一景話題

泉鏡花




     夫人堂

 神戸にある知友、西本氏、頃日このごろ摂津国摩耶山せっつのくにまやさんの絵葉書を送らる、その音信おとずれに、
なき母のこいしさに、二里の山路をかけのぼり候。靉靆たなびき渡る霞の中に慈光あまねおん姿を拝み候。
 しかじかとしたためられぬ。見るからに可懐なつかしさ言わんかたなし。此方こなたもおなじおもいの身なり。はるかにそのあたりを思うさえ、端麗なるそのおん姿の、折からの若葉の中にこずえめたる、紫の薄衣うすぎぬかけて見えさせたまう。
 地誌をあんずるに、摩耶山は武庫郡むこごおり六甲山の西南に当りて、雲白くそびえたる峰の名なり。山の蔭に滝谷たきだにありて、布引ぬのびきの滝の源というも風情なるかな。上るに三条みすじみちあり。いつはその布引より、一は都賀野村つがのむら上野より、他は篠原しのはらよりす。峰の形峻厳崎嶇しゅんげんきくたりとぞ。しかも海を去ること一里ばかりに過ぎざるよし。さざなみの寄するなぎさに桜貝の敷妙しきたえも、雲高き夫人ぶにん御手みて爪紅つまべにの影なるらむ。
 伝え聞く、摩耶山※(「りっしんべん+刀」、第3水準1-84-38)利天王寺とうりてんのうじ夫人堂の御像おんすがたは、そのいにしえりょうの武帝、女人の産に悩む者あるをあわれみ、仏母ぶつも摩耶夫人まやぶにんの影像を造りて大功徳をしゅしけるを、空海上人入唐の時、我が朝にかしずき帰りしものとよ。
 知ることの浅く、尋ぬること怠るか、はたそれもうずる人の少きにや、諸国の寺院に、夫人を安置し勧請かんじょうするものを聞くことまれなり。
 十歳とおばかりの頃なりけん、加賀国石川ごおり松任まっとうの駅より、畦路あぜみちを半町ばかり小村こむら入込いりこみたる片辺かたほとりに、里寺あり、寺号は覚えず、摩耶夫人おわします。なき母をあこがれて、父とともに詣でしことあり。初夏はつなつの頃なりしよ。里川に合歓花ねむあり、田に白鷺しらさぎあり。麦やや青く、桑の芽の萌黄もえぎに萌えつつも、北国の事なれば、薄靄うすもやある空に桃の影のくれないみ、晴れたる水にすももの色あおく澄みて、の時、月の影も添う、御堂みどうのあたり凡ならず、はた打つものの、近く二人、遠く一人、小山のすそに数うるばかり稀なりしも、浮世に遠きおもいありき。
 本堂正面のきざはしに、斜めに腰掛けて六部一人、かしらより高くおいをさし置きて、寺よりいだせしなるべし。そのくりやかたには人の気勢けはいだになきを、日の色白く、うつばりの黒き中に、かれただ一人渋茶のみて、打憩うちやすろうていたりけり。
 その、ものしずかに、謹みたるさまして俯向うつむく、背のいとせたるが、取る年よりも長き月日の、旅のほど思わせつ。
 よし、それとても朧気おぼろげながら、彼処かしこなる本堂と、向って右のかたに唐戸一枚隔てたる夫人堂のおおいなる御廚子みずしうちに、あや几帳きちょうの蔭なりし、ひぎまずける幼きものには、すらすらと丈高う、御髪おぐしつやに星一ツ晃々きらきらと輝くや、ふと差覗さしのぞくかとして、拝まれたまいぬ。浮べる眉、えがける唇、したたる露のおんまなざし。瓔珞ようらくの珠の中にひとえに白き御胸を、来よとやかすか打寛うちくつろげたまえる、気高く、優しく、かしこくもたえに美しき御姿、いつも、まのあたりに見参らす。
 今思出でつと言うにはあらねど、世にも慕わしくなつかしきままに、余所よそにては同じ御堂みどうのまたあらんとも覚えずして、この年月としつきをぞすごしたる。されば、音にも聞かずして、摂津、摩耶山の※(「りっしんべん+刀」、第3水準1-84-38)利天王寺に摩耶夫人の御堂ありしを、このたびはじめて知りたるなり。西本の君の詣でたる、その日は霞の靉靆たなびきたりとよ。……音信おとずれの来しは宵月なりけり。

