白花の朝顔

泉鏡花





「あんた、居やはりますか。」
 ……唄にもある――おもしろいのは二十はたちを越えて、二十二のころ三のころ――あいにくこの篇の著者に、経験が、いや端的に体験といおう、……体験がないから、そのおもしろいのは、女か、男か。勿論たれに聞かしても、この唄は、女性の心意気に相違ないらしいが、どんなのを対手あいてにした人情のあらわし方だか、男勝手にはちょっときめにくい。ただしどう割引をした処で、二十二三は女盛り……近ごろではいっそ娘盛りといってい。しかも著者なかま、私の友だち、境辻三によって話された、この年ごろの女というのは、祇園ぎおん名妓めいぎだそうである。
 名妓? いかなるものぞ、と問われると、浅学不通、その上に、しかるべき御祝儀を並べたことのない私には、新橋、柳橋……いずくにも、これといって容式をお目に掛ける知己ちかづきがない。遠いが花の香とことわざにもいう、東京の山の手で、祇園の面影を写すのであるから、名妓は、名妓として、差支えないであろう。
 また、何がゆえに、浅学不通までちまけて、こんな前書をするかといえば、実はその京言葉である。すなわち、読みはじめに記した「あんた、いやはりますか。」――は、どう聞いても、祇園の芸妓げいこ、二十二、三の、すらりと婀娜あだ別嬪べっぴんのようじゃあない。おのぼりさんが出会でっくわした旅宿万年屋でござる。女中か、せいぜいで――いまはあるか、どうか知らぬ、二軒茶屋で豆府を切る姉さんぐらいにしか聞えない。嫋音じょうおん嬌声きょうせい、真ならず。境辻三……巡礼が途にまどったような名の男の口から、直接じかに聞いた時でさえ、例のうぐいすの初音などとは沙汰さたの限りであるから、私が真似まねると木菟みみずくに化ける。第一「あんた、居やはりますか。」さて、思うに、「あの、居なはるか。」とおとずれたのだか、それさえ的確さだかではないのだそうであるから、構わず、関東の地声でもってやッつける。
 谷の戸ではない、格子戸を開けたときの、前記の声が「こんちは、あの……居らっしゃいますか。」と、ざっとかわるのであることを、諸賢に御領承を願っておいて……
 わが、辻三がこの声を聞いたのは、麹町こうじまち――番町も土手下り、湿けた崖下がけした窪地くぼちの寒々とした処であった。三月のはじめ、永い日も、ひるから雨もよいの、曇り空で、長屋建の平屋には、しかも夕暮が軒に近い。窓下の襖際ふすまぎわぜんの上の銚子ちょうしもなしに――もう時節で、塩のふいたさけの切身を、はもの肌の白さにはかなみつつ、辻三が……
 というものは、ついその三四日以前まえまで、ふとした事から、天狗てんぐさらわれた小坊主同然、しかし丈高く、つら赤き山伏という処を、色白にして眉のやさしい、役者のある女形に誘われて、京へ飛んだ。初のぼりだのに、宇治も瀬田も聞いたばかり。三十三間堂、金閣寺、両本願寺の屋根も見ず知らず、五条、三条も分らずに、およそ六日ばかりの間というもの、鴨川かもがわの花のくるわに、酒の名も、菊、桜。白鶴はくつる富久娘ふくむすめあぶらたたえた、友染のそでの池に、にしきの帯の八橋を、転げた上で泳ぐがごとき、大それたおぼれよう。肝魂きもだま泥亀すっぽんが、真鯉まごい緋鯉ひごいと雑魚寝とを知って、京女の肌をて帰って、ぼんやりとして、まだその夢の覚めない折から。……
 無理もない、冷飯に添えた塩鮭をはかなむのは。……時に、膳の上に、もう一品ひとしな惣菜そうざいの豆の煮たやつ。……女難にだけは安心な男にも、不思議に女房は実意があるから、これはそこらの、あやしげな煮豆屋が、あんぺらの煮出しを使った悪甘いのではない。砂糖をおごって、とろりと煮込んで、せっせとあおいで、つやみを見せた深切な処を、酔覚よいざめの舌のさきに甘くまして、壁にうつる影法師も冷たそうに縮んだ処へ。
 ころころと格子が開いた。取次の女中へ何かいう、浅間な住居すまいで、手に取るような、その「あんたはん、居やはりますか。」訳して、「こんちは、あの、居らっしゃいますか。」のそれだったのだそうである。


「京の祇園と、番町の土手下――いや、もうちっと――半道ばかり近いのです。大勢の中で、その芸妓げいしゃ――お絹というんです――その女が、京都駅まで、九時何十分かの急行を、見送りに来てくれたんだから。……それにしても少々遠過ぎますね。――声を聞いて、すぐそのお絹だ、と思ったのは。
 しかし事実なんです。
(やあ、これは珍客。)
 とか、大きな声して、いきなり、はしをおくと、くだんの煮豆を一つ、膳の上へ転がしながら、いきなり立上って中縁のような板敷へ出ましたから。……ひよどり南天燭なんてんの実、山雀やまがら胡桃くるみですか、いっそ鶯が梅のつぼみをこぼしたのなら知らない事――草稿持込で食っている人間が煮豆を転がす様子では、色恋の沙汰ではありません。――それだのに……」
 境辻三は、串戯じょうだんではなさそうに、真顔になっていったのである――
「しかし、またあらためて、お絹のそのうつくしさというものは。――(お危うございます、ここは暗いんでございますから。)おいそれものの女中めが、のっけのその京言葉と、朱鷺色ときいろ手絡てがら艶々つやつやした円髷まるまげ、藤紫に薄鼠うすねずみのかかった小袖のつまへ、青柳をしっとりと、色の蝶が緑を透いて、抜けて、ひらひらと胸へ肩へ、舞立ったような飛模様を、すらりと着こなした、長襦袢ながじゅばん総染そうぞめの小桜で、ちらちらと土間へ来た容子ようすを一目、京都から帰ったばかりの主人あるじが旅さきの知己ちかづき、てっきりとろけるものと合点して、有無を部屋へ聞かないさきから、すぐこうお通りはいいのですが、口上がしゃくですよ。(真暗まっくらですから。)が、仕方がない、押付おッつけ仕事の安普請で、間取りに無理がありますから、玄関の次が暗いのです。いきなり手をいて連れ込んだ、そのひき方がそそっかし屋で荒いので、私と顔を会わせた時は、よろけ加減で、お絹の顔が、ほんのりとなって、その長襦袢のしなやかなすそをこぼれた姿は、脊は高し、天井の黒い雲から糸桜がすらすらと枝垂しだれたようで、いや、どうも……祇園の空から降って来たかと思われました。
 ――時に、重ねていうようですが、三月のはじめです。三月といえば弥生やよいです。桜は季節でありますけれども、まだどこにも咲いてはいません。ところが、どうした事か、これから、宵、夜、夜中に掛けて、話を運びます、春木町の、その頃の本郷座。上野の山内さんない清水きよみずの観音堂。鶯谷うぐいすだにという順に、その到る処、花が咲いていたように思います。唯今ただいまも、目に見えて、桜に包まれるようですが、実は、こんな事は、今まで、誰にも片端も饒舌しゃべったことはありませんから、いつも一人で、咲満ちた花の中にいた気だったのですけれども、あなたに。」
 著者に、いうのである。
「三月、と口にしますと同時に、ふと気がつくと、彼岸ずっと前で、まだ桜は咲きません。が、それからお絹を連れて行きました、本郷座の芝居が、ちょうど祇園の夜桜、舞台一面の処へぶつかりましたし、続いて上野でも、鶯谷でも、特に観世音の御堂みどうでは、このおんなと、花片はなびらさっ微酔ほろよいの頬に当るように、うすかおりさえして、近々と、膝を突合わせたような事がありましたから、色の刺激で、欄干近い、枝もこずえも、ほのあかかったのだろうと思われます。
 ところで――芝居ゆきです。が、どの道、糸錦の帯で押立よく、羽織はなしに居ずまいも端正きちんとしたのを、仕事場の机のわきへ据えた処で、……おなじ年ごろの家内が、糠味噌ぬかみそいじりの、たすきをはずして、渋茶を振舞ってみた処で、近所のすしを取った処で、てんぷら蕎麦そばにした処で、びん長鮪ながまぐろ魚軒さしみごときで一銚子といった処で、京から降って来た別嬪べっぴん摂待せったいらしくはありません。京では、瓢亭ひょうていだの、西石垣さいせきのちもとだのと、このひとが案内をしてくれたのに対しても、山谷さんや浜町はまちょう、しかるべき料理屋へ、晩のご飯という懐中ふところはその時分なし、今もなし、は、は、は、笑ったって、ごまかせない。
(おつれは?)
 ただ一人で訪ねて来て、目の前にななめすわっている極彩色に、つれを聞いたも変ですが、先方さきの稼業が稼業ですから。……なぞといって、まじくないながら、とつおいつのうち、お絹が、四五人で客に連れられて来たのだけれど、いまは旅館に一人で残った……
(早う、あんたはんのとこへ来とうて、来とうてな。)
 いよいよ、天麩羅てんぷらでは納まらない。思いついたのが芝居です。
 で、本郷に出ているのは、箕原路之助みはらみちのすけ――この友だちが、つい前日まで、祇園で一所だったので、四条の芝居を打上げた一座が、帰って来て、弥生興行の最中だとお思い下さい。
(……すぐ出掛けましょう、御婦人には芝居と南瓜とうなすが何よりの御馳走ごちそうだ。)
 馬鹿も通越した、自棄やけ言句もんくを切出して、
(ご贔屓ひいきの路之助が出ています。)
 役者を贔屓とさえいっておけば間違いはないものの――その実、祇園にいたうちに、五人、八人、時には十人にも余って、その六日ばかりの間、時々出入り交代かわりはあっても、ほとんど同じ顔の芸妓げいしゃ舞子が、寝る、起きる、飲む、唄う。十一時ごろに芝居のはねるのを宵の口にして、あけ方の三時四時まで続くんでしょう。雑魚寝の女護の島で、宿酔ふつかよい海豹あざらし恍惚うっとりと薄目を開けると、友染を着たかもめのような舞子が二三羽ひらひらと舞込んで、眉をでる、鼻をつまむ、花簪はなかんざし頭髪かみのけく、と、ふわりと胸へ乗って、掻巻かいまき天鵞絨びろうどの襟へ、笹色ささいろの唇を持って行くのがある。……いいえ、その路之助のですよ。女形の。……しかも同じふすまの左右には、まくれたり、はだかったり、白い肌が濡れた羽衣に包まれたようになって、くれないねやの寝息が、すやすやと、春風の小枕に小波さざなみを寄せている。私はただ屏風びょうぶいわおに、一介の栄螺さざえのごとく、孤影煢然けいぜんとして独りふたを堅くしていた。とにかくです、昼夜とも、その連中に、いまだかつて、顔を見せなかったのが、お絹なんです。
 ――晩には、東京へ帰ろうとする朝でした。旅れないので、何となく心がきます。早めに起きた右の栄螺が、そっと蓋をあけて、恐る恐る朝日に映る寝乱れた浮世絵をのぞきながら、二階を下りて、廊下を用たしに行く途中、一段高く、下へ水は流れませんが、植込の冷いうちに、さらさらとかけひの音がして、橋づくりに渡りをけた処があった。
 そこに、女中……いや、中でも容色きりょうよしの仲居にも、ついぞ見掛けたことのないのが、むぞうさな束髪たばねがみで、襟脚がくっきり白い。大島絣おおしまがすり縞縮緬しまちりめんの羽織を着たのが、両袖を胸に合せ、橋際の柱にもたれて、後姿で寂しそうに立っている。横顔をちらりとて通る時、東山の方から松風が吹込んだように思いました。――これが、お絹だったのです。
 あとで聞くと、病気で休んでいて、それまでの座敷へは出なかった。髪を洗ったのもやっと昨日きのうで、珍らしい東の客が、今日帰る、と聞いたので、急いで来たが、まだ皆夜中らしいから、遠慮をしていたのだというのが分りました。けれども、顔を洗って、戻るのに、まだおなじところに、おなじ姿を見ると、ちょっと二間ばかりの橋が、急にすらすらと長く伸びて、宇治か、瀬田か、昔話の長橋の真中まんなかにただ一人怪しいおんなが、霞にたたずんだようですから、気をはっきりと、欄干を伝うところを、
(目々、覚めてどすか。)
 とすずしい目で、ちょっと見迎えて、莞爾にっこりしたではありませんか。私はひやりとしました。第一、目々が覚めたという柄じゃない、洗って来い、というつらです。
 閑静しずかだから、こっちへ――といって、さも待設けてでもいたように、……疏水そすいですか、あの川が窓下をすぐに通る、離座敷へ案内をすると、蒲団ふとんを敷かせる。乗ったんですが、何だか手玉に取られた形で、腰が浮くと、矢の流れで危いくらい。が、きっぱりと目の覚めた処で、お手ずから、朝茶を下さる。
(姉さんは、いとはんですか、此楼こちらの……)
 いやな野郎で、聞覚えの京言葉を、茶の子でなしにかじりましたが、娘か、と思ったほど、人がらがまさっている。……
 通力自在、膳も盃洗はいせんもすぐ出る処へ、路之助が、きちんと着換えて入って来て、なべのものも、名物の生湯葉なまゆば沢山に、例の水菜、はんぺんのあっさりした水煮で、人まぜもせず、お絹が――お酌。
(ずッと見物をおしやしたか。)
 宇治は、嵯峨さがは。――いや、いや、南禅寺から将軍塚を山づたいに、ちごふちを抜けて、音羽山清水きよみずへ、お参りをしたばかりだ、というと、まるで、御詠歌はんどすな、ほ、ほ、ほ、と笑う。

