「あんた、居やはりますか。」
……唄にもある――おもしろいのは
二十を越えて、二十二のころ三のころ――あいにくこの篇の著者に、経験が、いや端的に体験といおう、……体験がないから、そのおもしろいのは、女か、男か。勿論
誰に聞かしても、この唄は、女性の心意気に相違ないらしいが、どんなのを
対手にした人情のあらわし方だか、男勝手にはちょっときめにくい。ただしどう割引をした処で、二十二三は女盛り……近ごろではいっそ娘盛りといって
可い。しかも著者なかま、私の友だち、境辻三によって話された、この年ごろの女というのは、
祇園の
名妓だそうである。
名妓? いかなるものぞ、と問われると、浅学不通、その上に、しかるべき御祝儀を並べたことのない私には、新橋、柳橋……いずくにも、これといって容式をお目に掛ける
知己がない。遠いが花の香と
諺にもいう、東京の山の手で、祇園の面影を写すのであるから、名妓は、名妓として、差支えないであろう。
また、何がゆえに、浅学不通まで
打ちまけて、こんな前書をするかといえば、実はその京言葉である。すなわち、読みはじめに記した「あんた、いやはりますか。」――は、どう聞いても、祇園の
芸妓、二十二、三の、すらりと
婀娜な
別嬪のようじゃあない。おのぼりさんが
出会した旅宿万年屋でござる。女中か、せいぜいで――いまはあるか、どうか知らぬ、二軒茶屋で豆府を切る姉さんぐらいにしか聞えない。
嫋音、
嬌声、真ならず。境辻三……巡礼が途に
惑ったような名の男の口から、
直接に聞いた時でさえ、例の
鶯の初音などとは
沙汰の限りであるから、私が
真似ると
木菟に化ける。第一「あんた、居やはりますか。」さて、思うに、「あの、居なはるか。」とおとずれたのだか、それさえ
的確ではないのだそうであるから、構わず、関東の地声でもって
遣つける。
谷の戸ではない、格子戸を開けたときの、前記の声が「こんちは、あの……居らっしゃいますか。」と、ざっとかわるのであることを、諸賢に御領承を願っておいて……
わが、辻三がこの声を聞いたのは、
麹町――番町も土手下り、
湿けた
崖下の
窪地の寒々とした処であった。三月のはじめ、永い日も、
午から雨もよいの、曇り空で、長屋建の平屋には、しかも夕暮が軒に近い。窓下の
襖際で
膳の上の
銚子もなしに――もう時節で、塩のふいた
鮭の切身を、
鱧の肌の白さにはかなみつつ、辻三が……
というものは、ついその三四日
以前まで、ふとした事から、
天狗に
攫われた小坊主同然、しかし丈高く、
面赤き山伏という処を、色白にして眉の
優い、役者のある女形に誘われて、京へ飛んだ。初のぼりだのに、宇治も瀬田も聞いたばかり。三十三間堂、金閣寺、両本願寺の屋根も見ず知らず、五条、三条も分らずに、およそ六日ばかりの間というもの、
鴨川の花の
廓に、酒の名も、菊、桜。
白鶴、
富久娘の
膏を
湛えた、友染の
袖の池に、
錦の帯の八橋を、転げた上で泳ぐがごとき、大それた
溺れよう。
肝魂も
泥亀が、
真鯉緋鯉と雑魚寝とを知って、京女の肌を
視て帰って、ぼんやりとして、まだその夢の覚めない折から。……
無理もない、冷飯に添えた塩鮭をはかなむのは。……時に、膳の上に、もう
一品、
惣菜の豆の煮たやつ。……女難にだけは安心な男にも、不思議に女房は実意があるから、これはそこらの、あやしげな煮豆屋が、あんぺらの煮出しを使った悪甘いのではない。砂糖を
奢って、とろりと煮込んで、せっせと
煽いで、つやみを見せた深切な処を、
酔覚の舌の
尖に甘く
染まして、壁にうつる影法師も冷たそうに縮んだ処へ。
ころころと格子が開いた。取次の女中へ何かいう、浅間な
住居で、手に取るような、その「あんたはん、居やはりますか。」訳して、「こんちは、あの、居らっしゃいますか。」のそれだったのだそうである。
「京の祇園と、番町の土手下――いや、もうちっと――半道ばかり近いのです。大勢の中で、その
芸妓――お絹というんです――その女が、京都駅まで、九時何十分かの急行を、見送りに来てくれたんだから。……それにしても少々遠過ぎますね。――声を聞いて、すぐそのお絹だ、と思ったのは。
しかし事実なんです。
(やあ、これは珍客。)
とか、大きな声して、いきなり、
箸をおくと、
件の煮豆を一つ、膳の上へ転がしながら、いきなり立上って中縁のような板敷へ出ましたから。……
鵯が
南天燭の実、
山雀が
胡桃ですか、いっそ鶯が梅の
蕾をこぼしたのなら知らない事――草稿持込で食っている人間が煮豆を転がす様子では、色恋の沙汰ではありません。――それだのに……」
境辻三は、
串戯ではなさそうに、真顔になっていったのである――
「しかし、またあらためて、お絹のその
麗しさというものは。――(お危うございます、ここは暗いんでございますから。)おいそれものの女中めが、のっけのその京言葉と、
朱鷺色の
手絡、
艶々した
円髷、藤紫に
薄鼠のかかった小袖の
褄へ、青柳をしっとりと、色の蝶が緑を透いて、抜けて、ひらひらと胸へ肩へ、舞立ったような飛模様を、すらりと着こなした、
長襦袢は
緋に
総染の小桜で、ちらちらと土間へ来た
容子を一目、京都から帰ったばかりの
主人が旅さきの
知己、てっきり
溶けるものと合点して、有無を部屋へ聞かないさきから、すぐこうお通りはいいのですが、口上が
癪ですよ。(
真暗ですから。)が、仕方がない、
押付け仕事の安普請で、間取りに無理がありますから、玄関の次が暗いのです。いきなり手を
曳いて連れ込んだ、そのひき方がそそっかし屋で荒いので、私と顔を会わせた時は、よろけ加減で、お絹の顔が、ほんのりとなって、その長襦袢のしなやかな
裳をこぼれた姿は、脊は高し、天井の黒い雲から糸桜がすらすらと
枝垂れたようで、いや、どうも……祇園の空から降って来たかと思われました。
――時に、重ねていうようですが、三月のはじめです。三月といえば
弥生です。桜は季節でありますけれども、まだどこにも咲いてはいません。ところが、どうした事か、これから、宵、夜、夜中に掛けて、話を運びます、春木町の、その頃の本郷座。上野の
山内、
清水の観音堂。
鶯谷という順に、その到る処、花が咲いていたように思います。
唯今も、目に見えて、桜に包まれるようですが、実は、こんな事は、今まで、誰にも片端も
饒舌ったことはありませんから、いつも一人で、咲満ちた花の中にいた気だったのですけれども、あなたに。」
著者に、いうのである。
「三月、と口にしますと同時に、ふと気がつくと、彼岸ずっと前で、まだ桜は咲きません。が、それからお絹を連れて行きました、本郷座の芝居が、ちょうど祇園の夜桜、舞台一面の処へぶつかりましたし、続いて上野でも、鶯谷でも、特に観世音の
御堂では、この
妓と、
花片が
颯と
微酔の頬に当るように、
淡い
薫さえして、近々と、膝を突合わせたような事がありましたから、色の刺激で、欄干近い、枝も
梢も、ほの
紅かったのだろうと思われます。
ところで――芝居
行です。が、どの道、糸錦の帯で押立よく、羽織はなしに居ずまいも
端正としたのを、仕事場の机のわきへ据えた処で、……おなじ年ごろの家内が、
糠味噌いじりの、
襷をはずして、渋茶を振舞ってみた処で、近所の
鮨を取った処で、てんぷら
蕎麦にした処で、びん
長鮪の
魚軒ごときで一銚子といった処で、京から降って来た
別嬪の
摂待らしくはありません。京では、
瓢亭だの、
西石垣のちもとだのと、この
妓が案内をしてくれたのに対しても、
山谷、
浜町、しかるべき料理屋へ、晩のご飯という
懐中はその時分なし、今もなし、は、は、は、笑ったって、ごまかせない。
(おつれは?)