     あんころ餅

 松任まっとうのついでなれば、そこに名物を云うべし。餅あり、あんころと云う。城下金沢より約三里、第一の建場たてばにて、両側の茶店軒を並べ、くだんのあんころ餅をひさぐ……伊勢に名高き、赤福餅、草津のおなじうばヶ餅、相似たるたぐいのものなり。
 松任にて、いずれも売競うなかに、何某なにがしというあんころ、隣国他郷にもその名聞ゆ。ひとりその店にて製するあん、乾かず、湿らず、土用のうちにても久しきに堪えて、その質を変えず、格別の風味なり。其家そこのなにがし、遠き昔なりけん、村隣りに尋ぬるものありとて、一日あるひ宵のほどふと家を出でしがそのまま帰らず、捜すに処無きに至りて世に亡きものにきわまりぬ。三年の祥月しょうつき命日の真夜中とぞ。雨強く風はげしく、戸をゆすり垣を動かす、物凄ものすさまじくるる夜なりしが、ずどんと音して、風の中より屋の棟に下立おりたつものあり。ばたりとあおっておのずから上に吹開く、引窓の板を片手にもたげて、さかさまに内をのぞき、おくの、おくのとて、若き妻の名を呼ぶ。その人、おもて青く、ひげ赤し。下にねたるその妻、さばかりの吹降りながら折からの蒸暑さに、いぎたなくて、掻巻かいまきを乗出でたる白き胸に、暖き息、上よりかかりて、曰く、なんじの夫なり。魔道に赴きたれば、今は帰らず。されど、小児等こどもら不便ふびんなり、活計たつきすべを教うるなりとて、すなわち餡の製法を伝えつ。今はこれまでぞと云うままに、くびを入れてまた差覗くや、たちまち、黒雲をき小さくなりて空高く舞上る。からかさの飛ぶがごとし。天赤かりしとや。天狗てんぐ相伝の餅というものこれなり。
 いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山にる、辰口たつのくちという小さな温泉にきて帰るさ、くだんの茶屋に憩いて、児心こどもごころに、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色の白き、せたる女、差俯向さしうつむきて床の上に起直りていたり。枕許まくらもとに薬などあり、病人なりしなるべし。
 思わずも悚然ぞっとせしが、これ、しかしながら、この頃のにはあらじかし。
 今は竹の皮づつみにして汽車の窓に売子出でて旅客にひさぐ、不思議の商標しるしつけたるが何某屋なにがしやなり。上品らしく気取りて白餡小さくしたるものは何の風情もなし、すきとしたる黒餡の餅、形もおおいに趣あるなり。