 路之助が、
(その癖、お絹さん、お前さんの好きそうな処ばかりだぜ。……境さん――この人は、まだ休んでいてひまですから、そこいら、御案内をしようというのですが、どうかすると、神社仏閣、同行二人どうぎょうににんの形になりかねませんよ。)
(巡礼結構。同行二人なら野宿でもかまいません。)
(ほ、ほ、ほ、よういわんわ。)
 御免下さい。……だから言わないことではない。もうこの辺の、語義の活法が覚束おぼつかない。
 が、串戯じょうだんではありません、容色きりょう風采とりなりこの人に向って、つい(巡礼結構)といった下に、思わず胸のせまることがあったのです。――
 ですから、嵯峨へ、宇治へというのをことわって、朝出ると、すぐ三十三間堂。やしろもうで、寺まいり。にしろ食ったものさえ、水菜と湯葉です。あの、鍋からさらさらと立った湯気も、如月きさらぎの水を渡る朝風が誘ったので、霜がなびいたように見えた、精進腹、清浄なものでしょう。北野のお宮。壬生みぶの地蔵。尊かったり、寂しかったり。途中は新地の赤い格子、青い暖簾のれん、どこかの盛場の店飾も、活動写真の看板も、よくは見ません。菜畠なばたけに近い場末の辻の日溜ひだまりに、柳の下で、ふなを売るおけを二人で覗いて、
(みんな、目あいていやはるな。)
 といった、お絹の目がこいの目より濡々ぬれぬれとしたのが記憶にある……といった見物で。――帰途かえりは、薄暮くれがたを、もみじより、花より、ただ落葉を鴨川へ渡したような――団栗橋どんぐりばし――というのを渡って、もう一度清水へ上ったのです。まだ電燈にはならない時分、廻廊の燈籠とうろうの白い蓮華れんげつらなったような薄あかりで、舞台に立った、二人の影法師も霞んで高い。……
 暗いいしだんかすかな底に、音羽の滝の音を聞いた時は、
松風に音羽の滝の清水を
  むすぶ心やすずしかるらん
 地唄の三味線は、耳に消えて、御詠歌の声をさながらに聞きますと――はてな、なぜか今朝、起きぬけに、祇園の茶屋の橋がかりでかけひの音のした時と、お絹の姿も同じようで、一日を夢に見たように思いましたが――
 ――更に、日もおかず、お絹が土手番町へ訪ねて来た、しかもその夜、上野の清水きよみず御堂みどうの舞台に、おなじように、二人で立つ事になったんです――

 音羽のその時は、風情がいいから、もう一度、団栗橋を渡り返した、京洛中らくちゅうと東山にはさまって、何だか、私どもは小さな人形同然、笹舟ささふねじゃあない、木の実のくりぬきに乗って、流れついた気がします――
 そうですよ、宿は西石垣さいせきのなにがし屋に取ってあったのですが、宿では驚いていたでしょう。路之助の馳走になりつづけで、おのぼりの身は藻抜の殻で、座敷に預けたのが、擬更紗まがいさらさの旅袋たった一つ。
 しわす、つごもりの雪の夜に、なさけの宿を参らせた、貧家のふすまむしろの中に、旅僧が小判になっていたのじゃない。魔法妖術ようじゅつをつかうか知らん、お客が蝦蟆がまに変じた形で、ひょこんと床間とこのまに乗っている。
 お絹が引添っての、心づけでは、電話で、もう路之助から、ここの勘定は済んでいる。まだ、それよりも、お恥かしいやら、おかしいのは。……
(――お絹さん、その手提袋ですがね、中味が緊張しておりません、張合のないせいか、ひもおのずから、だらりとして、下駄のさきとすれすれに袋が伸びていたそうで。京都へ着いた時迎いに来てくれました、路之助の番頭と一所だった年増の芸妓げいしゃが、追って酒宴の時、意見をしてくれましたよ。あれは見っともない、先陣の源太はんやないけど、腹帯がゆるんだように見える……といってね。)
(ほんに、あても、東の方贔屓どす……しっかりとあんじょうに……)
 ――細い指であやつッて、あ、着換を畳もう、という、待遇振もてなしぶり。ですが、何にもない。着のみ、着のままで、しゃんと結ばると袋はぺしゃんこ。そいつを袖で抱いて、さ、晩のご飯を近所のちもとへ、と立たれたのには、懐中ふところもぺしゃんこです。
 これも路之助の心づけで、ちゃんと席を取って支度が出来ていて、さしむかいで、酒になった処へ、芝居から使の番頭、姓氏あり。津山彦兵衛とちょっとお覚え下さい。
(――すぐ、あとで、本郷座の前茶屋へ顔を出しますから――)
 花柳界の総見で、楽屋は混雑の最中、おいでを願ってはかえって失礼。お送りをいたすはずですが、ちょうど舞台になりますから。……縞の羽織、前垂掛だが、折目正しい口上で、土産に京人形の綺麗な島田と、木菟みみずくの茶羽のねりもの……大贔屓の鳥で望んだのですが、この時は少々くすぐったかった。やがて、その京人形に、停車場まで送られて、木菟が。……夜汽車で飛ぶ。」……


