり、起返って見たり。
とかくして沼の中を、身動きもしないで
覗込んだ……
あわれ水よ、
偉なる宇宙を三分して、その一を有する
汝、瀬となり、滝となり、
淵となり、
目のあたり我が怪しき恋となりぬ。
いで、霧となって
虹を放ち、露と凝って珠ともなる。ここに白骨を包んでは、その雪のごとき
膚とならずや、あの濡れたような瞳とならずや。
と思い思う、まさしく、そこに、
水底へ、意中の夫人が、黒髪長くかかって見ゆる。
見ようとすると、水が動く。いや、いや、我が心の動くために、人の姿が散るのであろう。
胸を打って、襟を
掴んで、
咽喉をせめて、思いを
一処に凝らそうとすれば、なおぞ、
千々に乱れる、砕ける。いっそ諸共に水底へ。
が、
確にその人が居ようか怪しい。……いや、まさしく、そこに、いまし葬った骨がある。骨は
確に……確に骨は、夫人がここに身を投じて、朽ちず、消えず、砕けぬ――白き
珊瑚の玉なす枝を、我がために残したことは、人にこそ言わね、
昨夜より我は信じて疑わぬ。
何が不足で一所に死ねぬ――
「その肉身か。」
と
己が
頭髪を
掴んで、宙に下がるばかり
突立った。
「
卑怯だ、
此奴!
始からそれは求めぬ
誓であった。またそれを求むる位なら、なぜ、行方も知れず
捉うる影なきその人を、かくまで慕う。忘れられぬはその
霊であろう。……その霊は、そこにある、現在骨まである。何が、何が不足で飛込めない。
肉身か、あるいはそれもある。沼の水は、すなわち骨を包む
膚、
溺れて水を吸うは、なおその人の唇に触れるに
違わん!」
入れ、入れ、入れ、さあさあさあさあ、と水が引き引き、ざわざわと
蘆を誘って、沼の
真中へ引寄せる。
小松原は立ったまま
地
を踏んだが、
「ええ!
腑効ない。」
どっかり草へ。
蘆の
葉末に水を
載せて、昼の月の浮いて映るがごとく、沼のそこに、
腕か、肩か、胸か、乳か、白々と
漾い居る。
ソレソレ手に取るばかり、その人が、と思いながら、投出して見ても足がまだ水へは
達かぬ。
何をか疑い、何をか
猶予う。
余の事に、ここへ来るは今日には限らないと思切って、はじめて
悚然として、帰ろうとして、骨を送った船の
漾う処を
視むれば、四五本打った、
杭の根に
留ったが、その杭から、
友染の
切を流した風情で、
黄昏を
翡翠が一羽。
それをこう
視めた時、いつもとろとろと、眠りかけの、あの草の上、樹の下に、
美い色の水を見る、描いたるごとき
夢幻の境、前世か、後世か、ある処の一面の絵の景色が、
彩色した影のごとくに
浮んだので、ああ、このままここへ寝るかも知れない。
それも
可、ままよ、なるようになれとなった。……
その内に、
翡翠の背らしいのが、向うで、ぼっと大きくなり、従って
輪郭は
朧になったが、大きくなったのは近づくので、朧になるのは、山から沼の上を
暮増るのである。その暮れるのと、来かかるのとが、
蘆の
汀を段々伝いに、そよそよと風に、
背後を、吹かれ、送られ、近づいて、何の
跫音も聞えなかったが、
上からか
下からか、小松原の目に、
婦の色ある
衣の
裙が見えて、
傍に来て、しっとり
留る。……
「奥さん。」
と、我知らず叫んだが、はっと気が附いても枕はしていず、この時は、診察室の
寝台でなかった。そこで、
「…………」
誰かが何か言う。ただ
赫として、初手のは分らなかった。瞳を凝らして、そのすっと通った鼻筋と、
睫毛が黒く下向にそこに
彳んだのを
見出した時、
「立二さん。」
と胸を抱いた手が白く、よくは分らぬけれども、着たものの柄にも因るか、しばらくの間に、やや
太肉だった人が、げっそりと
痩せて小さくなった。
「おお!」
とばかりで、肩で
呼吸して、草に
胡坐したまま、
己が膝を
引掴んで、せいせい言って唇を震わす。
上では、
俯向きさまに、髪が揺れたが、唇の色が燃え、得も言われぬ
微笑みして、
「変った処で……あんまりだから、お化だと思うでしょう。」
と相変らずしとやかなものの言いよう
哉。