     夏の水

 松任まっとうより柏野水島などを過ぎて、手取川を越ゆるまでに源平島と云う小駅あり。里の名にちなみたる、いずれ盛衰記の一条ひとくだりあるべけれど、それはいまだ考えず。われ等がこの里の名を聞くや、直ちに耳の底に響ききたるは、松風玉を渡るがごとき清水の声なり。の水とて、北国によく聞ゆ。
 春と冬は水かず、椿の花の燃ゆるにもべにを解くばかりのしずくもなし。ただ夏至げしのはじめの第一じつ、村の人の寝心にも、疑いなく、時刻もたがえず、さらさらと白銀しろがねの糸をならして湧く。盛夏三伏さんぷくの頃ともなれば、影沈む緑のこずえに、月のなみ越すばかりなり。冬至の第一日に至りて、はたとむ、あたかもげんを断つごとし。
 周囲にさくを結いたれどそれも低く、錠はあれどさず。注連しめ引結いたる。青くつややかなるまろき石のおおいなる下よりあふるるをの口に受けて木の柄杓ひしゃくを添えあり。神業かみわざと思うにや、六部順礼など遠くきたりてさいすとて、一文銭二文銭の青く錆びたるが、円きの葉のごとくあたりに落散りしを見たり。深く山のかいを探るに及ばず。村の往来のすぐ路端みちばたに、百姓家の間にあたかも総井戸のごとくにあり。いつなりけん、みちすがら立寄りて尋ねし時は、東家とうかおうなはた織りつつ納戸の障子より、西家さいかの子、犬張子いぬはりこもてあそびながら、日向ひなたの縁より、人懐しげにみまもりぬ。