ただ一人で訪ねて来て、目の前に
斜に
坐っている極彩色に、
連を聞いたも変ですが、
先方の稼業が稼業ですから。……なぞといって、まじくないながら、とつおいつのうち、お絹が、四五人で客に連れられて来たのだけれど、いまは旅館に一人で残った……
(早う、あんたはんの
許へ来とうて、来とうてな。)
いよいよ、
天麩羅では納まらない。思いついたのが芝居です。
で、本郷に出ているのは、
箕原路之助――この友だちが、つい前日まで、祇園で一所だったので、四条の芝居を打上げた一座が、帰って来て、弥生興行の最中だとお思い下さい。
(……すぐ出掛けましょう、御婦人には芝居と
南瓜が何よりの
御馳走だ。)
馬鹿も通越した、
自棄な
言句を切出して、
(ご
贔屓の路之助が出ています。)
役者を贔屓とさえいっておけば間違いはないものの――その実、祇園にいたうちに、五人、八人、時には十人にも余って、その六日ばかりの間、時々出入り
交代はあっても、ほとんど同じ顔の
芸妓舞子が、寝る、起きる、飲む、唄う。十一時ごろに芝居のはねるのを宵の口にして、あけ方の三時四時まで続くんでしょう。雑魚寝の女護の島で、
宿酔の
海豹が
恍惚と薄目を開けると、友染を着た
鴎のような舞子が二三羽ひらひらと舞込んで、眉を
撫でる、鼻を
掴む、
花簪で
頭髪を
掻く、と、ふわりと胸へ乗って、
掻巻の
天鵞絨の襟へ、
笹色の唇を持って行くのがある。……いいえ、その路之助のですよ。女形の。……しかも同じ
衾の左右には、まくれたり、はだかったり、白い肌が濡れた羽衣に包まれたようになって、
紅の
閨の寝息が、すやすやと、春風の小枕に
小波を寄せている。私はただ
屏風の
巌に、一介の
栄螺のごとく、孤影
煢然として独り
蓋を堅くしていた。とにかくです、昼夜とも、その連中に、いまだかつて、顔を見せなかったのが、お絹なんです。
――晩には、東京へ帰ろうとする朝でした。旅
馴れないので、何となく心が
急きます。早めに起きた右の栄螺が、そっと蓋をあけて、恐る恐る朝日に映る寝乱れた浮世絵を
覗きながら、二階を下りて、廊下を用たしに行く途中、一段高く、下へ水は流れませんが、植込の冷い
中に、さらさらと
筧の音がして、橋づくりに渡りを
架けた処があった。
そこに、女中……いや、中でも
容色よしの仲居にも、ついぞ見掛けたことのないのが、むぞうさな
束髪で、襟脚がくっきり白い。
大島絣に
縞縮緬の羽織を着たのが、両袖を胸に合せ、橋際の柱に
凭れて、後姿で寂しそうに立っている。横顔をちらりと
視て通る時、東山の方から松風が吹込んだように思いました。――これが、お絹だったのです。
あとで聞くと、病気で休んでいて、それまでの座敷へは出なかった。髪を洗ったのもやっと
昨日で、珍らしい東の客が、今日帰る、と聞いたので、急いで来たが、まだ皆夜中らしいから、遠慮をしていたのだというのが分りました。けれども、顔を洗って、戻るのに、まだおなじところに、おなじ姿を見ると、ちょっと二間ばかりの橋が、急にすらすらと長く伸びて、宇治か、瀬田か、昔話の長橋の
真中にただ一人怪しい
婦が、霞に
彳んだようですから、気をはっきりと、欄干を伝うところを、
(目々、覚めてどすか。)
と
清しい目で、ちょっと見迎えて、
莞爾したではありませんか。私は
冷りとしました。第一、目々が覚めたという柄じゃない、洗って来い、という
面です。
閑静だから、こっちへ――といって、さも待設けてでもいたように、……
疏水ですか、あの川が窓下をすぐに通る、離座敷へ案内をすると、
蒲団を敷かせる。乗ったんですが、何だか手玉に取られた形で、腰が浮くと、矢の流れで危いくらい。が、きっぱりと目の覚めた処で、お手ずから、朝茶を下さる。
(姉さんは、
娘はんですか、
此楼の……)
いやな野郎で、聞覚えの京言葉を、茶の子でなしに
噛りましたが、娘か、と思ったほど、人がらが
勝っている。……
通力自在、膳も
盃洗もすぐ出る処へ、路之助が、きちんと着換えて入って来て、
鍋のものも、名物の
生湯葉沢山に、例の水菜、はんぺんのあっさりした水煮で、人まぜもせず、お絹が――お酌。
(ずッと見物をおしやしたか。)
宇治は、
嵯峨は。――いや、いや、南禅寺から将軍塚を山づたいに、
児ヶ
淵を抜けて、音羽山
清水へ、お参りをしたばかりだ、というと、まるで、御詠歌はんどすな、ほ、ほ、ほ、と笑う。
路之助が、
(その癖、お絹さん、お前さんの好きそうな処ばかりだぜ。……境さん――この人は、まだ休んでいて
隙ですから、そこいら、御案内をしようというのですが、どうかすると、神社仏閣、
同行二人の形になりかねませんよ。)
(巡礼結構。同行二人なら野宿でもかまいません。)
(ほ、ほ、ほ、よういわんわ。)
御免下さい。……だから言わないことではない。もうこの辺の、語義の活法が
覚束ない。
が、
串戯ではありません、
容色、
風采この人に向って、つい(巡礼結構)といった下に、思わず胸のせまることがあったのです。――
ですから、嵯峨へ、宇治へというのを
断って、朝出ると、すぐ三十三間堂。
社もうで、寺まいり。
何にしろ食ったものさえ、水菜と湯葉です。あの、鍋からさらさらと立った湯気も、
如月の水を渡る朝風が誘ったので、霜が
靡いたように見えた、精進腹、清浄なものでしょう。北野のお宮。
壬生の地蔵。尊かったり、寂しかったり。途中は新地の赤い格子、青い
暖簾、どこかの盛場の店飾も、活動写真の看板も、よくは見ません。
菜畠に近い場末の辻の
日溜りに、柳の下で、
鮒を売る
桶を二人で覗いて、
(みんな、目あいていやはるな。)
といった、お絹の目が
鯉の目より
濡々としたのが記憶にある……といった見物で。――
帰途は、
薄暮を、もみじより、花より、ただ落葉を鴨川へ渡したような――
団栗橋――というのを渡って、もう一度清水へ上ったのです。まだ電燈にはならない時分、廻廊の
燈籠の白い
蓮華の
聯なったような薄あかりで、舞台に立った、二人の影法師も霞んで高い。……
暗い
磴の
幽な底に、音羽の滝の音を聞いた時は、
松風に音羽の滝の清水を
むすぶ心やすずしかるらん
地唄の三味線は、耳に消えて、御詠歌の声をさながらに聞きますと――はてな、なぜか今朝、起きぬけに、祇園の茶屋の橋がかりで
筧の音のした時と、お絹の姿も同じようで、一日を夢に見たように思いましたが――
――更に、日もおかず、お絹が土手番町へ訪ねて来た、しかもその夜、上野の
清水の
御堂の舞台に、おなじように、二人で立つ事になったんです――
音羽のその時は、風情がいいから、もう一度、団栗橋を渡り返した、京
洛中と東山にはさまって、何だか、私どもは小さな人形同然、
笹舟じゃあない、木の実のくりぬきに乗って、流れついた気がします――
そうですよ、宿は
西石垣のなにがし屋に取ってあったのですが、宿では驚いていたでしょう。路之助の馳走になりつづけで、おのぼりの身は藻抜の殻で、座敷に預けたのが、
擬更紗の旅袋たった一つ。
しわす、
晦の雪の夜に、
情の宿を参らせた、貧家の
衾の
筵の中に、旅僧が小判になっていたのじゃない。魔法
妖術をつかうか知らん、お客が
蝦蟆に変じた形で、ひょこんと
床間に乗っている。
お絹が引添っての、心づけでは、電話で、もう路之助から、ここの勘定は済んでいる。まだ、それよりも、お恥かしいやら、おかしいのは。……
(――お絹さん、その手提袋ですがね、中味が緊張しておりません、張合のないせいか、
紐が
自から、だらりとして、下駄のさきとすれすれに袋が伸びていたそうで。京都へ着いた時迎いに来てくれました、路之助の番頭と一所だった年増の
芸妓が、追って酒宴の時、意見をしてくれましたよ。あれは見っともない、先陣の源太はんやないけど、腹帯が
弛んだように見える……といってね。)
(ほんに、
私も、東の方贔屓どす……しっかりとあんじょうに……)
――細い指であやつッて、あ、着換を畳もう、という、
待遇振。ですが、何にもない。着のみ、着のままで、しゃんと結ばると袋はぺしゃんこ。そいつを袖で抱いて、さ、晩のご飯を近所のちもとへ、と立たれたのには、
懐中もぺしゃんこです。
これも路之助の心づけで、ちゃんと席を取って支度が出来ていて、さしむかいで、酒になった処へ、芝居から使の番頭、姓氏あり。津山彦兵衛とちょっとお覚え下さい。
(――すぐ、あとで、本郷座の前茶屋へ顔を出しますから――)
花柳界の総見で、楽屋は混雑の最中、おいでを願ってはかえって失礼。お送りをいたすはずですが、ちょうど舞台になりますから。……縞の羽織、前垂掛だが、折目正しい口上で、土産に京人形の綺麗な島田と、
木菟の茶羽の
練もの……大贔屓の鳥で望んだのですが、この時は少々
擽ったかった。やがて、その京人形に、停車場まで送られて、木菟が。……夜汽車で飛ぶ。」……
「いらっしゃいまし、ようこそ。――路之助も一度お伺い申したいと、いいいい、帰京早々
稽古にかかって、すぐに、開けたものでございますから、つい失礼を。……
今日はまたどうも
難有う存じます。」
「
御挨拶で恐縮ですよ。津山さん。私こそ、京都で、あんなにお世話になって。――すぐにもお礼かたがたお訪ね申さなければならなかったのですが、ご存じの、貧乏稼ぎにかまけましてね。」
「なぞとおっしゃる。……は、は、は。」
と笑いを手で
蓋して、軽く
咳した。
小肥りにがっしりした年配が、稼業で人をそらさない。
「まったくですよ。ところでですね。ぶちまけた話ですが、万事、ちっとでも、楽屋の方で御心配を下さらないように――実は売場で切符を買ってと思いましたがね。」
「そんな水臭いことを……ご
串戯で。」
「いや、ご馳走は
[#「ご馳走は」は底本では「ご馴走は」]、ご馳走。見物は見物です。実は、この京人形。」
お絹が上品な
円髷で、紫仕立の
柳褄、茶屋の蒲団に、据えたようにいるのです。