それどころか、お化……なら、お化で、またその人ならその人で、言いたいことが一切経、ありったけの本箱を
引くり返したのと、知っただけの
言を
大絡にしたのが、
一斉に胸へ込上げて、
咽喉で
支えて、ぎゅうとも言えず、口は
開かずに、目は動く。
「それでも、」
と
鬢へちょいと手を
遣ったが、
櫛、
笄、
簪、リボン、一ツもそんなものは目に入らなかった。
「まさか、墓へは連れて
行かないから、私の
許へ御一所に。」
指して、指の先で、男が
只瞻りに瞻った瞳を、沼の片隅に墨で
築いた芭蕉の蔭へ、触って瞬かせるまで、動かさせて、
「あすこを通って、
岨伝いに出られる里。……立さん、そんなに
吃驚なさらないでも、
貴下が昨日、お
医師様の
許へおいでなすった事は、私もう知っています。
いつかの時の
怪我でねえ、まだ時々、時候の変り目に悩みますから、梅雨時分、あのお医師様にお世話になったの、……私のね、今隠れている百姓屋へ来て貰って……
立さんが、
先刻葬式にいらしった、この沼の白骨も、その時私の許で聞いて、あの方がここへ来て拾って行ったんです。
この頃、また、ちっと
塩梅が悪いので、
医師へ通っていますから、今日こちらへお出でなさる事も、貴下がお出掛けの直ぐあとへ行って聞いて来ました。
先刻から、あちこちで、様子を見ていましたけれども、
傍に人が居るから、見られるのが
可厭で来ませんでしたよ。
さあ、いらっしゃい。」
「……参ります!」
とだけは決然として
気競って云ったが、膝が
萎えて、がくついて、ついした事には
行かないで、
「貴女、貴女、」
とばかり言う。
「まあ、何にもおっしゃらないで。何事も、あの、内へ行ってから、ゆっくりお話をしましょうね。」
と軽く
頷く、頬がつくと、襟の処が薄く曇って、きらきらと露が落ちた。
その涙を払う
状に、
四辺を見つつ、
「御覧なさい、
可厭な。どこより
前に、沼の上が暗くなりました。これが、あの田の水の
源なんですもの。またいつかの時のような事があっては悪い。」
と調子はおっとり聞こえたが、これを耳にすると
斉しく、立二は
焼火箸を
嚥んだように
突立った。
ト、
佳い
薫が、すっと横を抜けて通って、そのまま後姿で前へ立って、尋常に
汀を
行く。……お太鼓の帯腰が、弱々と、空から釣ったように、軽く、且つ薄い。
そこへ、はらはらとかかる
白絽の
袂に、魂を結びつけられたか、と思うと、
筋骨のこんがらかって、
捌のつかないほど、
揉み立てられた
身体が、自然に
歩行く。……足はどこを踏んだか覚えなし。
しばらく
行くと、その人が、
偶と
立停って、弱腰を
捻じて、肩へ、横顔で見返って、
「気をつけて頂戴、沼の切れ目よ。」
と案内する……処に……丸木橋が、
斧の柄の朽ちた
体に、ほろりと中絶えがして
折込んだ上を、水が糸のように浅く走って、おのれ、化ける水の癖に、ちょろちょろと
可憐やか。ここには葉ばかりでなく、
後れ
咲か、返り花が、月に咲いたる風情を見よ、と紫の霧を吐いて、
杜若が二三輪、ぱっと
花弁を向けた。その山の
端に月が出た。
「今夜は私が、」
すっと
跨ぐ、色が、紫に奪われて、杜若に
裙が消えたが、花から抜ける
捌いた
裳が、橋の向うで
納まると、直ぐに
此方へ向替えて、
「手を引いて上げましょう。」
嫋娜に出されたので、ついその、
伸せば
達く、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、
可懐い
薫に包まれた。
まだ耳の底に絶えなかった、あの、きょ、きょら、くらら鳥の声が、この時急に変った。野太く、図抜けた、ぼやっとした、のろまな、しかも悪く底響きのするのに変って、
……おのれら! おのれら!……
と鳴く。
ぎょっとして、仰いで見る、月影に、森なす
大芭蕉の葉の、沼の上へ
擢んでたのが、峰から
伸出いて
覗くかと、
頭に高う、さながら馬の
鬣のごとく、
譬えば長髪を乱した
体の、ばさとある
附元は、どうやら
痩こけた
蒼黒い、
尖った