「いらっしゃいまし、ようこそ。――路之助も一度お伺い申したいと、いいいい、帰京早々稽古けいこにかかって、すぐに、開けたものでございますから、つい失礼を。……今日こんにちはまたどうも難有ありがとう存じます。」
御挨拶ごあいさつで恐縮ですよ。津山さん。私こそ、京都で、あんなにお世話になって。――すぐにもお礼かたがたお訪ね申さなければならなかったのですが、ご存じの、貧乏稼ぎにかまけましてね。」
「なぞとおっしゃる。……は、は、は。」
 と笑いを手でふたして、軽くせきした。小肥こぶとりにがっしりした年配が、稼業で人をそらさない。
「まったくですよ。ところでですね。ぶちまけた話ですが、万事、ちっとでも、楽屋の方で御心配を下さらないように――実は売場で切符を買ってと思いましたがね。」
「そんな水臭いことを……ご串戯じょうだんで。」
「いや、ご馳走は[#「ご馳走は」は底本では「ご馴走は」]、ご馳走。見物は見物です。実は、この京人形。」
 お絹が上品な円髷まるまげで、紫仕立の柳褄やなぎづま、茶屋の蒲団に、据えたようにいるのです。
「たしか、今度の二番目の外題げだいも、京人形。」
「序幕が開いた処でございまして、お土産興行、といった心持でござんしてな。」
「そのお土産をね、津山さん、……本箱の上へ飾ってある処へ……でしょう。……不意でしょう。まるで動いて出たようでしょう。並んでいる木菟みみずくにも、ふらふらと魂が入ったから、羽ばたいて飛出したと――お大尽だいじんづきあいは馴れていなさるだろうから、一つ、切符で見ようじゃありませんか、というと、……嬉しい、といって賛成は、まことに嬉しい。当方立処たちどころ懐中ふところが大きくなった。」
「は、は、は。」
 とふたして、軽く笑う。津山の懐中ふところの方が余程大きい。
「木戸へ差しかかると満員、全部売切れ申候だから、とにかく、連中で来て、一二度知ってるので、こちらに世話を掛けたんですが、つれがつれです、快よくあしらってはくれましたけれども、何分にも、ぎっしりで、席は一つもないというんで、むを得ず……悪く思わないで下さい……まったく止むを得ず、茶屋から、楽屋へ声を掛けてもらったんですから。しかし、大入で、何より結構。」
「お庇様かげさまで、ここん処、ずっと売切っております。いえ、お場所は出来ます。いえ、決して無理はいたしません。そのかわり、他様ほかさま入込いれごみで、ご不承を願うかも知れません。今日の処は、ほんの場の景気をお慰みだけ、芝居はあらためてお見直しを願いとうございますので。……つきましては、いずれ楽屋へもお供をいたしますが、そのおつれ様……その、京人形様。――は、は、は――の処は、何にもおっしゃらず、ご内分に。――いえ、あなた様のおつれでございますから、仔細しさいはないのでございますがな、この役者なかまと申しますものは、何かとそのつきあいがまた……うるさいのでして、……京から芸妓げいこはんが路之助を追駈おいかけて逢いに来たわ、それ蕎麦そばだ……などと申すわけで、そうでもないのに、何かと物騒、は、は、は。」
 両三度、津山の笑いは、ここで笑うのにあらかじめ用意をしたらしいほど、かたのごとく、例の口許くちもとをおさえて、黙然だんまりを暗示しながら、目でおどけた。
「……は、は、は、と申すわけで。お含みを。――ああ、八さん、お茶を入れかえて……そう、よろしい。何、ぼくにか、はて、忙しい。は、は、は。いやいずれ今ほど。――お場所が出来ましたそうでございますから。」
 膝ですべって、津山が立つのと入交いれかわって、男衆が階子段はしごだんの口でお辞儀をして、
「では、ご見物を。」
「心得た。」
 見ますとね、下の店前みせッさきに、八角の大火鉢を、ぐるりと人間のいわのごとく取巻いて、大髻おおたぶさの相撲連中九人ばかり、峰をそばだて、谷をひらいて、湯呑ゆのみあおり、片口、丼、谷川の流れるように飲んでいる。……何しろ取込んで忙しそうだ、早いに限ると、外套がいとうを脱いだ身軽です。いきなり下りると、
「へい、行ってらっしゃいまし。」
 帳場で女の声がしたかしないに、
「危い!」
 わッと響くのが一斉いっときで、相撲が四五人どッと立った。いずれも大ものですから、屋鳴り震動の中に、かすかに、トンと心細い音が、と見ると、お絹のその姿が階子段はしごだんの上から真横になって、くるくるトトトン、つまがばッと乱れて、白いはぎ、いや、祇園での踊手だと聞く、舞で鍛えた身は軽い、さそくのたしなみで前褄まえづまを踏みぐくめた雪なす爪先つまさきが、死んだ蝶のように落ちかかって、帯の糸錦いとにしき薬玉くすだまひるがえると、こぼれた襦袢じゅばん緋桜ひざくらの、こまかうろこのごとく流れるのが、さながら、凄艶せいえん白蛇はくじゃの化身の、血にがれてのた打つさまして、ほとんど無意識に両手をひろげた、私の袖へ、うつくしい首が仰向あおのけになって胸へ入り、櫛笄くしこうがいがきらりとして、前髪よりは、眉がぷんと匂うんです。そのまま私の首筋に、袖口が熱くかかったなり、抱き据えて、腰をたてにしたまで、すべて、息をひまがない。息を吐く隙がありません。
 土俵がくずれたような、相撲の総立ちに、茶屋の表ものぼりを黒くした群衆でしょう。雪は降りかかって来ませんが、お七がやぐらからさかさまに落ちたも同然、恐らく本郷はじまって以来、前代未聞の珍事です。
 あまりの事に、寂然しんとする、その人立の中を、どう替草履を引掛ひっかけたか覚えていません。夢中で、はすに木戸口へ突切つっきりました。お絹は、それでも、帯も襟もくずさない。おくれ毛を、掛けたばかりで、櫛もきちんとささっていましたが、背負しょい上げの結び目が、まだなまなまと血のように片端さがって、踏みしめてすそかばった上前の片褄かたづまが、ずるずると地をいている。
 抱いて通ったのか、もつれて飛んだのか、まるでうつつで、ぐたりと肩にっかかったまま、そうでしょう……引息をほっと深く、木戸口で、
「ああ、お婿はん。」……
 と泣くようにいった。生死の最中、洒落しゃれどころではないのですが、これは京都で、連中が、女形の客だというので(お婿はん、お婿はん。)と私を、からかったのが、つい出ました。
「……わて、もう、死ぬるか思うた。」
 と、目が澄んで、じって、さっと顔色があおざめたんです。
「あんたはんに恥を掻かせた、済まんなあ、……生命いのちの親え。」
「…………」
「二階を下りしなに、何や暗うなって、ふらふらと目がもうて、……まあ、あて、ほんに、あの中へ落ちた事なら手足がちぎれる。」
 という声も、小刻みで東へ廻る。茶屋の男は木戸口に待っていたが、この上きまりを悪がらせまい用心で、見舞もいわない、知らん顔で……ぞろぞろついて来た表口の人だかりを、たッつけを穿いた男が二人、手を挙げて留めているのが見えました。
 そッとかがんで、
「へい、こちらへ。」――
 土間、桟敷、二、三階、ぎっしり一杯。成程、やっと都合がついたのだと見えて、四人詰めに、上下大島ずくめなのと、背広の服のと、しかるべき紳士が二人いましたが、これが、そのまま、腰に瓢箪ひょうたんでもつけていそうな、暖簾のれんも、景気燈けいきあかりも、お花見気分、あかもやが場内一面。舞台は、切組、描割で引包んだ祇園の景色。で、この間、枝ぶりを見て返ったばかりの名木の車輪桜が、影の映るまで満開です。おかしい事には、芸妓げいしゃ舞妓まいこ幇間ほうかんまじり、きらびやかな取巻きで、洋服の紳士が、桜を一枝――あれは、あの枝は折らせまい、形容でしょう。――もう一人、富豪――成金らしい大島ぞろいが、瓢箪をさげている。
 一つ桟敷――東のずっと末でした――その妙に、同じような先客が、ふと気がさしたと見えて――挨拶をした時は、ふり向きもしなかったのが――お絹をこの時見返って、愕然がくぜんとした様子です。……
 ところで、何でも、その桜の枝と、瓢箪が、幇間の手に渡るのをきっかけに、おのおのにぎやかなすて台辞ぜりふで、しも手ですか、向って右へ入ると、満場ただ祇園の桜。
花咲かば告げ    むといいし山寺の……
 ここの合方は、あらゆる浄瑠璃、勝手次第という処を、囃子はやしに合わせて謡が聞える。
使は来たり馬    に鞍、鞍馬の山のうず桜……
「牛若の仮装ででも出ますかね、私は大の贔屓です。」
 恥ずべし、恥ずべし。……式亭三馬あざける処の、聾桟敷つんぼさじきのとんちきをあらわすと、
「路之助はんが、出やはるやろ。」
 お絹の方が知っている。ただしこの様子では、胸も痛めず、怪我はしない。
 しゃり、り、揚幕。艶麗えんれいにあらわれた、大どよみの掛声に路之助ふんした処の京の芸妓げいこが、襟裏のあかいがやや露呈あらわなばかり、髪容かみかたち着つけ万端。無論友染の緋桜縮緬ひざくらちりめん。思いなしか、顔のこしらえまで、――かたわらにならんだのとそっくりなのに、聾桟敷一驚をきっする処に、一度姿を消した舞妓が一人、小走りに駆け戻るのと、花道の、七三とかいうあたりで、ひったり出会う。何でもお客が大変まちあぐんで機嫌が悪い、急いで迎いに、というのです。
 路之助の姉芸妓あねげいしゃが、おおしんど、か何かで、肩へ色気を見せたのですが、
「えろう遅うなって、ご苦労え、あのな、ついそこで、いえ、あのな、むこうへ、……境はん。」
 おや。
「あんたも知ってやろ。境はんが来やはって、逢いとう逢いとうていた処やろ、それやよって。」
 とこっちを莞爾にっこり。――
「いやや、おごんなはれ。」
 と舞妓が入交いれかわって、トンと揚幕の方から路之助の脊筋をたたいた。
「おお、晴がまし。」
 お絹が、階子段を転げた時から、片手に持っていた、水のように薄色の藤紫の肩掛ショオルを、俯向うつむいた頬へ当てたのです。
 ――舞台、舞台ですか……
 舞台どころじゃありません。その時うしろの戸が、悪く、静かに開いたと思うと、この、私の背中を、トンと、誰か、ぐにゃりとした手で敲いたんですから。
 いま、戸が開いたと思うと同時に、可厭いやな気味合の冷アい風が、すうと廊下から入って、ちり毛もとに、ぞッとみたも道理こそ、十九貫と渾名あだなを取る……かねて借金があって、抜けつくぐりつ、すっぽかしている――でぶでぶした、ある、その、安待合の女房が、餡子入あんこいり大廂髪おおひさしで、その頃はやった消炭色けしずみいろ紋付の羽織の衣紋えもんを抜いたのが、目のふちに、ちかちかと青黒い筋の畳まるまで、むらはげのした濃い白粉おしろい、あぶらぎったつらで、ヌイと覗込のぞきこんで、
「大した勢いでございますのね。」
「ちょっと……出よう。」
 ……ですもの、舞台どころですか。――
「結構ですわ、ほんとに境さん、ご全盛で。」
串戯じょうだんだろう。」
「役者があなた、この大入おおいりに、花道で、名前の広告をするんだもの。大したものでなくってさ。」
 と、くくりあごゆすって、しゃくる。
「あれは洒落しゃれだよ、洒落も洒落だし、第一、この人数だ、境というのは。」
 売店があるから、ずんずん廊下を反れました。
「何も私一人というんじゃあなかろう。」
「うんえ、あの台辞せりふで、あなたの桟敷を見て笑ったのを見て、それで気がついた、あなたの来ているのが。……といったわけなんですもの、やすい祝儀じゃでけんでねえ。」
 と、どこかのなまりが時々出る。
「馬鹿を言いたまえ、路之助は友だちだぜ。――おかみさん、知ってるじゃないか。」
「それは存じておりますがね、ご全盛には違いませんね。何しろ、しがない待合を、勘定で泣かせようという勢いではありませんです。」
 ないが上にもないものを、ありあまってでもあるように。催促のをうらがえしに、敵は搦手からめてへ迫って危い。
「一言もない。が、勢いだの全盛なぞは、そっちの誤解さ、お見違えだよ。」
「見違えましたよ、ほんとうに。」
 と衣紋をたくして、
「大した腕だよ、見上げたあよう。」
「何が。」
「なにがじゃあないじゃないかね、といいたくなるよ。ふんとうに。……新橋柳橋、それとも赤坂……ご同伴は。」
「…………」
「ちょっと見掛けませんね、あのくらいなのは。商売がらお恥かしいんだけれど……三千歳みちとせおいらんを素人づくりに……おっと。」
 と両袖を突張つっぱって肩でおどけた。これが、さかり場の魔所のような、廂合ひあわいから暗夜やみのぞいて、植込の影のさす姿見の前なんですが。
芸妓げいしゃにしたという素敵な玉だわ……あんなのが一人、里にいれば、里の誉れ、まあさね、私のうちへ出入りをすれば、私の内の名聞みょうもんですのよ。……境さん、貸借かしかりも、もとは味方、勘定は勘定、ものは相談、あなたとはお馴染なじみじゃありませんか。似合ったよ、恐れ入ったよ、ものになってる、容子ようすがね。うんねさ、だからさ、一度連込んでおいでなさいよ。早い話が……今夜、これから帰りにさ。水打った格子さきへ、あの紫がすそをぼかして、すり硝子がらすあかりに、えりあしをくっきりと浮かして、ごらんなさい、それだけで、私のうちの估券こけんがグッと上りまさね。
 兜町かぶとちょうの、ぱりぱりしたのが三四人、今も見物で一所ですがね。すぐ切上げてもいいんですの。ちょっと一座敷、抜け荷を売りゃ……すぐに三十と五十さ、あなた。あなたの遊興あそびは、うわになるわ。
 もう一息、目を眠って、――直さん……」
(――直さんの意味つまびらかならず。談者、境氏に聞かんとして、いまだ果さざる処である――)
「ね、色悪で、あの白々としたうまはだを貸すとなりゃ、十倍だわ。三百、五百、借金も勘定も浮いて出るじゃあないかねえ。」
 酒と、女か、目にも口にも借りのある、聾桟敷のとんちきも、むらむらとして、我ながら姿見に色が動いた。
「何をいってるんだ――同伴つれはないよ。」
「あら。」
「誰も居やしない。」
「まあ。」
「私一人じゃあないか。」
「おやおやおや。」
「何を見たんだ。」
「ふん、しらじらしい、空ッとぼけもいい加減になさい。あなたがそういう了簡りょうけんなら、いいから私は居催促をするから、ここへ坐っちまいますから、よござんすか。」
 これこの十九貫、廊下へ、どすんと坐りかねない。
「仕方がない、じゃあ、ほんとうの事をいおう。」
「いわないでさ。そして、ちょっと顔を貸しますか、それともはだを……」
「顔にも、膚にも……それはけむだ。」
「またかね、居催促ですよ、坐りますから。」
「あれはかすみだ、霧なんだよ。」
煙草たばこのかねえ。」
「いや芸妓げいしゃの……幽霊だ。」
「ええ。」
「この大入に、けちでもつけるようで可厭いやだから、いいたくはなかったんだが、どうもそうまでいわれりゃしかたがない。三千歳を素人とか、何とかいったね、それだ、そっくりだ。そりゃ路之助に憑絡つきまとってる幽霊だ。いいえ、つきものは、当人の背中におぶさっているとは限らない――
 実は祇園の芸妓だがね、私がこの間、彼地あっちへ行っていたもんだから、路之助が帰るのに先廻りをして、私を便って来たらしい。またかと思う。……今いわれた時も慄然ぞっとしてこの通り毛穴が立ってら。私には何にも見えないんだよ。見えないが、一人で茶屋へ休むと、茶二つ、旅籠屋はたごやでは膳が二つ、というのが、むかしからの津々浦々の仕来しきたりでね、――席には洋服と、男ばかり三人きりさ。それが、お前さんに見えたのは、幽霊に違いない。」
「ひええ。」
 しめた。不断の大臆病だいおくびょう
「行って見たまえ、のぞいてごらん、さあ。それが嘘なら、きっとあそこにいやしない。いても、目には見えないから。」
「気味の悪い……いやだねえ。」
「板一枚のなかは、蒸し上るばかりのこの人数だ。幽霊だってどうするものか。行って覗いて見たまえ、というのに。」
 あたかもそこへ、魔の手が立樹を動かすように、のさのさと相撲の群が帰って来た。
「それ、力士連が来た、なお気丈夫じゃあないか。」
 と、図に乗っていった。が、この巨大なるからだは、おどすものにも陰気を浴せた。それら天井を貫く影は、すっくと電燈を黒くおおって、廊下にむらむらと影が並んで、姿見に、かさなり映った。
「ここへ来た、幽霊が。」
「ひゃあ。」
「あ、力士の中に芸妓げいしゃが居る。」
「きゃッ、あれえ、お関取。助けてえ。」
「やあ、何じゃい。」
 すがりつかれた関取がたじろいで、
「どえらいずこじゃい。桟俵法師さんだらぼッちい。」