「たしか、今度の二番目の
外題も、京人形。」
「序幕が開いた処でございまして、お土産興行、といった心持でござんしてな。」
「そのお土産をね、津山さん、……本箱の上へ飾ってある処へ……でしょう。……不意でしょう。まるで動いて出たようでしょう。並んでいる
木菟にも、ふらふらと魂が入ったから、羽ばたいて飛出したと――お
大尽づきあいは馴れていなさるだろうから、一つ、切符で見ようじゃありませんか、というと、……嬉しい、といって賛成は、まことに嬉しい。当方
立処に
懐中が大きくなった。」
「は、は、は。」
と
蓋して、軽く笑う。津山の
懐中の方が余程大きい。
「木戸へ差しかかると満員、全部売切れ申候だから、とにかく、連中で来て、一二度知ってるので、こちらに世話を掛けたんですが、つれがつれです、快よくあしらってはくれましたけれども、何分にも、ぎっしりで、席は一つもないというんで、
止むを得ず……悪く思わないで下さい……まったく止むを得ず、茶屋から、楽屋へ声を掛けてもらったんですから。しかし、大入で、何より結構。」
「お
庇様で、ここん処、ずっと売切っております。いえ、お場所は出来ます。いえ、決して無理はいたしません。そのかわり、
他様と
入込みで、ご不承を願うかも知れません。今日の処は、ほんの場の景気をお慰みだけ、芝居は
更めてお見直しを願いとうございますので。……つきましては、いずれ楽屋へもお供をいたしますが、そのおつれ様……その、京人形様。――は、は、は――の処は、何にもおっしゃらず、ご内分に。――いえ、あなた様のおつれでございますから、
仔細はないのでございますがな、この役者なかまと申しますものは、何かとそのつきあいがまた……
煩いのでして、……京から
芸妓はんが路之助を
追駈けて逢いに来たわ、それ
蕎麦だ……などと申すわけで、そうでもないのに、何かと物騒、は、は、は。」
両三度、津山の笑いは、ここで笑うのにあらかじめ用意をしたらしいほど、
式のごとく、例の
口許をおさえて、
黙然を暗示しながら、目でおどけた。
「……は、は、は、と申すわけで。お含みを。――ああ、八さん、お茶を入れかえて……そう、
宜しい。何、ぼくにか、はて、忙しい。は、は、は。いやいずれ今ほど。――お場所が出来ましたそうでございますから。」
膝で
辷って、津山が立つのと
入交って、男衆が
階子段の口でお辞儀をして、
「では、ご見物を。」
「心得た。」
見ますとね、下の
店前に、八角の大火鉢を、ぐるりと人間の
巌のごとく取巻いて、
大髻の相撲連中九人ばかり、峰を
聳て、谷を
展いて、
湯呑で
煽り、片口、丼、谷川の流れるように飲んでいる。……何しろ取込んで忙しそうだ、早いに限ると、
外套を脱いだ身軽です。いきなり下りると、
「へい、行ってらっしゃいまし。」
帳場で女の声がしたかしないに、
「危い!」
わッと響くのが
一斉で、相撲が四五人どッと立った。いずれも大ものですから、屋鳴り震動の中に、
幽に、トンと心細い音が、と見ると、お絹のその姿が
階子段の上から真横になって、くるくるトトトン、
褄がばッと乱れて、白い
脛、いや、祇園での踊手だと聞く、舞で鍛えた身は軽い、さそくの
躾みで
前褄を踏みぐくめた雪なす
爪先が、死んだ蝶のように落ちかかって、帯の
糸錦が
薬玉に
飜ると、
溢れた
襦袢の
緋桜の、
細な
鱗のごとく流れるのが、さながら、
凄艶な
白蛇の化身の、血に
剥がれてのた打つ
状して、ほとんど無意識に両手を
拡げた、私の袖へ、うつくしい首が
仰向けになって胸へ入り、
櫛笄がきらりとして、前髪よりは、眉が
芬と匂うんです。そのまま私の首筋に、袖口が熱くかかったなり、抱き据えて、腰をたてにしたまで、すべて、息を
吐く
隙がない。息を吐く隙がありません。
土俵が
壊れたような、相撲の総立ちに、茶屋の表も
幟を黒くした群衆でしょう。雪は降りかかって来ませんが、お七が
櫓から
倒に落ちたも同然、恐らく本郷はじまって以来、前代未聞の珍事です。
あまりの事に、
寂然とする、その人立の中を、どう替草履を
引掛けたか覚えていません。夢中で、はすに木戸口へ
突切りました。お絹は、それでも、帯も襟もくずさない。おくれ毛を、掛けたばかりで、櫛もきちんと
挿っていましたが、
背負上げの結び目が、まだなまなまと血のように片端
垂って、踏みしめて
裙を
庇った上前の
片褄が、ずるずると地を
曳いている。
抱いて通ったのか、
絡れて飛んだのか、まるで
現で、ぐたりと肩に
凭っかかったまま、そうでしょう……引息を
吻と深く、木戸口で、
「ああ、お婿はん。」……
と泣くようにいった。生死の最中、
洒落どころではないのですが、これは京都で、連中が、女形の客だというので(お婿はん、お婿はん。)と私を、からかったのが、つい出ました。
「……わて、もう、死ぬるか思うた。」
と、目が澄んで、
熟と
視て、
颯と顔色が
蒼ざめたんです。
「あんたはんに恥を掻かせた、済まんなあ、……
生命の親え。」
「…………」
「二階を下りしなに、何や暗うなって、ふらふらと目がもうて、……まあ、
私、ほんに、あの中へ落ちた事なら手足が
断れる。」
という声も、小刻みで東へ廻る。茶屋の男は木戸口に待っていたが、この上
極りを悪がらせまい用心で、見舞もいわない、知らん顔で……ぞろぞろついて来た表口の人だかりを、たッつけを
穿いた男が二人、手を挙げて留めているのが見えました。
そッと
屈んで、
「へい、こちらへ。」――
土間、桟敷、二、三階、ぎっしり一杯。成程、やっと都合がついたのだと見えて、四人詰めに、上下大島ずくめなのと、背広の服のと、しかるべき紳士が二人いましたが、これが、そのまま、腰に
瓢箪でもつけていそうな、
暖簾も、
景気燈も、お花見気分、
紅い
靄が場内一面。舞台は、切組、描割で引包んだ祇園の景色。で、この間、枝ぶりを見て返ったばかりの名木の車輪桜が、影の映るまで満開です。おかしい事には、
芸妓、
舞妓、
幇間まじり、きらびやかな取巻きで、洋服の紳士が、桜を一枝――あれは、あの枝は折らせまい、形容でしょう。――もう一人、富豪――成金らしい大島
揃が、瓢箪をさげている。
一つ桟敷――東のずっと末でした――その妙に、同じような先客が、ふと気がさしたと見えて――挨拶をした時は、ふり向きもしなかったのが――お絹をこの時見返って、
愕然とした様子です。……
ところで、何でも、その桜の枝と、瓢箪が、幇間の手に渡るのをきっかけに、おのおの
賑やかなすて
台辞で、しも手ですか、向って右へ入ると、満場ただ祇園の桜。
花咲かば告げ むといいし山寺の……
ここの合方は、あらゆる浄瑠璃、勝手次第という処を、
囃子に合わせて謡が聞える。
使は来たり馬 に鞍、鞍馬の山のうず桜……
「牛若の仮装ででも出ますかね、私は大の贔屓です。」
恥ずべし、恥ずべし。……式亭三馬
嘲る処の、
聾桟敷のとんちきを
顕わすと、
「路之助はんが、出やはるやろ。」
お絹の方が知っている。ただしこの様子では、胸も痛めず、怪我はしない。
しゃり、り、揚幕。
艶麗にあらわれた、大どよみの掛声に路之助
扮した処の京の
芸妓が、襟裏のあかいがやや
露呈なばかり、
髪容着つけ万端。無論友染の
緋桜縮緬。思いなしか、顔のこしらえまで、――
傍にならんだのとそっくりなのに、聾桟敷一驚を
吃する処に、一度姿を消した舞妓が一人、小走りに駆け戻るのと、花道の、七三とかいうあたりで、ひったり出会う。何でもお客が大変
待あぐんで機嫌が悪い、急いで迎いに、というのです。
路之助の
姉芸妓が、おおしんど、か何かで、肩へ色気を見せたのですが、
「えろう遅うなって、ご苦労え、あのな、ついそこで、いえ、あのな、むこうへ、……境はん。」
おや。
「あんたも知ってやろ。境はんが来やはって、逢いとう逢いとうていた処やろ、それやよって。」
とこっちを
視て
莞爾。――
「いやや、
驕んなはれ。」
と舞妓が
入交って、トンと揚幕の方から路之助の脊筋を
敲いた。
「おお、晴がまし。」
お絹が、階子段を転げた時から、片手に持っていた、水のように薄色の藤紫の
肩掛を、
俯向いた頬へ当てたのです。
――舞台、舞台ですか……
舞台どころじゃありません。その時うしろの戸が、悪く、静かに開いたと思うと、この、私の背中を、トンと、誰か、ぐにゃりとした手で敲いたんですから。
いま、戸が開いたと思うと同時に、
可厭な気味合の冷アい風が、すうと廊下から入って、ちり毛もとに、ぞッと
沁みたも道理こそ、十九貫と
渾名を取る……かねて借金があって、抜けつ
潜りつ、すっぽかしている――でぶでぶした、ある、その、安待合の女房が、
餡子入の
大廂髪で、その頃はやった
消炭色紋付の羽織の
衣紋を抜いたのが、目のふちに、ちかちかと青黒い筋の畳まるまで、むら
兀のした濃い
白粉、あぶらぎった
面で、ヌイと
覗込んで、
「大した勢いでございますのね。」
「ちょっと……出よう。」
……ですもの、舞台どころですか。――
「結構ですわ、ほんとに境さん、ご全盛で。」
「
串戯だろう。」
「役者があなた、この
大入に、花道で、名前の広告をするんだもの。大したものでなくってさ。」
と、くくり
頤を
揺って、しゃくる。
「あれは
洒落だよ、洒落も洒落だし、第一、この人数だ、境というのは。」
売店があるから、ずんずん廊下を反れました。
「何も私一人というんじゃあなかろう。」
「うんえ、あの
台辞で、あなたの桟敷を見て笑ったのを見て、それで気がついた、あなたの来ているのが。……といったわけなんですもの、やすい祝儀じゃでけんでねえ。」
と、どこかのなまりが時々出る。
「馬鹿を言いたまえ、路之助は友だちだぜ。――おかみさん、知ってるじゃないか。」
「それは存じておりますがね、ご全盛には違いませんね。何しろ、しがない待合を、勘定で泣かせようという勢いではありませんです。」