     甲冑堂

 橘南谿たちばななんけいが東遊記に、陸前国苅田郡かったごおり高福寺なる甲冑堂の婦人像を記せるあり。
奥州白石しろいしの城下より一里半南に、才川と云う駅あり。この才川の町末に、高福寺という寺あり。奥州筋近来の凶作にこの寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ僧も不住すまず明寺あきでらとなり、本尊だに何方いずかたへ取納めしにや寺には見えず、庭は草深く、誠に狐梟こきょうのすみかというもあまりあり。この寺中に又一ツの小堂あり。俗に甲冑堂という。堂の書附には故将堂とあり、おおきわずかに二間四方ばかりの小堂なり。本尊だに右の如くなれば、この小堂の破損はいう迄もなし、ようように縁にあがり見るに、内に仏とてもなく、ただ婦人の甲冑して長刀なぎなたを持ちたる木像二つを安置せり。
 これ、佐藤継信つぎのぶ忠信ただのぶ兄弟の妻、二人都にて討死せしのち、その母の泣悲しむがいとしさに、我が夫の姿をまなび、老いたる人を慰めたる、優しき心をあわれがりて時の人木像にきざみしものなりという。
この物語を聞き、この像を拝するにそぞろに落涙せり。(略)かく荒れ果てたる小堂の雨風をだに防ぎかねて、彩色も云々うんぬん
 甲冑堂の婦人像のあわれに絵の具のあせたるが、はるけき大空の雲に映りて、にじより鮮明あざやかに、優しく読むものの目に映りて、その人あたかもけるがごとし。われらこのはげしき大都会の色彩をながむるもの、奥州辺の物語を読み、その地の婦人を想像するに、大方は安達あだちヶ原の婆々ばばあを想い、もっぺ穿きたるあねえをおもい、紺のふんどし媽々かかあをおもう。同じ白石の在所うまれなる、宮城野と云い信夫しのぶと云うを、芝居にて見たるさえ何とやらん初鰹はつがつおの頃は嬉しからず。ただ南谿が記したる姉妹のこの木像のみ、外ヶ浜の沙漠の中にも緑水オアシスのあたり、花菖蒲はなあやめ、色のしたたるを覚ゆる事、ともえ、山吹のそれにもまされり。幼き頃より今もまたしかり。
 元禄の頃の陸奥むつ千鳥には――木川村入口に鐙摺あぶみずりの岩あり、一騎だちの細道なり、少しきて右のかたに寺あり、小高き所、堂一宇いちう、継信、忠信の両妻、軍立いくさだちの姿にて相双あいならび立つ。
いくさめく二人の嫁や花あやめ
 また、安永中の続奥の細道には――故将堂女体、甲冑をたいしたる姿、いと珍し、古き像にて、彩色のげて、下地なる胡粉ごふんの白く見えたるは、
の花やおどし毛ゆらり女武者
 としるせりとぞ。この両様ともくわしくその姿を記さざれども、一読の際、われらが目には、東遊記に写したると同じさまに見えていと床し。
 しかるに、観聞志かんもんしと云える書には、――斎川以西有羊腸さいかわいせいようちょうあり維石厳々これいしげんげん嚼足あしをかみ毀蹄ひづめをやぶる一高坂也いっこうはんなり是以馬憂※(「兀のにょうの形+虫」、第4水準2-87-29)※(「こざとへん+貴」、第3水準1-93-63)これをもってうまかいたいをうれう人痛嶮艱ひとけんかんをいたむ王勃所謂おうぼついわゆる関山難踰者かんざんこえがたきもの方是乎可信依まさにここにおいてかしんいすべし土人称破鐙坂どじんやれあぶみのさかとしょうす破鐙坂東有一堂やれあぶみざかのひがしにいちどうあり中置二女影なかににじょえいをおく身着戎衣服みにじゅういのふくをつけ頭戴烏帽子かしらにえぼしをいただき右方執弓矢うほうにきうしをとり左方撫刀剣さほうにとうけんをぶす――とありとか。
 この女像にして、もし、弓矢を取り、刀剣をすとせんか、いや、腰を踏張ふんばり、片膝おしはだけて身構えているようにて姿甚だととのわず。この方がまことならば、床しさは半ばせ去る。読む人々も、かくては筋骨たくましく、膝節ひざぶし手ふしもふしくれ立ちたる、がんまの娘を想像せずや。知らず、このかたはあるいは画像などにて、南谿が目のあたり見て写しおける木像とはたがえるならんか。その長刀なぎなた持ちたるが姿なるなり。東遊記なるは相違あらじ。またあらざらん事を、われらは願う。観聞志もしあやまちたらんには不都合なり、王勃おうぼつう所などはどうでもよし、心すべき事ならずや。
 近頃心して人に問う、甲冑堂の花あやめ、あわれに、今も咲けるとぞ。
 唐土の昔、咸寧かんねいの吏、韓伯かんはくが子なにがしと、王蘊おううんが子某と、劉耽りゅうたんが子某と、いずれ華冑かちゅうの公子等、相携えてきて、土地の神、蒋山しょうざんびょうに遊ぶ。廟中数婦人の像あり、白皙はくせきにして甚だ端正。
 三人この処に、割籠わりごを開きて、且つ飲み且つおおいくらう。その人も無げなる事、あたかも妓をかたわらにしたるがごとし。あまつさえ酔に乗じて、三人おのおの、そのうち三婦人の像をゆびさし、勝手に選取よりどりに、おのれに配して、胸をで、腕をし、耳を引く。
 時に、その夜の事なりけり。三人同じく夢む。夢に蒋侯しょうこう、その伝教さんだいふを遣わして使者の趣をもうさす。曰く、不束ふつつかなる女ども、みだり卿等けいらの栄顧を被る、真に不思議なる御縁の段、祝着に存ずるものなり。ついては、それの日、あたかも黄道吉辰きっしんなれば、揃って方々かたがたを婿君にお迎え申すと云う。汗冷たくして独りずつ夢さむ。明くるを待ちて、相見て口を合わするに、三人符を同じゅうしていささかも異なる事なし。ここにおいて青くなりておおいおそれ、ひとしくにえを備えて、廟にまいって、罪を謝し、哀を乞う。
 その夜またともに夢む。この度や蒋侯神、白銀の甲冑し、雪のごとき白馬にまたがり、白羽の矢を負いて親しくみずから枕にくだる。白きむちをもって示して曰く、変更の議罷成まかりならぬ、御身等おんみら、我が処女むすめを何と思う、海老茶えびちゃではないのだと。
 木像、しんあるなり。神なけれども霊あって来りる。山深く、里ゆうに、堂宇廃頽はいたいして、いよいよ活けるがごとくしかるなり。
明治四十四(一九一一)年六月





底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十八卷」岩波書店
   1942(昭和17)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の箇所を除いて大振りにつくっています。
 安達あだちヶ原の婆々ばばあを想い
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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