「お絹さん――お絹さん。ちょっと。」
 戸を開けて、立ちながらそッと呼ぶと、お絹は、金煙管きんぎせるに持添えた、女持ちの嵯峨錦さがにしきの筒を襟下に挟んで、すっと立った。
 前髪に顔を寄せ、
「何だか落着きません、一度、茶屋へ引揚げよう。」


 その夜も――やがて十一時――清水きよみずの石段は、ほの白く、柳を縫って、中空なかぞらに高く仰がるる。御堂は薄墨の雲の中に、朱の柱をつらね、の扉を合せ、青蓮せいれんの釘かくしを装って、棟もろとも、雪の被衣かつぎに包まれた一座の宝塔のようにきよいつくしくそびえて見ゆる。
 東口を上ると、薄く手水鉢ちょうずばちに明りのさしたのは、ななめに光を放った舞台正面にただ一つ掲げた電燈で、樹にも土にも、霊境を照らす光明はこの一燈ばかりなのが、かえって仏燭ぶっしょくの霊を表して、竜燈……といっては少しくらい。しかり、明星の天降あまくだって、うつばりを輝かしつつ、丹碧青藍たんぺきせいらん相彩る、格子に、縁に、床に、高欄に、天井一部の荘厳を映すらしい。
 見られよ、されば、全舞台に、虫一つ、ちりも置かず、世のはじめの生物に似た鰐口わにぐちも、その明星に影を重ねて、一顆いっか一碧玉だいへきぎょくちりばめたようなのが、棟裏に凝って紫の色をめ、扉にみなぎっておぼろなる霞を描き、舞台に靉靆たなびき、縁をめぐって、井欄せいらんに数うる擬宝珠ぎぼしゅを、ほんのりと、さながら夜桜の花の影に包んでいる。
 その霞より、なおこまやかに、もやに一面の胡粉ごふんいて、墨と、朱と、あいと、紺青こんじょうと、はた金色こんじきの幻を、露にみがいて光を沈めた、幾面の、額の文字と、額の絵と、絵馬の数と、その中から抜き出たのではない、京人形と、木菟みみずくは、道芝の中から生れて出たように上ったが。――
車夫わかいしゅ、ここだ、ここでおろして。……待っててもらおう。」
 くるまを二台、東の石段で下りたのです。
「逆縁ながら、といっては間違いかね、手をいてあげようか。芝居茶屋の階子段はしごだんのお手際では、この石段は覚束おぼつかない。」
 などと、木菟が生意気にいうと、
「大事おへん、前刻さっき落ちたら、それなり、地獄え。上が清水様どすよって、今度は転んだかて成仏どす。」
 などと京人形が口を利いた。
 手水鉢ちょうずばちで、おおいの下を、柄杓ひしゃくさぐりながら、しずくを払うと、さきへ手をきよめて、べにの口にくわえつつ待った、手巾ハンケチ真中まんなかをお絹が貸す……
 勝手になさい。
 が、こんなのが、初夜過ぎた霊場へ、すらすらと参られようはずはない、東のきざはしの上には、一本ならべの軽い戸だが、さくのように閉ざしてあった。
ぜんは、こうではなかったはずです……不良でも入るか知らん。」
「こちらも不良どすな、おほ、ほ。」
「怪しからん、――向う側へ。」
 と、あとへ退さがって、南面に、不忍しのばずの池を真向いに、高欄の縁下に添って通ると、欄干の高さに、御堂の光明が遠くなり、樹の根、岩角と思うまで、足許あしもと辿々たどたどしい。
 さ、さ、とお絹の褄捌つまさばきが床を抜ける冷たい夜風に聞えるまで、闃然げきぜんとして、袖に褄に散る人膚ひとはだの花の香に、穴のような真暗闇まっくらやみから、いかめの鬼が出はしまいか――私は胸をめたのです。
「まず、よし。」
 西側の、ここの階段上は、戸はあるが、片とざしで開いていた。
 廻廊の上を見れば、雪空ででもあるように、夜目に、額と額とほの暗く続いた中に、一処ひとところ、雲を開いて、千手観世音の金色の文字が髣髴ほうふつとして、二十六夜の月光のごとく拝される。……
 欄干に枝をのべて、名樹の桜があるのです。
 そのこずえ、この額と相対して、たとえば雪と花の縁を、右へ取り、舞台の正面、その明星と、大碧玉の照る処、京人形と木菟が、玩弄品おもちゃころがったようになって拝んだあとで、床の霞に褄を軽く、と出て、裏紫の欄干に、すらりと立った、お絹の姿は――
 この時、幹の黒い松の葉も、薄靄うすもや睫毛まつげを描いた風情して、遠目の森、近い樹立こだち、枝も葉も、桜のほかは、皆柳に見えた。
「ああ、綺麗だ。お絹さん――向い合った不忍の御堂から、天女がきっと覗いておいでだ。」
「おお晴がまし、勿体ないえ。」
 と、吃驚びっくりしたように、半ばその美しさを思っていて、じたように、舞台を小走りに西口の縁へげた。遁げつつ薄紫の肩掛で、まげびんおおいながら、曲る突当りの、欄干の交叉こうさする擬宝珠ぎぼしゅに立つ。
 踊のなれで、身のこなしがはずんだらしい、その行く時、一筋の風がひらひらと裾を巻いて、板敷を花片はなびらの軽い渦が舞って通った。
 袖れるほどなれば、桜の枝も、墨絵のなかにつぼみを含んで薄紅うすあかい。
「そこから見えますか、秋色桜しゅうしきざくら。」
「暗うて、よう見えへんけど……先度せんど昼来ておそわった事があるよって、どうやらな、底の方の水もせんせんと聞えるのえ。」
「音羽の滝が響くんでしょうが、秋色は見えないはずだ。そこに立っているんだから。」
「またなぶらはる……発句も知らん、地唄の秋色はんて、どないしょ。」
 と、振返ると、顔をかくしたままのうすものの紫を、眉が透き、鼻筋が白く通って、優睨やさにらみでりんとした。
花咲かば告げむと    いいし山寺の
使は来たり、馬に    鞍
くらまの山のうず    桜……
 ふと、前刻さっきの花道を思い出して、どこで覚えたか、魔除まよけのじゅのように、わざと素よみの口のうちで、一歩ひとあし二歩ふたあし、擬宝珠へ寄った処は、あいてはどうやら鞍馬の山の御曹子おんぞうし。……それよりもくすのき氏の姫が、田舎武士いなかざむらいをなぶるらしい。――大森彦七――そばへ寄ると、――便びんのういかがや――と莞爾にっこりして、直ぐふわりと肩にかかりそうで、不気味なうちにも背がほてった。
「やあ、洒落しゃれてるなあ。」
 ――そのころは、上野の山で、夜中まだ取締りはなかったらしい。それでも、板屋漏るともしびのように、細くともして、薄く白い煙をなびかした、おでんの屋台に、車夫わかいしゅが二人、丸太を突込つッこんだように、真黒まっくろに入っていたので。
うらやましいようですね……串戯じょうだんじゃない、道理こそ。――来てごらんなさい、こちらの、西側へくるまを廻わしたのが、石段下に、変にはるかな谷底で、熊が寝ているようですから。」
「動物園かてあるいうよって、そッと出て来やはりしめえんか、おそろしな。」
 と、欄干ぞいに、姫ぎみ、お寄りなされたが、さして可恐こわくはなさそうで。
「ほんに、谷底のようでもやが深うおすな、前刻さっき階子段はしごだん思出したら、目がくらくらとするようえ。」
 白い片掌かたてを田舎武士の背にあてて、
「あの俥がひとりでに、石段を、くるくるまいもうて上って来たら、どないしょ、……火の車になっておそろしかろな。」
「お絹さん、そんなことをいうもんじゃあない。帰途かえりに怪我でもあると不可いけない。」
「それでも、あの段、くるくる舞うてころげた時は、あて、ぱッと帯紐とけて、裸身はだかみで落ちるようにあって、土間は血の池、おにが沢山いやはって、大火鉢に火が燃えた。」
 手を触れていて、肌をいう。大森彦七は胸がうなった。魔を退きょうと太刀たちつか……洋杖ステッキをカンとついて、
「そんなことをいうから、それ、宙に火が燃えて来た、迎いに来た、それ。」
「ああれ。」
 やみを縫って、くるくると巻いて来る、火の一点あり。事実、空間に大きく燃えたが、雨落に近づいたのは、巻莨まきたばこで、半被股引はっぴももひき真黒まっくろ車夫わかいしゅが、鼻息を荒く、おでんの盛込もりこみを一皿、銚子ちょうしを二本に硝子盃コップを添えた、赤塗の兀盆はげぼんを突上げ加減に欄干ごし。両手で差上げたから巻莨を口に預けたので、煙が鼻にしかめ面で、ニヤリと笑って、
「へい、わざッとお初穂……若奥様。」
「馬鹿な。」
「ちょっと、手をお貸しなすって。」
「馬鹿な、お初穂もないもんだ。いい加減おみってるじゃないか。」
「へへへ、煮加減にえかげんよろしい処と、おかんをみて、取のけて置きましたんで、へい、たしかに、その清らかな。」
「馬鹿な、おなじ人間だぜ、くいものは、つッくるみだ。そんな事はかまわないが、大丈夫かい、あとで、俥は?」
「自動車の運転手とは違います、えへへ。駕籠舁かごかきと、車夫くるまやは、建場たてばで飲むのは仕来りでさ。ご心配なさらねえで、ごゆっくり。若奥様に、多分にお心付を頂きました。ご冥加みょうがでして、へい、どうぞ、お初穂を……」
 お絹が柔順すなおに、ものやわらかに取上げた、おでんの盆を、どういうものか、もう一度彦七がわざとやけに引取って、
「飛んだお供物、狒々ひひにしやがる。若奥様は聞いただけでも、禿祠はげやしろ犠牲いけにえを取ったようだ。……黒門洞擂鉢大夜叉くろもんどうすりばちおおやしゃとでもいうかなあ。」
 縁に差置いた湯気の立つおでんの盆は、地図に表示した温泉の形がある。
 しいの葉にもる風流は解しても、いわしのぬたでないばかり、この雲助の懐石には、恐れてげそうな姫ぎみが、何と、おでんの湯気に向って、中腰に膝を寄せた。寄せたその片褄かたづまが、ずるりと前下りに、前刻さっきのままで、小袖幕のほころびから一重桜が――芝居の花道の路之助のは、ただこれよりも緋が燃えた――誘う風にこぼるる風情。
 ――実は帯を解いて、結び直す間がなかった、茶屋が立籠んだからなので。――あれから、直ぐにその茶屋へ引上げて、吸物一つ、膳の上へ、弁当で一銚子並べたが、その座敷も、総見の控処ひかえどころで、持もの、預けもの沢山に、かたがた男女の出入ではいりが続いたゆえ、ざっと夕餉ゆうげを。……銚子だけは手酌でかえた。今夜は一まず引上げよう、乗ものを、と思う処へ、番頭津山が急いで出て、もうおくるまは申しつけました……という、客あつかいにれたもの。急所をおさえてこっちからは乗出させぬ。ご都合まで、ご存分な処まで、は、は、は、と口をおさえて笑うと、お絹が根岸の藍川館あいかわかん――鶯谷へ、とこの人の口でいうと、町が嬉しがって、ほう、と微笑ほほえんで鳴きそうに聞えた。寂しい処でございますな、境さん――これはお送り下さらないではなりますまい。……勿論。
 京では北野へ案内のゆかりがある。切通しを通るまえに、湯島……その鳥居をと思ったが、縁日のほかの神詣かみもうで、初夜すぎてはいかがと聞く。……壬生みぶの地蔵に対するものは、この道順にちょっとない。
 そこで、どこよりも清水だったが、待った、待った。広小路の数万の電燈、もやの海の不知火しらぬい掻分かきわけるように、前の俥を黒門前で呼留めて「上野を抜けると寂しいんですがね、特に鶯谷へ抜ける坂のあたり、博物館の裏手なぞは。」
「寂しいとこ行きたい、誰も居やはらんとこ大好きどす。」すかしほろなかから、白木蓮はくもくれんのような横顔なのです。