ないが上にもないものを、ありあまってでもあるように。催促の
術をうらがえしに、敵は
搦手へ迫って危い。
「一言もない。が、勢いだの全盛なぞは、そっちの誤解さ、お見違えだよ。」
「見違えましたよ、ほんとうに。」
と衣紋をたくして、
「大した腕だよ、見上げたあよう。」
「何が。」
「なにがじゃあないじゃないかね、といいたくなるよ。ふんとうに。……新橋柳橋、それとも赤坂……ご同伴は。」
「…………」
「ちょっと見掛けませんね、あのくらいなのは。商売がらお恥かしいんだけれど……
三千歳おいらんを素人づくりに……おっと。」
と両袖を
突張って肩でおどけた。これが、さかり場の魔所のような、
廂合から
暗夜が
覗いて、植込の影のさす姿見の前なんですが。
「
芸妓にしたという素敵な玉だわ……あんなのが一人、里にいれば、里の誉れ、まあさね、私のうちへ出入りをすれば、私の内の
名聞ですのよ。……境さん、
貸借も、もとは味方、勘定は勘定、ものは相談、あなたとはお
馴染じゃありませんか。似合ったよ、恐れ入ったよ、ものになってる、
容子がね。うんねさ、だからさ、一度連込んでおいでなさいよ。早い話が……今夜、これから帰りにさ。水打った格子さきへ、あの紫が
裳をぼかして、すり
硝子の
燈に、
頸あしをくっきりと浮かして、ごらんなさい、それだけで、私のうちの
估券がグッと上りまさね。
兜町の、ぱりぱりしたのが三四人、今も見物で一所ですがね。すぐ切上げてもいいんですの。ちょっと一座敷、抜け荷を売りゃ……すぐに三十と五十さ、あなた。あなたの
遊興は、うわになるわ。
もう一息、目を眠って、――直さん……」
(――直さんの意味
詳ならず。談者、境氏に聞かんとして、いまだ果さざる処である――)
「ね、色悪で、あの白々とした
甘い
膚を貸すとなりゃ、十倍だわ。三百、五百、借金も勘定も浮いて出るじゃあないかねえ。」
酒と、女か、目にも口にも借りのある、聾桟敷のとんちきも、むらむらとして、我ながら姿見に色が動いた。
「何をいってるんだ――
同伴はないよ。」
「あら。」
「誰も居やしない。」
「まあ。」
「私一人じゃあないか。」
「おやおやおや。」
「何を見たんだ。」
「ふん、しらじらしい、空ッとぼけもいい加減になさい。あなたがそういう
了簡なら、いいから私は居催促をするから、ここへ坐っちまいますから、よござんすか。」
これこの十九貫、廊下へ、どすんと坐りかねない。
「仕方がない、じゃあ、ほんとうの事をいおう。」
「いわないでさ。そして、ちょっと顔を貸しますか、それとも
膚を……」
「顔にも、膚にも……それは
煙だ。」
「またかね、居催促ですよ、坐りますから。」
「あれは
霞だ、霧なんだよ。」
「
煙草のかねえ。」
「いや
芸妓の……幽霊だ。」
「ええ。」
「この大入に、けちでもつけるようで
可厭だから、いいたくはなかったんだが、どうもそうまでいわれりゃしかたがない。三千歳を素人とか、何とかいったね、それだ、そっくりだ。そりゃ路之助に
憑絡ってる幽霊だ。いいえ、
憑ものは、当人の背中に
負さっているとは限らない――
実は祇園の芸妓だがね、私がこの間、
彼地へ行っていたもんだから、路之助が帰るのに先廻りをして、私を便って来たらしい。またかと思う。……今いわれた時も
慄然としてこの通り毛穴が立ってら。私には何にも見えないんだよ。見えないが、一人で茶屋へ休むと、茶二つ、
旅籠屋では膳が二つ、というのが、むかしからの津々浦々の
仕来りでね、――席には洋服と、男ばかり三人きりさ。それが、お前さんに見えたのは、幽霊に違いない。」
「ひええ。」
しめた。不断の
大臆病。
「行って見たまえ、
覗いてごらん、さあ。それが嘘なら、きっとあそこにいやしない。いても、目には見えないから。」
「気味の悪い……いやだねえ。」
「板一枚のなかは、蒸し上るばかりのこの人数だ。幽霊だってどうするものか。行って覗いて見たまえ、というのに。」
あたかもそこへ、魔の手が立樹を動かすように、のさのさと相撲の群が帰って来た。
「それ、力士連が来た、なお気丈夫じゃあないか。」
と、図に乗っていった。が、この巨大なる
躯は、
威すものにも陰気を浴せた。それら天井を貫く影は、すっくと電燈を黒く
蔽って、廊下にむらむらと影が並んで、姿見に、かさなり映った。
「ここへ来た、幽霊が。」
「ひゃあ。」
「あ、力士の中に
芸妓が居る。」
「きゃッ、あれえ、お関取。助けてえ。」
「やあ、何じゃい。」
縋りつかれた関取がたじろいで、
「どえらい
頭じゃい。
桟俵法師い。」
「お絹さん――お絹さん。ちょっと。」
戸を開けて、立ちながら
密と呼ぶと、お絹は、
金煙管に持添えた、女持ちの
嵯峨錦の筒を襟下に挟んで、すっと立った。
前髪に顔を寄せ、
「何だか落着きません、一度、茶屋へ引揚げよう。」
その夜も――やがて十一時――
清水の石段は、ほの白く、柳を縫って、
中空に高く仰がるる。御堂は薄墨の雲の中に、朱の柱を
聯ね、
丹の扉を合せ、
青蓮の釘かくしを装って、棟もろとも、雪の
被衣に包まれた一座の宝塔のように
浄く
厳しく
聳えて見ゆる。
東口を上ると、薄く
手水鉢に明りのさしたのは、
斜に光を放った舞台正面にただ一つ掲げた電燈で、樹にも土にも、霊境を照らす光明はこの一燈ばかりなのが、かえって
仏燭の霊を表して、竜燈……といっては少し
冥い。しかり、明星の
天降って、
梁を輝かしつつ、
丹碧青藍相彩る、格子に、縁に、床に、高欄に、天井一部の荘厳を映すらしい。
見られよ、されば、全舞台に、虫一つ、
塵も置かず、世の
創の生物に似た
鰐口も、その明星に影を重ねて、
一顆の
一碧玉を
鏤めたようなのが、棟裏に凝って紫の色を
籠め、扉に
漲って
朧なる霞を描き、舞台に
靉靆き、縁を
廻って、
井欄に数うる
擬宝珠を、ほんのりと、さながら夜桜の花の影に包んでいる。
その霞より、なお
濃かに、
靄に一面の
胡粉を
刷いて、墨と、朱と、
藍と、
紺青と、はた
金色の幻を、露に
研いて光を沈めた、幾面の、額の文字と、額の絵と、絵馬の数と、その中から抜き出たのではない、京人形と、
木菟は、道芝の中から生れて出たように上ったが。――
「
車夫、ここだ、ここでおろして。……待っててもらおう。」
俥を二台、東の石段で下りたのです。
「逆縁ながら、といっては間違いかね、手を
曳いてあげようか。芝居茶屋の
階子段のお手際では、この石段は
覚束ない。」
などと、木菟が生意気にいうと、
「大事おへん、
前刻落ちたら、それなり、地獄え。上が清水様どすよって、今度は転んだかて成仏どす。」
などと京人形が口を利いた。
手水鉢で、
蔽の下を、
柄杓を
捜りながら、
雫を払うと、さきへ手を
浄めて、
紅の口に
啣えつつ待った、
手巾の
真中をお絹が貸す……
勝手になさい。
が、こんなのが、初夜過ぎた霊場へ、すらすらと参られようはずはない、東の
階の上には、一本ならべの軽い戸だが、
柵のように閉ざしてあった。
「
前は、こうではなかったはずです……不良でも入るか知らん。」
「こちらも不良どすな、おほ、ほ。」
「怪しからん、――向う側へ。」
と、あとへ
退って、南面に、
不忍の池を真向いに、高欄の縁下に添って通ると、欄干の高さに、御堂の光明が遠くなり、樹の根、岩角と思うまで、
足許が
辿々しい。
さ、さ、とお絹の
褄捌きが床を抜ける冷たい夜風に聞えるまで、
闃然として、袖に褄に散る
人膚の花の香に、穴のような
真暗闇から、いかめの鬼が出はしまいか――私は胸を
緊めたのです。
「まず、
可。」
西側の、ここの階段上は、戸はあるが、片とざしで開いていた。
廻廊の上を見れば、雪空ででもあるように、夜目に、額と額とほの暗く続いた中に、
一処、雲を開いて、千手観世音の金色の文字が
髣髴として、二十六夜の月光のごとく拝される。……
欄干に枝をのべて、名樹の桜があるのです。
その
梢、この額と相対して、たとえば雪と花の縁を、右へ取り、舞台の正面、その明星と、大碧玉の照る処、京人形と木菟が、
玩弄品の
転ったようになって拝んだあとで、床の霞に褄を軽く、
衝と出て、裏紫の欄干に、すらりと立った、お絹の姿は――
この時、幹の黒い松の葉も、
薄靄に
睫毛を描いた風情して、遠目の森、近い
樹立、枝も葉も、桜のほかは、皆柳に見えた。
「ああ、綺麗だ。お絹さん――向い合った不忍の御堂から、天女がきっと覗いておいでだ。」
「おお晴がまし、勿体ないえ。」
と、
吃驚したように、半ばその美しさを思っていて、
羞じたように、舞台を小走りに西口の縁へ
遁げた。遁げつつ薄紫の肩掛で、
髷も
鬢も
蔽いながら、曲る突当りの、欄干の
交叉する
擬宝珠に立つ。
踊の
錬で、身のこなしがはずんだらしい、その行く時、一筋の風がひらひらと裾を巻いて、板敷を
花片の軽い渦が舞って通った。
袖
摺れるほどなれば、桜の枝も、墨絵のなかに
蕾を含んで
薄紅い。
「そこから見えますか、
秋色桜。」
「暗うて、よう見えへんけど……
先度昼来ておそわった事があるよって、どうやらな、底の方の水もせんせんと聞えるのえ。」
「音羽の滝が響くんでしょうが、秋色は見えないはずだ。そこに立っているんだから。」
「またなぶらはる……発句も知らん、地唄の秋色はんて、どないしょ。」
と、振返ると、顔をかくしたままの
羅の紫を、眉が透き、鼻筋が白く通って、
優睨みで
凜とした。
花咲かば告げむと いいし山寺の
使は来たり、馬に 鞍
くらまの山のうず 桜……
ふと、
前刻の花道を思い出して、どこで覚えたか、
魔除けの
呪のように、わざと素よみの口の
裡で、
一歩、
二歩、擬宝珠へ寄った処は、あいてはどうやら鞍馬の山の
御曹子。……それよりも
楠氏の姫が、
田舎武士をなぶるらしい。――大森彦七――
傍へ寄ると、――
便のういかがや――と
莞爾して、直ぐふわりと肩にかかりそうで、不気味な