頤らしくもある。
あれあれ裂けた処が、そっくり口で、
……おのれら!……
とまた鳴いた。その
体は……薄汚れた青竹の
太杖を突いて、
破目の目立つ、蒼黒い道服を
着に及んで、
丈高う
跳ばって、天上から
瞰下しながら、ひしゃげた腹から野良声を振絞って、道教うる仙人のように見えた。
その葉が大きく上にかぶさる、下に
彳んで
熟と見た、瞳が
霑んで
溜息して、
「立さん、立さん、」
と手を取ったまま、励ますように呼掛けて、
「憎らしいではありませんか。あの芭蕉が伸拡がって、沼の上へ
押覆さるもんですから、御覧なさい。
出汐をこうして隠すんですもの。空へ上れば峰へ
伸る、向うへかかれば海へ落ちて、いつ見ても、この水に、月の影が宿りません。
可哀相に。いつかの、あの時、月の影さえ見えたらばと、どんなに二人で祈ったでしょう。身につまされて涙が出る。まあ、この沼の暗いこと! 外は、あんなに月夜だのに。……」
翳せばその手に、山も峰も映りそう。遠い樹立は花かと散り、頬に影さす緑の葉は、一枚ごとに
黄金の
覆輪をかけたる色して、草の露と相照らす。……沼は、と見れば、ここからは一面の
琵琶を中空に据えたようで、
蘆の
葉摺れに、りんりんと鳴りそうながら、
一条白銀の糸も
掛らず、暗々として漆して鼠が
駈廻りそうである。
「
先刻、
貴下がなすったついでに、もうちっと切払って下されば
可かったのねえ。」
ただ
等閑に言い棄てたが、小松原は思わず
拳を握った。生れて
以来、かよわきこの
女性に対して、男性の意気と力をいまだかつて一たびもために
露わし得た
覚がない。
腑効なさもそのドン
詰に……
しゃ! 要こそあれ。
今も不思議に片手に持った、
鞘を棄てて、
提げて
衝と出たが、
屹と見上げて、
「おのれ!」
と
横薙、
刃が抜けると、そのもの、長髪をざっと
捌く。
驚破天窓から
押潰すよと、思うに
肖ず、
二丈ばかりの仙人先生、ぐしゃと
挫げて、ぴしゃりとのめずる。
これにぞ、気を得て、返す刀、列位の
黒道人に
切附けると、がさりと
葉尖から崩れて来て、蚊帳を畳んだように落ちる。同時に前へ壁を
築いて、すっくと立つ青仙人を、腰車に
斬って落す。
拝打、
輪切、
袈裟掛、はて、我ながら、気が
冴え、手が冴え、
白刃とともに、抜けつ
潜りつ、
刎越え、飛び交い、八面に渡って、
薙立て薙立て、切伏せると、ばさばさと倒れるごとに、およそ
一幅の黒い影が、山の腹へひらひらと映って、煙が分れたように消える、とそこだけ、はっと月が
射して、芭蕉のあとを、明るくなる。
果は丘のごとく、葉を
累ねた芭蕉の上に、全身緑の露を浴び、白刃に青き
雫を流して、
逆手に
支いてほっと息する。
褄取りながら、そこへ来て、その人が肩を並べた。
白刃を落して、その時
腕をさすって憩う、小松原の手を取って、
「ああ、嬉しい。」
と、山の
端出でたる月に向って、心ゆくばかり打仰いだ。
背撓み、胸の反るまで、影を飲み光を吸うよう、二つ三つ息を引くと、見る見る
衣の上へ
膚が透き、真白な
乳が膨らむは、輝く玉が入ると見えて、肩を伝い、
腕を
繞り、
遍く身内の血と一所に、月の光が行通れば、
晃々と
裳が揺れて、両の足の
爪先に、
美い
綾が立ち、月が
小波を渡るように、
滑かに
襞
を打った。
呀と思うと、自分の足は、草も土も踏んではおらず、沼の中なる水の上。
今はこうと、まだ消え果てぬ夫人に
縋ると、
靡くや黒髪、
溌と薫って、
冷く、
涼く、たらたらと腕に
掛る。
…………小松原は、
俯向けに蒼沼に落ちた処を、
帰宅のほどが遅いので、
医師が見せに
寄越した、正吉に救われた。
車夫は沼の隅の物音に、
提灯を差出したが、芭蕉の森に白刃が走る月影に
恐をなして、しばらく様子を見ていたと言う。
小松原が
恢復して、この話をした時、医学士は盃を挙げて言った。
「昔だと、仏門に
入る処だが、君は哲学を
学っとる人だから、それにも及ぶまい。しかし、蒼沼は
可怪しいな。」
明治四十一(一九〇八)年六月