「大事ないどすやろえ、お縁の……裏の処には、蜜柑みかんの皮やら、南京豆なんきんまめの袋やら、掃き寄せてあったよってにな。」
「成程、舞台わきの常茶店では、昼間はたしか、うで玉子なぞも売るようです。お定りの菎蒻こんにゃくに、がんもどき、焼豆府と、竹輪などは、玉子より精進の部に入ります。……第一これで安心して、煙草が吹かせる。灰もマッチ殻も、盆へ落すと。……よくない奴だ。――これはどうもお酌は恐縮、重ねては、なお恐縮、よくない奴だ。」
 巻莨まきたばこ硝子盃コップを両手に、二口、三口重ねると、おさえた芝居茶屋の酔を、ぱっと誘った。
「さあ、お酌を――是非一口、こういうことは年代記ものです。」
 お絹も、心ばかり、ビイドロの底を、琥珀こはくのように含んで、ほっ呼吸いきしたが、
「ああ、おいし……茶屋ではな、ご飯かて、針を呑むようどしたえ。ほんに、今でも、ひざのとこ、ぶるぶると震えるわ、菎蒻はんのようどすな。」
 もう一口。
「あの、これから場所へいうて、二階の上り口へ出ましたやろ。下に大きな人大勢やよって、ちょっと立留まってのぞくようにするとな、ああ、灯がともれかけの暗さが来て、逢魔おうまが時や思うたらな、路之助はんののぼり沢山たんと、しんなり揃う青い中から、大き大き顔が出てな。」
「相撲のだね。」
「違います、女子おなごはんの。」
「…………」
「口をばこないにして。」
 と結んだ唇を、おくれ毛がすごく切った、黒い蝶が不意に飛んだように。
可恐こわい顔をしてにらみはった。それがな、路之助はんのおかみはんえ。」
「路之助?……路之助の……」
 立女形たておやま、あの花形に、蝶蜂の群衆たかった中には交らないで、ひとり、束髪たばねがみの水際立った、この、かげろうの姿ばかりは、独り寝すると思ったのに――
 請う、自惚うぬぼれにも、出過ぎるにも、聴くことを許されよ。田舎武士は、でんぐり返って、自分が、石段を熊の上へ転げて落ちるおもいがした。
「何もな、何も知らんのえ、あて路之助はんのは、あんたはん、ようお馴染なじみの――源太はん、帯がゆるむ――いわはったひとどすの。それをば何やかて、私にして疑やはってな、疑やはるばかりやおへん、えらいことうらみやはる。
 ……よって、お客はんたちに分れて、一人で寝るとな――藍川館いうたら奥の奥は、鉄道線路に近うおすやろ。がッがッひびきがして、よう寝られん、弱って、弱って、とろりすると、ぐウと、めて、胸倉とって、ゆすぶらはる、……おかみはんどす。キャアいうて、恥かし……長襦袢でげるとな、しらがまじりの髪散らかいて、般若はんにゃの面して、目皿にして、出刃庖丁や、撞木しゅもくやないのえ。……ふだん、はいからはんやよって、どぎついナイフで追っかけはる。胸かて、手かて、み、もだえて、苦して、苦して、死ぬるか思うと目が覚める……よって、よう気をつけて引結ひきゆわえ、引結えしておく伊達巻だてまきも何も、ずるずるに解けてしもうて、たらたら冷い汗どすね、……前刻さっきはな夢でのうて、なおおそろして、おそろして。」
 それで、あの、階子段はしごだん――
 今度は大森彦七が踏みこたえた。
「神経だ、神経ですよ。」
 誰でもこの場は知識になる。
「しかし、どうだか、その路之助一件は、事実なのでしょう。」
 誰でもこの場は凡夫になる。
「つらいこと。」
 と、ななめにそむいて、
「あんたはんまで、そない言わはる、口惜くやしいえ。」
「が、しかし、つらいでしょう。」
 たばこを捨てて硝子盃コップを取って、
「そんな時は、これに限る。熱燗あつかんをぐっと引っかけて、その勢いで寝るんですな。ナイフの一ちょうなんざ、太神楽だいかぐらだ。小手しらべの一曲さ。さあ、一つ。」
「やどへ行て。」
「成程。」
「あんたはん、のましてくりゃはりますか。」
「飲ませますとも。」
「嬉しいな、段で、抱いてくれやはった時から、あんたはんは生命いのちの親どす。」
 真顔で、こうまでいわれたのには、酒がつかえた。胸の澄まない事がいくらある……
「おことばで痛み入る。」
 と、もう一息ぐっとあおって、
「――実は串戯じょうだんだけれどもね、うっかり、人を信じて、生命いのちの親などと思っては不可いけません。人間は外面そとづらに出さないで、どういう不了簡ふりょうけんを持っていないとも限りません。
 こういう私ですがね、笑い事じゃあるけれども、夢で般若が追廻すどころか、口で、というと、大層口説くぜつでもうまそうだ。そうじゃない、心で、お絹さんを……」
「私をえ?」
「幽霊にしましたよ。ご免なさいよ。殺した事があるんだから。」
「あんたはんがな。」
 前髪がふっくり揺れて…差俯向さしうつむく。
「本望どすな。」
 と莞爾にっこりして、急に上げた瓜核顔うりざねがおが、差向いに軽く仰向あおむいた、眉の和やかさを見た目には、擬宝珠が花の雲に乗り、霞がほんのりと縁を包んで、欄干が遠く見えてぼうとなった。その霞に浮いて、ただ御堂の白い中に、未開紅なる唇が夜露を含んで咲こうとする。……
「あれえ。」
 声を絞ると、擬宝珠の上に、円髷まるまげが空ざまに振られつつ、
「蛇が、蛇が。」
「何、蛇が。」
「赤い蛇が。」
 赤い蛇は、つまの乱れた、きみの裾のほかにあるものか。
「膝が震えて、足が縮む……動けば落ちようし、どないしよう。」
 と欄干に、わなわな。
「今時蛇が、こんな処へ。……不忍の池には白いのがいるというが。」
 と、わざと落着いたが、足もとはうろつきながら、外套がいとうの袖で、背後状うしろざまにお絹を囲った。
「額の、額の。」
 ああ、かすみに見ゆる観世音の額の金色こんじきと、中をしきって、霞の畳まる、横広い一面の額の隙間から、一条ひとすじたらりと下っていた。
「紐だ、紐ですよ。何かの。」
 勇を示して、示しついでに、ぐい、と引くと、
「あれ、……白い顔。」
 声とともに、くなりと膝をついたお絹が、背後うしろから腰につかまった。
「上からのぞかはる……どうしようねえ。」
 お聞きづらかろうが、そういった意味で、身震いをする勢いが手伝って、紐に、ずるずると力が入ると、ざ、ざ、ざ、とれて、この場合――ごみもほこりもいってはおられぬ。額の裏から、ばさりとひじに乗ったのは、菅笠すげがさです。鳩の羽より軽かったが、驚くはずみの足踏に、ずんと響いて、どろどろと縁が鳴ると、取縋とりすがった手を、アッと離して、お絹は、板に手をついて、真俯向まうつむけになりました。
 おでんの膳なぞ一跨ひとまたぎに、今度は私の方が欄干へ乗出して、外套を払った。かすりの羽織の左の袖で、その笠のちりを払ったんです。一目見ると分ったのです。女の蒼白く見えたのは、絵の具です。彩色なんです。そうして、笠に描いたのは、……朝顔――