中にも背がほてった。
「やあ、
洒落れてるなあ。」
――そのころは、上野の山で、夜中まだ取締りはなかったらしい。それでも、板屋漏る
燈のように、細く
灯して、薄く白い煙を
靡かした、おでんの屋台に、
車夫が二人、丸太を
突込んだように、
真黒に入っていたので。
「
羨しいようですね……
串戯じゃない、道理こそ。――来てごらんなさい、こちらの、西側へ
俥を廻わしたのが、石段下に、変に
遥な谷底で、熊が寝ているようですから。」
「動物園かてあるいうよって、
密と出て来やはりしめえんか、おそろしな。」
と、欄干ぞいに、姫ぎみ、お寄りなされたが、さして
可恐くはなさそうで。
「ほんに、谷底のようで
靄が深うおすな、
前刻の
階子段思出したら、目がくらくらとするようえ。」
白い
片掌を田舎武士の背にあてて、
「あの俥がひとりでに、石段を、くるくるまいもうて上って来たら、どないしょ、……火の車になっておそろしかろな。」
「お絹さん、そんなことをいうもんじゃあない。
帰途に怪我でもあると
不可い。」
「それでも、あの段、くるくる舞うてころげた時は、あて、ぱッと帯紐とけて、
裸身で落ちるようにあって、土間は血の池、おにが沢山いやはって、大火鉢に火が燃えた。」
手を触れていて、肌をいう。大森彦七は胸が
唸った。魔を退きょうと
太刀の
柄……
洋杖をカンとついて、
「そんなことをいうから、それ、宙に火が燃えて来た、迎いに来た、それ。」
「ああれ。」
闇を縫って、くるくると巻いて来る、火の一点あり。事実、空間に大きく燃えたが、雨落に近づいたのは、
巻莨で、
半被股引真黒な
車夫が、鼻息を荒く、おでんの
盛込を一皿、
銚子を二本に
硝子盃を添えた、赤塗の
兀盆を突上げ加減に欄干
越。両手で差上げたから巻莨を口に預けたので、煙が鼻に
沁む
顰め面で、ニヤリと笑って、
「へい、わざッとお初穂……若奥様。」
「馬鹿な。」
「ちょっと、手をお貸しなすって。」
「馬鹿な、お初穂もないもんだ。いい加減おみってるじゃないか。」
「へへへ、
煮加減の
宜い処と、お
燗をみて、取のけて置きましたんで、へい、たしかに、その清らかな。」
「馬鹿な、おなじ人間だぜ、くいものは、つッくるみだ。そんな事はかまわないが、大丈夫かい、あとで、俥は?」
「自動車の運転手とは違います、えへへ。
駕籠舁と、
車夫は、
建場で飲むのは仕来りでさ。ご心配なさらねえで、ご
緩り。若奥様に、多分にお心付を頂きました。ご
冥加でして、へい、どうぞ、お初穂を……」
お絹が
柔順に、もの
軟に取上げた、おでんの盆を、どういうものか、もう一度彦七がわざとやけに引取って、
「飛んだお供物、
狒々にしやがる。若奥様は聞いただけでも、
禿祠で
犠牲を取ったようだ。……
黒門洞擂鉢大夜叉とでもいうかなあ。」
縁に差置いた湯気の立つおでんの盆は、地図に表示した温泉の形がある。
椎の葉にもる風流は解しても、
鰯のぬたでないばかり、この雲助の懐石には、恐れて
遁げそうな姫ぎみが、何と、おでんの湯気に向って、中腰に膝を寄せた。寄せたその
片褄が、ずるりと前下りに、
前刻のままで、小袖幕の
綻びから一重桜が――芝居の花道の路之助のは、ただこれよりも緋が燃えた――誘う風にこぼるる風情。
――実は帯を解いて、結び直す間がなかった、茶屋が立籠んだからなので。――あれから、直ぐにその茶屋へ引上げて、吸物一つ、膳の上へ、弁当で一銚子並べたが、その座敷も、総見の
控処で、持もの、預けもの沢山に、かたがた男女の
出入が続いたゆえ、ざっと
夕餉を。……銚子だけは手酌でかえた。今夜は一まず引上げよう、乗ものを、と思う処へ、番頭津山が急いで出て、もうお
俥は申しつけました……という、客あつかいに
馴れたもの。急所を
圧えてこっちからは乗出させぬ。ご都合まで、ご存分な処まで、は、は、は、と口を
圧えて笑うと、お絹が根岸の
藍川館――鶯谷へ、とこの人の口でいうと、町が嬉しがって、ほう、と
微笑んで鳴きそうに聞えた。寂しい処でございますな、境さん――これはお送り下さらないではなりますまい。……勿論。
京では北野へ案内のゆかりがある。切通しを通るまえに、湯島……その鳥居をと思ったが、縁日のほかの
神詣、初夜すぎてはいかがと聞く。……
壬生の地蔵に対するものは、この道順にちょっとない。
そこで、どこよりも清水だったが、待った、待った。広小路の数万の電燈、
靄の海の
不知火を
掻分けるように、前の俥を黒門前で呼留めて「上野を抜けると寂しいんですがね、特に鶯谷へ抜ける坂のあたり、博物館の裏手なぞは。」
「寂しいとこ行きたい、誰も居やはらんとこ大好きどす。」すかし
幌の
裡から、
白木蓮のような横顔なのです。
「大事ないどすやろえ、お縁の……裏の処には、
蜜柑の皮やら、
南京豆の袋やら、掃き寄せてあったよってにな。」
「成程、舞台
傍の常茶店では、昼間はたしか、うで玉子なぞも売るようです。お定りの
菎蒻に、
雁もどき、焼豆府と、竹輪などは、玉子より精進の部に入ります。……第一これで安心して、煙草が吹かせる。灰もマッチ殻も、盆へ落すと。……よくない奴だ。――これはどうもお酌は恐縮、重ねては、なお恐縮、よくない奴だ。」
巻莨と
硝子盃を両手に、二口、三口重ねると、
圧えた芝居茶屋の酔を、ぱっと誘った。
「さあ、お酌を――是非一口、こういうことは年代記ものです。」
お絹も、心ばかり、ビイドロの底を、
琥珀のように含んで、
吻と
呼吸したが、
「ああ、おいし……茶屋ではな、ご飯かて、針を呑むようどしたえ。ほんに、今でも、ひざのとこ、ぶるぶると震えるわ、菎蒻はんのようどすな。」
もう一口。
「あの、これから場所へいうて、二階の上り口へ出ましたやろ。下に大きな人大勢やよって、ちょっと立留まって
覗くようにするとな、ああ、灯が
点れかけの暗さが来て、
逢魔が時や思うたらな、路之助はんの
幟が
沢山、しんなり揃う青い中から、大き大き顔が出てな。」
「相撲のだね。」
「違います、
女子はんの。」
「…………」
「口をばこないにして。」
と結んだ唇を、おくれ毛が
凄く切った、黒い蝶が不意に飛んだように。
「
可恐い顔をして
睨みはった。それがな、路之助はんのおかみはんえ。」
「路之助?……路之助の……」
立女形、あの花形に、蝶蜂の
群衆った中には交らないで、ひとり、
束髪の水際立った、この、かげろうの姿ばかりは、独り寝すると思ったのに――
請う、
自惚にも、出過ぎるにも、聴くことを許されよ。田舎武士は、でんぐり返って、自分が、石段を熊の上へ転げて落ちる
思がした。
「何もな、何も知らんのえ、
私路之助はんのは、あんたはん、ようお
馴染の――源太はん、帯が
弛む――いわはった
妓どすの。それをば何やかて、私にして疑やはってな、疑やはるばかりやおへん、えらいこと
怨みやはる。
……よって、お客はんたちに分れて、一人で寝るとな――藍川館いうたら奥の奥は、鉄道線路に近うおすやろ。がッがッ
響がして、よう寝られん、弱って、弱って、とろりすると、ぐウと、
緊めて、胸倉とって、ゆすぶらはる、……おかみはんどす。キャアいうて、恥かし……長襦袢で
遁げるとな、しらがまじりの髪散らかいて、
般若の面して、目皿にして、出刃庖丁や、
撞木やないのえ。……ふだん、はいからはんやよって、どぎついナイフで追っかけはる。胸かて、手かて、
揉み、
悶えて、苦して、苦して、死ぬるか思うと目が覚める……よって、よう気をつけて
引結え、引結えしておく
伊達巻も何も、ずるずるに解けてしもうて、たらたら冷い汗どすね、……
前刻はな夢でのうて、なおおそろして、おそろして。」
それで、あの、
階子段――
今度は大森彦七が踏みこたえた。
「神経だ、神経ですよ。」
誰でもこの場は知識になる。
「しかし、どうだか、その路之助一件は、事実なのでしょう。」
誰でもこの場は凡夫になる。
「つらいこと。」
と、
斜にそむいて、
「あんたはんまで、そない言わはる、
口惜いえ。」
「が、しかし、つらいでしょう。」
莨を捨てて
硝子盃を取って、
「そんな時は、これに限る。
熱燗をぐっと引っかけて、その勢いで寝るんですな。ナイフの一
挺なんざ、
太神楽だ。小手しらべの一曲さ。さあ、一つ。」
「やどへ行て。」
「成程。」
「あんたはん、のましてくりゃはりますか。」
「飲ませますとも。」
「嬉しいな、段で、抱いてくれやはった時から、あんたはんは
生命の親どす。」
真顔で、こうまでいわれたのには、酒が
支えた。胸の澄まない事がいくらある……
「お
言で痛み入る。」
と、もう一息ぐっと
呷って、
「――実は
串戯だけれどもね、うっかり、人を信じて、
生命の親などと思っては
不可せん。人間は
外面に出さないで、どういう
不了簡を持っていないとも限りません。
こういう私ですがね、笑い事じゃあるけれども、夢で般若が追廻すどころか、口で、というと、大層
口説でもうまそうだ。そうじゃない、心で、お絹さんを……」
「私をえ?」
「幽霊にしましたよ。ご免なさいよ。殺した事があるんだから。」
「あんたはんがな。」
前髪がふっくり揺れて…
差俯向く。
「本望どすな。」
と
莞爾して、急に上げた
瓜核顔が、差向いに軽く
仰向いた、眉の和やかさを見た目には、擬宝珠が花の雲に乗り、霞がほんのりと縁を包んで、欄干が遠く見えてぼうとなった。その霞に浮いて、ただ御堂の白い中に、未開紅なる唇が夜露を含んで咲こうとする。……
「あれえ。」
声を絞ると、擬宝珠の上に、
円髷が空ざまに振られつつ、
「蛇が、蛇が。」
「何、蛇が。」
「赤い蛇が。」
赤い蛇は、
褄の乱れた、きみの裾のほかにあるものか。
「膝が震えて、足が縮む……動けば落ちようし、どないしよう。」
と欄干に、わなわな。
「今時蛇が、こんな処へ。……不忍の池には白いのがいるというが。」
と、わざと落着いたが、足もとはうろつきながら、
外套の袖で、
背後状にお絹を囲った。
「額の、額の。」
ああ、
幽に見ゆる観世音の額の
金色と、中を
劃って、霞の畳まる、横広い一面の額の隙間から、
一条たらりと下っていた。
「紐だ、紐ですよ。何かの。」
勇を示して、示しついでに、ぐい、と引くと、
「あれ、……白い顔。」
声とともに、くなりと膝をついたお絹が、
背後から腰につかまった。
「上から
覗かはる……どうしようねえ。」
お聞きづらかろうが、そういった意味で、身震いをする勢いが手伝って、紐に、ずるずると力が入ると、ざ、ざ、ざ、と
摺れて、この場合――ごみも
埃もいってはおられぬ。額の裏から、ばさりと
肘に乗ったのは、
菅笠です。鳩の羽より軽かったが、驚くはずみの足踏に、ずんと響いて、どろどろと縁が鳴ると、
取縋った手を、アッと離して、お絹は、板に手をついて、
真俯向けになりました。
おでんの膳なぞ
一跨ぎに、今度は私の方が欄干へ乗出して、外套を払った。かすりの羽織の左の袖で、その笠の
塵を払ったんです。一目見ると分ったのです。女の蒼白く見えたのは、絵の具です。彩色なんです。そうして、笠に描いたのは、……朝顔――
「朝顔?」
ここに写し取る今は知らず。境の話を聞くうちは、おでん
燗酒にも酔心地に、前中、何となく桜が咲いて、花に包まれたような気がしていたのに、桃とも、柳ともいわず、藤、山吹、
杜若でもなしに、いきなり朝顔が、しかも菅笠に、夜露に咲いたので、聞く方で、ヒヤリとした。この篇の著者は、そこで、境に
聞反したのであった。
「朝顔?」
と。
「――その時から、やがて八九年前になります――山つづきといっても
可い――鶯谷にも縁のありますところに、
大野木元房という、
歌人で、また
絵師さんがありまして、大野木夫人、元房の細君は、私の女友だち……友だちというよりおなじ先生についた、いわば同門の弟子兄妹……」
こう話しかけた、境辻三の先師は、わざと大切な名を秘そう。人の知った、大作家、文界の巨匠である。
……で、この
歌人さんとは、一年前、結婚をしたのでしたが、お
媒酌人も、私どもの――先生です。前から、その縁はあるのですけれども、
他家のお嬢さん、毎々往来をしたという中ではありません。
清瀬
洲美さんというんです。
女学校出だが、下町娘。父親は、相場、鉱山などに
引かかって、大分不景気だったようですが、もと大蔵省辺に、いい処を勤めた、退職のお役人で、お嬢さん育ちだから、品がよくちょっと権高なくらい。もっとも、十八九はたちごろから、時々見た顔ですから、男弟子に向っては、澄ましていたのかも知れません。薄手で寂しい、眉の
凜とした
瓜核顔の……
佳い
標致。
申すのを忘れますまい。……さしあたり、……のちの祇園のお絹を東京にしたような人だったんです――いや、どうも、若気の
過失、やがての後悔、正面、あなたと向い合っては、
慙愧のいたりなんですが、私ばかりではありません。そのころの血気な
徒は、素人も、堅気、令嬢ごときは。……へん、
地者、と
称えた。何だ、地ものか。
薬でも、とろろはあやまる。……誰もご馳走をしもせぬのに。とうとい処女を
自然薯扱い。
蓼酢で
松魚だ、身が買えなけりゃ塩で
揉んで蓼だけ
噛れ、と悪い虫めら。川柳にも、(
地女を振りも返らぬ
一盛。)そいつは
金子を使ったでしょうが、こっちは
素寒貧で志を女郎に立てて、投げられようが、振られようが、
赭熊と
取組む
山童の勢いですから、少々薄いのが難だけれど――すなおな髪を、文金で、打上った、妹弟子ごときものは、眼中になかったのです。
お洲美さんが、大野木に縁づいたのは二十二の春――
弥生ごろだったと思います。その夏、土用あけの残暑の
砌、朝顔に人出の盛んな頃、
入谷が近いから招待されて、先生も供で、野郎連中六人ばかり、大野木の二階で、
蜆汁、
冷豆府どころで朝振舞がありました。新夫人……はまだ島田で、
実家の父が酒飲みですから、ほどのいい
燗がついているのに、暑さに
咽喉の乾いた処、息つぎとはいっても、生意気な、
冷酒を茶碗で
煽って、たちまちふらふらものになって、あてられ気味、頭を抱えて
蒼くなった処を、ぶしつけものと、人前の用捨はない、先生に大目玉をくらって、上げる顔もなかった処を、「ほんの一口とおいいなさいましたものを、私がうっかりもり過ぎて」と妹分の優しい取なし。それさえ胸先に
沁みましたのに、「あちらでおやすみなさいまし。」……次ぎの
室へ座を立たせて――そこが女作家の書斎でしたが。
蚊がいますわ、と
団扇で払って、丸窓を開けて風を通して、机の前の
錦紗のを、背に敷かせ、黙って枕にさせてくれたのが。……
今更
贔屓分でいうのではありません、――ちょッ、
目力(助)
編輯め、女の徳だ、などと蔭で皆
憤懣はしたものの、私たちより、
一歩さきに文名を
馳せた
才媛です、その文金の
高髷の時代から……
平打の
簪で、筆を取る。……
銀杏返し、襟つきの
縞八丈、
黒繻子の
引かけ帯で、(たけくらべ)を書くような婦人も、一人ぐらい欲しいとは、お思いになりませんか、お互いに……
月夜の水にも花は咲く。……温室のドレスで、エロのにおいを散らさなければ、文章が書けないという法はない。
――話はちょっとそれました。が、さあ、前後しました。後一年、不断、不沙汰ばかり、といううちにも、――大野木宗匠は、……
常袴の紺足袋で、炎天にも
日和下駄を
穿つ。……なぜというに、男は肝より丈まさり、応対をするのにも、見上げるのと、見下ろすのでは、見識が違う。……その用意で、その癖ひょろりと脊が高い。ねばねばと優しい声を、舌で
捏ねて、ねッつりと歯をすかす、
言のあとさきは、
咽喉の奥の方で、おおんと、
空咳をせくのをきっかけに、指を二本鼻の下へ当てるのです。これは
可笑しい。が、みつくちというんじゃありませんが、上唇の
真中が、ちょっと歯茎を
覗かせて反っているのを隠すためです。言語、容体、虫が好かなくって大嫌い。もっともそれでなくっても、上野の山下かけて車坂を過ぐる時※
[#小書き片仮名ン、426-4]ば、三島神社を右へ曲るのが、
赤蜻蛉と
斉しく本能の天使の翼である。根岸へ入っては自然に背く、という哲人であったんですから、つい近間へも寄らずにいました。
郷里――秋田から
微禄した織物屋の息子ですが、どう間違えたか、弟子になりたい決心で上京して、私を便って、たって大野木宗匠を師に仰ぎたい、素願を貫かしてもらいたい、是非、という頼みです。
頼まれた。……頼まれたものは仕方がない。しかも、なくなった私の父がこの織物屋に世話になった義理がある……先生の内意も伺った上……そこで大野木をたずねたのですが、九月末、もう、朝夕は身にしみますのに、羽織は衣がえの時から……質です。
ゆかた一枚、それも織ったんじゃありません、北国人の
鎧ですから、ものほしそうな
瓦斯織の
染縞で、安もの買の汗がにおう。
こいつを、二階の十畳の広間に引見した
大人は、
風通小紋の
単衣に、白の
肌襦袢、少々汚れ目が黄ばんだ……兄妹分の新夫人、お洲美さんの手が届かないようで、悪いけれども、新郎、
膏が多いとお心得下さいまし。――
綾織の帯で、塩瀬紺無地の
袴。
総ついた、塗柄の
団扇を手まさぐる、と、これが内にいる
扮装で、容体が分りましょう。
鼻の下へ、例の、指を立てて、「おおん」と飲み込んでくれました。「不思議な縁ですね、まだ
下極りで、世間に発表はしないけれども、今度、仙台の――
一学校の名誉教授の内命を受けて、あと二月ぐらいで任に赴く。――ま、その事になりました。ちょうど幸い、内弟子、書生にして連れて行こう、
宜しくば。」……も何もない。願ったり
叶ったり、話は思う壺へはまったのですが。――となりの、あの、小座敷で、あの、朝顔の、あの朝――
手細工らしい
桔梗の
肘つきをのせて、絵入雑誌を幾冊か、重ねて、それを枕にさして、黙って顔を見ると、ついた膝をひいて立ちしなに「憎らしい。」……ただ、その雑誌一冊ものなぞ、どれも皆――ろくなものではありませんが、私のかいたのが入っていたのを、後姿と一所に、半ば起きに、
密と見た時、なぜか、
冷酒が氷になって、目から、しかも、熱いものがほろほろと
湧きました。
時に、その人がいま出て来ません。その癖、訪れた玄関では、女中よりさきに、出迎えて、二階へ通してくれたのに、――茶を運んだのも女中です。
庭で
蟋蟀の鳴くのが聞える。
蔦の葉の浴衣に、
薄藍と
鶯茶の、たて
縞お召の
袷羽織が、しっとりと身たけに添って、紐はつつましく結んでいながら、
撫肩を弱く
辷った藤色の裏に、上品な気が見えて、
緋色無地の
背負上が
媚かしい。おお、紫
手絡の円髷だ。透通るような、その薄化粧。
金銀では買えないな。二十三か、ああ、おいらは五になる。作者
夥間の、しかも
兄哥が、このしみったれじゃあ、あの亭主にさぞ肩身が狭かろう、と
三和土へ入ると、根岸の日蔭は、はや薄寒く、見通しの庭に
薄が
靡いて、秋の雲の白いのが、ちらちらと、青く澄んだ空と一所に、お洲美さんの
頸に映った。
目の前にあるその姿が、二階へは来ないのです。御厚意は何とも。しかし内弟子に住込ませるとまでおっしゃって下さいますと、一度(何といおう……――女史。)女史に御相談の上でありませんといかがでしょうか。「おおん」と
咳して、「ところがね、それが妙ですよ、不思議です。――
妻がね、今朝です――今日は境さんが見えそうな気がする、というのです。ついぞ、おいでになりもせぬのに、そんなことが、といいますとね、手をお出しさない、手の筋を見てあげましょう。あなたの今日の運命にも
顕われるから。――そういうのでね、手を見せました。……妻に、あんなかくし芸があるとは知りませんでしたよ。妻が予知して、これが当って、門生志願が秋田の産、僕の赴任が仙台という、こう揃ったのに、何の故障がありますか。……お