「朝顔?」


 ここに写し取る今は知らず。境の話を聞くうちは、おでん燗酒かんざけにも酔心地に、前中、何となく桜が咲いて、花に包まれたような気がしていたのに、桃とも、柳ともいわず、藤、山吹、杜若かきつばたでもなしに、いきなり朝顔が、しかも菅笠に、夜露に咲いたので、聞く方で、ヒヤリとした。この篇の著者は、そこで、境に聞反ききかえしたのであった。
「朝顔?」
 と。


「――その時から、やがて八九年前になります――山つづきといってもい――鶯谷にも縁のありますところに、大野木元房おおのきもとふさという、歌人うたよみで、また絵師えかきさんがありまして、大野木夫人、元房の細君は、私の女友だち……友だちというよりおなじ先生についた、いわば同門の弟子兄妹……」
 こう話しかけた、境辻三の先師は、わざと大切な名を秘そう。人の知った、大作家、文界の巨匠である。
 ……で、この歌人うたよみさんとは、一年前、結婚をしたのでしたが、お媒酌人なこうども、私どもの――先生です。前から、その縁はあるのですけれども、他家よそのお嬢さん、毎々往来をしたという中ではありません。
 清瀬洲美すみさんというんです。
 女学校出だが、下町娘。父親は、相場、鉱山などにひッかかって、大分不景気だったようですが、もと大蔵省辺に、いい処を勤めた、退職のお役人で、お嬢さん育ちだから、品がよくちょっと権高なくらい。もっとも、十八九はたちごろから、時々見た顔ですから、男弟子に向っては、澄ましていたのかも知れません。薄手で寂しい、眉のりんとした瓜核顔うりざねがおの……標致きりょう
 申すのを忘れますまい。……さしあたり、……のちの祇園のお絹を東京にしたような人だったんです――いや、どうも、若気の過失あやまり、やがての後悔、正面、あなたと向い合っては、慙愧ざんきのいたりなんですが、私ばかりではありません。そのころの血気なてあいは、素人も、堅気、令嬢ごときは。……へん、地者じもの、ととなえた。何だ、地ものか。
 薬でも、とろろはあやまる。……誰もご馳走をしもせぬのに。とうとい処女を自然薯じねんじょ扱い。蓼酢たです松魚かつおだ、身が買えなけりゃ塩でんで蓼だけかじれ、と悪い虫めら。川柳にも、(地女じおんなを振りも返らぬ一盛ひとさかり。)そいつは金子かねを使ったでしょうが、こっちは素寒貧すかんぴんで志を女郎に立てて、投げられようが、振られようが、赭熊しゃぐま取組とっく山童やまわろの勢いですから、少々薄いのが難だけれど――すなおな髪を、文金で、打上った、妹弟子ごときものは、眼中になかったのです。
 お洲美さんが、大野木に縁づいたのは二十二の春――弥生やよいごろだったと思います。その夏、土用あけの残暑のみぎり、朝顔に人出の盛んな頃、入谷いりやが近いから招待されて、先生も供で、野郎連中六人ばかり、大野木の二階で、蜆汁しじみじる冷豆府ひややっこどころで朝振舞がありました。新夫人……はまだ島田で、実家さとの父が酒飲みですから、ほどのいいかんがついているのに、暑さに咽喉のどの乾いた処、息つぎとはいっても、生意気な、冷酒ひやざけを茶碗であおって、たちまちふらふらものになって、あてられ気味、頭を抱えてあおくなった処を、ぶしつけものと、人前の用捨はない、先生に大目玉をくらって、上げる顔もなかった処を、「ほんの一口とおいいなさいましたものを、私がうっかりもり過ぎて」と妹分の優しい取なし。それさえ胸先にみましたのに、「あちらでおやすみなさいまし。」……次ぎのへ座を立たせて――そこが女作家の書斎でしたが。
 蚊がいますわ、と団扇うちわで払って、丸窓を開けて風を通して、机の前の錦紗きんしゃのを、背に敷かせ、黙って枕にさせてくれたのが。……
 今更贔屓分ひいきぶんでいうのではありません、――ちょッ、目力めか(助)編輯へんしゅうめ、女の徳だ、などと蔭で皆憤懣ふんまんはしたものの、私たちより、一歩ひとあしさきに文名をせた才媛さいえんです、その文金の高髷たかまげの時代から……
 平打のかんざしで、筆を取る。……
 銀杏返いちょうがえし、襟つきの縞八丈しまはちじょう黒繻子くろじゅすひっかけ帯で、(たけくらべ)を書くような婦人も、一人ぐらい欲しいとは、お思いになりませんか、お互いに……
 月夜の水にも花は咲く。……温室のドレスで、エロのにおいを散らさなければ、文章が書けないという法はない。
 ――話はちょっとそれました。が、さあ、前後しました。後一年、不断、不沙汰ばかり、といううちにも、――大野木宗匠は、……常袴つねばかまの紺足袋で、炎天にも日和ひより下駄を穿うがつ。……なぜというに、男は肝より丈まさり、応対をするのにも、見上げるのと、見下ろすのでは、見識が違う。……その用意で、その癖ひょろりと脊が高い。ねばねばと優しい声を、舌でねて、ねッつりと歯をすかす、ことばのあとさきは、咽喉のどの奥の方で、おおんと、空咳からぜきをせくのをきっかけに、指を二本鼻の下へ当てるのです。これは可笑おかしい。が、みつくちというんじゃありませんが、上唇の真中まんなかが、ちょっと歯茎をのぞかせて反っているのを隠すためです。言語、容体、虫が好かなくって大嫌い。もっともそれでなくっても、上野の山下かけて車坂を過ぐる時※[#小書き片仮名ン、426-4]ば、三島神社を右へ曲るのが、赤蜻蛉あかとんぼひとしく本能の天使の翼である。根岸へ入っては自然に背く、という哲人であったんですから、つい近間へも寄らずにいました。
 郷里――秋田から微禄びろくした織物屋の息子ですが、どう間違えたか、弟子になりたい決心で上京して、私を便って、たって大野木宗匠を師に仰ぎたい、素願を貫かしてもらいたい、是非、という頼みです。
 頼まれた。……頼まれたものは仕方がない。しかも、なくなった私の父がこの織物屋に世話になった義理がある……先生の内意も伺った上……そこで大野木をたずねたのですが、九月末、もう、朝夕は身にしみますのに、羽織は衣がえの時から……質です。
 ゆかた一枚、それも織ったんじゃありません、北国人のよろいですから、ものほしそうな瓦斯織がすおり染縞そめじまで、安もの買の汗がにおう。
 こいつを、二階の十畳の広間に引見した大人たいじんは、風通小紋ふうつうこもん単衣ひとえに、白の肌襦袢はだじゅばん、少々汚れ目が黄ばんだ……兄妹分の新夫人、お洲美さんの手が届かないようで、悪いけれども、新郎、あぶらが多いとお心得下さいまし。――綾織あやおりの帯で、塩瀬紺無地のはかまふさついた、塗柄の団扇うちわを手まさぐる、と、これが内にいる扮装ふんそうで、容体が分りましょう。
 鼻の下へ、例の、指を立てて、「おおん」と飲み込んでくれました。「不思議な縁ですね、まだ下極したぎまりで、世間に発表はしないけれども、今度、仙台の――ある学校の名誉教授の内命を受けて、あと二月ぐらいで任に赴く。――ま、その事になりました。ちょうど幸い、内弟子、書生にして連れて行こう、よろしくば。」……も何もない。願ったりかなったり、話は思う壺へはまったのですが。――となりの、あの、小座敷で、あの、朝顔の、あの朝――

 手細工らしい桔梗ききょうひじつきをのせて、絵入雑誌を幾冊か、重ねて、それを枕にさして、黙って顔を見ると、ついた膝をひいて立ちしなに「憎らしい。」……ただ、その雑誌一冊ものなぞ、どれも皆――ろくなものではありませんが、私のかいたのが入っていたのを、後姿と一所に、半ば起きに、そっと見た時、なぜか、冷酒ひやざけが氷になって、目から、しかも、熱いものがほろほろときました。