庇でね、おおん、お庇もおかしいですが、手の筋で、妻と握合いました。……境さん、変な話ですが、お互いに、芸術家は情熱をもって生命として
活きるのですな。妻もご同門ではあり、芸術家です、どんなに、その愛情が
灼熱的であろうか、と期待しましたのに、……どうも冷たい。いかにも冷やかですが、
稟性のしからしむる処ですかな。あるいは、あなた方、先生の教えは、芸に熱して、男女間は淡泊、その濃密
膠着でなく、あっさりという方針ででもおあんなさるか、一度内々で、と思った折でもありますのでして。…」…失礼します。……
居堪らなくて、座を立つと、――「散歩をしましょう。上野へでも、秋の夕景色はまた格別ですよ。」こっちはひけすぎの
廊下鳶だ。――森の
夕鴉などは性に合わない。
「あの、いま、そういおうと思っていた処です。なんにもありませんが、晩のご飯を。」
まだ入れかえない
葦戸に立って、夫人がほの白く、寂しそうに薄暮合を、ただ藤紫で染めていた。
その背の、奥八畳は、絵の具皿、筆おき、
刷毛、
毛氈の
類でほとんど一杯。で、茶の間らしい、中の間の
真中に、
卓子台を据えて、いま、まだ焼海苔の皿ばかり。
三巴に並んだ座蒲団を見ると、私は玄関へ立ち切れなかった。
「すぐお
燗がつきますが。境さん、さきへ
冷酒ですか。」
「いや、
断ものです。」
と
真中へよれよれの袖口を、そっとのばして、坐ると、どうも、そっちが上席らしい、奥座敷の方へお洲美さん。負けてはいないな、妹よ、何だか胸が熱くなる。紺の
袴は、入口の茶棚
傍を勢い
然るように及んで、着席です。
「
牛が
宜しい……書生流に、おおん。」
亭主のすきな
赤烏帽子を
指揮する処へ、つくだ煮を
装分けた
小皿に添えて、女中が銚子を運んで来た。
「よく、いすいだかい。」
「綺麗なお銚子。」
色絵の萩の薄彩色、
今万里が露に濡れている。
「妻の婚礼道具ですがね、里の父が飲酒家だからですかな。僕は一滴もいけますまい、妻はのまず。……おおん、あの、朝顔以来、内でこれの出たのはそうですなあ、大掃除の時、出入りの
車夫に振舞うたばかりですよ。」
「お毒見をいたします。」
お洲美さんが白い手で
猪口を取った。
「
注いで下さい。」
大人驚いた顔をして、
「飲むのかね。」
「大掃除の時の車夫のお銚子ですから。――この方は、あの、雲助も同然の身持だけれど……先生の可愛い弟子です。」
かねて、切れた
眦が
屹として、
「間違いがあると、私が、先生に申訳がありません。」
「おおん、何か、私の
饒舌った意味を取違えているようだけれど、いいさ、珍らしく飲むのも
可かろう……注ぐよ。」
「なみなみと。もう一つ。もっと、もう一度。」
歯ぎしみするように、きッきッと。
「ああ、飲んだ。」
と、もう白澄んだ
瞼を染めた。
「境さん、いいでしょう、上げますわ。」
「
駕籠屋は
建場を急いでいます、早く飲もうと思ってね。」
「おいらんのようにはいきません。お酌は
不束ですよ、許して下さい。」
「こっちも駆けつけ三杯と、ごめんを被れ。雲足早き雨空の、おもいがけない、ご馳走ですな。」
と、夫人と見合った目を庭へ
外らす。
大人の
頤が上って、
「大分
壮になりましたな、おおん。」
「あなた、電燈を
捻って下さい。」
牛肉もふつふつ煮えて来た。
といううちにも、どういうものか、皿に拡げた、
一側ならべの肉が、
鍋へ入ると、じわじわと鳴ると
斉しく、
箸とともに
真中でじゅうと消え失せる。
注すあと、注すあと、
割醤油はもう
空で、
葱がじりじり焦げつくのに、
白滝は水気を去らず、
生豆府が
堤防を築き、
渠なって湯至るの観がある。
「これじゃ、牛鍋の湯豆府ですのね。」
ふうと、お洲美さんの鼻のつまった時は、お銚子がやがて四五本目で、それ湯を、それ焦げる、それ湯を、さあ湯だ、と
指揮と働きを亭主が一所で、鉄瓶が
零のあとで、
水指が空になり、
湯沸が
俯向けになって、なお足らず。
大人、威丈高に伸び上って、台所に向い、手を
敲いて、
「これよ、水じゃ、水じゃ。」
が、妹分のために、苦にせまい。肉の薄いのは
身代の
痩せたのではない。大人は評判の蓄財家で、勤倹の徳は、範を近代に垂るるといっても可いのですから。
その証拠には、水騒ぎの最中へ、某雑誌記者、
気忙しそうで口早な痩せた男の訪問があり、玄関で押問答の上、二階へ連れて上ったのは……
挿画何枚かの居催促、大人に取っては、地位転換、面目一新という、某省の辞令をうけて、区々たる挿画ごときは顧みなかったために債が迫った。顧みないにした処で、受合った義理は義理で、
退引ならず二階で、膝詰の
揮毫となる処へ、かさねて、某新聞の記者、こちらは月曜附録とかいう歌の選の督促で一足
後れたが、おくれただけ、なお怒ったように、
階子段を、
洋袴の割股で押上った。この
肥ったので、二階へ
蓋をしたように見えました。
「
流行るんだなあ。」
編輯、受附、出版屋、相ともに持込むばかりで、催促どころか、めったに訪問などされた事のない、兄弟子は、夜風を
横外頬へ、げっそりと腹を空かして、
「結構ですな。」
枯野へ霜がおりたような、豆府の土手の冷たいのに、
押取って、箸を向けると、
「およしなさい。」
と酔とともに、ふらふらとかぶりを振って、
「牛鍋の湯豆府なんか、私の御馳走ではないのですから。……あなたのお頼みなさいました、そのお弟子さんですがね、内へおいでなさるんなら、この覚悟、ね、より以上かも知れませんから。お
葱や、豆府はまだしも、
糸菎蒻だと思って下さいましね。お腹が冷たくなるんですから……お酒はあります。あ、私にも飲まして頂載。もう
一杯もっとさ。」
「いや驚いた、いけますなあ。」
「一生に一度ですもの。」
「え。」
「いいえ、二度です。婚礼の晩、飲みましたの。酔いましたわ。」
「乱暴だなあ。しかし、痛快だ。お酌をするのも頂くのも、ともに光栄です。」
「お兄上。」
「…………」
「おほ、ほ。ああ酔った。私……お兄上にあたる方にお酌をさして罰が当る。……前に、あなたが、まだ、先生のお玄関にいらっしゃる時分、私が時々うかがう
毎に、駒下駄を直さして、ああ、勿体ない、そう思う、思う心は、口へは出ず、手も足も固くなるから、
突張って、ツンツンして、さぞ高慢に見えたでしょう。髪の毛一筋抜けたって、女は
生命にかかわります。置きどころもない
身体を、あなたの目に
曝すんですもの、
形も
態もありはしません。文学少女とかいうものだって、鬼神に横道なしですよ。自分で卑下する心から、気がひがんで、あなたの顔が憎らしかった。あなたも私が憎いのね。――ああ、
信や(女中)二階で手が鳴る。――虫が
煩い。この
燈を消して、
隣室のを
点けておくれな。」
その間、
頸脚が白かった。
振仰向くと、
吻と息して、肩が揺れた、片手づきに膝をくねって、
「ああ、酔って来た、境さん、……おいらんとは。お
睦じい?……」
と、バタリと畳へ手をつくと、浴衣の
蔦は
野分する。
「何をいってるんです。」
「おいらんは何て方?……
十六夜さん、
三千歳さん?」
「薄雲、高尾でございます。これでもそこらで、
鮨を
撮んで、
笹巻の笹だけ
袂へ入れて振込めば、立ちどころに仙台様。――庭の
薄に風が当る。……
――寂しいな、お洲美さん、急に何だか寂しい気がする、仙台へ行ってしまわれては。」
「ですけどね、あの、ほかの世話はかまいませんけど、
媒妁だけは、もう止してね。」
と、眉が迫って見据えるのです。
「媒妁?」
「――名はいいますまい、売ッ子ですよ。私たちのお弟子なかまではありません。別派、学校側の花形で、あなたのお友だちの方に――わかりまして……私を、私をよ、嫁に、妻に世話しようとなすったのは
誰方でした。」
「そ、それは、しかし、勿論、何だ。別派、学校側の……
可。……その男が、私を通じて、先生まで申出てくれと頼まれたものだから……」
「お料理屋へ私をお呼び下すって……先生が、そのお話を遊ばしたんです。――境が橋わたしの口を、口を利いた、と一言……一言おっしゃるのを聞いた時、私、私……」
「お待ちなさい、待ちたまえ。――だから断ったから差支えないでしょう。」
「ええ、断りましたわ、誰があんな――あんな男に世話しようなんのって、私、あなたが、私あなたが。」
「そりゃ無理だ、そりゃ無理だ、お洲美さん、あなたが、あの男を好きだか、嫌いだか、私がそれを知るもんですか。」
「だって、だって、ちっとでも、私を、私を思って下すったら、
怪我にもあんな、あんな奴に。」
「無理だ、そりゃ乱暴だ。」
「ええ、無理です、乱暴です。だから、私、すぐそのあとで、それまで人をかえ、手をかえ、話があるのを断っていた――よござんすか――私も、あなたが大嫌いな、一番嫌いな、何より好かない、
此家へ縁付いてしまったんです。ほ、ほ、ほ。」
太白の糸を
噛んだように、白く笑って、
「乱暴でしょう。乱暴、乱暴だけど、あの一番嫌いな人を世話しようとした、その
口惜さに、世話しようとした人の、あなたですよ、あなたの一番嫌いな男の
許へ縁についた。無理です、乱暴です。乱暴ですけど、あなたは、あなただって、そのくらいな著作をなさるじゃありませんか。」
「何にもいわない。――もう、朝顔の、ま、枕の時から、一言もないのです。私は坊主にでもなりたい。」
お洲美さんは、

っていた目を閉じました。そして、うなずくように
俯向いた
耳許が
石榴の花のように見えた。
「私は巡礼……
もうこの間から、とりあえず仙台まででも、奥州を巡礼してゆきたい気がするんです。まったくですわ。そういったら、内の女中ッたら、ねえ、あの、私のような
汚がり屋さんが、はばかりをどうするって笑うんですの。巡礼といえば、いずれ木賃宿でしょう、野宿にしたって、それは困るわね。でも、真面目ですよ、ご覧なさい――
昨日も上野の浄明院