 時に、その人がいま出て来ません。その癖、訪れた玄関では、女中よりさきに、出迎えて、二階へ通してくれたのに、――茶を運んだのも女中です。
 庭で蟋蟀こおろぎの鳴くのが聞える。
 つたの葉の浴衣に、薄藍うすあい鶯茶うぐいすちゃの、たてじまお召の袷羽織あわせばおりが、しっとりと身たけに添って、紐はつつましく結んでいながら、撫肩なでがたを弱くすべった藤色の裏に、上品な気が見えて、緋色ひいろ無地の背負上しょいあげなまめかしい。おお、紫手絡てがらの円髷だ。透通るような、その薄化粧。
 金銀では買えないな。二十三か、ああ、おいらは五になる。作者夥間なかまの、しかも兄哥あにきが、このしみったれじゃあ、あの亭主にさぞ肩身が狭かろう、と三和土たたきへ入ると、根岸の日蔭は、はや薄寒く、見通しの庭にすすきなびいて、秋の雲の白いのが、ちらちらと、青く澄んだ空と一所に、お洲美さんのえりに映った。
 目の前にあるその姿が、二階へは来ないのです。御厚意は何とも。しかし内弟子に住込ませるとまでおっしゃって下さいますと、一度(何といおう……――女史。)女史に御相談の上でありませんといかがでしょうか。「おおん」とせきして、「ところがね、それが妙ですよ、不思議です。――さいがね、今朝です――今日は境さんが見えそうな気がする、というのです。ついぞ、おいでになりもせぬのに、そんなことが、といいますとね、手をお出しさない、手の筋を見てあげましょう。あなたの今日の運命にもあらわれるから。――そういうのでね、手を見せました。……妻に、あんなかくし芸があるとは知りませんでしたよ。妻が予知して、これが当って、門生志願が秋田の産、僕の赴任が仙台という、こう揃ったのに、何の故障がありますか。……おかげでね、おおん、お庇もおかしいですが、手の筋で、妻と握合いました。……境さん、変な話ですが、お互いに、芸術家は情熱をもって生命としてきるのですな。妻もご同門ではあり、芸術家です、どんなに、その愛情が灼熱的しゃくねつてきであろうか、と期待しましたのに、……どうも冷たい。いかにも冷やかですが、稟性ひんせいのしからしむる処ですかな。あるいは、あなた方、先生の教えは、芸に熱して、男女間は淡泊、その濃密膠着こうちゃくでなく、あっさりという方針ででもおあんなさるか、一度内々で、と思った折でもありますのでして。…」…失礼します。……居堪いたたまらなくて、座を立つと、――「散歩をしましょう。上野へでも、秋の夕景色はまた格別ですよ。」こっちはひけすぎの廊下鳶ろうかとんびだ。――森の夕鴉ゆうがらすなどは性に合わない。
「あの、いま、そういおうと思っていた処です。なんにもありませんが、晩のご飯を。」
 まだ入れかえない葦戸よしどに立って、夫人がほの白く、寂しそうに薄暮合を、ただ藤紫で染めていた。
 その背の、奥八畳は、絵の具皿、筆おき、刷毛はけ毛氈もうせんたぐいでほとんど一杯。で、茶の間らしい、中の間の真中まんなかに、卓子台ちゃぶだいを据えて、いま、まだ焼海苔の皿ばかり。
 三巴みつどもえに並んだ座蒲団を見ると、私は玄関へ立ち切れなかった。
「すぐおかんがつきますが。境さん、さきへ冷酒ひやですか。」
「いや、たちものです。」
 と真中まんなかへよれよれの袖口を、そっとのばして、坐ると、どうも、そっちが上席らしい、奥座敷の方へお洲美さん。負けてはいないな、妹よ、何だか胸が熱くなる。紺のはかまは、入口の茶棚わきを勢いしかるように及んで、着席です。
ぎゅうよろしい……書生流に、おおん。」
 亭主のすきな赤烏帽子あかえぼし指揮さしずする処へ、つくだ煮を装分もりわけた小皿てしおに添えて、女中が銚子を運んで来た。
「よく、いすいだかい。」
「綺麗なお銚子。」
 色絵の萩の薄彩色、今万里いまりが露に濡れている。
「妻の婚礼道具ですがね、里の父が飲酒家だからですかな。僕は一滴もいけますまい、妻はのまず。……おおん、あの、朝顔以来、内でこれの出たのはそうですなあ、大掃除の時、出入りの車夫くるまやに振舞うたばかりですよ。」
「お毒見をいたします。」
 お洲美さんが白い手で猪口ちょくを取った。
いで下さい。」
 大人驚いた顔をして、
「飲むのかね。」
「大掃除の時の車夫のお銚子ですから。――この方は、あの、雲助も同然の身持だけれど……先生の可愛い弟子です。」
 かねて、切れためじりきっとして、
「間違いがあると、私が、先生に申訳がありません。」
「おおん、何か、私の饒舌しゃべった意味を取違えているようだけれど、いいさ、珍らしく飲むのもかろう……注ぐよ。」
「なみなみと。もう一つ。もっと、もう一度。」
 歯ぎしみするように、きッきッと。
「ああ、飲んだ。」
 と、もう白澄んだまぶたを染めた。
「境さん、いいでしょう、上げますわ。」
駕籠屋かごや建場たてばを急いでいます、早く飲もうと思ってね。」
「おいらんのようにはいきません。お酌は不束ふつつかですよ、許して下さい。」
「こっちも駆けつけ三杯と、ごめんを被れ。雲足早き雨空の、おもいがけない、ご馳走ですな。」
 と、夫人と見合った目を庭へらす。
 大人のあごが上って、
「大分さかんになりましたな、おおん。」
「あなた、電燈をひねって下さい。」
 牛肉ぎゅうもふつふつ煮えて来た。
 といううちにも、どういうものか、皿に拡げた、一側ひとかわならべの肉が、なべへ入ると、じわじわと鳴るとひとしく、はしとともに真中まんなかでじゅうと消え失せる。すあと、注すあと、割醤油わりしたはもうからで、ねぎがじりじり焦げつくのに、白滝しらたきは水気を去らず、生豆府なまどうふ堤防どてを築き、きょなって湯至るの観がある。
「これじゃ、牛鍋の湯豆府ですのね。」
 ふうと、お洲美さんの鼻のつまった時は、お銚子がやがて四五本目で、それ湯を、それ焦げる、それ湯を、さあ湯だ、と指揮さしずと働きを亭主が一所で、鉄瓶がゼロのあとで、水指みずさしが空になり、湯沸ゆわかし俯向うつむけになって、なお足らず。
 大人、威丈高に伸び上って、台所に向い、手をたたいて、
「これよ、水じゃ、水じゃ。」


 が、妹分のために、苦にせまい。肉の薄いのは身代しんしょせたのではない。大人は評判の蓄財家で、勤倹の徳は、範を近代に垂るるといっても可いのですから。
 その証拠には、水騒ぎの最中へ、某雑誌記者、気忙きぜわしそうで口早な痩せた男の訪問があり、玄関で押問答の上、二階へ連れて上ったのは……挿画さしえ何枚かの居催促、大人に取っては、地位転換、面目一新という、某省の辞令をうけて、区々たる挿画ごときは顧みなかったために債が迫った。顧みないにした処で、受合った義理は義理で、退引のっぴきならず二階で、膝詰の揮毫きごうとなる処へ、かさねて、某新聞の記者、こちらは月曜附録とかいう歌の選の督促で一足おくれたが、おくれただけ、なお怒ったように、階子段はしごだんを、洋袴ずぼんの割股で押上った。このふとったので、二階へふたをしたように見えました。
流行はやるんだなあ。」
 編輯、受附、出版屋、相ともに持込むばかりで、催促どころか、めったに訪問などされた事のない、兄弟子は、夜風を横外頬よこぞッぽへ、げっそりと腹を空かして、
「結構ですな。」
 枯野へ霜がおりたような、豆府の土手の冷たいのに、押取おっとって、箸を向けると、
「およしなさい。」
 と酔とともに、ふらふらとかぶりを振って、
「牛鍋の湯豆府なんか、私の御馳走ではないのですから。……あなたのお頼みなさいました、そのお弟子さんですがね、内へおいでなさるんなら、この覚悟、ね、より以上かも知れませんから。おねぎや、豆府はまだしも、糸菎蒻しらたきだと思って下さいましね。お腹が冷たくなるんですから……お酒はあります。あ、私にも飲まして頂載。もう一杯ひとつもっとさ。」
「いや驚いた、いけますなあ。」
「一生に一度ですもの。」
「え。」
「いいえ、二度です。婚礼の晩、飲みましたの。酔いましたわ。」
「乱暴だなあ。しかし、痛快だ。お酌をするのも頂くのも、ともに光栄です。」
「お兄上。」
「…………」
「おほ、ほ。ああ酔った。私……お兄上にあたる方にお酌をさして罰が当る。……前に、あなたが、まだ、先生のお玄関にいらっしゃる時分、私が時々うかがうたびに、駒下駄を直さして、ああ、勿体ない、そう思う、思う心は、口へは出ず、手も足も固くなるから、突張つっぱって、ツンツンして、さぞ高慢に見えたでしょう。髪の毛一筋抜けたって、女は生命いのちにかかわります。置きどころもない身体からだを、あなたの目にさらすんですもの、なりふりもありはしません。文学少女とかいうものだって、鬼神に横道なしですよ。自分で卑下する心から、気がひがんで、あなたの顔が憎らしかった。あなたも私が憎いのね。――ああ、のぶや(女中)二階で手が鳴る。――虫がうるさい。このを消して、隣室となりのをけておくれな。」
 その間、頸脚えりあしが白かった。振仰向ふりあおむくと、ほっと息して、肩が揺れた、片手づきに膝をくねって、
「ああ、酔って来た、境さん、……おいらんとは。おむつまじい?……」
 と、バタリと畳へ手をつくと、浴衣のつた野分のわきする。
「何をいってるんです。」
「おいらんは何て方?……十六夜いざよいさん、三千歳みちとせさん?」
「薄雲、高尾でございます。これでもそこらで、すしつまんで、笹巻ささまきの笹だけたもとへ入れて振込めば、立ちどころに仙台様。――庭のすすきに風が当る。……
 ――寂しいな、お洲美さん、急に何だか寂しい気がする、仙台へ行ってしまわれては。」
「ですけどね、あの、ほかの世話はかまいませんけど、媒妁なこうどだけは、もう止してね。」
 と、眉が迫って見据えるのです。
「媒妁?」
「――名はいいますまい、売ッ子ですよ。私たちのお弟子なかまではありません。別派、学校側の花形で、あなたのお友だちの方に――わかりまして……私を、私をよ、嫁に、妻に世話しようとなすったのは誰方どなたでした。」
「そ、それは、しかし、勿論、何だ。別派、学校側の……よし。……その男が、私を通じて、先生まで申出てくれと頼まれたものだから……」
「お料理屋へ私をお呼び下すって……先生が、そのお話を遊ばしたんです。――境が橋わたしの口を、口を利いた、と一言……一言おっしゃるのを聞いた時、私、私……」
「お待ちなさい、待ちたまえ。――だから断ったから差支えないでしょう。」
「ええ、断りましたわ、誰があんな――あんな男に世話しようなんのって、私、あなたが、私あなたが。」
「そりゃ無理だ、そりゃ無理だ、お洲美さん、あなたが、あの男を好きだか、嫌いだか、私がそれを知るもんですか。」
「だって、だって、ちっとでも、私を、私を思って下すったら、怪我けがにもあんな、あんな奴に。」
「無理だ、そりゃ乱暴だ。」
「ええ、無理です、乱暴です。だから、私、すぐそのあとで、それまで人をかえ、手をかえ、話があるのを断っていた――よござんすか――私も、あなたが大嫌いな、一番嫌いな、何より好かない、此家ここへ縁付いてしまったんです。ほ、ほ、ほ。」
 太白の糸をんだように、白く笑って、
「乱暴でしょう。乱暴、乱暴だけど、あの一番嫌いな人を世話しようとした、その口惜くやしさに、世話しようとした人の、あなたですよ、あなたの一番嫌いな男のとこへ縁についた。無理です、乱暴です。乱暴ですけど、あなたは、あなただって、そのくらいな著作をなさるじゃありませんか。」
「何にもいわない。――もう、朝顔の、ま、枕の時から、一言もないのです。私は坊主にでもなりたい。」
 お洲美さんは、※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはっていた目を閉じました。そして、うなずくように俯向うつむいた耳許みみもと石榴ざくろの花のように見えた。
「私は巡礼……
 もうこの間から、とりあえず仙台まででも、奥州を巡礼してゆきたい気がするんです。まったくですわ。そういったら、内の女中ッたら、ねえ、あの、私のようなきたながり屋さんが、はばかりをどうするって笑うんですの。巡礼といえば、いずれ木賃宿でしょう、野宿にしたって、それは困るわね。でも、真面目ですよ、ご覧なさい――昨日きのうも上野の浄明院石占寺いしうらでらの万体地蔵様に、お参りをして、五百体、六百体と、半日、日の暮方まで巡りましたらね、(水木藻蝶もちょう。)いい名でしょう、踊のお師匠さんに違いないのです。(行年二十七)として、名を刻んだ地蔵様が一体、菅笠すげがさを――ああ、暑い、私何だか目が霞む。――菅笠を。……めしていらっしゃるんなら、雨なり、露なり、取るのは遠慮だったんですけど、背中に掛けておいでなすったもんだから、外して、本堂へ持って行って、お布施をして、坊さんに授けて貰って来たんです。――これだって女です、巡礼しても、ちっとでも、形のいいように、お師匠さんのを――あの、境さん、菅笠を抱きました時に、何となく、今日ね、あなたがいらっしゃる気がしたんですよ――そ、それに二十七だとすると、もう五年生きられますもの。――押入なんかにしまっておくより、昼間はちょっと秋草に預けて、花野をあるく姿を見ようと思いますとね、萩もすすきも寝てしまう、紫苑しおんは弱し。……さっき、あなたのおいでなすった時ですよ、ちょうど鶏頭の上へ乗っけて見ましたの。そうすると、それがいい工合ぐあいに。」
 ああ、そうか、鶏頭か。春日燈籠かすがどうろうをつつんで、薄の穂が白くに映る。その奥の暗い葉蔭に、何やら笠をかぶった黒いものが立っていて、ひょろひょろと動くのが、ふと目に着いてから気にかかった。が、決意もなく、断行もない、坊主になりたいを口にするとともに、どうやら、破衣やれごろものその袖が、ふらふらと誘いに来そうで不気味だった。
「見せますわ、見せましょうね。巡礼を。」
「大賛成です。」
「水木藻蝶さん、うつくしい人の面影ですよ。」
 どこで脱いだか、はッとたちまち、うす鼠地につたを染めた、女作家の、庭のおぼろの立姿は、羽織を捨てて、鶏頭の竹に添っていた。
 軽くはずして、今、手提てさげに引返す。帯が、もうゆるんでいる。さみしい好みの水浅葱みずあさぎ縮緬ちりめんに、あしの葉をあしらって、淡黄うすきの肉色に影を見せ、蛍の首筋を、ちらちらとあかく染めた蹴出しの色が、雨をさそうか、葉裏を冷く、さっと通る処女風むすめかぜに、蘆も蛍もすすきに映って、露ながら白い素足。
 二階の裏窓から漏れる電燈に、片頬を片袖ぐるみ笠を黒髪にかざして、隠すようにしたが、蓮葉に沓脱くつぬぎをひらりと、縁へ。
「ふらふらする。ちょっと歩行あるくと、ふらふらしますわ。酔っちまって。」
 と、元の座にくずれた。
「ああ私、何だか分らない。」
 ふう、と仰向あおむけに胸の息づかい、の蔦がくれのふくらみを、ひしと菅笠でおさえながら、
「巡礼に御報謝……ね。」
 と、切なそうに微笑んだ。
 電燈を背後うしろにして、襟のうすぐらい、胸のその菅笠が、ほんのりと、おぼろに白い。
「や、お洲美さん、失礼ですが、隠して下さい、笠をとおして胸が白い、乳が映る。」
「見えますか。」
「申すもはばかりだが、袖で隠して。」
「いいえ、いいえ。」
 おくれ毛が邪慳じゃけんに揺れると、頬がせるように見えながら、
「嬉しい、胸が見えるんです。さ、遮るものなしに通った、心の記念かたみに、見える胸を、笠を通して捺塗なぞって見て下さい。その幻の消えないうちに。色が白いか何ぞのように、胡粉ごふんとはいいませんから、墨ででも、しぶででも。」
「雪が一掴ひとつかみあればいいと思う。」
「信や……絵の具皿を引攫ひっさらっておいで。」
「穏かでない、穏かでない、さらうは乱暴だ、私が借りる。」
 胡粉に筆洗を注いだのですが。
画工えかきでないのが口惜くやしいな。」
「……何ですか蘭竹なんぞ。あなたの目はとおりました、女の乳というものだけでも、これから、きっと立派な文章にかけるんです。」
 ――以来、乳とかく時は一字だけも胡粉がいい――
 と咄嗟とっさに思って、手首に重く、脈にこたえて、筆で染めると、解けた胡粉は、ほんのりと、笠よりもに響き、雪を円く、暖かく、肌理きめ滑らかに装上もりあがる。色の白さが陽炎かげろう
「ああ、ああ、刺青ほりものッて、こんなでしょうか。」
 居ずまいの乱るるはだに、くれない点滴したたりは、血でない、蛍の首でした。が、筆は我ながらメスより鋭く、双の乳房を、驚破すわ切落したように、立てていた片膝なり、思わず、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうと尻もちをいた。
 お洲美さんは、うっとり目をき、膝をすべって、蹴出しを隠した菅笠に、ふたつの白いものをて、くすぐったそうに、そッと撫でて、
「……熱いわ――この乳も酔っている……」
 と、いって寂しく微笑ほほえんだ。
「人目があります。これでは巡礼して、肌をさらしては、あるかれませんね。ぽっちり薄紅を引きましょうか、……まあ、それだと、乳首に見えようも知れません。」
 浅葱あさぎの絵の具を取って、線を入れた。白雪の乳房に青い静脈はうねらないで、うすく輪取って、双の大輪の朝顔が、面影を、ぱっと咲いた。
 つるを引いて、葉を添えた。
「うまいなあ、大野木夫人。」
「知らない。――このくらいな絵は学校で習います。同行二人どうぎょうににん――あとは、あなた書いて下さいな。」
「御意のままです、かしこまった。」
「薄墨だし……字は余りうまくないのね。」
「弘法様じゃあるまいし、巡礼の笠に、名筆が要りますか。」
「頂くわ、頂きますわ。」
 と、かぶろうとする。
「お、お待ち下さい。――二階が余りしずかです。気障きざをいうようだが……その上になお、おぐしが乱れる。」
可厭いやな、そんな事は、おいらんに。」
「ああ、坊主になります。」
 首を縮めた。
「ちょうどいい、坊主がかぶって見せましょう。」
 と、魔がさしたように、いや、仏が導くように、笠を被ると、笠の下で、笠を被った、笠の男が、笠を被って、ひとりでに、ぶらぶらと歩行あるき出したのです。
 中のから、玄関へ、式台へ、土間へ、格子へ。
 ハッと思わず気が着いたが、
「お洲美さん、貰ってきます。」
 我知らず声が出ました。
「あれ、奥様。」
 女中が飛出す。
 お洲美さんは、式台に一段つまずきながら、つまを投げて、障子の桟にすがったのでした。
 ぶつぶつと、我とも分かず、口のうちで、何とも知らず、覚えただけの経文をつぶやき呟き、鶯谷から、上野の山中を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまよって歩行あるいたはてが、夜ふけに、清水の舞台に上った。そうして、朱の扉の端に片よせて、紅緒べにおをわがね、なし得る布施を包んだ手帖ノオトの引きほぐしに、
大慈のお ん心にまかせ三界迷離の笠一蓋いちがい
よしなにおんはから いのほど奉願上候ねがいあげたてまつりそうろう
                ……   巡礼者
  当御堂 お執事中               礼拝

 舞台を下りると、いつか緒の解けたのが、血のようにまつわって、生首を切って来たように見えます。秋雨がざっと降って来る。……震え、震え、段を戻って、もう一度巻込んで、それから、ひた走りに、駆出しましたが。

 お洲美さんは――水木藻蝶の年も待たず、三年めに、産後ではかなくなりました。

「その紅緒なんです。その朝顔の笠、その面影なんです。――」


「――お絹さん、宿へ行って話しましょう。――この笠に、深いわけがあるんですから。」
「そしたら、泊っておくれやすえ、可恐こわいよって。」
「大きに。」
 お洲美さんの思出のために、目の前の誘惑に対する余裕が出来て、と、軽く受けて、……我ながらちょっと男振を上げながら、夜露も身にむ、袖で笠を抱きました。

「旦那、帰ってもいいんでござんしょう。」
 藍川館の玄関へ引込んだ時、酔った車夫くるまやがニヤニヤと声を掛けた。
「ほんに。」
「いや、一台は、そのまま。ほろは掛けたまま頼むよ。」
 笠を預けて出たんです。が、今おもっても、冷汗が流れます。このくるまをかえしていたら、何の面目があって、世にお目に掛かられよう。
 見て下さい。――曲りくねった長い廊下を、そうでしょう、すぐ外は線路だという、奥の奥座敷へ通って、ほとんど秘密室とも思われる。中は広いのに、ただ狭い一枚襖いちまいぶすまを開けると、どうです。歓喜天の廚子ずしかと思う、綾錦あやにしきを積んだうずたかい夜具に、ふっくりとうずまって、暖かさに乗出して、仰向あおむけに寝ていたのが、
「やあ。」
 という、
 枕が二つ。……
「これはおいでなさい。」
 眉の青い路之助が、八たん広袖どてらに、桃色の伊達巻だてまきで、むくりと起きて出たんですから。
「遅いので、何のおもてなしも。……さ、さ、蜜柑でも。」
 片寄せた長火鉢の横で、蜜柑の皮。筋をる、懐紙ふところがみの薄いのが、しかし、蜘蛛の巣のように見えた。
「――そうですか、いずれ明日。――お供を……」
「いや、待たせてあります。」
 路之助は、式台に、色白くその伊達巻で立った。
 お絹がひさしを出て、くるまの輪にり寄った処を、
「握手をしますよ。」
 半身をほろからのぞくと、
「は、は、は、どうぞしっかり。」
「さようなら。」
「お静かに。」
「ああ、お洲美さん。」
 万一、前刻さきに御堂の縁で、唇を寄せたらば、恥辱にきてはいられまい。――
「お洲美さん、全く、おかげだ。お洲美さん。」
「旦那、どうか、なさいましたか、旦那。」
「うむ。」
 踏切の坂をひきあげて、寛永寺横手の暗夜やみに、石燈籠に囲まれつつ、わだちが落葉にきしんだ時、車夫くるまやが振向いた。
おんなの友だちだよ。」
「旦那。」
 車夫は、藍川館まで附絡つきまとった、美しいのにげられた、色情狂いろきちがいだと思ったろう。……
「うつくしい、はかない人だよ。私のそばに居るようだ。」
「ぎゃあ。」
「ついでにおろしておくれ、山の中を巡礼がしたくなった。」
「降り出しましたぜ、旦那。」
「野宿をするのに、雨なんぞ。……あなたは濡らさない、お洲美さん。」
「わあ、大きな燈籠の中に青い顔が、ぎゃあ。」
 俥を棄てた。
 術をもって対すれば、俳優何するものぞ。ただしその頃は、私に台本、戯曲をつづる気があった。ふと、演出にあたって、劇中の立女形たておやまふんするものを、路之助として、の意見、相背き、相衝あいついて反する時、「ふん、おれの情婦いろともしらないで。……何、人情がわかるものか。」と侮蔑されたら何とする?!……
「ああ、お洲美さん、ありがとう。」
 と朝顔の笠を両袖で――外套は宿へ忘れて来た――袖でひしと抱いて、桜を誘う雨ながら、ざっと一しきり降り来る中に、怪しき巨人に襲わるる、森の恐怖にふるえつつも、さめざめと涙を流した、石燈籠が泣くように。……
昭和七(一九三二)年四月





底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
   1942(昭和17)年6月22日発行
初出:「週刊朝日 第二十一ノ十六号(春季特別號)」
   1932(昭和7)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

小書き片仮名ン    426-4


●図書カード