石占寺の万体地蔵様に、お参りをして、五百体、六百体と、半日、日の暮方まで巡りましたらね、(水木
藻蝶。)いい名でしょう、踊のお師匠さんに違いないのです。(行年二十七)として、名を刻んだ地蔵様が一体、
菅笠を――ああ、暑い、私何だか目が霞む。――菅笠を。……めしていらっしゃるんなら、雨なり、露なり、取るのは遠慮だったんですけど、背中に掛けておいでなすったもんだから、外して、本堂へ持って行って、お布施をして、坊さんに授けて貰って来たんです。――これだって女です、巡礼しても、ちっとでも、形のいいように、お師匠さんのを――あの、境さん、菅笠を抱きました時に、何となく、今日ね、あなたがいらっしゃる気がしたんですよ――そ、それに二十七だとすると、もう五年生きられますもの。――押入なんかに
蔵っておくより、昼間はちょっと秋草に預けて、花野をあるく姿を見ようと思いますとね、萩も
薄も寝てしまう、
紫苑は弱し。……さっき、あなたのおいでなすった時ですよ、ちょうど鶏頭の上へ乗っけて見ましたの。そうすると、それがいい
工合に。」
ああ、そうか、鶏頭か。
春日燈籠をつつんで、薄の穂が白く
燈に映る。その奥の暗い葉蔭に、何やら笠を
被った黒いものが立っていて、ひょろひょろと動くのが、ふと目に着いてから気にかかった。が、決意もなく、断行もない、坊主になりたいを口にするとともに、どうやら、
破衣のその袖が、ふらふらと誘いに来そうで不気味だった。
「見せますわ、見せましょうね。巡礼を。」
「大賛成です。」
「水木藻蝶さん、うつくしい人の面影ですよ。」
どこで脱いだか、はッとたちまち、うす鼠地に
蔦を染めた、女作家の、庭の
朧の立姿は、羽織を捨てて、鶏頭の竹に添っていた。
軽くはずして、今、
手提に引返す。帯が、もう
弛んでいる。さみしい好みの
水浅葱の
縮緬に、
蘆の葉をあしらって、
淡黄の肉色に影を見せ、蛍の首筋を、ちらちらと
紅く染めた蹴出しの色が、雨をさそうか、葉裏を冷く、
颯と通る
処女風に、蘆も蛍も
薄に映って、露ながら白い素足。
二階の裏窓から漏れる電燈に、片頬を片袖ぐるみ笠を黒髪に
翳して、隠すようにしたが、蓮葉に
沓脱をひらりと、縁へ。
「ふらふらする。ちょっと
歩行くと、ふらふらしますわ。酔っちまって。」
と、元の座にくずれた。
「ああ私、何だか分らない。」
ふう、と
仰向けに胸の息づかい、
乳の蔦がくれの
膨みを、ひしと菅笠で
圧えながら、
「巡礼に御報謝……ね。」
と、切なそうに微笑んだ。
電燈を
背後にして、襟のうすぐらい、胸のその菅笠が、ほんのりと、
朧に白い。
「や、お洲美さん、失礼ですが、隠して下さい、笠を
透して胸が白い、乳が映る。」
「見えますか。」
「申すも
憚りだが、袖で隠して。」
「いいえ、いいえ。」
おくれ毛が
邪慳に揺れると、頬が
痩せるように見えながら、
「嬉しい、胸が見えるんです。さ、遮るものなしに通った、心の
記念に、見える胸を、笠を通して
捺塗って見て下さい。その幻の消えないうちに。色が白いか何ぞのように、
胡粉とはいいませんから、墨ででも、
渋ででも。」
「雪が
一掴みあればいいと思う。」
「信や……絵の具皿を
引攫っておいで。」
「穏かでない、穏かでない、
攫うは乱暴だ、私が借りる。」
胡粉に筆洗を注いだのですが。
「
画工でないのが
口惜いな。」
「……何ですか蘭竹なんぞ。あなたの目は
徹りました、女の乳というものだけでも、これから、きっと立派な文章にかけるんです。」
――以来、乳とかく時は一字だけも胡粉がいい――
と
咄嗟に思って、手首に重く、脈にこたえて、筆で染めると、解けた胡粉は、ほんのりと、笠よりも
掌に響き、雪を円く、暖かく、
肌理滑らかに
装上る。色の白さが
夜の
陽炎。
「ああ、ああ、
刺青ッて、こんなでしょうか。」
居ずまいの乱るる
膚に、
紅の
点滴は、血でない、蛍の首でした。が、筆は我ながら
刀より鋭く、双の乳房を、
驚破切落したように、立てていた片膝なり、思わず、

と尻もちを
支いた。
お洲美さんは、うっとり目を
開き、膝を
辷って、蹴出しを隠した菅笠に、
両の白いものを
視て、
擽ったそうに、そッと撫でて、
「……熱いわ――この乳も酔っている……」
と、いって寂しく
微笑んだ。
「人目があります。これでは巡礼して、肌を
曝しては、あるかれませんね。ぽっちり薄紅を引きましょうか、……まあ、それだと、乳首に見えようも知れません。」
浅葱の絵の具を取って、線を入れた。白雪の乳房に青い静脈は
畝らないで、うすく輪取って、双の大輪の朝顔が、面影を、ぱっと咲いた。
蔓を引いて、葉を添えた。
「うまいなあ、大野木夫人。」
「知らない。――このくらいな絵は学校で習います。
同行二人――あとは、あなた書いて下さいな。」
「御意のままです、
畏まった。」
「薄墨だし……字は余りうまくないのね。」
「弘法様じゃあるまいし、巡礼の笠に、名筆が要りますか。」
「頂くわ、頂きますわ。」
と、
被ろうとする。
「お、お待ち下さい。――二階が余り
静です。
気障をいうようだが……その上になお、お
髪が乱れる。」
「
可厭な、そんな事は、おいらんに。」
「ああ、坊主になります。」
首を縮めた。
「ちょうどいい、坊主が
被って見せましょう。」
と、魔がさしたように、いや、仏が導くように、笠を被ると、笠の下で、笠を被った、笠の男が、笠を被って、ひとりでに、ぶらぶらと
歩行き出したのです。
中の
室から、玄関へ、式台へ、土間へ、格子へ。
ハッと思わず気が着いたが、
「お洲美さん、貰って
行きます。」
我知らず声が出ました。
「あれ、奥様。」
女中が飛出す。
お洲美さんは、式台に一段
躓きながら、
褄を投げて、障子の桟に
縋ったのでした。
ぶつぶつと、我とも分かず、口の
裡で、何とも知らず、覚えただけの経文を
呟き呟き、鶯谷から、上野の山中を


って
歩行いた
果が、夜ふけに、清水の舞台に上った。そうして、朱の扉の端に片よせて、
紅緒をわがね、なし得る布施を包んだ
手帖の引きほぐしに、
大慈のお ん心にまかせ三界迷離の笠一蓋
よしなにおん計 いのほど奉願上候
……夜 巡礼者
当御堂 お執事中 礼拝
舞台を下りると、いつか緒の解けたのが、血のように
絡わって、生首を切って来たように見えます。秋雨がざっと降って来る。……震え、震え、段を戻って、もう一度巻込んで、それから、ひた走りに、駆出しましたが。
お洲美さんは――水木藻蝶の年も待たず、三年めに、産後で
儚くなりました。
「その紅緒なんです。その朝顔の笠、その面影なんです。――」
「――お絹さん、宿へ行って話しましょう。――この笠に、深いわけがあるんですから。」
「そしたら、泊っておくれやすえ、
可恐いよって。」
「大きに。」
お洲美さんの思出のために、目の前の誘惑に対する余裕が出来て、と、軽く受けて、……我ながらちょっと男振を上げながら、夜露も身に
沁む、袖で笠を抱きました。
「旦那、帰ってもいいんでござんしょう。」
藍川館の玄関へ引込んだ時、酔った
車夫がニヤニヤと声を掛けた。
「ほんに。」
「いや、一台は、そのまま。
幌は掛けたまま頼むよ。」
笠を預けて出たんです。が、今おもっても、冷汗が流れます。この
俥をかえしていたら、何の面目があって、世にお目に掛かられよう。
見て下さい。――曲りくねった長い廊下を、そうでしょう、すぐ外は線路だという、奥の奥座敷へ通って、ほとんど秘密室とも思われる。中は広いのに、ただ狭い
一枚襖を開けると、どうです。歓喜天の
廚子かと思う、
綾錦を積んだ
堆い夜具に、ふっくりと
埋まって、暖かさに乗出して、
仰向けに寝ていたのが、
「やあ。」
という、
枕が二つ。……
「これはおいでなさい。」
眉の青い路之助が、八
反の
広袖に、桃色の
伊達巻で、むくりと起きて出たんですから。
「遅いので、何のおもてなしも。……さ、さ、蜜柑でも。」
片寄せた長火鉢の横で、蜜柑の皮。筋を
除る、
懐紙の薄いのが、しかし、蜘蛛の巣のように見えた。
「――そうですか、いずれ明日。――お供を……」
「いや、待たせてあります。」
路之助は、式台に、色白くその伊達巻で立った。
お絹が
廂を出て、
俥の輪に
摺り寄った処を、
「握手をしますよ。」
半身を
幌から
覗くと、
「は、は、は、どうぞしっかり。」
「さようなら。」
「お静かに。」
「ああ、お洲美さん。」
万一、
前刻に御堂の縁で、唇を寄せたらば、恥辱に
活きてはいられまい。――
「お洲美さん、全く、お
庇だ。お洲美さん。」
「旦那、どうか、なさいましたか、旦那。」
「うむ。」
踏切の坂を
引あげて、寛永寺横手の
暗夜に、石燈籠に囲まれつつ、
轍が落葉に
軋んだ時、
車夫が振向いた。
「
婦の友だちだよ。」
「旦那。」
車夫は、藍川館まで
附絡った、美しいのに
遁げられた、
色情狂だと思ったろう。……
「うつくしい、
儚い人だよ。私の
傍に居るようだ。」
「ぎゃあ。」
「ついでにおろしておくれ、山の中を巡礼がしたくなった。」
「降り出しましたぜ、旦那。」
「野宿をするのに、雨なんぞ。……あなたは濡らさない、お洲美さん。」
「わあ、大きな燈籠の中に青い顔が、ぎゃあ。」
俥を棄てた。
術をもって対すれば、俳優何するものぞ。ただしその頃は、私に台本、戯曲を
綴る気があった。ふと、演出にあたって、劇中の
立女形に
扮するものを、路之助として、
技の意見、相背き、
相衝いて反する時、「ふん、おれの
情婦ともしらないで。……何、人情がわかるものか。」と侮蔑されたら何とする?!……
「ああ、お洲美さん、ありがとう。」
と朝顔の笠を両袖で――外套は宿へ忘れて来た――袖でひしと抱いて、桜を誘う雨ながら、ざっと一しきり降り来る中に、怪しき巨人に襲わるる、森の恐怖にふるえつつも、さめざめと涙を流した、石燈籠が泣くように。……
昭和七(一九三二)年四月